安倍昭恵さんを証人喚問すべきではないと思う理由

前回、安倍昭恵さんにも責任があると書いた。にもかかわらず今回は安倍昭恵さんを国会で証人喚問にかけるべきではないという論を書こうと思う。矛盾しているではないかと思う人もいるかもしれないし、逆張りだと罵しる人も出てくるかもしれない。

今回は女性に対する人権侵害という観点からこれを書く。キーワードは知的纏足である。纏足とは中国で女性が遠くに行けないように足を小さく矯正してしまうという習慣だ。小さな足の女性はセクシーだと思われていたともいう。つまり、か弱く男に頼るしかない女性の方が「きれいで可愛い」という価値体系だ。日本には纏足という習慣はない。しかし代わりに知的纏足というべき悪習があるようだ。

安倍昭恵さんは森永製菓の社長令嬢として生まれた。もともと父親は番頭筋と思われる松崎家の方なのだが母親は創業家の出身なのだという。聖心専門学校の英文科を卒業した後、電通にお勤めして政治家の妻となった。ちなみに森永創業家出身の安倍昭恵さんの母親も聖心(学校の名前が異なる)の英文科を出ているそうだ。

戦前の女性は家の従属物だったので学歴をつけて職業婦人になるというようなコースには乗らなかった。職業婦人は「卑しい家の人」がやることであり、女性は余計な学問など身につけるべきではなく教養だけを見につけるべきだと考えられたのだろう。安倍昭恵さん自体は電通にお勤めしているのだが、これも結婚前の社会見学のようなもので本格的な職業ではなかったはずである。

こうした習慣は戦前の上流階級では当たり前で、特に女性虐待などとは言えなかったはずだ。しかし、その目的はかなりあからさまだ。中国で小さくて自立できない女性が美しいとされたのと同じように、日本では従順で扱いやすい女性の方が美しいと考えられたのだろう。知的に制限されていれば夫に従う他はなく、遠くに逃げられないのだ。

安倍昭恵さんのプロフィールからはいくつかのことがわかる。従順な妻であることを要求されたのだが、政治家の家にとって重要な後継を作らなかった。そして子供ができないことがわかると、それに代替えするように学歴をつけようとした。ところが、その後の活動をみるとどこか怪しげなものが多い。森友学園の問題に関与したという問題の他に様々な活動への関与がネット上で噂になっている。彼女の社会貢献の意欲は本物だったのかもしれないが、それを本気になって指導してやろうという人は誰もいなかったということになる。

加えて夫のお友達と仲良くする間に歪んだ政治観年まで身につけるようになる。今叩かれているのは「野党がバカな質問ばかりする」という書き込みに「いいね」をしたことである。彼女は自分の置かれた立場を理解していないばかりか、何をしでかしてしまったのかまったくわかっていない。結果的に官僚組織に影響を与えて、財務省担当者の命が失われた。この担当職員の妻の立場からみると理不尽な形で夫が奪われた。しかし、それでも安倍昭恵さんには自分の状況ややってしまったことを理解する知的能力がないのである。

政治家の妻として一番期待されていることを果たさなかった代わりに様々なことを試みるのだが、それは奥さんの気まぐれとしか捉えられなかった。つまり、彼女は遠くに行くことができなかったことがわかる。

彼女の証人喚問を要求する人は安倍昭恵さんに明確な国有財産私物化の意図があることを明らかにすることなのだろうが、その期待は裏切られるのではないか。私物化を意図するならばそれなりに知的な能力があり、関与したことについて合理的に認識している必要がある。ところが安倍昭恵さんにはその能力がなさそうだ。つまり、国会に呼び出されたとしても自分がやったことについて分析的には語れないであろう。誘導尋問のような形で叩けばそれなりの言葉を引き出すことはできるかもしれないが、それでは意味がない。

以前、安倍昭恵さんは私人なのか公人なのかという議論があった。しかし、こうしたプロフィールをみる限り彼女はそもそも個人として扱われていなかったし、個人として振舞うだけの知的能力がなかったことがわかる。ある時は松崎家、森永家の従属物であり、またある時は安倍家の付属品として扱われいる。

もし証人喚問するとしたら、安倍昭恵さんがいかに思慮のない女性で、自分の影響がどの程度あるのかということをまったく考慮しないままで行動していたかということを逐一訪ねることになるだろう。そのことでわかるのは自分の影響力について客観的に理解できない浅はかな人間を野放しにしていた夫の責任であり、過剰に忖度を働かせて最終的に職員の死まで招くほど混乱した官僚組織の愚かさだ。三浦瑠麗さんは叩かれていたが「人が死ぬような話」ではなかったはずなのだ。

分析できるほどの理性もなく、周りから真面目に取り合ってももらえない人を広場に連れ出して「罪状」を告白させようとしても、そもそも最初から自分の言葉を奪われている人にそんなことができるはずはない。

戦前には当たり前だったこういう女性のあり方も、現代においてはある種虐待めいた待遇になっている。女性であるというだけで個人が本来持っている可能性を最初から奪われてしまうからである。公的な活動に携わり首相の退陣につなげられるからという理由だけで「個人としての反省を述べよ」などと言ってみても、それは虐待されてきた女性に対する二次的な加害にしかならない

この件の痛ましいところは、彼女が社会的な問題に目を向けて、学校にまで通いそれなりに度量をしてきたという点にあるように思える。だが、なぜ結果的にこんなことになってしまったのか、社会はどういう援助をしてやれるはずだったのかということをもっと真剣に考えてもいいのかもしれないと思う。

結果的には多くの人の人生が狂わされたのだから、責任は生じる。その意味で安倍昭恵さんが全く無謬だとは思わない。しかし、裁かれるのは官僚の人事に首を突っ込み大きな影を作り出した上で妻を放置した夫にあるのであって、安倍昭恵さんを叩いてみてもその本質を変えることはできないだろう。

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森友学園問題と安倍昭恵さんの責任

森友学園問題でついに財務省が書き換えを認めた。意外だったのはNHKがこれをかなり攻めて伝えたということである。当初は政権に非難の矛先が向かわないようにすべてを伝えないのではないかと思っていたのだが、実際には逆だった。これがどういう意味を持つかはおいおい考えるとして、まず報道された内容を比較して行こう。

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人の心を失った化け物が7時40分から会見を開くのを見た感想

蓮舫参議院議員が憲法104条による調査の呼びかけをしている。与党はこれに応じるべきだと思う。

最初にこの話を聞いた時、国会は自らの調査権限を手放すことで検察・警察に命運を委ねようとしており危険だという筋で文章を書くつもりだった。しかし、その後現場担当者が遺書を残して亡くなったという話を聞き、これはもう法治国家とか民主主義とかいうレベルの話ではなくなってしまったのだなと思い直した。

これはもう政治の問題ではない。いわば「人間の良識」の問題だ。良識というと贅沢品のように聞こえるかもしれないが、人が人であるために必要不可欠なボトムラインと言い換えて良いだろう。これをそのまま放置すれば大切なものが失われる。たいていの間違いは許されるものだが、決して許されるべきでないこともあるのだ。

麻生財務大臣はこのテストに不合格だったようだ。彼は会見で次のように語った。

  • 佐川国税局長官がふらっと入ってきて「俺は辞める」といった。「やり方がまずかった」と言って責任を感じているようだった。
  • 自分は佐川は適任だと思っているが、彼が辞めたいと言っているんだから、辞めさせてやることにした。
  • 詳しいことは俺にはわからないが、週末も調査しろよと言っておいた。どうなるかわからないが何かわかるかもしれない。
  • 佐川には「今の調査で何か出てきたら追加処罰もあり得るからなと」釘は挿しておいた。俺はいうことは言ったのだ。
  • なお、職員が自殺したらしい。話は聞いたが俺は何も知らないし何も感じない。

つまり、俺は知らないが佐川がやってきて辞めたいと言ったから辞めさせてやったと言っているのだ。記者会見で自分に非難が向かっているということはわかったようで、それを心理的にかわすために「俺が会議を仕切っているんじゃない」とも言っていた。あくまでも議事進行についてを言っているのだと思うのだが、実際に言いたかったのは「役所が勝手に安倍を忖度してやったんだろう、俺は知らないよ」ということなのだろう。

この人は人間の洋服を着て日本語のような言葉を話している(あいかわらず、有無を「ゆうむ」と読んで、あとであるなしと言い換えていたが)のだが、もう人間の心は持っていないのだろう。人が一人亡くなっているのだから自分の持っている範囲の権限を使ってなんとかしてやろうと考えるのが人間の情というものなのだろうが、彼は「ああ、面倒なことでバカが騒いでいるよ」くらいにしか思っていないのではないだろうか。

そもそもこういう人が日本の財政政策に関与しているということに戦慄を覚えるのだが、もはやそのようなレベルの話ではなさそうだ。組織は個人を守るために存在するのであって、いかなる人も犠牲になるべきではない。仮にも組織のトップに立ったのなら責任感を持って間違った方向に向かいつつある組織をなんとか正常化すべきだろう。麻生財務大臣はそれができるのだが、やろうとは考えていないようだ。

官邸は明らかにこの問題から距離を置きたがっているようだ。安倍総理大臣は「佐川国税局長官を任命したのは麻生財務大臣だ」と答弁を避けていたし、菅官房長官も「今回の辞任については話を聞いていない」と開き直ったそうだ。彼らも立派な背広を着て歩いているが、多分中身はもう人間ではないと思う。

国会は国会法の規定によって政府を調査する権限がある。その根拠規定は憲法62条にあるそうだ。だが憲法規定は「することができる」と書いてあるだけで、しなくてはならないとは書いていない。つまり、これは権限があるというだけで必ずしもやらなければならないということではない。ゆえに利益がないと考えるなら与党には協力する義務はない。

だが、これをできるのにやらなかったということは、この権限を誰が別の人に譲渡するということを意味している。この場合検察が事件化すれば内閣の責任問題になるし、握り潰せば内閣への貸しになるということを意味している。すなわち、予算が成立するかどうかは検察が決めるということになってしまう。形式上検察も政府の一部なのだから内閣の管理監督下にあるはずだが、検察の意向が政府の意思決定に影響するようになれば、検察が内閣の監視から自由になるということを意味している。

これは国民にとっては警察国家という悪夢への第一歩だが、議会にとっても職権の放棄と自己否定を意味している。つまり、与党は単なる内閣の追認装置であって、国民の要請に従って政府を監視するという役割を放棄したことになる。追認装置としてしか存在しないのであれば、少なくとも参議院は必要がない。

さらに麻生発言からわかるように、政府は今起きていることを「役所の不始末によるドタバタ」と考えているようで、自殺者が出てなお態度を変えるつもりはないようだ。

自民党は「与党対野党」というフレームに夢中になっていると思うのだが、実際には議会対検察という構図になりつつあった。しかし、今問題になっているのは国という集団が国民を守ってくれるのか、それとも国を私物化しようとした人たちが自ら作り出した混乱を他人事のように眺めるだけの装置に堕落ているのかという点にある。

国が国民のことを考えることを「徳」と言うと思うのだが、今の政府は明らかに徳を失っており正統な政府であるとは言えない。であれば、今行われていることは政治ではなく単なる暴力であろう。不作為であっても問題なのだが、発端は総理大臣の不規則な発言から始まっている。

最後に付け加えると、一人がなくなるまでこうした強い憤りを示さなかったことに対して、個人的に反省をしている。民主主義や法治主義がなくなっても日本型の統治さえされていれば問題はないと考えていた。

これはいじめによる自殺の問題に似ていると思う。誰がか亡くなるまで周りの人たちは本気になって「根本的なあり方が間違っているのだ」と思わないものだ。その態度が「自殺による一発逆転」を許してしまい、いじめの問題が解決しない原因になっている。今回の件はこれが国レベルで起きていたのだと思う。

我々は日本が枯死するプロセスを目撃している

前回、期待と不安が入り混じった気持ちで「多分変われないんだろうな」という文章を書いた。森友問題で国会が自浄作用を示せなかったということは、この国の命運は議会の手を離れて警察と検察に握られていることになる。日本は警察と検察が何を事件化するかということで首相の意思決定が変わってしまうという社会になったのだ。

朝日新聞社に続いて毎日新聞社が「森友学園問題は特殊な事例だ」としていた文書を発見したということなので、文書改竄があったことは間違いがなさそうである。これは犯罪だということなので、官僚側が犯罪行為を認めるはずはない。彼らが自白するはずはないのだから、政府の方から状況を正常化させなければならない。だが、安倍首相はこの状態を直視すること自体を拒んでいるようだ。つまり、彼は形式的には首相に止まる道を選んだのだが、政府のコントロールを手放したのである。

後に続くのはそれぞれがそれぞれの思惑でいろいろな方向に逃げ惑うというゲームだ。別の言い方をすると政府も自民党もパニックモードに入ってしまったことになる。

しかしながら、それは我々の毎日の生活とは関係がなさそうである。報道も「たくさんあるニュースの中の一つ」として扱っているようだし、私たちの生活は政治とは関係なく進んで行く。

だったらこのままでいいのではないかとも思える。

そこで改めて「このニュースの何がまずいのか」を考えてみた。一通り書いてみて思ったのは、これは日本が枯死するプロセスなのだろうということだ。日本を大きな植物に例えると、多分根が腐っているのだ。しかし、根は地表からは見えないので、我々は手遅れになるまでそのことに気がつかないのではないかと思う。

では根が死んでゆくというのはどういうことなのだろうか。

参議院野党は審議拒否だった。そもそも参議院野党は予算編成の意思決定には関われない。参議院の同意は必要がない上に、多数決の意思決定から締め出されているからである。つまり関わらなかったとしても何も困らない。そもそも野党は大きな利益団体を代表していないので闘争が机上の空論になりがちなのだが、加えて意思決定から排除されているうちに「審議拒否」以外の意見表明ができなくなってしまったようだ。

仮に日本を法治主義の社会だと仮定すれば、その意思決定のために蓄積された資料が改ざんされたということは予算の成立過程に正当性がないことになってしまう。裁量労働制の問題で資料をでっち上げたことからも、政府は事実を積み上げて一つの形にするという能力を失いつつある。裁量労働制はあまりにもあからさまだったので法律自体がなくなったのだが、予算はこのまま正当性のないものが通ってしまいそうである。

だが、野党抜きの審議を見る限り、自民党と公明党の議員はあまりそれを気にしていないようである。彼らにとっては自分たちの支援者に約束した予算さえ勝ち取れれば(あるいは勝ち取ったふりができれば)その成立過程がデタラメでも構わないのだろう。ここで重要なのは、与党は関わろうと思えば意思決定に関わることができたのだが、それをしなかったということだ。つまり、彼らは勝ち取ることには興味があるが作り出すことには興味を持っていないということである。

もともとアイディアを作り出していたのは官僚だった。ところが、今回の一連の国会審議を見ていると、官僚組織にアイディアがないということが実は明確に示されている。特に世耕大臣は「現場に知恵を絞ってもらう」という形の経済政策を多く披瀝していた。官僚にアイディアがないので民間からアイディアを募りたいのであろう。経済産業省はアイディアの箱は作れるが、かつての日本の官僚のようにアイディアを作り出せなくなっているのだ。そもそも意思決定における文書さえまともに管理できないのに、それぞれの官僚が話し合って日本をよくするアイディアを集約できるはずもない。

加えて国民の間にも諦めがある。自分たちが関与したところで政治は良くならない。諦めには苛立ちもあるが、同時に「責任を取らなくてもよい」という気楽さも含まれている。政治家は勝手に私服をこやしたり、自分たちの地位が向上するように文書を改ざんしているわけだから、自分たちも好きなことをやればいいということだ。ただし、そのアイディアをうっかり外に漏らさないようにはしなければならない。いったん目をつけられたら政治家が群がって潰されてしまう可能性がある。

多くの人は自分の権益を守ることと、言い訳を考えて国の財産から搾り取ったり、予算をもらうことには熱心だ。しかし、自分でアイディアを出し、それを組織的に集約して、形にして行こうという人は誰もいないということがわかる。

ここから「価値を作り出すアイディア」を出す人が日本からいなくなっているのではないかという可能性が浮かんでくる。そればかりか、それが破壊されていることに誰も興味すら向けなくなっている。

だが、日本という樹には過去の蓄積があり、まだまだ倒れそうにはない。少なくとも外見上はまだまだ大丈夫なように見える。

財務省が気まぐれな首相の答弁に合わせて何種類の決済書類を作ったかがわからなくなっているということがわからなくなっており、誰が主導したのかも曖昧になっている。これ自体には犯罪の可能性があり、問題がないとは言えない。官僚が犯罪に手を染めざるをえなかったということは深刻な問題なのだが、実際の問題は自浄作用が働かなかったという点にある。

もともと、日本の組織はトップに情報がなく、細かい情報は現場が抱えている。その現場が何を考えてどういう意思決定をしたのかということをトップがつかみかねている。さらに集団の内部では「これはいけないことだが、誰かが責任をとってくれるだろう」という集団思考的な無責任さが蔓延しているということを意味する。言い換えれば「自分だけが美味しい思いをすれば国は全体としてやせ細ってしまうだろう」ということがわかっていても「きっと誰かがなんとかしてくれるだろう」という気分が蔓延しているということになる。

植物でいうと栄養を幹にあげる根が死んでいるのだが、まだ幹には栄養があるので幹を腐らせる菌だけが繁殖しているという状態になっている。菌の正体は「誰かがなんとかしてくれるだろう」という集団主義的な無責任さではないだろうか。つまり、我々が見ているのは多分「法治主義と意味の死」などという観念的な崩壊過程はなく、日本が価値を想像できなくなり実際に枯死してゆくプロセスなのだろう。

その意味で野党がやるべきなのは安倍首相の追い落としではない。彼にはもはやそれほどの価値はない。むしろ問題なのは、自分たちも含めた政治家が日本に価値を提供できなくなっているという事実を受け入れて、それを与党と共有することなのである。

だが、Twitter上での騒ぎを見ていると、一人でこんなに真面目ぶっていても仕方がないというような気分にさせられる。それよりも安倍打倒祭りにのって一緒に騒いだ方が楽しそうだし、達成感もありそうだ。タイムラインを眺めていると本当にそう思う。

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多分変われないであろう日本の運命を決める1日が始まる……

先日は日本は近代法治国家を偽装した村落共同体の集まりであると書いた。その真ん中には巨大な真空があるのだが、安倍政権は自らがプレイヤーとなることでこれを毀損してしまったという分析だった。

ゆえに、安倍政権は崩壊して日本は法治国家を真に理解した国家に生まれ変わるべきだと書きたいのだが、どう考えてもそうそうはなりそうにない。逆に安倍政権は「村落的優しさに包まれて」後退してしまうのではないかと思える。つまり、今までのように決められる政治から決められない政治に逆戻りしてしまうのではないだろうか。

日本人の法治主義に対する理解は極めて限定的だが、政局になるとマスコミもアクターである政治家も急に生き生きしだす。現在も二階幹事長が張り切って動いているようだが「自分の損得」で動くという日本型の村落主義の方がみんなに理解されやすいからだろう。

この中で切られそうになっているのは、どうやら筋を通そうとして頑張ってしまう麻生副総理らしい。日本人らしい「助け合い」が理解できない人だ。逆に村落性を意識して動いてきた安倍首相が下されるという兆候はない。日本の村落が筋を通すことよりも人間関係の貸し借りに敏感であることがわかる。安倍さんは「それが自分の手柄だ」と増長しだしたために「お灸をすえる」必要があると判断されたのだろう。菅さんのように身内の話を聞いているだけではダメで、これからはみんなの言うことをよく聞きなさいよということだ。

一連の動きを見ていると、この政局は日本が近代民主主義を取り戻す機会にはならないだろう。むしろかつてあったかばい合いを前提にした村落の温情主義が際立ち、日本は村落社会へと一歩後退することになる。それは、既得権を守るために何も変えないで、結果的にドロップアウトした人たちを見捨てるという社会である。

思い返してみると、日本はこうした村落型の社会を脱却して「決められる社会」を目指したはずだった。その行き着いた先が安倍政権であるということを考えるとこの動きはとても皮肉なものに感じられる。

バブル経済が崩壊した後、日本人の多くは利益共同体である村落を失い「難民」となった。多くの都市住民にとってそれは正規雇用を意味した。また、別の人たちは地域の商店街が崩壊することで利益集団をなくしてしまった。この象徴になっているのが例えばイオンモールだ。商店街の代わりにできたイオンのショッピングモールは非正規の人たちによって運営されている。かつてあった商店街のような生業(なりわい)ではないし、多くの従業員はイオンにとっては使い捨て労働者である。

こうした人たちが、既存の利益集団に敵対意識を持ち生まれたのが小泉政権の「自民党をぶっ潰す」というスローガンだった。小泉首相がターゲットにしたのは特定郵便局という既得権益だ。そもそも自民党が派閥という村落の共同体なのだが、派閥を潰すことで「指導力のある近代国家」を目指したのが小泉主義だったと言える。

小泉政権は同時に派遣労働者を増やす政策をとった。表では既得権をなくして皆様の政治を行いますよと言っていたが、裏では既得権を守るために「余分な労働者」を企業共同体から排除したのである。つまり、小泉政権がやったのは既得権からの脱却ではなく、自分たちの既得権が延命できるように他者を潰すことだった。だから小泉政権は日本が村落共同体を脱却した後の統治の仕組みを考えなかった。

村落というのは自らの損得のために個々人がそれぞれに動くというある意味では極めて民主的な仕組みである。ただし、損得というのは限定的・局地的な情報しか持たないので、その共同体がある程度以上に大きくなる可能性はない。日本が集団として大きく変われないのはそのためだろう。日本人は所与の仕組みの中でどう立ち回るかとうことは考えられるのだが、仕組み自体を変えることはできない。例えば憲法も「県という枠組みを温存して既得権を復活させよう」という議論と「例外を作って絶対的な縛りを脱却しよう」という二本立ての議論にしかならない。自民党の村落共同体は人権という絶対的な概念が気に入らない。人権はその場その場の判断とぶつかる可能性があるからだ。自分たちの利益をどう守るかは自分たちが知っているのであって、人権のような絶対的な縛りはその邪魔になると考えるのが、村落的民主主義なのである。

そのために憲法の解釈が変わったり、決済文書にバージョンができるのは彼らにとっては極めて自然なことなのだろう。例えば決済文書を書き換えることは犯罪だがそれは検察のさじ加減でいかようにもなるわけだし、逆に決済文書を守ろうとして筋を通そうとすれば、官僚の立場が危うくなるかもしれない。そこは「柔軟に」対応したいわけである。だから麻生財務大臣のように「筋を通したがる人」は排除される必要がある。面倒くさいからだ。

いずれにせよ小泉政権が「脱村落」を訴えたのに、その統治機能を作らなかったので続く勢力は混乱した。結果的に自民党で三代、続く民主党で三代の首相が交代した。その間に起こったのは、内部からの情報リークと仲間同士の罵り合いだった。麻生降ろしで国民はかなりうんざりしたが、その後の民主党政権ではその罵り合いはさらにひどいものになり、現在でも続いている。そもそも権力を持って変えることが目的だったはずなのだが、決めたことに対して内部から様々な異論が出てくる。そして決めた方も間違いを決して認めようとせず地位にしがみつく。こうして政治不信が強まっていった。日本人は変われなかったし村落的民主主義を脱却することがどういうことなのかよくわかっていなかった。

そして自らで枠組みを作れるかもしれないと感じて暴走を始めた。枠組みづくりには仲間同士の協力と言葉による契約が必要なので、所与の環境で自分の利益をどう最大化するという計算が効かない作業だったからだ。

これが表向き収まったのが安倍政権だ。安倍晋三は「私について行けば間違いがない」といい、仲間をかばい、ポストを派閥に分配した。やっていることは村落政治そのものだが、表向きは「決められる民主主義社会のリーダー」として振る舞った。つまり、決められる政治を偽装することで枠組みを定めたということになる。この枠組みの中で自民党の派閥政治家たちは再び安心して利益誘導ができるようになったのだ。

表向きの顔と裏にギャップがあるのだから、安倍政権は多くの事実を歪める必要があった。憲法の解釈も歪められたのだが、日本人は気にしなかった。日本人はそもそも人が決めたルールを信頼しないし、法治主義主義は「儀式」としての役割しか期待されていない。さらに、以前の6年間の混乱を知っている。安倍政権は「安心・安全」の装置として機能しているということになる。

現在起きている動きはあたかも「政治の手続きの歪み」が正されることであると思っている人も多いようだが、実際には「国民一人一人が不都合で面倒な事実に向き合わなくて済むように、政治の辻褄があっているように見せられるか」が大切なのかもしれない。

政治家がそろって「大丈夫だ、何も問題がない」とさえ言ってくれれば、人々は生活困窮者の問題、人口減に苦しむ地方、基地負担や原発事故に苦しむ地域の問題を考えなくても済む。そうした問題は「政権によって適切に管理されており」「不満がある人は、どこか個人的な問題があるか何かをしくじった人なのだろう」と思えるからである。仮に野党のいうように、人々が政治に関心を持ち常に関しなければならないとしたら、こんなに面倒なことはない。監視して他人の苦痛を知ったとしても重苦しくなるだけで何の得もないからである。

個人的には今日1日の目覚ましい野党の活躍が日本の膿を出しきってくれることを期待している。だが、同時にあまり期待をすべきではないなとも思う。いずれにせよ、今日の一連の動きが単なる儀式に終わるのか意味のある1日になるのかはこの時点ではわからない。

期待と不安が入り混じってしまうのだが、経過を冷静に見守りたいと思う。

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森友事件に忖度などなかったのではないだろうか

さて、先日面白いTwitterのまとめをみた。森友学園事件で籠池理事長が外国人特派員協会に招かれた。そこで忖度という言葉が訳せず、そのままSONTAKUと訳されて報じられたというような筋だ。最初に書こうと思ったのは「日本は集団主義で主語が曖昧だから忖度のような独自概念が生まれる」というような内容だったのだが、ちょっと頭の中で転がしていて「そもそも忖度なんてなかったのでは」と思い始めた。

忖度とはある人が別の人の気持ちを汲み取って行動することを意味するので、直訳するとReading between the lineということになる。こうした表現は英語にもあり、実際に外資系では忖度が行われることもある。マネージャーが部下を雇うのでマネージャーに嫌われるとクビになってしまう可能性があり、日本よりもシビアな忖度が行われる。普通のアメリカは個人主義文化なのでボスはなんらかの手段で基本的なルールを示しているはずだが、イタリアマフィアのように集団主義が進むとこれが薄まるので、普通のアメリカ人はsontaku is yakuza’s ruleのように捉えるはずである。

日本で忖度が行われるのは周りの人々が同じ空気を共有しているからだ。つまり忖度の裏側には、長年非言語的に蓄積された経験とか共有された人間関係の認識などがある。超能力者でもない限り人の心は読めないわけで、暗黙知の共有度合いが高いほど「類推があたる」可能性が高くなるわけだ。つまり忖度は暗黙知的なコミュニケションが円滑に行われているということを意味する。

あるいは安倍首相は日本会議からの支持を期待して日本会議の主張を具現化するような教育に肩入れしていた可能性もある。これは、expectationとdealであり、その場合は官僚になんらかのプレッシャーをかけていた可能性がある。これは忖度ではなく不当な指示であり英訳には困らないし、忖度のような非言語的な一体感で不可解さを説明する必要はない。

だが、森友事件の場合、籠池理事長との関係が露呈すると安倍首相はその関係を切り捨ててしまった。また森友夫妻も「神風が吹いた」とか「素人がわからないまま政治に関与すべきではない」というようなことを言っており「よくわからないけど官僚の態度が変わったので、だれか有力な先生がなにかしてくれたんだろう」という感触を持っていたことがうかがえる

少なくとも安倍首相にはそれほどの思い入れがなかったことが想像できるので、官僚は(暴走する昭恵夫人や安倍首相との関係を騙る籠池理事長のせいで)勝手に誤解していたこととなる。もし官僚がちゃんと忖度できていたとしたら、このような危険な(少なくとも財政上は破綻する可能性が高かった)ディールには肩入れしないように安倍首相と夫人に報告できていたはずだ。

安倍首相は人事権を握り官僚を恫喝しているので、官僚との間にコミュニケーション上のディスコネクションができていたことが想像できる。するとこれは忖度ではなくディスコネクションの問題ということになり、これも英訳可能である。小池晃議員は「指示もないのに勝手にやったってことになるんですか」と質問しているのだが「そうだった」ということになる。

背景がわからない外人に説明しようとすると説明不能な箇所がいくつもでてきてしまうのは、我々が実はこの問題がわかっているつもりになっているが、本当はなにが起きたのかよくわかっていないということを意味する。すると不協和が発生するので「官邸と官僚が阿吽の呼吸でなにかしたにちがいない」というブラックボックスをおいて、不協和を解消しているだけということになってしまう。それが忖度なのだ。

それを助長しているのは実は情報を秘匿している官邸サイドなのだが、多分彼らはそれに気がついていないだろうし、気がついていても引き返せないほど騒ぎが大きくなってしまっている。

つまり、外人に向かって「日本人にはお前たちがわからない複雑なコミュニケーション様式があるんだよ」などと考えてしまうと、却ってことの本質がわからなくなる。官邸と官僚組織の間には、お互いのことがよくわかっていて忖度できる関係ができていたわけではなく、Because of Abe’s poor communication skill, beaurocrats misunderstood his will and lost their mindあたりが正しいのではないだろうか。つまり、忖度などなかったのだ。

背景には安倍首相の一貫しない指示があるのではないかと思う。民主主義を尊重して中国に対抗すると言ってみたり、日本を戦前の価値観に戻すと言ったりしている。すると周りにいる人々は安倍首相の意思を合理的には読み込めなくなるので、籠池さんのような気違いじみた教育理念を持った人が近づいてきても「あるいはそういう人に肩入れしているかもしれないなあ」などと考えて、不当な土地の値引きなどをやってしまうのかもしれない。考えてみれば国民に人権があるのはおかしいといい、国会で私人を吊るしあげようというきちがいじみた人が国会議員をやっているのだから、そう考えてもなんら不思議はない。彼ら日本会議系の国会議員は普段から官僚を恫喝しているのだろう。

つまり野党が心配すべきなのは忖度できるほどの濃密な関係ではなく、寸断されたコミュニケーションなのではないだろうか。つまり、安倍首相は官僚機構をコントロールできなくなっている可能性が高いのだ。つまり「忖度がなかった」ということを証明するのは安倍首相を支持するものではなく、逆に総理としての資格がないということを証明することになるのだ。

安倍首相と籠池理事長に学ぶ危機管理

両陣営に別れた議論はいろいろあると思うので、できるだけニュートラルな立場から、国会での籠池理事長の吊るし上げと安倍首相の危機管理能力について考えたい。この件で、安倍官邸はいくつかの明確な間違いを犯しているからだ。反安倍人たちは安倍政権のグダグダぶりについて再確認できるが、安倍首相を支持される方も、組織の危機管理についての洞察が得られる。

もともとこの話は土地の不正取得の件が問題になっている。しかし、籠池さんとの関係を保ったまま「関係はあるが違法行為はない」といえば終わっていた程度の問題だった。だが、安倍首相のちょっとした行動の間違いから大炎上してしまった。この意味では安倍支持派の言っていることは正しい。忖度は犯罪ではないし、忖度を問題にしている限りは野党は何もできなかったはずだ。ちなみに蓮舫さんの認識はこの程度だった。

第一に、安倍昭恵さんがセキュリティホールになっていたことは明確だ。安倍首相は夫人をコンロールできていない可能性がある。夫人は私人か公人か曖昧な上に政府の情報にアクセスしている。だが、安倍昭恵さんは安倍晋三さんと暮らしているので「黙らせる」ことができる。まずかったのは野党の追及を恐れてつい「私人である」と閣議決定してしまった点だろう。すると私人が国家公務員を私物化して調査させているという議論が成り立ってしまうのだ。正直が一番の策であるという点も忘れられている。これは倫理的な問題ではなく自由度が増すからだ。文脈をコントロールできないのにストーリーを作ると選択肢が限られてゆく。

それでもいったん秘密にしたのだから、なんとしてでも隠し通す必要があった。

そもそも安倍首相は籠池一家を嫌いだったようだ。だから関係そのものを隠そうとしたのだろう。安倍首相が健全な支持者に囲まれていたならこうような胡散臭い危険な人と付き合う必要はなかったといえ、安倍首相と夫人は大変危険なゲームを行っていたといえるだろう。夫妻はどちらも良家の子女であって、こうした人たちと対抗するような喧嘩のスキルはなかったはずである。なぜ、表沙汰になると困るような人たちと付き合っていたのだろう。

安倍首相は朝日新聞の報道を受けて騒ぎが始まってから籠池理事長とのコミュニケーションラインを「こんな人は知らない」と言って一方的に断ち切ってしまった。もともとあまり親密でなかった関係を断ち切ってしまったことで、その後籠池理事長は疑心暗鬼になり、もともとセキュリティーホールであるうかつな安倍昭恵さん経由でつながっているにすぎず、安倍側から籠池理事長がどのような行動に出るかがわからなくなった。

加えて安倍首相は「関係や介入があれば首相をやめる」とまで言い切ってしまった。ここで野党は「籠池さんの関係を証明さえすれば、安倍さんは辞めてくれるんだ」と受け取ってしまった。しかも、部下である議員たちは安倍首相や昭恵夫人から詳細な情報を取れなくなった。詳細に話が聞けたなら、もう少し具体的な反論ができたはずだが「ない」という前提のために詳細な話が聞けなかったのだろう。西田議員は「夫人から直接話を聞いた」と言っているようだが、長い時間をかけても籠池さんの人格否定と「ここで嘘をつくと偽証罪になるんだぞ」という恫喝だけしかできなかった。これは不遜な印象を与えるだけでなく、攻撃材料がない(つまり具体的なことを聴取できていない)ということを露呈してしまっている。

本来なら籠池理事長の人格を貶めてしまえば「あの人の話は信頼できない」となって終わったかもしれないが、もともと怪しい人物にもかかわらず証言の一つひとつが妙に具体的なのでひょっとしたら真実が含まれているのではないかというような印象になっている。なぜこんなことが起こるかというと事前に籠池さんの人格を貶める印象操作をやっていたからだ。印象操作が裏切られてしまうと逆に「あれ、話と違う」という疑念が生まれるのである。

自民党側は「お金がないのになぜ学校を建てられたのか」とか「安倍首相の名前を騙って寄付金詐欺をしているのでは」などと攻撃しているのだが、それは公知であり特に驚きはない。「であればどうしてそんな人たちに学校の認可を与えたのか」という反論になる。これはそもそも籠池さんに聞くべき問題ではない。これが最後の問題だ。つまり、自民党の議員にはそもそも質問を組み立てる能力がないのだ。維新の党も質問ができずに籠池さんを恫喝していた。

なぜこんなことが起こったのだろうか。普段は無茶苦茶な官邸のリクエストを官僚が寄ってたかってサポートしているのだろう。しかし今回は官僚が疑われているので籠池さんの追求に加われなかったのではないか。もし追求に加わろうとすれば当事者に話を聞く必要がある。しかし忖度はなかったことになっているので当事者から話が聞けなかったのだ。

今回質問に加わったディフェンダーの国会議員は民主主義の基礎さえ理解していない。これは偶然ではなく関係者(西田、葉梨、下地)は日本会議国会議員懇談会の所属なのだ。つまり、国会議員は官僚のサポートなしにはまともな質問さえできず、民主主義や人権を軽視しているということが露見してしまった。つまり日本会議から脱会した人を日本会議の人が公開で恫喝するという宗教裁判のがあの数時間の正体なのである。

安倍政権には安倍首相のコミュニケーション下手という大きな欠点があるのだが、つまり安倍首相が部下や周辺に規範を示すことができなくなっているということがわかる。私人である夫人が国有地の売却に関与し、官僚は首相の顔色を伺って国有地を不公平に払い下げている。さらに日本会議は国会を使って背教者を晒し者にしている。これらはすべて私物化である。国民は政治には関心がなく、この脆弱性は放置されるだろうから、安倍政権そのものが日本の危機管理上の弱点であるという結論が得られる。