LINEはずし- 中心のない共同体はどうなるか

LINEはずしを解決するにはいくつかの方法がある。一つは密室で起きているコミュニケーションを表沙汰にすることである。中学男女24人『集団LINEいじめ』解決に立ち向かった父の奮闘実話が参考になる。

このところ、日本人と中心について考えている。日本人はまとまるために空白の中心を作るという古典的な考え方である。これを考えているうちに、なぜLINEではずしが起きるかという問題を考えてみたくなった。LINEはずしとはLINEのグループから1人を除外するいじめのことである。ネット言論には、いかにも中心がないように見えるからである。

そもそも「いじめ」にはいろいろな要素や形態があり、完全には理論化されていないらしい。したがってLINEいじめに関する理論的な考察はない。しかしながら、ヒントになるモデルはいくつか存在するようだ。

formation「いじめ」が発生するのは、閉ざされた入れ替わりのない空間だ。空間に自由意志で入ることはできず、出る事もできない。公立学校のクラスなどがこれに当たる。そして、その空間では「みんなで仲良くする」ことが求められる。突出したボスを作ってはいけないし、派閥を作って対立することも許されない。いわば平等型の空間でいじめが起こるのだ。

非自発的な集団ではの平等型の維持は困難なようだ。集団がまとまるためには、それなりの大義名分がいる。しかし、自発的に作られたわけではない集団では大義名分を見つけることは困難だ。誰かボスがいればボスの下でまとまることができるが、誰かが突出することは許されない。また、党派に別れて競争することも考えられるが、表立った競争はよくないことだと考えられている。そこで潜在的な緊張関係が生まれる。

そこで考え出されるのは、誰かを仲間はずれにすることだ。いっけん、仲間はずしをしているように見えるのだが、見方を変えるとそれは仲間はずれのメンバーを中心に置いていることになる。空白の中心を据えているわけである。空白の中心を置く事で仲間同士を牽制しているともいえる。

インターネットの恐ろしいところは、こうした仲間はずしがボタン一つでできてしまうところだ。スマホの普及によりこうした緊張が24時間維持されるようになってしまった。いじめが発生する要件の一つは空間が閉じられていることだから、閉じた人間関係が24時間持続することになる。すると、正のフィードバックが働いて究極の事態が起こるまで止まらなくなる。また、リーダーがいないので「これくらいで止めておけ」ということもできない。究極の事態とは対象者の自殺や完全排除だったりするのだ。

LINEはずしで空白の中心を作って組織が安定すればよいのだが、さほどの安定性はないのではないかと思う。そこで常に中心を攻撃しつづけていなければならず、攻撃がエスカレートするのではないかと考えられる。

いじめる側を教育すればいじめが解決するだろうと考える人もいる。しかし、現実には主婦が仲間はずれにされた上で自殺するという事件も起こっている。つまりいくら「みんなで仲良くしろ」と教育しても、自発性のない集団ではこうしたいじめが起こるのを止められないことが分かる。そもそも教師が暗黙の関係者として関与する(関与しないことで、間接的にいじめを黙認する)という事も起きているので「教育レベル」はいじめとは関係がないだろう。

社会学者の内藤朝雄はこうした閉鎖的な空間で起こる息苦しさを中間集団全体主義と呼んでいる。内藤が提案する解決策は閉鎖的な空間 – つまり学級をなくしてしまうことだ。

しかし、現実には学級をなくす事は不可能だ。現実的な解決方法は閉ざされた空間で行われている行為を「表沙汰」にすることだそうだ。学校は閉ざされた空間の一部であることが多いので、教育委員会に訴えて「警察」や「マスコミ」に相談しますよというと抑止力がある場合があるのだという。

非自発的な空間でなぜ平等型が機能しないのかは分からない。ひとつ考えられるのは結びつきの複雑さである。5人のネットワークには10の結びつきがある。n個の点のネットワークの数はn=(n*(n-1)/2)で示される。50人のクラスでは1,225の関係を管理しなればならない。人間の脳は150人分ほどの関係性(約10,000程になる)までは管理できるものとされているが、何らかの構造を作らないと維持管理は難しいということなのかもしれない。中心を作ると関係性の数が減るのだ。関係性を緊張関係だと考えると、いじめは緊張緩和のために行われているのだということになる。ただし、いじめられる側は緊張関係をすべて一人で引き受けなければならない。その苛烈さは想像に固くない。

もともと、人間には数千人規模の人間関係を把握する能力はない。だから、学級より大きなレベルである社会では直接民主主義的な統治方法は機能しない。

アメリカ人は強力なリーダーを作る事で規模の問題を解決した。代わりにリーダーに権力が集中しないように、リーダーを任期制にしている。ところが日本人は強力なリーダーシップを嫌う傾向があるので、祭り上げたリーダーを空白化することにした。空白のリーダーを頂くことで、平等を実現するのである。吉田松陰が唱えた一君万民論は多くの支持を集め、戦前のデモクラシー導入の大義としても掲げられた。

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