やりたいことをやって他人に迷惑をかける人たち

つい最近「やりたいことをやったほうが世の中よくなるんじゃないか」というようなエントリーを何回か書いた。で、森友学園の件が騒がしくなり、ちょっと考え込んでしまった。やりたいことをやって「ああ、これなのか」と思ったからだ。

森友学園は「愛国ごっこ」がやりたかったらしいのだが、周囲にかなり迷惑をかけている。とりあえずほかに選択肢がない地域の子供たちに変な考えを吹き込んでいるらしいし、保護者の中には罵倒されたり辞めさせられたりした人もいるようだ。土地を格安で斡旋した政治家や役人の何人かも無傷ではすまないかもしれない。

森友学園はやりたいことをやった。だが、その中身はスカスカだった。「中国と韓国はけしからん」とか「子供のオムツがいつまでも取れないのは親が子供を甘やかすからだ」とか「コーラを飲むのは韓国人だ」みたいなことが政治的なメッセージだった。それを軍服や教育勅語で水増ししていた。

それだけでは飽き足らず、多くの人を巻き込んで、「憲法も変えなければダメだ」というような運動まで始めた。しかし、憲法を変えて何をしたかったんだろうということを改めて考えると、何もなかったんじゃないかと思えてくる。

森友学園の愛国教育は単なる戦前コスプレになっていた。これは出来が悪い二次創作である。二次創作が悪いとは思わないのだが、最近は二次創作でもそれなりの競争がある。読んでもらうためには中身を工夫しなければならない。続けてゆくには愛や研究心が必要だ。

森友の愛国コスプレとコミケの違いは何だろうか。例えて言えば、漫画が好きな子が「一番尊敬される漫画家って誰だろうか」と考えて手塚治虫のアトムのコスプレをしているうちに「俺は漫画がうまい」と思ってしまったということになる。そしてその漫画を読ませようとしたが誰も振り向いてくれないので誰も幼稚園を作らないような場所に幼稚園を作って観客を集めてアトムごっこをし、さらに自分の漫画が気に入らないやつを罵倒し、それには飽き足らず小学校まで作ろうとしたがお金がないので、政治家と役人を巻き込んで国の土地を安価で掠め取ったという図式だ。

これは観客にも問題があるだろう。コミケの客は目が肥えているのでつまらない同人誌は読んでもらえない。しかし「愛国」とか「二千六百年の歴史」というのには陶酔感があるわりに誰も原典を読んでいなかったのではないかと思える。

かつて保守を名乗るためには、少なくとも中国から入ってきた哲学体系などを学んだ上でそれなりの見識を持たなければならなかった。見識だけではダメで「行動」もそれなりのものでなければならなかった。儒教は形骸化した歴史があり「やはり実践が大切」ということになっているからだ。しかし、観客も含めてそうした研鑽を積んでいるような形跡はない。

安倍首相などが典型だろうが、この人もやりたいことがなく首相になってみんなからちやほやされたいということだけが行動原理になっている。政治には困った人を救うというような役割もあるのだが、政治そのものが自分の願望を充足させるための道具に過ぎないのでこうした人たちの声は聞こえない。

すべてをオリジナルで作ることなど不可能なので、二次創作はかまわないと思うのだが、それでも内面から出てくるものを加えてあげないと、自我が肥大して周りを巻き込んだ上で、周囲を混乱や不安に陥れたり、大きな間違いを犯す可能性があるということが分かる。

やりたいことは追求すべきだと思うのだが、心から好きだと思えるものじゃないと、このように壮大にやらかしてしまう可能性が強い。愛国はかなり毒性が強い。三島由紀夫は文学の世界では最高峰といえるような才能だったが、おもちゃの軍隊を作り、自衛隊で嘲笑された挙句自殺してしまった。

いずれにせよ今後、コミケで三年くらい修行したあとではないと「愛国者」と呼ばないようにしてはどうだろうか。国会でできの悪いコスプレを披露されては困るからだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です