二律背反的な考え方から抜け出す

前回の議論では、内部留保(戦後に貯め込んだ企業の儲け)を資本家に渡すべきか、従業員に戻すべきかという問題が一つの争点になっていた。資本家に渡っても、それが職場を作れば従業員に還元されるはずなのだが、現実にはそうなっていない。その上、従業員は正規から非正規へというのが一つの流れになっている。さらには経済状態が悪くなると、即リストラだ。
こうした動きが広がっているのは、株価を維持するためには、リストラをやった方がいいという「常識」が存在するからだ。この流れはまず雇用が流動的なアメリカで広がり、1990年代の半ばに日本に輸入された。しかし、もしもこの常識が本当でないとしたらどうだろうか。
どうやら今週の日本語版には載っていないのだが、国際版のニューズウィークの表紙は「レイオフをレイオフ」だった。英語の記事を読むのは気が重いが、なんとかやってみる。作者はJeffrey Pfefferという人。スタンフォードの教授で、ボブ・サットンとの共著があると書いてある。
Pfefferは、レイオフは株価を上げないし、生産性も下がるのだということをいろいろな統計を持ち出して説明する。その上、常識とは違って直接のコストカット効果もないそうだ。よく言われているように、リストラが行なわれると、辞めてほしくない人から辞めてゆくからで、その人を雇い直す場合も多いのだという。もちろん、残った人たちも「いつ辞めさせられるか」という事を悩むようになるから士気が下がるし、職場のモラルも低下する。この結果、コストが改善しないのだ。
日本はこのレイオフを「リストラ」として輸入したのだが、フランスはそうしなかった。その結果、日本はいつまでも不景気から抜けさせずフランスは回復した。フランス人は「自分たちは辞めさせられないだろう」という自信があるので、消費を手控えなかったそうだ。
このようにいくつもの「レイオフは株主にもよい影響を与えない」ということが分かっているのに、どうして経営幹部はリストラに走るのか。Pfefferは、企業が上場するときに、周りの人たちから「他の企業もやっていますよ」とアドバイスされるからではないかと考えているようだ。記事では上場の時のアンダーライターから、上場前にやっておく事の1つとして、会社をスリムにしろと言われた企業経営者の例を挙がっている。
さて、このことを日本に当てはめてゆくわけだが、記事の冒頭に気になる記述がある。縮小する業界(例として挙っているのはアメリカの新聞産業だ)ではリストラやむなしとされているところだ。これを考慮に入れて考えるといくつかの事が分かる。

  • アメリカの場合には、様々な企業がいろいろなアプローチで経営を行なっている。故に統計的に有為な差が付くのかもしれない。しかし、横並びの日本ではどうだろうか?
  • 国全体が沈み込んでいて、全てが「アメリカの新聞産業」のような状態に陥っているとすると、リストラが多い状態はやむを得ないのではないか?
  • そもそも、どちらの陣営にも属さずに「事実」を見つけてきて議論をしている人たちがどれくらいいるだろうか?

どちらかの陣営に属している人たちは、対立をあおっている間は彼らのシゴトが成り立つような構造に置かれているので、本質的に問題解決には寄与できない。そもそも自分の主張と違っている事実が見つかった場合にはそれを解釈するか隠してしまうことになる。多分、大学教授という立場が貴重なのは「中立」だからなのだろう。
山から小川が流れている。川のそばには村がある。まず上流の人たちが水を汚さないようにして水を使う。それから下流に流れてゆく。時々水利権の問題でいざこざが起きるがなんとなく解決しながらやってきた。しかし、下流に水が流れてこなくなった。下流の村の人たちは上流に文句を言う。上流には水があるようだ。しかし彼らに聞くと「時々水が流れてこなくなるからイザという時の為に取ってある」と言われた。この場合解決策は水の分配ではない。不安定化している水源をなんとかしなければならないだろう。もう水がないのだったら、水の豊富な場所に移住しなければならないかもしれない。水を使わない生活にシフトする人たちも出てくるだろう。
もし下流のコミュニティが上流とは全く関係がないのだったら、下流の人たちを閉め出してしまえばいい。しかし、上流の人々が下流の人々の労働力に支えられた生活をしている場合にはどうだろうか。上流の人たちは下流のやつらは文句ばかりいうから、よそから人を連れて来て何年か働かせればいいよと言い出すかもしれない。でも、その人たちもこの地域に馴染めば同じような権利を主張するに違いない。本質的な解決策にはならない。そのときには、水源の水はもっと細っているかもしれないのに、だ。
また、自由競争にもいろいろな質があることが分かる。下流の村に住んでいる人達が、上流に自由に移り住むことができれば、それは「自由競争」がうまく機能していることになる。しかし、実際には下流の人たちは上流に移り住む事はできない。また、上流の人たちが水をたくさん使えるのは、たまたま標高が高いところに住んでいるから、かもしれない。
水がないところでは水を巡る争いが起こる。同様に、チャンスがないところにはチャンスを巡る争いが起こる。でも、本当の問題は「誰が最初に持ってゆくか」ではなく、何が枯渇してきているかを探るところだと思うのである。二律背反的な議論からは解決策は生まれないのだ。

トヨタとソーシャルメディア

1996年、勤めていた会社の人がうれしそうにやってきて、新しいホンダの車を見せてやると言った。もちろん僕が日本人だからだ。会社の周りを一回りして「どうだ、静かだろう」という。僕は正直当惑した。日本人の僕にとって、車が静かなのは当たりまえだったからだ。アメリカ人にとって、日本車を持つというのは自慢のタネだった。という事で、トヨタがこの何ヶ月で吹き飛ばしたものの重みは大きいようだ。
Newsweek ( ニューズウィーク日本版 ) 2010年 2/17号 [雑誌]の今週号にトヨタの一連の対応についての記事が載っている。ことの発端はアクセルを踏み込んだ状態になり、車が止まらなくなってしまったことだった。ディラーに持って行ったところ「問題が見つからなかった」ということになってしまう。こうした事態が全米で起こり、今では19名が亡くなったという数字が一人歩きするまでになってしまう。この後日本で今問題になっている、ソフトウェアの「問題」が起こった。プリウスのブレーキの設定によりちょっとした誤差が発生する。
ずれは1秒にも満たない。ソフトウェアは修正すればいいようだし、深刻な問題ではない。トヨタによって不運だったのは、このソフトウェアの問題とアクセルの件が結びつけられてしまったことだった。例によってこの件についてLinkedinで聞いたのだが「最初はアメリカ人(と、その部品)のせいにしようとしたのだが、ソフトウェアの問題だということが分かった」と指摘する人がいた。雨だれ式にいろいろな情報が出てくることによって、事態が混乱してしまったようだ。この人は、アメリカ人の現地社長が引っ込んでしまって、日本人が出て来た事も気に入らないようだ。
トヨタがこういう事態に陥ったのは、皮肉にもこれまでこうした問題が起こらなかったからのようだ。トヨタの安全神話は完璧だった。神話が裏切られると怒りに変わるというのは、何も日本人に限ったことではない。「あのトヨタが」というのが今回の事態をややこしくしている。また、こうした問題が起きなかったことで、社内には連絡体制や対応マニュアルがなかったのかもしれない。するとちょっとした情報が経営陣に伝わりにくくなる。
問題の根本にあるのは2つのコミュニケーション上の問題だ。一つは「外国人とのコミュニケーション」であり、もう一方は「ソフトウェアエンジニアとの擦り合わせ」の問題だ。Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2010年 01月号 [雑誌]は最近大野耐一論をやっている。大野さんはトヨタの品質第一主義を語る上でグルとも言える人物だ。記事の中で、大野さんは問題が見つかってもそれを現場のマネージャに指摘しなかったという逸話が出てくる。大野さんはチョークで線を引く。そして、現場のマネージャに一日ここで現場を見ているようにと指導したのだそうだ。現場のマネージャは自分で考えることによって問題を発見し「成長」する。こうした地道な努力によって、社内に自分たちでカイゼン運動を推進してゆく文化が作られた。
こうした「言わなくても分かる」文化はモノ作りの現場で同じ文化を共有するマネージャには有効だったことだろう。これは言い換えると暗黙知を暗黙知のまま伝えてゆくやり方だ。このコミュニケーションのスムーズさが、日本の産業界の強みになっている。これを裏返すと日本が何に乗り遅れてしまったのかが分かる。
日本の自動車エンジニアは半ば自嘲気味に「内燃機関を使った車より電気自動車の方が仕組みが簡単なのだ」ということがある。「だから誰でも作れるだろう」というわけだ。確かに駆動系はそうなのかもしれないが、トヨタの件で分かったことは、車が走るコンピュータになりつつあるということだ。バグのないプログラムは考えられない。ブラウザーやワープロならクラッシュしてデータがなくなるだけですむが、車の場合にはそうは行かない。
コンピュータプログラムを作っている現場で大野さんのやり方を採用することはできない。一日見ていてもキーボードを叩く音が聞こえてくるだけだ。確認するためにはテストが必要だ。テストは順を追って行なう必要がある。ちいさな部品で問題が起きないことを確認したら、それを組み合わせてテストを行なう。最初の段階を「完璧」にしておかないと、どこに問題があるのかが分からなくなってしまう。分からなくなったら、最初からやり直しだ。ひどいときには改行コードや空白といった「見えない文字」が問題を起こしている場合すらある。つまり見ても分からないわけだ。プログラミングの現場では一人ひとりが自己管理できるかどうかが重要だ。逆に天才プログラマが作ったプログラムも問題を引き起こす。後で開いてみても分からなかったりする。
同じことが外国人とのコミュニケーション上にも問題を引き起こす。ある文化圏では「暗黙知」を使った指導が「日本人以外にチャンスを与えない」という印象を与えることがある。日本人はこれを見て「いちいち口に出さないと何も分かってくれない。怠けているに違いない」と考える場合がある。トヨタはアメリカでの生産に熟達しており、この問題は克服しているものと思われていた。しかし、実際に問題は起きた。そして、問題が起きると「アメリカ人のプライド」にまでエスカレートする場合がある。これは東洋と西洋の間に起こる問題とは言い切れないようだ。ダイムラー・クライスラーの場合はドイツとアメリカの経営陣・従業員の間にコンフリクトがあったのだとも言われている。お互いに学ばないことで溝が埋まらないというわけだ。ニューズウィークにはGMを抜いてアメリカ1の自動車メーカーになってしまったことと結びつける分析があった。
さて、トヨタにとって今状況は「燃えている」と言ってよい。こうした中で、積極的に識者のブログに投稿したりソーシャルメディアのコミュニティに投稿すべきだという記事もニューズウィークに掲載されている。火事の最中に燃えている家に突っ込むようにも思えるだが、本当にこれは得策なのだろうか。ここにも「透明性」と「開放性」(英語ではオープンネス)を重んじるアメリカの文化的な背景があるようだ。Linedinは「トヨタは正直でなかったし、死者まで出ているのに、もうソーシャルメディアなんてどうでもいい」という人もいるのだが、やはり正直に「できる事をやるのだ」という宣言をこうしたメディアでも行なった方がいいという人もいる。
ソーシャルメディアというとTwitterを思い出す人が多いと思うが、ここでソーシャル・メディアを使えというのは、「Twitterを使って、安全性をささやけ」ということではない。心配や疑心暗鬼でいっぱいになっているブログライターやコミュニティに参加して「トヨタは安全だし、顧客に聞く姿勢を持っている」ということを直接表現しろということのようだ。とはいえ、普段からこうしたメディアの動向に詳しくないと、いざというときにどういうメッセージをどういうトーンで伝えればいいかということは分からないかもしれない。例えばメディアに「コピペ文」でメッセージを送りつけると状況は悪化してしまうだろう。
ソーシャルメディアの誕生とともに、ウェブを使ったマーケティングは「広告」から「PR」へと広がりつつある。ソーシャルメディアを使ったコミュニケーションは文字情報が中心だ。暗黙的なメッセージは伝わりにくい。「言わなくても分かる」文化からの脱却は日本人が得意とするところではない。また、伝統的には、出入りの業者(新聞記者とか雑誌記者を業者と呼ぶのは恐縮なのだが)に情報を流し、あとは「よしなに」とお願いするのが日本流だった。これは記者クラブ制度を見てもよく分かる。ウェブを業者に任せている企業は、こうしたメッセージを代理店を通さずに伝えるチャネルを持っていないかもしれない。PRが広告と違う点は、普段からのプレゼンス(日本語でいうところの「おつきあい」)の重要性だ。
トヨタに限らず日本企業は言わずもがなですませてきたコミュニケーションを言語化する必要があるだろう。

アルマーニの起源

アルマーニについて見てみよう。今ではバブルの代名詞として知られている。アルマーニだが、成功したのは新しい市場の開拓に成功したからなのだ。信じられないかもしれないが、その成功はどこかユニクロの成功に似ていて、違っているところもある。テキストとして使ったのはジョルジオ アルマーニ 帝王の美学だ。

ジョルジョ・アルマーニは、1975年に自身の会社を興す前に、デパートで働いていた。かつて西武パルコがそうだったように、ミラノの街が外国からの文化を受容する窓口になっていたようだ。同じ時期1967年にファッション雑誌『ウォモ・ボーグ』が誕生した。全てに前例がないので自分たちで作り上げる余地が多分にあったのだという。

アルマーニはその後、セルッティの元で働くようになり、ファッションの基礎を学んだ。そして1975年にゲイのパートナーでもあったガレオッティ(後に40歳の若さでエイズで亡くなる)に促され自身のブランドを立ち上げた。アルマーニ自身は意外な事に針の持ち方を知らないそうだ。つまり彼はテイラー出身ではなかった。リテイラー出身なので「街で何が流行っているか」ということを形にするのが彼の役割なのだ。イタリアにはこうした職業は存在しなかった。後にこういう人たちは「デザイナー」と呼ばれることになる。

アルマーニの特徴は、スーツから彼が余分だと考えるものを除いてゆく「脱構築的」な考え方と曲線を多用したパターンだ。これが体の線を活かした独特なラインを生む。しかし、保守的な人たちの間では1970年代にはオイルショックによる不況もあり、こうした新しいラインは受け入れられなかった。アルマーニを着ていたのは主に俳優やアーティストといった人たちだ。

彼の服はアメリカに渡った。高級デパートで扱われるようになり、1970年代の終わりまでには俳優達が着るようになった。そして1980年のアメリカン・ジゴロでリチャード・ギアが着たことで世界的に知られるようになった。この図式は面白い。アルマーニはしつらえの高級服に手がとどかなった人たち向けに作られている。セレブしか入る事ができないパーティーや映画を通じて「高級感」をアピールしつつも、一般の人たち向けに作られた服なのだ。この「憧れ」がアルマーニの人気の秘密になっている。「憧れ」が続く間、このブランドの人気は保たれるだろう。裏返せば、憧れが消えたとき、ブランドの寿命も終わってしまうことになる。憧れを作っているのは「情報の格差」である。なので、彼らは情報をコントロールしようとする。

アルマーニは確かに高級品なのだが、既製品であることには変わりはない。ハンドメイドの工業製品なのだ。ピエール・カルダンらがこうしたジャンル – プレタポルテ – を作るまでは、服には一般庶民向けの服か、テイラーが作る高級服しかなかった。つまり、プレタポルテの位置づけは新しい「ニッチ」だったわけである。そしてこういったニッチに飛びついたのは、アーティスト、俳優といった人たちであり、この人たちが後にトレンドセッターとなることで、普通の人たちまでがプレタポルテの服を着るようになった。アルマーニは自分の服は飾るための高級品ではなく、シゴトをする人が着るための服だと言っている。(これについては実際に、お店の人にいろいろ聞いてみよう。本当にアルマーニはシゴト服として使えるだろうか?)

新しいニッチの創出が成功に結びついたのは、ユニクロも同じだ。ユニクロの服はパターン化された工業製品だ。かつて、ファッション業界にはこういった考え方はなかった。全ての製品が多様化・個性化に向かう中で、ユニクロだけが部品化・機能化を指向したのだろう。色も形も単純で比較がしやすい。そして「暖かい繊維」といった売り方は電化製品のそれに近い。デザインが多様化してくるとこんどは逆に「何を選ぶのが正解なのか」が分からなくなる。つまりこちらは、情報が多様化し、どこまでも伝わるようになった時代にあったポジションを獲得しているのだ。スペックはニュアンスよりも伝わりやすいのだ。

ファッション雑誌は(雑誌については別の独立したエントリーをつくろうと思っているのだが)新しいデザインを売るためにそれぞれのメッセージを発信する。すると全体としては混乱したメッセージがつくられ、訳が分からなくなってしまう。ユニクロが解決しているのは「一般庶民にも分かりやすいおしゃれさ」だ。ここに、みんなユニクロを着ているという第三者のメッセージや家族の情報が加わることで、ユニクロが正解なのだと思わせるような空気が生まれたのだと思われる。
ユニクロを見ていて面白いなと思うのはこうしたニッチが意図して作られた訳ではないという点だ。多分正しく認知もされていないし、柳井さん自身もこういう認識はしていないのではないかと思われる。その証拠にユニクロはジル・サンダーと組んだ服を作ったり、アーティストと組んだTシャツなどを発表したりすることがある。マーケティングとしては面白そうだ。

さて、ユニクロは最初から工場から流通・マーケティングまでを一環してカバーしているが、アルマーニはそのようなやり方を取らなかった。最初はGFTという会社を通じて流通を行なう。SIMのような会社と提携して品物をつくってもらっていた。そしてライセンスという比較的新しいやり方を通じて、各地のデパートに品物を卸していた。成長するに従って、アルマーニはいくつかの拡張戦略を取る。一つはこうした流通や製造の過程を自前化することだ。ジーンズやカジュアルラインを作っているSIM(現在はSIMINT社)は、1989年に20%の株式をアルマーニ社に取得され、1994年までには90%以上の株式がアルマーニに保有されている。日本にアルマーニを持ち込んだのは伊藤忠商事だった。主にデパートで売られていたのだが、直営のショップが出来始め2000年代に入ると銀座にアルマーニタワーが作られた。

もう一つの成長戦略がラインの拡張だ。イタリア軍人に服を着てアマチュアモデルになって貰ったことから軍服などにインスパイアされエンポリオ・アルマーニが作られる。ビジネスマン向けにコレッツィオーネが出来る。そして若年向けにアルマーニ・ジーンズや、A|Xといったブランドが立ち上げられた。最後には、ホテル、スパ、家具などと多角化路線を突き進んでいる。

ユニクロが柳井正さんの強烈なリーダーシップによって支えられているように、アルマーニも、パートナーの死後はジョルジョ一人が支えている。評伝には彼の「病的」ともいえるコントロールについての記述がある。ファッションショーに使われる素材はすべて本社から送られ、全ての最終判断はジョルジョが行なう。コンセプトはジョルジョの頭の中にしかないのだ。部下を叱責する姿は、例えばアップル社のスティーブ・ジョブズを思わせる。部下は完全に「手足」となることが期待されるのだ。つまりこれは同時に彼らが死んだ後、ブランドの行く末に問題を抱えているということになる。

さて、情報という観点からまとめてみよう。アルマーニのようなデザイナーズブランドは、選ばれた人たちの物でしかなかった情報を小出しに一般に流出させることで裁定取引(アービトラージ)の機会を作り出していた。しかしユニクロはアービトラージがなく、かつ情報の取捨選択が難しい状況で選ばれやすい服を市場に提供している。背景には情報価値の暴落(情報のデフレ)がある。だからユニクロを模倣したい企業は、その安さを分析するのではなく、企業がどのような情報環境でどんな情報を提供しているのかを分析すべきだろう。

ISTJ, ISTP

ISTJ

義務を果たす人。手許のメモにはファイナンシャル・オーディターと書いてある。多分、法律や会計上の規則といった「こうでなくてはいけない」ということに対して忠実だからだろう。現実的で頼りがいのあるタイプだ。一度、こうすべきだと決めたら、抗議されてもいっこうに自分を曲げないのだそうだ。

ちなみに勝間和代さんの本を立ち読みしたら(Twitterで、この人がMBTIを紹介しているということを知ったので)勝間さんは30歳のときにESTJだという結果が出たのだそうだ。ESTJもプロジェクト・マネージャータイプだそうなので、決まったゴールに向けて自分の資産を活用してゆく資質のある人なのだろう。

こういうタイプの人たちは、一度「こうだ」ということが決まると、そこに向けて邁進するきらいがある。世の中が勝間さんみたいな人たちばかりになると、大きなゴールは決められないのに、現場には精密な機械のような人たちがあふれているような社会ができ上がるだろう。多分、そこがあの人の本の弱点になっているのではないだろうかと思った。逆に勝間さんの本が売れるのは、日本にはリーダータイプの人が少ない一方、フォロワーや中間マネージャの役割を期待されている人が多いということだろう。「S型」の人たちは具体的な情報を好む。大局(マクロ)でものを見ようと思うとN型の直感力が必要になってくるはずだ。「大企業の男性正社員」は、この大きい視野を持つ事をある意味強制されることになる。うまくこうした視野を作る事ができればリーダーになれるだろう。これは生得的に男性がリーダーにむいているということではない。社会のフィルタリングによってこうした傾向が生み出されるということだ。いわゆるジェンダーの問題だ。一方、そうした役割を期待されていなかった女性は自分たちでこうした視点を獲得することがあるだろう。

大前研一さんのような一部のスターパートナーを除いて、マッキンゼーのマネージャーが「大局的」な視野を持つように強制されることはあまりないと思う。マッキンゼーだけでなく、外資系にはこうした人たちが多いのではないだろうか。必要なのはプロジェクト管理能力や効率といった知識だ。Nの人たちがこうしたSの知恵を見ると、「戦術的だ」と思うに違いない。しかしSの人たちにとっては戦術が全てなのである。こうした戦術を総動員して効率的に生き抜くことが戦略になっているのである。

私はこうした違いは、デザインの現場でも出てくると思う。たいていのウェブサイト制作会社ではフレームワークを作る人と実際のデザインを作る人が別れているはずである。フレームワークを作る人たちをインフォメーション・アーキテクトと呼ぶ人もいる。デザイナーが大局的な視野を持つようになると、アート・ディレクターと呼ばれるようになる。しかしこの人たちは全ての成果物に対して細かな指示を与えつつ、全体の統一感を守ることを「大局的」と考えるだろう。フレームワークを作る人たちはコンセプトや全体の位置づけを骨組みで捉えており、細かなディテールにはあまり意味がないのである。

ISTP

さてこの世界では「効率」という問題が関心を集めるようだ。ISTPはムダなことはしないタイプなのだという。しかしJがPに変わってしまっているので、「unexpected flashes of or original humor」という記述がある。英語で書くと優しいが、要は時々独りよがりのユーモアがわき出してくるということだろう。Iなので「何が面白いのかさっぱり分からない」ということも多いのではないだろうか。機械のようなものに興味があり、新しいことはとりあえず試してみたくなるということだ。Wikipediaには俳優の名前が何人か出てくる。

このわき出してくるようなユーモアというところにI(内向性)を理解する鍵があるように思える。つまり行動の動機が外側(例えばテレビを見た)からではなく、内側(何か面白いことを思いついた)からわき上がってくるということだ。このIPという組み合わせは、外からの刺激によって行動するE型の人や、常識で判断するJ型の人には堪え難いことに違いない。こうした「理解できない」という気持ちがコミュニケーション上の摩擦を生み出す。

勝間さんの本に戻る。現場マネージャータイプの人に必要なのはもしかしたら「自分の出世や生き残り」の為に自分がどういったタイプであるという現状認識があれば十分なのかもしれない。しかし、もう少し大きな組織のリーダーになるためには、いろいろな特性のバリエーションがどのような表現形となってあらわれるかを研究する必要があるだろう。EJの人たちがIPの人たちの理解に苦しむようにちょっとした形の変化がコミュニケーションの問題を引き起こすからだ。

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ISFJ, ISFP

ISFJ

WikipediaでMBTIごとの有名人というセクションがある。見ていて、うーんと思った。実際にテストを受けていない人もいるわけで、どうやってタイプ分けしたんでしょうね。さてさて…このISFJにあたる有名人の記述がないんですよね。

静かなタイプなのだが、かなり現状維持型の保守的なタイプらしい。SでJなのだから当たり前とも言える。この人がいるとプロジェクトは安定性が増すだろう。Fなので人の気持ちは分かるはず。注意書きがある。「細かい事(テクニカルな)主題」について注意を払う事と書いてある。これ細かいと訳すか、技術的なと訳すかでかなりニュアンスが変わってきそうだが、TでもNでもないので技術的で細かいことは分からないだろうということは容易に理解できる。

ISFP

引き蘢った感じで、自分の意見を押し付けたりはしないタイプだそうだ。リーダーとはならず、フォロワーであることが多い。今を楽しむタイプで、必要もなく張り切ってシゴトを終わらせようという意欲はないそうだ。

つかみ所ないなあ。ここらへんも「典型的な日本人」っぽいのだが、外向性なのに表面的にこうした人のフリをしているタイプも多いのだろうな、とは思う。逆に内向性だったのに、周囲の期待からリーダーに祭り上げられたりすることもあるだろう。特に調和を重んじる日本社会ではありそうなことだ。

こうした場合やり方は2つある。1つは新しい役割に向けた価値観を獲得する事。もう一つは自分の役割を知っていて、それにあった環境を準備することだ。今どういう性格特性を持っているかということと、これからどうなるかということは必ずしも同じではない。そのためには今の自分の位置は知っておいた方がいい。

もう一つ重要なのは、チームがリーダーだけで成り立っているわけではないということだ。終身雇用制はまがりなりにもこういったチームを作るための枠組みを準備してきた。それは特性や役割によって損をする人ができないようにすることと、長期的に利害を調整する仕組みだった。やがて全ての人に利益を分配できなくなると、この枠組みが崩れてゆく。どういう性格特性の人たちが非正規化したのかは分からないが、1/3が非正規という現実を見るとある特性があるに違いない。しかし、だからといって非正規化しないような性格特性を目指そうというのは間違っている。例えば黙ってルーチンワークをこなす人たちが非正規化したと仮定し、プレゼンテーションが得意な外向型と現実を重視する調整型が正規として残ったと仮定してみる。しかし、プレゼンテーションと調整だけで現場が回るわけではない。

プレイヤーとして参加する人たちは、自分の性格特性を読み解くとよいだろう。しかしリーダーになりたいと思ったら、それだけでは不十分で、いろいろな性格特性を知る事が大切だろう。

INFJ, INFP

INFJ

忍耐強く、望まれていることを成し遂げるタイプ。努力を惜しまない。静かで、他人のことを慮る。公共のために強い信念を持って行動する。なにやら、日本人の美徳が詰まったようなタイプ。I型なので、いろいろうるさく話をしたりはしない「不言実行型」。なぜ、TがF(感覚型)に変わっただけで集団で望まれるタイプになるのかは分からないが、昨日のINTJに比べると扱いやすそうだ。

ここに日本の社会が持つ強みと弱みがあるように思える。Jは現実重視型なようなので、新しい知識や概念にはあまり関心を持たないはずだ。変化が少ない場合にはこれでよいのだろうが、変化が大きい社会では問題が出てくる。しかも思考でなく感情で物事を捉えるので「なぜ、こういうことが起こったのか」ということはよく分からない。加えてIであまり多くを話さないので、お互いが何を考えているのかが分からなくなってしまい、社会不安を引き起こすのではないか。暗黙でも伝わるためには経験などを共有する必要があり、多様な他者が集まる場所では居心地が悪く感じる可能性があるかもしれない。

INFP


熱意と忠誠心に満ちているのだが、お互いを良く知るまではあまり話さない。学習、アイディア、言語(概念的なものに関心を示すのはP型だからなのだろう)といったような小さめのプロジェクトを好む。社交的ではないので、いつの間にかシゴトが片付いている感じだそうだ。物欲や所有欲はない。

同じような不言実行型のタイプだが、JがPに変わっているので新しい事が起きてもあまり動じないのかもしれない。

さて、アメリカには、外向性が75%・内向性が25%とか、感覚型が75%・直感型が25%という結果があるそうだそうだ。どうやら1960年代の調査らしい。MBTIは生物学的な指標ではないので、社会的な価値観が反映されやすいことは容易に想像できる。アメリカは「自分を積極的に表現してゆこう」というプレッシャーの強い社会なので、この分布が日本にも当てはまるかどうかは分からないのだが、少なくともアメリカではINは少数派のはずである。

「ENTJ – $84434」でGoogle検索していただくと分かると思うのだが、どうやらタイプごとの年収についての数字が出回っているようだ。原典が何で、いつごろの数字なのかはわからなかったので、引用はしないことにする。しかし、タイプによって年収が違うのだったら、年収が高いタイプになりたいという人も出てくるかもしれない。

特に、日本は和を重視して、みんなが損をしないようにする社会を作り上げて来た。しかし自由競争が始まると、どうしても外向的で現実を重視する人の方が「有利」になるように思える。それに加えて「こういう人格を持つのが、正解だ」というような認知が流布すると、MBTIは一人歩きするかもしれない。


ちなみにwikipediaには有名人でこのタイプの人というコーナーがある。INFJにはガンジー、マーティン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、アルベルト・カミュという名前がならんでいる。社会がおかしいと感じたら、それを変革するためにたゆまず努力する人たちだ。この一群の人がいなければ、インドはカースト制のままだったかもしれないし、アメリカや南アフリカの黒人達も差別されたままだったかもしれない。必ずしもこの人たちが経済的に成功したかどうかは分からないのだが、それでも社会に必要な資質を持った人たちだということがいえるだろう。 INFPにも『1984年』で有名なジョージ・オーウェルやダイアナ妃などがいる。

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INTJ, INTP

INTJ


がんこ、批判的、独自性のある考え方をする。プロジェクトを整理して、人の助けのあるなしに関わらず任務を遂行することができるタイプだそうだ。詳細にこだわらず、譲るところは譲る気持ちを持つ必要がある、とのこと。「J」なので当然、常識的な判断をする。唯我独尊。手許の資料にはプロジェクト・マネージャーという走り書きがある。

さて、これまでのE型とのいちばんの違いは、これから紹介する人たちが「I」だということだ。Introvertの頭文字で、日本語でも英語でも「内向的」というと、暗いヒトというような意味で使われることが多い。英語でも、「日本人は内向的だ」(つまり、思っている事を口に出さない)という意味で使う。日本人なら誰でもしっている事だが、思っていることを口にしないからといって、おとなしい人というわけではない。影ではとんでもないことを言っているかもしれない。MBTIの内向性はこれとは異なるように思える。


Eの人たちが外側から価値観を持ってくるのに対して、自分の内側に価値観がある。これがINTJの人たちを「我が道を行く」にしているようだ。自分の価値観で現実を直感的に捉え、その価値観に合うように現実を変えてゆこうとするわけだ。これをEが強い人が見ると、「わがまま」な人に見える。逆にIの人から見ると、Eは「自分がない」ように見えるはずだ。

INTP

なぜだか良くわからないが、静かな人なのだそうだ。私のタイプの内向性が強いタイプ。理論的で科学的な主題を好むというのはENTPと似ている。細かい部分に理論的なので「博士」みたいな人なのだろう。細かい点にこだわりが大きいので、好きな事を追求できるようなキャリアを積むのがよいそうだ。どうやらJの人たちが現実的なことに興味を持つのに対して、Pの人たちは「可能性」やら「未来」やらを追求したいみたいだ。

このように、これから広がるIの人たちは、Eの人たちに比べ、何かと扱いにくく、キャリアに一工夫が必要なことが多い。これが、一般的に言われる好きなことをし貫き通した奴が負けという評価につながる。これは考察に値する。この文章に書いてある、観客目線はE的な態度だ。周りの人が面白いと考えたことが面白いという価値観だ。これがなりたつのは、日本のお笑いが即物的で刹那的だからだと思う。また集団内の秩序が乱れるのを嫌う傾向が強いので、全体の空気を読んで違和感がない会話を選択する人が人気ものになることができるということなのかもしれない。さらに教育機関と言っても、企業の論理が入る以上は大量に効率よく人材を輩出しなければならないのだから「マーケットに合わせて」といいたくなる気持ちも分かる。

この文章にはマイケル・ジャクソンの例が出てくる。マイケル・ジャクソンは幼少期に周りの大人達から「期待されるべきマイケル像」みたいなものを押し付けられたのだと言われている。子役にはそういうところがある。本来この人がIかEかは分からないのだが、人に期待されるままに自分を演じていると、自分が何者なのか分からなくなってくるかもしれない。ネバーランドを作ってコドモと遊んでいたところからコドモとしての自己像を持ち続けたのかもしれないし、最後には肌を白くして、整形を繰り返した。そこまで深刻にならなくても「受けるお笑い」ばかりを追求するあまり、自分が一体何をしたかったのか分からなくなる人も出てくるだろう。
最近、アンディ・ カウフマンを題材にしたマン・オン・ザ・ムーンを見た。この人は典型的な「内向型」のようだ。幼い頃から一人芝居が好きで(つまり、人が見ているから面白いことを言うわけではないのだ)、そのギャグは独りよがりだった。テレビが壊れたような映像演出をして「この番組は放送しない」とABCに言われたり、テレビでおなじみのギャグを期待する観客に対して、延々と華麗なるギャツビーを読み、客が誰もいなくなるまで語ったりした。確かにこうしたギャグはテレビには向かないかもしれない。しかし当時のアメリカにはショー・パブや自前講演の機会があり、カウフマンは最後まで自分が面白いと思うことを貫き通した。というより、そういうやり方しかできなかったのかもしれない。最後には肺がんに冒され35歳で亡くなってしまうが、あのまま生き続けたらどのような喜劇人になったのだろうか。

内向性でも(自分のやりたい事を貫き通しても、と言い換えてよい)後世に名前を残す芸人になることはできる。人はときにものごとには正解があり、それに沿わないことはよくないことなのだという強固な信じ込みを持ちやすい。また、世の中に余裕がなくなると、こうした「難しい人たち」を排除してしまおうという動きが出てくることもある。確かに自分の傾向を知った上で、変わってゆこうと思うことは大切だ。自分の特質を活かした活躍の場所を見つけるのもまた重要なことなのである。つまり多様性が重要なのである。

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