イスラム教徒の思い出

パリでイスラム教徒が自爆テロ事件を起した。ニュースでこれを見た人たちはいろいろな感想を持ったようだ。「だから移民はダメだ」という人や「この際、日本にも非常事態法が必要だ(だから憲法改正して……)」という人もいるだろう。一方「一般のイスラム教徒は平和な人たちのはずだ」と主張するリベラル寄りの人もいるかもしれない。双方とも実感がこもっているとは思えない。移民と接したことがないからだろう。

イラン系のイスラムの人と住んだことがある。最初は普通の学生のように見えたが、次第にイスラム教徒の友達を連れてくるようになった。そのうち雰囲気が怪しくなり「お前の国では複数の神様を信仰しているのだろう」と言い出した。そしてそれを理由に「一緒に住めない」ということになった。多分、イスラム教徒のルームメイトを住まわせたかったのだろう。

さらに仲間とつるんで「お前の乗っている車は良さそうだから置いて行け」とまで主張しはじめた。恐喝だが、さほど罪悪感はなかったのではないかと思う。裏返せば「車を持っている」ことがうらやましかったのだと思う。彼らは車を持てる程には裕福ではなかったのだ。

結局、部屋を出て行かざるを得なくなった。

「差別」というのを実感した初めての経験だった。上の階に住んでいたイスファハン出身者に聞くと「国の中でも南北差別がある」ということだった。肌の色が若干違うのだそうだ。そして、同じ国の出身者が「何かに染まって行く」ことに戸惑っているようでもあった。

彼らは幼い頃に英語を習得しているので、日常生活上差別されることはないはずだ。しかし、マイノリティには「見えない壁」のようなものがある。いくら上手に英語が話せるようになっても「白人と同じ」にはなれない。そこで、同じような人たちとつるみ、下を探すようになるのだ。それが同じ国の人だったり、英語があまりできない外国人だったりするのだ。

決して教育がないわけではない。他の大学の学生や医者のような専門職の人たちともつながりがあった。比較的高学歴のムスリムのネットワークがあったのだと思う。一方で、国の伝統的な宗教からは離れており、穏健なイスラム教に触れる機会はなかったかもしれない。伝統から切り離されているというのは大きな要素だと思う。

日本にも同じような例があった。「オウム真理教」だ。信者たちは比較的高学歴なのに「なぜ生きているのだろう」というような疑問を持った。しかし、日本は伝統的に「無宗教」なので宗教やコミュニティによる救いない。伝統的な仏教(オウム真理教が仏教だと仮定するとだが)から切り離されているからこそ、ラディカルな教義を持った自信ありげな教祖に「イカれて」しまうのだろう。

差別に敏感だからこそ「下に見た相手」を差別するという構造がある。そこで「万能感」のようなものを感じるのだが、それが虚飾だということに気がつくのは時間の問題だ。「世の中は間違っている」と感じてもおかしくはない。自爆テロ犯のように「天国にしか自分の居場所はない」と感じる人は極端な例だと思うが、その裏には「自爆テロ犯を利用してでも、世の中に一泡吹かせてやろう」と考える人がいる。その周辺には「そういった思想を応援しよう」と考える比較的裕福で(おそらくは教育もある)人たちがいるのだ。

だから「移民は不遇で貧しい人々」というラベリングは間違っている。

「オウム真理教」の人たちが「自分たちこそが目覚めている」と感じていたように、こうした過激なイスラム教徒は、自分たちこそが「祝福されるべきだ」と感じているのかもしれない。自分たちが祝福されないのは社会が邪悪だからなのだ。だから、伝統から切り離された人たちが、こうした闘争を「ジハードだ」と考えるようになっても不思議ではない。

かといって、これが移民問題だと考えるのも正しくないだろう。もし、欧米にイスラムの移民がいなければ、ラディカルなキリスト教徒が「世直し」と称して過激な運動を起したかもしれない。現に移民の少ない日本でも「オウム事件」が起きた。社会転覆を狙ったテロ事件だったが、移民とは何の関係もない。ジハードの代わりに「ポア」という言葉が使われた。殺人を正当化して「邪悪な人たちを救済している」と言い放ったのだ。

アメリカでは、9.11事件の後イスラム系移民が危険だということになったのだが、「ホームグローンテロリスト」という言葉ができ、マイノリティが危険視されるようになった。しかし、実際には白人の男性が頻繁に銃乱射事件を起すようになった。白人の大量殺人は「テロ」とすら呼ばれず、ありふれた殺人事件だと見なされている。

格差や差別はいけないことだ。しかし、それは「差別される人がかわいそうだから」ではない。差別は徐々に社会を破壊するのだその事が分かるのは状況が悪化した時だが、その時には個人の力ではどうしようもなくなってしまっている。もう後戻りはできない。

「外交や話し合いで解決すべきだ」という人もいる。しかし「ポア」を正当だと考えていた教祖に対して「外交が有効だ」などという人がいるだろうか。「ポア」とは他人が間違っていると感じたら命を奪っても良いという思想だ。お互いの立場が違うことが前提の「お話し合い」は通用しないのだ。

さて、こうした文章を読んで「個人の感想でイスラム系のイラン人を断定的に扱っている」という批判めいた感想を持つ人もいるかもしれない。しかし、状況はそれほど単純でもない。

前述のようにイラン人と言っても「肌の色の白さ」による区別があるようだ。さらに、トルコ系の少数民族(アゼリ人)が同居している。同じ言語の話し手の間にも差別がある。隣国にまたがって同系の言語を話すクルド人が住んでいるが、少数民族扱いになっている。アフガニスタンにもダリー語というペルシャ語系の方言を話す人たちがおり、ペルシャ人からは差別されているのだという。

一方、イラン系にもユダヤ人が存在する。イラン・イスラム革命の際にアメリカに亡命した人たちが多く、比較的裕福な住宅地に住んでいる人が多い。ユダヤ系はやっかみの対象にもなっているのだ。一方、イラン国内にもユダヤ系が残っているということである。アフマディネジャド前大統領は改宗ユダヤ系の出自だという説があり、同時にイスラエルに敵対的なことで知られていた。

つまり、イラン人やイスラム教徒だからといって、常に弱者で「差別される側」の人とは限らないということになる。

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