日本人に憲法改正が無理な理由

今回の議論は左右対立を煽ることではなく、心の平安をもたらすのが目的の文章になっている。日本人に憲法改正が無理な理由を書く。無理だから賛成したり反対したりするのは全て無駄ということになる。

短く要約すると、日本人は意思決定に縛りをかけるのをいやがるので憲法のような体系を自ら作ることができない。もしやるとしたらそれは法体系の無効化に傾くはずだ。実際に日本人は自分たちのために憲法のような最高法規を作ろうということを考えたことはなかった。

この議論を逆に捉えると、日本人の意識を変えることができれば憲法を改正できるということになる。が文化的な性向を帰るのはとても難しい。

最近あった三つの例を見てみよう。いずれも多少の反対意見はあるものの多くの国民から黙認されているものだ。すなわち政治家が悪いわけではなく、多くの日本人がなんとなく受け入れてしまっている性向だということが言える。

文脈によっていうことが変わるので普遍的なルールが作れない

最近、民進党で不思議な論理がまかり通った。蓮舫代表は戸籍を開示すべきだという話において、ダブルスタンダードが見られた。世間に適応されてはいけないが、自分たちは蓮舫代表にこれを強要するというのだ。つまり日本人は文脈によってルールを使い分けるということがわかる。がSNSは文脈を混ぜかえす作用があるので、それが世間から反発されると、前言を撤回しないで「私は最初から反対だった」などと言い出す人が現れる。つまり、状況によって主張を簡単に変えてしまうのだ。そもそも政治家に固定的な意見を持つことは危険であるという認識があるのだろう。

政治家たちは「自分の意見を持たず周囲に合わせて変える」というポリシーがあるのだということになる。

これは何も民進党の議員に限った話ではない。TPPに関しても文脈によって賛成と反対が変わる。自民党は当初TPPに反対しており、その後過去の発言を全く撤回せず賛成側に回った。逆に民進党は当初推進していたが、現在は反対派のはずである。こうした態度は当事者には極めて自然な対応で、日本人の多くに共有している。この場合説明責任を果たすと「みんなが反対(賛成)しており、そうしたほうが自分の地位の保全に役立つから」という説明になるだろう。

立場によって賛否が入れ替わるのだから普遍的なルールなど作れるはずもないし、決断に至ったプロセスを説明することはできない。だからいくら話し合いをしても無駄なのである。

あらゆる規則は例外が作られ無効化する

政治資金を規正する法律がある。規制ではなく規正だ。当時の国民がとても怒っていたのだが、政治資金がなくなると活動に困るし、政治家として旨みがないと考える議員が多く、規制する法律が合意できなかったのだろう。しかし、この規制すら守られることはなかった。数十年後、政治資金の運用は「形式的に整っていればなんでもあり」になっている。「後で面倒だから記録を隠せ」とか「11名で割ったから(ただし誰かはわからないが)形式的にOKだ」というような言い訳が堂々とまかりとおる。日本人にとってルールにはリチュアル的な意味合いがあり、徐々になし崩しになることになっている。

リチュアル(儀式)の特徴は、実際の目的と名目上の目的がずれていることにある。背景には「国民」と「議員」の間の意識のズレがある。こうした立場の違う人たちを同時に満足させるために、儀式が利用され、やがては無効化されてしまう。

玉虫色の解決策が作られる

では関係者が多くなるとどういうことになるのだろうか。

新国立競技場の建設計画はうまく仕切られなかったようだ。いろいろな人の主張を「アウフヘーベン」した結果、結局利用者を誰一人満足させられなかったからだと考えられる。いろいろうるさく言ってくる人たちの中には利用者でもお金を払う人でもない人たちが大勢いたのだろう。いわゆる外野の人が大勢で騒ぐと決められるものも決められなくなってしまうのだが、中には自分の主張が通らないと怒り出す人がいて、ステークスホルダーが意思決定から除外されてしまうということが起こる。が、これが日本でいう「政治」である。

同じことが築地・豊洲でも起こっているようだ。どちらにもいい顔をしてしまったために、観光施設が両方にできるというようなことになってしまい、豊洲側に出店するはずだった業者から反発されてしまった。一方で実際に利用する仲卸の人たちも二回引っ越しさせるのかなどと怒っている。つまり、政治の目的はみんなを満足させることであって、何かの目的に合致するような計画を作ることではない。

規則なんか最初から無視されている

そもそも、日本人は規則を嫌がるし、規則ができても骨抜きにされる。さらに規則を作っても周りからいろいろな人がやってきて後から様々なことをいうということになっている。これを避ける方法は二つしかない。一つは何も決めないことで、もう一つは秘密にして最低人数だけで決めてしまうことである。それでも納得しないひとたちには名目を作ってごまかすのだ。

こうした状況は珍しいことではなく、いくつかの要素が複合的に絡み合うことも珍しくない。

こうしたモチーフはいろいろな政治的なニュースに出てくる。これは、規則が「何かを決める」という未来にフォーカスが置かれているのではなく、今ある利益をどう分配するのかという「現在」あるいは「過去」に置かれているからだろう。

日本人が何も作れないということはないのだが、政治が介入した瞬間に話が飛躍的に複雑化する。例えば築地も政治家が介入して状況を複雑化させるまでは大した問題はなかった。しかし老朽化した建物をなんとかしてほしいと訴えた途端にこれをお金儲けに利用したいという人が湧いてきて、全く別のプロジェクトに変わってしまうことになった。銀座にある土地はお金儲けに利用できるぞと思いついた人たちがいたのだろう。

だから「ルールが変えられない」ものについては問題がない。職人技は’律儀に守られるし、外国からルールが押し付けられるようなスポーツも得意だ。例えば野球のルールには政治が介入しないので、野球がいつのまにかサッカーに変わるようなことはない。つまり日本人は個人では割としっかりとした仕事ができるのだが、集団になると途端にダメな人たちになってしまうのである。

日本の憲法はいずれも世間体のために作られて形骸化した

このような特徴があるために、日本人は自らの手で最高法規を作ることはできない。日本で憲法が作られ時期は三度ある。最初は大陸に対して日本も法律の整った国であると見せたいために作られ、やがて形骸化した。全ての財産は国が管理するということにしたのだが、ローカルルールが作られて、荘園による囲い込みが行われるようになったのだ。荘園という私的な空間を守るために武士が勃興し、やがて武士が政権を作ると、形式的に天皇をいただくようになった。

さらに明治維新では近代国家として認められたいからという理由で憲法を整えた。だが、全てを議会と法律で縛るということには抵抗が大きかったのだろう。藩閥から発展した軍は「例外」ということになった。明治維新期の人たちが生きていた間はなんとか調整ができていたが、やがて軍がわがままをいうようになり、立憲主義が形骸化して、軍隊が全国民を巻き込んで暴走した後に、全ての資源を疲弊して止まった。つまりは明治政府は憲法ではなく元老による人的な支配で機能していたことになる。つまり明示的な知識というものにはあまり重きが置かれておらず、暗黙的な知識と非公式のネットワークによって統治が行われているということになる。

こうした暗黙知による統治は昭和期に入っても続いた。平和国家として認めてもらうために憲法を整えた。これも敗戦時の記憶を持った人が生きているうちはなんとか守られていたが、そうした人たちがいなくなると徐々に形骸化し、安倍政権ではさらに形骸化が進んでいる。子供の世代まではなんとか継承されたが孫世代には継承されなかった知識があるのだろう。

自民党が真剣に議論した結果、現行憲法は骨抜きにされるべきだということになったようだ。「公共のため」という例外規定が作られようとしている。何が公共なのかというのはその時の政権が勝手に決められるということになっているので、要は決めるのをやめましょうということである。これは平和安全法制や共謀罪でもおなじみのスキームで、日本人がいかにルールというものを嫌っているかということがわかる。

法律の場合は議会の過半数を抑えると通ってしまうので、例外処理が残った規則が作られることになるだろうが、憲法は国民の審判が入る。国民は政権の例外処理を信頼しない上に、多分野党が反対するだろうから、憲法に例外規定を持ち込むことはできないだろう。かといって他に憲法を改正したい目的や外的な変化がわるわけでもない。

つまり何も決められないわけで、憲法上の議論はすべて無駄なものに終わることが予想されるのである。