デフレとアパレル不況の共通点

安倍首相はことあるごとに日本はデフレから脱却しつつあるとうそぶいている。しかし、その統計には中古市場は含まれていない。実際の自分たちの暮らしを見ていると、その割合はわずかかもしれないが、確実に中古市場への依存が広まっている。

それではどのような業態で中古市場へのシフトが進んでいるのだろうか。

  • 毎年のように新しい製品が出る。
  • モノの価値が情報によって支えられている。

例えばパソコンは毎年新しい製品が出る。かつては処理速度が早くなっていたのだが、最近では省エネで競っている。また洋服の場合は毎年新しい型が出て古いものは着られなくなることになっている。だが、去年の古いセーターを今年着ることは可能だし、古くなったパソコンでも昔こなしていた用事ができなくなるわけではないし、私たちがやりたいことが毎年高速化してゆくわけでもない。

メーカーは価値を高めるために情報を小出しにしているのだが、長い間をかけて消費者は情報を蓄積してゆく。それゆえにメーカーは消費者より速い速度で情報を蓄積しなければならない。

製品にまつわる情報にはいくつかのものがある。

  • 製品に関する情報 – これはメーカー側でも蓄積できる。しかし、いったん流した情報は忘却されない。
  • 価格に関する情報 – かつては消費者側は知らなかったがIT機器の発達で消費者の知るところとなった。
  • ユーザーの情報 – これはメーカーでは作ることができないので、お金を出して集める必要がある。

三番目の情報は価格形成に大きな影響を与えている。服は所属や地位を表すシグナルになっているが、その意味合いは他人との関係できまる。例えば、みんながユニクロを着ていればユニクロが恥ずかしくなくなり、その価値はネットワーク効果で決まる。これを日本語では「空気」と呼んでいる。

ユーザーが作る空気は複雑から単純へ、高価から安価へと流れるようだ。これを高い位置に戻すためには外からの刺激を加える必要があるようである。だが、メーカーは情報を足す事はできても、忘却させる事はできない。

価値は情報によって作られているということなのだが、消費者は情報を使って何を伝達しているのだろうか。衣服や車の場合には所属欲求だと考えられる。同じものを持っているということを確認しつつ、その中で序列の確認が行われている。序列を決めるのは「センス」という曖昧な基準なので、これが無効だということになれば、情報としての価値は失われる。

この所属を確認するための情報交換はは置き換えられつつある。例えば一つはSNSを使ったゲームのような純粋な情報だ。所属欲求を満たして、序列を作るために面倒な「モノ」を媒介にする必要はなくなりつつある。もう一つは場所と時間だ。ショッピングモールで買い物をする場所は閑散としているのに、レストラン街は満員だったりする。また、インテリアショップに併設されたカフェも人気だ。どちらも一人で利用するというより、仲間と時間や場所を共有するために利用されているのだろう。

「モノからの逃避」が進んでおり、抽象化が進行しているとも言える。

冒頭の政府統計の話に戻ると、新品の製品だけに着目しても、デフレなのかそうでないのかという事はよくわからなくなりつつある。正確な統計のためには中古品市場を加え、情報流通にも着目しなければならない。しかし、旧来型の消費者像に凝り固まった頭で、こうした新しい物価統計を組み立てるのはなかなか難しいのではないだろうか。

さらに重要なのは、人々がそもそも「消費者」ではなく、モノを媒介した社会のためにモノを利用しているという視点だろう。消費者は消費者ではないのだから、メーカーはメーカーではない。どちらかといえば社会化という通貨を発行していると考えた方が良さそうだ。

例えばアパレルメーカーはファッション雑誌や店頭に通貨を流しているのだが、通貨発行のコストは無視して良いほど低いので、モノが売れなくなったからという理由で通貨の発行を増やす。すると結果的に通貨の信認は失われてデフレが進行してしまうのだ。それは情報が持つ効果そのものが失われるからである。

これはデフレと共通するところがあるように思える。中央銀行は経済を活性化させるために通貨の発行を増やした。これは実は富を増やしているということにはならず、富を伝える媒介(すなわち情報)を増やしている。1つの中央銀行が情報の供給を増やすと、他の中央銀行も情報を増やす必要がある。いったん出された情報を回収することはできない。そこでピケティのように富裕税を取って市場から情報を回収するというようなアイディアが出されている。

デフレが進行したのはIT技術の発達が原因かもしれない

前回はパルコがなくなるのを見て「日本のファッションは砂漠化している」などと嘆いてみたのだが、実際にはもっと大きな変化が起きているようだ。いくつか見てみたいポイントはあるのだが、一番注目すべき点は、日本の流通が実は大胆に合理化されているというちょっと意外な事実である。

一般に、日本のサービス産業や流通はIT化が遅れており生産性の向上も進んでいないと考えられている。確かに産業という側面から分析するとそうなるのだが、消費者を加えると全く異なった実態が見える。

日本のアパレル産業の市場消化率は50%弱なのだそうだ。残業して一生懸命作った服の50%は売れ残ることになる。売れ残った服は中古市場に流れる。ほどいて毛布などの原料にする、機会を拭くウェスとして利用する、東南アジアに輸出するというのが主な処理方法になるそうで、これを専門に取り扱う業者もある。燃やされているものもあるはずだが統計には出てこない。

一方、急速に中古市場が立ち上がりつある。実際に中古ショップを見てみると「未使用品」が売られていたりする。寂れたファッションビルが「売れ筋」と考えられる画一的な商品に高い値札を付けている一方で、ユースドショップに豊富なデザインが色柄が安い価格で売られていることも珍しくない。

だが、新古品の出先はリユースショップだけではないようだ。アプリを使ったオークションサイトなどが複数立ち上がっている。総合通販サイトも中古品を扱っている。さらにファッション通販サイトも中高品を扱うようになった。

同じような状態は中古車市場にも見られる。軽自動車が過剰生産され新古品市場が発達しつつある。実質的な値下がりが起きているのである。

つまり、アパレル専業の会社や自動車業界が市場を読まずに産業ゴミを量産する一方で、消費者はIT技術を駆使して自分が欲しいものを探しているという実態が見えてくる。

これが顕在化しないのは政府統計が古い概念のもとで組み立てられているからではないかと考えられる。いろいろな人が推計を出しているが「どれくらい中古化」が進んでいるかということはよくわかっていないようである。「もはやデフレではない」という統計も新品だけを対象にしているはずだ。小売物価統計調査の概要の説明には次のようになっている。

調査店舗で実際に販売する平常の価格を調査する。ただし,特売期間が7日以内の安 売り価格,月賦販売などの価格及び中古品などの価格は調査しない。 

一方、産業界には「新品が売れなくなった」という認識はあるようで、日経新聞までが中古市場に関する記事を書いている。

アパレル業がいびつになってしまった原因はいくつかありそうだ。アパレルは中小業者が多い。さらに、毎年流行が入れ替わり去年の服は今年は着られないという刷り込みがある。さらに、情報産業(ファッション雑誌など)が盛んに消費者を教育するので、ファッション好きの消費者は豊富な知識を持っている。彼らはITに対するスキルも業者より多く持っている。

女性に対して調査したところクローゼットの7割は着ない服だったという統計もある。ほとんどの人は着なくなった服を単に捨ててしまうのだそうだ。アパレル商品の半数が売れないという統計も考え合わせると、日本で作られた洋服のほとんどが捨てられており、実際に使われるのは定番の商品のみということになる。定番品だけしか売れなくなるのもよく分かる。結局、それ以外はゴミになってしまうのだから、最初から買う必要はないのだ。

一方で、生産性の低下についてはあまり嘆く必要がないという気もしてきた。供給側が過剰生産に陥っている原因は、ITへの支出を怠り、市場で何が起こっているかを知る手段がないからだ。政府も統計を取っていないので、何が起きているのか把握している人は誰もいない。

だが、消費者は豊富な商品知識とITスキルを持っているので、それなりに楽しく自分にあう洋服を選ぶことができる。消費者がバリューチェーンの一環をなしているというのが新しい視点かもしれない。

ただし、供給側からはアービトラージの機会が失われ、今までの仕事の一部が無償化(ユーザーが流通に参加しても給与は発生しない)するのでデフレが進行するのはやむをえないのかもしれない。

パルコがなくなる

「パルコがなくなる」ということでセールをやっている。そこで商品券をもらった。カードのポイント交換なのだが、2000円ごとに500円のおまけが付いてくるので「お得だろう」というのだ。

というわけで、最近ここをよく覗くのだが、なぜパルコがなくなるのかということがなんとなくわかった。

周囲には駐車場が少ない。この界隈は車社会化が進んでいるので街の中心部に出てくるのは却って大変なのだ。日経新聞が分析している通り、駐車場不足が街の過疎化を進展させているのは間違いがないだろう。流行っているのは駅から歩いて5分圏内にあるそごうと駐車場がふんだんにある幕張のAEONと南船橋のららぽーとだ。

しかし、問題はそればかりではなさそうだ。品揃えが壊滅的に少ない。男性服の売り場は4階に集まっているのだが、定番品(無地のシャツかボーダー Tシャツといったもの)か、一昔前のロックシンガー(細身でシワの入った黒いパンツに、赤や黒などを合わせたりする)が着そうなものしかない。例外としてTakeo Kikuchiが入っているのだが、値段が高いので誰もいない。それとは別にWEGOと古着屋があるのだが、その一角はそれなりに賑わっていた。

ロック兄の好みそうなブランドはいくつかある。背景を調べてみたら、たいていが糸問屋がブランドに乗り出したものだった。一昔前は同じようなデザインで品物を作れば飛ぶように売れた時代があったのだろう。現在では約半分が売れ残るそうだ。

デザインというものが死んでしまったのだなということがわかる。デザインが成立するためにはある程度の多様性が必要なのだが、多様性を演出しようとするとある程度の売り場面積が必要だ。この近所だと南船橋にららぽーと程度の品揃えが要求されるのだろう。

ららぽーと並みの品揃えができないと「一番売れそうなやつ」に照準を合わせる必要があるわけだが、それが定番商品か栄町(東京でいえば歌舞伎町をうら寂しくした感じ)だったのだなあと思った。つまり、水商売の男性向けのショップになってしまったわけである。こういう人たちが参考にしているのはSafariらしく、店頭にはSafariが飾ってある店が多かった。毎回同じようなコーディネートしか並んでいない雑誌だが、あれが今なんだなあと改めて思った。

客層を見ていると、男性の服装はシンプル化しているらしい。最近の若者(とはいえデートコースになっっているので、そこそこモテそうな人しかこない)はさらにスタイルがよくなっており背も高いのでこうい格好が似合っている。ただ、ファッションとしては面白くはないだろうなあとは思った。

女子だけの買い物客はスマホとにらめっこしていた。コーディネートを調べているのかなあとも思ったのだが、もしかしたらZOZOあたりで値段をチェックしているのかもしれない。定番品が多いのでどこで買っても一緒なのだろう。でも、もし定番だったら一番安いのはユニクロだろう。まあ、パルコにはユニクロはないのだが。

お客が服を選ぶ目線はシビアになっている。限られた予算の中で失敗しない服を選ぶ必要があるのだろう。それはよく売れている商品かシンプルなものということになる。つまり、店頭から多様化が消失しているだけでなく顧客の側からも多様性はなくなっているのかもしれない。

最近の人はスタイルがよいので、いろいろなファッションが楽しめていいなあなどと思うのだが、選択肢があまりにも少ない。色も選べないし、形も決まったものしかない。年齢を重ねるとさまざまなスタイルを試せなくなってゆくので、もったいない話だなあと思う。

img_0511-1さて、このようにファッションの砂漠化しているパルコだがレストラン街だけは盛り上がっていた。ファストフードのチェーン店かラーメン屋しかない地方都市にしては多様な料理が食べられるとみなされているのかもしれないし、ウィンドーショッピングしてから料理を楽しむというのが定番のデートコースなのかもしれない。

日経新聞の記事はアウットレットショップを競合と見ていたわけだが、本当は街中心部にでかけることがイベントになっているのかもしれない。

個人的にはパルコで一番行きたい店はスタバだった。うまれてはじめてコーヒーにクリームをトッピングしてみた。

長谷川豊氏はなぜ仕事を失ったのか

「透析患者は死ね」と書いた長谷川豊氏が大阪でのレギュラー番組を2つ失った。なぜ、彼は仕事を失うことになったのだろうか。そして、それは「良い」ことだったのか考えてみたい。

氏が指摘するように日本の医療福祉制度は崩壊しつつある。それは社会主義化が進んでいるからだ。政治家も有権者も制度の不具合に気がついていないか、知っていて見ない振りをしている。ということで何らかの形で医療に触れた人なら誰でも警鐘を鳴らしたくなる。しかし、普通の形で警鐘を鳴らしても誰も振り向いてくれないので、ショック療法に頼りたくなる気持ちもよくわかる。ある種のリーダーシップがそこにはある。

だが、実際に問題になっているのは、形式にさえ合致していればいくらでもお金を引っ張ってくることができる制度そのものにある。医師も食べて行かなければならないので、効果が出ようがそうでなかろうが、形式に合わせることを優先させる。最近の分析によれば、医師は「関東軍化」しているということになる。

ここでいう「関東軍」とは、専門性はあるが社会からは無視されている存在である。その場にあった最適解を模索するのだが、視野が狭いので全体解は持たないし、リソースがないので最適解があっても実現できない。かといって専門家がいないとオペレーションは成り立たない。故に専門家の暴走は全体のシステムを破綻させることになる。

医師の場合、診断をしないで、いくつかある累計の中に人を押し込めることがある。累計に合わせて申請書を書けば、補助金が貰えることもある。問診が客観的な数値に基づくもの(最近ではメタボリックシンドーロームなどが有名だ)であれば躊躇なく機械的に振り分けて薬を処方するし、主観的なものなら「例外」を無視して診断を下すことも珍しくない。また、チューブにつないでいつまでも延命させるということも行なわれている。これもガイドラインに沿った対応なのだろう。

「関東軍」の暴走の背景には2つの原因がある。

1つの問題はジェネラリストの消失だ。日本人は他人に興味がないので、最初から他人を作らない企業制度を作った。それが数年おきに専門を変えさせる「正社員」である。正社員が成り立つためには終身雇用がなければならない。終身雇用が崩壊したので、ジェネラリストがいなくなり、従って専門家が「暴走」するようになった。よく「就社ではなく就職」と言われるが、それは日本人をよく知らないからである。日本人はチームワークが嫌いなのだ。ジェネラリストがいなくなると急速に部分最適化が起こる。

また、日本陸軍のようにジェネラリストが「管理や作戦の専門家」になっってしまい暴走することもある。正社員が維持できなくなったということもあるが、非正規雇用が増えると正社員は「自分たちには関係ない」と考えるようになり、結果的に企業の崩壊を招くのだ。陸軍の場合は末端の兵士は徴兵される非正規雇用であり、最終的には無理な責任を負わされ食料を補給してもらえずに餓死することになった。

もう1つの問題はリーダーシップの不在だが、もともとリーダーを要請するという考え方がないので、専門家の問題として捉えることができる。責任者ではなく調整する専門の係になってしまうのである。

医療問題の解決が難しいのは、それが命の選択の問題に直結するからだ。例えば、これ以上全ての高齢者の延命治療ができないということはわかっているが、誰が選別するのかという問題が出てくる。ルールメーカー(国会議員)が手をつければ高齢者や家族に恨まれるし、医者もその責任を負いたくない。結局「制度が崩壊してからみんな騒ぐんでしょうね」ということになる。お金で判断するということもできるが、これも「金持ちだけが長生きするのか」という批判に晒されるだろう。

長谷川氏は自身のブログで「自分は問題を見たが、構造には気がつかなかった」ということを開陳してしまっている。医療が破綻する原因はわがままな生活を送っていた糖尿病患者にあると結論付けてしまった。それは当然「そういう人もいるがそうでない人もいる」ということになってしまうし、そもそも糖尿病患者を全て抹殺しても医療の構造的な問題は全く解決しない。

問題は解決しないのだから、警鐘は役に立たない。それは単なるノイズである。故に仕事を失っても何ら不思議はなかった。最初からキャスターとしては不適格だったのだ。もともと他人が書いた原稿を読むだけのアナウンサーだったわけだが、原稿の裏にある問題を意識しないで原稿を「ただ読んでいた」のだろう。それは必ずしも悪いことではなかったかもしれないのだが、ジャーナリストにはふさわしくない。

よく考えてみればこれも専門職の暴走である。長谷川さんの考えるアナウンサーの仕事は誰かが書いてきた原稿を面白おかしく騒ぎ立てることだったのだ。だから自分で全てを担うことになったときに「騒ぎを起こさなければ」と考えたのだろう。それが彼の勘違いだったのかどうかはわからない。テレビ局の役割は社会をよくすることではなく、騒いで視聴率をあげることだったということがありそうだからだ。

テレビ局は「世間を騒がせた」罪で長谷川氏を排除したわけだが、多分「うまく切ってくれれば問題はなかった」と考えているのではないだろうか。世間が騒ぐというのは単なるアウトプットの問題なのだが、テレビはそれが全てなのだろう。つまり日本では問題を騒ぐことをジャーナリズムだと考えていることになる。テレビは騒ぎが大きくなれば視聴率が稼げるという因果関係で「成果」を調整する。これは基本的には医師(全てのとまでは書かないが)が「レッテルを貼って薬を処方さえすればどこかからお金がもらえる」というのと同じ構造である。

安倍首相の「静かな環境で」とはどういう意味なのか

安倍首相の今回の演説では咳と「静かな環境で」という言葉が目立った。これ、どういう意味なのだろうか。考えてみた。

この言葉は「まずは静かな環境で憲法議論を進めたい」というような使われ方をする。ここでの「静かな環境」とは憲法審査会のことらしい。

安保法制の議論は、自民党が野党の時代を含めて「静かな環境’」で行われていた。右翼界隈は空が蔑視している中国の台頭に不安を抱いていた。中国の台頭というのは彼らが捏造した世界観であって実際には日本の衰退だ。しかし、それを認めることができないので「米国に追随すれば中国を追い払える」という歪んだ仮説が生まれた。アメリカに追随するためには憲法第9条が邪魔なのでそれを無力化しようとしたわけだ。

だが、この物語が作られた頃には状況は変わりつつあった。民主党が政権を取りジャパンハンドラーは主流派ではなくなった。さらに戦費が膨大になりつつあるので、撤退戦が進行することになった。しかし、日本はこの文脈を共有できなかった。

彼らの仮説は彼らが共通に持っている幻想が源になっている。文脈を共有しているからこそ「静かな環境」が作られるということになる。

しかしながら、この静かな環境は破られることになった。日本らしかったのはこれが別のコンテクストとぶつかったことだ。反対する勢力は「安倍は戦争をやりたがっている」という物語を作り上げて事実を布置した。コンテクストとコンテクストがぶつかったので、話し合いは不可能になった。静かな環境に干渉する動きはノイズのように感じられただろう。

ゆえに狭義には「静かな議論」というのはサヨクに邪魔されない場所でという含みを持つ。彼らは何でも反対なのであって議論など無効なのだ。

さて、安保法制の実際の危険性は何だったのだろうか。実はアメリカも一般国民のレベルでは日米同盟が片務的で日本は義務を果たしていないという思い込みを持っている。ゆえに日本が当局に尽くしても「もっとよこせ」といってくるだけで、日米同盟の強化には役に立たない。このようにアメリカが心変わりした時に使えるプランBは存在しない。つまり、閉じられた空間で作られた「静かな議論」は集団思考に陥りやすいということがわかる。

次にこの議論には一貫性がない。今度はロシアとの平和交渉と言っている。頭の中には日露平和条約を成し遂げた偉大な首相というレガシー作りとロシア利権の構築という実利があるものと思われる。一見良さそうだが、アメリカが権力継承期にあり権力の空白ができている間隙を縫って、欧米が作ろうとしているサンクションを破ろうとしているというリスクは考慮されていないようだ。支持者たちは多分「アメリカとは話がついているのだろう」と考えているはずだが、それも集団思考かもしれない。いずれにせよ、日米同盟の深化という話とロシアへの接近は違う文脈で語られる。利権構造が別なので仕方がないことなのだが、世界地図上では繋がっている。

いずれにせよ日本人の議論は(少なくとも集団で行う議論は)集団思考から抜け出すことができない。広く知られているように反対する勢力も平和憲法さえ守っていれば大丈夫という集団思考が見られる。これは日本人が幼児期から文脈を読み合うことを覚えるからではないかと考えられる。すると、その文脈外の問題はすべて「想定外」ということになってしまうのだ。

こうした共同の幻は至る所に見られる。古くは原子力発電で物語がつくられていた。彼らは利益共同体であり、原子力村と呼ばれた。

さて、憲法の場合には「日本人は一丸となって自民党の指導に従った美しい国づくりを目指すべきだ」という物語があるものと思われる。これが維新の「大阪に利権を引き込むためには権力への擦り寄りが必要」という意図と合致したのだろう。

だがこの見込みは間違っている。まず、大阪組だが大阪は高度経済成長から取り残されたのは「大阪がうまくやらなかったからだ」という思い込みがあると思うのだが、実際には違っている。政治の課題は不利益の分配に向きつつあるのだが、それが理解できていないようだ。

自民党側の誤算はさらに深刻だ。日本人は実利があるとき、あるいは面倒なときに綺麗的に組織や社会に従うだけであって、利益の配分がない限り他人には無関心だ。第二次世界大戦で国民が国に従ったというのも幻想で、緊急事態にいやいや巻き込まれただけというのが正しい。ゆえに憲法を改正しても日本人の心象を変えることはできない。

その上自発的な活力は失われ「とりあえず大きいものに従っていれば楽」という認識が一般化しつつある。しかし、それは「私が中心人なって引っ張って行こう」というような積極的なものではなく、フリーライダーの発想に近い。「大きなものに頼ってできるだけ消耗しないようにしよう」というものだ。

静かな環境はその共同の幻から疎外された人たちの反対に合うだろうが、実際に問題になるのは「それが自分たちの生活には関係がない」と考える人たちなのだ。

日本型破綻の特徴

小池都知事が豊洲移転の「犯人捜し」の結果を公表するそうだが、「誰が盛り土を最終決定したのか」見つからなかったのだという。マスコミは主犯の不在に驚いて(あるいは驚いたふりをして)いた。

日本人のコミュニティには幾つかの特徴がある。これはアメリカとは異なっており、中国などとも違っている。東洋的でも西洋的でもない日本人に独特のものだ。

  • 日本人は個人の意思決定を尊重せず、強いリーダーシップを敬遠する傾向がある。強いリーダーは自滅するか排除される。このため中心が空洞な組織が作られる。
  • 日本人はチームワークを嫌がり他者からの干渉を嫌う。逆に他のチームが困っていても助けない。

リーダーシップを忌避する傾向は幼い頃には完成する。国際的に見ると、先生には従うがそれは綺麗的な傾向があるのだという。おとなしくしているのは周りから問題児だと見なされたくないからであって先生を尊敬しているからでもそれが良いことだと考えているからでもない。こうした態度は社会に出てからも継続してみられる。いっけんおとなしいが、乳幼児を連れた親に道を譲らずにスマホを見ながら我先に行こうとするというような社会ができる。他人に興味がなく干渉もされたくないというのが日本人だ。

これだとプロジェクトは破綻しそうだが、その代りに周囲の状況を読む能力を発達させた。一般に「コンテクスト」とか「文脈」とか言われる。それを「読み合う」のだ。代わりに日本人はあまり言葉を信頼しない。契約や約束はその場の雰囲気を悪くしないために使われるのであって実質的な意味は持たない。題目は作られるが誰も反対ができないものが選ばれる。

コンテクストを読むために必要なのは共通の経験だ。同じような人たちが同じようなことをするからコンテクストを読み合うことができる。日本人が急速な変化を嫌うのは、コンテクストが読めなくなってしまうからだ。だから外から新しいアイディアが入ってきてもそれが取り入れられることはない。序列すら曖昧なので「いつ入社(入省)したか」ということがとても重要だ。

このようにして日本人は縄張りを中心に居心地の良い空間を作り出してきた。しかし、これが破綻することがある。全体的な責任者がはっきりしないので、問題が起きても止まって考えたり、作戦を変えたりできないからだ。

第二次世界戦では「防衛ラインを踏み込まれたらどうするか」という統合的な戦略を持たなかった。兵站なしで兵士を派遣して多くの餓死者を出し、沖縄を犠牲にして本土を守ろうとした。いわば時間稼ぎをしようとしたわけだが、時間稼ぎをしている間にプランBを考えるというようなことは一切しなかった。ドイツにはヒトラーという責任者がいたが、日本の裁判でわかったことは「この戦争が特定の責任者がいないにもかかわらず粛々と進行した」ということだった。第二次世界大戦は全体的な作戦(どうするかはよくわからないが、根性だけで本土だけは必死で守る)が破綻してもとまらず、広島と長崎の犠牲者が出てはじめて止まった。

東京オリンピック招致でも同じ問題が起きた。甘い見積もりで招致したあとで各部署が予算を膨らませて一括で東京都に請求することにした。その額は3兆円だそうだ。驚いたことに予算を監督する人は誰もいないそうだ。案の定「責任者を置くべきだ」という話になっているが、森喜朗会長はそれを拒否する構えだ。都から干渉されたくないのだろう。IOCは都と国が財政バックアップをするからという理由で開催都市を決定しているのだから、誰も責任者がいないことを知れば大いに驚くだろう。そもそも、誰も責任者がいないのに意思決定できていたのはどうしてなのだろうかという疑問が湧が、それでもなんとなく物事が決まってしまうのが日本人のすごいところなのだ。

豊洲の問題にも似たところはある。有害な土地を食品を扱う場所にふさわしい安全基準にすることはできなかった。安全基準は「絶対に誰も責任を問われることはない程度」に高く設定されるが、土地の造成は「予算が許す限り」に低く設定される。誰かがリーダーシップを取ってリスクコントロールするという発想はない。「何かあった時に責任が取れない」と考えるわけだ。結果的に合わて具体的な建物ができたところで、今までの説明が違っていたということがわかり計画が破綻した。ここでも活躍したのは現場の人たちだ。彼らは必要な予算を請求し、無理難題とされる「安全設計」はしなかった。彼ら建築家たちは現在「関東軍」と言われている。

注目する人は少ないが、医療費の高騰問題も起きている。患者に必要な治療費は言い値でいくらでもでてくる。これも患者が悪いというわけではない。専門性を持っていて外から規制を受けない医師が「関東軍」になっていて、無制限のお財布にお金を請求するからだ。厚生官僚の中には5年で破綻するという人がいるが「実際に破綻するまでは国は何もしないだろう」と言っている。形式上の責任者は総理大臣なのだが、問題の把握すらしていないようだ。この構造のため「甘えている患者が悪い」など言い出す人も出てくる始末だ。

このリーダーシップの不在と専門家の<暴走>という図式は至る所で見られる。このため日本の産業は触れるものだけが得意で、触れないもの(例えばITのような)ものは苦手だった。流通やサービスなどの無駄を全体的に最適化させるようなこともできなかった。一方で触れるものだけはなんとか間にあわせることができていたわけで、豊洲やオリンピックの問題は、私たちの社会が形のあるものすら作れなくなりつつあることを示している。

この構図は文化に根ざしたもので簡単に変えることはできない。この経験は数年後には地域社会と医療の崩壊という形で顕在化するだろう。

維新の馬場さんの狙い

国会で維新(現在の政党の名前は何というのだろうか)の馬場さんが、大阪へのリニア新幹線誘致を推進し、大阪に万博を誘致すべきだというような趣旨の質問をした。安倍首相はそれに応える形で大阪万博誘を決めたらしい。

確かにイベントの誘致には経済的なメリットがありそうだが、現在の状況をみるとデメリットの方がはるかに大きそうだ。だが、この疑念を系統立てて証明するのはなかなか難しい。

最近、豊洲の問題を見ているのだが、問題の根本には土地開発の失敗があるようだ。都はバブルの崩壊を経験したあと湾岸エリアの開発に失敗し多額の含み損を抱えた。これが表面化するのを恐れ築地の一等地を売ろうとしたようだ。しかし、積極的に高値が付くように動いた形跡はなく「カジノでも作りゃ外国からの観光客がバンバン来るんじゃないの」程度の認識でいるようだ。外国のグループが高値で買ってくれればいいや程度に思っていたのかもしれない。

もともと台場地区は都市博を呼び込んで「民間資金による開発」を目指した経緯がある。青島都知事がこれをストップしたことで計画が頓挫した。

この副作用は甚大だった。もともと築地を中心とし魚食文化は大手流通に押されて崩壊寸前だったようだが、都政はそれを解決できなかった。さらに有毒な土地に拠点を移行することでブランドの崩壊を招くところだった。豊洲に移ってから問題が表面化すれば、日本の魚は放射能と有毒物質に冒されているという評判を得て崩壊していたかもしれない。

海外からカジノが誘致できていたとしても土地を書いとるのは中国企業だろう。中国には売りたくないといえば土地は売れない。つまり計画は早晩潰れていたのではないかと思われる。逆に銀座近くの一等地が中国を「シナ」と蔑視していた石原都知事のもとで中国に明け渡していたかもしれない。

万博の誘致には「もう開発型の経済成長はやめよう」という概念的に反対するのは簡単だ。しかし、現実の政治で見られるのは見通しのずさんさだ。民間事業者は企業の存亡をかけて土地開発を行うわけだが、政治家にも都職員にもそのような必死さはない。そのため計画が極めてずさんなものになる傾向にあるようだ。

信じがたいことだが、日本のエリートたちは集団になると「カジノやイベントなど一般庶民に受けることをやればなんか儲けれるんじゃないの」という程度の認識しか持てなくなるようだ。いわば集団白痴化が起きている。イベントそのものにあるわけではなく、インプリメンテーションにあるということになる。「武士の商売」が問題なのだ。

この武士の商売に対して大阪の経済界には「参加協力を拒否したい」という声が起きているという。東京五輪で学習した住民はこの計画には賛成しないだろう。「コンパクトに収めますよ」という約束は破られることになる。

馬場さんの発言には「含み損の隠蔽」という側面があるのかもしれない。大阪湾岸の開発も失敗しているのだが、何らかの開発計画があれば清算を先延ばしにできるからだ。何か動いているうちは失政が露呈しないので、なんらかの「夢を見せておく」ことが重要なのだ。これも東京やその他の大都市に似ている。つまり、バブルの清算が終わっていないということになる。

おおさか維新(今の政党の名前が思い出せない……)の狙いは、権力の中枢に入り込むまで維新府政の失策を露呈させないためなのかもしれない。

この朝日新聞の記事を読むと大阪府でも「イベントで民間から金を出させて、その後カジノをやろう」という見込みがあるそうだ。東京でも大阪でもこの程度の経済成長計画しか立てられなくなっている。経済界から政治の世界に転身するのは難しいので、民間の知恵が道入できないのかもしれない。職業政治家ばかりにしてしまったつけがここにも表れているようだ。一方、日本は衰退するだけでもはや成長産業をカジノ以外に見つけられなくなっているのではないかという危惧さえ感じられる。