日本には生産性という考え方がない

「ITを導入して日本の生産性を向上させよう」などという話をよく聞くのだが、そもそも日本人には「生産性」という概念がないという話を書こうと思う。そんな馬鹿なと思う人もいるだろうし、ああまた「日本人は遅れている論」なのかとうんざりする人もいるかもしれない。だが、この話過労死を防ぐためには非常に大切な概念だ。

米系の外資に面接に行くとよく「締め切りは絶対に守れ」などと言われる。話を聞いてみると日本人は「完璧に仕上げたいために」締め切りを守らない人が多いのだという愚痴になる。中には、なぜ日本人がプロジェクトを手放さないのか理解できないという人もいるようだ。アメリカには根性で資料を仕上げるという考え方がないからだろう。

もちろん、日本人が「プロジェクトを手放さない」のは、それを完璧に仕上げたいからである。こうした姿勢は「職人気質だ」と考えられ賞賛される。たとえば広告代理店で徹夜してプレゼン資料を仕上げるのは「直前まで一生懸命がんばったほうがよい資料ができる」し「同じような資料が2つあった場合気持ちの強いほうが勝つ」と考えられているからだろう。それを理解できないとはアメリカ人には情がない。

日本人がこれを理解するには生産性という概念を理解する必要がある。1つの資料を80%仕上げるのに必要な労力を80とする。それをさらに10%上げるためにはもう80の労力が必要かもしれない。大体できているわけだから、そこそこでリリースしたほうが「生産性が高い」と考えるわけだ。

同じような考え方は安全・安心の側面でも見られる。もちろん、クリティカルな事故を防ぐことは重要なのだが、トリビアルな間違いを防ぐのに大きなコストがかかるのであれば、それは保険などでまかなおうという考え方がある。つまりリスクをコントロールしてマネジャブルな範囲に収めておこうと考えると「程ほどの安全性でよい」という結論になるのだ。

一方、日本人はいったん事故を目にすると「もう絶対に100%安心でないと許せない」というような話になる。そこで莫大なコストがかかると言っても「それがどうした」という。結局、原子力発電所のようにリスクを見て見ぬふりをするか、豊洲のように有毒物質が出るのはもう何がなんでも絶対に許せないということになるようだ。

どうして日本人には生産性という概念を持たないのだろうか。第一の理由はコストという概念がないからだろう。

資料を完成させるために徹夜させれば割増料金が発生する。マネージャーはコストを管理する責任者だからこれを避けたいと考えるのである。一方、日本人は労働時間は無尽蔵な資源だと考えるので、資料作りには長い時間をかけてもよいということになる。有害物質の管理などもコストの問題だ。

一方で「完成」の考え方にも違いがあるようだ。日本人は資料をリリースすると一人歩きする傾向にある。読み手が好きなように文脈を足してしまう。ところが、これも一般的な考え方ではない。ITには「永遠のΒ版」という考え方がある。間違いは誰にでもあるから、それを見つけたらそのときに改良しようという考え方だ。そのため修正の責任者が決まっていて、修正スケジュールも決まっている場合が多い。日本人のように欠陥が見つかると「あれはもうダメだ」といって見放してしまうことはないのだ。

アメリカ系の組織にはコスト、リスク、責任の所在というような考え方があり、それを総合したのが「生産性」という考え方になる。しかし、日本人にはそのような考え方はないので、それらがすべて丸まって「気持ちの問題」ということになってしまうのだと考えられる。

ここで「日本の製造業は生産性の管理をしている」という反論が得られそうだ。確かにそのとおりなのだが、これも第二次世界大戦直後にアメリカから導入したメソッドが元になっている。これが戦後の日本の品質管理運動につながった。

このことから「日本人が劣っている」ということではなく、そもそも生産性という概念がないために、それを上げようという活動がないだけだということになる。

広告業界にITが導入されたとき、これで生産性という考えた方が広まるなあと思った。コストと成果が数字として出てしまうからだ。しかし、実際にはそうはならなかった。成果が出ないとき数字をごまかし、かつ気持ちの問題にしてしまった。

本来は「逃げ出す」と「過労死する」の間に「生産性を上げる」という選択肢があったはずで、それを管理するのが経営学だということになる。

高橋まつりさんはなぜ泣きながら資料を作っていたのか

高橋まつりさんの自殺をきっかけに日本でも労働時間に関する議論が出てきた。論点はいくつかあるようだが間違って伝わっているように思えるものも多い。そんななか、ドイツの労働時間について書いてある読売新聞の記事を見つけた。これを読んで「日本もドイツを目指すべきだ」という感想を持った人がいるようだ。

結論からいうと、日本はドイツを目指せない。記事を読むとドイツで長時間労働時間を強いると人が集まらないから、労働時間を長く設定できないと書いてある。ところが、この記事には書かれていない点もある。執筆者はドイツ在住なので知っているはずだから、書かせた側に認識がないのだろう。

ドイツの職業制度は2本立てになっている。3割は大学に進むが、その他の7割は職業教育に流れるそうだ。これをデュアルシステムと呼ぶらしい。7割は職業人としての教育を受けるのだが、社会の中で「労働の対価はどれくらいで、基本的に必要な知識は何」という知的インフラが作られていることになる。だから、労働者は会社を選ぶことができるのだ。労働者は会社を選別するので、企業は環境を整える。何も「ドイツ人の善意」がよい職場環境を作ったわけではない。

一方で高橋さんの例を見てみたい。高橋さんが「東京大学を卒業して電通に入った」ということは伝えられているが、何を専攻したのかということは伝わってこない。日本では「東大に入れるほど頭がよかった」ということは重要だが、そこで何を勉強したのかということにはほとんど意味がないとみなされるからだだろう。

週刊朝日でアルバイトをしていたことから「マスコミで働きたかった」ということは伝わって来が、電通ではネット広告の部署で金融機関向けにレポートづくりをしていたようである。もし、欧米のエージェンシーでレポートづくりをしていたとしたら、その人は「マーケティングの専門家」か「データサイエンティスト」のはずだ。

もし「データサイエンティスト」だったとすれば、いくらでも就職先はあっただろうし、ドイツのように社会が職能を意識するような社会だったらなおさらその傾向は強かったはずだ。だが「なにのためにレポートを作っているかわからない」と嘆く高橋さんにその意識はなさそうだ。

分業制の進んだアメリカで「顧客のリエゾン」が「データサイエンティスト」の真似事をすることはありえないだろう。だが、日本では「何を勉強したのか」を問わずに学歴で新入社員を入社させて専門教育をせずにそのまま現場に突っ込むということが行われていたことになる。おそらく部署にもインターネット広告に対するスキルはなかったのではないだろうし、高橋さんも自分が何の専門家なのかという意識はなかったはずだ。マスコミ感覚で広告代理店に入り「クリエイティブがやりたい」と考えていたようなのだが、その期待も満たされていなかったかもしれない。

ここからわかるのは電通が「自分たちですらどうしていいかわからないことを地頭の良さそうな学生」にやらせていたということだ。

アメリカで「データサイエンティスト」という職業が成り立つためには、仕事を経験した人が学校に戻って学生を教え、その学生が企業に新しいスキルを持ち込むというサイクルが必要だ。ところが日本では一度会社に入ると学校に戻るという習慣がない。だから社会の知識が更新されない。

では「高橋さんは何を学ぶべきだったのだろうか」ということになる。それは人間関係である。3年以上電通にいて「電通の仕事のやり方」を学べば、そのあとは関連会社からの引きがあったはずだ。つまり、日本の学生は一生そのコミュニティにいなければならず、だからこそ「脱落してはいけなかった」ことになる。皮肉なことにこの閉鎖性が外から知識が入ってくることを妨げている。

立場を考えてみるとデータサイエンスを学んだ学生が電通で働けないということになる。まず入れないだろうし、入ったとしても「成果が出ていないのに成果が出ているような資料は作れません」ということになる。電通の管理職はそれでは困るわけで「専門家は使えない」という評価に繋がってしまうのだ。

このように高橋さんが「意味を見いだせない仕事をやらされて疲弊していた」ことの裏にはきっちりといた理由付けがあり、単に高橋さんの運が悪かったわけではない。

これを改善するためには「社会がどのように知識を更新するのか」というプロセスを作る必要がある。すると労働の流動化が図られて、悪い職場環境は淘汰されるだろう。と同時に国の競争力は強化される。

皮肉なことに新聞社にも同じ知識の分断がある。

冒頭の記事では生産性と労働時間のグラフがある。この中ではなぜか日本の方がアメッリカよりも労働時間が短い。記事の仮説が正しければ日本の労働生産性はアメリカを上回っていなければならないのだが、現実はそうではない。日本は非正規化が進んでおり(主に高齢者の置き換えが進んでいるものと考えられている)労働時間が短くなっている。ゆえに「労働時間が短くなれば自ずと精査性が上がる」わけではない。この記事がいささか「結論ありき」になっていることがわかる。

新聞社は、その分野の人に記事を書かせて、出来上がった結果だけに着目する(専門家のプロセスはわからないから)ので「日本もドイツを見習わなかければならない」などと書いてしまう。そのために必要なのは「社会の優しさ」なのだというな結論を導き出しがちだ。考えてみれば、学校での専門教育を受けたわけでもなく、地方の警察署周りをして根性を身につけただけの人が社会問題全般を分析するようになるのだからそれ以上のことは書きようがない。

今回よく「なぜ日本の大企業は軍隊化するのか」という問題意識を目にするのだが、日本人は第二次世界対戦末期の陸軍を「軍隊だ」と考えている節がある。陸軍は必要な食料や兵器を持たせず「根性で勝ってこい」などといって送り出していた。現在の会社は社員に十分な知識を与えず、それを自力で更新する時間も奪っている。確かに似ているのだが、これが「軍隊」だというわけではない。こんな軍隊だったから日本は負けてしまったわけで、要は日本は経済戦争に負けつつあるのだということにすぎないのではないだろうか。

要は社会全体で、複雑な問題を扱えなくなりつつあり、その隙間を「根性」や「社会の善意」で埋めようとしてしまうのだ。

長谷川秀夫氏はなぜ過労死を肯定するような発言ができたのか

前回の長谷川秀夫氏の記事は多くの人々に読まれた。ネットの反応を見ていると「今は時代が違うから老害は引っ込んでいろ」というようなトーンが目立つ。

この発言を理解するためには、この人がどのようなバックグラウンドを持っていたのかを知る必要がある。東芝の出身だそうだが、東芝の労働環境は悪く「東芝の労働事件」というwikipediaの専用ページまでができている。ページは次のような記述で始まる。

1960年社長となった土光敏夫は「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」と宣言し、労働運動への締め付けを強めた。

土光敏夫氏はのちに行革に取り組み「質素な生活」で有名になった。土光さんといえばメザシで有名だ。だが「自分も頑張るから」という姿勢は後継者には受け継がれなかった。

東芝は長時間労働で知られていたことは間違いがない。土光氏が社長をしていた時には社員への還元があったのかもしれないが、Wikipediaにまとめられているような労働事件が2000年以降に頻発することになった。

東芝では長時間労働と弱い労働組合は「過去の成功事例」として捉えられていたようだ。経営転換に失敗した結果を労働者の長時間労働と会計操作で隠蔽するような会社になってしまったわけである。

このようなひどい会社は社会的に制裁されても当然のように思える。しかし、実際には東芝は淘汰されなかった。東芝は政府と国策に追随することで生き残りができたからだ。原子力発電事業や電力インフラ事業などが中核になっていた。

その結果起きたこともよく知られている。業績をあげるために無理なスケジュールが横行した。先には「同じ職場で2名の自殺者が出た」とあるが、スケジュールは改められなかった。さらに派閥同士で数字をよく見せる必要があり、会計操作までが行われるようになり、最終的に「特設注意銘柄」に指定されるまでになった。これは、上場廃止の一歩手前の状態だそうだ。しかし、責任を取ったのは経営者ではなく従業員だった。大規模なリストラが行われたのだ。

このように東芝は過去の成功事例から抜け出せずに徐々に倫理的な感覚を失っていった。ここから得られる教訓は「他人に生き血を啜(すす)られるなら啜る人になれ」ということだ。しかし、政府の庇護もありそれが修正されることはなかった。最終的に上場廃止寸前まで追い込まれた(もう少し規模の小さい会社であれば上場廃止されていただろう)のだ。

つまり、啜られる側の人間は最後まで啜られる側であり、一生懸命働く人が報われるというように<正義>が勝つことはないのだ。

これは失敗する組織の典型的なパターンを持っている。戦前のお陸軍は現場の突発的な判断から戦争に突入したが、明確な作戦を立てられず、派閥争いに発展する。そのために取った作戦は現場の兵士を捨石にして戦線を維持するというものだった。参謀本部には現場のことが見えていなかったわけである。かといって現場の兵士が報われることはなかった。栄誉といえばせいぜい、靖国神社に祀られるくらいのものだが、これも「参謀も現場の兵士もいっしょくたに祀られる」ことになってしまった。

東芝の事例は明らかな経営の失敗だが、当事者たちはそうは思っていないというのが今回の話の一番残酷なところである。こうした人たちが成功事例ということになり教育現場に入って「他人の生き血を啜る側の人間になれ」という人材を再生産しているのかもしれない。

「他人を搾取する側」だった長谷川氏としては、教え子と周囲の人に「100時間で死にやがって情けない」と漏らすのは自然なことだったのだろう。彼らにとって労働時間とは単なる数字であって、途中で脱落してはいけないのである。あるいは脱落を前提にして「歩留まり率(※ここでいう歩留まりとは職場の精神疾患や自殺者の数だ)」を<管理>するくらいのことは考えかねないのではないだろうか。

一人の人が大衆的な暴力で嬲(なぶ)られるというのは、非人道的に見える。しかし、そうでもしないと「これがいけないことだ」という認識が定着しないのだと考えると、とてもやりきれない気分になる。