高橋まつりさんはなぜ泣きながら資料を作っていたのか

高橋まつりさんの自殺をきっかけに日本でも労働時間に関する議論が出てきた。論点はいくつかあるようだが間違って伝わっているように思えるものも多い。そんななか、ドイツの労働時間について書いてある読売新聞の記事を見つけた。これを読んで「日本もドイツを目指すべきだ」という感想を持った人がいるようだ。

結論からいうと、日本はドイツを目指せない。記事を読むとドイツで長時間労働時間を強いると人が集まらないから、労働時間を長く設定できないと書いてある。ところが、この記事には書かれていない点もある。執筆者はドイツ在住なので知っているはずだから、書かせた側に認識がないのだろう。

ドイツの職業制度は2本立てになっている。3割は大学に進むが、その他の7割は職業教育に流れるそうだ。これをデュアルシステムと呼ぶらしい。7割は職業人としての教育を受けるのだが、社会の中で「労働の対価はどれくらいで、基本的に必要な知識は何」という知的インフラが作られていることになる。だから、労働者は会社を選ぶことができるのだ。労働者は会社を選別するので、企業は環境を整える。何も「ドイツ人の善意」がよい職場環境を作ったわけではない。

一方で高橋さんの例を見てみたい。高橋さんが「東京大学を卒業して電通に入った」ということは伝えられているが、何を専攻したのかということは伝わってこない。日本では「東大に入れるほど頭がよかった」ということは重要だが、そこで何を勉強したのかということにはほとんど意味がないとみなされるからだだろう。

週刊朝日でアルバイトをしていたことから「マスコミで働きたかった」ということは伝わって来が、電通ではネット広告の部署で金融機関向けにレポートづくりをしていたようである。もし、欧米のエージェンシーでレポートづくりをしていたとしたら、その人は「マーケティングの専門家」か「データサイエンティスト」のはずだ。

もし「データサイエンティスト」だったとすれば、いくらでも就職先はあっただろうし、ドイツのように社会が職能を意識するような社会だったらなおさらその傾向は強かったはずだ。だが「なにのためにレポートを作っているかわからない」と嘆く高橋さんにその意識はなさそうだ。

分業制の進んだアメリカで「顧客のリエゾン」が「データサイエンティスト」の真似事をすることはありえないだろう。だが、日本では「何を勉強したのか」を問わずに学歴で新入社員を入社させて専門教育をせずにそのまま現場に突っ込むということが行われていたことになる。おそらく部署にもインターネット広告に対するスキルはなかったのではないだろうし、高橋さんも自分が何の専門家なのかという意識はなかったはずだ。マスコミ感覚で広告代理店に入り「クリエイティブがやりたい」と考えていたようなのだが、その期待も満たされていなかったかもしれない。

ここからわかるのは電通が「自分たちですらどうしていいかわからないことを地頭の良さそうな学生」にやらせていたということだ。

アメリカで「データサイエンティスト」という職業が成り立つためには、仕事を経験した人が学校に戻って学生を教え、その学生が企業に新しいスキルを持ち込むというサイクルが必要だ。ところが日本では一度会社に入ると学校に戻るという習慣がない。だから社会の知識が更新されない。

では「高橋さんは何を学ぶべきだったのだろうか」ということになる。それは人間関係である。3年以上電通にいて「電通の仕事のやり方」を学べば、そのあとは関連会社からの引きがあったはずだ。つまり、日本の学生は一生そのコミュニティにいなければならず、だからこそ「脱落してはいけなかった」ことになる。皮肉なことにこの閉鎖性が外から知識が入ってくることを妨げている。

立場を考えてみるとデータサイエンスを学んだ学生が電通で働けないということになる。まず入れないだろうし、入ったとしても「成果が出ていないのに成果が出ているような資料は作れません」ということになる。電通の管理職はそれでは困るわけで「専門家は使えない」という評価に繋がってしまうのだ。

このように高橋さんが「意味を見いだせない仕事をやらされて疲弊していた」ことの裏にはきっちりといた理由付けがあり、単に高橋さんの運が悪かったわけではない。

これを改善するためには「社会がどのように知識を更新するのか」というプロセスを作る必要がある。すると労働の流動化が図られて、悪い職場環境は淘汰されるだろう。と同時に国の競争力は強化される。

皮肉なことに新聞社にも同じ知識の分断がある。

冒頭の記事では生産性と労働時間のグラフがある。この中ではなぜか日本の方がアメッリカよりも労働時間が短い。記事の仮説が正しければ日本の労働生産性はアメリカを上回っていなければならないのだが、現実はそうではない。日本は非正規化が進んでおり(主に高齢者の置き換えが進んでいるものと考えられている)労働時間が短くなっている。ゆえに「労働時間が短くなれば自ずと精査性が上がる」わけではない。この記事がいささか「結論ありき」になっていることがわかる。

新聞社は、その分野の人に記事を書かせて、出来上がった結果だけに着目する(専門家のプロセスはわからないから)ので「日本もドイツを見習わなかければならない」などと書いてしまう。そのために必要なのは「社会の優しさ」なのだというな結論を導き出しがちだ。考えてみれば、学校での専門教育を受けたわけでもなく、地方の警察署周りをして根性を身につけただけの人が社会問題全般を分析するようになるのだからそれ以上のことは書きようがない。

今回よく「なぜ日本の大企業は軍隊化するのか」という問題意識を目にするのだが、日本人は第二次世界対戦末期の陸軍を「軍隊だ」と考えている節がある。陸軍は必要な食料や兵器を持たせず「根性で勝ってこい」などといって送り出していた。現在の会社は社員に十分な知識を与えず、それを自力で更新する時間も奪っている。確かに似ているのだが、これが「軍隊」だというわけではない。こんな軍隊だったから日本は負けてしまったわけで、要は日本は経済戦争に負けつつあるのだということにすぎないのではないだろうか。

要は社会全体で、複雑な問題を扱えなくなりつつあり、その隙間を「根性」や「社会の善意」で埋めようとしてしまうのだ。

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