自己責任を主張して記者を罵倒する大臣のビデオがさらされる

今村復興大臣という方が炎上している。

ある記者が(一部の報道ではフリーだという)福島県から自主避難している人たちの困難を訴えているのだが「そんなものは自己責任」だと吐き捨てた上に、最後には記者をボールペンで指して罵倒した上「2度と来るな」と罵倒して去ってゆく。ビデオはまだ11万回程度しか再生されていないので「炎上」とまではいかないかもしれないが、まあネットで騒ぎになればテレビも取り上げざるをえなくなるだろう。

ピンときて調べてみたが、この人も安倍さんのお友達だった。つまり日本会議や創生日本などに所属する「保守政治家」なのだ。さらに九州(佐賀県)の選出だった。自分が九州出身なので「九州の政治家はこういう居丈高な人が多い」とは思われたくないのだが「異論は認めない、お前黙っていろ」みたいな人が多いのは確かである。

自称保守政治家には2つ特徴がある。1つは政治脳(PQと言っても良いかもしれない)が極めて単純で複雑さを扱えないという点だ。民主主義というのは多様な価値観をぶつけ合う作業なのだがそれを扱うだけの能力がないのだ。もう1つの特徴は自分の欲望には忠実という点である。日刊ゲンダイの過去記事「今村復興大臣の”怪しい財テク”……」が蒸し返されていた。安倍政権が復興事業で大切にしているのが、被害にあった方々ではなく、企業であることは明白だ。籠池さんというお友達でさえ平気で切り捨ててしまうのに、原発事故で被害にあった人たちなど気にするはずなんかないのである。

「身勝手な人」をみたら保守なんだなと思えばいいし、保守政治家を自認する人を見たら「この人は身勝手で相手への思いやりなどない人なんだな」と思えばいい。ボスにへつらい、目下を切り捨てるのが保守なのだろう。ニュースの中では「何かに頭を下げる」絵が使われているのだが「国旗に頭を下げている」という説がある。国家とは自分たちが利用できる権威であり、決して有権者のことではないのだろう。有権者は彼らにとっては統治して搾取すべき対象なのだ。

だから「保守をみたら泥棒と思え」だと考えて間違いはない。

一方で。ジャーナリズムを取り巻く環境は大きく変わったなと思う。この質問をした人はフリーのジャーナリストだということになっているそうだ。こうした人たちが例えば「売名して本を売りたい」と考えて、玉砕覚悟で記者会見に乗り込んだとしても、いったんフッテージの取得に成功さえしてしまえば、ある程度名前が売れる。テレビ局はフリーライドされることを嫌っていて(自分たちがフリーライドするのは平気みたいだが)名前を出さないが、フリーの人たちが独自ネタを掴んでしまえば、要求に応じざるをえなくなる。

ポイントになるのはすべてのジャーナリストを抱き込むことなどできないということと「安倍側」につくのがどれだけトクかという点だ。寿司友と指摘されたジャーナリストたちは世間の反発にさらされておりだんだん元気が無くなってゆく。どう考えても無理筋の擁護すらできなくなってしまうからである。一方で「反安倍」にいたほうが記事が売れ、世間の共感を集めるという状態になってきているのではないだろうか。

つまり、ジャーナリズムの世界ではテロを働いたほうが割がいいという世の中になっている。だが、実際に保守政治を破壊しているのは安倍首相なのだろう。このままどんどん破壊行為が続いて「保守という名前を使って周囲に威張り散らす」ような人たちが消えてなくなればいいんじゃないかと思う。そうでもしないと「魚食文化のような先祖の暮らしや伝統を次世代に継承して行こう」みたいな本物の保守政治家が出てこれないのではないだろうか。

 

テレビの政治番組の一番の嘘

先日、島田寿司夫さん(確か)が司会をなさっている「日曜討論」を見た。介護を扱った回だったのだがとても面白かった。女性で介護の現場代表みたいな方が2名出てこられたのだが、ポジションが対照的だった。お一人は声を震わせつつ政府の方針が間違っていることを訴えようとされているのだが、もう一人の(どうやら介護ではなくそのコーディネートをしているらしい)方はサバサバとしていた。

しかししばらく聞いているうちにこの「サバサバ」が実は絶望に裏打ちされているものだということがわかってくる。厚生労働省は現場を知らず、財務省はお金をどれだけ減らすかということしか考えていないと考えており、何か「改正」があったとしても、それは金減らしの改悪だとしか思っていないようなのだ。何回か「やっぱり現場のことをわかってくれていなかったんだなあということがわかる」とおっしゃっていたように思う。

この人がサバサバしているのが介護の現場ではなくコーディネートをしているからだ。介護というのは誰が担当になるかでサービスの質が大きく変わるそうなのだが、それを第三者的な視点で見ている。だから決して介護の人たちが大変なんです、なんとかしてくださいというような被害者的な視点には立っていない。しかし、サービスを組み立てる立場にいるので、制度がどのような意図で変更されているかということも冷静に分析できてしまうのだろう。「現場は淡々と日々の業務をこなすだけです」とおっしゃっていた。

このような態度に出られると「政府の福祉政策は100年安心なのだ」という物語をプロパガンダしたい人たちはとても困ってしまう。何を言っても「はいはい」みたいな感じでしか聞いてもらえないからだ。しかし現場に近い意見なのでとても説得力がある。決めつけるように話すので「いやそれは違いますよ」という発言が出るのだが、それは虚しく響く。もう責めていないからだ。

この女性の破壊力は、テレビの政治番組をある意味無効化してしまう。普通政府側は「うまくいっている」といい、カウンター側は「いやうまくいっていないけど、私たちがやったら状況は変わる」という。この呼応があると「ああ、なんとかなるのかもしれないな」と思うと同時に、私たち全てが政治に興味を持つべきなのだという印象を持つ。つまり、関心を持てば状況は変わるという見込みが生まれるのだ。

しかしながら、実際には「政治はいろいろやってくるけど、現場などわかってくれないし、私たちの声は届かない」と感じている人が意外と多いのではないかと思う。もともと最初から何も期待していないと考える人を合わせるとかなりの数に昇るのではないかと思った。つまり、政治番組がどちらかの陣営に分かれているというのは、国民の実感にはあっていないわけで「壮大な嘘」ということになる。

アベノミクスがうまくいっているというのは嘘だが、国民は頭が悪いから安倍政権の危険性がわからないはずというのも嘘である可能性も高いのだ。だから国民は政治に関わるまいとする。

さて、ここから「内閣支持率」の調査に考えるに至った。メディアの内閣支持率というのはRDDなどの安価な調査方法で調査されているのだが、これに「応じてもらえない人」の割合はどれくらいいるのだろうかと思ったのだ。例えば10年前に100件集めるのに200コールの発出で済んでいたのが1000件になったとする。このうち66%が支持で、37%が不支持だったとしよう。しかし実際の支持率は大幅に下がっていることが予想される。つまり電話をガチャ切りした人たちは「自分たちの声はどうせ届きそうにないから、何も言わない」という人かもしれないのである。

この電話に出なかった人、あるいはガチャ切りした人たちがどういう人なのかはもはやわからないのだが、一定数集めるためにどれだけコールしたのかという数字も合わせて公表しないとフェアな調査とは言えないのではないだろう。

だから、本来の政治討論番組には「難しくてよくわからない」とか「仕組みはわかっているけどもう何も期待しない」という人こそを呼ぶべきなのではないかと思う。とてもつまらない番組ができるとは思うのだが、それが多分リアルなのではないだろうか。

 

なぜ安倍政権で忖度が横行するのかを探るヒント

こども保険のニュースが断続的に出ている。そこで記事を読んでいて時事通信の記事に面白い記述を見つけた。

下村氏らが動きだしたのは、日本維新の会が改憲項目の一つに教育無償化を掲げ、首相が前向きな姿勢を示したのがきっかけ。

記事は、小泉進次郎議員が仲間と取りまとめたアイディアの賛同者を集めるために、下村さんたちにピッチに行ったという内容なのだが、面白いのは「忖度の現場」がさらっと書かれているということだ。気がつかない人も多いのではないかと思えるほどさりげなく描写されている。時事通信のようなオールドメディアの人たちにとっては当たり前のことなのだろう。

だが、この現場を捉えることで、忖度と言われている現象が何であって、何が問題なのかということが分析できると思う。

記事によると下村さんたちは教育国債を押しているようだ。これは負担増が選挙に悪影響を与えることを下村さんらが知っているからだろう。自民党は国民を説得して態度を変えさせるのが苦手で代わりに水面下で物事を自分たちの有利なように運びたがる文脈限定型の意思決定を行っている。だから、負担増につながる保険は政治的な壁が高い。一方で安倍首相は明確な指示を与えないままで「教育の無償化いいんじゃないか」と仄めかしたという状態になっている。

ここから下村議員たちは「提案」を行うのだが、すでに二つの要望が織り込まれている。それは「国民は負担を嫌がる」ということと「安倍首相には気に入られるような提案にしたい」というものである。さらに「民進党の提案を潰したい」という思惑もあるだろう。ポイントになるのは安倍首相は方針を明確に示していないということだ。つまり、本当に教育を無償化したいのか、それとも維新の会のご機嫌をとっただけなのかわからないのである。だから下村議員たちはそれを「想像で補っている」のである。

うまくいっている限りにおいてはこの関係はすべてのメンバーを満足させる。下にいる人たちは自分たちが組織を動かしているという有能感に浸れるし、上にいる人たちは自分に気にいる提案ばかりが持ち出されるから上機嫌で決済することができる。相互依存(甘え)がうまく成り立っている状態だ。

一部で忖度は「指示がない命令だ」というような言説が出回っているのだが、日本の場合には相互のあやし合いという側面があり、必ずしも「命令」だという意識はないのではないかと考えらえれる。

もし安倍首相が自分のプロジェクトを強引に進めたいタイプであればこうした「自分が組織を動かしていると思いたい」人々の機嫌を損ねることになりかねない。安倍首相は自分たちの周りをイエスマンだけで固めているので大きな混乱が生じている。例えば稲田防衛大臣のような無能な政治家が安倍首相の周辺が描いためちゃくちゃな振り付けにしたがって安保法というダンスを踊るとするととんでもないことになる。だが、その周りにはもう少し曖昧な人たちがいて、それなりの調整機能が働いている。だが、その関係は極めて曖昧であり「読み間違い」や「誤動作」を起こしかねない。

誤動作の一つは、愛国を唄う支持者たちが虐待まがいの教育者で、詐欺まがいの行為を役人に強要していたという例に端的に現れている。安倍首相は慌てて関係を切ったのだが、大炎上してしまった。また妻もコントロールできないので遊ばせていたところ、実はとんでもないプロジェクトに首を突っ込んでいた。公私の境が曖昧で自分の理想のためには手段を選ばず、善悪の判断もつかない。公務員を選挙に稼働したと騒ぎになっている。

「一事が万事」というが、実は下村議員もマネジメント能力には問題がありそうだ。小池都知事と東京都連の問題を解決できておらず、公明党との関係にひびを入れている。小池都知事は自民党をやめたと言っているが「誰も離党届を受け取っていない」という状態になっている。混乱は極めて深刻で「出て行けるもんなら出て行ったらいい」と記者の前で口走る国会議員さえ出ているそうだ。無能なマネージャーが組織を掌握できないと問題が出てくるわけで、却ってボスのご機嫌をとる必要が出てくる。これがさらに組織がガタガタにさせるのだ。

つまり、仄めかしに近い漠然とした指示を出す弱いリーダーと猟官を狙い身勝手なダンスを踊りたがる官僚的な組織があるところには、今日本で言われている「忖度」が横行することになる。しかしそれは「忖度」に問題があるわけではなく、組織のグリップが取れなくなっているところを「非公式なコミュニケーション」で補っているところに問題がある。だから「指示した・指示していない」とか「言った・言わない」が問題になり、なおかつ誰も責任を取らないということが起こるのだ。

これに加えて、痛みを伴うような改革ができない点にも問題がある。小泉議員らの提案は国民の負担増を求めるので、当然政府与党も引き締めを図り有権者・納税者を納得させる必要がある。しかし国民は冷めた目で政治を見ており「負担が増えないなら少々めちゃくちゃでも放置しておこう」と考えているのではないかと考えられる。そもそも厳しい意思決定はできない。また、組織は「自分たちの好き勝手にさせてくれるから」という理由で曖昧な指示しかしないトップを担いでいるのだから、組織はなりゆきのままで漂流することが予想される。

つまり、安倍首相が危険なのは彼が戦争ができる国づくりを目指しているからではなく、政府が無管理状態になった挙句、問題が次から次へと出てきて何も決められなくなってしまう可能性が高いということなのだ。すでに「言った言わない」が面白おかしくワイドショーネタになるような状態が続いている。日本は重要な局面で意思決定ができずさらに漂流するかもしれない。

 

街から魚屋さんが消える訳

先日エイプリルフールネタで、東京で刺身が禁止されるという話を書いた。そんなことはありえないだろうという前提で書いたのだが、どうもそうではないようだ。

豊洲の最大の汚染源は「ばい菌が繁殖しかねない魚」なのだから魚を禁止してしまえばいいのだというのが話の筋だ。そんなことは本末転倒なので「築地は汚い」という人のカウンターになるだろうと考えたわけである。

魚食について気軽に考えてしまった理由は近所に魚屋があることが影響している。若葉区には石毛魚類という魚屋があり、銚子漁港の魚を卸して公設市場のようなところで売っているのだ。高齢者はスーパーの魚には満足できないので、こうした魚屋に需要があるのだろう。豊洲の移転の問題に都民ほどの切実さを感じないのは、千葉市では産直の魚が気軽に食べられるからなのである。

しかし、他の地域ではこれはあまり笑えない話だったようだ。考えるきっかけになったのはTwitter上の「うちの近所から魚屋がなくなった」というツイートである。

近所から魚屋が消えれば、当然築地市場も縮小する。いろいろ調べてみると築地はピーク時から比べると1/2程度の取り扱い量になっているというエントリーも見かけた。豊洲移転は魚屋が消えてゆく駄目押しにはなるが、直接の原因ではないことになる。

だが、これは政府の陰謀ではない。実は消費者のニーズに応えた結果らしい。消費者は多くの品物が一度に手に入るスーパーマーケットを好んでおり、商店街での買い物を面倒だと感じている。この地域でも商店街は消えつつあるが、原因は駐車場の不足だ。働く人が増えて買い物の頻度が減り、多くの荷物を運ぶためには車が必要になるということだ。一度決めた区割りは実質的に変更できないので、都市計画は消費者の変化に対応できない。そこで空洞化が起きてしまう。空洞化したところには小口のスーパーマーケットが入るが加工食中心だ。人件費を削減しているから工業製品の価格は抑えられるが、生鮮品を手に入れるためには車が必要になる。

効率で収益をあげるスーパーも鮮魚を取り扱いたがらないし、消費者も面倒な調理を嫌う。このため、マグロ、サーモン、イカといった管理が簡単な魚が売れるようになり、自分で「三枚におろす」必要のある魚が敬遠される。このようにして魚の家庭内調理は敬遠されてゆくのだ。

冗談のエントリーでは「東京オリンピックを前にアジア的な魚食文化は後進的で恥ずかしい」と書いたのだが、実際には「面倒で手がかかり不衛生に見える」魚は避けたいという消費者の感覚が魚を遠ざけていることになる。

だが、魚が敬遠されているのは、消費者が魚の味を嫌うようになったからではなく、魚の料理が面倒だと感じる人が増えたからである。水産庁のホームページでは水産資源の二極化の進行が報告されている。つまり、外食で使われる魚の需要は堅調なのだ。

このように魚食文化は変化しつつある。大量に供給できるサーモンなどが寿司ネタとして提供されているのだ。バンダイの調査(添付はPDF)によると、好きな寿司ネタランキングは、いくら、マグロ、サーモン、タマゴ、エビ、納豆の順番らしい。そもそもかつては子供が気軽に外で寿司を食べるということは考えにくかったわけだから、魚食文化は広がっていると言える。一方で、伝統的な大衆魚とされていたイワシやお祝いの代名詞だったタイは忘れさられてしまうかもしれない。こうした魚は骨を避けて食べるのが面倒だ。

中国などとの間で魚資源の獲得競争が起きて魚資源の枯渇も心配されているのだが、これは中国が日本に近づいているということもできるし、日本の魚食文化が単純化されている結果とも言える。つまり日本側でも「安く手軽に魚が食べたい」と考える人が増え、仕分けや調理が面倒な近海魚が淘汰されかけているということになる。

もともとは冗談から始まった話だったのが、意外と深刻な変化が起きているようだ。これを考えてゆくと、豊洲・築地の問題は、現代的な魚流通の要請に応えつつ、観光資源や伝統文化をどう守ってゆくかというテーマになることがわかる。これは伝統的な文化の継承を政治の根幹に掲げる保守主義の政治家にとっては重要な課題になりえるはずで、結果的に日本の保守主義の薄っぺらさを端的に示していることがわかる。

有害物質を生成していた場所に食べ物を扱う市場を誘致する感覚が政治家として不適格だが、伝統的な魚文化を「単に汚いもの」として切り捨ててしまったというのも信じがたい暴挙と言えるだろう。

巻き込みリプを嫌う人たち

Twitterの仕様が変わり「巻き込みリプ」が増える懸念があるということが問題になったらしい。ちょっと不思議な騒動だと思ったが、これを考えて行き着いたのは日本のコミュニティの特徴だった。どうやら個人主義と集団主義が入り混じっており、円滑にコミュニケーションをとるためにはこれを意識して使い分けなければならないということなのではないかと思う。さらに考えてゆくと社会で円滑にコミュニケーションをとるための経験と知識が失われつつあり、新しい形を模索しているのかもしれない。

巻き込みリプというのは、調べたのが正しければこういうことのようだ。AさんがBさんと話している。Cさんがやりとりに加わりAさんが抜けた。しかしAさんとBさんの名前が残っていると、Aさんにも通知が行く。これを巻き込みリプといい「迷惑行為」だとみなされるという。

これが問題になるのは、Twitter上の会話がそれほど愉快なものではないからではないかと思った。もし「そうですね、すばらしいですね」という意見だけであればそれほど問題にならないのだろうが、クレームなどの場合には不愉快な体験を拡散してしまうことになる。

だが「不愉快仮説」だけでは解決しない。そこで、そもそも同質ではない人たちと会話をすること自体に苦手意識を持っている人が多いのかもしれないという仮設に行き着いた。フォロー・被フォローの関係でやりとりしているうちはある程度の親密さが確保されるのだが、これがワンホップするだけで「知らない人」になる可能性が高いからだ。つまり、Twitterでは日本人が持っていた、集団主義と個人主義を使い分けるというやり方が通用しないのだ。

知らない人を不快に思う態度は、子供などでによく見られる。多分コミュニケーションとしてはある程度の緊張が伴い、それに耐えられないのだろうし、自我が発達していないので何を主張して何を引くべきなのかということが分からないのだろう。

例えば、かつての日本人は敬語を使うことで距離を置いていたのだが、そうした距離のとり方も理解されていないのではないだろうか。

公共圏での距離のとり方は日本独特のもので、集団主義的傾向の強い韓国人や中国人たちからは「冷たい」と感じられることが多いようだ。韓国人は日本人に対して「この人とはとても仲良くなれた」と感じたあとで裏切られた感覚を持つことが多いという話を聞いたことがある。日本人には「親密な態度を装っているが実は距離をとるためにそうしている」だけという場合がある。

一方で意見調整型のコミュニケーションは西洋系の人たちからは「遠慮しあっていて」正直ではないとみなされることがある。相手の意見を聞いているだけのように見えてしまうようだが、実は聞き返されることを期待しているということが分からないのだ。

つまり、日本人が距離をとってばかりというのも間違っている。古くからある職場ではかなりあけすけな意見が飛び交っているはずで、上から下に対するものもあれば、下からの突き上げもある。このため旧来の日本は稟議書社会で下からの提案を上が決済することになっていた。最近あった、三越・伊勢丹での社長放逐もその一例だそうだ。上からの改革を労働組合が嫌ったのだ。

つまり、古くからあるコミュニティを知っている人は、うわべだけで距離をとったり、下から自分の意見を通したりというように、形式的な関係と本音をうまく使い分けてきたということが分かる。集団主義の体裁をとっていながら、実はとても個人主義だったり、やはり集団主義的な行動が求められたりするわけだ。つまり、明示的な関係と暗黙的な関係をうまく読んで成り立っている社会なのだ。

ここからTwitterで個人が情報発信するというのは、日本でこうした複雑な社会が壊れつつあり、個人として意見形成したり、集団を形成したいというニーズがあるこことが分かる。

しかしながら、明示的な個人主義を体得していないままでこうした情報空間に放り込まれる(自ら進んで参加しているわけだが)さまざまな軋轢が生まれるということになる。

Twitterは、自分の意見を押し付けてくるが何を言っているのかさっぱり分からない人を良く見かける。経験を共有している集団では自分の意見を表明できなくても、周囲が補ってくれる。また共有された価値観のセットも豊富にあるので意見を形成する必要すらない。こういう人が裸で個人主義社会に突入するとこうなってしまうのだろう。

その意味では「Twitterなど無駄」ということもいえるわけだが、スピリチュアル的に言えば「人生は修行なのです」ということになる。つまり、壮大な路上教習なのかもしれない。

 

日本のお笑いはなぜくだらないといわれるのか

はっきり言って、エイプリルフールなんてウザいだけの行事だと思っていたのが、今年はちょっと状況が違った。Twitterのタイムラインに朝から厳しめのツイートばかりが並んでいたからだ。「朝生」の森友問題で興奮した人が多かったようである。そこで、ちょっと場を和ませたいなあと思って嘘ツイートとネタ投稿をしたのだが、当然のことながらタイムラインの緊張を和ませることはできなかった。

そこでいろいろ考えているうちに、茂木健一郎と松本人志氏のお笑い論争にゆきあたった。「なぜ日本のお笑いは面白くないのだろうか」というものだ。

それを考え出すと「よいお笑いとは何か」について考えなければならないのだが、今回の議論を聞いていると「よいお笑い」に関する理論的な構築は全くといっていいほどなされなかったようだ。茂木さんは最近でも「小沢一郎が民主党に復帰すると日本がよくなる」という何の裏打ちもないネタを披露しており、本来たいした学者ではないのかもしれない。これが議論が成り立たなかった原因だろう。

実は現在のTwitterの状況は「よいお笑いとは何なのか」を考える上で大きなヒントを与えてくれる。それは緊張だ。この緊張が不景気からきていることは間違いがない。だが、安倍首相とそのお友達は国家の私物化計画を着々と進めておりデタラメな理論で攻めてくる。それを不快に思っている人たちが騒ぎ、不快に思っている人たちを不快に思っている人たちが反撃するという状態である。つまり、政治は人々に緊張をもたらしているが、解消の糸口がないのだ。こうした極端な状況下でなくても、社会は緊張に満ちている。そこで笑いが必要になる。群れが窮屈だとそれだけで緊張が生まれるのだ。

では、笑いとは何だろうか。犬をくすぐると犬は逃げるかくすぐられても気持ちがいい場所を当ててくる。くすぐられるのが嫌だからだ。しかし人間は別の反応を示す。それは笑いだ。つまり、笑いには緊張の緩和という生理的な目的があるのだ。これは人間が群れで生活しており、逃げ場がない空間で緊張を処理する必要があったからだろう。Twitterも逃げ場がない情報空間を作っているが、人間にはそれを緩和するための手段をまだ獲得していないのだ。

つまり、笑いの基本構造は、緊張とその緩和であると言える。

日本のお笑いももともとは西洋喜劇の流れを汲んでいる。悲劇が劇空間が消滅することで緊張を緩和する一方で、劇中で緊張が起きて劇中で解消するのが喜劇である。例えば「フーテンの寅さん」もこのフォーマットに則っている。寅さんが恋に落ちて緊張する。また、マドンナも何らかの問題を抱えている。これを寅さんが解消すると見ている人たちはほっとできるだ。だが、寅さんは必ず振られるので劇空間が消滅して、緊張は完全に消滅するのだ。

だが、平成期に入って「群れ全体が緊張から解き放たれる」という笑いと並んで台頭したのが弱い人を叩いて笑いを取るという「いじめ型の笑い」だ。いじめられている人をみることによって「自分が攻撃対象でない」ことを知り、なおかつ生活で感じたストレスのはけ口にするというタイプである。いじめられるのは、知的に劣っている人や、見た目の著しく崩れた女性などである。これは「競争意識」に基づいて、かなり緻密に計算されている。

いじめ型の笑いは他人の犠牲を必要とする。だから笑いとしては低俗である。また、いじめによって緩和の緊張は起こらない。単に緊張が持続するだけである。

もちろん、その他の笑いも残っている。例えば権威を持っている人(校長先生)の口調を真似て見せるのには権威がもたらす緊張を無効化する役割があるわけだし、みんながもやもやしていることに言葉を与えて「腑に落ちる」形にするお笑いもみかける。中には力技で「そんなの関係ねえ」という人もいる。これらはすべて緊張の緩和に関連している。ダチョウ倶楽部では「キス」が緊張緩和に役立っている。

これらがすべて「くだらない」のはどうしてだろうか。それは、緊張緩和というオブジェクティブに日本人があまり関心を持たないからではないだろうか。関心は手段の緻密化に向かう。大元の原理には関心を向けず、精緻化に心を砕くのが日本人なのだ。そこで、自動化が起こってしまうのだろう。緊張緩和で笑いが起きたとしても「なぜ笑ってスッとしたのか」ということは考えず、次も同じ動きをしたら同じ感情が得られるのではと感がてしまうのだ。このため、一度流行ったネタを繰り返しやらされて消えてゆく芸人は多い。それは、笑いに理論的な裏付けがないからなのである。

さて、エイプリルフールで乙武洋匡さんが「車椅子を売っぱらった」というネタを披露していた。これにレスがついていたのだが、「センスがいいか松本人志さんに判断してもらおう」という書き込みを見かけて面白いなと思った。ネタを分析するとあまり面白くないのではないかと思う。なぜならば、笑いの前提になる緊張がないからである。緊張しているのは不倫がばれて自虐ネタを披露しなければならないと考えている本人だけで、その緊張を社会と共有しているとは言い難い。

しかし見ている人にも評価の軸がない。すると権威化と原理化が起こるようだ。つまり、松本さんがすべらないネタだと認定したら、それは笑うべきなのだということになるのだろうし、過去の累計で権威化することも起こるのではないか。

松本さんは今回の議論の中で茂木さんをいじろうとしたが、どのようなお笑いが良いものなのかという評価はしなかった。原因は二つ考えられる。松本さんはお笑いの実践家であって評論家ではないので論評を避けたか、お笑いについて構築的な議論なく「何が面白いのか自分でもわかっていない」という二点だ。

もし、後者が正しいとしたら、松本さんは過去に流行ったネタをみんなから飽きられるまでやってゆくしかなく、やがてはとんねるずのように「あの人オワコンだね」と言われるようになるのだろう。だが、松本さん自体のお笑いは「状況の無効化」を狙ったものが多いようだ。いわゆる「シュールな」というものだ。多分、原理があっていくつかの表現を駆使しているのではないかと考えられる。

ちょっと長くなったが、エイプリルフールの軽い嘘が楽しめるような世の中は健全な世の中と言えるし、他愛のない嘘は場を和ませる。来年こそはフェイクニュースやオルタナティブファクトなどに惑わされずに、くだらない冗談で笑いあえるような状況になっていて欲しいものだと思う。

 

東京都で魚の生食を禁止する条例ができるらしい

このほどの当ブログの独自取材で、東京都が魚の生食を全面禁止することがわかった。食の近代化を目指し、オリンピックにふさわしい国際都市の実現を目指す。

ことの発端は猪瀬直樹前都知事の「築地市場が人気なのはワイルドで野蛮なアジア趣味を覗き見にきている外国人が多いからだ」という趣旨のTwiterの指摘だ。猪瀬直樹さんは惜しまれつつ引退したのだが今でも根強い人気があり、その発言は重く受け止められていた。

そもそも築地市場が汚いのは、調理されていない魚を食べるというおぞましい習慣によるものである。こうした後進的なアジア性は科学的に克服される必要があるだろうという議論がTwitterを中心に巻き起こり、普段から環境問題に造詣が深い小池都知事もそうした世論を無視できなくなったようである。

さらに豊洲市場移転プロジェクトには自民党議員の利権が絡んでおり、もし豊洲移転が実現できなければ多くの議員が路頭に迷うばかりか東京湾に沈められてフグなどの餌になりかねないという事情もある。豊洲をより安全にするためには、最大の汚染源である魚を排除する必要があり、冷凍した魚を扱うのが一番安全であることは科学的に100%証明されている事実だ。魚を全て冷凍にしてパック販売すれば地下に溜まっているベンゼンなどの有害物質が付着する可能性も排除できる。このように魚の冷凍化のメリットは大きい。

この方針を徹底するために、小池都知事は都の小学生に副読本を配り「魚を生で食べるのは野蛮」と教えることを義務付ける。先進国で魚を生で食べる文化を持っている国はなく、魚は調理するのが国際的な潮流だ。と同時に電通に「魚を生で食べるのは野蛮だ」という800億円規模のキャンペーンの実行を依頼した。さらに、800人規模の「寿司Gメン」を発足させて、都に8000件以上ある日本食店を巡回する体制をとる。

日弁連は、都の新しい政策は、国民が自由に魚を料理する自由を侵害するもので憲法違反だという声明を出したが、裁判所が違憲判断を出した例は少なく議論への影響力は乏しいものと思われる。


ということで、エイプリルフールネタを書いてみました。みなさんお楽しみいただけましたでしょうか。今日も1日頑張っていきましょう!