冷笑と炎上の間で日本の政治は徐々に悪くなってゆく

面白い発見をした。この発見を元に、日本の政治家が変わらないのも政治家がバカばかりなのも日本人が鏡を見ないからだという説を唱えたい。

ある日気になるTweetを発見した。日本人は権力に唯々諾々と従っている奴隷思考だというのだ。多分、安倍首相のようなでたらめが放置されていることに憤っているのだろう。気持ちはよくわかる。だが疑問に思ったこともある。「自分は政権の奴隷だから決められたら従うしかない」と思っている人を見たことがないのだ。俺に政治をやらせたほうがうまく行くと考えていそうな人は多いし、政治系のニュース番組も人気がある。「政府がこんなことを決めましたから守りましょう」などという話はなく、政治家がいかに愚かでめちゃくちゃかということばかりを報道している。このブログでも「なぜ政治家は馬鹿なのか」というエントリーにはとても人気があるくらいだ。

そこで、素直にそれを聞いてみることにしたのだが、聞くときに「これはレスがつかないだろうなあ」と思った。だが、そう思った理由はわからなかった。30分ほど経って「私」が主語になるのがいけないんだろうと思った。

冒頭のツイートの「日本人は」というのは、実際には「私以外のみんなは」という意味である。つまり自分は政府に唯々諾々と従うつもりはない。そしてそれは「私以外のみんなは劣っている」という含みを持っている。つまり「有権者も他人もみんなバカ」という意味である。

だから、これが自分に向いてしまうと「私は劣っている」ということになってしまい、許容できないのだろう。だから、聞くならば「日本人は政治の奴隷ですか」というような聞き方をしなければならなかったことになる。この主語だと「私は違うけどね」という留保ができるからである。

結果的には7票集まった。「私が政治を変えられる」という人が2名いたのが救いといえば救いである。

あまりレスがつかなかったので、野党に対して冷笑的なツイートをしてみた。こちらにはぼつぼつレスポンスがあったので、特にツイッターが壊れているとか、嫌われたということではなかったようだ。

野党がだらしないとか安倍さんが戦争を従っているというようなツイートには人気があるので、政治に興味がある人は多いはずだ。では、なぜ「私」がこれほど忌避されるのだろうか。

試しに自分で同じ質問をしてみたが、答えは「私は政治を変える力を持っている」になった。実際にはそれは大変難しい作業ではあるが、社会は個人の集積に過ぎないので実際に変えられるのは個人の力だけであると言っても良い。

しかし、実際にやってみるとうまく行かないことの方が多い。地方自治体に話を聞きに行ってもたいていは相手にされないし、政治家の事務所などでも「感じ方はそれぞれですからね」などと言われて終わりになることが多い。実際に接してみて感じるのは、日本人は個人の意見をないがしろにするということだ。肩書きやどれくらい仲間がいるかということが重要だ。言い換えれば騒ぎになりそうなら対応してもらえる。よく炎上が問題になるが、これは仕方がない側面があると思う。つまり、炎上させないと個人の意見は放置されるが、いったん燃え広がると相手が右往左往することになり立場が逆転するからだ。この間がないので炎上がなくならないのだろうと思う。

だが、時々こういうことをやらないと、逆の万能感に支配されることになる。つまり何もしないで単に政治批評ばかりしていると何もしないがゆえに自分はやる気になればなんでもできると思ってしまうのである。つまり、鏡を見ない限りは優越的な立場でいられるわけである。

これは例えていえば、プロ野球で金本監督をヤジっている阪神ファンが実はプロ野球の現場では一球も打てないという現実を突きつけられるようなものである。だから「阪神は打線を充実させるべきだと思いますか」とは聞いてもいいが「じゃあ、お前はどれくらい打てるかの」などと聞いてはいけないとううことになる。

日本人の集団に対する期待と個人を信じない態度はなにも国民の間に見られるだけの態度ではない。

例えば、安倍首相は軍事的には何のプレゼンスもなく、国連で聴衆が集まらない程度の人望の指導者に過ぎないが、世界一強い国とお友達であるという理由で気が大きくなっているようだ。世界中が呆れる中で「北朝鮮を追い詰めるべきだ」と叫んで演説を終えた。これは個人(日本一国)では何もできないという気持ちの裏返しなのだろう。

この危険性は極めて明確だった。つまり、安倍首相は集団思考に陥ってくれる。つまり「アメリカがなんとかしてくれるだろう」とか「国際世論を北朝鮮避難に向けることができればあとはなんとかなるだろう」という態度になっている。日本には当事国意識はなく、北朝鮮が暴発した時に責任をとるつもりはなさそうだし、その能力もないだろう。

全体主義について見ていると「私が声をあげても何も変わらないだろう」という無関心が、やがて社会を破滅に導いてゆくというはっきりとしたストーリーが見える。日本がそうなっているとは思わないのだが、悪い兆候も見られる。若い人たちの中には、右翼的なことをいうと注目してもらえたり、左翼的な人たちを「釣れる」と考えている人がいるようだ。また、漠然と普段から右翼的な物言いをしていると政治的に優遇してもられるのではないかと考えている人もいそうだ。つまり、炎上と冷笑を繰り返すこの政治的態度は次の世代にかなり歪んだコミュニティ像を作っているように思える。

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