長谷川秀夫氏はなぜ過労死を肯定するような発言ができたのか

前回の長谷川秀夫氏の記事は多くの人々に読まれた。ネットの反応を見ていると「今は時代が違うから老害は引っ込んでいろ」というようなトーンが目立つ。

この発言を理解するためには、この人がどのようなバックグラウンドを持っていたのかを知る必要がある。東芝の出身だそうだが、東芝の労働環境は悪く「東芝の労働事件」というwikipediaの専用ページまでができている。ページは次のような記述で始まる。

1960年社長となった土光敏夫は「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」と宣言し、労働運動への締め付けを強めた。

土光敏夫氏はのちに行革に取り組み「質素な生活」で有名になった。土光さんといえばメザシで有名だ。だが「自分も頑張るから」という姿勢は後継者には受け継がれなかった。

東芝は長時間労働で知られていたことは間違いがない。土光氏が社長をしていた時には社員への還元があったのかもしれないが、Wikipediaにまとめられているような労働事件が2000年以降に頻発することになった。

東芝では長時間労働と弱い労働組合は「過去の成功事例」として捉えられていたようだ。経営転換に失敗した結果を労働者の長時間労働と会計操作で隠蔽するような会社になってしまったわけである。

このようなひどい会社は社会的に制裁されても当然のように思える。しかし、実際には東芝は淘汰されなかった。東芝は政府と国策に追随することで生き残りができたからだ。原子力発電事業や電力インフラ事業などが中核になっていた。

その結果起きたこともよく知られている。業績をあげるために無理なスケジュールが横行した。先には「同じ職場で2名の自殺者が出た」とあるが、スケジュールは改められなかった。さらに派閥同士で数字をよく見せる必要があり、会計操作までが行われるようになり、最終的に「特設注意銘柄」に指定されるまでになった。これは、上場廃止の一歩手前の状態だそうだ。しかし、責任を取ったのは経営者ではなく従業員だった。大規模なリストラが行われたのだ。

このように東芝は過去の成功事例から抜け出せずに徐々に倫理的な感覚を失っていった。ここから得られる教訓は「他人に生き血を啜(すす)られるなら啜る人になれ」ということだ。しかし、政府の庇護もありそれが修正されることはなかった。最終的に上場廃止寸前まで追い込まれた(もう少し規模の小さい会社であれば上場廃止されていただろう)のだ。

つまり、啜られる側の人間は最後まで啜られる側であり、一生懸命働く人が報われるというように<正義>が勝つことはないのだ。

これは失敗する組織の典型的なパターンを持っている。戦前のお陸軍は現場の突発的な判断から戦争に突入したが、明確な作戦を立てられず、派閥争いに発展する。そのために取った作戦は現場の兵士を捨石にして戦線を維持するというものだった。参謀本部には現場のことが見えていなかったわけである。かといって現場の兵士が報われることはなかった。栄誉といえばせいぜい、靖国神社に祀られるくらいのものだが、これも「参謀も現場の兵士もいっしょくたに祀られる」ことになってしまった。

東芝の事例は明らかな経営の失敗だが、当事者たちはそうは思っていないというのが今回の話の一番残酷なところである。こうした人たちが成功事例ということになり教育現場に入って「他人の生き血を啜る側の人間になれ」という人材を再生産しているのかもしれない。

「他人を搾取する側」だった長谷川氏としては、教え子と周囲の人に「100時間で死にやがって情けない」と漏らすのは自然なことだったのだろう。彼らにとって労働時間とは単なる数字であって、途中で脱落してはいけないのである。あるいは脱落を前提にして「歩留まり率(※ここでいう歩留まりとは職場の精神疾患や自殺者の数だ)」を<管理>するくらいのことは考えかねないのではないだろうか。

一人の人が大衆的な暴力で嬲(なぶ)られるというのは、非人道的に見える。しかし、そうでもしないと「これがいけないことだ」という認識が定着しないのだと考えると、とてもやりきれない気分になる。