豊洲問題 – 石原慎太郎はなぜ糾弾されるべきなのか

豊洲問題の現況を作った石原慎太郎が「私は知らなかった」と言っている。石原氏こそが糾弾されるべきなのではないかと思った。とはいえ、建物の技術的なことをしっていたとか知らなかったとかいうことはそれほど問題だとは思わない。問題は都に集団思考を蔓延させたことだ。

石原氏はわざわざ有毒な土地を選んで魚市場を設置しようとした。のちにわかったのはこの土地が水もたまりやすかったということだ。たまたま扱いにくい土地を選んだわけではない。利用価値がないからこそ都が買い取ったのだ。利用価値があれマンションなどに転売されていただろう。これは特定企業への利益誘導だ。

だが、もっと大きな問題は、この組織がなぜか無力感に苛まれていたことだ。予算との兼ね合いがあり、まともな費用では安心・安全を確保できないことがわかっていたはずだ。しかし、必要な予算を請求せず、自分たちが持っているリソースでなんとかごまかす道を選んだ。との職員は「意思決定もできないが責任も取らないこと」がわかっており、罪悪感もなかったのだろう。石原都知事はそれを放置した。

機能不全の組織を前提に考えると問題が見えにくい。ここでは千葉市の事例を挙げて考えたい。千葉市は東京からの通勤者を受け入れて土地価格が高騰した。そのため各地に農地を売る土地整理の組合が作られた。農村や漁村はそれまであまり価値がなかった土地の売買で一夜にして大金を掴み、感覚が麻痺していった。

こんななか、地元の政治家が中央にコネのある官僚経験者を市長に祭り上げることが慣例になった。すると「土地をいかに高く売れる」が市議会議員の才覚だと捉えられるようになった。民間で高く売れない土地は何かの名目で市に買い取ってもらうのだ。例えば低くて雨のたびにびちゃびちゃになる土地に自治会館、モノレールの基地、清掃工場を作ったりするというのがその例だ。

これ自体は「なんとなく後ろ暗い」がにわかに悪いこととはいえなかった。だが、最終的にこのスキームは破綻した。3つの顕著なことが起きた。

まず、借金が膨らみ千葉市の財政は大幅に悪化した。「同じ政令市の横浜市には勝てないがさいたま市には勝ちたい」というような競争意識が背景にあったようだ。このため、市債を限界までを発行し、基金の中身も抜いていたようだ。バブル期にの土地さえ売ればお金が入ってくるという記憶から抜けられなくなっていたのだ。例えば立派な図書館が作られた。

次に南蘇我の土地組合が破綻した。バブルが崩壊したのに対応を先送りにした挙句、3億円以上の損金を市が負担することになった。これ以上借金もできないので、他の事業を諦めざるをえなくなった。例えば図書館には当初立派な蔵書が入ったが新しい本が入れられなくなったりした。また、清掃工場が立て替えられず、ゴミを2/3にすることで乗り切った。

三番目に現職の市長が収賄で逮捕されるという事態が起こった。札束が飛び交っている中で感覚が麻痺していったのだろう。

しかし、実際に起きていたのはさらに深刻な事態だった。政治家は土地をお金に変える<事業>に夢中で、本来解決すべき問題に興味を持たなかった。オール与党体制(反対するのは共産党だけ)で予算を通すので必要なリソースも与えられなかった、市民は窓口に文句をいうのだが、市の職員は何もできない。そのうちに問題意識を持つのをやめてしまったようだ。

市では「市長に手紙を出す」という仕組みがあるのだが、「市長への手紙を書いてください」というのが最終的なクレーム処理になっていた。市長が読むことはなく、役人が「極めて深刻な問題だが善処する」という手紙を書いて終わりになるのが通例だった。金権政治が蔓延していただけではなく、問題処理もできなくなっていた。「誰かがなんとかするだろう」と誰も何もしなかったのだ。

バブル期の記憶とあり余るお金で感覚が麻痺し、その後に財政危機が起こった。そこで市は感覚を麻痺させていった。市長が変わり危機宣言が出されたのだが「新市長のパフォーマンスだ」と言われ続けたようだ。組合が破綻し市長が逮捕されてなお、市の職員や議員たちは「それは当たり前のことなのだ」と考え続けていたことになる。

石原慎太郎氏は都知事にはなって以降も多くの混乱をもたらした。土地・建設利権をめぐる混乱が起こることがわかっていながら東京オリンピックを誘致し、中国との軋轢が起こることがわかっていながら巨額の資金を集めて尖閣諸島を買い取ろうとした。後継者に政治家経験のない作家を指名して短期間で都知事がコロコロと変わる素地も作った。

派手にテレビで喧伝されるトラブルの元で、都の職員が表面化しない問題を抱えて無力感に苛まれているのは間違いがない。多くの解決すべき問題解決が放置されているはずである。

最後に付け加えるとしたら、市場経済の破壊という問題がある。東京ガスが自社事業で必要な土地をどう使おうと構わない。しかし、有毒物質の処理を都に押し付けたのは問題だ。企業は「収益だけを得て、その後の処理は社会に押し付ければ良い」と考えるようになるからだ。これを費用の外部化という。

費用の外部化の問題は別のところで大きくなりつつある。東京電力は福島第一原発の廃炉費用を新電力にも負担させようと考えているらしい。原発が安い電力なのは「燃料の後処理」を考慮していないからだ。これを許してしまうと、企業は「儲けは自分たちで山分けするが、損したら国民にかぶせる」という慣行ができてしまう。企業は「汚し放題」ということになるのだが、放置しておくわけにも行かないので、結局は国民が負担することになる。汚しても自分たちで処理しなくてもいいということになれば、汚さないように工夫をしようという人はいなくなるだろう。

豊洲移転騒動は結局のところ「不利益の分配」というより大きな問題を含んでいるのだ。