ハロウィーンと本当の私

これが「本当の私」なのではないか。テレビで渋谷のハロウィーンの様子を見てそう思った。あのハロウィーンがインターネットの影響なのはまず間違いなさそうだ。2chの時代から日本のネットは「匿名文化」だと揶揄されつづけてきた。LINEでもハンドルネームでないと「本音が言えない」人は多いはずだ。つまり、日本人は匿名にならないと本当のことが言えず、考えられない国民なのだ。だから扮装しないと自分を解放できないという人が増殖しても不思議ではない。

「扮装すれば自分が解放できる」のだとすれば、それこそが「本当の私」なのではないか。つまり、普段の「実名」が扮装なのではないかとも考える事もできる。「実名」は、親が与えた名前に過ぎない。自分が選び取ったものではないのだ。

もちろん、祭りの自分だけが本当の自分だということは言えそうもない。昔から日本には「ハレ」と「ケ」という区分があるとされている。ハロウィーンは「ハレ」にあたり、はめを外してもよい日なのだと考えられる。どちらか一つを選んで「本来の日本人の姿である」とは言えない。この2つを合わせた姿こそが「本来の日本人の姿である」と考える方がよいのかもしれない。

これは今の自分があるべき姿なのかと悩むすべての人の福音になるだろう。つまり「本当の私」という単独の人格は存在しない。自分というのは複数の人格が鍵束になったものに過ぎないのだ。むしろ「本当の私」というものを仮定した瞬間に、可能性として存在するかもしれなかった別の自分が消えてしまう。つまり「本当の自分」とは現在の自分、扮装して解き放たれた自分の他に「あるかもしれない自分」というものが含まれた不確定な存在なのだということが言える。人格は雲のようなもので、観察しようとするとたちまち消え失せてしまうのである。

現代の都市に住んでいる日本人は祝祭空間を持たないのではないかということは言えるのかもしれない。祭りの場には「役」のある年長者がいるが、渋谷のハロウィーンにはいなかった。この為に警察官が交通規制をし、街にはゴミがあふれた。その意味では渋谷のハロウィーンは不完全な祭りだと言える。反戦デモが高齢化したのと同じように、渋谷のハロウィーンデモも30年後には高齢化しているのかもしれない。白髪の中高年が扮装して街を練り歩くようになるのだ。

「ありたい姿」が「今の私」と重ならないことの問題点は何なのだろうか。理想を現実にする社会的変革ができないということである。渋谷の扮装者の多くが「地元から扮装で出かけるのは恥ずかしい」と考えていたようだ。つまり、彼らは人格を解放し可能性を広げる事は「恥ずかしい」と感じているのである。多くの仲間に埋没しないと「解放」が叶わないのである。

例えば、ファッションは「本当の自分」を解放するものだった。だから、先鋭的なデザイナーは誰も着ないような奇抜な格好をしていた。しかし、ファストファッションが台頭するとデザイナーは市場を模倣する存在になった。こうして市場はファッションによって「本当の自分を解放する」機会を失った。代わりに台頭したのが、匿名やハンドルネームで仲間とつるむインターネット空間だ。日本人はもはや、人格を解放するのにアパレル産業に頼らなくなったのである。

一方、社会変革者は、頭の中にある「あるべき姿」を実践している、渋谷流に言えば「恥ずかしい」人たちである。つまり、真の社会変革者の才能とは「群衆の助けを借りず、孤独に耐えて、扮装しつづける」勇気なのかもしれない。

もっとも、すべての人がファッションデザイナーや社会変革者である必要はない。年に一度ドンキホーテで衣装を買えば自分を解放できるのである。

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