日常を演じる人たち

デフレが進むロードサイドがいやでたまらない……のだが

家の近所にショッピングセンターがある。GUとハードオフと100円ショップがメインの典型的なロードサイドだ。常々「都心のおしゃれなところに行きたいなあ」とか「デフレ嫌だなあ」などと不満に思っている。ファミリー層がメインであり、当然なんとなく都心に出るのではない普段着のスタイルの人が多い。東京が羨ましいとまでは言わないが、美浜区いいなあ位は思う。

なんとなく変な日常

コンビニという名のコンビニの前に咲く早咲きの桜

早咲きの桜が咲き始めた暖かい三連休ということもあり、中央部にあるガーデニングショップでイベントをやっている。ピザとかマフィンなどの屋台が並び、家族連れが来ていた。その様子をなんとなく眺めていて、あることに気がついた。

ファミリー層に帽子着用率が高い。ぷらっと買い物に行くのに帽子を着用することなどないわけで「見られることを意識しているんだなあ」と思った。子供を撮影するカメラが一眼レフだったりもする。報道の人みたいだ。で、認識が180度変わってしまった。彼らは都市のアクターとして見られることを意識した上でわざとリラックスした格好をしているのではないかと思ったのだ。つまり、ゆるい日常がトレンドなのだ。

情報発信されることを意識した店が増えている

このガーデニングショップはちょっと変わっていてスマホで店内を撮影していいことになっておりインスタ映えする植物が飾られていたりする。右にある花の寄せ上は特に見るべきところがなく「花がたくさん咲いているね」くらいで終わりそうだが、実は中央に植わっている葉っぱが高い。ガーデニング好きはこれをみて「うわーいいなあ」などと思ったりするのだ。

つまり「見られることを意識する」作りになっているわけだ。そこに見られることを意識した客がやってきて子供を遊ばせることになる。いわゆる「顕示行動」だが、それはとてもさりげない。SNSが発展し「見られること」が一般化してきているのだが、その中でさりげなさを演じるという組み立てになっている。昔のトレンディードラマの主人公が「ナチュラルな演技」をしていたのと同じことが郊外のショッピングモールで起きているともいえる。つまり、店は品物を提供しているわけではない。これらは単に舞台装置に過ぎないのである。

本当の日常は緊張に満ちている

なぜ彼らはリラックスした格好をしたがるのかということはすぐにわかった。帰ってきてTwitterをチェックすると安倍政権打倒のツイートが途切れることなく流れてくる。ワイドショーは森友ネタで埋め尽くされる。知らず知らずのうちにかなり緊張した毎日を送っていることが分かる。トレンドは一般層とは違う方向を目指すのだから、当然普段通りの暮らしとか、リラックスして緊張がない状態というのが嗜好されることになる。

トレンドと非トレンドの逆転現象

バブル世代にとって「おしゃれをする」というのはちょっと頑張って私鉄に乗って渋谷あたりに繰り出すことを意味した。住んでいる地域では浮いてしまいそうな「ちょっと頑張った格好」をすることがおしゃれなのである。これを「格上げ」などと言ったりする。そういう頭があるので「ファッション=頑張ること」になりがちで、個人的にも「ああ、リラックスがトレンドなのかあ」と思うまで、その図式を疑うことはなかった。

しばらく観察していたのだが、体型が崩れていたり、ポイントがなくだらしなく着こなしている人もいる。つまり汚く見えないようにリラックスした格好をするのは実はかなり難しい。そもそも普段考えるおしゃれとベクトルが180度真逆なので、どうしていいのかが全くわからない。つまりリラックスして「気を使ってませんよ」という格好をするのはかなり難しいのだ。そのちょっとした差異に使われるのが帽子なのかもしれない。

ここから類推するとあからさまな「トレンド」は忌避される傾向にあるのではないだろうか。つまり、足が長く見えるとかモテるいう触れ込みのデニムなどは好まれそうもない。一番トレンドと離れたところにあるとさえ言えるのかもしれない。かといって古着屋で安い服を寄せ集めましたなどというスタイルは嫌われるだろう。実際にここから程近いホームセンターはそういう人たち(主に高齢者だが)であふれている。

普段から青山や銀座あたりで生活して、トレンドを扱っている人たちは「普通の人たちはトレンドには興味がないのではないか」などと思うかもしれない。だが、それは必ずしも正しくないかもしれない。憧れのために一歩格上げすること自体がダサいのだ。

体験というよりは演技に近いのかもしれない

こうした行為は体験型として一括りにすることができるのだが、一つだけ違いがある。それは誰かに見られることを意識しているという点だ。仲間内のおしゃべりが楽しいわけではなく、それを誰かに見て欲しいのである。

それは、おしゃれな屋台などで食べ物を買って愛らしい子どもと芝生で食べるというような体験だ。もしそうだとすると、いろいろなものを提案しても「ふーん」と思われるだけで見向きもされないだろう。

植物そのものが欲しいならずっと安いものがホームセンターで買える。そうしたところには高齢者が押し寄せて値段を厳しく吟味して買い物をしてゆく。戦後のもののない時代から急速にものが満たされてゆくという経験をした人たちである。彼らにとって劇場体験というと海外旅行だ。ちょっと無理をして非日常空間を味わい、お土産と一緒に写真を渡すというような行動である。

こうした人たちは「世の中ユニクロとニトリばかりになってものが売れなくなった」と嘆いている。実際には「何を買うか」ではなく「何をするか」ということに視点は移っているのかもしれない。いわゆる産業のサービス化だが、サービスを受けるというよりは日常を演じる演劇に近い。

企画書を書く人こそTwitterをオフにしてリラックスを求めて街に出るべきなのかもしれないと思った。一生懸命ものやサービスを押し付けると消費者は逃げてゆくだろう。消費者ではなくアクターだと再定義した上で、舞台を整えて脚本を書いてあげるのはどうだろうか。

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