「場」を作る

Blogos経由でHatenaの記事を読んでいたら面白い記事を見つけた。記事にするのもどうかなと思い3分くらいで、ちゃちゃっとコメントを書いたのだが、まとまりそうなネタがないので、今日はこれをネタにすることにする。クリス・アンダーセンの「フリー」が良くわからないというのだ。この記事を分析すると、日本だけがどうしてデフレと不況に苦しむのかという理由の一つが見えてくる。
この本、昔本屋で立ち読みしただけ。だから書評として正しくないだろう。ここで分析したいのは記事の内容だ。フリー経済と対比させて「漁場で魚をとる」例を挙げている。この人は海にいる魚をとるのはタダだと言っている。六甲の水もタダだ。これを読んで思い出したのは「日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)」だ。日本人がユダヤ人のフリをして書いている本なのだが、この中に「日本人は水と空気はタダだと思っている」という考察がある。しかし実際には漁師たちは漁場を整備したり、水産資源が枯渇しないように調査をしているはずだ。旅館も山菜をとってくるのは無料かもしれないが、そうした山林を観光資源として守るためにはさまざまなコストを支払っている。これを「場を維持するためのコスト」と呼ぶことにする。
つまり、ビジネスには「場」が必要だということになる。しかしそれを無自覚に使うと将来的には「場の資源」が枯渇し、ビジネスが成り立たなくなる。しかし日本人の多くが「場」について無自覚になると、コストを支払うインセンティブがなくなり、最終的にはビジネスを成立させる環境がなくなってしまうのである。
例えばこういう例はどうだろうか。企業の成長のためには「優秀な人材」を育てる必要がある。故に企業は大学卒業者を教育し、こうした人材を育てて来た。しかし、その事に無自覚になると「今いる優秀な人材を使えばいいや」と思うようになる。(育てなくても、中途労働者の市場にそこそこ優秀なヒトたちが集っていたということもあるだろう)誰も次世代の人材を育てなくなり、将来的にイノベーションを担う若手が枯渇する。これは一例だが、こうした例はいくつも考えられる。
例えばフリーではないにしても、ほとんどフリーの実例として「格安バスツアー」とか「韓国10,000円」なんかがある。実際には地方や外国の土産物屋にお客を運んでいるのだ。運賃を格安に抑えることで「ビジネスの機会」を作ろうという戦略だろう。実はよく行なわれていることなのだ。
日本人がこのブログ筆者のような疑問を持つのは、戦後、あまり「場」を維持してこなかったからだろう。本当のところはよく分からないのだが、アメリカで儲かっているビジネスを日本に持ってくればよかったからという事情が大きいように思える。ましてや「場」を作るのはもっと苦手だ。新しい場を作る事ができなければ(難しい言葉では市場の創出とでもいうのだろうか)既存の市場はやがて収縮をはじめる。その内誰も利潤を追求することができなくなり、やがては市場は死に至る。
イノベーションにはいろいろな分類の仕方があるのだと思う。イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)によると、既存技術の継続的に洗練する事、ローコストのソリューションを生み出す事、そして新しい市場を作る事だそうだ。継続的なイノベーションはやがて効力を失う。だからそれ(継続的なイノベーション)だけではやがて市場は死んでしまうのだ。これは家電と自動車の凋落を見ているとよく分かるだろう。
オープンソースについては興味深い洞察がなされていると思う。オープンソースのソフトウェアはそのままでは経済的な価値を生み出さない。これを実際の需要と結びつけるのが「格安のPCの販売」だろう。ここに「場を維持するコスト」という考え方を持ちこまないで、「無料なんだしせいぜい利用すればいいや」と考えるとオープンソースを担う労働力はただ搾取されるだけの存在ということになってしまう。オープンソースとはいっても開発のための環境や作ったソフトウェアを配布するためのサーバーなどは必要なわけで、儲けた企業は、オープンソースのコミュニティを維持するためにこうしたコストを分担しなければならない。こうした場ができると、エンジニアたちは自分たちの力量をアピールして次のシゴトにつなげることができる。つまりこうした企業は、シュンペータの言った「銀行家」の代わりにリソースを再配分しているということになる。
同じ「フリー」を見ても「場を作って維持する」ヒトと「場をタダで利用すれば後は知らない」ヒトでは感想が変わってしまう。日本人はいつのまにか、場に寄生するフリーライダーばかりになってしまったのではないかと思える。だからこそ、こういうビジネス市場を自分たちのコストで構築しようというヒトたちがものすごく不思議に見えてしまうのだ。
さて、最後の一言はかなり重みがある。こうして自分たちが場所を作らなかったがために日本の経済は縮小をはじめた。30代より下のヒトたちは、縮小している経済しか知らない。すると「小さくなった市場をより多くの人間でとりあうよう」になる。
そうした中で、フリーミアムを成立させるのはとても難しい。フリーミアムは、結果的に一部の裕福なヒトたちが、他のヒトたちの面倒を見るという形態だ。これについては別の記事をご紹介したい。アパレル企業のGAPは、10,000円くらいするジーンズを売りつつ、横で1,900円のジーンズを売っている。一応値下げしていることになっているが本当にそうなのかは良くわからない。もともと違うものなのではないかと思える。これは、プレミアムを支払ってでも買いたいヒトと、安くならないと買わないヒトを同時におさえる戦略だ。在庫処分ではなく最初から低価格の製品も作っているのではないかと思う。
例えば年収が1,000万円くらいあれば、別に10,000円のジーンズは高くないだろう。別に値下げまで待たなくても、仮に値下げ品があっても定価で値段で買ってゆくと思う。こうしたヒトたちが10%くらいいればこういう商売もなりたつ。このGAPの戦略には落とし穴がある。
一つは、このジャーナリスト氏が言っているように「本当の値段は?」と思い始めたときに起こる。日本は製造業の国だ。だから「モノには原価があり」それに「労働力」と「販売経費」を足したのが、正当な値段ということになっている。だから本当は1,900円で売れるジーンズを10,000円で売るのはよくないのだ。(仮にそれで満足して買ってゆくヒトがいたとしても…)
インド北部のような「ど商人」の国に行くと、正札という概念そのものがない。「いくらだ」と聞いて、本当に欲しいのでなければ値切っても構わない。商人が提示する値段は定価ではない。これくらいで売れるといいなあという願望にしかすぎない。1/10にして売ってくれるかもしれないし、5%もひいてくれないかもしれない。これはヒトによって払う対価が違っているということでもある。ヒトによって支払う金額は違うわけだ。しかし、日本人がこういう場面を見ると「本当の価値はいくらで、高い値段を支払うのは騙されているのだ」ということになる。だから値引かないと損だと考えるのだ。
二点目には、経済そのものが縮小し、誰も「場を維持するため」にコストを支払う余裕がなくなったときの問題がある。みんながフリーや格安に殺到すると、フリーミアムモデルは成り立たなくなる。場を維持する責任感がないとも考えられるし、そもそもそんな余裕がないのだとも言える。すると場が作られなくなり(ジーンズが格安でしか売れなくなればGAPは日本の商売を縮小して中国などの新興国に向かうだろう)、既存の場はやがて消失する。そうして経済がまた縮小してゆくわけだ。
確かに、フリーは目新しい概念ではない。目新しいのは、ネットが登場して市場を創出するためのコストが限りなく無料に近づいているという点だけなのかもしれない。しかし、場所を作るヒトや場所のコストを負担してくれるヒトがいなくなり、代わりにフリーライダーばかりになってしまうと、経済は確実に縮小する。
ところで、僕はもう結論として「だから日本人は場をつくるためにがんばるべきだ」とは言わない。こういうのは自分で実際にやってみる事だし、もしつくれないと確信したらそれができる場所に移住すべきと思うからだ。そもそも「誰かが場所を作る」のを待っていること自体がフリーライダー的だ。やってみると分かるが、自分で場所を作ったつもりでも誰かのアーキテクチャの上に乗っているだけということが多い。なかなか難しいし、最初は誰にも相手にしてもらえない。しかし、ここまで場所や機会がなくなると「もう自分でつくるしかないなあ」と覚悟を決めるヒトも増えるのではないかと思う。そうしたヒトたちが立ち現れることによってしか、新しい成長は生まれないのだろう。