「保守」のこころね

今日は面白いTweeetの紹介から。

帰化とは「心を入れ替えること」だと主張している。これは日本人の心情をよくあらわしている。では心を入れ替えるとはどういうことだろうか。具体的には集団に尽くすことを意味しているものと思われる。会社でいう「雑巾掛け」だ。つまり意思決定の下位にのランクに入り「俺たちに尽くせ」と言っているのである。カラオケで「俺の歌を聞け」と言っているようなものだ。

こうした心情は村落共同体に暮らす人ならだれでも持っている。日本人は新しく入ってくる村人が自分たちの既得権益を脅かすことを恐れる。世話をかけず自力で生活し、なおかつ自分たちを助けてくれたり、何かおすそ分けしてくれることを期待する。何かくれるからといって威張ってはならない。そのため、村人は飛び抜けて優秀でもないが世話をかけすぎることもない中庸な人たちを求めるのである。

一方で「日本人でも日本人らしくない人」がいると言っているのだが、これは「俺に尽くさない人が多い」ということを意味しているのではないかと思える。「誰も俺の言うことを聞かない」という不満の表明である。俺は長い間雑巾掛け(自己主張せず他人に尽くす)をしてきたのだから、そろそろ後輩ができてもよいころだと考えるわけである。いつまでも部活の一年生状態は嫌なのだ。

最後の文章はゲストステータスを示す。これも日本の移民政策上のキーになっている。短期滞在のステータスでいるかぎりは「ゲストとして扱って」美しい日本というものを見せてやろうという表現だ。日本人は客人を大切にするという自己認識があり、それを発露したがっている。しかし、長期的に滞在すれば、いつかは自分たちのコンペティターになるかもしれないし、世話をしてやらなければならないかもしれない。それは困るわけだ。保守の人たちは外国籍の生活保護を極端に嫌がる。

ということで、この文章は日本の保守と呼ばれる人たちのこころねをよく表しているように思う。言い分はわからなくもない。だがこの心情が日本の国際競争力を削いでいる。村落は加入の要件が厳しすぎて窮屈な上にメリットがない。だから若者は都市に出て行く。

都市近郊にはこうしたしがらみを嫌った「かつての青年」たちが住んでいる。彼らは高齢化してもご近所付き合いを嫌う。かつての窮屈さを体験しているからかもしれない。おすそ分けですら「もらったらすぐに返礼しなければならない」と考えて「面倒だからやめてくれ」ということも珍しくない。しかし、その帰結は都市での孤立だ。

実は日本の保守層が感じている。俺は雑巾掛けをしてきたのに誰も俺のために雑巾掛けをしなくなったという不満は、人々が長い間の貸し借りから逃げ出しているということの裏返しなのだろう。会社の場合「俺が10年尽くしても会社は存続していないかもしれない」という懸念がある。非正規だからそもそも会社には期待しないという人もいるかもしれない。この雑巾掛け理論を社会保障に組み入れたのが年金制度だが「どうせもらえないかもしれない」という不安がある。まずは雑巾掛けをして後から受け取るというスキームはいろいろなところで崩れているのだ。

このような問題が国際レベルでも起きている。優秀な人たちは、どこで働くかを選べる。だから、わざわざ窮屈な国を選んだりはしない。たいていは英語が通じて、余暇があり、面白く生活できる国に移住するだろう。一方で、選択の余地がない人たちは日本に来るかもしれない。しかし、現在の日本の移民政策では数年で祖国に追い返されてしまう。すると限られた年限で(仮にそれが違法であっても)稼げるだけ稼ぐ。しかし、それもできないとなると噂はすぐに広まり移住先の選択肢からは排除されてしまう。海外の労働者は保守層に尽くすために生きているわけではなく、自分たちの豊かな生活を求めているからだ。

このように考えてみると、保守というのはあまり難しい概念ではないように思える。長期的な構造が定まればいつかは自分が敬ってもらえるという見込みを持った人たちが保守なのだろう。「他人を敬って尽くしたい」という人は誰もおらず、敬って欲しがっている人たちだけが残ったのが現在の保守なのかもしれない。

このように書いてくると「勝手に他人を分析するな」とか「俺が敬ってほしいから言っているのではない」などという感情的な反論が予想される。「俺を尊敬しろ」とは言えないので「世界に類を見ない日本の歴史のために、日本人は我が身を投げ出すべきだ」というインダイレクトな主張をする。そればかりか基本的人権を憲法で制限しろなどという人さえいる。それも政治的な主張としてはあり得るかもしれない。

しかし、そのように苛立ってみても基底にある不安は解消しないし、憲法を改正しても誰も「あなた」を敬うことにはならない。長期的な構造が崩れたのは終身雇用という体制が崩壊し「雑巾掛け」の意義が薄れているからだ。ここを脱却しない限り、不安は解消されないだろう。

と、ここまで書いて終わっていたのだが、ニューズウィークにAlt-Rightと呼ばれる人たちについての記事が載っていた。排他的な意見を持った人たちらしいのだが、かつてはリベラルだと思われていたシリコンバレー系の人にも思想として広がっているのだそうだ。2007年ごろには「優秀な移民はアメリカの国力を増す」という人たちが多数派であり、Alt-Rightな思想は異端に過ぎなかった。しかし、様相は変わってきているようである。

民主主義の本場アメリカでも民主主義疲れする人が増えているわけで、洋の東西を問わず、中流層に漠然とした不安が広がっているのかもしれない。日本でヘイトスピーチに加担する人たちも、世間では穏健で仕事ができる人なのかもしれない。

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