二重人格社会 – 小室哲哉は誰に「殺された」のか

ここのところ村落社会について考えている。村落社会、インテリの部族社会と考えてきて、最近考えているのは二重人格社会である。しかし、それだけでは興味を引きそうにないので最近のニュースを絡めて考えたい。考えるのは「アーティストとしての小室哲哉は誰に殺されたのか」という問題である。

今回の<事件>のあらましをまとめると次のようになる。一般には介護へのサポートがなかったことが問題視されているようである。

小室哲哉は往年のスター作曲家・アーティストだ。過去に著作権の問題で事件を起こしその後で奥さんが病気で倒れるという経験をした。職業的には周囲の支えもあり音楽家として再出発したのだが、私生活問題である介護で抑鬱状態に追い込まれたところを週刊誌の不倫報道に見舞われ、ついに心理的に折れてしまった。小室さんは病気の妻を抱えており今後の生活の不安もあるが、今は何も考えられないほど追い込まれている。

周囲から援助されない天才職人の悲劇

この問題についての一番の違和感は、ワイドショーがこれを小室さんの私生活の問題だと捉えていたことだった。アーティストが健全な創作活動をするときに私生活が健全なのは当たり前なのだから、プライベートも仕事の一部である。さらに付け加えれば、普通のサラリーマンであっても健全な私生活があってはじめて充実した仕事ができるのだから「ワークライフバランス」は重要なテーマであるべきだろう。

だが、日本ではサラリーマンは会社が使い倒すのが当たり前で、私生活は「勝手に管理しれくれればいい」と考えるのが一般的である。小室さんの私生活が創作活動と切り離される裏には、こうした日本のブラックな職業観があるように思える。

一時間の会見のを聞く限りでは、ビジネスとしてお金になる音楽家の小室さんに期待する人は多いが、小室さん一家の私生活をケアする友人は誰一人としておらず心理的にパニックに近い状態に陥っているようだということだ。つまり、小室さんは「金のなる木」としては期待されていたが、彼の私生活を省みる人はそれほど多くなかったことになる。

過去に小室さんは、著作隣接県を売渡すことで資金を得ようとしたのだがそれがなぜだったのかということは語られない。もともと電子音楽はいくらでもお金がかかるジャンルなので職人としての小室さんは、良い機材を買ったりスタジオを建てたりしたかった可能性もあるのではないか。継続的な創作活動を行って欲しければ、誰かがこれを止めてやるか管理してやるべきだったのだが、逆に「権利を売り払えばお金になりますよ」と吹き込んだ人がいるのだろう。権利のほうがお金になるということを知っている「裏方」の人がいたのだ。

さらにこうした「裏方」の中には、小室さんを働かせればお金になるし、権利は後から取り上げてしまえばいいと考えていた人たちもいるかもしれない。小室さんは「金のなる木」として期待はされていたが、継続的に音楽活動をするために援助してやるプロデューサ的な人には恵まれなかったということになる。逆に彼が生み出す価値をどうやって搾取しようかという人が群がっていた可能性もある。アーティストは金のたまごをうむガチョウのようなもので、卵が産めなくなれば絞めてしまっても構わないということである。

本来ならこの辺りの事情を合わせて伝えるのがジャーナリストの役割だろうが、そもそも日本にはそのような問題意識すらない。

表に出る人の不幸が商品になる社会

一方、不倫記事が売れる背景についても考えてみたい。つまり「ジャーナリスト様」は何をやっていたのかということだ。

文春はなぜ芸能人の不倫疑惑にこれほど強い関心を持つのだろうか。それは「表向きは立派に見える人でも裏では好き勝手にやっているのだ」と考えたい読者が多いからだろう。華やかな人たちが欲望をむき出しにする姿を見て「ああ、あの人も好き勝手やっているのだから、私も好きにやっていいんだ」と思いたい人が多いのではないかと思う。不倫は個人が持つ欲望の象徴と考えられているのかもしれない。

社会が創造的であるためにいかにあるべきなのかということを考える人は誰もいないが、沈黙する人たちの欲望を満たして金をもらいたいという人はたくさんいる。

有名人がバッシングの対象になる裏には「個人が組織や社会の一部として抑圧されている」という事情があるのではないだろうか。日本人は学生の間は個人の資格で情報発信してもよいし好きな格好をしても良い。しかし、就職をきっかけに個人での情報発信は禁止され服装の自由さも失う。これを「安定の代償」として受け入れるのが良識のある日本人の姿である。その裏には「表に出る人は極めて稀な才能に恵まれた例外である」という了解がある。自分は特別ではないから諦めよう、ただし特別な人たちが少しでも変な動きをしたらただでは置かないと考えている人が多いのだと思う。

これが政治家や芸能人へのバッシングが時に社会的生命を奪うほど過剰なものになる理由ではないだろうか。だからこそ不倫や政治家の不正を扱う週刊誌は売れるのだ。

二重人格社会

Twitter上では週刊文春に対するバッシングの声で溢れており週刊誌を買っている人など誰もいないのではないかと思えてくる。中には不買運動をほのめかす人さえいる。だが、実際に考えを進めると「同じ人の中に違った態度があるのではないか」と思えてくる。日本が極端に分断された社会であるという仮説も立つのだが、同じ人が名前が出るか出ないかによって違った態度を取っていると考えた方がわかりやすいからだ。

異なるセグメントの人がいるわけではなく「名前が出ていて、社会を代表している人」「名前が出ていないが意見を表に出している人」「名前も出ていないし意見も言わない人」というような異なる見え方があり、二重人格的に言動を変えている人たちが多いのではないかと思えるのだ。

これが「二重人格社会」である。

日本を窒息させる二重人格社会

さて、アーティストが優れた音楽を生み出すためには周囲のサポートが欠かせない。私生活の問題に直面する人もいるだろうしビジネス上の知識のなさから資金繰りに困る人もいるだろう。もちろん、作った音楽をプロモートしたり権利を管理する人なども含まれる。

小室さんの件では「介護が大変でサポートする人がいない」と指摘する人は多いのだが、創作活動全般に対してのサポートに言及する人はいない。

さらにその周りには「自分の名前で偉そうにやっているのだから失敗したら大いに笑ってやろう」とか「権利だけを取り上げてやろう」いう人たちがいる可能性もある。こういう人たちが表に出ることはない。

小室さんは会見で「華やかな芸能人になりたいのではなく、単に音楽家になりたかっただけ」と言っている。この意味で「自発的な音楽活動はしない」というのは防御策としては実は正しいのかもしれない。裏方の職人であれば嫉妬を集めることはないからである。だから、小室さんに「戻ってきてまたみんなに感動を与えて欲しい」などとは言えない。彼に存分に創作活動をしてもらうような体制が取れないからだ。

ただし、これは社会にとっては大きな損出だ。なぜならば、表に出て著作活動をする人はその代償として精神的に殺されても構わない社会であると宣言しているに等しいからだ。こんな中で創作活動に没頭する人がいるとは思えないので、日本は創造性の枯渇したつまらない国になるだろう。本当に創作活動がやりたい個人はそうした価値観を尊重してくれる国に逃れてゆくだろう。

日本人の二重人格的な言動は日本を枯れたつまらない国にするのではないかと思えてならない。

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慰安婦問題と村意識

今日は慰安婦問題について考える。一つだけお断りしておきたいのは、この文章の目的は慰安婦が無理やり連れてこられたか、それとも意思があってきたのかということについて白黒つけようということではないという点である。つまり、事実についても歴史認識についても考えない。

今回のムン・ジェイン大統領のステートメントについて見てみよう。

  • 合意には重大な欠陥があるから「最終的な合意だ」というのは認められない。
  • かといって日韓関係を悪くする意図はない。
  • 単に所感を述べただけで決定ではない。

正直なところ、何について怒っているのかが良くわからないし、どうしてあげるべきなのかもわからない。と、同時にこれは韓国内部の合意形成プロセスになんらかの問題があり、その気持ちの問題を述べているのだろうなということはわかる。つまりこれは韓国の「ムラの事情」であり、日本は八つ当たりされているように思える。

これまで日本の村落について見てきたのだが、韓国も同じような村落社会であるということがわかる。つまり、うちわのきもちがありそれがおさまらないと言っているのである。これまではコンテクストのはっきりした日本の問題を扱ってきたので、それが外からどう見えるかということについてはよくわからなかったのだが、韓国の問題を見ると「村落の問題というのは外から見ると良くわからないがなんだか気持ちが悪い」というのがとてもよく分かる。

それではこの村落というのはどれくらいの広がりを持っているのだろうか。Quoraで聞いてみた。最初は「慰安婦」を韓国語にしていたので韓国人にしかわからないはずだったのだが、これはQuoraでは直すべきだといわれた。

第一にわかったのは韓国人はあまりこの問題に興味がないか相手に説明するつもりはなさそうだということだ。

さらに韓国人も日本人と同じように自分の気持ちを整理して他者に伝えるのが大変下手だということが分かった。自分たちの文化の肝がどこにあり、それを外部の人たちに伝えるということができないようなのだ。

明確に韓国系だとわかるのは4人のうち2名だったのだが、そのうちの1名(韓国系アメリカ人)によると、どうやら韓国社会は「弱者への共感を示すのがとても大切な社会である」ということのようだ。しかし、これも明確な形では表現されておらず、こちらが「意を汲み取る」必要がある。

これを参考にすると、多分弱者への共感を形で示す必要があるのだろう。だが、日本人は逆に弱者への共感を示すのが極めて下手な上に自分たちの文化をうまく外の人たちに表現することができない。

もう一人の人は「我々の政府」のような言い方をしているので、プロフィールには出てこないが多分韓国人か韓国系なのではないかと思う。この人は「慰安婦問題が政治利用されている」ことに対して怒っていた。弱者の共感を示すべき「我々の政府」が慰安婦を利用して前政権を否定しようとしていると言っているのである。つまりこの人は日本人には怒っていない。

そもそもムンジェイン大統領のステートメントを見ても彼らが何を解決しようとしているのかがわからないのだが、実名掲示板で聞いても結局何について怒っていて日本政府が何を失敗したのかがさっぱりわからない。

ここから分かるのは彼らが「謝り方が悪いからもう一度謝れ」と言っていて、その謝り方も気に入らないが、どう謝ればいいかは自分で考えろと言っていることになる。

外側からみればこれほど理不尽な言い方もないのだが、良く考えてみると日本人もこういうことをやりがちである。自分の気持ちというものがあり「それがうまく伝わらない」ことに苛立っており、その苛立ちを外にぶつけているのだろう。

こうした人たちにどう対処するべきかは人によって異なるのだろうが個人的にはほっておけばいいんじゃないかと思う。

相手は感情的に苛立っているので、理性的に何かを言っても無駄だろう。さらにどうやって謝ったらいいのかを聞くというのも無駄だ。なぜならば相手は自分たちの文化を意識的には理解しておらず、さらに韓国人の内部にも意識のずれがありまとまらないからだ。

しかしながら日本政府にも全く非がないというわけでもない。相手が感情的になっているところに「いやそんな事実は全くなかった」などといって張り合ってしまう。日本人もいったい何が解決したいのかということが良くわかっておらず、国際社会で悪口を言いふらされるのに苛立っているということになる。そこで無理やりにお金で口封じを図ったうえで政府間で密約を交わしてしまうから話がややこしくなる。

韓国人は何について怒っているのかがわからないので、合理的な説明を求められると「賠償」といういかにも合理的に見えるものに仮託してしまう。しかし、お金をやっても問題は解決しないのでお金の渡し方が悪いとか決め方が気に入らないなどというのだ。

日本政府はすでに戦後賠償を済ませているのだから、彼らの非難については淡々と謝罪したうえで「お気持ちはすでにお渡ししてありますよ」という事実を伝えるべきなのかもしれない。国際社会を巻き込んでどっちが悪いなどと言ってみても、部外者には何のことだかわからない。

ここから我々が学べる教訓は意外と簡単である。村落内部の議論というのはこれくらい良くわからないものなので、普段から意識して説明ができるようにしておくべきだ。韓国政府の今回のやり方はとても子供じみているが、日本もいくつかの問題についてそう思われている可能性はきわめて高いのではないだろうか。

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貴乃花親方の罪は何だったのか

日本相撲協会が貴乃花親方に対する処分を決めた、理事を解任するというのだ。理事会には解任を決議する権能はないので評議会を開いて処分を検討することになっているという。これまで貴乃花親方が情報を出さないと叩いていたマスコミは、処分が出た瞬間に「この処分はおかしい」と言い出した。さらにTwitter上にも「これはひどい」とか「相撲協会はおかしい」というようなリアクションが溢れた。

この話の表向きのポイントは、被害者側の親方である貴乃花親方がなぜ首謀者の一味である白鵬、ガバナンスの最高責任者である八角理事長よりも重い罰を受けなければならないのかというものだ。日本社会は法治国家であるという前提があるのだが、法治国家ならば「被害者側」の方が重く罰せられるのはおかしいように思える。

もっとも。貴乃花親方が処分された理由を理解するのは簡単である。貴乃花親方は村のうちうちで話し合うべき恥を外に晒してしまい村人に恥をかかせた。だから村を追い出されかけた。つまり、「貴乃花親方は村の恥を外に漏らした罪で村八分になった」と考えればよく、これは日本人なら誰でも簡単に理解できる。

このことは、日本人の行動原理を理解するためにはやまと言葉に置き換えてみると良いということを表しているように思える。ガバナンスやコンプライアンスというのは格好をつけるために用いられる言葉であって、実際には「仲間はずれ」とか「村八分」いうような大和言葉で説明ができるのが本質なのである。

スポーツ報知はこのように相撲協会の言い分を伝えている。

 高野委員長は「本件の傷害事件は、巡業部長である貴乃花親方が統率する巡業中に発生した事件。貴乃花親方は理事・巡業部長として、貴ノ岩の受傷を把握した直後か被害届の提出前、遅くとも被害届の提出後には速やかに日本相撲協会へ報告すべき義務があったにもかかわらず怠った。貴乃花親方が被害者の立場にあることを勘案しても、その責任は重い」とコメント。

だが、これはいかにも苦しい弁明だ。

報道の中には相撲協会には警察から報告が入っていたとするものがある。相撲協会は「処理は場所が終わってからいでいい」と考えており、なおかつ警察が「誰が被害者なのか言わなかった」と主張している。相撲協会は、知ってしまうと処分が必要になり金儲けの興行の邪魔になるのでやらなかったのではないかと疑いたくなる。つまり、聞こうとしなかったにもかかわらず「報告がなかったから貴乃花親方を処分した」と言っている。これは矛盾しているのではないかとも思える。

貴乃花親方は役職者として報告義務違反を犯して処分されたという説明がなされたのだが、報告義務違反を犯したのは貴乃花親方だけではない。白鵬も日馬富士も報告義務違反を犯しており、その意味では同罪と言える。いずれにせよわかっていたのに調査しなかった人は減給だけで済むが、不当に問題が隠蔽されることを恐れて報告をしなかった人が理事を解任されてしまうというのは法治主義の原則にしたがえばおかしいように思える。

力士たちは「力でわからせてやる」という世界に住んでおり、これが一連の暴力事件の温床になっている。問題が起きた時には恥を外に漏らさないという収め方をするので暴力事件がなくなることhなさそうだ。大和言葉だけで説明すると「うちうちでおさめる」のである。

しかし、この大和言葉マネージメントには限界がある。暴力が収められないと入門者が減ってしまう。だからこそ、モンゴル人に頼らなければならなくなっているのだ。白鵬はモンゴル人にも利権(親方になる権利)をみとめよと言っているのだが、これは聞き入れられそうにない。権利も認められないのに義務だけは負わされるのだから、やがて相撲村はモンゴル人に依存できなくなるだろう。

相撲協会は、外部から閉ざされた村社会に戻ることもできるし、近代的なスポーツに生まれ変わることもできる。この二者択一は日本社会に似ている。日本は民主主義国家に生まれ変わることもできるしあいまいな村社会に戻ることもできるという岐路にいる。

例えば、相撲は単なるプロレス並みの興行である。悪口のように聞こえるかもしれないが、プロレスは自分たちが単なる興行でありm、社会的な責任を追求されれば興行が立ち行かなくなることがわかっているぶんだけ抑制をきかせられる。それでも試合中の死亡事故や練習中の「かわいがり」による死亡事故などが起きているようだ。閉鎖的な暴力集団という面もファンに許容されており「そういう世界だと知って飛び込んのだろう」と思われているのかもしれない。相撲もプロレスのようにしてしまえば、NHKの中継はなくなるだろうが、興行が成り立つ程度のかわいがりも容認されるだろう。

貴乃花親方が改革をしたいのなら、「相撲は現代社会の良き構成員として」「協会側は正当な理由があり調査に協力しなかった」といって法廷闘争に持ち込めばいい。相撲協会は改革のために理事と理事長を解任し、少なくとも理事長には外から現代的なガバナンスができる人を招聘すべきだろう。相撲を近代的なスポーツにしようとするならば、親方は単に柔道のコーチのような存在になるだろう。

残念ながら国体という概念を持ち出して「相撲は桜が紋章になっており、菊の紋章をいただく皇室と並んで日本の伝統を担う」というようなことを言っているようでは、単に新しい村落構造を作るだけになってしまうだろう。

貴乃花親方が裁判に打って出た場合、相撲村の掟と日本国憲法が相撲をすることになる。どちらが勝つのかは歴然としていると思う。


さて、Twitterでメンションがあったので乱文ぶりを添削したのだが、ついでにこの文章を書いた後に何が起こったのかを補足しておきたい。結局、八角理事長は再選された。貴乃花親方の部屋では動揺が起こったのか貴公俊が暴力事件を起こした。相撲界には暴力という事件を公平に裁く裁判所のような仕組みがなく、親方衆の胸先三寸で罪状が決まってしまうことになっている。貴乃花親方は相撲協会に「降伏」することでこれを是認してしまった。これは、貴乃花親方がやったことも世論を喚起して日馬富士や白鵬への罪を重くしようとしたという行為を認めてしまったということを意味する。

これを書いた時には裁判をすれば良いと書いたのだが、実際には裁判は起こらなかった。そればかりか人治的な慣習を是認してしまったことで、暴力が隠蔽されうる体質を温存させてしまったことになる。これが直ちに相撲界を弱体化することにはならないだろうが、前近代的な体質が残ることで、中期的に相撲への入門者を減らしてしまうことになるだろう。

だがここで「貴乃花親方が愚かだった」というつもりはない。なぜならばここに出てくる全ての親方衆は相撲の利権構造に依存しており、小さな相撲部屋がお互いに緊張関係を持ちながら連携しているような状態にある。つまり、貴乃花親方が「改革」を貫いてしまうと親方の力関係が強くなり「彼に利益を独占される」危険性があると考えてしまうわけだ。このような小競り合いのプレイヤー同士の改革は、外に明らかな危機がもたらされない限り難しいのではないかと思う。

一方でこのニュースは未だに(208/4/1)ワイドショーの人気コンテンツである。暴力や相撲界の将来などという問題よりも、村の中の細かな人間関係に日本人が強く惹きつけられることがわかる。

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日本人にはそもそも利己主義しかない

先日コメントをいただいた。個人主義が理解されず利己主義になっているというようなお話だった。なんとなく「そうですね」というように返したのだが、一段落したのでこれについて取り上げたい。ここから展開する主張は、日本にはそもそも利己主義しかないという前提に組み立てられている。一方で日本では個人が考えを持つことがないので、そもそも個人主義というものは存在しない。

今回見ている日本の村落には個人は登場しない。ゆえに個人の価値観をすり合わせて社会を作るという論は全て無効になる。これは「日本には個人主義はない」と言っているわけではなく、あくまでも概念上の話である。西洋流の考えを身につけたり、外国に留学したりすると個人主義を身につけることはできる。個人が意見を言ってそれの責任をとるという実名性の世界である。日本にはいくつか実名で意見交換する言論プラットフォームがあり、日本に個人主義が全くないとはいえない。しかし、こうしたプラットフォームは一般的でなく、従って多くの人たちは匿名かハンドルネームで意見を交換し合う。これは日本人が個人での意見表明を極端に恐るからだとしか説明のしようがない。

個人がないということはその集まりである社会もないのだから公共もない。あるのは所与の村落だけである。

村落は集団による利己主義に基づいた利権共同体である。つまり、日本人は利権の調整しか合理的に捉えることができないということだ。個人がないために個人の価値観がなく、ゆえにそれを擦り合せるということができないのだが、損得勘定はわかるのだ。

日本の村落はドメイン(領域)と時間がある。その中で得られる利得を最大化するのが日本人のやり方である。

例えば日本人は地位を得るとわがままに振る舞うことができる。しかしわがままがすぎると地位が転落して長期的には損をする。だからわがままを控える。これが日本人のガバナンスのほぼ全てなのではないか。ゆえに、周囲が監視しなくなったり、長期的な利権が見込めなくなったりすると、ガバナンスそのものが崩壊する。相撲も政治もある程度これだけで「わがままになった」理由が説明できる。

ところが、この利己的行動には「集団である」という前提条件がある。日本では組織を守るために泣いて相手を切ったりすることは美徳として捉えられるが、これは他の集団から見れば利己的な行為なのだが利己主義とは呼ばれない。さらに、組織の利己的な生き残りのために個人が犠牲になると、これは大きな美徳として捉えられる。しかし、同じようなことを個人のためにやると「利己主義だ」と言われてしまうのである。

この集団による利己主義が非難されないのは他の集団も利己的だからだ。利己的という言い方には悪い含みがあるが真剣に自分たちの利益を追求するということなのだし、他にピンとくる価値観はないのだから、一旦これは許容する必要がある。

利己主義をなくしてみんなのために頑張ればいいのではないか、などと思うのだが二つの弊害が出る。一つ目は損得勘定が何かもっと別のグロテスクな題目に変わってしまうということである。例えば「国体を守るために日本人の中にいる反日分子を抹殺する」などと言い出したら、これは危険な兆候である。その人は単に利己主義を受け止められなくなり暴走を始めたのだ。政治の世界では左右問わず良くこういうことが起こる。

一方もっと怖いのが無関心である。オリンピックや築地市場の豊洲移転などには多くの人が利権を求めて群がった。しかし、その目標が達成できそうにないということがわかると、人々はそこから一目散に逃げ出す。そして誰もそのプロジェクトに関わらなくなり、目標を失って漂流を始めるのである。実は政治にはこのような動きがいくつも起きているようなのだが、ニュースにならないので誰も注目しない。Twitterを見ていると「オリンピックも豊洲移転も失敗するだろう」という予測が現場の声として聞かれる。

もう一つの無関心の現れが冷笑である。「〜さんが悪くする日本の〜」のようなフォーマットで文章を書くとアクセス数が伸びる。これは部外者が部外者としては終わらないということだろう。高度経済成長社会では「〜すれば〜できる」というハウツー系に需要が集まるが、無関心な社会では冷笑に商品的な価値が生まれる。個人を中国や韓国などの国に置き換えた本が売れるのもこの流れなのではないだろうか。

いずれにせよ、日本人が利己心を失うと、現実的なパースペクティブが失われ状況が混乱するか、興味が失われて推進力がなくなってしまうということになる。そもそも、個人の正義感で問題を解決しようという意欲も意思もないのだからこれは当然のことである。

たいていの場合はこれほど極端なパスを取らず、大きくなりすぎた村落を解体して小さな利益共同体に戻ってしまう。つまり荘園を作って塀で囲い外のことは知らないとなるのである。安倍首相の改革は結局特区による荘園化に落ち着きつつある。

いずれにせよ「あの人は利己的だ」という場合、実際には「個人の資格で利益獲得競争に参加しようとしているので生意気だ」と非難されているか「その人の取り分が増えると自分が食べて行けなくなる」という非難にすぎず、実際には利己的な行動が非難されているわけではないのではないのではないかと思う。

そもそも、利己性が非難される社会というのは、全体の収益性が縮小しつつあり誰かの犠牲なしには成り立たなくなっているか、そもそも組織作りがうまく行かずに組織に属さない個人が生き残り競争にさらされるということを意味しているわけであって、利己主義そのものが非難されているわけではない。

安倍政権が非難されるのは、社会が縮小する恐れがあり「このままでは生きて行けないな」という危機感を持っている人が問題を共有しない安倍首相を非難するということなのではないかと思う。

もちろん、こうした村落性を超克して、個人がそれぞれ価値観を持ち、それをすり合わせつつ新しい社会と公共を作ってゆくというアプローチはあるのだろうが、多くの日本人は概念としてはこれを理解できても、それを実行することは難しいだろう。そもそも実名を出して自分の意見をいうこともリスクだと考えている時点で望みはないと思った方が良さそうである。

これはいわゆるリベラル左翼の人たちにとってみれば「彼らが理想とする社会など実現できない」ということであり、いわゆる保守の人たちが理想として掲げる「公共への自発的な奉仕」は特定の村落への無料奉仕になってしまうということである。

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貴乃花親方が崩壊させる日本相撲協会

もともと2017年12月に書いた記事なのだが、2018年9月の時点でまた動きがあった。現在進行形の事態を扱っているので内容が書きかわることが予想される。相撲強化のガバナンスの矛盾点を指摘した貴乃花親方は最後までそれを解消することがなく、最終的に相撲協会を離脱する決意をしたようである。このことは結果的に相撲協会を崩壊に向かわせるかもしれないと思う。短く済めば苦しみは少ないだろうが、長引けばそれだけ苦痛は増すのではないか。


当初、ワイドショーがこの事件に執着したのは、これが見世物として視聴率を稼ぐからだろう。視聴者は村落の中の権力闘争を見たがっていた。しかし、マスコミはこの問題の本質については知っていても伝えることができない。インサイダーになりすぎているからである。2018年9月にこの問題が再発したとき、長年貴乃花親方を取材していた横野さんの手は震えていたそうだ。

本質的にはこれは利権をめぐる権力争いである。つまり人間関係は余興として楽しめるが、利権争いが問題の本質であり「相撲協会を本気で怒らせるリスクがある」と感じているのだろう。ワイドショーを見ていると「言わなかったこと」の内容により、彼らがどう行動しているのかがなんとなくわかる。

この二重構造を見ているとワイドショーがとてもエキサイティングな職人芸に見えてくる。2017年の時点では弁護士は、この目的が貴乃花親方の排除だということがわかっているが、なぜ排除されるかを伝えられないために綱渡りのような解説をしていたが、どうやらこれをを楽しんでいるらしい様子がうかがえた。

そこで、貴乃花親方はホイッスルブローアーであり理事選から排除するのは不利益処分だという主張に変わっていた。一方で相撲ジャーナリストと呼ばれるインサイダーたちはこうした法律的な問題には疎く、心理的距離も近いので従って何も言えなくなってしまっている。彼らは単に相撲に詳しいだけなのだが、相撲はもはや誰も見向きもしない退屈な余興にすぎない。

この間を埋めるのが中間的なジャーナリストと呼ばれる人たちだ。「(抜け穴だらけの)相撲協会のガバナンスについて改めて勉強」している人もいれば、昔から法律的なことなどどうでもよいような運営をしてきたじゃないかなどと言いながらニヤニヤと眺めている人もいる。彼らも相撲のインサイダーではないので状況がわかっているのだろう。

もう一つの問題は理事長選挙に対する過剰な期待である。2017年末には、貴乃花親方が理事長になるべきだとか、錣山親方が理事の椅子を狙っているなどと言われていたようだという話が盛んに流されていた。「理事や理事長になれば組織が変えられる」という幻想が素直に信じられているように見えた。その後も貴乃花親方は改革派と呼ばれ続けた。2018年9月にこれが「裏切られた」と感じたのは、貴乃花親方が「もう戦う意思はありません」と表明したからである。改革を期待していた人は勝手に期待して勝手に失望した。別の人はこれで面白い見世物がなくなると感じているのか「これで終わりになるのは納得できませんね」と言っている。

2017年に書いた元記事では「実際には日本の組織にはガバナンスの仕組みなどない」と書いた。あるのは利益分配機能だけであり、組織の損得を計算に入れたプレイヤーたちがその場限りの意思決定をするというのが日本の組織のあり方だからである。つまり、日本人は自分の損得勘定についてのみ合理的に判断できる。そしてこの「自分」というのは必ずしも個人のこととは限らない。これは相撲の世界だけの話ではなく、実は政治の世界でも同じような構造がある。相撲部屋を派閥に相撲協会を自民党に置き換えてみるとわかりやすいのではないかと思われる。

しかし内情はもっとひどかった。親方たちはこんな騒ぎになったのはもとからあった一門制度が「貴乃花親方によって破壊されたからだ」と感じたのかもしれない。理事会で「一門に所属しない親方は排除しようや」ということになったようだ。しかしそれを公式に発表してしまうと面倒なことになりかねない。そこでまずは親方同士で口づてで伝え、相撲記者を通じて貴乃花親方にほのめかしたようである。そして「貴乃花親方が内閣府に告げ口したのは事実無根である」という文章を突きつけた上で「事実無根であった」ということを認めるか、あるいは相撲協会から出て行けと迫った。誰もそれを直接いう人はいない。「一門に受け入れない」ことで排除を図ったのである。つまり「何もいわないけど、わかるだろう?」ということだ。

デイリースポーツによると協会側は2018年9月の時点では圧力を否定している。

貴乃花親方(元横綱)が25日、会見を開き日本相撲協会からの退職を表明したことを受け、同協会を代表して芝田山広報部長(元横綱大乃国)が報道陣の取材に応じた。[中略]「告発状が事実無根であることを認めないと一門には入れない、というわけではありませんし、そういったことを言って貴乃花親方に圧力をかけた事実はありません」と断言した。

さらに、意味不明のことも言っている。

一門に所属しない親方が部屋の運営ができなくなると言われたとも貴乃花親方は発言していたが、「そのような事実も一切ない」とした。ただし、7月の理事会で、全親方が協会内に5つある一門のいずれかに所属するようにすると決定したことは発表した。

全親方が一門に入らなければならないのに、どこも受け入れないとどうなるのだろうということは示されない。つまり、表向きの決定と裏の決定を巧みに使い分けることで、排除を図ったのである。

「利権」というと悪く聞こえるかもしれないが、日本人が集団として理解できるのは利権構造だけである。これが問題になるのは、利権を分配できなくなった時である。つまり、誰かが生存できなくなるほど追い詰められると、人は誰かを「利己主義的だ」といって非難し始める。日本人にとっては利己主義こそが合理性であって、それ以外の主義は存在しえない。親方たちは貴乃花親方が内閣府に告げ口することでこの利権構造が崩されかねないことに腹を立てたのであろう。だがそれは表向きには言えないので、彼らなりの戦略を立てた。とても稚拙ではあるが、それが村流のやり方なのだ。

2017年時点で調べてわかったことは、相撲界は部屋の連合体という側面と日本相撲協会の二重構造になっているという点である。部屋は単独で成立しているのではなく一門という派閥を形成してい流という成り立ちは極めて村落的だ。個人が存在しないように独立した部屋というものはなく、部屋の連合体としての一門が形成されている。派閥は相撲茶屋を通じて升席の販売権という利権を持っている。あり方としてはプロレスにいろいろな団体があり、独自の販売窓口を持ち、いくつかの会場で同じルールとしきたりを使って他流試合を行っているというような構造になっている。

だが、このやり方をそのまま現代に持ってくることはできなかった。そこには最初から国家とのつながりがある。

wikipediaによると当時の摂政の宮であった昭和天皇から賜ったお金でトロフィーを作ったことが相撲協会設立のきっかけになっている。公益性のない相撲に菊の紋章の入ったトロフィーを送るわけには行かないというような話になり、慌てて相撲協会が作られたというわけである。つまり、相撲協会は単なる権威付けのための団体であり、その内情は部屋と一門がとり仕切る興行でしかなかった。

単に天皇杯の受け先としてしか機能していなかった相撲協会だが、1957年に社会党の辻原議員が「相撲協会の公益性には疑問がある」として予算委員会で質問したことで話が複雑化する。質問の狙いは力士の待遇改善だったようだ。つまり左翼主義者が相撲という興行に「手を突っ込んだ」のである。

このため相撲協会は、力士に給料を渡したり、茶屋制度を廃止して升席を解放したりという改革案を作らざるをえなくなった。緩やかな部屋の連合体でしかなかった相撲界が「天皇杯」という権威を持ってしまったために、力士の福利厚生や教育などという近代化にさらされてしまうのである。

この「改革案」に耐えかねた出羽海親方は割腹自殺を図る。国会で追求されたことが恥であったという意見もあれば、出羽海一門が独占していた茶屋制度の崩壊の責任を取ったのではないかという説もあるそうだ。理事長の自殺未遂事件についてまとめてある文章が見つかった。この文章を読む限り出羽海親方は切腹を図ることで相撲茶屋という利権を守ったように見える。

Wikipediaの相撲茶屋の項目を読むと、それぞれの茶屋の割り当ては決まっており、今でも力士関係者が独占しているという。この既得権を守るために部屋の連合体が作っているのが一門であり、急進的な改革が起こらないように睨み合っているのが現在の相撲協会の理事たちである。一門制度を見ると、八角理事長の立ち位置がわかってくる。大きな派閥は出羽海・二所ノ関・時津風であり、これらが三つ巴の主導権争いをすると仲裁が効かなくなってしまうのだろう。そこで、小さな派閥である高砂一門を仲裁役として立てているように見える。日本の緩やかな村落共同体は「中央に空白を置く」ことで相手の干渉を避けて利権を守る。その意味ではこのあり方は極めて日本的である。

しかしながら、相撲協会は「国技」という嘘をついてしまったために、徐々に公益性という毒にさらされてゆく。もし相撲がプロレスのようであったなら、暴行事件は単に刑事事件としてのみ扱われ、それ以上の問題にはならなかったであろうし、貴乃花親方のように「勘違いする」親方も出なかったはずだ。

貴乃花親方が異質だったことは2018年9月の会見を聞いているとよくわかる。「自死」をほのめかしていたからである。経済的困窮もないのに生業のために自殺する人はいない。自死という考え方が出てくるのは(少なくとも日本人にとっては)それが個人を超越した崇高な何かだからである。それくら貴乃花親方は他の親方と違ってしまっているのだ。

相撲協会がガバナンスに興味がないのは明白である。相撲茶屋の利権は頑なに守られているが、一方では反社会的な行為が蔓延している。まずは新弟子を暴行で死なせてしまった事件(2007年)が起こった。さらに外国から力士を入れたところで大麻事件(2008年)が起こる。これは外国人だけでなく日本人にも広がったようである。さらに力士が野球賭博(2010年)を行っていたことも問題になった。さらに2011年には長年語られていた八百長が現実に行われていたことも発覚した。だが、相撲は興行でありスポーツではないのだから、面白ければ八百長があっても構わない。だが、国技とか公益性のあるスポーツだといわれるとこれらは大きな問題になる。

にもかかわらず税制上の優遇措置を受けるために公益法人化したことでさらに事態が悪化する。つまり、実態は単なる相撲部屋のにらみ合いのための組織である相撲協会にやるつもりがない「ガバナンス」という役割が押し付けられてゆく。

今回の日馬富士暴行事件の原因は、相撲協会でも部屋でもないところにモンゴル人閥という新しい集団ができてしまったということだった。公益ですら相撲興行を維持することは難しくなり、外国人を雇い入れたために文化マネジメントまでやる必要が出てきた。だが、力士出身の彼らにそのようなスキルはない。

もともとは利権をめぐる争いだったのだが、突き詰めてゆくと、相撲とは一体何なのか誰も答えられなくなっているところに問題がある。本質はこれが興行なのか、国技なのか、それとも国際化されたスポーツなのかという問題だ。そして、これはもはや遺物になってしまった貴乃花親方を排除したとしても解決できない。

2017年末の貴乃花親方の立ち位置はとても不明確だった。彼は理事会が調査権限を持つことを嫌っており部屋の独立性を維持したい。しかし、理事会を掌握して相撲協会を抜本的に解決したいとも思っている。しかしその態度は徐々に変わってゆく。まず理事ではなくなり経営を外から見ることができるようになった。それでもプレッシャーは無くならず文書によらない決定が人づてにほのめかされたり「善意の助言」を受けるうちに、ああこれはダメだなと気がついたのではないだろうか。2018年の9月時点では「もう戦うつもりはない」と言っている。

もちろん、本当のことは誰にもわからない。しかし、貴乃花親方が相撲を守りたかったのは、自分が親たちから受け継いだ相撲道を追求したかったからなのだろう。しかし、そんな相撲道はもうないということに親方は気がついてしまったのではないだろうか。

興行的な相撲から見れば、大相撲は「公益性」という嘘をついてしまったために、その嘘を本当の姿だと勘違いするモンスターが生まれてしまったことになる。精神性というのは利権を守るための物語なのだが、いったん利権構造から切り離されてしまうとそれが純化されて一つのイズムを生むのである。一方外から見ている我々は「公益」とか「スポーツ」という類型で相撲を見てしまうので、貴乃花親方に過剰な改革を期待する。

貴乃花親方がここから降りたのは正解だった。彼がそこから降りたのは結局弟子の成長を最優先したからだ。彼は最終的に興行的な利権でも彼の持っている精神性の追求でもなく、スポーツのコーチのように弟子を応援する道を選んだのである。貴乃花親方は最後の挨拶文で「神のご加護を」というようなことを言っている。新興宗教の信奉者であると言われているので、相撲道と自身の信仰を重ねていたのだろうが、本当に弟子たちのことを思うことで一つ視点を大きくした様子がうかがえる。ただし、日本人は個人が信仰を持っていることをタブー視する上に確かに怪しげな側面もあるようなので、これをマスコミが伝えることはないだろう。

日本相撲協会はこの嘘に振り回され続けるか、それとも天皇杯を返上して単なる部屋の一群による村落的な興行団体に戻るかという二つの選択肢しかないのではなかった。貴乃花親方が協会にい続ければ、現在の相撲協会を破壊してしまうのは間違いがなかったであろう。協会は貴乃花親方を排除したことで一応の危機からは逃れることができたわけだが、根本的な矛盾がなくなったわけではない。むしろ、根本的な矛盾を自分たちで解決できないことが露呈したことになる。一旦人々の意識に登ってしまった以上それが消え去ることはないし、貴乃花は偉大な力士なので、このことは後世まで語られることになるだろう。つまり、相撲協会は矛盾を解決する意思も技術もなく、矛盾が忘れ去られることもない。従って、協会はこのまま混乱しつつ衰退するのではないだろうか。

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自分の出演したドラマから何も学ばなかった愚か者としての武田鉄矢

これまで、日本の村落共同体について観察してきた。ここに別のパラメータを加えて観察を進めてみたいと思う。今回は武田鉄矢さんについてである。日本の村落共同体が機能しなくなってゆく様子を観察していたはずなのに、何も気がついていなかったらしい人である。

武田さんの悲劇の一因は実は視聴者側にもある。ドラマのメッセージが伝わらずに記憶されてしまったために、その期待に応じているうちに自分の立ち位置がわからなくなってしまったのだろう。


このところTwitterに武田鉄矢をdisるツイートが流れてくる。とても唐突な感じがするのだが、どうやらフジテレビの番組で政権擁護をしたことで嫌われたようだ。日曜日には見なければならないコンテンツがたくさんあり、松本某さんの例の番組まで手が回らないので武田さんが何を言ったのかはよくわからないが、Twitterによると「政権を非難する人は格好をつけているだけ」というようなことを言ったようだ。

武田さんは学校の諸問題を扱うドラマに出演していた。学校は校内暴力などをうまく扱えずに徐々に機能不全を起こしてゆくのだが、価値観が多様化しすぎてついには教育を扱ったドラマそのものが成立しなくなってしまう。つまり、高度経済成長期以降の学校は問題解決の主体としては描けなくなってしまい、逆に社会問題を作り出す舞台になってしまったのだ。その後、学校を扱ったドラマはあるが、生徒同士の恋愛とかイケメンが多数登場するようなドラマが主流であり、学校システムは社会問題の元凶としてしか扱われなくなった。

今回は愛があったら殴っても良いという発言について考える。武田さんは当たり役に出会ってしまったために、本来のドラマが向き合っていた問題がわからなくなってしまったようだ。金八先生が向き合っていたのは「爽やかな青春ドラマ」ではなく、学校が内部で起こる諸問題を自力で扱えなくなってゆくという崩壊の過程だった。つまり、金八先生は基本的には運命に立ち向かって敗北してゆくという古典的な悲劇のフォーマットを持っているのだが、武田鉄矢はバラエティー番組で先生の役割を求められるうちにそれを忘れてしまったのであろう。

と同時に視聴者も目の前にある問題の重さに耐えきれず考えることをやめてしまったのだと気づかされる。金八先生というと髪の毛を書き上げて怪しげな漢字議論と時には感動的な話を展開する一風変わった先生だという印象がある。また、生徒たちはその後有名になっており、若手俳優の登竜門という扱いにもなっている。

金八先生は、中学生の出産、学校への警察の介入、先生を巻き込んで地下化する校内暴力、性的少数者など、学校では取り扱えない問題を扱ってきた。どれも学校の枠内では収まり切らないので、外部からの専門家の介入が必要とされる。しかし、取材をもとにしているので、現実にない解決策を提示することはできなかったのではないだろうか。どれも専門家との協力が必要なのだが、この中で解決したのは地域高齢者との関わりだけである。つまり、先生同士がいくら話し合っても学校の特殊な問題を扱えず、教育委員会は何の支援もしてくれないでただひたすら問題の解決を迫ってくる。つまり金八先生は、誰の協力も得られず孤立しつつ崩壊してゆく「先生村」を扱ったドラマなのである。

前回まで、村落共同体について見ていた。固定的で閉鎖された村落には個人は存在しえないというようなお話だった。この村落共同体は環境が固定的であり状況が変化しないなかで、村落内部の人間関係だけが変化するというような社会だった。武田さんの悲劇はこれに変数を一つ加えると割と明確に説明ができる。つまり、村落の構造そのものが変化してゆく社会を日本人はうまく扱うことができないのである。変化を扱えないのは日本人が利権を超えて協力できないからだ。

考えてみると、武田鉄矢の結論は面白い。本来ならば、専門家を交えた社会の協力で多様な解決策を模索することが解決策になるという結論を得てもよさそうなのだが、武田鉄矢はこれを個人の力量の問題に矮小化してゆく。そこで人格的に完成した教師が、自分の痛みという極めて主観的で曖昧な基準だけを頼りに、殴るってもよいという結論に達してしまったのだ。

先生が冷静な状態に置かれていればこの主観もある程度信頼できるかもしれない。しかし、実際の先生はいろいろな圧力にさらされているようだ。金八先生の時代には出世さえ諦めれば生徒のためを思った指導ができたのかもしれない。だが、現在の先生は評定が悪ければ教育困難校に飛ばされることもある。さらにそもそも時間が足りないので何かを犠牲にしなければ自分が潰されてしまうという状態にある。つまり、教育そのものに余裕がなくなっており、一種の「やるかやられるか」という闘争状態にある。

闘争状態にある人が自分の身を守るために暴力をふるっても、それを非難することは難しいだろう。

ところが、日本の社会は他人を思いやる余裕がない。これは政治の世界も同じだ。自分たちがセーフティーネットを壊してしまったので「政治家をやめたら生活保護だ」という恐怖心を抱いており、そのためになりふり構わず利権獲得に走るという構図が見られる。教育は政治家にとっては利権獲得の手段であり、かつてのような社会的責任は感じられない。

安倍政権が教育予算を減らして教育現場を荒廃させたというようなことを言うつもりはないが、日本でこの問題を解決できるのは政権だけだ。ゆえに、こうした政権を擁護している武田さんにも責任はある。さらに、愛さえあれば問題は解決するはずだという提案はあまりにも無責任である。つまり、学校で問題が起こるのは「先生の愛が足りないからだ」という安易なメッセージを引き出しかねないからである。

武田さんに教育機関の予算についての解決策を示せなどとは思わない。だが、そのようなポジションで語る以上「いじめられるのは逃げ遅れたことが悪いのだし、社会の90名を救うためなら10名が犠牲になっても構わない」と堂々と主張すべきである。残りの人たちの犠牲者としての役割を完遂するためにただただ耐え続けろという主張に一切の正当性はないだろう。

それをやらずに、愛さえあれば社会矛盾は解決するし安倍政権はいいこともやっているなどというのは、欺瞞でしかない。

日本の村落性はそれ自体は悪いことではない。しかし、村落共同体がなんらかの変化にさらされているのに解決策が見つからないことが問題なのだ。本来なら、いろいろな可能性を試すべきなのだが、それをやらずに自分たちがすでに持っている何かに固執し、問題を矮小化してしまい、問題が長引くのである。

自分を先生だと思い込んでしまった武田鉄矢さんのいうことにそれほどの価値はないのだが、彼の場合は「愛があれば大抵の問題は解決する」と言っており「先生個人」に問題を矮小化しようとしていることがわかる。そこに痛々しさと腹立たしさの原因があるのだと思う。

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村落共同体である日本からいじめをなくすにはどうしたらいいか

はあちゅうさん問題からはじめて、日本は村落的共同体であり学校の本来の目的はいじめであるという論を展開してきた。もちろん極論なのだが、構造がはっきりしたのだから問題解決もできるはずである。つまり、構造を崩せばいじめはなくせるはずである。以下、検証して行こう。

村落共同体は権力構造が不明確な閉鎖空間だった。こうした空間では常に発言力を維持するためのマウンティングが行われている。これは上位にいる人たちにとっては単なる「いじり」だが、下位にいる人たちにとっては「いじめ」である。

最初のソリューションはもちろん勝ち組になるために全てをマウンティングに捧げるというものである。勉強が得意であれば勉強すればいいし、上位の人たちにおもねるのが得意ならそうすれば良い。これはみんながやっている犠牲者を前提とした対策である。勝ち組でいられるならいじめについてあれこれ悩む必要はないし、たいていの人は巻き込まれないように見ているだけなので実害はない。

次のソリューションはこうした競争から離脱することである。つまり確立した一個人として生きるということだが、日本にはそもそも個人という概念はなく、つまり一個人として生きるということは「群れを外れた人以下のなにか」になるということを意味する。海外に逃避するという選択肢もあるのだが、世界情勢は逼迫しており、例えば個人主義者の聖地であったアメリカさえ他者を拒むという方向に転換しつつある。いずれにせよ、人以外の何かはノーベル賞をとったり大リーグで活躍したりすると、いきなり「誇らしい日本人」になる。いずれにせよ、この路線で行くなら、マウンティングに関係しない一芸を身につける必要はありそうだ。

この2つのアプローチが取れない場合は、構造そのものを壊すことを考えてみることもできる。一つは閉鎖空間を壊すという選択肢である。つまり、クラスをなくし、部活をなくせば良い。数学の時間には数学の教室にゆき、英語の時間には英語の教室に行くのである。またクラブ活動もなくなり、終業後サッカーがしたい人は地域のサッカークラブに出かけて行き、吹奏楽がやりたい人は地域楽団に所属するといった具合になる。極めて簡単にできる。相撲もかわいがりをなくすためには部屋を全廃して親方をコーチと呼べば良い。つまり、選手がコーチを雇うことにすれば良いのだ。

いっけんよさそうなやり方なのだが問題点もある。日本人は学校を出た後も村落的共同体に参加しつづけなければならない。日本には個人がないのだから、集団にいわゆるガバナンスがない。あるのは同僚による縛りあいと地位転落の恐怖である。相撲協会のゴタゴタをみているとこれがよくわかる。つまり、学校で日本流のいじめ社会に適応しなければ、外資系企業にでも就職しない限り企業でも良い地位が得られないということになる。

「日本人を馬鹿にしている」と思われそうだが、相撲協会はかわいがりをなくすことができなかった。かわいがりは「人権世界」ではいじめであり暴力なのだが、相撲の世界では教育の一環であり、これなしに後輩を指導することができない。外から見ているととても明白なのだが、相撲協会はこれがよくわかっていないようである。これを学校に置き換えても同じことで、日本人は先生の暴力や威圧を教育の一環だと考えつつも、表向きにそれが言えないでいる。

そもそも日本人は集団行動をありがたがる上に個人主義に根ざしたガバナンスも苦手なので、一部の犠牲者を防ぐために全ての集団を捨ててしまいましょうといのはかなり思い切った提案だとみなされるだろう。だが、一旦構造がわかってしまえば、少なくとも理論的にはクラスの解体こそが、解決策になるということがわかる。

もう一つのやり方は、序列を作るルールを明確化してしまうということである。曖昧な基準だからこそ序列競争が地下化するのだから明確化すればよい。例えば成績原理主義を取り名前ではなくテストの成績順で呼ぶというようなことだ。

相撲の場合も番付をなくせばよい。強い人が上位にいるという制度のはずなのだが、横綱はいくら休んでも良いという特権的な地位にあり、番付下の人たちが勝ってしまうこともあるのだから、実は極めて曖昧な制度なのである。番付と横綱をなくせば、日馬富士暴行事件のようなことはなくなる。横綱の「指導」も「品格」もなしで済ませられる。

このやり方の欠点は序列最下位ができてしまうということだが、年齢順にしておけば「とりあえず一年我慢すれば、一番下ではなくなる」ということになる。年功序列というのはその意味では日本的には極めて合理的な制度なのだ。アメリカのように成績の順番に首を切られてしまう企業は、退出だけが救いになっている。代わりに新しい人が入ってくるのだから、入れ替えが前提になっていることがわかる。日本のような閉鎖的な空間では、カーストの最下位の人は単に「永遠の隷従を生きる人」になってしまうのである。

多くの人が考えているように、いじめはいけないことだからやめましょうなどと言っても誰もいうことを聞かないということがわかる。それは先生もこうした村落的なカーストの中におり、教育委員会も教育村を作っているからである。カーストの維持こそがそもそもの根源的な行動原理なのだと考えると、その中にいる人たちがそれを防ぐことはできない。

だからいじめが露見するとそれはなかったことにされる。いじめられる人にとってはいじめだが、いじめる人にとってはプレゼンス確保のための活動だからである。下手人だけがいじめを行っているわけではなく、それを黙認したり、黙殺したりすることも、それぞれの立場でのカースト維持活動であり、いじめられている人からみればいじめの構造の一部なのである。

本来の村落では手心が加えられており、最悪の事態は避けられる。例えば「村八分」は最低限のコミュニケーションの余地は残されている。つまり「二分」が残されている。ところが、こうした村落制が意識されなくなると、先生も生徒もどこまでを残しておくべきなのかということがわからなくなる。ということで、最後のソリューションは実は村落構造体を是認してしまうことである。

「村落」を後進的なものと捉えると、非常停止装置としての自殺が有効な制度になってしまう。自殺されるといきなり今まで全く顧みられることのなかった「ジンケン」という幻がいきなり立ち現れる。ところがジンケンには収まりどころがないので、とりあえず教育長が頭を下げてみたり、市長が沈痛な面持ちで調査委員会を立ち上げつつほとぼりが冷めるのを待つ。つまり、自殺が起こると「ジンケン」という「カミ」を怒らせたことが問題となり、ほとぼりが冷めるまで頭を下げることになるのだ。かといって、たいした解決策が示されることなく、次の犠牲者が出るまで同じようなことが繰り返される。それは台風について反省してもまた別の台風がやってくるというのと同じメンタリティだ。

つまり、教育委員会はそもそも「自殺は仕方がないこと」と考えているということだ。かといって反省していないわけではない。ジンケンという神を怒らせた祟りがあったと考えて真摯に反省するのである。

いずれにせよ、日本人は西洋流の天賦人権の世界は生きておらず、封建制度以前の村落共同体に生きているのだという認識をしてはじめて、なんらかの問題解決ができるのではないかと思う。

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