イノベーティブな組織とチーム – Innovative Organizations and Teams

Table of Content

  • イノベーションとは何か
  • 発想のプロセス
  • 着想
  • 学習するプロセス
  • 実現するプロセス
  • 既存の組織ではだめなのか
  • 創造性の向上に必要な組織
  • 情報通信はどう進化してきたか
  • ネットワーク型組織の問題点と課題
  • 既存の文化を改良して新しい文化を作る事はできないのか
  • 具体的なイノベーションのためのチーム作り
  • イノベーターのための学習ガイド
  • コラボレーションのためのリソースガイド
  • いま、イノベーティブな組織を作るのに必要なもの
  • 参考文献

イノベーションとは何か

今存在するものを組み合わせて新しい価値を創造する事、あるいは所与の問題を解決するために現存しない解決策を作り上げる事を「イノベーション」と呼ぶ。ワルラスの一般均衡論の解釈から始めたシュンペーターは経済の均衡状態はつまるところ停滞であると考えた。しかし、実際の経済活動では均衡点は常に変動している。均衡点を変更するのがイノベーションだ。イノベーションは次の5つの方法でもたらされる。

  1. 新しい財貨の生産
  2. 新しい生産方法の導入
  3. 新しい販売先の開拓
  4. 新しい仕入れ先の獲得
  5. 5. 新しい組織の実現(独占の形成やその打破)

シュンペーターはイノベーションがなければ、資本主義はやがて社会主義やファシズム(国家社会主義)などの別の形に取って代わられるかもしれないと考えた。しかし、市場は自発的にイノベーションを行う。経済学者の関心は経済のモデル化に向かったので、イノベーションは経済学ではあまり研究されなかった。イノベーションを重要視したのは経営学だった。
均衡点を変更するのがイノベーションだ。だから、イノベーションには混乱がつきまとう。うまく管理された状態とイノベーションが起こる状態はかならずしも一致しない。また、イノベーションを積み重ねた結果、もう何も改良するものがないという状況にたどり着く場合もある。この状態をクリステンセンはイノベーターのジレンマと呼んだ。

発想のプロセス

イノベーションは次の3つのプロセスを通じて実現する。

  • 着想するプロセス
  • 学習するプロセス
  • 実現するプロセス

着想

着想するプロセスは一人ひとりの頭の中にある。このプロセスは意識してコントロールすることはできない。しかし、いろいろな手段を通じて援助を与えることは可能だ。例えば、創造するモチベーションを与えること、専門家、顧客、過去の事例などから有用なインプットを効率よく与えることなどを通じて着想するプロセスを間接的に支援することができる。
マーク・ステフィックによると、ブレイクスルーをもたらす発想はいくつかに分類できるという。課題が先行することもあるし、ソリューションが先に生まれることもある。

  • 何が必要かに着目するエジソン型の発明。灯りという目的のためにいろいろな素材でフィラメントを試す。 これをニーズ主導型と呼ぶ。
  • 何が可能かに着目するボーア型の発明。何に使われるかは分からないがとにかく可能なものを創出する。 理論を先に考えるアインシュタイン型や、データを集めるメンデル型、自然観察を通じて理論を考え出したガリレオなどの科学者がいる。
  • 何が可能で、何が必要かを同時に考慮するパスツール型の発明。

スタンフォード大学の教授でIDEOのフェローでもあるロバート・サットンも準備段階の大切さについて語っている。無駄の中にこそ、ひらめきの種が眠っているといえそうだ。 こうした無駄な段階を経て、Prepared Mind(準備された心)という状態を作り出す。

  1. 失敗を繰り返す人。一つのツールを使いこなすのに「まごまごとする」人。準備に時間がかかるほど後で成果を得やすい。また、一つの領域を重点的に学ぶのではなく領域横断的に幅広く学ぶほうが幅広い着想が得られる。
  2. 学習のやり方や研究の進め方を理解しておく必要がある。このためメンタリングは重要。最初のうちは短期的な目標を継続的に与える必要がある。これによって準備された心が生まれる。
  3. 創造的な対立

サットンはこのほかにも「役に立たないと思われる人を短期的にでもいいから雇ってみろ」と薦めている。これも無駄の一つだろう。特に次のような人は有望だという。

  1. 自分を客観的に見ない人
  2. 同僚や上司との付き合いを避ける人
  3. 自尊心の強い人

着想段階はコントロールが難しい。このことを説明したのが、チクセントミハイだ。チクセントミハイは外科手術を行う医者とのインタビューから、物事がうまく行っているときにはチームは流れるように手術を行うことを発見した。しかしひとたび問題が起こると流れが中断される。チームメンバーの頭の中は自我意識でいっぱいになるのだそうだ。
発想にも同じことがいえる。うまく行っているときにはチームメンバーの誰彼なしが新しいアイディアを思いつく。また1つの発想がきっかけになり問題が解決してゆくことがある。このときチームメンバーの間にはある種のバランスの取れた状態がある。しかし「失敗するかもしれない」といったような不安が状況を支配すると、フローは失われる。また「退屈過ぎる」状態もフローとはかけ離れている。

学習するプロセス

学習するプロセスは着想の精度を高めたり、着想と具体的な問題を結びつけたりすることにより、思いつきを解決策に変えるプロセスだ。着想するプロセスは個人作業だが、ここではチーム作業が可能だ。学習するプロセスが効率よく進むためには「分かち合う文化」と「失敗を怖れない態度」を持っている必要がある。学習過程は、意図した行為がどういった結果を生み出すかというフィードバックのプロセスだからだ。
学習する組織について研究したのがビジャイ・ゴビンダラジャンだ。学習する組織はある文化的な特徴を持っている。これをゴビンダラジャンはコードXと呼ぶ。イノベーションを形にするためには、イノベーティブ過ぎてもでも官僚的でもダメだという。イノベーションを起こす組織は既存の概念に囚われない組織であるべきだ。一方、実行する組織には効率的な運営が求められる。しかしその経過期間には全く異なった文化が必要だ。
この過渡期の文化は「忘却」「学習」「借用」というツールを組み合わせだ。忘却が多く必要だと考えれば組織は分割されなければならないし、借用が多く必要であると思えば、組織は共通している必要がある。
忘却は昔の成功事例や親文化を忘れること。新しい人を採用したり、客観的な評価基準ではなく主観的な評価基準を作ったりすることが忘却に役に立つ。
学習は新しい製品のマネージメントにふさわしい文化を体得すること。 売り上げ達成度よりも、何を学んだかを重視する文化や独自の文化を育む力を獲得することが求められる。
もっとも全てを自前で獲得しなければならないわけではない。必要なリソースを親文化から借用することも検討しなければならない。販売チャネルやブランドなど、新興企業が一から作り上げなければならないものは借用できる。ただし、サポート部門は独立させたほうがいいそうだ。新しい事業部の破壊的なイノベーションは、既存の組織と折り合わない場合も多い。もし新しい組織を活性化させたいのであれば、新しい部門の長には高いポストを与える必要がある。

実現するプロセス

また、思いつきを形にするためのリソース(資金や場所など)が配分される必要があるだろう。
着想が実用化されるためには、学習フェイズで得られた失敗を徐々に減らし、より確実に問題点を解決するように改良を加える必要がある。この現実的な解決策を作るのが、実現するプロセスだ。ここでは「やり抜く力」「効率性」といった学習フェイズとは違った文化が求められる。

既存の組織ではだめなのか

若い組織は失敗を怖れない。まだ前例のない状態では多かれ少なかれ失敗はつきものだからだ。結果的に、多くの試行錯誤が生まれ、運がよければそのなかから生き残る人たちが生まれる。しかし、組織が成熟すると、いまうまくいっている事例を押しのけて新しい試行錯誤をはじめることは難しくなる。
また、失敗を怖れる気持ちが強くなり新しい冒険はしにくくなる。規模が小さすぎて、大きな会社が手を染めるには相応しくないということも起こる。さらに既存の顧客に焦点があたるので、今顧客でない人たちが忘れられる可能性がある。こうした現象を研究したのが、クレイトン・クリステンセンだ。クリステンセンはちいさな会社が大きな会社を凌駕してしまう事例を研究し、これを破壊的イノベーションと呼んだ。破壊的イノベーションはローコストのソリューション新しい事業分野の創出によってもたらされる。
既存事業がうまく行かなくなった場合には、もはや新しい試行錯誤をはじめる余裕はないこともある。組織の維持に莫大なコストがかかり、実験的なプロジェクトに割くことができる予算が残らないことすらある。これを防ぐには、余裕があるうちから、イノベーション活動を継続的に行なう必要がある。また、新しいものを生み出せなくなった組織を速やかに解体して、人々が新しい組織に移ることができるような仕組みを整えなければならない。
新陳代謝が活発な社会は、新しいイノベーションを通じて社会を成長させることができる。逆に、成長が伸び悩んでいる社会は、何らかの理由でこうしたイノベーションが起こりにくくなっている社会だということがいえる。結びつきが緊密すぎて、新しい要求に応えられなくなっているのだ。
最初に検討しなければならないのは、硬直した組織に創造性を向上させる可能性があるかということだろう。既存の組織のままで創造性向上を図る事ができれば、組織を変革する必要はない。また、成長は創造性の向上のみによって実現するわけではない。一つには規模を拡大することにより成長するやり方がある。また、シックス・シグマやカンバン方式のように無駄をなくして生産性を向上させるやり方がある。つまり、効率化を通じて成長を実現させることもできる。規模の拡大は大量のリソースを投入する方が有利に思えるし、生産性を向上させるためにも規模の経済性や学習の蓄積は重要だ。
一方、創造性の向上はどうだろうか。必ずしも規模が重要になるとはいえない。今持っている文化が成長を阻害していることすら考えられるので、その文化を捨てる決断をしなければならないこともあり得る。これが、拡張戦略、生産性向上戦略と創造性向上戦略のいちばんの違いだろう。

創造性の向上に必要な組織

それでは創造性の向上に必要なものは何だろうか。イノベーションは多くの新しい結びつきによって実現される。それは過去に作られた事例の組み合わせだったり、事例と問題の組み合わせだったりする。また、まだ形になっていない着想同士が組み合わさって新しい思いつきが生まれる場合もある。つまり、個々の事例が必要に応じて組み合わさることによって新しいアイディアが生まれる。
次の段階では多くの顧客や同じ関心を持つメンバーが、着想に検討を加える。これも結びつきだ。例えば自動車業界で作られたアイディアが電気掃除機の改良に重要な役割を果たすかもしれない。
そして最後の段階では、実行力を持った人たちがそのアイディアの実現化を担当する。この場合に必要なのは異なる文化やスキルの結びつきだ。
つまり、こうした結びつきを円滑にすれば、創造性の向上が図れるのではないかと思われる。
創造性を向上させる組織には二つの特性が求められる。多くの人が緩やかな標準化で結ばれたプラットフォームと、そのプラットフォームの上で柔軟に体制を変えることができる組織だ。こうした組織をネットワーク型組織と呼ぶ人がいる。

情報通信はどう進化してきたか

インターネットに代表される情報通信は、ドキュメントとドキュメントをリンクすることで生まれた。そこに意味が追加され、セマンティックという言葉が生まれる。内部的にタグで管理されたり、ドキュメント内の情報を解析することにより外部的に意味付けされたりする場合がある。こうした意味付けのシステムは緩やかに共通化されている。標準化からうまれるのではなく、多くの人に採用された規格が標準化される。これをデファクト・スタンダードという。
ここから流れは2つの方向に発展した。一つは「本を買う」とか「価格を比較する」というような機能別なまとめられ方だ。機能的にまとめられたものをサービスと呼ぶ。アマゾン(ショッピング)、グーグル(検索)などだ。もう一つの流れは情報を人別に管理するやり方だ。これをソーシャル・ネットワーキングと呼ぶ。Facebookのようにソーシャルな部分だけを担当するサービスもあるし、Amazonのようにサービスを提供しつつ書評などを通じてソーシャルな機能を持たせたものもある。

ネットワーク型組織の問題点と課題

こうしたサービスや社会化されたネットワークを使えば、今すぐにでも旧来型の組織の問題は解決し、創造性の向上が期待できるように思える。それが実現しないのはどうしてなのだろうか。そこにはいくつかの問題があるように思える。
まず、こうしたネットワーク型組織の認知が進んでいないことが挙げられる。こうした組織を適切に管理するマネジメントスタイルとはどういうものなのだろうか。例えば中央集権型の統制組織に親しんだ人たちにとって、管理しないマネジメントスタイルというのは、自己撞着語でしかない。これに付随して英語や中国語などの言語の問題やコンピュータリテラシーの問題などが挙げられるかもしれない。ネットワーク型組織を作るためのスキルが欠けているのである。
成長性が乏しくなっているとはいえ、やはり安定した収入が期待できる大企業の人気は高い。いわゆるベンチャーと呼ばれる新興企業ですら、就職の対象とは見なされにくい。また、海外の企業への就職も人気がない。人々は新しい形態を模索するよりも、慣れ親しんだ形態が復旧して以前の安定性を取り戻すのを待っているのではないかと思える。
次の問題は取引コストだ。取引を開始するためにはいくつかの障壁がある。まず、問題を解決するのに相応しい個人や企業を探してこなれればならない。問題が明確でない場合には特に厄介な作業だ。次に、その人や企業が安定した仕事をしてくれるかを見極め、プロジェクトを管理する必要がある。
こうした問題が一夜にして解決することはないだろう。具体的な課題をこなす事で、徐々に解決されてゆくに違いない。
最後の問題はシステムコストだ。与えられた問題を解決するために、カスタマイズされたシステムを作る余裕がないことがある。特に個人や小さな企業がこうしたネットワークを構築するためには、システムは比較的単純で安価ないしは無料である必要がある。しかし安価なソリューションが必ずしも悪いソリューションであるとはいえない。それどころかクリステンセンの破壊的イノベーションになる可能性もある。Open sourceでプラットフォームを作り、プラグイン型のモジュールを充実させることで、システムコストの問題は解決するだろう。

既存の文化を改良して新しい文化を作る事はできないのか

「どこに向かうべきか」は、ぼんやりとではあるが見えて来た。我々が慣れ親しんだ大企業中心の文化を改良することによって、柔軟なネットワーク型の文化を作る事ができれば、スムーズな移行が行なえそうである。ネットワーク組織を指向する研究者は「ネットワーク型組織の利点とは、必要な時に必要なリソースを得られることである」と指摘する。例えばトヨタはこれを、部品調達で実現した。必要な時に必要な部品を納入してもらうのだ。このトヨタ自動車と系列の協力会社の関係を長期的に維持するには微妙なさじ加減が必要だ。これを応用して、トヨタ自動車は好きなときに好きなだけ労働者を手配できるシステムを作り上げた。これが製造業への派遣業だ。このモデルは、かつて成功への方程式だったのだが、今では社会問題になっている。その理由はよく分からない。自動車産業がもはやイノベーションを必要としていないということなのかもしれないし、一時的な膠着なのかもしれない。また、よく正体の分からない「グローバル化」のせいなのかもしれない。
いずれにせよ、こうした既存の環境にネットワーク型のイノベーションチームを組み入れるのはむずかしそうだ。多分、デザインの下請け会社やシステムベンダーのような位置づけで終わりになるだろう。
ネットワーク型組織では発注者と受注者の関係は固定的なものではない。やりとりの結果、発注者側が組織形態を変えなければならないこともあり得るのだ。トヨタと下請けの場合には、デザイン会社の提案でトヨタ自動車が組織を変えることは考えにくい。

具体的なイノベーションのためのチーム作り

大きな絵は分かった。しかし、あまりにも漠然としすぎていて、明日からそれを取り入れるのは難しそうだ。もうすこし具体的なところから「発想するチーム」を見てみよう。
シュンペーターは、イノベーションを作り出す源泉を実行者(企業者/起業者)と実行者にリソースを分配する人々(銀行家)に求めた。銀行家は銀行に勤めている必要はない。大企業がスポンサーになって新しいイノベーションを求めることもある。もちろん、企業者も独立して会社を起こさなければならないわけではない。企業者/起業者( Entrepreneur)は、ルーチンワークをこなすだけではなく、新しい組み合わせ(これを新結合という)を創造し実践する人のこと。シュンペーターはなぜかフランス語を使っている。一方、銀行家は財貨を持たない起業者に貸し付けを行い「信用」を付加する。銀行家は古い勢力から財貨を持ち出して新しい勢力に財貨を貸し付けて、信用を創出するのである。
経営の神様ドラッカーは「イノベーションは理論的分析と知覚的認識だ」といっているそうだ。しかし、これだけでは抽象的すぎてよくわからない。トム・ケリーは、『イノベーションの達人』の中で、イノベーションに関わる人たちをさらに細かく分類した。ずいぶん実務的な分類である。実務者なので、企業者/起業者にあたる人たちだ。
トム・ケリーのイノベーションは観察する所から始まる。人類学者の役割は観察するだけ。しかし観察するためにはただ漠然と見るだけではだめで、科学的な観察能力が必要とされる。また、観察対象を求めて探索する能力も求められる。ものを見るというのはそれだけで大変なスキルなのだということが分かる。
計算されたリスクを犯す実験者は、実験を繰り返し失敗の中から学ぶ。
花粉を運ぶ人は異文化を結びつける人。イノベーションの達人の中では無印良品が紹介されている。花粉を運ぶ人は、T型人間であるべきだ、とケリーは言う。これは得意分野を一つ持ち、幅広い分野に興味を持っている人という程の意味である。
無理と言われてもあきらめないハードル選手。企業は官僚主義に支配されることがあるのだが、それを乗り越えて突き進む人たち。 3Mの事例が挙げられている。
コラボレーターは多彩なチームを結びつける。このあたりからマネージメントの力が重用視されるようになると言えるだろう。イノベーションは異文化が交流することにより生まれやすい。インターネットが発達しても、リチャード・フロリダはイノベーションを起こす人たちが集まる場所は仮想の空間ではなく、都市であると考えている。
監督はスタッフを連れてきて、手助けする人たち。「ひらめき」を「形」にするためには、適切な管理が必要とされる。ケリーの本では、ブレインストーミングが紹介されている。ただ闇雲にアイディアを求めるのではなく、適切な管理・運営進行が必要とされる。ケリーのIDEOには、必ず視覚化するなどのルールがあるそうだ。
経験デザイナーは経験を作る。紹介される例はコールド・ストーン・クリーマリーの例。アイスクリームパーラーは成長が鈍化した業界だと思われていたがアイスクリーム作りのパフォーマンスを売り物にして成長した。コールド・ストーン・クリーマリーはこれを「ハッピー・クリーマリー体験」と呼んでいる。「お客様が店にいる間、ハッピーでいられるようなおもてなしをする」ことだそうだ。同じような価値観はスターバックスにも見られる。スターバックスの場合の経験は幸せではなくくつろぎである。
舞台装置家は働きやすく発想しやすい環境を整える。コラボレーターや監督と並んでマネージメントの仕事である。例えば、パーテーションで区切られたデスクではなく、顔の見えるデスクを使ってお互いの意思疎通を図るなど場所と雰囲気作りに工夫をこらすことが大切だという。
介護人はサービスを超えたケアを顧客に与える。バンク・オブ・アメリカの例が紹介されている。銀行を訪れると案内人が出てきて困ったことがないかに気を配ってくれる。もちろん番号札を取らせて待ってもらうこともできるだろう。自動化してしまったプロセスに人手を加えることによってサービスを向上させることができる。
最後に出てくるのは語り部だ。経験デザイナーと同じようにストーリーの力を利用している。ストーリーは概念を形にして聞き手を経験の中に引き込む力を持っている。ストーリーは顧客にも語られるし、従業員の間でも共有される。 有名なストーリーに「HPはガレージから始まった」というものがある。

イノベーターのための学習ガイド

学習はいくつかのフェイズで完成する。すなわち「計画」「実施」「比較」「評価」である。本腰を入れて計画を立て、計画は必ず実行する。この時目標は「必達」ではなく、学習であることを理解することが重要だ。また、結果はかならず事前の予測と比較する。そして生み出された差異は必ず分析しなければならない。この時に、何が原因で、何が結果だったかを理論建てて図示するなどして、部門内で共有する必要がある。
事後に検証可能な計画を真剣に立てる。目標は必達ではない。何を学べるかが重点だ。だから、あらかじめ立てた計画とのずれを必ず検証しなければならない。逆に、 目的が達成できたときには注意を要する。偶然達成されただけかもしれないからだ。

コラボレーションのためのリソースガイド

常時連絡を取り合ったり、とりとめのないアイディアを交換し合ったりするのには、マイクロメッセージサービスが適している。現在最も注目されているエリアで、Twitterやオンラインチャットサービスが挙げられる。Twitterは会話の内容を後から検索することができるのだが、非公開にしたい会話には向かない。
次に使われるのは、情報を蓄積したり、共有したりするサービスだ。チームを組んで情報を共有できるサービスにGoogle Appsがある。公開してもいい場合にはmedia wikiが使える。また、議題を決めて話あいをするためのフォーラムを設置できるサービスもある。例としてbb pressを挙げておく。顧客からのフィードバックを得るためにFacebookを使ったアプリケーションを構築する手もある。
もちろん、ブログを使って議論を深めることも可能だ。ただし、ブログは多くの人が使っているので利用方法はまちまちだ。まずコアになるメンバーがトラックバックやコメントの使い方を決めておく必要があるだろう。いったんルールが決まったら後のメンバーはそのルールに従うはずだ。ソーシャル・ネットワーキングのアカウントと組み合わせ可能なコメントシステムがいくつか出ているので、匿名のユーザーにシステムを荒らされたくない場合にはそれを利用するとよいだろう。
また、自前のソーシャルネットワーキングサービスも出ている。ここではbuddy pressを挙げておく。

いま、イノベーティブな組織を作るのに必要なもの

まず、第一に必要なものは具体的なプロジェクトだろう。実際に成果がでてはじめて社会的な影響力をもつことができそうだし、事例ごとに必要なプロセスは異なりそうだ。次にそれを実現するための資金が必要になる。サーバーやプログラムは無料のものを使うことができるだろうからそれほど大量の資金は必要にならないはずだ。
リソースよりも重要なのは同じビジョンを持った人たちと、新しいものを創造したいという意思ということになるだろう。目標する組織があまりにも既存の形態と異なっているので、コンセプトから新しい形を創造するスキルも必要になるだろう。
最も重要なのは、このままではいけないのではないか、もっとよいやり方があるのではないかといった探究心ということになる。
新しいアイディアを作るために必要なのは継続的なフィードバックだそうだ。それはこのドキュメントも例外ではない。よりよいアイディアを持っていると思う人は、ぜひこの機会にご連絡をいただきたい。

参考文献

戦略的イノベーション 新事業成功への条件 (ハーバード・ビジネススクール・プレス)ビジャイ・ゴビンダラジャン (著), クリス・トリンブル (著), 酒井泰介 (翻訳)
ブレイクスルー -イノベーションの原理と戦略-マーク・シュテフィク、バーバラ・シュテフィク(著)、鈴木浩、岡美幸 (翻訳)
明日は誰のものか イノベーションの最終解 (Harvard business school press) クレイトン・M・クリステンセン、スコット・D・アンソニー、エリック・A・ロス(著)、宮本喜一 (翻訳)
イノベーションの達人!―発想する会社をつくる10の人材トム・ケリー (著), ジョナサン・リットマン (著), 鈴木主税 (翻訳)

多様性とアイルランドのジャガイモ

不確実性の時代の中にも、前回ここで取り上げたアイルランドのジャガイモ飢饉の話が出てくる。1840年代、20%のアイルランド人が死に、それ以上の人々をアメリカ大陸に脱出させることになった出来事だ。その後、カリフォルニアで金鉱山が発見され、49ersと呼ばれた人たちが太平洋を目指すことになる。
このジャガイモ飢饉を見るとある疑問が浮かび上がる。アイルランドにジャガイモ以外の食べ物はなかったのだろうか、という疑問だ。畑が完全にダメになったとしても、海で魚を取れば良かったのではないだろうか。どうしてアイルランドの人たちは死にそうになっているのに、ジャガイモ以外の食べ物を探そうとしなかったのか。
とりあえず、その疑問を例によってLinedinで聞いてみた。一晩で寄せられた回答は6つ。
まずベストアンサーになった回答ではこう記述されている。1800年代、ダブリン・ソサエティー・サーベイによるとキルケニー郡だけでも12種類のジャガイモが栽培されていた。貧しい人たちは、大麦、オーツ麦、ライ麦、マメ、その他の野菜も栽培していた。しかし1840年代までにはそういった多様性は多くの心配にも関わらず消滅してしまった。学者達はこう合意する。簡単に栽培できて栄養もあるジャガイモが、ある日人々を殺すことになるだろうということを貧しい人たちが予測することは出来なかっただろうと。
別の回答は、使える土地は既に他の産業によって占有されてという事実を指摘している。魚を穫るのだってもとでがいる。当然のことながら、貧しい小作人にそのようなもとではない。加えてノウハウもなかっただろう。アイルランドの飢饉は、農地にふさわしい土地が少なく、近海に魚がいなかったからだと言う人がいるが、これは事実とは異なるそうだ。実際、現在のアイルランドではニシン、タラ、ロブスターなどが水揚げされる。
アイルランド人の小作たちがジャガイモに頼るようになったのは、それが唯一自分たちに生産できる食料だったからである。畑で作ったものは地主におさめなければならなかっただろうし、つまり社会的な資源の配分がうまく進んでいなかったわけだ。歴史上よく起こることだが、被支配層の人たちの中から自律的に改革の運動がわき起こることはほとんどない。彼らは自分たちが手に入れることができる情報と資源をもとに、そのとき最適と思われることをやる。アイルランドではそれが「誰でも耕作できるジャガイモ」に向かい、食料の多様性を消失させることになった。つまり多様性の消失は「なりゆき」だったのである。
前回にも触れたように、こうした事実があったにも関わらず、1840年のアイルランドの港からは食料がイギリスに向けて輸出され続けていた。そしてイギリス政府は飢えて死んでゆく小作民に大した援助を与えなかった。アイルランド人の農民は怠け者だからだというのがその理屈だったようだ。
ベストアンサーの回答者が指摘するのは「政治的リーダーシップの不在」だ。この政治的リーダーシップとは何なのだろうか。人々がジャガイモばかり栽培していて、うまく行っているとき「もしジャガイモが不作になったらどうするのだ」と警告を与え、食料生産に多様性を与えるような栽培計画と資本管理を行なうことだろう。これを一般化すると、現状を分析し、あるべき未来のために行動を起こすことがリーダーシップと言えるだろう。しかし、多くの人が説明するように、そんなことは不可能だった。
このことを笑うことはできない。今の日本では多くの人たちが生産手段を持たない。そして、直接的、間接的に自動車や電機といった輸出産業に依存している。確かに、GDPが輸出に依存する割合はそんなに大きくなかったのだが、多くの産業がこれに依存する形になっており、輸出産業の不振が経済の不調を招いた。しかし「アメリカ一国への依存は危険だ」といって、そのために具体的アクションを取る政治家はいなかった。また、多くの農家が、長年作り慣れた米を作り続けているのだが、これを改めようと言う人たちも出てこない。民主党政権にいたっては、そうした人たちは困っているのだから、所得が足りなければ税金から補えばよいと言っている。まず米や麦などからはじめるそうだ。これは日本の農業から多様性を奪い、農業そのものを衰退させることになるだろう。人々が簡単で慣れ親しんだ習慣を捨てて多様性を目指すのは難しいことだ。
さすがに、米の不作を招く疫病が日本全土に蔓延するとは思えないのだが、多様性を欠いた産業構造はちょっとしたショックで簡単に瓦解する。農家の戸別補償のような保護政策が「疫病化」することもあり得る。政権交代で戸別補償制度が廃止されてしまえば、依存体質になった農業は瓦解してしまうに違いない。多様性の少ないシステムが崩れてゆくとき、救済の為に取り得る手段はあまり多くないのだ。アイルランドの場合、人口が減少することにより、それまでに成立していた婚姻システムがうまく働かなくなり、家族制度が崩壊した。それが言語の衰退を招き、ゲール文化の衰退にまでつながってしまったのである。

インド料理と文化受容のステップ

まだインド料理店が数える程しかなかったころ、六本木のインド料理店でよく見られる光景があった。インド人の店員に向かって「インド料理はそれほど辛くなかった、もっと辛くても大丈夫なはずである」と日本人(まあ、たいてい男性なのだが)が自慢するのである。この人たちにとって、インド料理=カレー=辛いということなのだろう。そして辛い料理が食べられる=エライという図式が成立するのだ。多分。
ここで「インド料理」とか「カレー」と呼ぶのは、主に北インドで食べられているあの料理のことである。その他、チベット文化圏にはモモや焼きそば(なぜか、唐辛子が使われていてとても辛い)と、汁気が多く、魚もよく使われる南インドの料理、そしてペルシャ圏から入って来たシシカバブや焼き飯などの文化がある。
実際にこういうことはよくある。わからないものや異質なものに遭遇した場合、人は差異に注目しがちだ。そしてその差異の程度の大きさによって序列が決まるわけだ。数値で表現できる程度の違いは序列を決めるには都合がいい。例えば「メタボ検診」で注目された腹囲85cmもそんな数字の一つだろう。他に2つの基準があるのだが、それは忘れ去れ数値だけが一人歩きした。身長や胸囲が違えば基準となる腹囲も違うはずである。
しかしこの「六本木カレー野郎」が特別変わった人だということでもない。例えば、カレーハウスCoCo壱番屋には、甘口、普通の他に、1辛〜10辛までのメニューがあり、「とび辛表」という名前がついている。お客のニーズがあるということだろう。
さて、カレーのおいしさの一つに「一晩寝かせたカレーはうまい」というものがある。カレーチェーンの中にはカレーを一晩寝かせてレトルトパックにつめて出荷するところがあるのだそうだ。どうして一晩寝かせたカレーはおいしいのかという決定的な説明はないそうだが、それぞれの具材の味が混じり合い一体となるからおいしいのだろう。日本人や欧米人が煮込んだカレーをおいしいと思うのは、多分シチューや鍋料理などの煮込み料理からの印象があるからだ。しかし、実際にはスパイスの味は一晩寝かせると飛んでしまう。つまり、日本人がおいしいというカレーは本来の味わいをわざわざ飛ばした料理だということになる。
デリーにあるスパイスとお茶の店ミッタル・ティー・ハウスがカレースパイスと一緒に配布するレシピ集によると、カレーは煮込み料理ではないようだ。所要時間は1時間以内で、香りを楽しむために使うスパイス類は最後に入れなければならない。最初に炒めたタマネギの甘み、油、それぞれのスパイスで味と香りを付けたのがカレーのおいしさだ。
「カレーは手で食べるべきだ」というのがある。これも六本木のカレー屋で人が講釈しているのを聞いた話だが、ナンをカレーにつけてはいけないそうである。これ、本当なのだろうか。カレーをナンにたらすのだそうだ。外人が間違ったハシの使い方をしていると、やはり正したいと思ってしまう。同じようにインド人も、日本人の間違ったマナー(つまり、スプーンでカレーを食べる)を苦々しく思っているのではないだろうか。しかし、汁気の多いカレーを手で食べるのはとても勇気がいる。
そう思ってインドまでカレーを食べに出かけたところ、実際には食卓にスプーンがおいてあることが多かった。隣にいたサラリーマンらしい2人づれを観察したところによると、一人は手で食べ、一人はスプーンを使っていた。路上で安いカレー(汁だけで具がない)を食べさせる屋台にはスプーンがなかった。ここはチャパティでカレーを拭うようにして食べるしか手がなさそうだ。列車のお弁当に出てくる料理にはあまり汁気がなく、これは手軽に手で食べることができる。(インド人のエンジニアたちも自分たちで弁当を作って持ってくるが、あまり汁気はなさそうに見えた)そして、インド人はあまり他人がどういう食べ方をしているのかということには興味がなさそうだ。
一応、手で食べる場合には、簡単なルールがある。必ず右手を使い、カレーとご飯を指先で混ぜる。指先にカレーを入れ、親指で押し出すようにして食べるのである。ナンで食べると「辛い」ということしかわからない。しかしご飯とカレーを混ぜると、カレーのスパイスが空気に触れる。するとスパイスの香りが立って別のおいしさが味わえる。別にこれができなければダメということはないが、こういう食べ方に挑戦すると新しい経験ができる。
新しい文化を受容するとき、人はまず自分の持っている経験を使って解釈しようとする。その次に数値のような「客観的」な指標を使っての解釈を試みる。さらに形を模倣しようとする。しかし実際には、いちからその文化に触れてみると、形の裏にある理由が見えて来たりするものである。

魂の殺害者

人を殺すと犯罪者として処罰される。だが「教育」という名前の迫害を加えて、子どもの人生をめちゃくちゃにしても、その人は裁かれることはない。

魂の殺害者―教育における愛という名の迫害は、息子の1人をピストル自殺に追いやり、もう1人は42歳で精神病院に入院させてしまった父親の物語だ。この物語は後にフロイトが研究対象にして有名になった。

もちろん、この教訓は実際に苦しんでいる人たちへの個人的な洞察を与えてくれるのだが、社会や国など時代の雰囲気が個人の生育にどう影響を与えるのかという側面も無視できない。
高級官僚だった息子ダニエル・パウルは42歳で神秘体験を含むパラノイア症状を経験して入院する。議員選挙に落選したことが直接的な原因だったようだ。回想録が書けるまでに回復し「シュレーバー回想録」を書いたが、その後も症状が安定することはなかった。「シュレーバー回顧録」はフロイトの研究で有名になった。

ダニエル・パウルの父親は「教育とは厳しい規律で自由を制限することである」という理念を持っており、自分たちの子どもに実践して多くの著作を残した。本の中にはその例が出てくるのだが、教育というより調教に近い。図式と息子の妄想に一致点が多い。畳み掛けるようにして図式と息子の妄想が例示されるのだが、その繰り返しにはかなりの迫力がある。

父親 のダニエル・シュレーバーは迫害者というよりも、高名な教育者として知られている。今でも「クラインガルデン」と呼ばれる菜園と公共緑地を組み合わせたような施設があるそうなのだが、その概念はシュレーバーが提唱し、義理の息子に受け継がれた。シュレーバー教育法も当時のドイツでは好意的に受け入れられたそうだ。このため、息子シュレーバーの病例を分析する際、父親の教育法との関係は全く考慮されなかったということである。

当時のドイツには「一九八四年」のダブル・スピークを想起させる「自由とは権威への服従だ」(これはフィヒテの言葉として紹介されている)といった主張があった。だからダニエル・シュレーバーが際立って狂っていたというよりは、そういう気分の中で生まれたのがシュレーバー教育法なのだろうと分析されている。こうした空気はやがてナチズムとして結実する。社会的な閉塞感と個人の教育の問題はつながっているのではないかもしれない。

ただし、ダニエル・シュレーバーがこうした教育法を発想したのには、個人的な理由もある。息子の診察記録の中に、父親は「殺人衝動を伴う強迫観念に悩んでいた」というものがあるそうだ。彼は子どもの中に「弱い(すなわち悪い)芽」を見ていたのだが、これは実際には「自分の中にあるコントロールできない認めがたい特性」だった可能性があるのではないか。人には、自分の内面のふさわしくないものを投影したり、理想化された自己像を相手に見てしまうことがある。父親の生育記録がないので、どうしてこのような内面的な怒りを持つに至ったのかはわからないが、著作の中には弱いものを認めたくないという気持ちが込められている。

母親は夫を賛美しており、父親の行き過ぎた「教育」に対して異論を唱えなかった。そのため、初期の幼児体験で重要な無条件の自己の受容が得られなかったのだろう。二人の息子の人生の初期においては問題は露呈しなかったし、むしろダニエル・パウルは成功者だった。だが、それは中年期に破綻する。息子は自分の中に巻き起こる様々な感情を正しく認識できず、ついには発狂してしまうのだ。

父親からの「教育」の結果、さまざまな身体症状が出るのだが、「尊敬する父親に何か間違ったことをされた」と考えることを自分に禁止して身体症状を直視しなかった。なんらかの説明が必要なので、「神」という概念を持ち込んで身体的な苦痛を神が与えた奇跡だと認識することになる。

こうした妄想にはいくつかの表現形態がある。病的な妄想を絵画や小説に残す人もいるし、客観的に認識して理性的に押さえ込むこともあるだろう。この人の場合は妄想を神秘体験として著述し、自分は狂っていないのだということを証明しようとした。

シュレーバー親子の事例は父親と息子が書き残したものが残っており詳細な研究が可能だ。これがシュレーバー症例を特別なものにしている。これは、不安定な両親(この場合は父親だが、母親が教育者になる場合もあるだろう)と補完機能の不在(例えば家庭での父親の存在が希薄だとか、母親が行き過ぎた教育に対して異議を差し挟まないとか)などが、教育の受け手が自律的に人生を切り開くのに必要な何かを奪い去ってしまうという物語だ。

自分の中に指針がなく、人から与えられた指針を生きるようにプログラムされた人たちにとって、自分で人生を選び取りそこから満足感を得なければならないというのは極めて残酷なことだろう。選択肢が多い現代にはこうした残酷な選択を迫られている人がたくさんいるに違いない。

さて、最後にこの本には解決されない疑問がある。それは神の存在についてだ。ドイツ語や英語には主語が必須だ。「父親が」という主語を使って自分の症例を説明することができないために、ダニエル・パウルは「神」という主語を選んだのかもしれないと仮説している。著者は主語がない世界ではどのような説明がなされるだろうかという疑問を差し挟む。

これは逆に一神教のない日本人にはよく分からない。神という概念を日本人がよく理解できないのは主語の不在のせいかもしれない。神はitの代わりに使われているのだろう。

日本人は主語を使わずに思考することが可能だ。ほとんどの人が学校で英語を習うので、主語がある言語とない言語の違いも認識ができる。それでは日本人にとって、神に代わる得体の知れないものとは何だろうと考えたところ、それは時代の気分とかその場の空気とか言ったものなのだろうと思った。見えない主語に支配されると、それにあらがうことはできないのではないか。

ピーターの法則

ピーターの法則は、1969年(だいたいウルトラマンとか仮面ライダーとかと同じくらい昔)に書かれた本。上司はどうしてみんなアホなのかを説明する。階層社会においては全てのヒトが、それ以上昇進できなくなるところまで昇進するので、結果的にすべてのヒトが無能になるのだそうだ。そうすると組織はすべてアホで満たされるはずなのだが、昇進途中のヒトは無能レベルに達していないので、シゴトはそういった人たちによって執行されるのだそうだ。作者はこれを「階層社会学」と呼ぶ。ただ作者は社会学者ではなく教育学者だ。
あまりにも優秀すぎると、周りから疎まれることになる。すると組織から排除されてしまうので、組織レベルを越える有能なヒトは1人もいないということになる。解決策は簡単だ。昇進を拒めば有能でいられるのだから「無能」を装って昇進しなければよいのである。日本語のwikipediaには翻訳がないが、ディルバートの法則というのもある。最も非生産的なヒトはシステム的に中間管理職に追い込まれるという法則だそうだ。
しかしこれは管理されるヒトの理論だ。マネージャーを志すヒトは「有能」「無能」でヒトの質を判断してはいけない。出世したいヒトにおすすめする本は、イヤなやつほど成功する! -マキャヴェリに学ぶ出世術だ。こちらはマキャベリに学ぶ「イヤな奴になる方法」だ。例えば、時々訳もなく怒ってみる。すると相手はビビって敬意を払うようになる。組織の上の方の方々はみんな嫌なヒトたちなので、間違いなくあなたを上層部に引き入れてくれるだろう。どっちみちシゴトは誰かにやらせるわけだし、有能でも俺のためにシゴトをしないやつは潰してしまえばいいわけである。
さて、組織の中で生き残るためには2つの方法があることがわかる。一つは有能でいつづけることで、もう一つはいい人と言われたいという欲求を捨ててイヤな奴に徹する方法だ。どちらがよいのかはわからないし、生き残ることができたとしても、イヤなヤツ、無能なヤツ、有能だけどそれを表に見せないヤツばかりになったら組織は潰れてしまうだろう。こうした法則はいくつもあるのだが、やはり前提として退屈になるほど平和だった企業文化がある。
それはともかく、ピーターの法則のすごいところは、みんなが「ああそうだよね」と思うようなことについて、畳み掛けるように様々な事例を加えているところだろう。とりあえず数が揃うと、数式や調査がなくても人々は納得する。また、細かい事は忘れてしまうかもしれないが、大まかな「法則」は覚えている。こうした手法はいろいろな本で使われている。そうしたこともあってこの本は40年も人々に読み継がれているのである。

ブレヒトと異化効果

NHKの対談番組でミヒャエル・エンデがブレヒトについて語っているのを見て肝っ玉おっ母とその子どもたち (岩波文庫)を読み返したくなった。エンデは役者としてブレヒトの演出を受けたことがあるのだそうだ。ブレヒト=異化効果と習い、無名塾の芝居まで見に行ったのに筋の方はすっかり忘れてしまっていた。当時はあまり興味がなかったのだろう。

あらすじ

舞台は新教と旧教が戦うヨーロッパ。商人「肝っ玉おっ母」は戦場を30年間さまよい続けている。肝っ玉おっ母は子どもを育てるために戦争を生活の糧にしているのだが、子ども達は全て戦争の犠牲になって死んでしまう。彼女は途中で戦争の惨めさに気がつきそうになるのだが、結局覚醒することはない。

観客は、自分の置かれている状態がわからないままさまよい続けるおっ母を客観的に見ることが「要求」される。これがブレヒトの異化効果である。

途中で唖の娘が太鼓を叩いて叫ぶ場面が出てくる。ここが一つの山場になっているのだが、彼女は唖者なのでメッセージを叫べない。これは、劇作として失敗しているのではない。わざとそういう風に作られている。ブレヒトには、観客に感情移入させないことで、批判的に状況を観て欲しいと考えている。これも異化効果だ。

演劇の魔力

肝っ玉おっ母のものすごい所は、ブレヒトの企みにもかかわらず観た人を共感させてしまうところだ。「大竹しのぶの演技に感動した」とか「世界観に引き込まれた」とかいう観劇評を見つけた。(※たまたま見つけたのがこれ。淡々としたト書き(ネタバレになっている)について書いてあるので、演出家は異化効果を意識していたようだ)

観客たちは作者の意図に反して勝手に感動してしまう。演劇は生きているのだ。「感情を揺さぶられることで癒されたい」という観客の抜き差しならない欲求が浮かび上がる。共感を拒絶する演劇を見ても人は共感して癒されてしまうのだ。

ブレヒト劇は、ドイツ共産党入党歴のある千田是也によって日本に紹介された。異化効果の背景には当時劇場化しつつあったドイツの状況がある。偉大な俳優だったヒトラーはドイツ国民を熱狂させた。こうした演劇的空間に批判的になるためには、一歩引いた姿勢が必要になるはずだ。だが知識人の抵抗は市民には受け入れられなかった。ドイツ国民はヒトラーの演劇空間に引き込まれてしまったのだ。

「肝っ玉おっ母」はかなり特殊な状況で書かれた作品だ。これが輸入され、戦後も上演され続けた。日本の演劇にはかつてこのような左派的な伝統と意図があったのだ。

思考の荒野

この戯曲を読んで考えたのは、戦争によって翻弄される人の愚かさ、戦争の惨めさといったものではなかった。独りで考える人がたどるであろう、堂々巡りの荒れ地についてだ。途中に「気付きの種」があったとしても、人は自分が置かれている世界からは容易に抜け出すことはできないのではないかと思うのだ。

「肝っ玉おっ母とその子どもたち」では、娘の太鼓が気づきにあたる。魂の叫びのようなものはあるが、明確には言語化されない。そして、それでもまだ歩き続けるべきなのか、立ち止まって言葉を発するべきなのかという問いに簡単に答えはない。

いろいろな状況にあてはまる何かがあることが、優れた物語の一つの条件なのだろう。共産党、反ナチといった政治的な意図で作られた芝居が、今でも上演されるのはこういう理由もあるように思える。

ブレヒト=異化効果ではないようだ

ブレヒト=異化効果だと習ったのだが、この「異化効果」をWikipediaでひくと日本語にしか項目がない。英語版のWikipediaには、Non-Aristotelian Drama(非アリストテレス劇)だと書いてある。文学作品が持っているカタルシス効果を否定した演劇を非アリストテレス劇というのだそうだ。

ブレヒトが当時の左翼思想によって日本に導入された時点の解釈が、今でも受け継がれているのだろう。

ただ、ブレヒトの芝居が単なる社会批判だったのなら、ここまでの人気を集めることはなかっただろう。「感動」や「共感」を与える素地があったからこそ、現代でも上演され続けているわけだ。

感情に飲み込まれることに抵抗を示すために作られた芝居が、皮肉なことに感情や共感の根深さを浮き彫りにしている。人はそれほど共感しやすい生き物なのだということになる。

 

動物農場

図書館で1年に一度無料の古本配布会をやる。「ろくな本がないな」と思っていたら、オーウェルの動物農場 (角川文庫)を見つけた。文庫本だし、面白くなければ捨てればいいと思い、もらって帰ることにした。近くの公園に東屋がある。曇っていて寒いので、その東屋で本を読む事にする。スーパーで買った50円の缶コーヒー(ブラック)と、80円の格段にでかいどら焼きを開けて、本を読み始めた。

東屋の中には男がいて、AMラジオで野球を聞いている。すると、別の男がやって来て、缶ビール(あるいは発泡酒かもしれない)とフライが入ったパックを開いた。外にいる二人を呼ぶためにガラスをどんどんと叩く。「中で食べるとまずいんじゃないのか」という友達に対して「ダメだと言われれば外に出ればいいんだ」という。金を払うよという友達に「誰が奢ろうと関係あるもんか、黙って食えよ」と太っ腹なところを見せる。缶ビール(いや多分発泡酒だろう)は1人に2本あるのだそうだ。揚げ物は1人1パック。ちょっと欲しいなと思ったが、分けてくれそうな様子はない。

動物農場の話は、老いた豚が夢を見る所からはじまる。それは実現しそうもない夢に思えたのだが、動物達は豚の死後、蜂起して人間を追い出してしまう。人間は搾取するだけで働かないじゃないかというわけだ。革命は成就し、動物達は7か条からなる理想を掲げて共同生活をはじめる。しかし革命の理想はみんなに理解されていたわけではなかった。あるものはそもそもアルファベットを最後まで覚えられなかったし「四つ足はいいけど、二つ足はダメだ」というような単純なスローガンしか理解できなかったものたちもいた。最初のころこそ良かったものの、革命の指導者だった豚達が権力闘争をはじめ、7か条の理想はゆがめられ、最後には人間よりも醜い支配者となりはててしまうところで話は終わる。

全体的にはソ連の歴史をふまえた悲劇なのだが、流して読むと動物達のどたばたぶりが面白い。寓話的に書かれているので大抵の権力抗争に当てはめることもできる。多分、未来のある時点から今現在の日本を見たら「ああ、あのときの民主党もそうだったよね」と思えるのかもしれない。最初は動物達の支持を集めて革命が成立するのだが、豚達の腐敗を見るにつれて「あれ?これはおかしいよね」と思う所が出てくる。しかしなんとなく言い訳できる範囲だし、言い訳ができなくなれば最初の取り決めを書き換えりゃいい。それでも説明がつかなくなると「実は、敵の仕業だった」とか「それでも、前よりはマシだろう」言えば丸め込める。

苦しくなって来たとき、最後のよりどころになるのが自尊心だ。どんなに貧しい暮らしをしていても、奴隷であるより主人である方がいいだろうということだ。だけどそれはまやかしでしかない。

多分、今民主党に入れた人たちも同じようなことを感じているだろう。亀井さんや小沢さんといった強面のオジサマたちを見て「あれおかしいのでは?」と考える。でも、いったん権力の椅子に座った人たちがいつまで自制心を保っていられるものなのだろうか。いつのまにか「そんな話は聞いていない」とか「それは俺のなわばりだ」などと言い出さないとも限らない。

動物農場の革命では知識の差が不公平を生じさせる。知識といってもアルファベットを全部読めるか、読めないかという程度の違いだ。途中で生産性を上げるためのアイディアというのが出てくるのだが、それも他人から奪ったアイディアだった。そして裏ではしっかりと権力が搾取する仕組みが作られてゆく。

さて、これを読んでいる間、おじさんたちはずーっとおしゃべりをしていた。最初は野球選手の年棒、成績、勝敗について話している。多分スポーツ新聞を追っているのだと思うが、話の内容はかなり複雑だ。主婦が芸能人の人間関係をかなり正確に記憶しているのに驚嘆させられることがあるが、同じくらいの複雑さがある。

どうやら人間の関係性を記憶するのが日本人はかなり得意なように思える。こうしたデータを持っていても野球がうまくはならないだろうが、楽しく観戦するのには役立つのかもしれない。やがて話は楽天の経営状態に移り、インターネットの話になった。一人のおじさんが詳しいらしく、楽天やYUSENとホリエモンの関係、光ファイバー(値段が高いから普及しないのだそうだ)について仲間に説明していた。「インターネットでいろいろやったってさ、どうせ金儲けだろう」と一人のおじさんがいい、その話は終わりになった。

スポーツ新聞とか週刊誌は政治家を理解するのにこういった手法を使っているし、女性週刊誌は芸能人のこういった人間関係を事細かに描写する。

さて、昨日来、創造的な自尊的感情を問題にしているのだが、自尊感情を理想的に捉えすぎているのかもしれない。

動物農場では、理想として始まったはずの革命は徹底的に歪められてしまう。知識の足りない自尊心は搾取のために都合良く利用されるだけなのだ。作中に働き者の馬が出てくるのだがその末路は悲惨だ。結局重労働が祟って死んでしまうのだが、豚たちは馬を売り払い、お酒に替えて飲んでしまうのである。また豚達も「支配階級である」という自尊的な感情を持っているのだが、単に動物達を搾取してもいいと考えてしまうだけなのだ。

どうしてこういった違いが出てくるのだろうかと考える。いったんは自尊感情には「よい自尊感情」と「悪い自尊感情」があるのだと結論づけたくなる。しかし、もうすこし考えてみるとそんなものはないことがわかるだろう。そこにあるのは自尊感情があるから生み出される良い結果と、悪い結果に過ぎない。出発点は良くても、最後には悲惨な結末を迎えることもある。

創造性にも同じことが言える。よい創造性と悪い創造性があるわけではない。原爆も創造性が生み出した。原爆が戦争を止めたという人もいるし、これがなかったらドイツ軍がユダヤ人をもっと殺していただろうと考える人もいる。だが、大量破壊兵器であることも確かだ。あれは良い創造性だったのか、悪い創造性だったのか。考えるだけ無駄なことだ。

ここで大騒ぎしているおじさんたちに創造的な自尊心があるようには思えない。多分、個人の感情の赴くままに好きに生きていいよと言った所で、発泡酒(もう完全にそうだと決めつけているのだが)の本数が2本から3本になり、入って来た収入を仲間に振る舞って使ってしまうか、競輪かなにかにつぎ込んで終わりになってしまいそうだ。

かといって、誰かがすばらしい創造性を得られるように指導してあげますといったところで、それは動物農場の豚と同じくらいの醜悪さしか持たないだろう。とりあえず、おじさんたちは週末に集って、トランジスタラジオを聞きながら、仲間と野球監督を気取っているのが楽しいわけだ。それはそれでいいんじゃないか。

このおじさんたちが、林住期にさしかかり「はて、わたくしの人生とは何だったのでありましょうか」と思う日がくるだろうか。そうは考えにくい。同じように新聞で日々移り変わる政治状況を見ているひとたちも、国の将来を心配しているというよりは、一種の娯楽として大臣達の人間関係を眺めつつ「俺が総理大臣だったらこうするのになあ」と思っているかもしれない。

こうした自尊心や創造性の不確実さは、例えば企業の経営者のような創造性を生産性に結びつけたい人たちにとっては大変厄介な問題だ。まず第一に自分の自尊心が、「正しい」ものであるかを内省した上で、自分達が管理している人の創造性が「そこにふさわしいものであるか」を吟味しなければならないからだ。

そもそも現実がそこそこ楽しいからいいやと思う人たちに無理にモチベーションを与えることも、志が低いと責め立てることもできないし、モチベーションが高い人たちが「お俺だったらもっとうまくやるのに」と思い始めたとき、チームは瓦解してしまうだろう。

一方、たまたま「はて、わたくしの人生とは何だったのでありましょうか」と考えるに至った人たちも、ある意味運が悪かったとしかいいようがない。そういった考えに取り憑かれて生活や家族の義務を離れてしまう人たちもいるし(それを自己愛性の障害だと捉える人すらいる)、それが後の人類が感謝する偉大な創造物につながる可能性もないとはいえない。作者のジョージ・オーウェルもそういった「意義」に取り憑かれるに至った1人だったようだ。

どうやら生い立ちが関係しているようなのだが、階級社会に疑問を抱き、イートン校を卒業したものの大学には行かず、フリーターのような生活に入った。時には浮浪者として街から街へとさまよい、あるときには戦場に出かけ死にかけたりする。その後社会主義に傾倒して文筆業に入るものの貧乏生活が続き、動物農場で一応の経済的安定を得る事になる。しかしこの成果に満足せず、病身をおして取り憑かれたように『1984年』(ハヤカワ文庫 NV 8)を書きそのまま死んでしまうのだった。

どうしてこの人がこういった警鐘文学に取り憑かれたのかはよくわからない。あまりにもテーマが直裁過ぎて、これが芸術なのだろうかとも思う。しかしこうした彼のある意味気違いじみた献身のおかげで後世の我々は全体主義の危うさや権力闘争のばかばかしさを考察することができるのだ。