自分の出演したドラマから何も学ばなかった愚か者としての武田鉄矢

これまで、日本の村落共同体について観察してきた。ここに別のパラメータを加えて観察を進めてみたいと思う。今回は武田鉄矢さんについてである。日本の村落共同体が機能しなくなってゆく様子を観察していたはずなのに、何も気がついていなかったらしい人である。

武田さんの悲劇の一因は実は視聴者側にもある。ドラマのメッセージが伝わらずに記憶されてしまったために、その期待に応じているうちに自分の立ち位置がわからなくなってしまったのだろう。


このところTwitterに武田鉄矢をdisるツイートが流れてくる。とても唐突な感じがするのだが、どうやらフジテレビの番組で政権擁護をしたことで嫌われたようだ。日曜日には見なければならないコンテンツがたくさんあり、松本某さんの例の番組まで手が回らないので武田さんが何を言ったのかはよくわからないが、Twitterによると「政権を非難する人は格好をつけているだけ」というようなことを言ったようだ。

武田さんは学校の諸問題を扱うドラマに出演していた。学校は校内暴力などをうまく扱えずに徐々に機能不全を起こしてゆくのだが、価値観が多様化しすぎてついには教育を扱ったドラマそのものが成立しなくなってしまう。つまり、高度経済成長期以降の学校は問題解決の主体としては描けなくなってしまい、逆に社会問題を作り出す舞台になってしまったのだ。その後、学校を扱ったドラマはあるが、生徒同士の恋愛とかイケメンが多数登場するようなドラマが主流であり、学校システムは社会問題の元凶としてしか扱われなくなった。

今回は愛があったら殴っても良いという発言について考える。武田さんは当たり役に出会ってしまったために、本来のドラマが向き合っていた問題がわからなくなってしまったようだ。金八先生が向き合っていたのは「爽やかな青春ドラマ」ではなく、学校が内部で起こる諸問題を自力で扱えなくなってゆくという崩壊の過程だった。つまり、金八先生は基本的には運命に立ち向かって敗北してゆくという古典的な悲劇のフォーマットを持っているのだが、武田鉄矢はバラエティー番組で先生の役割を求められるうちにそれを忘れてしまったのであろう。

と同時に視聴者も目の前にある問題の重さに耐えきれず考えることをやめてしまったのだと気づかされる。金八先生というと髪の毛を書き上げて怪しげな漢字議論と時には感動的な話を展開する一風変わった先生だという印象がある。また、生徒たちはその後有名になっており、若手俳優の登竜門という扱いにもなっている。

金八先生は、中学生の出産、学校への警察の介入、先生を巻き込んで地下化する校内暴力、性的少数者など、学校では取り扱えない問題を扱ってきた。どれも学校の枠内では収まり切らないので、外部からの専門家の介入が必要とされる。しかし、取材をもとにしているので、現実にない解決策を提示することはできなかったのではないだろうか。どれも専門家との協力が必要なのだが、この中で解決したのは地域高齢者との関わりだけである。つまり、先生同士がいくら話し合っても学校の特殊な問題を扱えず、教育委員会は何の支援もしてくれないでただひたすら問題の解決を迫ってくる。つまり金八先生は、誰の協力も得られず孤立しつつ崩壊してゆく「先生村」を扱ったドラマなのである。

前回まで、村落共同体について見ていた。固定的で閉鎖された村落には個人は存在しえないというようなお話だった。この村落共同体は環境が固定的であり状況が変化しないなかで、村落内部の人間関係だけが変化するというような社会だった。武田さんの悲劇はこれに変数を一つ加えると割と明確に説明ができる。つまり、村落の構造そのものが変化してゆく社会を日本人はうまく扱うことができないのである。変化を扱えないのは日本人が利権を超えて協力できないからだ。

考えてみると、武田鉄矢の結論は面白い。本来ならば、専門家を交えた社会の協力で多様な解決策を模索することが解決策になるという結論を得てもよさそうなのだが、武田鉄矢はこれを個人の力量の問題に矮小化してゆく。そこで人格的に完成した教師が、自分の痛みという極めて主観的で曖昧な基準だけを頼りに、殴るってもよいという結論に達してしまったのだ。

先生が冷静な状態に置かれていればこの主観もある程度信頼できるかもしれない。しかし、実際の先生はいろいろな圧力にさらされているようだ。金八先生の時代には出世さえ諦めれば生徒のためを思った指導ができたのかもしれない。だが、現在の先生は評定が悪ければ教育困難校に飛ばされることもある。さらにそもそも時間が足りないので何かを犠牲にしなければ自分が潰されてしまうという状態にある。つまり、教育そのものに余裕がなくなっており、一種の「やるかやられるか」という闘争状態にある。

闘争状態にある人が自分の身を守るために暴力をふるっても、それを非難することは難しいだろう。

ところが、日本の社会は他人を思いやる余裕がない。これは政治の世界も同じだ。自分たちがセーフティーネットを壊してしまったので「政治家をやめたら生活保護だ」という恐怖心を抱いており、そのためになりふり構わず利権獲得に走るという構図が見られる。教育は政治家にとっては利権獲得の手段であり、かつてのような社会的責任は感じられない。

安倍政権が教育予算を減らして教育現場を荒廃させたというようなことを言うつもりはないが、日本でこの問題を解決できるのは政権だけだ。ゆえに、こうした政権を擁護している武田さんにも責任はある。さらに、愛さえあれば問題は解決するはずだという提案はあまりにも無責任である。つまり、学校で問題が起こるのは「先生の愛が足りないからだ」という安易なメッセージを引き出しかねないからである。

武田さんに教育機関の予算についての解決策を示せなどとは思わない。だが、そのようなポジションで語る以上「いじめられるのは逃げ遅れたことが悪いのだし、社会の90名を救うためなら10名が犠牲になっても構わない」と堂々と主張すべきである。残りの人たちの犠牲者としての役割を完遂するためにただただ耐え続けろという主張に一切の正当性はないだろう。

それをやらずに、愛さえあれば社会矛盾は解決するし安倍政権はいいこともやっているなどというのは、欺瞞でしかない。

日本の村落性はそれ自体は悪いことではない。しかし、村落共同体がなんらかの変化にさらされているのに解決策が見つからないことが問題なのだ。本来なら、いろいろな可能性を試すべきなのだが、それをやらずに自分たちがすでに持っている何かに固執し、問題を矮小化してしまい、問題が長引くのである。

自分を先生だと思い込んでしまった武田鉄矢さんのいうことにそれほどの価値はないのだが、彼の場合は「愛があれば大抵の問題は解決する」と言っており「先生個人」に問題を矮小化しようとしていることがわかる。そこに痛々しさと腹立たしさの原因があるのだと思う。

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村落共同体である日本からいじめをなくすにはどうしたらいいか

はあちゅうさん問題からはじめて、日本は村落的共同体であり学校の本来の目的はいじめであるという論を展開してきた。もちろん極論なのだが、構造がはっきりしたのだから問題解決もできるはずである。つまり、構造を崩せばいじめはなくせるはずである。以下、検証して行こう。

村落共同体は権力構造が不明確な閉鎖空間だった。こうした空間では常に発言力を維持するためのマウンティングが行われている。これは上位にいる人たちにとっては単なる「いじり」だが、下位にいる人たちにとっては「いじめ」である。

最初のソリューションはもちろん勝ち組になるために全てをマウンティングに捧げるというものである。勉強が得意であれば勉強すればいいし、上位の人たちにおもねるのが得意ならそうすれば良い。これはみんながやっている犠牲者を前提とした対策である。勝ち組でいられるならいじめについてあれこれ悩む必要はないし、たいていの人は巻き込まれないように見ているだけなので実害はない。

次のソリューションはこうした競争から離脱することである。つまり確立した一個人として生きるということだが、日本にはそもそも個人という概念はなく、つまり一個人として生きるということは「群れを外れた人以下のなにか」になるということを意味する。海外に逃避するという選択肢もあるのだが、世界情勢は逼迫しており、例えば個人主義者の聖地であったアメリカさえ他者を拒むという方向に転換しつつある。いずれにせよ、人以外の何かはノーベル賞をとったり大リーグで活躍したりすると、いきなり「誇らしい日本人」になる。いずれにせよ、この路線で行くなら、マウンティングに関係しない一芸を身につける必要はありそうだ。

この2つのアプローチが取れない場合は、構造そのものを壊すことを考えてみることもできる。一つは閉鎖空間を壊すという選択肢である。つまり、クラスをなくし、部活をなくせば良い。数学の時間には数学の教室にゆき、英語の時間には英語の教室に行くのである。またクラブ活動もなくなり、終業後サッカーがしたい人は地域のサッカークラブに出かけて行き、吹奏楽がやりたい人は地域楽団に所属するといった具合になる。極めて簡単にできる。相撲もかわいがりをなくすためには部屋を全廃して親方をコーチと呼べば良い。つまり、選手がコーチを雇うことにすれば良いのだ。

いっけんよさそうなやり方なのだが問題点もある。日本人は学校を出た後も村落的共同体に参加しつづけなければならない。日本には個人がないのだから、集団にいわゆるガバナンスがない。あるのは同僚による縛りあいと地位転落の恐怖である。相撲協会のゴタゴタをみているとこれがよくわかる。つまり、学校で日本流のいじめ社会に適応しなければ、外資系企業にでも就職しない限り企業でも良い地位が得られないということになる。

「日本人を馬鹿にしている」と思われそうだが、相撲協会はかわいがりをなくすことができなかった。かわいがりは「人権世界」ではいじめであり暴力なのだが、相撲の世界では教育の一環であり、これなしに後輩を指導することができない。外から見ているととても明白なのだが、相撲協会はこれがよくわかっていないようである。これを学校に置き換えても同じことで、日本人は先生の暴力や威圧を教育の一環だと考えつつも、表向きにそれが言えないでいる。

そもそも日本人は集団行動をありがたがる上に個人主義に根ざしたガバナンスも苦手なので、一部の犠牲者を防ぐために全ての集団を捨ててしまいましょうといのはかなり思い切った提案だとみなされるだろう。だが、一旦構造がわかってしまえば、少なくとも理論的にはクラスの解体こそが、解決策になるということがわかる。

もう一つのやり方は、序列を作るルールを明確化してしまうということである。曖昧な基準だからこそ序列競争が地下化するのだから明確化すればよい。例えば成績原理主義を取り名前ではなくテストの成績順で呼ぶというようなことだ。

相撲の場合も番付をなくせばよい。強い人が上位にいるという制度のはずなのだが、横綱はいくら休んでも良いという特権的な地位にあり、番付下の人たちが勝ってしまうこともあるのだから、実は極めて曖昧な制度なのである。番付と横綱をなくせば、日馬富士暴行事件のようなことはなくなる。横綱の「指導」も「品格」もなしで済ませられる。

このやり方の欠点は序列最下位ができてしまうということだが、年齢順にしておけば「とりあえず一年我慢すれば、一番下ではなくなる」ということになる。年功序列というのはその意味では日本的には極めて合理的な制度なのだ。アメリカのように成績の順番に首を切られてしまう企業は、退出だけが救いになっている。代わりに新しい人が入ってくるのだから、入れ替えが前提になっていることがわかる。日本のような閉鎖的な空間では、カーストの最下位の人は単に「永遠の隷従を生きる人」になってしまうのである。

多くの人が考えているように、いじめはいけないことだからやめましょうなどと言っても誰もいうことを聞かないということがわかる。それは先生もこうした村落的なカーストの中におり、教育委員会も教育村を作っているからである。カーストの維持こそがそもそもの根源的な行動原理なのだと考えると、その中にいる人たちがそれを防ぐことはできない。

だからいじめが露見するとそれはなかったことにされる。いじめられる人にとってはいじめだが、いじめる人にとってはプレゼンス確保のための活動だからである。下手人だけがいじめを行っているわけではなく、それを黙認したり、黙殺したりすることも、それぞれの立場でのカースト維持活動であり、いじめられている人からみればいじめの構造の一部なのである。

本来の村落では手心が加えられており、最悪の事態は避けられる。例えば「村八分」は最低限のコミュニケーションの余地は残されている。つまり「二分」が残されている。ところが、こうした村落制が意識されなくなると、先生も生徒もどこまでを残しておくべきなのかということがわからなくなる。ということで、最後のソリューションは実は村落構造体を是認してしまうことである。

「村落」を後進的なものと捉えると、非常停止装置としての自殺が有効な制度になってしまう。自殺されるといきなり今まで全く顧みられることのなかった「ジンケン」という幻がいきなり立ち現れる。ところがジンケンには収まりどころがないので、とりあえず教育長が頭を下げてみたり、市長が沈痛な面持ちで調査委員会を立ち上げつつほとぼりが冷めるのを待つ。つまり、自殺が起こると「ジンケン」という「カミ」を怒らせたことが問題となり、ほとぼりが冷めるまで頭を下げることになるのだ。かといって、たいした解決策が示されることなく、次の犠牲者が出るまで同じようなことが繰り返される。それは台風について反省してもまた別の台風がやってくるというのと同じメンタリティだ。

つまり、教育委員会はそもそも「自殺は仕方がないこと」と考えているということだ。かといって反省していないわけではない。ジンケンという神を怒らせた祟りがあったと考えて真摯に反省するのである。

いずれにせよ、日本人は西洋流の天賦人権の世界は生きておらず、封建制度以前の村落共同体に生きているのだという認識をしてはじめて、なんらかの問題解決ができるのではないかと思う。

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はあちゅうさんの議論とマウンティング社会

はあちゅうさんという女性がTwitter上で<議論>を展開している。全く無駄な議論でとても不快な気分になる。その一方で、いったい何が不快なのかということを考えてみてもよくわからない。

彼女は過去に受けた性的被害を告発し、相手もそれを大筋で認めている。しかし、過去に「童貞いじり」をしていたことを暴露されて「返り討ち」にあってしまった。性的被害の告発運動である#MeTooがしぼむことを恐れた支援者たちは、性的被害と童貞いじりを別に考えるべきであるというデカップリング論を唱えたというのが、大体のことの経緯である。

このことからまず日本人は「それはそれ、これはこれ」という議論を好むことがわかる。つまり対象物が動く。これは西洋流の議論では邪道だが、日本ではそうは見なされない。つまり、日本流の<議論>は人物が固定されており、事象が動くのだと言える。これは、はあちゅうさんは「女性の味方」だし「男性が性的な経験を元にいじられても特に問題にならない」だろうということであり、はあちゅうさんを正当化することで同じ属性である女性の権利が拡大するだろうという理屈であり、構造としては筋が通っている。

しかしはあちゅうさんは、極めて擬似近代人的な自意識を持っているので「これは議論を展開しようとしているのだ」と開き直った。多分、ここが不愉快さと違和感の原点なのではないか。この擬似近代人的な自意識を作ったのは田原総一郎だが、彼の「議論ができる社会」は西洋型の問題解決を前提としたものではない。はあちゅうさんはこれを見事に引き継いでいる。

田原総一郎は今でも徹夜で<議論>を戦わせる番組をやっている。これが人気なのは日本の村落的な話し合いの空間に近代的な意識を組み合わせることに成功したからだろう。

この番組は実は問題解決を前提としたものではなく、保守村とリベラル村の人たちの村落内での位置をめぐる小競り合いであり、課題には意味がなく、’参加することに意味がある。つまり、日本にはまず集団があり、どの集団に属してどれほどの発言力を持つのかということを延々と競っているのである。ここから降りることは領土を失うことなのだが<議論>にさえ参加していれば、ニッチが得られ、全く問題解決ができなくても言論界で食べて行けるということである。その証拠にこれだけ議論が白熱しても日本が抱える政治的な問題は何一つ解決していない。

同じようにはあちゅうさんがやろうとしているのは<議論>を歓喜することでマスコミに取り上げてもらうことだ。実際に朝日新聞が#MeToo運動についての記事を書いている。つまり議論そのものを継続する必要があり「童貞いじりがどこまで許されるのか」を決めようと提案している。これがいかにめちゃくちゃな議論なのかということは、問題をずらしてみるとよくわかる。

例えば「ハゲいじり」はどこまで許されるのか<議論>することを考えてみよう。高橋克実のようにハゲを隠していない人ならいじってもいいのか、それとも本人が認めるまで黙認すべきなのかを熱く語り合うことはできるだろう。また、西洋人のようにイケメンならハゲてもよいのかというディスカッションもできる。当事者たちのインタビュー記事を交えて面白く構成すればそれなりに社会的に有用な読み物ができるだろう。だが、それは何かを解決するのには全く役に立たない。

また光浦靖子のように不美人を売りにしている人をいじっていいのか、それともそれは人権侵害なのかということを<議論>してもよいかもしれない。指をさして笑うのはいいが、叩くのはダメというルールブックを作ることも可能である。光浦さんも洗練されてきてしまっており、彼女の「商品性」が損なわれていることが是か非かを話あうこともできるだろう。これも同様に何の役にも立たないし、教室や職場で不美人であることを理由にいじめられている人たちにとっては何の救いにもならない話し合いだ。だが、本は売れ「不美人評論家」の仕事は増えるかもしれない。

議論として意味があるのは、女性の社会進出に伴って性的な被害が増えてきているということである。実際に女性たちは問題に直面しており、これを社会的に解決することで彼女たちが社会貢献できるチャンスを増やすことができる。つまり、西洋的な議論というのはなんらかの目的意識を持っている。だが、日本の議論にはそれがない。なぜならば話し合うことそのものに意味があるからである。強いて重要な点をあげるとすれば、誰が何をいい、誰とつながっており、どの程度受け入れられているかということである。

ここから翻ると、はあちゅうさんの<議論>は、群れの内部での彼女の地位を上げるための行為であり、西洋的な議論とは言えない。これがはあちゅうさんの議論が極めて「村落的である」という理由である。 しかしながら、何が「村落的」なのかというのは、感覚的にはわかってもまだその輪郭がぼんやりしている。

いずれにせよ、群れの序列を上げるために大騒ぎしてみせるという行為は、実は日本人にとっては極めて自然なものだと言える。これが学校内で行われているのが「スクールカースト」である。スクールカーストは教室という閉じられた空間の中で行われる地位をめぐる争いである。地位をめぐる争いが行われるのは、地位そのものの基準が曖昧であってなおかつ不安定なものだからだ。地位を確保するためには常に相手を監視し、カーストをあげる戦いであるマウンティングに参加していなければならない。

ここで、前回みたはフィントンポストの高校生の「いじめは楽しい」という記事を思い出してみよう。いじめに参加している人たちはみなその行為を楽しんでいるように見えたからいじめはなくならないだろうと言っていた。彼はそれを遊戯のように見ていたのかもしれないが、実は日本人にとってこのマウンティングこそが本当に大切なことなのかもしれない。つまり、学校はいじめというマウンティングを習得するための場であり、学問というのはそのマウンティングの一要素でしかないということになる。

この狂った認識からすると、学生の本分はいじめということになる。もっと詳細にいうと、実際に行われているのはいじめではなくマウンティングによる地位の獲得闘争である。つまり、いじめには犠牲者もいるが、カーストを勝ち取った勝者もいるということだ。だから、学校をなくすか、集団行動をなくさない限りいじめはなくならないし、闘争に負けた人には逃げ場がないのだから、人生そのものから脱落するしかない。

はあちゅうさんのような「キラキラ女子」はこのマウンティングの勝者であると言える。だから議論も「問題を解決する」ものではなく、自分のコミュニティでの地位を確認し、できれば上に上がるためのツールなのであり、そのために童貞をいじめても何の罪悪感も持たないのだ。

このマウンティング理論を使うと、例えばネトウヨがリベラルをいじめて喜ぶのはどうしてなのかとか、護憲派リベラルの担い手であるべき人が実は憲法第9条が何項あるのかを知らなかったこともよくわかる。つまり、日本人にとってロゴスは立場をあげるための道具でしかない、ロゴスそのものには大した意味はないのである。

ここまで見てくると「村落的」という言葉が何を意味しているのかだいぶはっきり見えてきたのではないだろう。

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護憲派リベラルは息をしているのだろうか?

政治についての記事をよく書いている。安倍政権に批判的な記事が多いので「反安倍」の人が多いのではと勝手に思っている。世の中で「リベラル」という人たちである。だが、その人たちからの声が聞こえてくることはない。リベラルは息をしているのだろうかとよく思う。

いろいろ考えると、日本人が考える政治論議というのは、西洋的な教育を身につけた人たちの考える政治て議論とは違っているのではないかと思える。しかし、その論理的な構造を当事者たちから聞くことはできない。そこで、いろいろな人の話を聞いたりする必要があるのだが、Twitterには政治的議論が溢れており、ついにはお笑いタレントもこの分野に「進出」してきている。

一方、リアルな世界で実際に政治的議論をしている人を見たことがないし、Twitterで政治議論をしている人も「文才がないからTwitterに断片的なつぶやきを書き込む意外できない」と堂々と発言する。文才がないのではなく意欲がないのだと思うのだが、意欲がないのはその議論にそれほどの意味を見出していないからだろう。そこで、さまざまな断片を切り取って、なんとなくそれらしい形を作り出してゆくしかないと思いつめることになる。

いろいろ考えを巡らせてゆくと「村落的思考」という単語が浮かび上がってゆく。なんとなくわかったように感じられるキーワードではあるのだが、何か村落的なのかということはわからない。

先日、ある市民系の団体の前を通った。ポスターに「憲法第9条を改正すると戦争になる」と書いてあったので、なぜそうなるのか聞いてみることにした。ポスターを掲示したりレターを配ったりして宣伝しているのだから「待ってました!」と言わんばかりに人が飛び出してくるのかと思いきやそうではなかった。

時々立ち寄るその事務所は、老主婦のサークルのようになっており実はあまり政治に詳しい人はいない。時々若いお母さんたちも参加しているようだが、子育てが終わると「卒業」してゆくらしい。残るのは卒業のない介護などに携わる人たちだけだ。つまり、彼女たちの主な関心事は老後の不安解消と子育ての問題解決である。その他に環境系(割り箸を集めたり、原発に反対したりしている)などをやっている。そういう現場が「護憲運動」を支えているのである。護憲運動は忘れられた彼女たちの運動なのである。

なぜ憲法第9条を改正すると戦争になるのか、その留守番の人は知らなかった。民進党が分裂した先の衆議院選挙で誰を応援するか聞いた時「知らない」と答えた人たちなので、まああまり期待はしていなかった。

ところが、知らないのはそれだけではなかった。実は憲法第9条に一項・二項があることも知らなかった。ということは当然安倍首相が何を主張しているか知らないということになる。なぜならば安倍首相の提案は現行の二つの項目にもう一つを追加しようというものだからである。

面白かったのは(いつも彼女は興味深いことを言うのだが)「この事務所に詰めているんだから、ちゃんとわかっていないとダメなんでしょうけどね」と言っていたことだ。女性がこういう時には「同調圧力はあるが」「私は興味がない」という意味であることが多い。つまり、個人としての意見はないが、護憲村に住んでいるから私は護憲であると言っているのである。

これは西洋的な政治の文脈では無知蒙昧な戯言だが、日本的な村落共同体ではむしろ当然の感覚と言える。ここで異議申し立てをすると「村八分になってしまう」かもしれないが、もともと興味もないのだから「事を荒立てる」ほどの価値を持っているわけでもない。だがこれを「よそ者にはうまく説明できない」のである。すべて漢語さえ混じらない日本語で説明ができることから、これが日本人のもともとの気性であるということがわかるのだ。

面白いなと思ったのは、誘導尋問的に質問してゆくと何にでも頷くか「うーんそれは違う」と考え込んでしまうというところである。これも「いいえ」と言わない日本人にはよく見られる態度だ。極めて同調性が高く自分の意見を持たないようにしつけられているので「福祉系のサークルに入って政治的な主張を持つためには戦争反対のポジションをとらなければならない」と思い込んでいるのではないかと思った。

このように、日本人はかなり独特な理論形成をしていると言える。一方で、政治について考えていると日本人としてはちょっと違和感のある価値体系を身につけてしまうとも言える。

憲法第9条を変えると戦争になるという理屈自体はあまり難しいものではなさそうである。つまり、安倍首相は戦争をしたがっており、彼らの策動に乗せられて憲法を変えてしまったら何かとんでもないことが起こると疑っているのだろう。これも村落的である。つまり、誰かの意見を認めてしまうことは、その人の村落上の地位を認めてしまうことなので、その他のことも受け入れなくてはいけないということだ。日本人にとって議論は「モノ」についているのではなく「ヒト」についているのだ。

だから、それから先の議論はすべて無効なのである。最近みたのは「安倍首相は対案を示せと言っているが、これは彼らの策動であって、気に入っているのだから変える必要はない」というものだった。つまり、安倍首相が気に入らないから改憲は認められないと言っている。

これはこれで理屈としては通っている。だが、この理屈は「安倍首相のような醜悪で利己的な首相が言い出しているのだから悪」という理屈である。人について判断している村落的な政治理解だ。これを裏返すと「清廉で爽やかな人が別の理屈を使って彼女たちを説得したら、彼女たちはきっと説得されてしまうだろう」ということになる。個人として意見にコミットしていないのだから当然である。子供の頃から知っていて(つまり親が政治家ということである)一生懸命福祉などで汗をかき、顔つきが爽やかなイケメンを想像してみると良い。

そこで思い浮かんだのは小泉進次郎氏だった。多分、小泉さんが首相になったら改憲議論は一気に進むだろう。「一生懸命でいい人そう」だからである。議論の中身は全く関係がないのではないだろうか。

つまり「なんとしてでも変えたくない」というのは実は別に変えてしまっても構わないというのの裏表になっているということになる。

かつては護憲派だったので、その当時ならば「これはリベラル消滅の危機である」などと思ったと思うのだが、今はそうは思わない。その程度の理解と支持しかないんだったら、自民党はおたおたしていないで国民投票を実施するべきだと思う。多分護憲派の運動は壊滅状態で、支持者はそれほど多くない。お付き合いで「戦争はいけないから」といって形の上だけで反対している人しかいないかもしれない。

ここからわかるのは護憲派リベラルは消えてしまったわけではなく、もともといなかったということだ。するとTwitter上で行われている護憲派の議論は何なのかという別の疑問が湧く。それを理解するためには、もともと村落的議論は何を目的に行われているのかということを考えなければならない。

次回ははあちゅうさんという諦めの悪い女性の「議論」について考える。

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はあちゅうさんがしでかしたこと

はあちゅうという女性が、彼女の性的搾取の経験を実名で告発した。これをきっかけに日本でも#metooムーブメントが起きているのだとマスコミは伝えている。これだけを見ると、はあちゅうさんはいいことをしたように思える。日本で同じような被害にあっている人はたくさんおり、彼女たちに勇気を与えたからだ。しかしながら、このあとがよくなかった。はあちゅうさんは攻撃を受けており、後に続くはずだった女性たちは告発をためらうかもしれない。

この問題の背景には日本の人権教育の貧しさと社会の不安があると思う。このためはあちゅうさんのやったことは差別をなくす方向ではなく差別の激化につながりかねない。つまり、はあちゅうさんは性差別のない社会を作るどころか、日本をますます息苦しく不安定な社会にするかもしれない。

いわゆるリベラルな人たちの中には、はちゅうさんの童貞いじりと性的な搾取の告発を「分けて考えるべきだ」という人たちがいる。しかし、これは到底容認できない。

はあちゅうさんが<勇気ある告発>をしたあと、実は彼女自身も童貞を馬鹿にする発言をしていたということがわかった。これに関して、彼女とその支援者たちは「被害を受けた女性は立派な被害者として振舞わなければならないのか」とういう開き直りに近い弁明をしている。童貞いじりは、男性は性行為を経験しないと一人前になれないという価値観に乗っているという批判があり、童貞いじりの有害性に関してはこれ以上付け加えることはない。しかし、この文章は「問題を切り離して考えるべきだし、はあちゅうさんの謝罪は評価できる」と言っており、この部分はあまり評価できない。

こうした問題を考える上で大切なのは、問題を少しずらして考えてみることだろう。例えば人種差別を経験した黒人が黒人社会のようなものを作り組織的に白人を差別していたとしたらどう見えるかを想像してみると良い。きっとそれは人種間の対立を激化する方向に向いてゆくことになる。白人と黒人は、差別する側とされる側を示している。

差別されていた黒人が差別する側に回るというのは実はそれほど珍しいことではない。ご存知の方も多いかもしれないが、アパルトヘイト後の南アフリカにはそのような動きがあった。実は黒人の間にもさまざまな部族間対立があり、白人が支配権を失ったあとに黒人の間で権力争いが起こりかねなかった。このような複雑な事情があったために、ネルソン・マンデラは全勢力が融和するように常に心を砕いた。

ここで、ネルソン・マンデラは「立派な人」とされているが、実は当たり前のことを実現しようとしているだけだった。しかし、それは当たり前ではあっても27年もの間投獄されていた彼にとっては極めて難しいことだったであろう。マンデラは人生の失った時間を取り戻すために白人に復讐したいと考えても当然だった。だが、そうはしなかった。だからこそ彼はアパルトヘイト後の指導者になりえたのである。

はあちゅうさんたちは「ネルソン・マンデラみたいになれなくてもよい」と思うかもしれない。しかし、アラブ人との間に差別があった南スーダン人の事例を見ているとそれが必ずしも正しくないことがわかる。共通の的であるアラブ人がいなくなると、今度は南スーダン人同士で殺し合いを始めた。つまり、差別構造を残してしまうと、今度は別の争いが起こる。だから差別構造そのものから抜け出す努力をしなければならないのである。

はあちゅうさんがいた広告業界は「もてる女性ともてない女性」とか「クリエイティブな女性とつまらない仕事しかできない女性」などを分けている。生存をかけた生き残りに性的な経験やルックスなどを絡めているのである。だからはあちゅうさんが女性のルッキズムを男性に転用して話題作りをしたのは広告屋さんとしては極めて自然なことなのだ。

同じようなことはいたるところで行われている。例えば小池百合子東京都知事を見ていると、表向きは差別されているかわいそうな女性という演技をするが、その一方で男性たちを「排除いたします」と言っていた。全く違和感がなかったところを見るとそれが政治のあるべき姿だと思い込んでいるのだと思う。もし女性として「排除されることの苦しみ」を本当に知っていたならあんなことは言わなかったはずである。

はあちゅうさんは童貞をいじって話題づくりをしていた。そしてそれが社会的に非難されると「童貞は素敵な響きを持った言葉なので悪気なく使っていたのだが、結果的に傷つけたなら申し訳ない」と申し開きをした。これは男性が「私は好意を示すためにやったが、結果的にセクハラになっている」と捉えられているとしたら申し訳ないというのと同じであり、男性社会の醜悪な伝統を見事なまでに引き継いでいる。つまり、彼女も闘争の中に組み込まれているのだ。

彼女たちに共通するのはマウンティング意識である。つまり、差別でもなんでも利用してのし上がってやろうという気持ちで、差別されているという出自さえも利用しようと考えてしまうのである。これはいっけん正しく聞こえるかもしれないが、差別の構造を変えただけであり、差別の容認である。差別が悪だとすればサーロー流にいうと「絶対悪」であり実は彼女たちは「加害者」なのだ。

女性を容姿で差別しないというのと男性を性的経験で差別しないというのは同じことである。そしてそれは立派な行いではなく、当たり前のことなのだ。だが、その当たり前さを実現するのはとても難しい。

実際に日本では「性的搾取を多めに見る」ということが司法の場でもおおっぴらに行われている。TBSという権威を振りかざして女性に乱暴しようとした自称ジャーナリストが無罪放免になったり、慶応大学の広告サークルも結局不起訴だった。このように、法的に「この程度ならいいのではないか」とお咎めなしになってしまうケースが後を絶たない。これをなくすためには組織的で政治的な運動が必要だ。こうした運動を単なるトレンドとして話題づくりに利用しようとしたならそれはとても罪深いことである。

その背景にある差別の構造から抜け出さなければ同じことが繰り返されるだけだという認識を持つ必要がある。そのためには人種差別やその他の属性差別についてきちんと学校で教える必要があるのではないかと思う。

ハフィントンポストの記事で正直な高校生がいじめについて書いている。高校生の頃からルッキズムを含む序列付けは始まっていて、しかも笑いを絡めてごく自然に行われるそうである。

たった30人程度のクラスで、気付かぬほどの速さで「1軍」「2軍」「3軍」と身分が決まっていき、序列の中で卒業まで生きなければならない。序列は容姿、キャラ、得意の運動、頭の良さ、家庭のお金持ち具合など様々な要素で決まる。

クラスでこのようなカースト化が進行するのは、それが極めて不安定な閉鎖空間だからだ。そしてその不安定さや閉鎖性は大人になっても続く。こうした中で人々はカースト付けをごく自然なこととして認識してしまうのだろう。

たまたまアメリカで#metooムーブメントが起こり、海外から聞こえてくる性差別排除運動とごく自然に(多分加害者として)行っているカースト付けを別の枠で捉えたくなる気持ちはわかるのだが、実はこれは同じものだ。

はあちゅうさんの一番大きな間違いは、自分が置かれているカースト文化を温存したまま、ブームに乗って認知をあげようとしたところなのだろう。カースト文化を温存しているからこそ「道程いじりはちょっとしたユーモア」で「自分が岸さんにされたことは重大な暴力だ」などと言えたのであろう。これは小池百合子東京都知事が自分は笑って排除をほのめかしつつ、ガラスの天井があって男性たちに邪魔されているとパリで訴えたのととても似ている。

彼女たちは賢く世渡りしているつもりなのだろうが、それが却ってあとに続く人たちの機会を狭めていることに気がついた方が良い。

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