意味がわからん

毎日、わけのわからない投稿をしているのだけど、定期的な購読者がいるようである。多分ほとんどの人が会った事もなければ、これから会う事もない人たちだろう。これはこれでとても不思議なことだ。そんな中、「意味がわからない」と、たった一言のコメントが来た。ああわからないんだなと思ったのだが、よく考えてみるととても不思議なコメントである。投稿してくるくらいだからやむにやまれぬ気持ちがあったのかもしれぬ。今日はこれについて考えてみたい。

わからないということ

先日、パソコンがわからない人を観察する機会に恵まれた。メールに添付されている写真を電子アルバムの記憶装置にコピーするという作業ができないのだ。どうやら各種のプロンプトが全く役に立っていないらしい。
装置をさしこむと、画面隅の方で「この装置をさしこんだら何をするか」というプロンプトが出る。これはモーダルといって、その処理をしないと先に進めないことになっている。しかし下に出ているだけなので、写真を移動させることで頭が一杯の人には目に入らない。(よく見てみると、モーダルがハイライトしていることがわかったはずだが、こういう人はハイライトの意味もわからないのだ)
次に、写真を「うっかり」ダブルクリックすると、PhotoEditorが開く。すると、写真はドラック・アンド・ドロップできなくなってしまう。つまりアイコンと、PhotoEditorの開かれている写真(こちらは編集エリア)の区別ができないのである。
これをモードの違いがわからないと表現する。Windowsに限らずGUI系のOSには3つの世界があるのだ。一つひとつをモードという。

  • コマンドラインの世界
  • メニューバーの世界
  • ドラッグ&ドロップの世界

多分、一番マニュアルにしやすいのはコマンドラインの世界だろうが、すべてのコマンドを暗記する必要がある。ドラッグ&ドロップ(GUI)は直感的に操作できてよいのだが自由度が高いので、こうした混乱が起きやすい。

これがわかるようになるためには

パソコンではこのような比較的簡単な作業でも、2つ(コマンドを叩く人はあまりいないだろうから、GUIとメニュー)の世界を理解しなければならない。そのためにはOSの基本的な知識(たとえば今作業をしようとしているのはハイライトされているところだ、などなど)を覚える必要がある。この知識は作業とは独立した比較的抽象的な概念だ。いったん抽象的な概念が獲得されると、ファイルをコピーするにはドラッグ&ドロップしてもよいし、メニューから「新しい名前で保存する」を選んでもいいことがわかる。
しかし困難はそれだけではない。あの左上にあった「リムーバブル・ディスク」が、メニューでは「Fドライブ」だということがわからなければならない。2つのモードは話言葉が違っているだけでなく地図すらも異なるのだ。
パソコンを昔から使っている人はMS-DOSからシングルモードしか許容しないOSを経て、マルチタスクに至っている。つまり、こういった概念を10年以上かけて蓄積しているのだ。しかし、ある日いきなりこの混乱に満ちた世界を突きつけられた人たちはどうやって理解するのだろうか? そう考えるとなんだか暗い気持ちになってしまう。

わからないということ

ここでは、自分の行動とプロンプト(返ってくる反応)を結びつける地図が作られたときに「わかった」ことになる。現実世界では行動もプロンプトも具体的な作業と結びついているかもしれないし、抽象的なものかもしれない。
ものによっては、それが部品の一つに過ぎない場合もある。この場合は説明通りに組み立てたとしても最終成果物(例えば時計)は完成しないかもしれない。「考える」という作業ではこういうことが時々ある。
多分、投稿者の「わからない」にはいくつかの意味合いがあるのではないか。わざわざ「匿名」と書いて投稿されているので、これ以上の情報を得る事はできないのだが。

  • 読み進めてきたものの、地図が作られなかった。
  • 読み進めてきたものの、最終成果物が何なのかわからなかった。
  • 作者がなぜこんなことを考えているのか理由がわからない。

わかるということ

家電製品にはメニュー型が多い。プログラム上の制約なのだと思うが、一つの作業を行うために行なう操作が一通りしかないので「間違いが少ない」というメリットがある。携帯電話はこの世界だ。だから携帯電話は「わかりやすい」ということになっている。
日本の教育が暗記型に陥りやすいのは、こうした手順遂行型が一般化しているからだろう。手順を覚えてしまえば間違いは少ないのだが、不測の事態には対応できない。不測の事態というと大げさだが、一例を上げて説明してみよう。
例えばコンビニの店員さんの中に、作業をしている途中で話しかけられるのを極端に嫌がる人がいる。昨日ローソンで春巻を買ったのだが、醤油が付いているので「あー醤油が付いているんですね」と言ったら、店員の手が止まってしまった。醤油は使わないだろうと思ったので「入れないでください」と言おうと思ったのだが、そんな余裕はなさそうだった。
この場合、最初に「春巻きをください、ただし袋はいらないし、醤油も入れないでください」と言うのが正しい。コマンドを与えるタイミングは作業をはじめるとき1回しかないのだ。コマンド型の作業者は不測の事態を極端に嫌うのである。
もうひとつ「わかりやすい」の質がある。それはアタマの使い方の質の問題だ。抽象的なルールをわかりやすいという人(直感型)と、具体的な行為や光景がわかりやすい(感覚型)の人がいるのだ。日本の週刊誌は感覚的な人たちが「わかる」と言えるようにできている。だから、ほとんどの記事は次のように書かれている。「吉田茂の孫である麻生さんと、鳩山一郎の孫である鳩山由紀夫が争っているのが今の政治抗争の本質である。思えば、バカヤロー解散の時には…」日本の週刊誌が得意なのは、見知らぬ人を見知ったフレームの中に押し込めてゆく作業だ。「小泉純一郎は昔福田康夫の所で働いていて…」といった具合に既知の情報に新しい情報を足してゆくことになる。物事がフレームにはまったときに「わかった」ことになる。
この二つの「わかりやすさ」が状況を悪化させることもある。このタイプの「わかりやすさ」は変化に対応できないのだ。主に二つの理由がある。

  • フレームそのものが変化してしまうと、絵全体が崩れてしまう。これを昔の絵に当てはめようとするとわけがわからなくなる。
  • 作業の途中で状況が変化する。不測の事態の多い、わけのわからない状態だといえる。

我々は消費社会に生きている。消費社会では、製品やサービスの善し悪しを、生産者が消費者にプレゼンしてくれることになっている。だから「わからない」ことは十分クレームの対象になる。人は親しみのあるフレームで物事を捉える傾向があるので、学校や政治といった領域でも、消費社会のフレームを適用することがある。そうすると「わからない」人は、わかるように説明してもらって当然だという確信のようなものが生まれる。
そしてわからないニュースは売れないので、淘汰されて目の前から消えてしまう。
だから「わかる」フレームには、思っている以上にクセがついている。そしてそのクセには一長一短があり、わかりやすいことがいつもいいことだとは限らない。何がどうわからないかを考えてみることは意外と大切なのだと思う。
そこからパターンが抽出できれば、混乱にみちた世界が少しだけやさしく見えるかもしれない。

青騎士

なぜだが1914年の青騎士たちはハイテンションだったようだ。騎士たちのひとりカンディンスキーはこう書いている。

特定の時期になると必然性の機が熟す。つまり創造の精神(これは抽象の精神と呼ぶこともできる)が個人の魂に近づき、のちにはさまざまな魂に近づくことで、あこがれを、内的な渇望をうみだす。[中略]黒い手がかれらの目を覆う。その黒い手は憎悪するものの手である。憎悪する者はあらゆる手段を使って、進化を、上昇を妨害しようとする。これは否定的なもの、破壊的なものである。これは悪しきものである。死をもたらす黒い手なのだ。

彼らは官展への出展を拒否され、膠着した状態がそこにはあった。(黒い手とは彼らを拒否した芸術家たちを現しているのかもしれない)「内的な何か」がその膠着を打開するものだと考えられていた。日本の昨今の状況と異なっているのは、内的な何かがいずれ「さまざまな魂に近づく」つまりひとりの理解を越えて集団の理解に至るだろうと考えられていた点だ。同じ世界観がユングにも見て取れる。彼はそれを「集合的無意識」と呼んだ。彼らが単なるルサンチマンだと言われなかったのは、独創性のある作品を産み出したからである。また、それを評価する人たちもいた。

先ほどの議論を見ると、個人の内的世界はあくまでもプライベートなもので、それを理解させるためには「プレゼンテーション」が必要であるという前提がある。つまり、内的な何かはそのままでは理解されないだろうということだ。この「集団的何か」を信じるか、信じないかの違いは大きい。そして、日本人の識者たちがどうしてそうフレームするに至ったのかという点は考察に値するだろう。俺の内面はそのままの形では理解されないという仮定は、俺はお前をそのままの形では理解しないぞという宣言と同じだ。そこに相互理解や共感の入り込む隙間はない。

さて、このハイテンションなカンディンスキーはきっと若かったんだろうなと思ったら、そうでもなかった。1866年生まれとのことだからすでに40歳を少し過ぎていたことになる。フランツ・マルクはもう少し若くて1880年生まれ。こちらは第一次世界大戦のヴェルダンの戦いで戦死して、パウル・クレーを大いに悲しませた。

通販市場がコンビニと百貨店を抜く

日経新聞が伝えるところによると、通販市場は2008年度に8兆円になり、百貨店やコンビニエンスストアを抜いた模様。コンビニはだいたい8兆円で、デパートは7兆2000億円。通販のうちファックスや郵便は2兆円でこれはあまり伸びていない。牽引役がネットだということは明らか。やったね、インターネット!
紙の新聞にはデパート、コンビニ、通販のグラフも付いている。これがクセモノで、これを見るとデパートの売り上げを通販が奪ったように見える。デパートが腐心だっていうしね。しかし、そーいう見方でいいのか、と思った所から私の迷走が始まるのだった。
このグラフの2000年の数字を全部足してみた所、9(デ)+6.5(コ)+2.5(通)で18兆円。そして2008年は、7+8+8=23兆円。そもそもこの前、GDP年率換算で12%減で、個人消費も低迷しているって聞いたばかりだ。なのに、どーして数字が増えているのさ…。日経新聞には書いていないのだった。多分日経新聞を読んでいる人は賢い人たちばかりなので、ちゃんとわかっているんでしょうね。でも、俺はムリです。これは「個人商店がヤバイ」っていう話なのでしょうか。「5兆円」増えとる。
思いあまってGDP統計まで引っ張って来たものの、そもそも消費は減っていない。(ただし、見た数字は額面の数字です。念のため。)あれ、俺たち貧乏になってたんじゃなかったっけ?(※確かに、年金生活者が増えているはずなので、総量が増えないということは給与所得者の取り分は減っているってことになるね…)働かないですむヒトが増えたってことは日本は豊かになったってことなの?
この間、サービスは数字としては一環して増えている。割合は微増で53%から57%と4ポイント増。逆に数字としても減っているのが「半耐久財」というカテゴリー。日本語とはとても思えないネーミングだが、調べると衣料品などを指すのだそうだ。つまりこれをまとめると、モノの消費は頭打ちで、GDPの伸びはサービスに依存していることになる。衣料に至っては長期的に減っている(※)のだ。どうりで安売り店が儲かる訳だ。医療はサービスに含まれるのだろうか…。(こちらは家計調査という別の資料がある。ただこちらはサンプル調査でサンプルの取り方には偏りも多い。)
さて、このニュース、誰か解説してくれるヒトがいないかと思って調べてみたのだが、ニュースを単純に参照しているヒトが多かった。日本通運の株も上がっているそうだが、確かに宅配業者のトラックも増えたね。
確かに景気の低迷にも関わらず通販市場は伸びているように見える。大枠だけでみると「モノ」を消費する時代から、どう消費するか(つまりサービス)という時代に突入しつつある様子がぼんやりとうかがえる。通販も「欲しいときに、より便利に」という流れの一つなのかもしれない。お買い物も、消費行動からエンターティンメントという感じだ。無為に物作りにコダわり続けていると、ちょっと違うんじゃない?と言われそうな気がする。
もう一つの流れは、例の「新聞没落」で見たネットへの移行だ。確かに既存ルートは行き詰まっているようだが、百貨店、コンビニ、通販の総量としては増えている。今までCMでブランド作りをして、チラシやSPで客寄せして、お店に来てもらうという通路しかなかったのだが、CMで認知度を上げて、そのままウェブサイトで集客、家でその日のニュースをチェックしながらついでにお買い物というパスも例外的な購買活動ではなくなりつつあるということなのかもしれない。
これをグラフにして「百貨店の凋落」として見ると、古い流通形態の没落と、新しい形態の勃興みたいにして見えてしまう。するとなんとなくありきたりの見方になり、これ以上の伸展が見られない。
経済の専門家ではないので、「本当はどう読むのか」はわからない。経済に詳しいヒトたちに、いろいろな仮説を含めた解説をしてほしいものである。

なぜ私だけが苦しむのか

すべてをなくすというのは苦しい体験だ。最初は何が起こったかわからず、次に自分を責める。そしてこの苦難には意味があるはずだと考える。しかし物事は全く伸展しないし、ましてや元には戻らない。

そのうち友達(この時点では「かつては友達だった人」になっているのだが、まだ気がつかない)がやってきていろいろなことをいう。何かの報いだという人もいるし、自己責任だという人もいる。ある人は当惑して立ち去り、ある人はしっかりしろと叱りつける。誓ってもいいが、こうした言葉は全く何の役にも立たない。そして却って孤独だと言う事がわかるわけである。友達はかつて彼らが友達だったという理由で人を苦しめることになる。なぜ災厄は善良な人にも悪い人にも起こるのか。それは何かの罰なのか。それとも神様が与えた試練なのか。

宗教心のある人にとってはこれは厄介な問題だ。ましてや宗教を職業にしている – 例えばユダヤ教のラビ – ならその苦悩はなおさらのことである。クシュナーは、2子を授かったのだが、1人はプロジェリアという病気で10歳かそこらで亡くなる運命を背負っていた。アーロンは14歳で亡くなるのだが「この子どもの命には何か意味があったのか」「この子が死んでしまうのは神様が与えた罰なのか」などと考える。そして子どもが亡くなった後、神様は決して全能ではなく、すべての災厄が神から来るものではないという結論に達するのだ。クシュナーの解釈によれば、神は自然法則や人間の道徳的自由を越えて物事を支配するということはあり得ないのだという。

クシュナーもヨブ記を考察している。最終的には、ユングと違い神を受容する内容になっている。神様がすべてを支配し、人間が何も知り得ない世界(例えば動物がそうだ。彼らは死を知らないので、死について悩む事はない)と考え合わせ、悩みや苦しみがあっても自由があり得る人間の世界を受容しようとするのである。

苦しみは去らないのだが、ある日こんなことに気がつく。時間が来ればおなかがすくし、おいしいものはおいしい。時々本を読んで感動したり、泣いたりもする。つまり苦しみがそこにあるにも関わらず、人生には別のなにかがある。確かになくしてしまったものは戻ってこないし、意味があって失ったのではないかもしれない。だけど、そこにはまた別のものがある。例えば、キリスト教ではこうしたことを「恵み」と言ったりする。

クシュナーは、苦しみは「神様が与えた罰」と捉えてそこにとどまるのではなく「こうなった今、私はどうすればいいのだろうか」と考えるべきだと結論づける。

この結論に至るまでの過程にはいろいろな反論が可能だ。例えばユングは「神が最初にサタンと賭けをして…」といっている。やはり神が仕掛けた苦難にヨブが理不尽にさらされるというストーリーなので、神が関与しないという論にはちょっと無理があるかもしれない。しかしこの人の考えの道筋が重要なのは、それが人生を賭けて考え抜かれた結論だからだ。クシュナーが指摘するようにラビの中には神は間違いようがないのだと主張する人もいる。そういう意味でも「全能ではあり得ない」という言葉には重みがある。

私だけではない

しばらくすると実は苦しんでいるには私だけではないことがわかってくる。ユダヤ教にはスーダット・ハヴラアーという儀式があるそうだ。埋葬を終えて帰って来た人は自分で食事を作って食べてはいけない。誰かに食べさせてもらわなければならないのだという。クシュナーによればこれは「悲しみを分かち合う」という意味合いがあるそうだ。

クシュナーはかつては頼りない若いラビだったのだが、自らの苦しみを通じて多くの人と自分の経験を分かち合うことができるようになる。ただ、もし「頼りないラビでいる代わりに息子がずっとそばにいる」人生とどちらを選びたいかと問われれば、息子を取るだろうと言っている。だから彼は「人生は修行であり」「息子の死にも意味があった」とは考えない。ただ、苦しみを抱えている人とそれを分かち合うことができるようになっただけだ。

工芸デザイナーの誕生

ただの工業製品だったイスや車がそれ以上の何かになるためにはそこにデザイン性という「付加価値」が必要だ。しかし、デザインは一夜にして生まれたわけではなかった。デザインは揺籃の地では花開かず、またいろいろなイデオロギーとも結びついていた。ここでは「グラフィック・デザインの歴史」を元に私的な解釈を交えつつ、ざっくりと歴史を追って見る。

ウィリアム・モリスとアーツ・アンド・クラフツ運動

産業革命の結果、ヴィクトリア朝のイギリスでは型にはまった工業製品があふれていた。ジョン・ラスキンは職人と手工業の復活(つまり、昔はよかった…)を唱え、ウィリアム・モリスに支持される。「中世には職人と芸術家の区別はなかった、なのに今はどうだ」というわけだ。その頃、工業製品を作る職人は単純労働者として扱われていた。1861年、モリスは生活と芸術を一致させようとアート・アンド・クラフツ運動を唱え、さまざまな実践活動を行った。パターン化された植物柄の壁紙などが有名だ。

モリスはマルクス主義に傾倒し、社会主義運動にのめり込んでゆく事になる。しかしヴィクトリア朝のイギリスで彼の運動が幅広く支持されることはなく、大陸に引き継がれることになった。イギリスの企業家たちはアカデミズム(伝統形式主義者)の絵を重んじ、モリスたちの作品をみとめなかったのだ。

アール・ヌーボーからバウハウス

1883年にロダン、スーラ、ルノアールなどの芸術家たちが20人組を作った。次第にアール・ヌーボーが花開く。アール・ヌーボーにはモリスの装飾性も取り入れられた。(※ある意味、作品からイデオロギー的なものが切り離された結果ということもいえる)曲線や装飾的な模様が特徴だった。(※ウィキペディアによると、次第に装飾性が増し「グロテスク」な造形に陥ったものもあったとされている。つまり多様性が一旦過度な状態に陥ったわけだ。)

いろいろな芸術を統合した総合芸術、純粋な芸術を暮らしの中に取り入れようという考え方(純粋芸術と応用芸術)、建築家の積極的な介入(つまり芸術を使って場所そのものを作ろうというアプローチ)などが見られるようになる。

この運動は万国博などを通じて海外にも広がる。1919年にはドイツにバウハウスが作られた。前にバウハウスでは画家の先生は「教授」ではなく「マイスター(職人)」と呼ばれた。ここにも工芸と芸術を統合させようという努力が見られる。

アラン・ヴェイユによると各国の取り組みには違いが見られるそうだ。

  • イギリスではアーツ・アンド・クラフツ運動と企業家が結びつかなかった。
  • フランスは豪華な手工業にこだわりつづけ、芸術がデザインにならなかった。(※白くてふわふわのイノベーションというエントリーで、フランス人の保守性について考えたことがあるのだが、社会によっては古いものが守られ、新しいものが取り入れられないことがある。)
  • 結局、ドイツだけが近代的なデザインに目覚めた。デザイナーが生まれたのはこの時期のドイツだそうだ。(ヴェイユはこういう分析していないが、国がばらばらだったことから第一次世界大戦に敗戦したというショックとも無経験ではないかもしれない。壊されたこと、再生しなければならないことなどが動機になっているのだ。ただ、ナチスドイツはその後バウハウスを閉鎖してヨーロッパ全体を破壊することになる)

アメリカ

アメリカでは1893年にシカゴで万国博覧会が開かれる。これがきっかけになりデザインが生活に取り入れられてゆく。アメリカで牽引役になったのは雑誌だった。1900年には広告の取り扱いが9500万ドルになり、やがて広告の取次店から「広告代理店」が生まれ、広告スペースを売買することになる。

アメリカの高速道路に使われるセンチュリー体が新聞用に開発されたのが1984年だそうだ。フォントの歴史はデザイン思想と多いに関係がある。イギリスのタイムズ紙がタイムズ・ニュー・ローマンを開発したのは、限られた紙面に多くの情報を流すためなのだが、これが作られたのは1932年だそうだ。開明的なフォントのヘルベティカが開発されるのはさらに遅れて1957年

雑誌がデザインを取り入れた背景には競争がある。雑誌への参入が増え付加価値競争が起こったのだそうだ。(もちろん、豊かさや経済的な自信も背景にあるだろう。この経済的な成功は1929年に大恐慌で途切れることになる。

新しい価値観が根付くまで

デザインを取り上げたのは、全く新しい価値観がどのように社会に根付いてゆくのかが知りたかったからだ。モノが情報化されてゆく過程ともいえる。やがて「消費者」という言葉が生まれ、20世紀の末には「消費生活への懐疑心」が語られることになる。21世紀初頭の日本は「もう必要最低限のもので大丈夫」「身の回りだけ快適だったらいい」という脱消費といえそうな動きすらある。

いずれにせよ、この流れを誤解を怖れずに単純化すると、懐古的なイデオロギーの成果が一般化したあと、過度の多様化を経て、豊かさに結びついてゆく過程を見てとることができる。この何かが欠けていたら、グラフィイック・デザイナーという職種も今とは違ったものになっていたかもしれない。

実際にはポスター、建築、新聞(グラフィックデザインの視点からはフォント)などそれぞれ固有の動きがあり、単純化はできない。しかし、何かが生まれ、過度な多様性を経て、淘汰されるという過程は、生物進化の過程でも見られる傾向だそうだ。

「既にあった何か」をなぎ倒して「新しいものが台頭してくる」というよりも、何もなかった所に新しいものが根付くという方が起こる可能性が高そうである。そういう意味では日本は密度がこく、更地が少ないのかもしれない。

さらに最後の視点としては、この一連の動きが「プロレタリアート」たちから生まれてこなかったという点も重要だ。ウィリアム・モリスは資産を持った起業家だったし、後の動きもブルジョアや国家(バウハウスは国家をパトロンとしていた)と結びついている。

中年の危機

ユングは、40歳前後に多くの人が社会的な目標というものが人格の縮小という犠牲を払うことによってのみ達成される、という本質的な事実を見逃してしまう」ことがある可能性を指摘する。これをそのままにしておくと、50歳前後に狂気となってしまう時期が訪れることがある、という。

この「人格」という言葉は注意深く捉える必要がある。これは必ずしも社会的に立派な人ということを意味しない。人は社会生活を円滑に行なうためにある種の仮面を身につけている。それはペルソナと呼ばれる。外面(そとづら)と呼んでも良い。このペルソナがその人そのものと同一であればよいのだが、たいていの場合そうはいかない。中年期に入ると人格のずれが顕著になる。ずれに気がつかないまま過ごすと、取り返しのつかないことになる可能性があるだろう。

ユングは、多くの治療体験に自らの体験を加えてこの結論に達する。38歳の時に自らの信じる道を行くために、フロイトと決別した。同時にアカデミズムとも遠ざかり、引きこもりの期間に多くのものを失うことになる。この引きこもりが心理学の「ユング派」の源流になった。

本の中に45歳のビジネスマンの事例が出てくる。彼は立派な業績を残して引退した。しかし隠居生活に入った時から精神的な苦痛を感じだした。やがてビジネスの世界に戻るのだが、仕事への情熱は戻ってこなかった。精神病の治療というと元の状態に戻ることを意味しそうなものだが、この人の場合はそうではなかった。それでは、一体それは何なのか。

それは、意識が異常な段階にまで高揚し、そのため無意識から大きく離れすぎてしまった場合にのみ有効である。[中略] このような発展の道を歩むのは、人生の半ば(普通は35歳から40歳くらいの間)より前ではほとんど意味がない。もし、あまりに早く踏み出したとすると、決定的な害を被ることもある。

ユングはこの高揚を過大成長と名付け意識の新しい水準であると結論づけた。別の箇所では治療が終わり「創造的可能性」を発展させるとも記述する。創造性を扱った人は多くいるのだが、崩壊や危機に見える状態が創造の萌芽だと考えるひとはそう多くないかもしれない。

新しい水準の向かう先が「個性化」である。

個性化という用語を、それによって人が心理学的な意味での「個人」になる過程、すなわち単独で、それ以上には分割し得ない統一体、あるいは全体になる過程を意味するために使用する。

ここで、この言葉を鵜呑みにすることを避けると次のような疑問が浮かんでくる。

  • そもそも、人は生きる意思や目標を自明のものとして持っているのだろうか。
  • 果たして、人間は一律に個性化を目指すべきなのか。社会的に適応している状態の方が幸せなのではないか。
  • それはあらゆる対価を払っても価値のある目標なのだろうか。

まだ若い状態から「生きる意味がわからない」と言っている人たちがいる以上、これらの疑問は注意深く取り扱われるべきだろう。また、ペルソナと折り合いをつけながら、だましだまし死を迎えるという生き方もあるはずである。(それが、テレビの前で「昔は良かった。今の若い奴らは…」という姿勢であったとしても、だ。)ただ、やむにやまれず、個性化の過程に向かう人もいるはずだ。それには「治療」や「原状回復」以上の何かがある。

この個性化の過程は「夜の航海」とも例えられる。指標になるものがなく、どれくらいかかるか、どこに向かうかもわからないからだ。それは喜ばしいものではなく、ひどい時には精神的な危機として表出する場合も多い。人が生まれるときに生命の危険があるのと同じように、苦しみの多い「生まれ直し」であるともいえるだろう。

この「夜の航海」が、社会全体にとってどう有益なのかはわからないのだが、人によってはこの道を通らざるを得ない。「やむにやまれぬ」という言葉で言いたかったのは、そういうことである。

パウル・クレー 絶望がつくる芸術

人の略歴を探りながら20分くらいで画集を見るのは、なんというか冒涜に近いような気もする。引き続きパウル・クレーについて考える。音楽か絵画かという選択肢から絵画を選び、育児をしながら主夫として創作活動を続けた画家だ。チュニジアに旅行したあたりが転機になった。色彩感覚に目覚めて、以降さまざまなスタイルを模索した。

絵画は抽象的だ。感覚的に書くというよりは理屈の上に成り立つ創作を行なっていたようだ。絵画の中にしばしば記号的な要素が見られる。毎日日記を書きつつ理論構築を行ない、バウハウスで教えたりもした。『創造的信条』という論文の中で「芸術とは目に見えるものを再現する事ではなく、見えるようにする事」と語る。しかし単なる理論家ではなく、「神秘家」としての側面もかいま見せ、これを統合することが大きなテーマの一つだったのだという。このあたりはユングにも似ている。

しかし、ナチスはバウハウスの閉鎖を強要して前衛的芸術を「退廃芸術」として禁止した。Wikipediaの『退廃芸術展』によれば、ナチスは退廃芸術を「脳の皮質」の異常ではないのかと主張した。わからないものをはすべて「悪」だと決めつけ、退廃芸術家を公開処刑したのである。

クレーはナチスの支配下にあったドイツを捨ててスイスに渡る。しかし、スイスでも半ば狂人扱いされた上、病を得てそのまま亡くなってしまう。このスイス時代に多作の時期がある。テクニック的には衰えたとされるのだが、いろいろな不自由のなかで、その作風は純化されたようにも見える。

とりあえず、大抵の絶望には「いつかはよくなる」という希望があるものだ。しかし、この人の晩年にはそれがなかった。しかし創作意欲は衰えなかったし、新しい境地を生み出す事もできた。人間はある一定の年齢になるとそれ以上進歩できないというのは嘘だ。絶望がすべての終わりでないと考えると勇気づけられる。しかし、クレーにも焦燥感がなかったわけではないようだ。別段、達観の中から生まれた芸術でもない、というのを感じて何だかほっとする。

彼が教えてくれる教訓はただ一つ。できることをやり続けること。ただそれだけだ。