安倍昭恵さんを証人喚問すべきではないと思う理由

前回、安倍昭恵さんにも責任があると書いた。にもかかわらず今回は安倍昭恵さんを国会で証人喚問にかけるべきではないという論を書こうと思う。矛盾しているではないかと思う人もいるかもしれないし、逆張りだと罵しる人も出てくるかもしれない。

今回は女性に対する人権侵害という観点からこれを書く。キーワードは知的纏足である。纏足とは中国で女性が遠くに行けないように足を小さく矯正してしまうという習慣だ。小さな足の女性はセクシーだと思われていたともいう。つまり、か弱く男に頼るしかない女性の方が「きれいで可愛い」という価値体系だ。日本には纏足という習慣はない。しかし代わりに知的纏足というべき悪習があるようだ。

安倍昭恵さんは森永製菓の社長令嬢として生まれた。もともと父親は番頭筋と思われる松崎家の方なのだが母親は創業家の出身なのだという。聖心専門学校の英文科を卒業した後、電通にお勤めして政治家の妻となった。ちなみに森永創業家出身の安倍昭恵さんの母親も聖心(学校の名前が異なる)の英文科を出ているそうだ。

戦前の女性は家の従属物だったので学歴をつけて職業婦人になるというようなコースには乗らなかった。職業婦人は「卑しい家の人」がやることであり、女性は余計な学問など身につけるべきではなく教養だけを見につけるべきだと考えられたのだろう。安倍昭恵さん自体は電通にお勤めしているのだが、これも結婚前の社会見学のようなもので本格的な職業ではなかったはずである。

こうした習慣は戦前の上流階級では当たり前で、特に女性虐待などとは言えなかったはずだ。しかし、その目的はかなりあからさまだ。中国で小さくて自立できない女性が美しいとされたのと同じように、日本では従順で扱いやすい女性の方が美しいと考えられたのだろう。知的に制限されていれば夫に従う他はなく、遠くに逃げられないのだ。

安倍昭恵さんのプロフィールからはいくつかのことがわかる。従順な妻であることを要求されたのだが、政治家の家にとって重要な後継を作らなかった。そして子供ができないことがわかると、それに代替えするように学歴をつけようとした。ところが、その後の活動をみるとどこか怪しげなものが多い。森友学園の問題に関与したという問題の他に様々な活動への関与がネット上で噂になっている。彼女の社会貢献の意欲は本物だったのかもしれないが、それを本気になって指導してやろうという人は誰もいなかったということになる。

加えて夫のお友達と仲良くする間に歪んだ政治観年まで身につけるようになる。今叩かれているのは「野党がバカな質問ばかりする」という書き込みに「いいね」をしたことである。彼女は自分の置かれた立場を理解していないばかりか、何をしでかしてしまったのかまったくわかっていない。結果的に官僚組織に影響を与えて、財務省担当者の命が失われた。この担当職員の妻の立場からみると理不尽な形で夫が奪われた。しかし、それでも安倍昭恵さんには自分の状況ややってしまったことを理解する知的能力がないのである。

政治家の妻として一番期待されていることを果たさなかった代わりに様々なことを試みるのだが、それは奥さんの気まぐれとしか捉えられなかった。つまり、彼女は遠くに行くことができなかったことがわかる。

彼女の証人喚問を要求する人は安倍昭恵さんに明確な国有財産私物化の意図があることを明らかにすることなのだろうが、その期待は裏切られるのではないか。私物化を意図するならばそれなりに知的な能力があり、関与したことについて合理的に認識している必要がある。ところが安倍昭恵さんにはその能力がなさそうだ。つまり、国会に呼び出されたとしても自分がやったことについて分析的には語れないであろう。誘導尋問のような形で叩けばそれなりの言葉を引き出すことはできるかもしれないが、それでは意味がない。

以前、安倍昭恵さんは私人なのか公人なのかという議論があった。しかし、こうしたプロフィールをみる限り彼女はそもそも個人として扱われていなかったし、個人として振舞うだけの知的能力がなかったことがわかる。ある時は松崎家、森永家の従属物であり、またある時は安倍家の付属品として扱われいる。

もし証人喚問するとしたら、安倍昭恵さんがいかに思慮のない女性で、自分の影響がどの程度あるのかということをまったく考慮しないままで行動していたかということを逐一訪ねることになるだろう。そのことでわかるのは自分の影響力について客観的に理解できない浅はかな人間を野放しにしていた夫の責任であり、過剰に忖度を働かせて最終的に職員の死まで招くほど混乱した官僚組織の愚かさだ。三浦瑠麗さんは叩かれていたが「人が死ぬような話」ではなかったはずなのだ。

分析できるほどの理性もなく、周りから真面目に取り合ってももらえない人を広場に連れ出して「罪状」を告白させようとしても、そもそも最初から自分の言葉を奪われている人にそんなことができるはずはない。

戦前には当たり前だったこういう女性のあり方も、現代においてはある種虐待めいた待遇になっている。女性であるというだけで個人が本来持っている可能性を最初から奪われてしまうからである。公的な活動に携わり首相の退陣につなげられるからという理由だけで「個人としての反省を述べよ」などと言ってみても、それは虐待されてきた女性に対する二次的な加害にしかならない

この件の痛ましいところは、彼女が社会的な問題に目を向けて、学校にまで通いそれなりに度量をしてきたという点にあるように思える。だが、なぜ結果的にこんなことになってしまったのか、社会はどういう援助をしてやれるはずだったのかということをもっと真剣に考えてもいいのかもしれないと思う。

結果的には多くの人の人生が狂わされたのだから、責任は生じる。その意味で安倍昭恵さんが全く無謬だとは思わない。しかし、裁かれるのは官僚の人事に首を突っ込み大きな影を作り出した上で妻を放置した夫にあるのであって、安倍昭恵さんを叩いてみてもその本質を変えることはできないだろう。

森友学園問題と安倍昭恵さんの責任

森友学園問題でついに財務省が書き換えを認めた。意外だったのはNHKがこれをかなり攻めて伝えたということである。当初は政権に非難の矛先が向かわないようにすべてを伝えないのではないかと思っていたのだが、実際には逆だった。これがどういう意味を持つかはおいおい考えるとして、まず報道された内容を比較して行こう。

3/12 NHKお昼のニュースは次のように伝えた。

  • 財務省が調査結果を明らかにして、与党幹部に伝えた。
  • 国会に取り上げられた2月以降4月にかけて5件の文書の書き換えを行い、辻褄を合わせるのに他の9件も書き換えた。
  • 森友学園が安倍昭恵さんの名前をあげていた点が削除された。事前の価格交渉を伺わせる記述や本省(理財局)の関与をうかがわせる内容も削除された。
  • 報告書は80ページだった。
  • 森友学園は現地に安倍昭恵さんを案内したことを財務省に伝えており、決済文書にも書かれていた。
  • 今後、参議院と衆議院の委員会の理事懇談会で説明予定

TBSのニュースは次のように伝えていたのだがその内容はNHKよりも控えめになっている。

  • 財務省は与党幹部などに調査結果を報告した。
  • 財務省は決済文書の書き換えを認めた。
  • 安倍昭恵さん・平沼さん・鴻池さんなどの名前が入っている。
  • 決済文書と国会で使った文章に違いがあり14の文書で削除や訂正があった。安倍昭恵さんの名前は「売買とは別の項目」にあった。
  • 書き換えは2017年2月以降だった。
  • 財務省は理財局がやったと見ている。

NHKは明らかに「安倍昭恵さんが関与していたら辞める」という首相答弁と書き換えの関係について言及している。首相の答弁の結果決済文書が書き換えられたのだから、当然総理大臣が関与しているとみんなが漠然と思っているという文脈が織り込まれている。一方、TBSはこれをボカして伝えている。だからTBSのニュースを見ただけでは「2月という時期がなぜ重要なのか」がわからないのだ。

「私や妻が関係していたということになれば、これはもうまさに総理大臣も国会議員も辞めるということははっきり申し上げておきたい」という首相の発言は2017年2月17日の予算委員会で福島委員への答弁だった。この答弁(というよりほとんど不規則発言だが)に合わせる形で理財局の答弁が行われ、それに合わせるためにドキュメントの書き換えが行われていたことになる。NHKはこの疑惑を反復する形で報道を組み立てているのでわかりやすく感じられるわけである。

これについてはいろいろな憶測ができる。安倍首相に法的な責任が及ばないということがわかったので「事実をつまびらかにして良い」という調整がおこなわれた(あるいは調整そのものがなかった)可能性がある。その後、安倍首相のトーンは「理財局が勝手に書き換えを行ったので自分たちの内閣がこれを調査する」と切り替わっているので報道との整合性が取れる。一方、TBSは官邸とはつながっていないだろうから「これを言ってあとから怒鳴り込まれたらどうしよう」と考えて遠慮した可能性がある。

だが、今回考えるのは別の可能性である。「トカゲの尻尾切り」に関する現場の義憤がかなり広範囲に広がっているのではないだろうかというものだ。実は報道現場はかなり異様な状態になっているらしいのだが、その様子が珍しく詳細に伝えられたのである。

実際に麻生財務大臣の記者への受け答えを見た人はわかると思うのだが、現場記者の麻生大臣への怒りは相当なものである。東京新聞だけでなくNHKの記者も名前をあげた上で麻生大臣に食い下がっていた。他にも、麻生財務大臣が東京新聞の記者に「上司に言われてやってるのか」とニヤニヤ笑いながら答える映像がフジテレビで流されていた。これは責任を取らないトップにうんざりしている現場の人なら誰でも反感を持つだろう映像だ。だからこそ東京新聞の記者に向けられた暴言にフジテレビが反応したのかもしれない。

麻生大臣は官僚を自分の従属物のように扱っているだけでなく、たかだか使用人の分際に過ぎないサラリーマン記者ごときが俺様に歯向かうのかという態度で記者会見に臨んでいる。記者達は有権者が政治を監視しているというつもりで乗り込んで行ったのだろうが、麻生大臣にとっては「使用人の集まりが騒いでいるので、俺が言い含めてやった」くらいの意識なのではないかと思うくらいだ。多分「記者と俺とでは身分が違う」と思っているのだろう。これは官僚や記者だけでなくテレビの向こうにいる全ての「使用人たち」を怒らせるのに十分な材料になりそうである。

自民党の憲法草案を見てもわかる通り、彼らは強い選民意識を持っている。民主党に政権が渡ったとき「有権者ごときが俺様に逆らった」という人が多かったのだろう。国民が人権を持つなどという考えは間違っているという怒りを持つ議員が大勢現れた。

今回も「使用人の分際である記者」が「自分たちの使用人である官僚の不始末について」あれこれ言うのが不快なのであろう。幹部の名前は呼び捨てにし、その下で働くノンキャリアについては「名前さえ」知らないと恥ずかしげもなく言及していることからもそれはうかがえる。

これは安倍首相にも通底した考え方であろう。

もし、首相からの明確な指示がなかったとすれば、現場担当者の自殺は安倍総理大臣が安倍昭恵婦人の自分探しを「野放しにしていた」がために官僚が無理を重ねて起きた書き換えである可能性が高い。

仮に明確な指示があったとすれば官僚は書き換えなどすれば法的責任を問われるということを反論できたはずだし、記録に残れば政治責任を問うことができる。しかしながら、明確な指示がなく単に不機嫌になり部下達を使って有形無形の圧力をかけていたとしたらどうだろうか。政治家は少なくとも気分的には何の責任も取らずに居られるのだ。

官邸に接している幹部達は自分の命運が官邸に握られているということをよく知っており、ことによっては部門ごと潰される可能性すらあるということも知っている。そこでいろいろと考えた結果「法律を犯すしかない」として一線を踏み越えた可能性がある。これが「曖昧さ」のもたらす悲劇である。曖昧なほのめかしによる指示は議論を伴わないし、指示命令者の責任も伴わない。

これは裁量労働制として「裁量を与えてやったのだから」過労死しても「勝手に死んだ」というのと同じロジックだ。つまり、首に鎖をつないだままで「好きなところに行っていいよ」と指示して餌を持ってこなかったら斬り殺してしまうということである。

そもそもこの件は安倍昭恵案件であり日本会議案件だ。そこで現場担当者はどうにかしてこれを証拠として残さなければ責任を押しつけられかねないと考えたのだろう。だが、その抵抗は虚しく終わる。

実際に証拠は官邸から握りつぶされ現場が勝手にやったことと判断されかねない状況に陥っていたわけで、現場担当者の予想は正しかったことになる。このままでは自己の正当性が消されかねないと考えたとしても不思議ではない。鎖に繋がれたままで組織から見捨てられようとした彼が世間に訴えるために最後に賭けられるものは一体何だったのかと考えると胸が苦しくなる。

安倍首相が官僚を使用人だと考えているとすればこれまでの安倍首相の反応は全て説明がつく。使用人がご主人様の奥様を恭しく待遇するのは当然のことである。夫人の自分探しという私的なことであったとしても、使用人の分際でぞんざいに扱うことは許されないからだ。

麻生大臣ほどあからさまではないにせよ、安倍総理大臣も自分がやったことを反省していない可能性がある。使用人の分際でご主人様の顔に泥を塗った。これは徹底して糾弾されなければならないと考えるだろう。

もちろん、この感情的な見立てが正しいかどうかはわからないのだが、もし当たっているとしたら安倍首相も麻生財務大臣もこの一連の件に責任を感じることはないだろう。だから全ての抗議運動は無駄だし、民主主義がどうしたと叫んでみても徒労に終わるはずだ。

だが、本当にそれで終わるだろうか。

少なくとも、麻生大臣の一連の記者恫喝発言は様々なシーンで繰り返し使われるようになるだろう。現場で取材をしている記者たちは本社のロボットとして仕事をさせられているわけではない。それぞれの正義感から記者になったはずだ。そういう人たちにとってこの麻生財務大臣の不遜な態度は、全ての現場と自分自身への自己否定に聞こえる。

NHKがどういう気持ちで今回の出来事を伝えたのかはわからないのだが、こうした現場の義憤があったものと思いたい。官邸がこれを抑えようとしてNHK幹部に圧力をかけて報道に介入すればもっとひどい揺り戻しが起こるはずである。

この問題はもちろん法治主義に対する冒涜という線で語られるべきなのだろう。しかし、そこに隠れているのはかつてあった階級社会の残滓が政治を歪め、国有財産の私物化につながったという問題なのかもしれない。

その意味では安倍昭恵さんの罪は思い。彼女は財閥令嬢として生まれ「女は夫に従うべきで余計な教養を持つべきではない」とお嬢様学校に入れられる。そして世間を知らないまま結婚し、私の人生はこんなはずではなかったと様々な活動に首をつっこむ。夫が「ちょっとした可愛い妻のわがまま」だと考えて放置しているうちに影響が広がる。夫は明確な指示も与えず、かといって自分が放置した責任も取らない。そこで周囲が慌てだして最後には追い詰められて死者が出たという構図である。

社会的な問題に関心を持つのは悪いことではない。しかし、そのためには自分が何をしているのかということを客観的に捉える必要がある。彼女にその能力がないのなら周りがサポートしてやるべきだった。しかし、自分の立場が危うくなることを恐れた周りの人は誰一人そうしなかったのだろう。安倍昭恵さんの罪が重かったのと同等かそれ以上に周りの人たちにも大きな責任があると言える。

森友問題が朝鮮半島情勢を悪化させる?

週末はあまり森友学園関連の状況は動かないだろうと思うので、興味深いと思っていることを書く。それは日本の政府関係者とアメリカのトランプ大統領の関係である。

朝一番に、西田昌司参議院議員がテレビ出演しているのを見た。Twitterで人権無視の発言が広く拡散されている人なので、どういうバックグラウンドの人なのだろうかと思った。もともと政治家の二世だったが、地元を引き継いだわけではなかったようで、2006年に自民党の公募に「安倍首相に考え方が近い」と応募したという経歴のかたなのだそうだ。大学は東京の大学ではない。彼が展開していたのは「財務省が」という議論だった。これまで村落的な議論を見てきたので、この人が村落の人間関係を問題にしていることが分かる。だがその感性は極めてネトウヨ的だ。

そもそも森友学園問題は政権を擁護するために財務省の幹部が地方組織に圧力をかけたという構図が固まりつつあり、擁護の議論は無理筋になりつつある。それでも他の議員や県知事を経験した指揮者などは、安倍首相の個人的な問題ではなく、民主主義のプロセスや森友学園問題で特別な配慮がなされたことに関心があるようだった。ところが西田議員がが問題にしているのは「誰が」やったかという点にある。

ここから、西田さんに代表されるネトウヨの人たちは「誰が」ということに強い関心を寄せる人たちなのだということが分かる。主語に興味がある人たちなのである。それは「誰が言ったか」によって「何を」の評価が変わってしまうということを意味している。

西田さんはもちろん「財務省が」ということを強調していた。財務省がやったという印象さえつけば政権が守れると考えていることになる。これはいろいろと興味深い。今回の出来事は人が一人亡くなっている刑事事件である。この背景には実際に作業をした人と管理をした人という関係性がある。この関係性を分析しないと事件の全容は見えない。

ところが、ネトウヨの人たちは「我々」の範囲を操作することによって責任を逃れようとしている。ここからネトウヨと呼ばれる人たちの本質が見えてくる。彼らは「誰が」が問題であり、なおかつその「誰」の範囲を操作することによって物事の評価が変わり得ると考えていることになる。それは「我々」が「私」の評価に関わっているからである。

ネトウヨは保守を自認しているのだが、保守とは正統性を意味しているのだろう。誰がということが問題にはなるのだが、何がは問題にならない。だからネトウヨの考える歴史や伝統にはデタラメなものが多い。神話を前提に話をしても自分がいい気もちになれれば一向に構わないのだろう。

ネトウヨが法治主義に我慢ができないのは当たり前だ。法治主義とは誰がやっても同じ結果が出ることを前提に作られた制度だからだ。しかし、これでは「いつも自分をいいものがわ」に置けなくなってしまう。善し悪しの判断は最後まで保留されていなければならない。そこで憲法に例外措置を作ったり、その場で適切に判断すると主張してみたりといった支離滅裂な主張を繰り返すのだろう。

確かにこのやり方には利点もある。自分の利益について一番よく知っているのは自分たちなのだから、固定的な環境では柔軟に対応ができる。ここでお互いの利害が相反するようになれば何らかの形で均衡が図られるだろう。利害も領域も動かないのだからこうして何らかの安定した状態が得られる。

ただし、伝統的な村落は条件の制約も受ける。例えば村に農民と侍がいるとする。農民を殺してしまえば自分たちで畑を耕さなければならないのだし、数では負けるのだからある程度彼らを処遇しなければならない。つまり、疲弊するまで支配することはできないのである。

ところがネトウヨはこうした制約条件を持っていない。そこで普段は自分たちは農民を支配する正統な支配者であると主張しつつ、何か問題があった時には農民だけ切り捨ててしまえば良いのである。同じような状況は企業にも生じている。農民がいくらでも調達できるのだとしたら使いたい時だけ使えるようにすれば良いと考えるのであろう。

だが、この考え方は間違っている。農民は決して地面から生えてくるわけではない。農閑期に追い出してしまえばいなくなってしまう。これを養う主体というものを社会で作らなければ農民はいなくなってしまうだろう。現在の企業は労働者の育成と再生産を「国に押し付けている」のだが、結局これは自分たちの首を自分で絞めていることになる。荒れ果てた土地を自分たちで耕作するか放棄させられることになるだろう。

ここまでいささか乱暴な議論でネトウヨというのは自分たちが常に正しいという前提に立って物事を解釈し、なおかつ自分たちの範囲を調整しているということがわかった。このため彼らは権威を利用しようとする。戦後世界において権威を担っているのは天皇とアメリカであり、場合によってこれを使い分けている。権威にすがるためなら自分の所有物を差し出すことも厭わないだろう。政府の徴税権も国有地も結局は自分のために利用できる道具にすぎないし、官僚ですら自分たちが正しいということを証明するための道具である。例えば私たちはペンを文字を描く道具として利用する。そしてインクが出なければ捨ててしまう。そこに罪悪感はない。安倍首相にとって官僚組織というのはペンと同じなのかもしれない。そのインクは自分を讃えるための文字だけを書く道具にすぎないのである。

ところがトランプ大統領は全く違った行動原理で動いている。彼もまた「自分が正しくなければならない」と考えているのだが、その証明の仕方が全く異なっているのである。

トランプ大統領がよく口にする言葉にdealがある。日本語では取引と訳される。そしてその取引を成功させ続けることが自己の証明になっているのだ。つまりトランプ大統領は主語を問題にしているのではなく、動作が問題になっているということになる。動詞(取引する)が正しい時、主語もまた正しいのである。

世界はかなり単純にできていて「相手から何かを勝ち取ればそれは良いこと」になり「相手が何かを勝ち取ればそれは悪いこと」である。そして彼が「良い人」でいるためにはつねに勝ち続けなければならない。

このためトランプ大統領は常に取引に勝ち続けなければならない。そのためだったら何だってする。自分が使えるものは(たとえ自分のものでなくても)使うだろう。そして勝っていなくても勝ったと主張するだろう。

トランプ大統領にとって選挙戦は巨大な取引だった。そのために約束をしてしまったのだから戦果を上げ続けなければならない。だから、トランプ大統領は北朝鮮と勝負したがっている。状況を動かすためなら北朝鮮に乗り込んでいって勝負をすることなどなんとも思わないだろうし、そのためには何だって使うだろう。

ここでいう取引はすでに「カジノ」のような状態になっている。これが自分のスタッフ抜きに北朝鮮との取引を決めた背景にあるのではないかと考えられる。つまり、みんなが止めるにもかかわらずそこに賭場があれば出かけて行ってホテルの部屋にあるものを根こそぎ賭けてしまうのだ。

トランプ大統領は、勝負に勝つためなら日本を「我々」に含めることもあるのかもしれないが、それは関係性に考量しているからではなく、単に勝負に勝つための方便でしかない。その証拠に関税を上げて「取引に応じるなら減免してやってもよい」などと同盟国に揺さぶりをかけており、その対象国の中に日本が入っている。取引を仕掛けて揺さぶりをかけているのだから罪悪感を感じても良さそうだが、実際にはこんなTweetをしている。外交安全保障と経済がごっちゃになっていることがわかる。

この状況が危険なのは安倍政権側が自己を正当化するためにアメリカを今すぐに必要としているということだろう。カジノに夢中になっている人のところに出かけて行き自分の保証人になってくれと要求している。ところが相手は次の賭けに夢中になっており、この勝負がいかにすばらしく、その勝負に立ち向かう自分がいかに英雄的なのかを一方的に話す。そして最後に賭けに勝つためにはお金がいるのだが、あんたは俺を男にするためにいくら出してくれるのかと持ちかけるわけである。

北朝鮮情勢での対応を一歩間違えれば多くの人命が失われるだろう。確かにムンジェイン大統領のやり方は冴えているとも思えないし、他にやり方はなかったのか、弱腰ではないのかとも思いたくなる。しかし、韓国は朝鮮半島情勢からは逃げられない。その一方で、日本とアメリカはそれぞれの懸案に夢中になっているようだ。特に安倍晋三という人は人が一人なくなっているのに「自分に累が及ばないようにするためにはどうしたらいいか」ということにばかり関心が向いているようだ。

つまり、今回の森友問題は朝鮮半島情勢と奇妙にリンクしていて、場合によっては事態を危険な方向に向かわせる可能性があるということになる。普段なら外務省を通じて「対応を当たらせる」だけかもしれない官邸が外交に首をつっこむと事態はさらに混乱するだろう。