二重人格社会 – 小室哲哉は誰に「殺された」のか

ここのところ村落社会について考えている。村落社会、インテリの部族社会と考えてきて、最近考えているのは二重人格社会である。しかし、それだけでは興味を引きそうにないので最近のニュースを絡めて考えたい。考えるのは「アーティストとしての小室哲哉は誰に殺されたのか」という問題である。

今回の<事件>のあらましをまとめると次のようになる。一般には介護へのサポートがなかったことが問題視されているようである。

小室哲哉は往年のスター作曲家・アーティストだ。過去に著作権の問題で事件を起こしその後で奥さんが病気で倒れるという経験をした。職業的には周囲の支えもあり音楽家として再出発したのだが、私生活問題である介護で抑鬱状態に追い込まれたところを週刊誌の不倫報道に見舞われ、ついに心理的に折れてしまった。小室さんは病気の妻を抱えており今後の生活の不安もあるが、今は何も考えられないほど追い込まれている。

周囲から援助されない天才職人の悲劇

この問題についての一番の違和感は、ワイドショーがこれを小室さんの私生活の問題だと捉えていたことだった。アーティストが健全な創作活動をするときに私生活が健全なのは当たり前なのだから、プライベートも仕事の一部である。さらに付け加えれば、普通のサラリーマンであっても健全な私生活があってはじめて充実した仕事ができるのだから「ワークライフバランス」は重要なテーマであるべきだろう。

だが、日本ではサラリーマンは会社が使い倒すのが当たり前で、私生活は「勝手に管理しれくれればいい」と考えるのが一般的である。小室さんの私生活が創作活動と切り離される裏には、こうした日本のブラックな職業観があるように思える。

一時間の会見のを聞く限りでは、ビジネスとしてお金になる音楽家の小室さんに期待する人は多いが、小室さん一家の私生活をケアする友人は誰一人としておらず心理的にパニックに近い状態に陥っているようだということだ。つまり、小室さんは「金のなる木」としては期待されていたが、彼の私生活を省みる人はそれほど多くなかったことになる。

過去に小室さんは、著作隣接県を売渡すことで資金を得ようとしたのだがそれがなぜだったのかということは語られない。もともと電子音楽はいくらでもお金がかかるジャンルなので職人としての小室さんは、良い機材を買ったりスタジオを建てたりしたかった可能性もあるのではないか。継続的な創作活動を行って欲しければ、誰かがこれを止めてやるか管理してやるべきだったのだが、逆に「権利を売り払えばお金になりますよ」と吹き込んだ人がいるのだろう。権利のほうがお金になるということを知っている「裏方」の人がいたのだ。

さらにこうした「裏方」の中には、小室さんを働かせればお金になるし、権利は後から取り上げてしまえばいいと考えていた人たちもいるかもしれない。小室さんは「金のなる木」として期待はされていたが、継続的に音楽活動をするために援助してやるプロデューサ的な人には恵まれなかったということになる。逆に彼が生み出す価値をどうやって搾取しようかという人が群がっていた可能性もある。アーティストは金のたまごをうむガチョウのようなもので、卵が産めなくなれば絞めてしまっても構わないということである。

本来ならこの辺りの事情を合わせて伝えるのがジャーナリストの役割だろうが、そもそも日本にはそのような問題意識すらない。

表に出る人の不幸が商品になる社会

一方、不倫記事が売れる背景についても考えてみたい。つまり「ジャーナリスト様」は何をやっていたのかということだ。

文春はなぜ芸能人の不倫疑惑にこれほど強い関心を持つのだろうか。それは「表向きは立派に見える人でも裏では好き勝手にやっているのだ」と考えたい読者が多いからだろう。華やかな人たちが欲望をむき出しにする姿を見て「ああ、あの人も好き勝手やっているのだから、私も好きにやっていいんだ」と思いたい人が多いのではないかと思う。不倫は個人が持つ欲望の象徴と考えられているのかもしれない。

社会が創造的であるためにいかにあるべきなのかということを考える人は誰もいないが、沈黙する人たちの欲望を満たして金をもらいたいという人はたくさんいる。

有名人がバッシングの対象になる裏には「個人が組織や社会の一部として抑圧されている」という事情があるのではないだろうか。日本人は学生の間は個人の資格で情報発信してもよいし好きな格好をしても良い。しかし、就職をきっかけに個人での情報発信は禁止され服装の自由さも失う。これを「安定の代償」として受け入れるのが良識のある日本人の姿である。その裏には「表に出る人は極めて稀な才能に恵まれた例外である」という了解がある。自分は特別ではないから諦めよう、ただし特別な人たちが少しでも変な動きをしたらただでは置かないと考えている人が多いのだと思う。

これが政治家や芸能人へのバッシングが時に社会的生命を奪うほど過剰なものになる理由ではないだろうか。だからこそ不倫や政治家の不正を扱う週刊誌は売れるのだ。

二重人格社会

Twitter上では週刊文春に対するバッシングの声で溢れており週刊誌を買っている人など誰もいないのではないかと思えてくる。中には不買運動をほのめかす人さえいる。だが、実際に考えを進めると「同じ人の中に違った態度があるのではないか」と思えてくる。日本が極端に分断された社会であるという仮説も立つのだが、同じ人が名前が出るか出ないかによって違った態度を取っていると考えた方がわかりやすいからだ。

異なるセグメントの人がいるわけではなく「名前が出ていて、社会を代表している人」「名前が出ていないが意見を表に出している人」「名前も出ていないし意見も言わない人」というような異なる見え方があり、二重人格的に言動を変えている人たちが多いのではないかと思えるのだ。

これが「二重人格社会」である。

日本を窒息させる二重人格社会

さて、アーティストが優れた音楽を生み出すためには周囲のサポートが欠かせない。私生活の問題に直面する人もいるだろうしビジネス上の知識のなさから資金繰りに困る人もいるだろう。もちろん、作った音楽をプロモートしたり権利を管理する人なども含まれる。

小室さんの件では「介護が大変でサポートする人がいない」と指摘する人は多いのだが、創作活動全般に対してのサポートに言及する人はいない。

さらにその周りには「自分の名前で偉そうにやっているのだから失敗したら大いに笑ってやろう」とか「権利だけを取り上げてやろう」いう人たちがいる可能性もある。こういう人たちが表に出ることはない。

小室さんは会見で「華やかな芸能人になりたいのではなく、単に音楽家になりたかっただけ」と言っている。この意味で「自発的な音楽活動はしない」というのは防御策としては実は正しいのかもしれない。裏方の職人であれば嫉妬を集めることはないからである。だから、小室さんに「戻ってきてまたみんなに感動を与えて欲しい」などとは言えない。彼に存分に創作活動をしてもらうような体制が取れないからだ。

ただし、これは社会にとっては大きな損出だ。なぜならば、表に出て著作活動をする人はその代償として精神的に殺されても構わない社会であると宣言しているに等しいからだ。こんな中で創作活動に没頭する人がいるとは思えないので、日本は創造性の枯渇したつまらない国になるだろう。本当に創作活動がやりたい個人はそうした価値観を尊重してくれる国に逃れてゆくだろう。

日本人の二重人格的な言動は日本を枯れたつまらない国にするのではないかと思えてならない。

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アイヌ語がないならば日本語もない

さて、二日に渡って反論に時間を取られてしまったので本題に戻りたい。先日来、ネットにある「アイヌ語などなかった」という反論について考えている。

この問題に着目するに至ったきっかけは「アイヌ語には標準語がなかったからアイヌ語は存在しない」という反論だった。この論を取ると明治期以前日本語という言語はなかったことになる。例えば薩摩ことばと会津ことばは違う言葉であり、明治期以前には標準日本語という概念はなかったからである。

単にそれはアクセントと用語のばらつきの問題だと思う人がいるかもしれないのだが、例えば福岡の言葉で「バスがこちらに向かっている」時、二つの別の言い方をする。

  • バスが来(き)とう
  • バスが来(き)よう

東京の人には同じに聞こえるかもしれないのだが、前者はすでにバス停にバスが停まっていることを示しており、後者はバスが今到達しようとしている(つまりまだ着いていない)ことを示している。たいていは副詞を伴って、もう来とうとか、いま来ようなどと表現する。

こうした言葉を学校で習うことはないので、ネイティブスピーカーは明確に分別しているわけではない。このため文法と実感はやや異なって捉えられているように思う。

  • 雨が降りよう :  雨が今降っている。今見ているからわかる。文法的には現在進行形にあたる。
  • 雨が降っとう :  雨が今降っているかあるいは降っていた痕跡がある。ただし「降っとうと」というと、今降っているのかと質問していることになり、過去に降っていたことを質問する「降っとったと」と弁別される。現在完了形に当たるのだが、実感には揺れがある。
  • 雨が降りよった・雨が降っとった : 雨が降っていた(自分が見て雨が降っていたことを知っている)が今は降っていない。過去進行と過去完了だが、いずれも過去のことなので実際には弁別されない。

つまり、福岡のことばには標準語や東京方言にはない現在完了形があるのだ。

相手の言語がないということを証明するためには言語の定義をしなければならない。そのために幾つかのツールを発明することになる。例えばそのツールを使うと実は自分たちの言語もなかったことを証明してしまうことがある。

もちろん、こうした反論が顧みられることはないだろう。「アイヌ語がなかった」という人はアイヌ語にも日本語にも興味がなく、単に「先住民族という名目でお金をもらっている人」に嫉妬しているだけだからである。だから、学問的には相手にするだけ時間の無駄だと言える。

もっとも、学術的に「アイヌ語と日本語は似ている」という人はいる。これだけでなくアイヌ語と南西諸島のことばは似ているという人もいるし、もっと南下して台湾の諸言語と似ているという人もいるそうだ。

多総合性という分析ツール

アイヌ語を見る上で言語学者が注目する特徴の一つに「総合性」という概念があるそうだ。孤立語、屈折語、膠着語という区分の他に、総合的言語と分析的言語という区分があるというのである。Wikipediaのいささかわかりにくい説明によると、総合的言語には極めて総合性の高い言語とそうでないものがあり、アイヌ語は極めて総合性の高い言語にあたり日本語はそうでない言語に当たる。

この総合性の高い言語の中には、ポリシンセティック(多的総合)という概念とインコーポレーティング(包合)という概念があるそうだ。この概念は二律背反するものではなく、ポリシンセティックでインコーポレイティングな言語もあれば、どちらか一つの性質しか持たないものもあるとされている。

この論文は総合性の高い言語のうちの多総合的言語としてのアイヌ語に着目している。ベイカーという言語学者の多総合的言語(ポリシンセティック)研究をベースにして、アイヌ語の性質をアメリカ大陸の諸言語との関係について言及しているのである。

アイヌ語の多総合性は「包合語」という概念でも語られる。これは動詞に様々な要素をつけてあたかも一つの文章であるような性質を持たせるという日本語にはあまり見られない統語方法だ。

日本語とアイヌ語を同系言語だという人がいるのだが、文法的には対極とはいえないまでもかなり違った言葉だとは言える。例えば日本語は「私は書く」というように、名詞にマーカーをつけて文法的な役割を持たせるのだが、アイヌ語では動詞に人称接辞がつく。このため「彼が言った」と「私が言った」は同じ語感を持つ別の動詞になる。逆に名詞にはマーカーがつかない。

もう一つの隣人 – 台湾諸語

ここまではアイヌ語と日本語の関係を見てきたのだが、日本の南部には台湾諸語という全く別系統の言葉がある。これは中国語とも違っているし、沖縄県で話されるうちなーぐちとも全く違っている。日本語千夜一話というウェブサイトでは台湾諸語について言及している。台湾諸語の特徴は、動詞が先にくる点、狭い範囲にお互いに意思疎通しない言葉(母音の数も言語によってかなり異なる)が混在しているという点と、接頭・接尾詞を使って言葉を増やすという点らしい。

総合性は極めて高いと言えるが、台湾諸語は包合語ではなく日本語と同じ膠着語として扱われているようだ。動詞が先にくるという特徴があり、極めて動作を重要視した言葉であると言える。一方日本語は動詞や結論は文の最後にくる上に主語が省略されるところから、極めて対象物への関心が高いという言語だ。主語が意識されないことから、発話者が思い描いた心象がそのまま特定されずに表現されると言っても良い。

それぞれの言語は異なった考え方をする

先日Twitterで「北朝鮮はアメリカのミサイルで日本がうちおとせる」という表現を目にした。学校では「〜は」は主語を作ると教わるのだが、英語的な構文にすると、日本がアメリカのミサイルで北朝鮮をうちおとすとなる。つまり、この人の頭の中には北朝鮮という対象物が想起されたのでそれを念頭に置いているということになり、それが必ずしも文法上の主語でなくてもよいということになる。そしてそれを整理しなくてもなんとなく伝わる言葉なのである。

統語法はある程度思考を支配するということがわかる。その意味では、日本語は、文法を意識して明示的に情報を伝えようとする英語や中国語とも、動作を問題にする台湾諸語とも違っているということがわかる。

古い言葉には同じような性質がありそれがモダンな言語になるに従って分析的な性質が出てくるのだという言い方もしたくなるが、それも断定的なことは言えない。もっとも、英語や中国語のように話者が増えてくると文法的な複雑さが失われ、狭い範囲で話されている言語ほど複雑な総合性が現れるという特徴はありそうである。台湾では中国語が広く使われているし、北アメリカでも英語が流通する。多分複雑な文法を持っている人たちにとっては、中国語や英語の方が簡単な言語に思えるだろう。また、より多くの人たちに通じるという意味では「より優れている」(あるいは便利である)と言えなくもない。日本語はある程度の複雑さを残しながら域内の支配言語になったという特徴があると言えそうだ。

一つだけ確かに言えること – 日本語世界の複雑さ

もちろん、近隣言語を見ただけで日本語の起源などを軽々に語るべきではないのだが、一つだけ確かに言えることがある。日本語は全く異なった言語の結節点にあるということである。よくウラル・アルタイ系とひとまとまりに扱われる膠着性の強い言語群と台湾諸語のように動詞が文頭二くるオーストロネシア語、そして、北アメリカとシベリアにつながる多総合的言語に囲まれている。さらに、後世になって孤立語的な特徴を持っている中国語から何回にも渡って単語を取り入れている。

改めて各言語との文法上の関係を示すと次のようになる。その複雑さは、あるパーツを取ると近接言語と極めて近いのだが、かといって別のパーツは全く異なっているという具合だ。これを見ていると「日本語などという固有言語はない」と言いたくなってくる。

日本語と中国語:中国語には語尾はないのでわざわざカナを発明して語尾を記述しなければならなかった。つまり、文法構成は全く異なっている。ただし、日本語が多くの言葉を中国語から借用したので、辞書だけを見ると同種の言語ではないかと思えるほど似通っている。さらに、時代じだいに異なる音を模写したので、化石のように様々な読み方が保存されており、日本語の方が中国語の古い特徴を残しているということさえ言えてしまう。日本語は中国語から単語を取り入れた経験があり、英語の単語や概念を取り入れる際にも役立っている。「〜する」とつければ英語の動詞が全て日本語として利用可能なのである。

日本語と朝鮮・韓国語:固有語の語彙は全く共通しないのだが、’文法的には極めて近く偶然では説明ができない。例えば、〜がいます・ありますという言い方があったり、「は」と「が」の使い分けがあったりする。敬語という概念も共有するが、儒教発祥の地である中国語には複雑な敬語体系はないので文化的なものではなく言語的な特性といえそうだ。しかしながら、朝鮮・韓国語の動詞の活用は三段しかなく日本語の方が複雑だ。また「は」と「が」は基本的に同じように使い分けられるのだが微妙な違いもある。さらに日本では無生物と生物を区別するが朝鮮・韓国語はどちらも同じ言葉を使う。また、敬語も絶対敬語・相対敬語という違いがある。

日本語とオーストロネシア系言語:台湾諸語を含むオーストロネシア系言語と日本語は音節が似ているという説があるのだが、実は台湾諸語の中でも音韻にはかなりのバリエーションがあり確かなことはいえない。接頭語・接尾語が豊富だったり、畳重現象という共通点を指摘する人もいる。ただし、祖語を構成するほど強い関係性は証明されておらず、主に日本国内でしか通用しない私論がいくつか見られる程度である。

アイヌ語とオーストロネシア系言語:アイヌ語も台湾諸語も日本語(南西諸島のことばを含む)よりも複雑性が高い。ただし、これが系統的な類似なのかあるいは古くからある狭い地域で話される言語に特有の特性なのかということはわからない。アイヌ語には北アメリカ諸言語との共通性がありこれが全く偶然のものとも考えられないが、オーストロネシア系の言語と北アメリカ系の言語の類似性を解く研究はなさそうだ。

いずれにせよ「アイヌ語がない」という証明をする過程で「実は日本語などない」という結論に至る可能性の方が実は高そうだ。例えば語彙の変化に着目して、日本語は中国語の一部であると言えてしまうし、文法から見ると日本語は語彙が違う朝鮮語の一亜種であるというめちゃくちゃな結論さえ導き出せてしまう。もっとも楽な結論は日本語は近隣の言葉から様々な要素を取り入れており、独自の言語体系を作り出したのではないかというものである。

かつて「このままでは日本語が滅びる」というようなテーマの本が売れたことがあったのを思い出した。家族の価値観が崩壊すると民族の誇りが……などという人もいる。しかし、その論法だと日本語は中国語にとうの昔に滅ぼされていることになる。しかし、実際には「〜する」とか「〜的な」という膠のような特徴があるせいで、中国語が日本語の一部として取り込まれただけだった。多分、日本語が滅びる論者は悪い夢を見ているか、日本語の特性を過小評価しているのではないだろうか。

日本の独自性はその複雑さにある

もちろん「アイヌ語などなく日本語しかなかった」というような暴論を考察する価値はないのだが、それを緒にして調べてみると日本語についての理解が深まることがわかる。

日本人や日本語について考えるとき「その独自性」について言及する人は多い。しかしながら、実際に感じる日本語世界の魅力はその雑多さにある。全く異なった世界の結節点にありそれらの特徴を貪欲に吸収しつつ結果的には極めて独自性が高い言語世界を形成していると言えるのではないだろうか。

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村落共同体である日本からいじめをなくすにはどうしたらいいか

はあちゅうさん問題からはじめて、日本は村落的共同体であり学校の本来の目的はいじめであるという論を展開してきた。もちろん極論なのだが、構造がはっきりしたのだから問題解決もできるはずである。つまり、構造を崩せばいじめはなくせるはずである。以下、検証して行こう。

村落共同体は権力構造が不明確な閉鎖空間だった。こうした空間では常に発言力を維持するためのマウンティングが行われている。これは上位にいる人たちにとっては単なる「いじり」だが、下位にいる人たちにとっては「いじめ」である。

最初のソリューションはもちろん勝ち組になるために全てをマウンティングに捧げるというものである。勉強が得意であれば勉強すればいいし、上位の人たちにおもねるのが得意ならそうすれば良い。これはみんながやっている犠牲者を前提とした対策である。勝ち組でいられるならいじめについてあれこれ悩む必要はないし、たいていの人は巻き込まれないように見ているだけなので実害はない。

次のソリューションはこうした競争から離脱することである。つまり確立した一個人として生きるということだが、日本にはそもそも個人という概念はなく、つまり一個人として生きるということは「群れを外れた人以下のなにか」になるということを意味する。海外に逃避するという選択肢もあるのだが、世界情勢は逼迫しており、例えば個人主義者の聖地であったアメリカさえ他者を拒むという方向に転換しつつある。いずれにせよ、人以外の何かはノーベル賞をとったり大リーグで活躍したりすると、いきなり「誇らしい日本人」になる。いずれにせよ、この路線で行くなら、マウンティングに関係しない一芸を身につける必要はありそうだ。

この2つのアプローチが取れない場合は、構造そのものを壊すことを考えてみることもできる。一つは閉鎖空間を壊すという選択肢である。つまり、クラスをなくし、部活をなくせば良い。数学の時間には数学の教室にゆき、英語の時間には英語の教室に行くのである。またクラブ活動もなくなり、終業後サッカーがしたい人は地域のサッカークラブに出かけて行き、吹奏楽がやりたい人は地域楽団に所属するといった具合になる。極めて簡単にできる。相撲もかわいがりをなくすためには部屋を全廃して親方をコーチと呼べば良い。つまり、選手がコーチを雇うことにすれば良いのだ。

いっけんよさそうなやり方なのだが問題点もある。日本人は学校を出た後も村落的共同体に参加しつづけなければならない。日本には個人がないのだから、集団にいわゆるガバナンスがない。あるのは同僚による縛りあいと地位転落の恐怖である。相撲協会のゴタゴタをみているとこれがよくわかる。つまり、学校で日本流のいじめ社会に適応しなければ、外資系企業にでも就職しない限り企業でも良い地位が得られないということになる。

「日本人を馬鹿にしている」と思われそうだが、相撲協会はかわいがりをなくすことができなかった。かわいがりは「人権世界」ではいじめであり暴力なのだが、相撲の世界では教育の一環であり、これなしに後輩を指導することができない。外から見ているととても明白なのだが、相撲協会はこれがよくわかっていないようである。これを学校に置き換えても同じことで、日本人は先生の暴力や威圧を教育の一環だと考えつつも、表向きにそれが言えないでいる。

そもそも日本人は集団行動をありがたがる上に個人主義に根ざしたガバナンスも苦手なので、一部の犠牲者を防ぐために全ての集団を捨ててしまいましょうといのはかなり思い切った提案だとみなされるだろう。だが、一旦構造がわかってしまえば、少なくとも理論的にはクラスの解体こそが、解決策になるということがわかる。

もう一つのやり方は、序列を作るルールを明確化してしまうということである。曖昧な基準だからこそ序列競争が地下化するのだから明確化すればよい。例えば成績原理主義を取り名前ではなくテストの成績順で呼ぶというようなことだ。

相撲の場合も番付をなくせばよい。強い人が上位にいるという制度のはずなのだが、横綱はいくら休んでも良いという特権的な地位にあり、番付下の人たちが勝ってしまうこともあるのだから、実は極めて曖昧な制度なのである。番付と横綱をなくせば、日馬富士暴行事件のようなことはなくなる。横綱の「指導」も「品格」もなしで済ませられる。

このやり方の欠点は序列最下位ができてしまうということだが、年齢順にしておけば「とりあえず一年我慢すれば、一番下ではなくなる」ということになる。年功序列というのはその意味では日本的には極めて合理的な制度なのだ。アメリカのように成績の順番に首を切られてしまう企業は、退出だけが救いになっている。代わりに新しい人が入ってくるのだから、入れ替えが前提になっていることがわかる。日本のような閉鎖的な空間では、カーストの最下位の人は単に「永遠の隷従を生きる人」になってしまうのである。

多くの人が考えているように、いじめはいけないことだからやめましょうなどと言っても誰もいうことを聞かないということがわかる。それは先生もこうした村落的なカーストの中におり、教育委員会も教育村を作っているからである。カーストの維持こそがそもそもの根源的な行動原理なのだと考えると、その中にいる人たちがそれを防ぐことはできない。

だからいじめが露見するとそれはなかったことにされる。いじめられる人にとってはいじめだが、いじめる人にとってはプレゼンス確保のための活動だからである。下手人だけがいじめを行っているわけではなく、それを黙認したり、黙殺したりすることも、それぞれの立場でのカースト維持活動であり、いじめられている人からみればいじめの構造の一部なのである。

本来の村落では手心が加えられており、最悪の事態は避けられる。例えば「村八分」は最低限のコミュニケーションの余地は残されている。つまり「二分」が残されている。ところが、こうした村落制が意識されなくなると、先生も生徒もどこまでを残しておくべきなのかということがわからなくなる。ということで、最後のソリューションは実は村落構造体を是認してしまうことである。

「村落」を後進的なものと捉えると、非常停止装置としての自殺が有効な制度になってしまう。自殺されるといきなり今まで全く顧みられることのなかった「ジンケン」という幻がいきなり立ち現れる。ところがジンケンには収まりどころがないので、とりあえず教育長が頭を下げてみたり、市長が沈痛な面持ちで調査委員会を立ち上げつつほとぼりが冷めるのを待つ。つまり、自殺が起こると「ジンケン」という「カミ」を怒らせたことが問題となり、ほとぼりが冷めるまで頭を下げることになるのだ。かといって、たいした解決策が示されることなく、次の犠牲者が出るまで同じようなことが繰り返される。それは台風について反省してもまた別の台風がやってくるというのと同じメンタリティだ。

つまり、教育委員会はそもそも「自殺は仕方がないこと」と考えているということだ。かといって反省していないわけではない。ジンケンという神を怒らせた祟りがあったと考えて真摯に反省するのである。

いずれにせよ、日本人は西洋流の天賦人権の世界は生きておらず、封建制度以前の村落共同体に生きているのだという認識をしてはじめて、なんらかの問題解決ができるのではないかと思う。

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はあちゅうさんの議論とマウンティング社会

はあちゅうさんという女性がTwitter上で<議論>を展開している。全く無駄な議論でとても不快な気分になる。その一方で、いったい何が不快なのかということを考えてみてもよくわからない。

彼女は過去に受けた性的被害を告発し、相手もそれを大筋で認めている。しかし、過去に「童貞いじり」をしていたことを暴露されて「返り討ち」にあってしまった。性的被害の告発運動である#MeTooがしぼむことを恐れた支援者たちは、性的被害と童貞いじりを別に考えるべきであるというデカップリング論を唱えたというのが、大体のことの経緯である。

このことからまず日本人は「それはそれ、これはこれ」という議論を好むことがわかる。つまり対象物が動く。これは西洋流の議論では邪道だが、日本ではそうは見なされない。つまり、日本流の<議論>は人物が固定されており、事象が動くのだと言える。これは、はあちゅうさんは「女性の味方」だし「男性が性的な経験を元にいじられても特に問題にならない」だろうということであり、はあちゅうさんを正当化することで同じ属性である女性の権利が拡大するだろうという理屈であり、構造としては筋が通っている。

しかしはあちゅうさんは、極めて擬似近代人的な自意識を持っているので「これは議論を展開しようとしているのだ」と開き直った。多分、ここが不愉快さと違和感の原点なのではないか。この擬似近代人的な自意識を作ったのは田原総一郎だが、彼の「議論ができる社会」は西洋型の問題解決を前提としたものではない。はあちゅうさんはこれを見事に引き継いでいる。

田原総一郎は今でも徹夜で<議論>を戦わせる番組をやっている。これが人気なのは日本の村落的な話し合いの空間に近代的な意識を組み合わせることに成功したからだろう。

この番組は実は問題解決を前提としたものではなく、保守村とリベラル村の人たちの村落内での位置をめぐる小競り合いであり、課題には意味がなく、’参加することに意味がある。つまり、日本にはまず集団があり、どの集団に属してどれほどの発言力を持つのかということを延々と競っているのである。ここから降りることは領土を失うことなのだが<議論>にさえ参加していれば、ニッチが得られ、全く問題解決ができなくても言論界で食べて行けるということである。その証拠にこれだけ議論が白熱しても日本が抱える政治的な問題は何一つ解決していない。

同じようにはあちゅうさんがやろうとしているのは<議論>を歓喜することでマスコミに取り上げてもらうことだ。実際に朝日新聞が#MeToo運動についての記事を書いている。つまり議論そのものを継続する必要があり「童貞いじりがどこまで許されるのか」を決めようと提案している。これがいかにめちゃくちゃな議論なのかということは、問題をずらしてみるとよくわかる。

例えば「ハゲいじり」はどこまで許されるのか<議論>することを考えてみよう。高橋克実のようにハゲを隠していない人ならいじってもいいのか、それとも本人が認めるまで黙認すべきなのかを熱く語り合うことはできるだろう。また、西洋人のようにイケメンならハゲてもよいのかというディスカッションもできる。当事者たちのインタビュー記事を交えて面白く構成すればそれなりに社会的に有用な読み物ができるだろう。だが、それは何かを解決するのには全く役に立たない。

また光浦靖子のように不美人を売りにしている人をいじっていいのか、それともそれは人権侵害なのかということを<議論>してもよいかもしれない。指をさして笑うのはいいが、叩くのはダメというルールブックを作ることも可能である。光浦さんも洗練されてきてしまっており、彼女の「商品性」が損なわれていることが是か非かを話あうこともできるだろう。これも同様に何の役にも立たないし、教室や職場で不美人であることを理由にいじめられている人たちにとっては何の救いにもならない話し合いだ。だが、本は売れ「不美人評論家」の仕事は増えるかもしれない。

議論として意味があるのは、女性の社会進出に伴って性的な被害が増えてきているということである。実際に女性たちは問題に直面しており、これを社会的に解決することで彼女たちが社会貢献できるチャンスを増やすことができる。つまり、西洋的な議論というのはなんらかの目的意識を持っている。だが、日本の議論にはそれがない。なぜならば話し合うことそのものに意味があるからである。強いて重要な点をあげるとすれば、誰が何をいい、誰とつながっており、どの程度受け入れられているかということである。

ここから翻ると、はあちゅうさんの<議論>は、群れの内部での彼女の地位を上げるための行為であり、西洋的な議論とは言えない。これがはあちゅうさんの議論が極めて「村落的である」という理由である。 しかしながら、何が「村落的」なのかというのは、感覚的にはわかってもまだその輪郭がぼんやりしている。

いずれにせよ、群れの序列を上げるために大騒ぎしてみせるという行為は、実は日本人にとっては極めて自然なものだと言える。これが学校内で行われているのが「スクールカースト」である。スクールカーストは教室という閉じられた空間の中で行われる地位をめぐる争いである。地位をめぐる争いが行われるのは、地位そのものの基準が曖昧であってなおかつ不安定なものだからだ。地位を確保するためには常に相手を監視し、カーストをあげる戦いであるマウンティングに参加していなければならない。

ここで、前回みたはフィントンポストの高校生の「いじめは楽しい」という記事を思い出してみよう。いじめに参加している人たちはみなその行為を楽しんでいるように見えたからいじめはなくならないだろうと言っていた。彼はそれを遊戯のように見ていたのかもしれないが、実は日本人にとってこのマウンティングこそが本当に大切なことなのかもしれない。つまり、学校はいじめというマウンティングを習得するための場であり、学問というのはそのマウンティングの一要素でしかないということになる。

この狂った認識からすると、学生の本分はいじめということになる。もっと詳細にいうと、実際に行われているのはいじめではなくマウンティングによる地位の獲得闘争である。つまり、いじめには犠牲者もいるが、カーストを勝ち取った勝者もいるということだ。だから、学校をなくすか、集団行動をなくさない限りいじめはなくならないし、闘争に負けた人には逃げ場がないのだから、人生そのものから脱落するしかない。

はあちゅうさんのような「キラキラ女子」はこのマウンティングの勝者であると言える。だから議論も「問題を解決する」ものではなく、自分のコミュニティでの地位を確認し、できれば上に上がるためのツールなのであり、そのために童貞をいじめても何の罪悪感も持たないのだ。

このマウンティング理論を使うと、例えばネトウヨがリベラルをいじめて喜ぶのはどうしてなのかとか、護憲派リベラルの担い手であるべき人が実は憲法第9条が何項あるのかを知らなかったこともよくわかる。つまり、日本人にとってロゴスは立場をあげるための道具でしかない、ロゴスそのものには大した意味はないのである。

ここまで見てくると「村落的」という言葉が何を意味しているのかだいぶはっきり見えてきたのではないだろう。

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護憲派リベラルは息をしているのだろうか?

政治についての記事をよく書いている。安倍政権に批判的な記事が多いので「反安倍」の人が多いのではと勝手に思っている。世の中で「リベラル」という人たちである。だが、その人たちからの声が聞こえてくることはない。リベラルは息をしているのだろうかとよく思う。

いろいろ考えると、日本人が考える政治論議というのは、西洋的な教育を身につけた人たちの考える政治て議論とは違っているのではないかと思える。しかし、その論理的な構造を当事者たちから聞くことはできない。そこで、いろいろな人の話を聞いたりする必要があるのだが、Twitterには政治的議論が溢れており、ついにはお笑いタレントもこの分野に「進出」してきている。

一方、リアルな世界で実際に政治的議論をしている人を見たことがないし、Twitterで政治議論をしている人も「文才がないからTwitterに断片的なつぶやきを書き込む意外できない」と堂々と発言する。文才がないのではなく意欲がないのだと思うのだが、意欲がないのはその議論にそれほどの意味を見出していないからだろう。そこで、さまざまな断片を切り取って、なんとなくそれらしい形を作り出してゆくしかないと思いつめることになる。

いろいろ考えを巡らせてゆくと「村落的思考」という単語が浮かび上がってゆく。なんとなくわかったように感じられるキーワードではあるのだが、何か村落的なのかということはわからない。

先日、ある市民系の団体の前を通った。ポスターに「憲法第9条を改正すると戦争になる」と書いてあったので、なぜそうなるのか聞いてみることにした。ポスターを掲示したりレターを配ったりして宣伝しているのだから「待ってました!」と言わんばかりに人が飛び出してくるのかと思いきやそうではなかった。

時々立ち寄るその事務所は、老主婦のサークルのようになっており実はあまり政治に詳しい人はいない。時々若いお母さんたちも参加しているようだが、子育てが終わると「卒業」してゆくらしい。残るのは卒業のない介護などに携わる人たちだけだ。つまり、彼女たちの主な関心事は老後の不安解消と子育ての問題解決である。その他に環境系(割り箸を集めたり、原発に反対したりしている)などをやっている。そういう現場が「護憲運動」を支えているのである。護憲運動は忘れられた彼女たちの運動なのである。

なぜ憲法第9条を改正すると戦争になるのか、その留守番の人は知らなかった。民進党が分裂した先の衆議院選挙で誰を応援するか聞いた時「知らない」と答えた人たちなので、まああまり期待はしていなかった。

ところが、知らないのはそれだけではなかった。実は憲法第9条に一項・二項があることも知らなかった。ということは当然安倍首相が何を主張しているか知らないということになる。なぜならば安倍首相の提案は現行の二つの項目にもう一つを追加しようというものだからである。

面白かったのは(いつも彼女は興味深いことを言うのだが)「この事務所に詰めているんだから、ちゃんとわかっていないとダメなんでしょうけどね」と言っていたことだ。女性がこういう時には「同調圧力はあるが」「私は興味がない」という意味であることが多い。つまり、個人としての意見はないが、護憲村に住んでいるから私は護憲であると言っているのである。

これは西洋的な政治の文脈では無知蒙昧な戯言だが、日本的な村落共同体ではむしろ当然の感覚と言える。ここで異議申し立てをすると「村八分になってしまう」かもしれないが、もともと興味もないのだから「事を荒立てる」ほどの価値を持っているわけでもない。だがこれを「よそ者にはうまく説明できない」のである。すべて漢語さえ混じらない日本語で説明ができることから、これが日本人のもともとの気性であるということがわかるのだ。

面白いなと思ったのは、誘導尋問的に質問してゆくと何にでも頷くか「うーんそれは違う」と考え込んでしまうというところである。これも「いいえ」と言わない日本人にはよく見られる態度だ。極めて同調性が高く自分の意見を持たないようにしつけられているので「福祉系のサークルに入って政治的な主張を持つためには戦争反対のポジションをとらなければならない」と思い込んでいるのではないかと思った。

このように、日本人はかなり独特な理論形成をしていると言える。一方で、政治について考えていると日本人としてはちょっと違和感のある価値体系を身につけてしまうとも言える。

憲法第9条を変えると戦争になるという理屈自体はあまり難しいものではなさそうである。つまり、安倍首相は戦争をしたがっており、彼らの策動に乗せられて憲法を変えてしまったら何かとんでもないことが起こると疑っているのだろう。これも村落的である。つまり、誰かの意見を認めてしまうことは、その人の村落上の地位を認めてしまうことなので、その他のことも受け入れなくてはいけないということだ。日本人にとって議論は「モノ」についているのではなく「ヒト」についているのだ。

だから、それから先の議論はすべて無効なのである。最近みたのは「安倍首相は対案を示せと言っているが、これは彼らの策動であって、気に入っているのだから変える必要はない」というものだった。つまり、安倍首相が気に入らないから改憲は認められないと言っている。

これはこれで理屈としては通っている。だが、この理屈は「安倍首相のような醜悪で利己的な首相が言い出しているのだから悪」という理屈である。人について判断している村落的な政治理解だ。これを裏返すと「清廉で爽やかな人が別の理屈を使って彼女たちを説得したら、彼女たちはきっと説得されてしまうだろう」ということになる。個人として意見にコミットしていないのだから当然である。子供の頃から知っていて(つまり親が政治家ということである)一生懸命福祉などで汗をかき、顔つきが爽やかなイケメンを想像してみると良い。

そこで思い浮かんだのは小泉進次郎氏だった。多分、小泉さんが首相になったら改憲議論は一気に進むだろう。「一生懸命でいい人そう」だからである。議論の中身は全く関係がないのではないだろうか。

つまり「なんとしてでも変えたくない」というのは実は別に変えてしまっても構わないというのの裏表になっているということになる。

かつては護憲派だったので、その当時ならば「これはリベラル消滅の危機である」などと思ったと思うのだが、今はそうは思わない。その程度の理解と支持しかないんだったら、自民党はおたおたしていないで国民投票を実施するべきだと思う。多分護憲派の運動は壊滅状態で、支持者はそれほど多くない。お付き合いで「戦争はいけないから」といって形の上だけで反対している人しかいないかもしれない。

ここからわかるのは護憲派リベラルは消えてしまったわけではなく、もともといなかったということだ。するとTwitter上で行われている護憲派の議論は何なのかという別の疑問が湧く。それを理解するためには、もともと村落的議論は何を目的に行われているのかということを考えなければならない。

次回ははあちゅうさんという諦めの悪い女性の「議論」について考える。

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今や存在そのものが麻薬になりつつあるNHK

テレビを設置すると自動的にNHKと契約したと見なされて受信料を支払う必要がある。一部には「裁判をするまでは払わなくて良い」という人がいるのだが、裁判をすると負けてしまうのだから、実質契約の義務を負っていると言っても良いだろう。この裁判の結果を見て「NHKを見たくない人もいるのに不公正だ」と感じた人も多いのではないかと思う。

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日本人の内向きさはどこからくるのかあれこれ考えてみる

先日、選挙結果を見ながら記事を一つ書いた。記事で言いたかったのは「日本では都市と地方で関心が異なりつつある」ということだったのだが、それでは誰も興味を持たないと思ったので「安倍首相が民意をつかんだ」というようなタイトルにした。

日本の選挙結果には興味があるのだが、安倍政権側が勝つことはわかっているのだから分析してみてもあまり面白くはない。イタリアやスペインでは都市部と地方部の分離が起こっているので、なぜ同じ先進国脱落組の日本に同じような動きが起こらないのかという問題について普段から考えている。そこで都市部の票を見てみたのだ。

そこでわかったのは日本の都市部の広がりが思っていたよりも小さいということだ。せいぜい都心部だけが都市と言えるのであって、イタリアやスペインほどの広がりがないのである。カタルニアのようなことが日本で起こるためには九州程度の地域が繁栄する必要があるのだが、日本は全体が地盤沈下しているのでこうした動きが起こらない。さらに大阪のように南北格差がある地域もあり、南でポピュリズム汚染が起きても北部が同調しないという現象もある。

ここから予想できるのは日本で景気対策がうまく行くと「自民党離れ」が起こるので、自民党は景気を悪くしておいたほうが政権が維持できるという結論である。つまりなんらかの事象について観察すると、ある仮定が得られる。

その一方で、多くの日本人がこのような事象には全く興味を持たないこともわかっている。日本人は関係性には反応するが、政策などの「オブジェクト」に対する反応はほぼないと言っても良い。だから、人物の名前を挙げた方が「引きが強くなる」のである。だが、それが時にはハレーションを引き起こす。ではそのハレーションは良いことなのだろうか。悪いことなのだろうか。

結論から言うとハレーションにはそれほど良い効果はない。かといってそれほど害になることもない。これも日本人のコミュニケーションの特性になっているようだ。

このエントリーは書かれてからしばらくは忘れられていたが一週間程度経過して突然閲覧数が伸び始めた。いわゆる「バズった」。その波及の具合を確認してみよう。

最初に異変に気がついたのは11/1にメンション付きのツイートが増えたことだった。シェアボタンなどを押すと自動的に送られるものだ。

Facebookからの流入が増えていた。つまり誰か有名な人がエンドースした結果、そのフォロワーが閲覧し「読みましたよ」というつもりでシェアボタンを押したのではないかと思われる。

とはいえなんらかのコメントがついたわけではない。単に「読みましたよ」というだけだ。つまり、作者に対するリアクションではなく、紹介した人と同じ経験をしたという意思表明でありある種バッジの役割を果たしているのではないかと考えられる。注目すべきなのはエンドースメントに二次的な広がりはないという点だ。Twitterからの流入はそれほど期待できないのである。

そして次の日になってはてなブックマークからの閲覧が増えた。はてなブックマークは検索ができるので調べてみたところ否定的なコメントが多く見られた。単なるお遊びではないかというものと、分析が雑だというものだった。どちらも当たっている。本人も「雑だなあ」と思っているので特に反論するところはないのだが、こちらは一度シェアされるとそれなりに「外野」の人たちが見にくるのだなと思った。つまり冷笑的な広がりのほうが二次的に広がりやすいのである。

冷笑的なコメントには核がない。核がないゆえに若干広がりやすいのではないか。

このどちらも「書いた本人のあずかり知らぬところで盛り上がっている」という意味では完全に等価である。つまり、悪口もレコメンデーションも「同じ価値がある」ということである。だが、広がり方には違いがある。と同時に冷笑のほうが遅れてやってくる。少数のアーリーアダプターであるインフルエンサーがおり、冷笑はラガードなのだと言える。企業が好ましい効果を求めてインフルエンサーを探す理由がわかる。インフルエンサーは露出を増やすのだが、それは必ず冷笑系のコメントを伴うのである。

なぜこのような行動になるのかを考えてみた。いくつかの行動原理があるのではないかと思った。

第一に、日本人は接触によって他人から影響を受けることを極端に嫌うのではないかと思う。誰かに何かをいうということは相手から影響を受けるということである。日本人は賛成意見であれ、反対意見であれ影響を受けることを極端に嫌う。

例えば、最近「賛同的な意見がTwitterで寄せられたとしてもそれに追加的な譲歩を乗せてはいけない」ということを学んだ。相手は教えられたいとは思っていないことが多く、「追加意見に影響を受ける」ことを恐れて反応を止めてしまうのである。これは「違った情報が出てきたときにノーと言えない」からなのではないかと思う。つまり対象物ではなく「賛成」「反対」という態度表明のほうが優先順位が高いのである。

相手は賛同しているのだから、ここではそのポジションを崩さずに「そうですね」などの共感的なフィードバックだけである。たまに語りが止まらなくなる人もいるが、大抵は同意されると満足するようだ。悪口をいっている人も、その悪口が相手に届いてしまうとそれに反論される「リスク」がある。反論されるとそれに影響されるリスクがあるので、2ちゃんねるやはてブのようなところから離れて冷笑的な態度を取るのだろう。

ここで本来考えるべきことは「変質」が必ずしも負けにはならないという点だ。変質は個人の成長につながる可能性があるのだが、受け身で情報を覚える教育ばかりを受けてしまうと「いうことを聞いたら負け」というような思い込みが生まれるのかもしれない。先生と生徒という関係が固着してしまうのが日本の教育だからだ。

従って、ここから二次的に出てくるのが他者には興味がなく優劣のバッジのようなものだけを欲しがっているのではないかと思う。賛成反対が「左右」だとしたら「高低」に当たる関係も固着するのだろう。

例えば「日本人は韓国人よりえらい」という高低の関係がある。いったんこういう思い込みが生まれるとどういうことになるのだろうか。

最近、柳美里という作家のところに「通名を使うのは止めてはどうですか」というTweetを送っている人がいるのを見て大笑いしてしまった。この人は「ユウミリ」という本名で活動しているのだが、そのことを知らなかったのだと思う。つまり、本人のプロフィールを知らずに、在日=通名=狡猾という図式を持っているのだと思う。だから特に韓国系の作家に興味があるわけではなく、単に「在日には何を言ってもいいのだ」と思い込んでいるということになり、それを自動的に当てはめているのである。

このことはある種の救いにはなる。例えば柳さんはこうした声を聞いても「単に記号としての韓国」に反応が集まっているだけなのだと考えればよい。その韓国は実際に東京から数時間で行けるあの韓国ではないし、柳さん個人に対しての中傷でもないということになるだろう。

これは応用ができる。丁寧に対応したり、同じ土俵に立っていないということを見せることによって「相手より格上である」という印象が与えられるのである。こうしたスキルに慣れている人がいて、SNSでコメンターを相手にしないという態度を見せつけることで「高低差を演出」している人たちがいる。

最後に日本人は公共や社会というものに関心がないのではないかと思う。つまり、お互いにアイディアを出し合えばよりよい智恵が得られるというようなことを信じていない。普段から「社会のためには個人を抑制して我慢しなければならない」ということだけを教えられるのだから押し付けにはうんざりだと考えても無理もない。新しい参加者に対して「お前は黙っていうことを聞いているべきだ」という高低の関係を押し付けることによって、コミュニティは核を失ってゆくのではないか。ある人たちは単にインフルエンサーに追随するようになり、別の人たちは冷笑的に外からコミュニティを見るだけになるのではないだろうか。

ここで重要なのは、集団がその要件を失ったとしても、個人主義が徹底しているわけではないので、自分一人の考えというものは持てないという点だろう。日本人は集団で行動しているように見えてしまうのだが、こうして作られる「集団」は集団の要件を満たしてはくれない。意思決定につながる情報伝達のプロセスがあるわけでもないし、集団による保護機能もない。

それがディスコミュニケーションを生み出しているのだが、このディスコミュニケーションは何を生み出すのだろう。

例えばこんな事例があった。トランプ大統領の娘が来日し、安倍首相がそこに57億円支出すると表明したというニュースが流れた。これは共同通信の報道を鵜呑みにした新聞社各社の誤報だったようだ。だがそれを鵜呑みにした人たちが、普段からの安倍首相の言動を思い出したのか「海外にばらまくのはけしからん」と騒ぎ出した。しかし、後になってこれは世界銀行が関与しているファンドであり、すでに国会にも報告があったようだという情報が加えられた。すると「サヨクの早とちりである」という応酬があった。これも普段からおなじみのパターンである。さらに夜になると「実は世界銀行はアメリカの関心をつなぎとめるために、トランプ大統領にすり寄っておりガバナンス上の問題が出ている」という話や、外貨準備金は塩漬け資金と言われているが実は利用しようと思えば利用はできるのだなどという情報が出てきた。

つまり、この事例を追いかけていると「世界銀行の問題点」とか「グローバルインバランス」について勉強することができるのだが、相手を叩くことにしか関心がないために、いつまでも知識が増えて行かない。

つまり、核がなくなった集団では知識が更新されないので、成長が止まってしまうのだと言える。逆に高齢化して成長が止まってしまったからこのようなディスコミュニケーションが起きてしまうのかもしれない。今まで「日本人」を主語にしてきたが、これを近所の頑固なおじいちゃんに置き換えても同じような文章が書けるように思えるからだ。

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民進党のグダグダぶりに見る日本が集団主義ではないわけ

「日本は集団主義ではないのか」という疑問がツイッターで流れてきた。ホフステードについて教えたら、代わりに別の本を紹介してもらった。さらにQuoraでも日本は集団主義かという質問があった。

ここで「日本は特に集団主義でもないのにどうして集団主義だという人が多いのか」という疑問を持った。真面目に考えてみてもいいのだが、それではつまらない。そこで、民進党のグダグダぶりから日本が集団主義ではない理由を考えてみたい。

民進党は短い間に代表が何回も変わった。選挙の顔になると期待された蓮舫代表だったのだが、東京都議会選挙で惨敗すると途端に「蓮舫のせいだ」という声が起こった。そこで、前原さんが新しい代表になったのだが、独断で何の話し合いもしないで希望の党との合流を決めてしまった。しかし、希望の党のガバナンスがめちゃくちゃであることがわかり有権者の期待が失速すると、今度はたちまちのうちに前原批判が巻き起こり「今すぐやめろ」とか「いややめない」という話になった。だが、冷静に考えてみると、前原さんの方針は議員総会で示されてみんなで賛成したものだった。つまり、前原さんの思いつきにみんなで飛びついたのである。

ここまでのグタグダぶりはマスコミから伝えられる他、Twitterでも発信されていた。いくらなんでも反省しただろうと思ったのだが、今回の大塚代表になってもまだもめているようだ。共産党との連携に期待する人たちは蓮舫さんを担ごうとしたのだが「協力する」とか「しない」という話になり、独自路線を期待されている大塚さんが代表になった。しかし、共産党連携派の人たちは納得しておらず、さらに分裂する可能性があるのだという。背景には連合の中にある左派と右派の対立がある。連合は名前が示す通り複数の労働組合の共同体でありまとまりがない。大塚さんは分党を狙っているのではないかという懐疑派と共産党のような卑しい人たちとは組めないという人たちがいていつまでもいがみ合っている。

民進党が一貫しているのは「共通の目的を作って一致団結しよう」という気持ちが全くないという点である。つまり、個人が集団に貢献しようという気持ちがみじんも見られない。つまり、民進党は集団主義的とは言えない。

これを民進党固有の問題だとみなすことはできる。では、希望の党はどうだっただろうか。こちらは、小池さんの同意なしに代表を変えられないという規則になっているようだ。民進党出身者が大半を占めるのに、彼らは党のことは決められない。選挙名簿も小池さんの独断で決められるようになっており、民進党出身者には不利なものだった。その上「ガバナンス長」というような仕組みもあり、個人である小池さんが議員の言論を統制できるようになっている。つまり、集団の意思疎通と意思決定がそもそも最初から全く信頼されておらず、独裁主義と言える。独裁は集団主義とは言えない。

こうした独裁にもかかわらず民進党の一部が合流したのは「党の規則がどうであれあとでどうにでもなる」と考えた議員が多かったからだろう。つまり、民進党は「集団で決めたことでも都合が悪くなれば覆すことができる」という認識を持った個人によって構成されていることになる。

さらに、選挙期間中に細野さんや若狭さんは勝手に小池さんを代弁して好き勝手なことを言っていた。後になってわかったのは、彼らは話し合いをしておらず、お互いに何を考えているのかさっぱり理解していなかったようである。

ここまでを見て「集団で何かを決めてそれをみんなが守る」というような政党は皆無だった。しかし、それは民進党出身者がバカだからんではないのだろうか。

ということで、維新の党を見てみよう。こちらは丸山穂高という議員が「惨敗したんだから代表選をやるべき」だと発信した途端に、ほぼ部外者である橋下さんから罵倒された。しかし、橋下さんはそれがどのような影響を及ぼすかを考えなかったようである。丸山議員は選挙区で勝っているので票を持って外に出ることができる。そして、本当に離党してしまった。丸山さんは票を持って自民党に行くこともできる立場になった。今になって松井府知事・代表が「橋下さんは言いすぎた」などと言っているが、発信が始まった時には何も言わなかった。松井さんは代表でありながら定見がない。つまり党のガバナンスを行っている人が誰もいないのである。

この三党の事情を見てわかることは何だろうか。それは集団の中で意思疎通ができておらず、それぞれが好き勝手に自分の言いたいことを言い合っているということである。さらに集団は個人を守ってくれず、不祥事を起こしたりすると「党員資格停止」とか「除名」などの処分がいとも簡単に下される。それぞれの党がどのようなイデオロギーによって結びついているのかもさっぱりわからないし、ましてや血族集団のように離れようとしても離れられないような集まりでもない。

ここでわかるのは日本の政党は、意思疎通もできていなければ、何のために集まっているのかもわからず、また安全保障の装置としても機能していないということである。これではとても集団とは言えない。

では、自民党は集団としての体裁を整えているだろうか。自民党の人たちが安倍首相に逆らわないのは、政府の役職を安倍首相が決めるからだ。だからこちらも後ろから安倍さんを撃つような発言が時々出てくる。最近では麻生副総理が「北朝鮮のおかげで選挙に勝てた」などと言い出した。

日本で集団主義的と言える政党は公明党と共産党しかない。どちらも何のために集まる集団なのかということが明確であり、個人よりも集団の考え方の方が優先されるという世界である。だが、日本で政党を作ると集団になれるのはごく例外的な団体だけなのである。

では、なぜ日本は集団主義の国と呼ばれるのだろうか。第一に個人の考えは全く尊重されず、評価されるのも集団だという事情がある。例えば個人の主張はそれほど重要視されないが「東大出身の人が何か言っている」ということが信頼される社会である。

さらに、個人同士の調整をするのに顔を出した個人が出てくることが少ない。どちらかというと匿名のままで無言の圧力をかけたり、同調圧力を使って「規則だから」といって個人を抑圧することが多い。この個人を隠したがる態度はかなり徹底している。例えばTwitterでは個人で政治を批判する人はいない。リベラルあるいはネトウヨというポジションをとってコピペした意見が交わされている。これは個人でポジションを形成し、個人の名前で発言するという文化が全くないからである。

確かに政治的発言にはリスクがあると考えられるのだが、WEARでも同じような姿勢が見られる。こちらでは顔を隠した個人がうずくまるようにして洋服のコーディネートを披露するという構図がよく見られる。つまり、個人を表明するということは日本では避けられなければならない行為だと考えられているようだ。個人の意見は受け入れられないが、個人は攻撃の対象になってしまうからなのだろう。

ここからわかるのは、日本の集団は特に何かのために機能しているというわけではないということとだ。だが、個人主義が確立していないので他人に圧力をかけるために集団を使うということだけである。

これを集団主義と呼ぶことはできない。強いて言えば「全体主義」とか「封建主義」と呼ばれるべきだろうが、実際には個人主義が確立していないだけでなんとか主義とは言えないのではないかと考えられる。

政党の場合はこれがかなり悪い出方をしている。集団としてまとまることもできないし、かといって個人で何かを考えて打ち出すこともできないというような人たちが、まとまれないままで好き勝手なことを言い合っているように見える。

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日本人と古代の朝鮮半島利権

沖ノ島について冗談めいたエントリーを書いたことがある。沖ノ島は朝鮮半島(釜山)との直線距離にあったので、利権化されていたのではないかという他愛もない説である。世界遺産登録された結果検索が増え、このブログの中でも多く読まれる記事になってしまった。

いい加減な記事なのだが、本当に日本人はまっすぐに朝鮮半島を目指したのかという疑問がある。そもそもなぜ日本人は朝鮮半島にどんな用事があったのだろうか。

実は日本人は古くから朝鮮半島との間を行き来していた。3世紀の魏書弁辰伝には、弁韓は鉄の産地であり、韓、濊、倭などが採掘していたという記述があるという。記述を読むと倭人が朝鮮半島に住み着いて鉄を採掘していた可能性すらあるという。

一般的に「倭」が日本だとされているので、日本人がわざわざ半島に渡って鉄を採掘していたということになる。

鉄を持っていると、農業生産が上がり武器も作ることができる。つまり、国力が増して周囲の国よりも大きくなることができる。つまり、当時の勢力にとって、鉄は必要不可欠な戦略物資だった。

ただ、この弁韓は巨済島の奥にあたる地域で釜山からは離れている。対馬からは巨済島が近いので、対馬・壱岐・松浦郡・糸島郡・那の津がメインストリートだったことがわかる。魏志倭人伝でもこのルートを通って邪馬台国に渡っている。いずれにせよ沖ノ島を通るルートはせいぜい秘密の裏ルートくらいの意味合いしかなかったのかもしれない。

最初「日本人が朝鮮半島に鉄を取りに行った」と書いたのだが、この認識は正しいのだろうか。

中国大陸には華夏と呼ばれる集団と越と呼ばれる集団があり、それぞれ別の言語を話していたとされる。これらの民族が混成されて漢族と中国語という概念ができてゆくのだが、今でも北京の人と広州の人たちはお互いに理解ができず、遺伝子的にもばらつきが多い。越の人たちが住んでいる地域を百越と呼ぶ。この百越の人たちのことを倭と呼んでいたようだ。

倭人はもともと長江周辺で稲作をしていたのだが、華夏の人たちに押し出されるように南下し、その一部が朝鮮半島から日本列島にやってきたと考える人たちがいる。DNA解析をするとこの説が裏付けられるそうだ。百越は中国南部からベトナムにかけて広がっていて、オーストロネシア系の言語を話していたと考えられている。

この説をとると倭人は中国人だということになってしまう。つまり中国人が日本にも住み着いたということになってしまうのである。これがおかしな話なのはなぜだろうか。それは倭人が列島にきた時代には中国という国もなければ、日本という国も存在しなかったからである。

面白いのは中国から見た文明や国という考え方である。倭人はどうにか意思疎通が可能な人たちだったらしい。が、その外側には全く意思疎通ができない人たちが住んでいる。そして意思疎通が可能な人たちは時々中国の都にやってきて地方の文物をお土産に面倒な挨拶をしている。例えば外国人がいきなりやってきて「朝貢」という概念を説明しても笑われるだけだろう。つまり、当時の北部九州の支配者たちは、中華圏の文明をある程度理解していたということになる。

つまりある程度文明化してから列島に渡ったと考えた方が自然なのである。

いずれにせよ、日本人というのはかなり曖昧な概念で、あとから作られた可能性が高い。このことは日本人の後進性を表しているというわけではない。朝鮮半島も似たような状態だった。

魏書弁辰伝には韓と濊という2つの概念がある。このうち濊は北部からやってきたツングース系かツングース系とモンゴル系の混成民族だという説が一般的なようだ。現在の韓国人はツングース系とは言えないのだから、残りの韓が現在の朝鮮民族なのかという風に思いたくなるのだが、実は朝鮮民族がどのように成立したのかということもよくわかっていないようである。中国が京畿道あたりまでを支配していた時代にはその南にある漢に服属しない地域を韓と呼んでいた。が、北部にも服属していない領域がありそこにはツングース系の人たちがいた。これらが混成して現在の朝鮮人・韓国人ができたと考えるのが自然なのだろう。

韓の南に倭があったとされていて、この倭の領域が半島の最南端を含んでいるという説がある。つまり倭人は対馬海峡と朝鮮海峡を挟んで北部九州と朝鮮半島南部を領域にしていた可能性がある。そうなると、今の日本と倭の領域はずれていたということになる。今の日本は東日本から北部の旧蝦夷地を含んでいるが、倭人がそこまで進出していたのかはよくわからない。少なくとも九州南部にはクマソとかハヤトなどと呼ばれる人たちがいがいたことがわかっており、倭人の領域ではなかった。

中国の人たちにとって意思疎通が可能だったのは邪馬台国までだ。今どこにあったのかよくわかっていない邪馬台国より向こうは「何があるのかよくわからないし、記述する価値もない」ということになっている。だから日本列島の人たちの祖先が倭人だったのか、それとも倭人と地元民の混成だったのかということはよくわからないし、仮に地元の人たちがいたとしても彼らが何系統の言語を話していたのかということもよくわからない。

いずれにせよ、この時代には中国という枠組みもなかったし、朝鮮・韓国という枠組みもなかった。日本という枠組みもなかった。だから、誰が日本人なのかということを考えても無意味なのである。

では、日本人はいつからどのような理由で日本という枠組みを自明のものとして捉えることになったのだろうか。弥生時代の倭人は稲作と鉄文化を持っていた。稲は種籾として持ってきて日本列島で育てることができたが、鉄がどこにあるのかわからなかったために朝鮮半島南部に権益を持ち採掘していた。ところが5世紀か6世紀ごろになると日本でも鉄が作れるようになった。日立金属のウェブサイトに次のような記述がある。

今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。

九州に接続する地域で国産の鉄が取れるようになった。それでも貨幣は中国から輸入する必要があったが、秩父地方で胴が発見される。国産の和同開珎が発行されたのは708年だそうだ。このようにして日本の経済は徐々に大陸から独立してゆく。

さらに、外交戦略上の失敗もあった。朝鮮半島南部には新羅と百済という2つの国ができるのだが、ヤマト王権は百済に肩入れする。だが、百済は新羅との競争に負けてしまったので、ヤマト王権は半島への足がかりを失ってしまった。

すると、半島や大陸との交易は外交の一環ということになるのだが、朝貢していた国が傾くと外交も途絶えがちになった。さらに、航海技術が発展し民間貿易をする人たちが出てくると、わざわざ偉い人たちが危険な海を超えて物資を持ち帰る必要がなくなった。こうした事情から日本の政治は内向的になり、半島の事情にも疎くなってゆく。このようにして次第に列島の西部を版図とする日本という枠組みが作られたのではないかと思われる。当時の東部はまだ未開の地で国という概念はなかった。

日本史が混乱するのは、明治時代に西洋から国民国家という概念を輸入したからだろう。国民国家という概念が自明に成り立つためには、もとから国の領域に単一のまとまりを持った人たちが住んでいなければならない。日本人はそもそも単一のルーツを持った血によってまとまった民族集団だという幻想が生まれることになったのだろう。国会議員の中には神話を基に日本人意識を高めるべきだなどと発言する人もいる。

皮肉なことにこの考え方は日本に支配された朝鮮半島にも持ち込まれた。日本列島にいる人たちが単一民族だとすれば、そこから独立するためには朝鮮民族も単一のルーツを持つべきであるという理由から、半島の南部にいた系統不明の人たちとツングース系と思われる北部の人たちの混成だったというような学説が支持される余地はない。代わりに朝鮮民族は5000年の歴史を持っているという自意識が作られた。

韓国人にとってみれば、北部の歴史は満州と同じツングース系の民族が住んでいたということは中国の一部だったということを認めることになりかねない。この議論は高句麗論争と呼ばれているそうだ。また、南部に倭人の拠点があったということは日本の支配権を正当化することになりかねない。代わりに対馬はもともと朝鮮の領土だったなどと言っている。

いずれにせよ、中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島まで、なんとか意思疎通ができる人たちとそうでない人たちがいたのだということはわかる。これらの人たちが同一言語を話していたとは考えにくく、今よりも緩やかで多言語的な共同体があったのではないだろうか。

現在の感覚で見ると、韓国は飛行機でゆくちょっと遠い場所だが、距離だけで見ると実はそれほど離れていない。佐賀県の唐津市から距離をとってみるとこんな感じになる。

感覚的には佐賀から宮崎や鹿児島に旅行するのと同じような感じなのだが、言葉が通じない人たちが住んでいた可能性を考えると九州南部の方が危険だった可能性すらある。地図感覚も現代になって作られたものだということがわかる。

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そもそも民族とは何なのか

国連は2008年以来、沖縄人は琉球弧の先住民族だと認定するように日本政府に勧告しているらしい。この勧告について自民党は「国連に撤回を求めるべきだ」として問題化しようとしている。

この発言には大いに問題がある。国益に反するので、国連に勧告撤回を求めるのはやめた方がいいだろう。撤回を求めている人たちは本土の代表であって「抑圧者」だと見なされる可能性がある。次に民族の概念は定義が曖昧であり、そもそも議論が成り立たない可能性が高い。沖縄選出の自民党議員に「我々は日本人である」という運動をやらせてもいいが、これは沖縄に住む人たちを分断することになるだろう。民族という概念は政治の産物なので、政治問題化しやすいのだ。

もし撤回を求めるとしたら、代わりに「第三者」に琉球諸島(そもそも琉球諸島そのものにも明確な定義が存在しないそうである)の住民へのアンケートを依頼すべきだ。民族というのは、その人のアイデンティティの問題だからだ。琉球弧の人たちは、ことによっては複数のアイデンティティを持っている可能性があるし、先島諸島の人たちが本島に住む人たちと違う民族意識を持っている可能性すらある。

民族は曖昧で複雑な概念である。

日本人はノルウェーにはノルウェー人が住んでいると思っているだろうが、実際はそれほど単純ではない。ノルウェーは長らくデンマークやスウェーデンと同君連合を組んでいた。なので、ノルウェーの言語はデンマークとスウェーデン語とあまり変わらない。しかし、それでは独立した民族とは言えないので「独自の言語」を取り戻す運動があり、従来の言語と独自言語の2つが公用語として採用されている。アイルランド人の多くはアイルランド語ではなく英語を話す。しかし、独立国に住みアイルランド人としての自己認識を持っており、アイルランド語が保存されている。

また、ペルシャ語を話す人はイランとアフガニスタンにまたがって住んでいる。だが、彼らは別民族とも同一の民族とも言えない。イランのペルシャ人はアフガニスタンのペルシャ系の人たちに対する差別意識がある。ペルシャ人は(トルコ系の言語を話す人と区別して)ペルシャ語の話者をさす場合とイランに住むペルシャ語系の人をさす場合があるそうだ。

ウズベグ人はロシアの統治を経てソ連で定義された。ウズベグ人の中にはトルコ系とペルシャ系の言語を話す人が含まれ、コーカソイド系とモンゴロイド系がいるそうである。ウズベグ人の中に含まれるタジク系の人たちだが、タジク語はペルシャ語の方言なので、この人たちはペルシャ人ともいえる。こうなると、何がなんだかさっぱり分からない。歴史的に「ウズベグ」と呼ばれる人たちがおり、イスラム系の非ロシア人をまとめる際に人工的に作られた概念らしい。だが、一度ウズベグ人という概念ができてしまうと民族意識が後から形成される。

民族という概念は時に悲劇を生む。ルワンダに民族対立があると信じている日本人は多いが、そもそもツチ・フツという概念はヨーロッパ系の人たちがでっち上げたものだと考えられている。バンツー系の支配層と被支配層に違った民族概念を与え「ツチはエチオピアからやってきた」という「事実」を作り出した。後にラジオのプロパガンダを真に受けたフツ系の人たちが、短期間で50万人から100万人のツチ系の人たちを虐殺したのだ。

北朝鮮と韓国に住む人たちは、自分たちを同一民族だと考えているが、朝鮮語と韓国語という別名称の言語(内容はほぼ同一)を話す。台湾に住む人たちは、同じ国に住み、ほぼ同系の言語を話すが、中国人だと考える人と、台湾人だと考える人に分かれている。中には「台湾人であり中国人だ」と考える人もいる。つまりこの2つの概念は二律背反するものではない。台湾にはオーストロネシア系の原住民がいて、話が複雑化する。誰が本来の台湾人なのかという問いに単純な答えはない。

日本人が「琉球人などという概念は存在しない」という主張をしているのと同じような主張をしている人たちもいる。それは中国共産党だ。彼らは「中国に住んでいる人たちはすべて中華民族だ」と主張している。やっていることは、少数言語の破壊と植民地政策だ。チベットの同化政策を見るとそれがよくわかる。

そもそも民族は定義のない概念であり自己認識以外には議論が難しい。加えて日本政府は、琉球人を否認することで少数民族を圧迫しているという印象を与える危険性すらあるわけである。

リスク・安心安全・日本人

池田信夫氏の観察が面白かった。経済学ではリスクを確率的な問題だと考える。だが、実際に日本人はリスクを確率の問題だとは考えていない。これは実感的に確からしい。だが、なぜそうなるのかを説明するのはなかなか難しい。

考えの過程はちょっと冗長だが、一言で要約すると日本人は合理的にリスクを管理できるが、その提供範囲はきわめて限定されるということになるのではないかと思った。

原子力発電の危険が確率の問題だという認識が成り立つためには、その運用の意思決定に参加できることが前提になる。原子力発電の問題ではこの原則が崩れているのではないかと思われる。そこで日本人には公共空間という概念がないという仮説が考えられる。日本人は意思決定ができる空間と意思決定はできないが影響を受ける空間を厳密に分けているのではないかということだ。そして、意思決定はできないが影響を受ける空間では「どんなリスクも許容しない」のである。

これはきわめて感覚的な問題だ。自分たちの手元にある音楽プレイヤーから流れる音は心地よい音だが、自分で音量や曲が選択できない音は騒音だという例えが浮かんだ。

原発を確率的なリスクの問題にするためには、国民の政治参加を容易にして、政治のもとで原発をコントロールすればよいことになる。だが、これは成り立ちそうにない。

日本人は和を嫌う。自分たちの意思決定圏に他人が入ってくるのを嫌がるのだ。自分の意思決定権が希釈されてしまうからだろう。その対になっているのは、そもそも意思決定できないところには関与したがらないという性質だ。だから日本人は民主的政治プロセスには参加したがらない。それよりも自分が関与できること(例えばアイドル、マンガ、ファッション、おいしい食べ物、最新の電子ガジェット)に時間を使いたいと考えるのである。

その意味では左翼の反原子力発電運動は決して収まらないだろう。彼らはそれを他人がスピーカーで流す大音量の音楽のように感じている。たとえそれがモーツアルトであろうと、単なる騒音に過ぎないのだ。

公共というものを「関与できる」「関与できない」に分けるといろいろなことが説明できる。

5年前の東日本大震災では人々は整然と行動した。日本人は整然としていてすばらしいということになっているのだが、実際には下手に動けば他人から大バッシングを受けることを日本人が承知していたからだろう。意思決定できないが、影響を受けるものの代表が「空気」だが、日本では空気を乱すと周囲から圧殺されてしまうのだ。

若者の「なんとか」離れは、すべて意思決定圏にない事象からの離脱だ。自分でコントロールできないものには近づかないのだ。これを他人が説得しようとしてもムダである。これを実感するのは簡単だ、LINEばかりしている若者にFACEBOOKのアカウントを作れといってみればよい。若者はおじさんコミュニティの意思決定に関与はできないが、影響は受ける。そこでコミュニティを切り離したいと考えるのだろう。

会社員のおじさんが本社に残りたがるのも、意思決定が重要だからだ。いったんここから外れた会社員は「コースを外れた」として明確に区別される。多分、地方に「飛ばされた」官庁からはやる気が失われるだろう。テレワークはできるかもしれないが、非公式のコミュニケーション(居酒屋で飲むこと)の方が意思決定には重要だからだ。意思決定は非公式なものなのだ。非正規の社員たちはもともとここから除外されているので、会社のためにやる気を出すことはないだろう。意思決定件は稀少な既得権益なのだ。

原子力村も他人の関与を嫌がる。5年前の原発事故ではここに混乱がおきた。実質的に意思決定してきたのは専門知識が分かる人たちだが、ここに知識のない首相が乗り込んだことで大混乱がおきた。専門家は「平易な言葉で説明しなければならない」などとは思わず薄ら笑いを浮かべながら「政治家は馬鹿だなあ」と思っていたようだ。軍事的にも同じ問題が起きているのではないかと思われる。自衛隊は専門用語が通じる米軍にはシンパシーを感じているだろうが、政治家が軍事に関与することに嫌悪感を持っているのではないかと思われる。法律がコントロールできるのは公式の意思決定だけなので、いくら法律を作っても問題が解決しないのは当たり前だ。

ここから得られる結論は簡単だ。リスクを合理的に管理したなら、それを専門家だけで解決して、周囲にはゼロリスクだと説明することだ。そして決して失敗しないことである。安倍政権は日米同盟の深化には何のリスクもないと説明した。有事が起きない限りこの説明は合理的ではないが、有効なのだろう。そのためにはすべての軍事情報を隠蔽することが必要だということになる。音さえ聞こえなければ、自分たちに関係ないから誰も反対しないのだ。また、意思決定圏にない事柄を合理的に理解しようとする人もいない。

もうひとつの解決作は、公式の(つまり表立った)意思決定を徹底させ、異議があれば納得ができるまで議論する姿勢を育てることである。現状では全く不可能に思えるが、今から教育を始めれば2~3世代のうちには定着するかもしれない。

日本人は意思決定を集団で行いそこには非公式なルートで時間をかけて蓄積された知識の集積が大きな役割を果たしているようだ。ここに合理性を持ち込むのはなかなか大変そうだ。