日本の村落構造に関する一応のまとめ

これまで日本の村落構造について書いてきた。最初にこのタグがあらわれるのは2017年12月なのだが、ページビューを稼ぐために時事ネタを含めこともあり

かなり複雑化している。本人も何を書いたのかわからなくなっているので、過去に考えたことをまとめた。

そもそも村落とは何で村落の何が問題なのか

日本人は社会を村落として理解している。村落は空間的に閉じられた自明の空間であり、村人は個人ではなく集団で利益の獲得を目指す。村落構造では序列がはっきりしないので、常に影響力を誇示するための競争と緊張関係がある。

実は村落構造で序列がはっきりしない理油は書いていなかった。後述するように日本人は個人を嫌うので強いリーダーシップを持った指導者が出てこない。このため中心が空白になり、そのために権力抗争が横行すると考えられる。これは中空理論として知られており、ロラン・バルトと河合隼雄がそれぞれ別に考察しているとのことである。

村落のメリットはその中に安住していれば経済的な見通しが立ち安心感が得られるというものである。この安心感は代えがたい。村を出た人がこれを再構築することは難しいほどだ。

村落の欠点は変化に耐えられないということである。村落が外部からの変化にさらされて経年劣化を起こすと村人に利益を分配できなくなりいろいろな問題が起こる(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)ことがある。さらに村落を出てしまった人のマインドが変わらないと村落で得られていた安心感が得られなくなり、個人が言葉では表現できない不安に直面することもある。

この安心感が得られないことは日本人にとって問題が大きいのだが、この問題もあまり中心課題としては触れてこなかった。もともと全く意思疎通が不可能な他者や急激な変化に対応してこなかったため、日本人はリスクを極端に嫌う。不確実性を避ける傾向はG.ホフステードによって観察されている。しかしながら、どうしてもリスクを受け入れなければならなくなると、今度は「安全神話」を作ってリスクについて考えなくなってしまう。日本人が美しい山や川の代わりに作る理論は多かれ少なかれ安全神話を含んで硬直化する。

もう一つのデメリットは個人のなさである。村落で個人が立ち現れるのは村八分にされた時(貴乃花親方事件小室哲哉不倫報道問題)だけである。つまり、個人というのは罰なのである。個人の意見が取り入れられることはなく、社会的な制裁の対象になる。今回の考察の中ではこの個人のなさを問題視している。なぜならば西部邁の自裁権問題で考えたように個人で考えることは創造性の第一歩になっているので、個人がいないということは社会から創造性が奪われるということを意味するからである。さらに、社会を作るための起点も個人なので、個人が意見を持たないということは社会が作られないことを意味するからである。

最後のデメリットは権力構造が安定しないために起こる恒常的な闘争だ。最近では「マウンティング」と呼ばれることも多く、窮屈な人間関係やいじめの原因になっている。

村落とマウンティング

村落内部の序列は意思決定に関わる声の大きさで決まる。そして序列を決めるのは当人同士ではなく周囲で見ている人たちである。このため村人は当事者同士だけではなく他の村人からどう見えているのかということをいつも意識している。こうしたことが起こるのは村にリーダーがいないからである。例えば、クラスでいじめが横行するのは強い規範意識でクラスを引っ張るほどのリーダーシップがある生徒がいないか、先生が監視者・仲裁者としての役割を果たさないからなのだ。

ときには、村人に自分の影響力を誇示するために合理的ではない要求を出して人々を罰したりすることがある。これを序列構造の下方から見たのがいじめである。こうしたいじめは例えば主婦や学生の間でも恒常的に行われている本質的な行為だし、職場では権能を利用したセクハラやパワハラがなくならない。現在ではこれを「マウンティング」と呼ぶことがある。学校は学問を教える場ではなくいじめを通じたマウンティングを学ぶ場所になっている。(いじめをなくすにはどうしたらいいか)いじめをなくすためにはこうしたマウンティング構造そのものを解体する必要がある。

しかし、はあちゅうさんの童貞いじりで見たように村落構造もその行為の意味も当事者には意識されないので、日本人はそこから抜け出すことが本質的にできない。はあちゅうさんは女性としてこうしたマウンティング社会の被害者だといいつつ、一方では性的魅力や経験に欠ける男性をいじめていたのだが、それを意識して同じ問題であると捉えることはできなかった。いじめの構造は社会を勝ち抜いてきたはあちゅうさんの中に完全に内在化されていたのである。

言語化して意識されないならいじめをなくすためには社会構造そのものを解体するしかない。つまり、パワハラをなくすためには会社を解体しなければならず、クラスのいじめをなくすためにはクラスそのものをなくさなければならないということになる。

新しい村落の構築

村落は所与のものであり、日本人は価値を提示して新しい社会集団を作ってこなかった。そもそも個人がないので新しい価値観が提示できない。つまり、村落の価値観や安心感の源は言語化されない。

安心感を無理に作ろうとすると原理主義的な極端な物語が生まれる可能性がある。不確実性を無視した物語を作ろうとするからだ。さらに、物語は自分の中から生まれてきたものではなく、貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題で見たように過去の主張から大きな物語を作るか、創価学会と共産党で見たように外国の先端の思想から表面的な部分だけを持ってきて自分たちの物語に付け加えることになるからだ。

もちろん物語の構築にはメリットもある。例えば個人が好き勝手に解釈すればいいのでコンフリクトが表面化しない。さらに矛盾したものを糊のように含むこともできる。例えば、憲法改正議論で見たようにアメリカへの軍事的依存を前提としつつも自分たちで憲法を書き換えたから独立国であるということも言えてしまうのである。つまり、全く同じ内容をコピーして書いたとしても「アメリカに言われて書いたのと自分で書いたのでは違う文章だ」といえてしまう。

一方で、本質的な理解を伴わないので村人の理解を伴わない。だから複雑な問題を扱えないという問題も抱えている。安全神話によって物語を構築してしまうと、扱えない問題を全て排除しなければならない。現在の日本には安全保障問題だけを見ても「日本は神の国だから絶対に勝てる」「憲法第9条があるから外国は攻めてこない」「アメリカが背後にいるから中国には絶対に負けない」という三つの安全神話がある。これは、北朝鮮が「核兵器さえ持てばもう安心」だと思うのに似ている。「地震の可能性を排除してしまえば原発事故は絶対に起きない」と考えるのにも似ている。また安倍首相が「アンダーコントロールだ」と宣言したから福島の廃炉作業がうまく行かなくても特に気にならない。日本人は福島の事故からは何も学ばなかったが、これは私たちが持っている基本的なリスク対処方法だからである。

仮説を先に立ててしまい現実をそこに合わせようとするのだから現実にうまく対応できない場合がある。例えば、他者との区別のために「自分たちで決める」ということを優先すると、自分たちだけが決められるのは結局滅びることだけなので、三島事件および西部邁と自裁権利で見たように急速な崩壊に向けた欲求が現れることにもなりかねない。

議論の関心と焦点

村落でそもそも所与のものである環境と利益分配構造が関心を集めることはない。しかし、議論のオブジェクティブ(対象物)は環境の規定と利益の確保と分配なのだから意識にずれが起こる場合がある。意識がずれると当事者同士が何を話し合っているのかということがわからなくなり、他者からも理解されないので議論がますます錯綜する。

例えば、議論が村落的なマウンティングに使われることがある。つまり吉田茂と岸信介の憲法議論TPP論争で見たように「自分たちは聞いていないからそれには反対だ」などと言い出すのだ。しかし、こうした論争も対象物に対する議論を偽装するのでますます本質がわからくなる。

日韓の慰安婦問題とアメリカの存在で見たように、村落の争いは実は当事者に向けて行われているのではなく村の衆に向けて行われていることもある。()こうした村落的議論は村ではなく例えば国際的コミュニティでも行われることがある。そのため、何について争っているのかよくわからないことがある。

落とし所のない議論の中には議論の本当の関心と対象物の間にずれがあることがある場合が多い。

集団と個人

価値観による社会統合ができない日本人には損得勘定をめぐる集団しか作れないのだが、利益追求は集団を通じて行われる。利益追求は時間的空間的に個人が得られる利益を最大限にしようということになる。これが崩れると組織の統制がとれなくなる。利益還元には時間的に幅があるので変化に耐えられない(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)のだ。また、利害に関係がないとなると、集団に関心を寄せなくなる。するとプロジェクトから人が逃げ出すか(東京オリンピック豊洲移転問題)冷笑とバッシングが起こる(荒れるTwitter)ことになり議論がますます起こりにくくなる。もともと議論の目的が問題解決ではなくマウンティングと利益確保だからである。

日本人は集団を通じた利己主義によって組織統制を行っているのに、利己主義が非難されるのは、集団が経年劣化すると集団を通じた利益追求ができなくなり誰かを犠牲にしなければ存続できなくなるからだ。

村落のガバナンスを取り戻すためにはガバナンスができるように集団を縮小して利害関係を単純化するか、個人が価値観をすり合わせて集団を作る「社会」へと移行しななければならない。このときに硬直的な原理を取り入れてその場しのぎの対応をすると変化への対応はますます難しくなり場合によっては集団が破綻することがある。

出口の一つは個人が価値観を言語化して集団で共有することだが、日本人は本質的に個人を社会に向けて打ち出すことを嫌う。

例えば、日本人は社会の一員になるときに個人を捨てなければならない。Twitterを匿名化するか一切の政治的な意見をつぶやかないようにするというのが普通だ。このため日本人は表に出る人に対する潜在的な恨みを持っている。

経済的に利益をもたらしてくれる間はちやほやするが、一旦気に入らないことがあると集団で圧力をかけて社会的に葬るか潰してしまう(小室哲哉の不倫騒動)ことになる。またテレビでもいじめがエンターティンメントの一部になっており(浜田雅功の黒人フェイス問題ベッキーの不倫いじり問題)こうした集団的な圧力には商品的な価値がある。日本は集団に同化して言葉を失った代わりに集団で無言の圧力をかけて個人を潰してしまう。

すると、個人が村落構造を変えるための議論ができなくなり、村民はますます不安にさらされることになる。不安の正体は先行きが見えないことではなく不安を言語化して客観的に捉えることができないという点にある。

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“日本の村落構造に関する一応のまとめ” への2件の返信

  1. 毎回楽しみに拝読させていただいています。

    http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54234?page=3

    外からこういう日本人の言動をみると、その本質は責任回避にあるようです。
    問題を解決する気がない議論、内輪に向けた言い訳のための議論もそうですし、個人を出さないのはそれが責任につながるからです。

    学校でのいじめマウンティングも、責任を回避しつつ、言語化されない権力によって利益を得る方法を学んでいると言うこともできるかもしれません。幼少期から、トレーニングを受けている。

    ただ、この姿勢は問題の先送りに大いに資することはあれ、解決には全く役に立ちません。責任回避ということは、誰も当事者意識を持って問題解決にあたらないからです。

    1. これを書くにあたって前に書いたものを見直したんですが、まあ読みにくくてびっくりしました。そんな中、辛抱強くお付き合いいただきありがとうございます。

      いつもながら鋭いご指摘ですね。今回のお話では「責任」は「リーダーのいない中空構造」と「個人がない」にかかります。

      リーダーがいないのは責任を取りたがる人がいないからとも説明できますが、個人がいないとなると責任を取りようがないということも言えます。集団と人間が不可分だと個人がなく、個人がないと権限が明確でないので、そもそも責任を取り得る個人が存在しえないということになるからです。

      個人がなく責任分担が曖昧で、誰も原因究明しないとなると、例えば「疫病が流行ったから誰かが呪詛をしたとして犯人をでっち上げる」か「環境を捨てるために遷都する」みたいなことになるかもしれません。こんな中で手を上げて原因究明をする人はいないと思います。できないと結果論で生贄にされかねないですから。

      そういう意味では正のループ(悪循環)があるのかもしれないですね。

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