貴乃花親方の罪は何だったのか

日本相撲協会が貴乃花親方に対する処分を決めた、理事を解任するというのだ。理事会には解任を決議する権能はないので評議会を開いて処分を検討することになっているという。これまで貴乃花親方が情報を出さないと叩いていたマスコミは、処分が出た瞬間に「この処分はおかしい」と言い出した。さらにTwitter上にも「これはひどい」とか「相撲協会はおかしい」というようなリアクションが溢れた。

この話の表向きのポイントは、被害者側の親方である貴乃花親方がなぜ首謀者の一味である白鵬、ガバナンスの最高責任者である八角理事長よりも重い罰を受けなければならないのかというものだ。日本社会は法治国家であるという前提があるのだが、法治国家ならば「被害者側」の方が重く罰せられるのはおかしいように思える。

もっとも。貴乃花親方が処分された理由を理解するのは簡単である。貴乃花親方は村のうちうちで話し合うべき恥を外に晒してしまい村人に恥をかかせた。だから村を追い出されかけた。つまり、「貴乃花親方は村の恥を外に漏らした罪で村八分になった」と考えればよく、これは日本人なら誰でも簡単に理解できる。

このことは、日本人の行動原理を理解するためにはやまと言葉に置き換えてみると良いということを表しているように思える。ガバナンスやコンプライアンスというのは格好をつけるために用いられる言葉であって、実際には「仲間はずれ」とか「村八分」いうような大和言葉で説明ができるのが本質なのである。

スポーツ報知はこのように相撲協会の言い分を伝えている。

 高野委員長は「本件の傷害事件は、巡業部長である貴乃花親方が統率する巡業中に発生した事件。貴乃花親方は理事・巡業部長として、貴ノ岩の受傷を把握した直後か被害届の提出前、遅くとも被害届の提出後には速やかに日本相撲協会へ報告すべき義務があったにもかかわらず怠った。貴乃花親方が被害者の立場にあることを勘案しても、その責任は重い」とコメント。

だが、これはいかにも苦しい弁明だ。

報道の中には相撲協会には警察から報告が入っていたとするものがある。相撲協会は「処理は場所が終わってからいでいい」と考えており、なおかつ警察が「誰が被害者なのか言わなかった」と主張している。相撲協会は、知ってしまうと処分が必要になり金儲けの興行の邪魔になるのでやらなかったのではないかと疑いたくなる。つまり、聞こうとしなかったにもかかわらず「報告がなかったから貴乃花親方を処分した」と言っている。これは矛盾しているのではないかとも思える。

貴乃花親方は役職者として報告義務違反を犯して処分されたという説明がなされたのだが、報告義務違反を犯したのは貴乃花親方だけではない。白鵬も日馬富士も報告義務違反を犯しており、その意味では同罪と言える。いずれにせよわかっていたのに調査しなかった人は減給だけで済むが、不当に問題が隠蔽されることを恐れて報告をしなかった人が理事を解任されてしまうというのは法治主義の原則にしたがえばおかしいように思える。

力士たちは「力でわからせてやる」という世界に住んでおり、これが一連の暴力事件の温床になっている。問題が起きた時には恥を外に漏らさないという収め方をするので暴力事件がなくなることhなさそうだ。大和言葉だけで説明すると「うちうちでおさめる」のである。

しかし、この大和言葉マネージメントには限界がある。暴力が収められないと入門者が減ってしまう。だからこそ、モンゴル人に頼らなければならなくなっているのだ。白鵬はモンゴル人にも利権(親方になる権利)をみとめよと言っているのだが、これは聞き入れられそうにない。権利も認められないのに義務だけは負わされるのだから、やがて相撲村はモンゴル人に依存できなくなるだろう。

相撲協会は、外部から閉ざされた村社会に戻ることもできるし、近代的なスポーツに生まれ変わることもできる。この二者択一は日本社会に似ている。日本は民主主義国家に生まれ変わることもできるしあいまいな村社会に戻ることもできるという岐路にいる。

例えば、相撲は単なるプロレス並みの興行である。悪口のように聞こえるかもしれないが、プロレスは自分たちが単なる興行でありm、社会的な責任を追求されれば興行が立ち行かなくなることがわかっているぶんだけ抑制をきかせられる。それでも試合中の死亡事故や練習中の「かわいがり」による死亡事故などが起きているようだ。閉鎖的な暴力集団という面もファンに許容されており「そういう世界だと知って飛び込んのだろう」と思われているのかもしれない。相撲もプロレスのようにしてしまえば、NHKの中継はなくなるだろうが、興行が成り立つ程度のかわいがりも容認されるだろう。

貴乃花親方が改革をしたいのなら、「相撲は現代社会の良き構成員として」「協会側は正当な理由があり調査に協力しなかった」といって法廷闘争に持ち込めばいい。相撲協会は改革のために理事と理事長を解任し、少なくとも理事長には外から現代的なガバナンスができる人を招聘すべきだろう。相撲を近代的なスポーツにしようとするならば、親方は単に柔道のコーチのような存在になるだろう。

残念ながら国体という概念を持ち出して「相撲は桜が紋章になっており、菊の紋章をいただく皇室と並んで日本の伝統を担う」というようなことを言っているようでは、単に新しい村落構造を作るだけになってしまうだろう。

貴乃花親方が裁判に打って出た場合、相撲村の掟と日本国憲法が相撲をすることになる。どちらが勝つのかは歴然としていると思う。


さて、Twitterでメンションがあったので乱文ぶりを添削したのだが、ついでにこの文章を書いた後に何が起こったのかを補足しておきたい。結局、八角理事長は再選された。貴乃花親方の部屋では動揺が起こったのか貴公俊が暴力事件を起こした。相撲界には暴力という事件を公平に裁く裁判所のような仕組みがなく、親方衆の胸先三寸で罪状が決まってしまうことになっている。貴乃花親方は相撲協会に「降伏」することでこれを是認してしまった。これは、貴乃花親方がやったことも世論を喚起して日馬富士や白鵬への罪を重くしようとしたという行為を認めてしまったということを意味する。

これを書いた時には裁判をすれば良いと書いたのだが、実際には裁判は起こらなかった。そればかりか人治的な慣習を是認してしまったことで、暴力が隠蔽されうる体質を温存させてしまったことになる。これが直ちに相撲界を弱体化することにはならないだろうが、前近代的な体質が残ることで、中期的に相撲への入門者を減らしてしまうことになるだろう。

だがここで「貴乃花親方が愚かだった」というつもりはない。なぜならばここに出てくる全ての親方衆は相撲の利権構造に依存しており、小さな相撲部屋がお互いに緊張関係を持ちながら連携しているような状態にある。つまり、貴乃花親方が「改革」を貫いてしまうと親方の力関係が強くなり「彼に利益を独占される」危険性があると考えてしまうわけだ。このような小競り合いのプレイヤー同士の改革は、外に明らかな危機がもたらされない限り難しいのではないかと思う。

一方でこのニュースは未だに(208/4/1)ワイドショーの人気コンテンツである。暴力や相撲界の将来などという問題よりも、村の中の細かな人間関係に日本人が強く惹きつけられることがわかる。

Google Recommendation Advertisement



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です