核廃絶に向けて唯一日本人だけができること

オバマ大統領が広島に来るかもしれないらしい。前回は政府に内々に打診したが、官僚が勝手に断っていたようだ。そこで今回はワシントンポストに「リーク」して既成事実を作っている。安倍内閣はオバマ大統領にスルーされたのだと思うが、いったん事実ができてしまったら反対するわけにもいかない。ご機嫌伺いの日本政府は「賛成も反対もしない」という立場だそうだ。意向が固まれば賛成だと言い出すのではないか。

さて、オバマ大統領は広島と長崎に原爆投下したことを謝るべきなのだろうかという問題がある。原発問題はきわめて政治性が高く議論が交錯しやすい。結論によっては北朝鮮が核を持つことすら正当化されてしまう。

現在北朝鮮がワシントンに核攻撃すればそれは違法ということになる。多くの市民が巻き込まれるのは明白だからだ。だが、かつてはそうではなかった。

第二次世界大戦までは、市民を巻き込んだ殺戮は違法ではなかったそうだ。軍隊を警察に例えると、各都市の警察官は市民を巻き込んで相手都市に踏み込んでもよかったのだ。なぜならば都市を統括する国は存在しなかったからだ。警察と呼ぶのがふさわしくなければ、自警団と言っても良い。武士のようなものである。だが、第二次世界大戦の後「人々が殺し合うのは良くないのではないか」ということになった。そこで、とりあえず市民を巻き込むのはよしましょうということになった。

もう一つの変化は原爆の発明だ。例えれば第二次世界大戦までは武士は刀だけで戦っていた。そこにアメリカ現れて隠し持っていた拳銃で日本人の市民を「ずどん」と撃ったのだ。もう日本が負けることはわかっていたのだから無意味な殺生だったが、効果はてきめんだった。みんな黙ってアメリカに従うものと思われた。

ところがアメリカの思惑は外れた。共産主義が台頭したからだ。ソ連は拳銃の密造に成功したし、アメリカは中国の利権を取り損なった。もともと日本を追い出して中国利権を手に入れるのが戦争の目的の一つで、そのために国民党を抱き込んでいた。だが、彼らのもくろみは外れたわけだ。

最近、オバマ大統領は「銃を持つのはよくない」から段階的になくすべきだと言っている。「国際社会」はその手始めとして中国に「あなたが持っている銃の種類と数を公表せよ」と言っている。つまり、銃を登録制にしたいのだ。しかし、中国の立場からすると、そんな話に従う必要はない。だから、銃は野放しである。

特に厄介なのは北朝鮮だ。第二次世界大戦後「主権国家には踏み込みませんよ」という協定が作られ、代わりに戦争が禁止された。しかし、北朝鮮だけは「そんな話は信じられない」と言って拳銃の密造を始めた。イラクやリビアがいちゃもんを付けられてアメリカにやられるのを見ているから、彼らの危機感も間違っているとはいいきれない。イラクやリビアがやられたのは実は石油を持っているからなのだが、北朝鮮にはそんなことはわからない。そしてどうやら密造拳銃を完成させたらしい。イスラエルも密造拳銃を持っているらしいのだが、アメリカはイスラエルには何も言わない。

このように考えると、アメリカの大統領が広島を訪れたところでさしたる影響はなさそうだ。結局、この事態を作ったのはアメリカだからである。「お前が言うな」というだけの話である。

「主権国家を保証する代わりに戦争そのものを違法にしよう」というのが、第二次世界大戦後の取り決めだったのだが、この枠組みすら崩れつつある。そんなのはどうにでもなる話(事実イラクは主権国家だったが侵攻された)だ。そこで登場したのが「もう主権国家格を追求するのはやめて、国家体制に反逆しよう」という人たちだ。主権国家格など何のトクにもならないと彼らは思っている。彼らはテロリストと呼ばれているが、これは主権国家体制が崩壊しているという事実を印象操作しているだけなのかもしれない。

日本の役割はどうだろうか。結局のところ、広島や長崎の市民たちは「見せしめ」のために殺されたのだ。アメリカ人にとって同胞(つまり同じ人間である)ヨーロッパに原爆を落とすのははばかられたことだろう。身代わりにされたのだ。

物わかりのよい日本人は「あれは天災のようなものだ」と思い込もうとしてきた。戦争の原因を作り出したことは確かなのだから相手を恨むのはやめにしようというわけだ。台風や津波で殺されても日本人は天を恨まない。この地上で生きてゆかなければならないからだ。結局のところ「赦す」ことでしか、憎しみの連鎖を乗り越えることはできないということを私たちはよく知っているのだ。

この価値観を相手に伝えるのはとても難しい。日本人は自主的に赦したわけだから、相手に同じ気持ちを抱かせるために言葉を重ねることは無意味だろう。ただ、その戦後の繁栄だけが「相手を赦すことはいいことなんだな」と思わせる効果があるのではないかと思う。ただ、見せしめで殺されたことは事実なのだから、それを曲げてはいけないように思う。「それでも相手への恨みを捨て去れますか」というのが日本人に向けられた問いだろう。

事実アメリカ人はこの日本人の態度を不可解に思うようだ。「広島なんかに行ったら、謝れという話になるのではないか」と思っている人も多い。

オバマ大統領は結局「日本人が赦した」姿勢を見て、それに沈黙で返礼するしかない。その意味ではアメリカ人要職の訪問には意味がある。だが、アメリカ人には、この状況をどうこういう資格がない。自分のレジェンド作りの為に広島や長崎を政治利用しているという見方すらできるのだ。これは原爆で殺された人たちへの冒涜にならないのか、しばし冷静に考えてみる必要がありそうだ。

おそらく外交も無意味だ。口約束なんか破られるに決まっているからだ。だから、外交努力で戦争を防止することなどできない。となると、諸都市の武士団が拳銃を「ずどん」とやらないのは、経済的に緊密に結びついているからでしかない。いったん経済的に結びついてしまえば、けんかはしにくくなる。

ただし、絶対的な経済活動の敗者たちは、刀を持って歯向かってくるだろう。もはや武士だけが刀を持てる時代は終わったのだし、刀狩りもできない。

いくさを防ぐためには「赦す」か「分け与える」しかないのだ。世界中で日本人だけがそれを「身を以て」語ることができるのである。

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