非デュシャンヌの笑い – 偽りの笑顔

親戚に女の子がいる。いま1歳。この子がかわいい。多分血がつながっているからだろう、とは思う。この子がかわいいのは、時折見せる笑顔のせいだ。この子に限らず子どもの笑顔はかわいい。大抵、あかちゃんは見つめると笑い顔を返してくれるのだ。しかし顔は口ほどに嘘をつくによると、この笑顔生後10か月を過ぎると「人が近づくと自動的に」笑うのだそうだ。
人間が作る事ができる表情は10,000程度。意識して動かせるところと、意識しなければ動かせない筋肉がある。笑ってみるとわかるのだが、笑い顔に関係する筋肉は2つ。口の周囲と、目のまわり。口は意識して動かすことができる。しかし目は楽しくないと動かないのだという。赤ちゃんの笑い顔にも2種類があって、母親に笑うときには目と口が動く。知らない人(たぶん親戚のおじちゃんも含む)への笑いは口だけだ。
あかんぼうが嘘をついているとは思えないのだが、別に楽しいから笑っているわけでもない。別に誰かに教えてもらったわけでもないのだが、とりあえず笑ってみる。すると回りが和み、襲われる危険が少なくなる。こうやってあかちゃんは身を守っている。襲われないどころか、遊んでもらえたり、運が良ければ食べ物がもらえたりする。
怒りや不安は「完遂しない経験」だった。完遂しない経験が積もり積もって、悪い場合には世代間を越えて伝わるのだった。一方、笑いも何もない所にうまれる。とりあえず、笑ってみる。すると場が和み、私たちが本来持っている「可愛がりたい」というような感情が刺激される。するとさらに場が和む。このように、感情には、スパイラルの起点としての役割がある。
こうした、目が笑っていない状態を「非デュシャンヌの笑い」(non duchenne smile)と呼ぶそうだ。Wikipediaによると、デュシャンヌの笑いは不随意筋である目の回りが動くので「純粋な笑い」であると考えられている。一方非デュシャンヌの笑いは口角だけで笑っているのだから、本当に楽しい訳ではない可能性がある。つまり嘘が介在する余地があるというのだ。
笑いのトレーニングに「口角を上げる」というものがある。割り箸を使って口角を上げる訓練をしろというのだ。残念なことに口角だけを上げても、目が怖いままでは笑っているようには見えない。笑顔のトレーニングに割り箸を使うのは口角が意思の力でコントロール可能だからだ。つまりお愛想笑いの練習ができるわけである。
口角を上げるトレーニングが重要なのは、筋肉がこわばっていて半分しか上がらなかったり、右か左のどちらかしか動かなくなっている場合が多いからだと思う。普段使わなくなっているか、抑圧されていて笑えなくなっている場合には、こうした訓練は重要だろう。しかし実際にこの練習をしてみると、楽しくないのに笑うことに違和感を感じるようになる。そして訳もなく落ち込んだりする。口をかたく結ぶのは「緊張」の現れだからだ。緊張が続くと却って弛緩してしまうのだ。怒りは完遂しない経験だ。本来は怒るべき場面で笑っていると怒りの経験が完了しないから、お愛想笑いは有害かもしれない。
一方、目を使った笑いは楽しい事を思い浮かべないと作れない。これは緊張を緩和するのに役に立つ。実際に笑いには緊張の緩和という役割がある。たとえば、誰かがスピーチでとんでもないことを言う。一瞬何が起こったのか分からない。緊張がその場を支配する。誰かが「わはは」と笑うと、それが冗談だったということが分かる。この場合人は楽しいから笑っているわけではない。緊張が臨界点まで高まり、それを緩和するために笑うのだ。そして笑うとだんだん楽しくなってきて緊張があったことを忘れてしまう。
雑誌などでいろいろな人の笑いを観察すると、口角だけを使った笑いは到る所に見られる。たとえば選挙のポスターは、たいてい口角だけの笑いだ。不自然にならない程度に目尻が下がっていたりする。これが失礼にならないのは、笑いが相互作用によって成り立っているからだ。
たとえば私がまじめに話しているのに、あなたがデュシャンヌスマイルを振りまいたら、きっと私は怒り出すだろう。それは私はまじめに話しているのに、あなたがそれをまじめに受け止めなかったと考えるからだ。しかし口角だけを上げて微笑みながら聞いてくれれば、私の興奮は収まるかもしれない。それは「楽しいから笑っている」わけではなく、その場を円満に納めるための笑いだからだろう。このように人はノンバーバルコミュニケーションを通じて感情のコントロールを行いながら会話を進める。
Twitterではこうした非言語のコミュニケーションチャネルが塞がっている。だからオフラインのコミュニケーションに慣れている人は、Twitterを不完全なチャネルだと思うだろう。一方、Twitterに慣れている人は、言語的な要素(たとえばエモティコン :-))を使って感情を捕足するのに慣れているか、こうした感情的な要素を排除してニュートラルな会話ができる人ということになるだろう。たぶん、感情を排除しているのではないかと思われる。最近はウェブカメラを使って非言語的なコミュニケーションを導入することが可能なのだが、こうしたやり取りは却って「生々しい」と敬遠されることが多いからだ。
生々しい会話に慣れている人は、こうした会話を「ぱさぱさして」抑圧的だと感じられるのではないかと思う。これは都市と農村の人間関係に似ている。農村の人から見ると、都会の人間関係は稀薄で「ぱさぱさしているように」見えるだろう。しかし都市の生活に慣れた人にとって農村の人間関係は濃厚すぎて煩わしいと感じられるはずだ。これは群れの密度と交換される情報の多さに関係しているのであろう。農村よりも都市の方が人口密度が高い。交換される情報量も多いので、農村と同じ密度で情報を発信するときっと疲れてしまうに違いない。同じようにインターネット上を流れる情報量は飛躍的に大きく、濃密な関係を不特定多数と結ぶと疲れてしまうのかもしれない。
コミュニケーションの中に「笑い」をうまく織り込むと、効果的に意思を伝え、対立を解く事ができる。楽しいから笑う場合もあれば、笑うから楽しくなるということもある。そして、笑いは状況によって意味が異なり、不適当な時や場所で笑うことが侮蔑の意味に捉えられたりする。オンラインメディアではこうした非言語を使ったコミュニケーションがうまく使えない場合があり、それを代替する機能が必要になるかもしれない。

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