ダウンタウンが高プロで働いたら使い潰されてしまうのか

多分軽い冗談のツイートだと思うのだが、ダウンタウンが高プロで働いたら使い潰されてリタイアしてしまうのではないかという指摘があった。そういう番組を作れば面白いのではというのである。そこで「吉本と契約を結ばないと芸能界で生きて行けなくなるんだぞ」という意味のコメントを被せたところ「よくわからない」と言われた。

ああこの辺りがよくわからないんだと思い少し驚いた。と同時にこのあたりが高プロの議論がいまひとつ厚みに欠ける理由なのだろうなと思った。

ダウンタウンは日本型「高プロ」ワーカー

最初に書いておくとダウンタウンは今でも「高プロ」的働き方をしている。ただ、その活動が集団に影響を与えることはあまりない。グループでの活動はあまりなくキャリアが個人に蓄積するスタイルだからである。吉本タレントは囲い込みを行っているがスキルやキャリアが個人に蓄積する状態ではこうした働き方(働かせ方)はうまく行くことがある。これが成り立つのは吉本興業に次から次へと新しいタレントが入ってくるので売れないタレントに執着する必要がないからである。終身雇用ではないので売れない人たちは外に出してしまえばよいのだ。また、吉本興業のタレントも一生タレントで生きて行けるという期待をしないので会社にしがみつくことはない。

ところが、キャリアが集団に蓄積するスタイルでは高プロはあまり意味をなさない。そこに労働者の囲い込みが発生するとそれは成長を阻害する方向で働く。吉本興業のような働き方があるのだから高プロもうまく行く可能性があるのだが、今の状態では単なる残業代ゼロ法案担ってしまう可能性が高い。これを整理すると次のような類型になる。

  • キャリアが個人に蓄積 X 囲い込みあり:吉本芸人
  • キャリアが集団に蓄積 X 囲い込みあり:日本のサラリーマン
  • キャリアが個人に蓄積 X 囲い込みなし:アメリカのホワイトカラー
  • キャリアが集団に蓄積 X 囲い込みなし:パートやアルバイト

日本型と書いたのは日本は労働者を囲い込むからである。

本来は残業代ゼロ法案ではなかったホワイトカラーエグゼンプション制度

経団連がホワイトカラーエグゼンプションを導入しようとしている理由は二つあると思う。一つはよく言われている人件費の抑制である。だが、もう一つは「従業員が企業に寄りかからず自律的に儲ける方法を見つけて欲しい」という経営者側の願望であろう。アメリカやヨーロッパ型のやる気のある企業を見ている人たちには切実な問題なのだろう。では、アメリカやヨーロッパには特に優秀な社員が多いのだろうか。

企業ごとの優秀な従業員の割合はどの企業でもあまり変わらないという研究があるそうだ。このWiredの記事を読むとアップルやグーグルのような会社はトッププレイヤーを集中的に配置することで生産性をわずかに上げているだけなのだそうだ。こうした経営の智恵が積み重なって大きな違いが生まれるのだが、日本ではむしろこうした人たちを生産性の上がらない部門に貼り付けて使い潰してしまうことがあるのかもしれない。

企業に入る前に疲弊する日本人

それに加えて日本人は学生の時代から「何のために勉強するのか」がわからずに知的好奇心を失ってゆくというような統計がある。学生時代に疲れ果ててしまうので知的能力は高いが知的好奇心が極めて低いとNewsWeekが伝えている。

内容がぎっしりつまった国定カリキュラム、生徒の興味・関心を度外視したつめこみ授業、テスト至上主義……。学習とは「外圧によって強制される苦行、嫌なことだ」と思い込まされる。これでは、自ら学ぼうという意欲を育て、それを成人後も継続させるのは困難だ。

学校卒業後にすでに新しい知識を学ぶ意欲を失っているので、やっとの思いで大企業に入ると企業が成長するのに必要なことを新しく学ぶようなことはない。もともと経営がうまくプロフェッショナル社員を使いこなせない上に、やる気を失った学生が入ってくる。このため日本ではポテンシャルはあるが疲れ果てて入ってきた社員と、現場で使い潰されるやる気のある社員で構成されているのかもしれない。

労働市場が流動化すれば適正な市場が形成される

ホワイトカラーエグゼンプション導入が健全に機能するためにはお互いの納得感が必要だ。つまり給与が気に入れば企業のプロジェクトにコミットしてもらえればよいし気に入らなければ企業と交渉するだけでなく転職すれば良い。サッカーの本田流にいうと「個」があればよいわけである。ある程度の労働移動があれば市場に適正価格が形成される可能性は高くなるだろう。サッカープレイヤーは集団を前提としているが、労働市場は国際化されており流動性も高い。

政府は今回の制度改正の対象になるのは高額所得者なので企業と対等に競争できると説明しているのだが、どうやったら適正価格の市場が作られるのかという説明はない。企業がトッププレイヤーを抱えこんでいる現状で適正市場が形成される望みはない。日本の経営者は賃金を出し渋るので、すでに高騰したスタープレイヤーの国際価格で競り負ける。中国に優秀な家電の技術者が流れるのは日本の賃金水準が低く押さえつけられているからだ。

労働市場の流動化を阻む甘えの構造

ではなぜ労働市場の流動化が起こらないのだろうか。もちろん合理的に説明することもできるだろうが、今回は日本人のメンタリティについて考えてみたい。

例えば芸能界で独立騒ぎが起こると、事務所側が「誰のおかげで大きくなれたのだ」などと感情的なもつれに発展することがある。芸名の使用権を盾に事務所に縛りつけようとすることもあるようだ。SMAPのようにジャニーズ事務所から出ると過去の楽曲が使えず名前も名乗れないというようなことになる。かつて「のん」は芸名が使えなくなり、最近では広瀬香美が事務所との間でトラブルを抱えている。この壁を乗り越えたのがモデルのローラである。現在は国際的な事務所に所属しておりインスタグラム経由で環境保全活動についての訴えも行っている。モデル業界は国際化が進んでいるのでこうしたことが起こる。どのように解決したのかはわからないが、日本のテレビやCMを今までの事務所で管轄することにしたのではないかと思うのだが、日本市場は縮小しているのでローラは日本での仕事を縮小してゆくのかもしれない。

スポーツの場合はさらに「女々しい」ことが起こる。栄監督が伊調馨選手に意地悪をしたのは「俺のおかげでメダルをとれたのに勝手に出て行った」からである。日大アメフト部の内田前監督も退部しようとする学生たちに「後輩の推薦枠を減らす」とか「就職できないようにしてやる」などと脅かしていた。このように日本のマネジメントはプレイヤーにしがみつき心理的に依存することがある。皮肉なことにサッカーや野球などすでに国際化した競技ではこうした問題が起きにくい。国際的なスタンダードにあわせた流動的な労働市場が形成されるからだ。

このような「身内しか信頼できないし、離れたら裏切りとみなす」という甘えの構造が知識の交流を難しくしている。労働者は特殊な環境で技能を蓄積せざるをえないし、企業は外からの新しい知識を仕入れることができない。このようにして企業はムラ化し、そのムラが相互に配慮しあうことでガラパゴス状態が生まれて、国際競争から取り残されてしまうのである。

日本の労働市場を支配するウエットな人間関係

この日本型のウエットな職場環境について分析しているブログ記事をBlogosで見つけた。少し長いが引用させていただく。ここではアメリカと同じアングロサクソン系のオーストラリアと日本を比較している。太字は原文のままである。ただし、このブログを最後まで読むと「日本は日本型のウエットな心情を大切にすべきだ」というようなことが書かれている。

まず、オーストラリア人だったら、仕事が多すぎて、年俸と見合わなくなったらさっさと辞めて転職してしまいます。年俸が高くなると、労働法で保護される度合いも少なくなって、会社都合で解雇されても不当解雇で訴える権利を失ってしまいます。その年俸額は労働法で規定されていて毎年変わります。社員の首を切るために、わざと賃上げをする雇用主もいるぐらいです。だから、社員の方も、常により条件の良い仕事を探していて、見つかればさっさと移ります。1年もすると、周囲の顔ぶれがガラッと変わっているなんてことも珍しくありません。

中略

20数年ぶりに日本に帰ってきて、びっくりしたことがあります。

20代や30代の若い人たちが、理不尽な労働環境下でやせ我慢して働いているのです。どうやら、長く続いた就職氷河期の影響らしい。彼らは耐えるだけで、雇用主と交渉する気力も能力もありません。なんだか日本が貧しい国に見えてしまいました。

副業による棲みわけ

「日本型はウエットだ」と書いたのだが、吉本の場合はこの辺りが少しドライである。背景には働き方の多様化がある。個人事業を認めて活動外収入を許すというようなやり方をすることが多いように思える。吉本興業はもともと劇場経営から出発しているので「劇場が抑えている時間以外には何をしてもらっても構わない」という方針が取れるのだろう。面白いことに日本にはこうした働かせ方がかつてあったということだ。朝ドラで有名になったように、吉本興業は大正時代のやり方を一部温存している。今でも明示的な契約文書がないそうだ。東スポは明石家さんまについてこう書いている。

明石家さんま(61)も吉本興業と契約を交わしていないとか。「今、吉本にいるだけでもちろん契約もしてないし、だから、正確に言うと吉本から仕事を頂いているっていうバージョンになるんですね」と語っており、実際、自分の事務所を別に構えている。

またデイリースポーツによると浜田さんは司会の仕事でスタジオに入ってくる時にかなり怖い顔をしているそうだ。彼らは個人に業績をつけて行くので、多様化してやって行くと決めればそれほどテレビに拘る必要はないし、逆にテレビで生きてゆくと決めたら一つひとつのプロジェクトに気が抜けない。自己最良の結果なので、大変なのだろうが「使い潰されにくい」のではないかと考えられる。

俳優・寺島進(54)が1日放送のフジテレビ系「ダウンタウンなう」(金曜、午後9・55)に出演。ダウンタウン・浜田雅功がスタジオ入りする時に「般若」のような顔をして入ってくると暴露した。

タレントの中には資格を取ってそれを仕事につなげるような人がいる。アメリカでは同じように社会人になって学校に通い資格や技能を取ってから転職活動をすることがある。その意味ではイメージではなく技能で売っているタレントはアングロサクソン型に近い働き方をしていると言える。

そもそも集団に依存する傾向にある日本の正社員

一方、日本正社員にはそのような緊張感はない。彼らは組織に守られている上に、期待される役割も曖昧だ。日本の正社員で「自分は何かの専門家だ」と言い切れる人はそれほど多くないのではないだろう。さらに、日本の企業は個人を信用しないので個人に情報を与えない。パテントなども集団に帰属させているはずだ。彼らが信頼するのは「集団として長く活動してきた」という実績なのでよそ者である高度プロフェッショナルを仲間に入れたがらない。だから、個人はやがて集団に依存するようになる。

いずれにせよ、高プロ制度について立体的な議論が起こらないのは日本人が限定的な労働環境についての理解しか持っていないからではないかと思った。アングロサクソン型のドライな労働慣行も知らないし、フリーランスが成功しているタレントのような業態も一般的ではない。加えてメンタリティの問題があり「ドライな」環境に対して拒否反応がある。

もちろん日本型のウエットな労働市場にも良いところがあるのだが、現在の状態を見ていると陰湿ないじめが横行したり、非正規職員を排除したりとあまり良くない面の方が強調されているように思える。タレントの働き方を見ているとわかるように日本でもドライな働き方ができないわけではないのだから、根本から議論をやり直すべきなのではないかと思える。

お前個人の意見なんか聞いていないと叫ぶ人々

内心と規範の形成について考えている。まず、外骨格型と内骨格型にわけて、内心が内部に留まって規範化し罪悪感として知覚されるか、外側に蓄積されて社会的圧力として発達するのかというようなことを考えてきた。

今回は「お前の個人的な意見なんか聞いていない」について考える。よく、会社の会議などで使われる言葉だが否定されて悲しい気分になるのと同時に「では集団の合意があるのか」と考え込んでしまう。あるいはすでに集団の合意があって儀式的に上程された話題が審議されている場合もあるのだが、中にはどうしていいのかわからないのでアイディアを募る会議で使われる場合もある。

アイディアを募る会議は紛糾しているか意気消沈していて誰も自分の意見を言わないことが多く「集団の合意」などはない。そこで「お前の意見は聞いていない」と怒鳴りつけることでさらに場の空気が萎縮する。

いずれにせよ日本人は集団で成果が証明されている正解には殺到するが個人の意見は重んじない傾向があり、これが成長を阻害している。新しいことを試さなければブレークスルーはないからである。

先日面白い体験をした。キリスト教とに「聖書は作り話だ」と言ってはいけないという人がいたのだ。この考え方はいっけん「相手の内心を尊重している」ように聞こえるかもしれないが、実は大変に危険な考え方である。アメリカには聖書に書いてあることはすべて正しいと考える一派がいて福音派と言われている。彼らは「原理主義的に聖書を信仰している」という意味で日本のネトウヨに近く、例えば進化論を学校で教えることが認められないので、子供を学校に通わせないというようなことが起きている。

もともとキリスト教世界は地動説を採用していたというような歴史もあり聖書を読むときにある程度懐疑的になるように教える伝統がある。特にプロテスタント世界ではこの傾向が強いのではないかと思われる。科学的には聖書には作り話が含まれていると考えないと解けない問題も多い。さらに「たった三人の弟子がイエスが生き返ったからキリストになった」と言っているだけなので表面的なお話にはそれほどの信憑性はない。このためミッションスクールでは子供がある程度物心がついた頃に「すべてが真実ではないかもしれない」と教える。つまり、すべてが作り話ではないものの、批判的に受け止めるようにと習うのだ。さらにミッションスクールは非キリスト教徒の改宗を強要しない。

もちろんこれには段階がある。まず絵本やクリスマスの劇を通じて聖書の物語を教える。そして任意で聖書研究などの課外授業がを提供する。課外授業に参加できるくらいになると「疑ってかかるように」と言われる。そのあとの経験はないが、さらに信者になると教派ごとの「このラインは真実」というものを教わるのだと思う。

これについて強めに主張したところ「信徒の個人的意見は聞いていない」と切り返された。ここから推察できる点がいくつかある。まず、もともと集団主義的な社会で人格形成をしているのだろうから個人の意見を軽く受け止めるのだろう。

次にこの人は聖書を引き合いに出してはいるが、多分言いたいことは別にあるのだろう。例えば自分の核になる生き方を否定されたとか、好きなアニメ(人によっては人格の根幹にある大切なものかもしれない)を否定されたとかそのようなことだ。

だが個人の意見を強めに主張できないので「すべての人が否定できないであろう」ものを持ってくることで代替えしようとしたのではないかと思われる。この人が言いたいのは「人が大切にしているものを否定してはならない」というものである。内面に断層があるので「聖書とキリスト教」の話にされると混乱するのだろう。

こうした「インダイレクト」なほのめかしは日本人にとってはそれほど珍しいものではない。英語圏での明示的な経験がある人以外はほぼすべての人がなんらかのインダイレクトさを持っている。ある種の隠蔽だが日本人にとっては社会と円滑に暮らすための知恵なのかもしれない。だが、結果的には異なるトピックについて議論をしていることになり議論が解題しなくなるという欠点がある。

このように日本人は集団での議論による背骨の形成ができない。どこかにすでに存在する外殻に体を収めることで安定するのである。だから、成長したときに新しい外殻が見つけられないとそれ以上成長ができない。一方内骨格型の人たちは成長に合わせて背骨を補強することができる。だが、それが折れてしまうと深刻なダメージを受ける。外骨格型の人たちは例えば「明日から民主主義にしよう」といえば簡単に乗り換えられる。古い骨格を捨てて新しい骨格に乗り換えるだけで、実は中身に変化はないからだ。

信条が内側にないということのイメージはなかなかしにくいがこの人は面白いことをいくつも言っていた。どうやら信仰心を持つということについて「周囲の評判を気にする」ようなのだ。キリスト教ではこのような考え方はしないと思われる。特に非キリスト教圏のクリスチャンは選択的にキリスト教を選択するのでこの傾向が強いのではないかと思われるし、教派によっては幼児洗礼を認めないところもある。

第一にキリスト教はその成立段階で「狂信」とされており社会から否定されてきた。いわゆる「聖人」と呼ばれている人たちの多くは殉教者であり「否定された」だけでなくなぶり殺された人たちである。信仰とは内心の問題なので、非キリスト教徒がどう思おうとそれほど気にしない。コリント人への第一の手紙の中にも当時マイノリティであったキリスト教徒はコミュニティの外にいる人たちのことを気にするなというような話が出てくる。迫害されていた頃の教会の歴史と基本的な信徒が守るべき規範が書かれているので聖書に残っているものと思われる。

日本ではクリスチャンはマイノリティなので「聖書なんか作り話だ」と言われるのも多分日常茶飯事なのではないかと思う。このためクリスチャンの著名人でもその信仰を全く口にしない人が多い。石破茂も麻生太郎もクリスチャンだが、聞かれない限りは信仰の話はしない。かといって隠しているわけではないので、石破茂などは聖書の話をしているようである。内心の問題なので外の人にどう思われようと実はそれはあまり重要なことではないのである。

今回少し会話した人は、他人の目というものを気にしていて、それによって自分の信仰が変わるという前提を置いて話をしている。「いちいち腹立てたら宗教なんかやってられない」と言っているので、宗教というのはその人の規範の骨格ではないということもほのめかされている。

この「人の目を気にする」というのはやはり規範意識が外にあって、内部の規範意識に影響を与えているということを意味しているように思える。内部規範型の人間は内部の規範と実践のずれに罪悪感を感じるのだが、外部規範型の人たちは「外の評価」と実践のずれに罪悪感を感じ、自分は間違っているのではないかと思うのだろう。

他に適当な学術用語があるのかもしれないが、内側に規範を持っている人間と外側に規範がある人間の間にはこれほどの相違があってお互いに意思疎通することが難しい。政治の世界では「選挙で勝ち続けて罰せられなければ何をやっても構わない」と考える安倍晋三が人気なのは外骨格型の人たちに支持されているからだろう。石破茂には「芯」があるので「融通がきかない人」とネガティブに捉えられることがある。政治評論家の中には「プロセス原理主義」で国会の承認プロセスを重視するので国会議員に人気がないという人もいる。つまり国会議員は憲法で定められたプロセスはまどろっこしいので好きにやりたいと思っている人が多いということである。

前回のエントリーで観察したのは「社会の決まりを守らなければならない」という人がその漠然とした気持ちを表出することで結果的にポジションにコミットした事例である。言語化されない気持ちはクラゲのように海を漂い、それが外骨格を見つけることでそこに固着してしまうのである。この雛形が日本では安倍政権に代表されるような考え方なのだろう。

だが、今回見た例は少しわかりにくい。「内心を大切にすべきだ」という主張であってもその対象物にそれほど興味はなさそうだ。試しに「聖書の一節でも読んで研究して発言してみては」と提案してみたのだが「上から目線で押し付けてくる」と反発された。こういう人たちが惹きつけられるのは「戦争はいけない」とか「一人一人の気持ちが大切だ」というようなありものの外骨格だ。誰もが否定できないからこそ外骨格としてふさわしいのだろう。だからこういう人に「聖書を読んで勉強してみよう」とか「戦争の歴史について調べて憲法第9条への知見を深めるべきだ」と言ってみたところであまり意味はない。彼らはすでにそれを「証明済みでわかりきったもの」と理解するからである。

そう考えると、ネトウヨとサヨクの対立は実は同根であるということがわかる。どちらも「より大きくて確実な」鎧を探しているうちに政治議論に行き着く。つまり、政治は問題解決の道具ではなく身を守り自分を大きく見せるための鎧なのだろう。だから日本の政治議論はいつまでも決着点が見つからないのだ。

お前個人の意見なんか聞いていないという人は「大きくて立派な殻」を探すので、個人の意見は取るに足らない小さな貝殻にしか見えないのだろう。ただ彼らに殻に関するクイズを出してはいけない。決して理解した上で殻を採用しているわけではないからだ。だから平和主義者に憲法第9条について聞いてはいけないし、立憲主義を大切にする人に民主主義について尋ねるのもよくない。さらに付け加えるならば「神武天皇のお志を体現した憲法」がどんなものかについて検討するのも無駄なのである。

日本のマスコミが左派的な偏向報道に走るのはどうしてかという疑問

政治を離れて内心と規範の形成について考えている。内側に規範を蓄積してゆく内骨格型と集団に規範を蓄積してゆく外骨格型があるというのが仮説である。ただ、内容を細かく見ていると、外骨格型であっても内部に規範の蓄積がないというわけではないようだ。しかし、内骨格型とはプロセスの順番が違っており、違った仕組みで蓄積されているのではないかと思う。


QUORAでまたしても面白い質問を見つけた。「日本のマスコミが左派的な偏向報道に走るのはどうしてか」というものだ。QUORAに回答を書くような人はある程度の政治的リテラシーを持っているのでこの質問は批判的に回答されていた。

この人は左派=偏向報道と言っている。つまりなんらかの正しい状態がありそれが歪められていると考えていることになる。正解が外にあると言っているのだから外骨格型の考え方である。より一般的な言い方だと「集団主義者」ということになる。

最近のテレビは権力に迎合して「右傾化しているではないか」と書きたい気持ちを抑えつつ、若年層と中高年では政治的地図が全く異なっていると書いたのだが納得感は得られなかったようだ。その原因を考えたのだが、多分本当に言いたいことは言語化されておらず別にあるのではないかと思った。それを表に出すことに困難さがあるのだろう。ようやく出てきた意見なので否定されると頑なになってしまうのだろう。

かつて、政権批判はマスコミの基本機能だと認識されていた。だから政権批判はそれほど大きな問題ではなかった。背景にはGHQの指導があったようだがNHKは「自分たちの考えで放送記者を誕生させた」とまとめている。GHQはあくまでも「ノウハウを指導しただけ」という位置付けである。もともとNHKのラジオは当然のように通信社経由の原稿を読んでいたのだが、戦後GHQがやってきて「自分たちで取材に行かなければならない」と指導されて驚いたというような話がある。現在でもこの慣行が残っておりアナウンサーであっても地方で取材と構成を学ぶようだ。その一方で政府側には「原稿を読んでもらいたい」という気持ちが強くこれが「国策報道」的に非難されることもある。

さらに今の政治体制を壊すことが発展につながるという漠然とした了解があった。政治批判をするのはそれがよりよい政治体制につながるという見込みがあるからだ。しかしながら若年層は民主党政権の「失敗」を見ているので、政府批判をして政権交代が起こると「大変なことになる」と思っている。加えて低成長下なので「変化」そのものが劣化と捉えられやすい。そこで「政治を批判して政権が変わってしまったら大変なことになる」と思う人がいるのだろう。

このため、ある層は政権批判を当たり前だと思うが、別の層は破壊行為だと認識するのだろう。

このような回答をしたところ、質問者から「できるだけ中立な表現をしたつもりだったのに」というコメントが帰ってきた。そこで、wikipediaで偏向報道について調べてから「偏向報道という言葉は政権が使ってきた歴史があり」反発を生みやすいと書いたのだが「人それぞれで違った言葉の使い方をするとは不自由ですね」というようなコメントが戻ってくるのみだった。つまり、社会一般ではマスコミが偏向報道をしていることは明らかなのに、それがわからない人もいるのですねというのである。

この人がどこから左派という用語を仕入れてきてどのようなイメージで使っているかはわからないし、文章の様子とアイコンから見るとそれほど若い人でもなさそうである。日本人はリアルな場所で政治的議論をしないので、他人がどのような政治的地図を持っているのかはわからない。同じようなテレビを見ているはずなのに、ある人は今のテレビは全体的に右傾化が進んでいると熱心に主張し、別の人たちは左派的であるべき姿が伝えられていないというように主張する。テレビ局の数はそれほど多くないのだから、受け手が脳内で何かを補完をしていることは明らかだが、言語化されることがないので、どのような補完が行われているのかはさっぱりわからない。

ここで「社会の規則は守るのが当たり前だ」と考えて「その制定プロセスに問題がある」可能性を考えないのはどうしてだろうかと思った。やはりここで思い至るのが校則である。日本の学校制度に慣れた人から見ると「今のテレビは政権批判ばかりしていて建設的な提案や協調の姿勢がない」というのはむしろ自然な発想だろう。子供の時から、先生の話をよく聞いて、みんなと協力するのが良い子だとされているからだ。校則を守るのは良いことであってその制定プロセスについて疑うべきではない。生徒手帳を持って全ての校則について由来を尋ねるような生徒は多分「目をつけらえて」終わりになるだろう。

今までは「日本人は内的規範を持たない」と書いてきたのだが、実際には個人の意見を持つべきではなくとりあえず集団の意見に従うべきだという簡単な内的規範を持っていることになる。

学校が健全な状態であれば「全てを疑ってみる」という行動はまだ許容されるかもしれない。ただ、学校は今かなり不健全な状態にある。

検索をしてみるとわかるのだが、SNSには「校則に違反すると校内推薦が取り消されるのだろうか」と怯えている書き込みが多い。デモに参加すると公安にマークされて息子の就職に影響があるかもしれないからと怯えている人がいるが、校則違反ですら一発アウトになってしまうかもしれないと考えている人がいる。現在の実感からすると「あながちない」とは言い切れないのだから黙って従う方がよい。すると、社会などという面倒なことはとりあえず何も考えず何もしないのが一番良いということになる。

実は校則は便利な管理ツールになる。わざと不合理な校則を置いておき先生の裁量で取り締まったり取りしまらなかったりというように運用することによって生徒を支配することができるからだ。生徒は次第に「先生はルールを作る側」で「生徒はルールを守る側」と考え、自分たちでルールを作ろうとは考えなくなるだろう。

ただ、この管理が先生を楽にしているというわけでもないようだ。社会に関心を持たなくなった人たちが様々な思い込みを学校に押し付けてくる。彼らも校則に関心を払わなかった側であり、ゆえに社会的な合意には関心がない。しかしながら、自分たちの考えこそが社会的な正義であり合意事項であると考えている。すると外的に蓄積した合意を「自分より目下だ」と考える人たちに押し付けてくるのである。

その結果学校は疲れており正常は判断ができなくなっている。最近も神戸の学校が「事務処理が面倒だから」という理由でいじめに関する校長のメモを隠したというニュースが入ってきた。学校にとって生徒の命を守るということは一番大切なことのはずだ。だがそれは学校が教育機関だという前提があってのことである。今の学校は生徒の管理機関なので全ての出来事が背後にある事務処理の量で決められるのかもしれない。いろいろな人がいろいろな社会的合意というありもしない幻想をぶつけてくるので、もう何も考えないことにしたのだろう。

今回の考察の関心事は規範をどこに蓄積してゆくのかということなので、まとめると「規範を外に蓄積する人が多い」ということになるのだが、合意形成のプロセスが毀損しているので個人の思い込みが「外的な規範である」と思い込むことによってこれを補完しているのだとまとめることができる。

しかし、実際のプロセスを観察するとこの態度には害が多い、異議の申し立てや批判を「面倒くさい」と感じることで、内的な規範が蓄積されず、なおかつ自分の思い込みを外的規範だと認定してしまった人はその思い込みを他人に押し付けることになり、さらに面倒くささがましてゆく。

実はネトウヨのような人々よりも、こうした「とりあえず黙って社会の約束事に従っているべきだ」という人たちが現在の政権を支えているのかもしれないと思う。政権はそれを「便利だ」と思うかもしれないのだが、実際には様々な意見を押し付けてくるので、さらに無秩序化が進むのではないかと思う。