多様性が許容できないのにネットを使いたがる老人

最近、Twitter上で「蓮舫の国籍を取り上げろ」と息巻いている人がいる。賛同者はほとんどいないし、自分が何を主張しているのかよくわかっていないようだ。一応、法律違反だからダメだということになっているのだが、法律が理念を実現するための道具だということが忘れられている。

彼らの本音は多様性の排除だ。まず多様性を武器にした蓮舫新代表に対する攻撃からはじまり、同じく多様性を持ったTBSのアナウンサーに対する個人攻撃になった。さらに人権や多様性の観点から二重国籍の人たちを擁護する識者を馬鹿呼ばわりしはじめた。

二重国籍はある種の特権だ。たまたま両親が別の国の出身であるとか、別の国で生まれたという偶然がなければ二重国籍状態にはならないからだ。多分、特権を持った人がもてはやされるのが許せないのだろう。

ここから本能的に自分が多様な世界にキャッチアップできないことを知っているのだろうということがわかる。

二重国籍は現行の法律では問題行動なのだが、変化が多い現代社会では有利に働くことが多い。国際競争力ということを考えると、多様な才能を日本社会に取り込むことができるかという問題が持つ意味は大きい。だから、これを機会に現行法制をどう変更してゆくかという議論が始まってもおかしくない。

これを見ていて、インターネット論壇も来るところまできたなあと思った。もともとネットに注目していた人たちは最先端の人たちだった。そもそもアクセスするためにはそれなりの技術が必要だったからだ。ゆえに初期のインターネットは多様な意見の大切さを知っていた。他者の意見に触れることで、新しい視座を得ることができるからだ。実はネットが出始めの頃は、気軽に他者の意見に触れるような環境はなかったのだ。

しかし、ある時点から出版社や新聞社で食べられなくなった人たちが集まるようになってくると状況が変わり8時メタ。多様な意見に触れることがよいという考え方は持たずに、自分たちが場を支配したいという気持ちが強い。他者が許容できないのだ。もともと出版社や新聞社は入った時点で「許されたものしか発言できない」という特権を得られるので、ネットでそれを再現しようとしたのかもしれない。現実世界で特権を失ってしまったからこそ、新天地のネットで王になりたいという気持ちが強いということも考えられる。

他者が許容できないので、とうぜん多様性も許容できない。ゆえに二重国籍など考えられない。良識的な意見も許容しないらしく、異論を唱えるものをことごとくブロックしているらしい。

日本社会では他者を許容できないことが成功の要因になることがある。組織は既得権防衛のための装置だからだ。しかしインタネットは基本的に多様な意見を排除できない。ブロックするというのは、自分の意見が相手に伝わらなくなるということなので、自らの影響力を排除するということなのだが、基本的なネットの仕組みがよくわかっていないのだろう。

もちろん、ブロックはネットの「間違った使い方」とは言えない。さらに言えば、自分で出資して会員制の空間を作っても良い。それができないのは、この人たちがもともとあった会員制のサロンを追い出されてしまったからだろう。

その意味では蓮舫問題は「ネットに不適合な人達」をあぶり出す装置になっている。

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