民進党までもが教育無償化と言い始めた。もううんざりだ。

自民党や維新が「憲法改正で教育無償化を」と言っていてむかっ腹が立っていたのだが、ついに民進党も代表質問で同じようなことを言い出した。どいつもこいつも合理的思考ができないアホばかりだ……

と、釣りはこれくらいにして、今回は、少ない情報と限られたリテラシの中でどうしたら有意義な議論ができるかを考えてみたい。やることは小学生レベルに簡単で、白い紙を取り出して、企業、社会(国)、個人の立場から教育がなぜ正当化できるかを表にしてみることだ。

ここから見えることはいくつかある。

  • 教育が正当化されるルートは「投資」と「福祉」の通路があるので、それぞれ評価基準が異なるだろう。
  • 「経済成長」が、GPDを伸ばすことではないということや、「デフレ」が物価とは関係のない概念だということもわかる。

まずは図を見ていただきたい。もちろんこの図は間違っている可能性があり、少なくともラフな部分を含んでいる。一番の問題点は複雑に見えることなのだが、実は大して複雑ではない。

高度経済成長期のモデル

3つのセクター(企業、労働者、社会(国))の問題はそれぞれ連関しているようだ。なんとなく線で結んだところ、今までなぜ「教育無償化」という声が上がらなかったのかがわかる。これが国を通らない青い通路だ。この世界では企業や事業体が成長していて、自社(あるいは営利目的の学校)で社員が養成できる。正社員は将来世代の教育資金を提供できるし、教育を受けるほど給与が上がるので学校への投資が正当化できる。そして、このループに乗った人は将来給与が上がるのである。だから「借金(奨学金という学生ローンを借りる)してでもループに乗れ」ということが言えたわけである。これが起こる理由もなんとなくわかる。経済が成長すると稼げる金額も上がる。したがって、教育投資に利子がつく状態になるのである。いったんこうした効果が出始めると、自己強化が行われる。

問題は人工的に成長を作ると経済が成長し始めるという仮説の妥当性にある。経済には成長のポテンシャルがあるのになんらかの原因で妨げられている場合にはこれが成り立つかもしれない。だが、ポテンシャルがなくなっている場合にはこの仮説は成り立たない。つまり、原因と結果に正のフィードバック効果があるからといって、結果が原因を導くということにはならないのである。

社会の失敗

ところが、なんらかの影響でこの青ルートが壊れることがある。この図の中にはうまく書けていないのだが、いくつか考えられる。たぶんこれ以外にもあるはずである。

  • 企業は成長しているがノウハウがなく社内教育できず、営利目的の学校でも知識が調達できない。これは可能性としてはあり得るが現実性はあまりなさそうだ。
  • 正社員として働けるが、将来世代の教育費までは捻出できない。
  • 教育を受けないことが脱落要因になっている。つまり、もはや奴隷的労働にしか従事できず自分の家庭は営めない。これが社会を縮小させる。国からは納税者がいなくなり、企業は労働者と消費者が調達できなくなる。

これが進むと社会が縮小する。企業は経済成長できず、国民(消費者、労働者)は豊かになれない。消費するお金がないのだから、良いサービスや商品が買えない。そこで賃金も払えない。そこで企業が成長するために必要な正社員を雇えないという負のループだ。色が付いていない線は二つの例外を除いて「縮小」を示している。

2つの例外

1つ目の例外は「個人や企業は投資としての教育ができない」が「国」は正しい道を知っており、ダウンループ(ダウンスパイラル)や定常化を逆転できるという見込みがあるときである。このストーリーが正のとき、社会が教育費を捻出するということが「投資」として正当化できる。つまり、自民党が「教育費の無償化をやりましょう」と主張するのであれば、これを国民に示す必要がある。実際はこんなことは起こりそうにないのだが、発展途上国ではあり得る話である。実際に明治政府が成立した時期にはこれは正だったのだろう。

もう一つの例外は定常化の道である。企業はこれ以上成長しないのだが、パートの収入でもかつかつ食べてゆくことができるという状態だ。パートは維持できるので教育は最低レベルでよい。村の人たちも周りを見ているだけなのでそれほどの不幸は感じないだろう。これは江戸時代的だ。江戸時代の後期には経済成長もせず、寺子屋レベルの教育で社会が回っていた。これが成り立ち得たのは、多分経済が閉じていたからだろう。つまり、鎖国すれば教育はしなくてもよいというような結論が得られそうだ。もう一つ定常化社会で賄えないのが福祉だ。

つまり定常化は、土地がまかない切れる人工が決まっており、それが合理的に計測できるときにしか維持ができないのだ。江戸時代は、土地が生産できる米の量は決まっているので、それ以上に増えると「飢えて死ぬ」しか選択肢がなかった。これは福祉も、金融(外から入ってきたり海外に流出したりする)のない世界だ。

二つの例外以外は縮小につながっている

二つの例外以外は経済の縮小につながっている。だが、これまでの議論を見ていると「経済が縮小した」ということを証明するのは難しいようだ。多くの人がなんとなく「経済が長期的に下り坂だなあ」ということを実感しつつも、数字には現れないという世界である。多くの人が「デフレ」というときに表現したいのは、実はこの状態なのではないだろうか。

間接的に「縮小」がわかるのは次の点だ。

  • 給与は下がりつつある。経済学者は周期的なサイクルに乗れば「いつかは」正社員の給料が上がるはずだと言っているが、そのいつかはこない。どうやら給与削減が経営のトレンドとなっているようである。
  • パートが圧倒的に足りず、人件費が経営を圧迫する。エクストラコストを払ってまでも外国人の低賃金労働者を雇っている。正社員を投入して成長させるような新規事業が見つからない。
  • 学生の半数はローンを抱えて卒業し、ローンを返せない人もでてきている。それどころか学生のときからブラックバイトにはまり学業を諦める人すらいる。これは投資としての教育が正当かできなくなっていることを示す。

正社員とパートという言葉が乱暴に使われている点に注意が必要だ。企業に付加価値を与える人を「正社員」と言っている。将来の成長の見込みがあり、エクストラコストを投資として支払える。これが家族への投資につながる人を「正社員」と言っており、通常の正社員の概念とは必ずしも一致しない。パートはマニュアル通りに働く人で将来の余剰価値を生み出さないので、一定のリテラシのある人たちをできるだけ安く雇うのが正しいし、教育のオーバーヘッドはネグれる(無視できる)ので、必要なくなれば雇い止めすれば良い。

エネルギー系としての教育

この拙い表と限られた知識から何となくわかってくるのは次の点だ。

  • 社会はエンジンのようなもので、回してゆくためには燃料が必要だ。
  • エンジンなのだから、早くなる・そのままの状態が続く・遅くなるという3つの状態が起こり得る。
  • 状態は系なので、個別を取り出して議論しても意味はない。
  • 「教育」は実は系に知識を燃料として投下しているということになる。

なんとなく最低限の知識で効率よく回してゆくのが良さそうだが、現実的には「エンジンの回転数が下がりつつある」ことが実感できるので、なんらかのブレーキ要因があるのかもしれない。

自民党、維新、民進党への批判

自民党と維新への批判は簡単で、もし「教育によりダウンスパイラルを逆転できる」が「企業や労働者が探せていない見込み(いわゆる成長分野)」があるなら、それを提示せよということになる。企業や労働者の方が情報を多く持っているはずなので、儲かるセクターがあれば民間が先に手をつけているはずだ。だから、国がわざわざ出張ってくる必要はないのではないだろうか。自民党は同じようなことで一度失敗している。それが社会インフラの整備(つまり公共事業)である。

一方、民進党に対しての批判は少し込み入っている。まず教育を未来への投資であるとするなら、なぜ国が関与するのかという点を明白にする必要がある。先に見たように2つの通路がある。これは自民党と同じことを証明するだけで良い。

さらに福祉であれば、どれくらいの規模の余剰資金があるのか、いつまでこの状態が維持可能なのかを提示すべきである。民進党は「消費税など」を使って無償化を行うべきと提案しているのだが、どうやら消費税は所得勢や法人税の穴埋めに使われているようだ。つまりダウンスパイラルに対応する税なのである。同じことは保育にも言える。従業員に働いてもらうための投資なのか、困窮者のための福祉政策なのかが分からなくなっている。

まとめ

 

教育も何も知らない素人が、一枚お絵描きしただけで勝手なことを言うなという批判は考えられる。だが、実際にはこうしたお絵描きからわかることはたくさんある。日々の情報収集に追われているとなかなかそれを結びつけることができなくなる。一度新聞やTwitterから離れて、白い紙を広げてみるのも面白いかもしれない。

 

 

「教育無償化」議論のために

橋下徹弁護士が「東京が高等教育を無償化するから、次は憲法改正で機運を盛り上げよう」と息巻いている。これになぜか同調しているのが兼ねてから教育無償化を訴えてきた社民党だ。埋没を恐れているのかもしれない。福島瑞穂参議院議員が大学まで無償化しても数兆円しかかからないとツイートした。こうした議論をポピュリズムという。つまり維新はポピュリズム政党ということになる。だが、ここは堪えて、本当に無償化を実現したい人向けに「教育無償化」について考えるためのヒントを列挙してみた。もちろん他にも論点はあるかもしれない。

名称

まず、名称問題から片付けたい。教育無償化を憲法で唄うというと、天から教育費が降ってくると思われがちだが、もちろん費用は国が負担するわけで、実際には納税者の教育費負担についての議論ということになる。納税者教育費負担とか教育の社会化という名称になるべきなのだ。

目的

なぜ名称が重要かというと「どうして親に代わって納税者が負担すべきなんだろうか」という議論が必要だからである。日本の高度経済成長期には多くの親が子供の教育費を負担できた。しかし、今では半数の子供が奨学金という名前の学生ローンを抱えている。これは教育資金を正当化できなくなっていることを意味する。この状態で教育費を国家負担にしても、家庭が国に変わるだけなのだから負債を抱える母体が大きくなるだけであることが予想される。

カリキュラムという難題

今の教育の目的は何だろうか。それはいい大学に入れる頭を持っていますよと証明することである。あの人は東大卒だということが重要であり、何を勉強したのかということは話題にならない。これが、大学が世間から取り残されているせいなのか、企業が大学教育をうまく取り入れられないかということはわからない。すると、地頭の証明をするために、社会が負担するのという議論になってしまう。

この議論を延長すると、職業教育って大学まででいいのかというような議論になる。実際には国が職業教育を行っているが、潰れそうな専門学校への助成のようになってしまっている。深刻な人手不足におちいっている、介護・保育分野などはさらに悲惨で、高いお金を払って職業教育を受けても家庭を維持できる給料は得られない。つまり、お嫁さんを要請するためだけの学校ということになり、人財を使い捨てている。

こうした議論を全て棚上げして「教育を社会が負担するのは、機械の公平を担保するためである」と仮定してみたい。貧しい家庭にも優秀な人はいるわけで、彼らが経済的な理由だけで教育から排除されるのは問題だという考え方である。実際には重要な議論は全て積み残しになっているのだが、もうこれ以上は気にしない。

ここで初めて次の議論ができる。

政治的公平

最初に重要なのは、政治からどの程度カリキュラムを独立させるかということである。社会に足りない人材(保育士)などは国が関与すべきかもしれないが、自由主義経済に携わる人材を国歌関与で育成するのはふさわしくないかもしれない。なぜならば市場原理が働かないと実際の企業のニーズに応えられないからである。たぶん、北朝鮮は国家が管理して人材育成を行っていると思うのだが(主体思想教育)、うまくいっているとは思えない。

だが、これはかなり絶望的だ。現在でも各種補助金をダシにした政治の介入が起こっている。日本ではこれに宗教が絡んでくる。神道系の団体が臣民型の教育を熱望しているからである。国家が「言われたことだけを従順にこなす」国民を量産したいという意識が強い。さらに高齢者には「奨学金をお国からもらうなら、社会に貢献せよ」などという人がいる。

例えば明治大学は「戦争につながるような研究はしません」と宣言したが、これは経済的な自由が前提になっている。国家が予算を握るとなればこうした自由はなくなってゆくだろう。議論になるのはこれが活力を削ぐか増すかという議論だが、前提にあるのは「なぜ社会が教育費を負担するか」という議論である。

面倒なことに日本の教育は政治思想と強く結びついてきた。高度経済成長期には学園闘争があり東京や埼玉では高校まで巻き込まれたそうだ。日教組が強かった時代には社会主義的な思想を生徒に押し付けようという先生も多かったし、今では逆に君が代を歌わない先生生徒に厳しい視線を向ける管理職もいる。日本人は議論ができないので「教育は政治に関わらない」とすることで政治教育そのものを排除してきた。スウェーデンでは逆に教育は政治的に中立にはなりえないと教えるそうである。日本とは公平性の方向が真逆である。

機会の公平性の確保

次の問題は機会の公平性の確保である。教育には選別という機能がある。フランスではすべての中等教育と一部の高等教育が無料なようだが、かなり厳しい選別が行われるらしい。これは予算枠が限られているからだろう。ここで「無料」としてしまうと、極論として「すべての人が東大に入れる」と誤認されてしまうが、実際には母親が家にいて勉強を教える子供のほうが有利に受験勉強ができるだろう。そういう家の子供は塾にも行かせてもらえるはずである。

ではアファーマティブを設けて貧困層を救済するのかという話になるだろうが、なぜそのようなことをしなければならないのかという議論が出てくる。当初の目的が曖昧だと細かな制度設計で必ず「不公平だ」という話が出るだろうし、実際には経済的な格差を埋めきることはできないだろう。

共有地化の問題

さて、ここまで来てやっと共有地化の問題が出てくる。一度制度ができてしまうと、制度に沿って受益しつつ、費用は払わないほうが得ということになる。これは「共有地の悲劇」として知られる。橋下徹弁護士はこれに関連して「高等教育の授業料が値上げになるからキャップしなければならない」と言っている。教育の社会主義化が今度は何をもたらすかがわかっているのだ。

具体的な例としてあげられるのが薬価の問題である。医者がやたらに薬を飲ませたがるのは、それが健康な人の支払いだからである。死に至らない程度の病期の場合、薬は飲んだほうが得なのだ。全体的には薬代の高騰につながっている。長谷川豊氏が「透析患者は迷惑だから死ね」と言って問題になったのが記憶に新しい。もちろん暴論なのだが、モラルハザードはおこりえる。この投稿を見て「社会のお荷物になるくらいなら」と透析を拒否して亡くなった方もいるそうである。実際には親身になって話を聞いても、右から左に診察して薬だけ出しても医者の報酬は同じだ。

薬価は国がコントロールしているが、教育にかかるお金は自由に決められる。これを「高い方に合わせるのか」「低い方に合わせるのか」という議論が起こるだろう。

教育者は人格者だからこんなことは起こらないと思いたいが、高校の助成金目当てに学校に来ない学生の名前だけ借りて、補助金を騙し取るという事件もあった。常に国が監視していないとこうした詐欺行為が横行するだろう。

ポピュリズムは何か

全てを網羅したわけではないが、教育の無償化には少なくともこれくらいの問題がある。これを「橋下さんが言ったから賛成」とか「私たちが昔から主張していた」というのは不毛の極みだ。実際には「投資として的確か」という議論になるべきで、当然「どのように効果を計測するか」という議論になるはずなのである。

実際には「タダって言えば票を入れてくれるだろう」くらいの目論見で議論が進んでいる。こうした単純化した議論をポピュリズムという。ポピュリズム化した議論は細かい制度設計で破綻する。目的が明確でないからだ。

にもかかわらずこうした議論が横行するのは、いち早く白紙委任状が欲しいからなのだろう。

 

 

 

「憲法で教育無償化を」と叫ぶ人たち

いろいろごちゃごちゃと書いたのだが、教育が無償化されると、実質的にすべての教育は国営化されて「国鉄化」するんだろうなあと思った。


安倍首相が改憲して教育を無償化したいといっているそうだ。もともとは維新の提案であり、与野党協力体制をアピールして「国民の合意を得られた」という空気を作りたいのだろう。無料に反対する人は誰もいないわけで「改憲への拒否反応」が弱まる可能性はある。これは憲法第9条改正に対する拒否反応を弱めるのかもしれない。

しかし、これほどまでに空虚な政治的提案というものを見たことがない。それは何のために教育を受けるのかという議論がないままに「タダ」という言葉だけが先行しているからだ。

一般のレベルでは人々は競争に優位に立つために教育を受ける。教育は投資なのだ。教育無償化を喜びそうな人は「これでお金がないからといって脱落することはなくなる」と一安心するかもしれないが、競争社会を生きている人は「無料で誰にでも手に入れられるものは競争には役に立たちそうにない」ことを知っている。つまり無料で受けられるものには実は大した価値はない。

それにも増して教育の無償化は実は教育を荒廃させる可能性がある。実際に教育にかかる予算は削減傾向にある一方で、保護者の要求は際限なく高まりつつある。つまり無償化に伴って「共有地化」が起こる可能性があるのだ。共有地化はフリーライダーを増やす働きがある。すると誰も維持管理を行わなくなり荒廃する可能性があるわけである。実際には保護者のボランティアに頼って地域教育を維持しようという動きもある。主婦労働は無償だと考えられているため、介護や教育に「動員」されかねない。ちなみに家族が社会を支えるべきだという考え方も改憲に組み入れられている。

では教育の無償化は悪いことなのだろうか。

いわゆる「無償化」が成功している国は、社会が教育コストを支えるのだという意識のある社会だ。つまり「無償化」ではなく「社会化」である。納税者が教育費用を負担しているのだ。加えて日本は国債発行残高が高く、極めて納税者意識が低いという現実もある。負担はしたくないが受益はしたいという人たちが多い。「憲法による無償教育」はこのような人たちにあらぬ幻想をふりまくことになるだろう。

さらに国には「国家に忠誠を誓わせて一部の政治家に都合のよい思想を持った人たちを大量に生産しよう」という目論見があるようだ。こうした動きを支持する人が多いのは、主婦や子供などは年長の男に従うべきだという搾取思考が根深いからだろう。つまり、無償教育は余剰の教育資金を持たない国民を洗脳する装置になりかねないという危険性がある。

つまりこれは「国民を無償教育という罠に閉じ込めて都合よく搾取しようという政府の企みだ」と考えることもできるし、左派の人たちはその線で反対するのではないかと考えられる。「無料で戦争教育するのだろう」という批判はすでに行われているようだ。しかし、それすらも希望的観測というより他ない。それは、教育を受けた人たちが「戦争する意欲がある」ということを前提にしているからである。戦争は中国と戦うことではなく、企業戦士として死ぬまで働くことかもしれない。

意思がある人たちは無償でない教育を受けることになるだろうが(多分国内にはその機会はないかもしれない)意思のない人たちは国が吹き込んだ知識をそのまま丸暗記し「やることはやったからあとはなんとかしてくれ」と集団に望みをかけつつ、弱い人たちを罵倒するような未来が待っているのではないだろうか。大量の指示待ちくんが量産されるというような未来が見えてしまうのだ。

教育無償化の議論に欠けているのは、誰が社会を切りひらき、どのような貢献をするのかという意思だということが言える。

高校生の政治活動届出制について

今度の選挙から18歳以上に選挙権が認められるようになる。自民党は当初、自党への支持が広がると考えていたようだ。しかし、SEALDsなどの台頭を受けて「高校生の政治活動参加は届出制にするべきだ」という議論が出てきた。過去にも学園闘争が高校生に波及した例があり、過激な活動を警戒しているのだろうと思われる。実際に大学では政治活動が過激化して、授業が継続できないことが起きた。

だが、これはなかなか不思議な議論だなと思った。

政治結社の自由や集会の自由は憲法で守られた最も基本的な権利のひとつだ。もし仮に、高校がデモに参加した学生を退学処分にしたら何が起こるだろうか。多分、主権者たる高校生は「思想信条の自由を侵されて不利益をこうむった」として高校を訴えることができるはずだ。これは明確な憲法違反だ。だから、学校から許可が得られなかったからといって何の意味もない。

そもそも、これは議論になるほうがおかしいのだ。逆に「じゃあ一度退学処分でも出してくれますか」とお願いしてもいいくらいだろう。

同じことが校内でも起こるはずだ。共産党(あるいはなんらかの過激な思想でもかまわない)の支持を訴える学生が退校処分になったら「言論の自由が奪われた」として高校を訴えることができるだろう。

こんなことが書けるのは、基本的人権に制限がかかっていないからだ。学校や文部科学省のお役人は高校生を脅かすことはあっても実際の処分はしないだろう。彼らは馬鹿ではないので、実際に強権を発動したら何が起こるかをよく知っているはずだ。政治家たちは憲法の人権条項の強力さを知っているいるからこそ「公共の福祉」を拡大したがるのである。拡大さえすれば「道徳的におかしい」などという理由をつけて主権者を縛ることができるからだ。

18歳以上の高校生も主権者として差別されることはないはずだ。憲法に「高校生の主権は限定的だ」などと書いた条項はない。ただし、これは国や地域の意思決定に加わるということを意味する。それに伴う責任の大きさには心を留める必要がある。だが、それなりに情報収集して政治的な意見を持っているのだから、そんなお説教はしなくてもよいのだろうとは思う。

むしろ、やたらと「あいつらはわがままなやつの人権は制限されるべき」だという普通の主権者のほうが危険だろう。誰がわがままかを決めるのは一般国民ではなく権力者だからだ。だが不思議なことにそう思っている一般国民も多い。気分の上だけでも正義の側にたったつもりになれるからかもしれない。

治安維持法の必要性を叫ぶ人がいる

Twitterのタイムラインを見て久々に愕然とした。「彼らには治安維持法が必要」と言っている人を見つけたのだ。この問題はぜひ「民主主義は大切だ」と思う人に時間をかけて読んでもらいたいし、内容を理解した上で、自分の意見を拡散してもらいたい。

彼らとはSEALDsのことらしい。文脈は不明だし、どれくらい真剣に「治安維持法が必要」と言っているのかもよく分からない。

「治安維持法」を知らない人がいるかもしれない。第二次世界大戦中に言論弾圧のために用いられた法律だ。もともと共産主義と天皇制批判を取り締まる為の法律だったのだが、後に拡大され全ての政府批判が封じられたのだ。当時、第二次世界大戦は聖戦だと信じられていたので、それに疑問を持つ事は許されなかった。

拡大しつつあった戦争に対する庶民の反発を怖れた政府は投票権を拡大し普通選挙の実施に踏み切った。自分たちの選んだ政治家が決めたことならば多くの国民が従うと考えたからだ。一方で国民の政治意識が体制転覆に傾く事を怖れた政府は、普通選挙の実施と同時に治安維持法を成立させた。当時の脅威は共産主義の台頭だった。選挙権がない人が政府転覆に傾くのを怖れたのではないかと考えられる。関東大震災の際に発布された治安維持に関する緊急勅令なども参考にされた。

いったん作られた法律は後に拡大解釈されることになる。これが現在の憲法改正反対派が危惧している日本の歴史だ。決して単純に被害妄想を膨らませている訳ではない。

これが「問題だ」と思うのはなぜかを説明したい。現在の左派は安倍政権さえ倒せば戦争法案の危機は去り、立憲主義が守られると信じている。しかし、実際にはそれはあまりにも単純なものの見方と言わざるを得ない。「民主主義への疑い」を持っている一般国民は意外と多いのだ。この人たちを説得しなければ民主的なプロセスで国民の権利を制限する法律が通りかねないのである。

だが、現在の左派にそうした危機感はない。国政レベルでは「一致団結して安倍政権を倒す」などと格好のいい事を言っているが、地方ではまったくまとまりがなく、民主党が自民党を含む体制派の応援をするなどということは珍しくない。

ではなぜ治安維持法が必要という人が出てきたのだろうか。もともとは日本をアメリカが主催する「国際警察団」に引き込みたかった「ジャパンハンドラー」と言われる人たちがきっかけになっている。彼らは「中国が日本を狙っている」というイメージを植え込む事で、日本人たちの「目を覚まさせよう」としたのだ。実際に尖閣諸島を巡る争いが起きたので、これを最大限に利用した。

同時に、当時の民主党政権に対して「中国・韓国の意を汲む在日政党だ」という印象操作が施された。この結果右派雑誌には「このままでは日本は民主党によって中国に売られる」というような言説が見られるようになる。これを阻止するためには、憲法第九条を改正して軍隊を持たなければ、中国に侵略されると考える人が出てきたのだ。

治安維持法や緊急事態条項を支持する人たちが出てきたのは、このようなバックグラウンドによるものだと思われる。彼らは国内での争乱は中国や韓国の影響を受けた人たちの陰謀だと考えているのだろう。あれは民主的なデモではなく売国的な争乱行為なのだ。

だが、彼らを説得するのは難しい。実際に中国は野心を持っているからだ。ただし、彼らが挑戦しているのは日本ではなくアメリカを中心とした国際秩序だと考えられる。いわゆる「ジャパンハンドラー」はこれをアメリカの問題ではなく、日本の問題に転移することに成功したのだ。

しかし、アメリカは「梯子はずし」を始めた。防衛省に近いシンクタンクは、中国が尖閣諸島を侵略した際にアメリカが「巻き込まれれば」アメリカ本土へのサイバー攻撃を含めた反撃があるだろうと考えている。「わずか5日で陥落する」とレポートは結論づけている。だから放置しておけというわけだ。アメリカとしては日本の「ナショナリズム」が刺激されるのは好ましくないと考え始めているのだ。

ジャパンハンドラーとしては「中国の胸囲を煽れ」と推奨しているだけなので、特に結果責任は取らない。日本政府も仄めかしているだけだ。しかし、それを真に受ける人たちが出ているのだ。こうしたメッセージは1世代をかけて流布したので、すぐさまに修正することはできない。かといって真に受けて中国に喧嘩を売ると、防衛した自衛隊員だけが殺されて「日本の判断で決めたことだろう」と言われかねない。特に安倍政権だけを非難しているわけではない。野田政権が尖閣諸島を国有化した際に、中国の意向にあまりにも無頓着でアメリカ当局を呆れさせたという話も出ている。

この問題が深刻に思える点は、中国への脅威論の矛先が、国内の同胞(彼らは「反日勢力」だと思われているのだろうが)に向かう所ではないかと思われる。外国の干渉が国内の民主主義を蝕むというのは、多くの植民地で見られる現象だ。さすがにジャパンハンドラーたちが「国民の分断」を画策したわけではないと思うのだが、結果的にそのようになってしまう。

その結果、90年前に政府に押しつけられた法律を自ら欲しいと願うような人が表れるのだ。植民地の悲劇としか言いようがない。

特攻隊とジハードの自爆テロ

百田尚樹の『永遠の0』の中に「特攻隊と自爆テロ」に関する議論が出てくる。どういう議論だったかは忘れたが、特攻隊は自爆テロとは違うという結論になっている。まあ、当然と言えば当然である。

前回のエントリー「日本人の政治的態度」について検討した際に、国家神道について調べた。一連の議論の中に「国家神道は宗教なのかそうでないのか」という議論があるそうだ。明治政府は信教の自由を認めているので国家神道は「宗教ではない」ということにしたのだ、とWikipediaには書いてある。だから神社には葬式のような宗教行事がないのだそうだ。現在、葬式でお坊さんに来てもらうのにはそんな理由もあるようだ。

ところが、国家神道はやはり宗教だったという説がある。教義がないから宗教ではないという人もいるが、そのような宗教はいくらでもある。聖戦・英霊・顕彰の三点セットが認められ、人類学からみた宗教の類型に合致するのだという、菱木政晴という人の説が紹介されている。プロフィールを見ると護憲派の僧侶のようだ。

この説に従うと先の第二次世界大戦は聖戦だったということになる。イスラム教的に言うとジハードだ。

ジハードには2種類あるそうだ。一つはイスラム教の精神を外れないように努力する「内なるジハード」であって、もう一方は外敵や堕落したイスラム教徒に対する戦い「外向きのジハード」である。

イスラム国やアルカイダのいわゆる「自爆テロ」は、原理主義的なイスラム教徒から見た外向きのジハードの呼び方だ。コーランによると、自分の命を差し出すことによって天国での地位が約束されるのだ。ジハードに参加した戦士はムジャーヒド(ムジャーヒディーン)と呼ばれるのだそうだ。逆に外敵に背を向けるものは地獄に堕ちるのだという。

政府に属さないイスラム国やアルカイダは単なるならず者に過ぎないが「カリフ国を実現しよう」という意味では、ヨルダンやサウジアラビアなどのイスラム国と変わりはない。闘争がジハードと認定されるためには宗教権威者がジハードを宣誓し法的根拠を与えることが必要なのだそうだが、イスラム国やアルカイダの指導者が宗教的な指導者であるかどうかが、彼らの活動がジハードなのかそうでないのかを分ける基準になるのだろう。

国家神道には天国という概念はないが、代わりに靖国神社に祀られる事になっている。これは先祖霊と同一になるということを意味する。神から地位を与えられるということはないが、国体(家族や日本民族のことと思われる)が護持されて先祖供養してもらえる。聖戦を認定しているのは、現人神である天皇の権威だ。

第二次世界大戦(大東亜戦争)の開戦詔勅は「欧米が国際秩序を押しつけようとしている」という前提で書かれているという。欧米が押しつける秩序をはねのけて世界を安定させるのが、神の加護(天佑)を受けた日本の役割だ。その為に「国際法(すなわち欧米が押しつけたルール)」による宣戦布告にはなっていないのだそうだ。大東亜戦争は異教徒から世界を守る防衛的聖戦であり、その為に特攻して死んだ人たちはムジャーヒディーンなのだ。

故に特攻隊とイスラム原理主義者の自爆テロは同じ構造に基づいているということが分かる。

この結論を感情的に攻撃することは容易だ。現代の日本は西欧陣営に属している。西側の視点からみるイスラム国やアルカイダは世界平和を乱す単なるならず者にすぎない。彼らは地元住民を弾圧し、女性をレイプする。アフリカでは「ジハード」と称して、女性に爆弾を括りつけて市場に放り込んだりもする。日本軍の兵士は(多分)そんな卑劣なことはしなかったし、独立国に正規に雇われた兵士だった。

ただし、共通点もある。70年前の日本はグローバルスタンダードに異議を申し立てて神の加護の元に戦争を始めた。現在、同じような活動をしているのはイスラム原理主義者である。

70年前、日本は当時のグローバルスタンダードから脱却しようと戦争を始めた。そして今「戦後レジームからの脱却」と称して同じような挑戦をしている。しかし、何から脱却しようとしているのか判然としない。また、西洋と異なる国家体制にしても西洋諸国に受け入れてもらえるとは思えない。

現代の日本では国内に向けたジハードが進んでいる。右派政治家の中には国民が現状に甘んじた堕落した衆愚に見えているのだろうなあと思う人たちがいる。雄弁に「改革」を唄い、外向きのジハードを戦っているようだ。演説を見ると心理的にはすでに戦闘モードなのだろうなあと思う。

だが、政治家たちは自分で爆発したりしない。もっと弱い立場の人たちを見つけて彼らが前線で戦うように促すのだろう。そして他人が犠牲になっても「自分たちにはなすべきことがある」と言い訳するのだ。オウム事件では多くの実行犯が逮捕されたが、首謀者はサティアンの中に隠れていた。扇動者とはそうした人たちなのだ。

国家神道は長い間タブーとされてきた。そのため、従来の神道との関係が語られることはなかった。極端に美化されるか狂信として退けられるだけだったのだ。もともと海で大陸から隔てられていた日本には外敵に対峙することがなかったので、確立した教義も聖戦のような外敵排除の概念は必要がなかった。なぜ、聖戦を戦い抜き、同胞の命を差し出すというような教義が生まれたのかについては、もう少し研究をした方がよいのかもしれない。

民主主義や立憲主義はなぜ守られるべきなのか

安倍政権が暴走し「立憲主義」への危機感が強まっている。しかしながら、国民の多くは自民党を支持している。「国民は立憲主義などどうでもいい」と思っていることになる。そこで「立憲主義や民主主義は守るべきか」「守るべきだとすればそれはなぜなのか」という問題を考えてみたい。

話を簡単にするために「法律は中立である」という前提を置きたい。理屈さえ整えば法律学者は一切の価値判断をしない。国の目的は経済を発展させることとする。経済で政治体制を正当化するのだ。

民主主義と経済の関係

雑誌エコノミストの研究機関が出した民主主義指数というものがある。これを見ると「完全な民主主義国」は人口の12.5%しかカバーしていない。国数はわずか24カ国だ。つまり「完全な民主主義国」は普通の国とは言えない。守らなくて良いなら「立憲主義」はワールドスタンダードかもしれないが、あまり意味がない議論だろう。ちなみに日本は今の所「完全な民主主義国」だ。完全な民主主義国はアジアには2カ国しかない。日本と韓国である。ともにアメリカとの関係が強い。

米州からは北米2カ国(アメリカ・カナダ)、ウルグアイ、コスタリカがランクインしている。太平洋州からはオーストラリアとニュージーランド。残りは西ヨーロッパである。

このことから分かるとおり、完全な民主主義国はお金持ちの国ばかりである。試しにGDP(IMF/PPP)を掛け合わせてみると、人口の12.5%が世界のGDPの37.5%を占めている。統計を加工し終わってから思ったのだが、PPPではなく為替で調べるべきだったかもしれない。PPPは実質的な値であり、合計が意味を持たないからだ。PPPベースだと中国が米国を抜いて世界一のお金持ち国になる。GDP統計の中にパレスティナ、キューバ,ビルマ、北朝鮮が入っていない。

GDP合計 GDP割合 国数 人口
完全な民主主義国 40585.5 37.52% 24 12.5%
欠陥のある民主主義国 28892.72 26.71% 52 35.5%
混合政治体制 6911.81 6.39% 39 14.4%
独裁政治体制 31790.72 29.39% 52 37.6%

この数字をどう見るかは意見の別れるところである。もともと西ヨーロッパとアメリカなどの同じ価値観を持った「お金持ちクラブ」が富を独占しているだけだという可能性もある。

これより少しまともな答えは民主化した国から産業革命が起こったというものだ。経済的に成功した市民層が民主化を促進した。この2つが相乗効果を発揮した結果が現在の世界の富の配分だと考えられる。分厚い市民層が民主主義国の成長力の源泉なのだ。

この極端な実例の一つとして挙げられるのが韓国と北朝鮮だ。もともと北朝鮮が工業国で韓国は農業中心だった。北の方が豊かだったのだ。しかし今では北朝鮮のGPDが400億ドルしかないのに比べて、韓国は1兆6000億ドルだ。人口は北が2500万人で南が5140万人なので、人口のせいとは考えられない。勝負すら呼べない程の差がついてしまった。

北朝鮮の人民は経済成長を達成する動機がない。がんばってもどのみち搾取されてしまうだろう。であればだらだらと働いた方がよい。結局人は自分の暮らしをよくするためにしか努力しないのだ。南では私有財産が保証されている。これが違いを生んだのだと考えられる。もちろん、南側に豊かな国との経済的アクセスがあったことも見逃せないだろう。

この違いを民族性で説明することはできない。どちらも同じ民族で歴史を共有していたからだ。韓国も軍事独裁政権を経験しているが、豊かになり情報が広がるにつれて国民の民主化欲求を押さえられなくなった。逆に北朝鮮では民衆が疲弊しているので、民主化要求を行うほどの体力はないだろう。

独裁国の時代?

「民主化万歳」というまえに、悪魔とも相談してみよう。表を見れば独裁体制の国が富の約30%を占めているではないか。もしかしたら独裁の方が儲かるのではないか。安倍政権も独裁を目指せば国も良くなるのだろうか。

実は独裁国の中には多くの産油国が含まれる。クエート、ナイジェリア、カタール、UAE、サウジアラビアなどである。もし日本から油田が見つかれば、自民党の皆さんは、石油の富を適当に国民にバラまいて王様気分が味わえるかもしれない。下請け仕事はすべて移民(市民権は与えられない)が賄ってくれるだろう。

しかし、これだけでは説明ができない。独裁国の中にはロシアと中国が含まれる。台頭しつつある国だ。急進国のうちインド、ブラジルは「欠陥のある民主主義国」に当たる。中国の強みは国内格差だ。安い労働力を地方から呼び寄せることができる。これは国内に植民地を抱えているようなものだろう。ロシアは石油やガスなどの資源で支えられている。アフリカ一の経済発展を続けるナイジェリアも独裁国だ。

つまり、民主主義体制は「お金持ちクラブのノーム」ではなくなりつつある可能性もあるのだ。

民主主義のメリット

完全な民主主義体制のメリットとは何だろう。それは世界から才能のある人たちを引き寄せることだろう。才能のある人たちは自由を求める。それは経済的な自由だけではないだろう。生き方の自由も含まれるに違いない。例えば才能のあるゲイは、同姓結婚が認められる国や都市を好むはずだ。人が経済成長の源泉になると考える国は、域内の政治を透明で自由なものにしようとするだろう。才能は比較優位だ。つまり、個人が幸福を追求することが全体の幸せに貢献するという考え方である。

民主主義が維持できなくなる時

資源もなく、民主主義も守れない国はどうなるのか。大抵は国の中で富の奪い合いをしている。機会あるごとに軍がしゃしゃり出てきて「民主主義の失敗」を武力的に調停する場合もある。工業といってもたいがいはお金持ちクラブの下請けである。自由と民主主義を享受する人たちをもっと富ませるために働くのである。国民は保証を求めて社会主義的な体制を支持したり、軍に期待を抱くようになる。

西ヨーロッパの中には完全な民主主義国に至らなかった(あるいは民主主義が後退した)諸国がある。ベルギー、イタリア、ポルトガル、ギリシャだ。

ベルギーは国内のオランダ系とフランス系がまとまらず、首相が出せない混乱状態が長く続いた。イタリアは多党体制で連立の組み替えが頻繁に起こる。状況によっては首相が選出できないこともあり、政権が安定しないとのことである。

ポルトガルとギリシャは状況が異なる。ポルトガルは独裁体制のあと反動から社会主義路線を取った。植民地依存経済から脱却できずヨーロッパの成長から取り残された。ギリシャはアメリカの支援を背景にした軍事独裁政権が長く続き、後に社会主義化した。人口の多くが公務員といういびつな産業構成になり後に経済破綻した。

民主主義没落国のケーススタディとしてのアルゼンチン

さて、不景気が民主主義を壊した例もある。アルゼンチンは民主主義を体験したあと、軍事独裁や社会主義的体制(アルゼンチンではポピュリズモと呼ばれる)を揺れ動いた。

1880年代のアルゼンチンは自由主義経済路線を取り多いに発展した。食料の一大供給地になったのだ。すると民主化を要求する急進主義者が台頭したために、妥協の為に民主化が促進された。しかし、1929年に大恐慌が起こりアルゼンチン経済は崩壊した。すると、1930年には軍事クーデターが起き不正選挙の伝統も復活してしまう。

その後、ペロン大統領がポピュリズム政治を行ったが、第二次世界大戦で獲得した外貨を使い果たしてしまう。ペロンの治世は1955年まで続いたが、軍事クーデターが起きてペロンは亡命を余儀なくされた。その後も軍事クーデターなどが頻発し、政治は安定しなかった。アルゼンチン経済は復活せず、2001年と2014年にデフォルトを経験した。

民主主義を手放しつつある日本

このようにいろいろな事例を見てみると、立憲主義や民主主義を正当化するのは経済だということが分かる。経済が順調になると人々は自由を求める。自由が広がると経済も発展する。民主主義を維持しなければならないのは、民主主義が崇高なものだからではないのだ。

と、同時に経済が不調になると民主主義を維持できなくなる。人々は社会主義的な保証を求めるようになり、軍隊が民主主義の失敗を帳消ししてくれることを期待するようになる。

故に、バブルの崩壊で自信を失ってしまった日本では、自民党を支持する経済的に弱い人たちが、強い軍事力と立憲主義を否定するのはある意味当然のことなのだ。政治家はそれに追随しているだけと言えるか
もしれない。

と、同時に自由民主党の政策が社会主義的だということも分かる。

自由を失った国からは優秀な人が去って行く。強い経済は自由を求めるからだ。