ジャーナリストはプログラムを学ぶべき

いろいろな社会問題が出ては消えている、しかし、本質的に解決した問題があるようには見えない。これが凋落してゆくことなのかとは思う。問題が積み重なると「まあ仕方がないんじゃないだろうか」と考えるようになるのだ。

では、何が社会問題が解決しない理由になっているのだろうなと思った。いろいろ考えているうちに「日本人はプログラミングを学ぶべきだ」という結論に達した。

最近の日本では、異議申し立てをした人に対して「本人が何にいらだっているのか」ということを聞いたり考えを巡らせることはない。代わりに「今まではうまく行っていたのにお前が異議申し立てをするからおかしくなるのだ」といって我慢させようとする。もちろん我慢ができるうちはいいのだが、我慢ができなくなると爆発が起こる。これがいたるところで起きているのが現在の日本だと言える。

もちろん爆発といってもいろいろな形式がある。例えば、破滅型、立てこもり型、外からの支援型などが考えられる。破滅型とは自分が滅びることによって問題を解決するやり方だ。いじめの解決策として主に用いられる。立てこもりがたは対話を拒否するやり方で去年貴乃花親方が用いた手法である。そして外からの支援型は対立構造を変える事によって問題を解決するやり方だ。例えばSNSで拡散して世論の応援を頼るのは外からの支援型だ。対立構造が変わってしまい状況が混乱する。

いずれにせよ我慢は問題の先送りでしかなく、爆発は痛みを伴う。しかし、爆発以外に問題解決ができないのであれば、爆発は正当化されるべきだなと思う。

ここまではなんとなく分かったのだが、なぜそうなるのかということがなかなか分からなかった。考えを巡らせているうち、日本人は小さなものをミスなくこなしてそれを組み上げてゆき大きなシステムを作るのだということに思い至った。検証された小さい単位を組み上げたものが動けば、それも問題がないというように物事をどんどん大きく複雑にしてゆくのである。小さい単位がうまく機能することが前提になっているので、それが何らかの都合で動かなくなると困る。そこで「我慢させる」ということになるのではないか。

部品が複雑に絡まっている場合、小さな不具合が連鎖反応的に大きな問題になることがある。これがさまざまな問題を引き起こしているのだろう。場合によっては単純に経年劣化で疲労する場合もあろうし、重さを積み重ねるところで特定のところに付加がかかっている可能性もある。一概に何が問題とはいえないが、動かないのだから問題は必ずあるはずだ。

こういった問題を解決するには、まず問題が起きている箇所を特定しなければならない。電化製品なら部品ごとにばらして電流が設計どおりに流れているかを見るだろうし、コンピュータプログラミングならルーチンごとにばらしてみて問題を特定してゆく。

かといって、問題がある箇所を修理すればなおるというものではない。設計以上の負荷がかかっていることもあるし、想定しない信号が流れてきていることもある。場合によっては複雑化した回路を分断してシステムを組み直すこともあるだろう。

よくプログラミング教育の重要性が叫ばれるのだが、プログラミングをやっている人ならバグ取りの方法として問題特定の方法はわかっている。あるプログラムを加えて動かなくなればそれを取り出して検証する。場合によっては追加したプログラミングではなく、前のコードに想定外の不具合があるのかもしれない。だが、多くの日本人はプログラミング教育を受けておらず、プリミティブなツールボックスにも「問題を取り出して特定する」という道具は入っていないので、複雑になった問題を解決することができないのだろう。

問題の原因を検証できないと、問題が引き起こす現象そのものにこだわり続けて<議論>をつみかさねることになる。だがそれは結局「誰かが我慢すれば前のように動くはずだ」というだけのことであり実際には何の問題解決にはなっていない。

この問題にこだわり続ける姿勢は、日本でよく聞くフレーズによく現れている。その一つが「対案を出せ」だ。

「対案を出せ」もその類だろう。実際にやらなければならないことは不具合の特定なのだが、日本人は物事をばらして検証するということができない。そこでついつい「問題をなかったことにするための解決策を今すぐ提示しろ」と相手に迫ってしまう。それはジャーナリズムの世界でも蔓延している。

最近Twitterで面白いやり取りを見た。局アナがジャーナリストに対して「対案を出せ」と迫り、ジャーナリストが「自分の役割は対案を出すことではない」と言った。さらに体制べったりのジャーナリスト氏が「それではジャーナリストは常に反権力になってしまうので、そんなのは嫌だ」と付け加えたというものだ。

ジャーナリストは問題を俯瞰的に見ているのだから、全体で不具合が起きていることが分かる立場にあるし、バグ取りの手法さえ分かっていれば多分どんな問題なのかも明確に言語化できるはずである。それができないのは日本人は全体として「結果的に動いたか動かないか」ということだけを問題しており、全プログラマが最善を尽くしても不具合が起こり得るという当たり前のことが分からなくなっているからなのではないかと思う。

例えば、前回書いた沖縄の問題は、日本・沖縄・アメリカという三極構造に問題がある。日本はアメリカに貢献するといいつつ問題を沖縄に閉じ込めつつ使い分けをしている。この構造が崩れれば問題は解決するが、同時に日本はフリーライドできなくなり構造が破綻するという関係になっている。例として書いたのは中国を引き込んで三極ではなく二極構造を作る必要があった。しかし、それは同時に沖縄が当事者として軍隊を持つ必要があるという結論になる。

また、ゲームオーバー権の話は、上の人たちが生き残るために下の人たちから搾取するという人間ピラミッド構造の話だった。下にいる人たちが逃げ出さないのは、逃げ出すことが苦痛を伴うからである。しかし、逃げ出すのに憲法と国家を使ってしまったために、大量虐殺の形へと通じることになってしまった。最終的に、国を豊かにする機能を持つはずの国家が国を滅ぼしてしまうという形になった。

多分20歳代の前半くらいまでであればシステム思考は十分に身につくはずだ。しかし、現代の20歳代はサバイバルに必死になっていて新しい思考方法を身につける余裕などない。彼らは機会を奪われていることになり、「わがままな人を罰する村人」にしかなれないのはかわいそうなことだなと思った。

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