レトロなポスターに使えるフォント

Photoshopを使うと、写真からイラストを作ることができる。色合いを抑えて、枠線を付けるとなんちゃってイラストの出来上がりである。だが、そこに文字を付けるときに考え込んでしまう。フォントはたくさんありすぎてどれを選んでいいのかよく分からないのだ。

使っていいセリフ系フォント

下記に挙げるフォントは使える。古くからあるフォントだからだ。

  • Garamond (16世紀)
  • Caslon (1734)
  • Baskerville (1757)
  • Bodoni (19世紀)
  • Didot (19世紀)
  • Cochin (1912)

使っていいサンセリフ系フォント

下記に挙げるサンセリフ系フォントは使える。レトロ調ポスター(今回はアールデコとする)は1910年から1930年までの短い間に作られたのだが、それに合わせていくつものサンセリフ系フォントが作られたからである。

  • Copperplate (1910)
  • Futura (1923)
  • Gill Sans (1930)
  • Peignot (1937)

ここに挙っていないサンセリフフォントは使えないものがある。HelveticaやUniverseは戦後に作られた。

さて、パソコンにインストールされている「なんか古そう」なフォントの中にも使えないやつがある。使えないのだが「なんとなく古く見える」ように作られているので、分かって使う分には面白い効果が得られるかもしれない。

  • Bauhaus (1975)
  • Trajan (1989)
  • Desdemona
  • Hervulanum (1990)

なお、ブラックレターのGoudy Textはなんちゃってフォントのように思えるのだが、1928年制作だそうだ。これは使えるのである。

その雑草には名前があります

IMG_0198よく家のブロック塀のような所にこんぺいとうのようなピンクの花を咲かせる雑草が生えている。実はこの雑草にはポリゴナムという名前が付いている。和名をヒメツルソバというそうだ。

ポリゴナムは他の草が生えなさそうなところに群生している。どうやら夏の暑さにも冬の寒さにも耐えるらしい。それほど日当りはなくても大丈夫なようだが、じめじめした木の根もとなどは苦手なようだ。どちらかといえば荒れて乾燥したところに生えている。ほんのちょっとした隙間に種が潜り込む。

ポリゴナムはタデの仲間である。つまりソバの近縁だ。ソバも荒れ地に生えることで知られているのだが、親戚であるポリゴナムも栄養の少ない荒れ地で生きてゆけるらしい。逆に栄養の良すぎる土地では他の植物に駆逐されてしまう可能性があるということになる。

実はこの花は外国原産らしい。日本語の情報では「ヒマラヤ原産であり、ロックガーデン用に明治時代に輸入された」という情報が広まっている。英語版のWikipediaではアジア原産だと書いてある。オーストラリアやアメリカにももたらされて自生しているらしい。

IMG_0195さて、この雑草の名前を知ったのは実はホームセンターなどで売られているからだ。価格は199円であった。花よりも高い値段で売られているのだ。

不思議なもので名前と値段が付いているとなぜか雑草扱いしたくなくなる。

よく「素人でも育てやすい園芸植物はありませんか」と聞くガーデニングの素人がいるのだが、実際には「増えすぎて困る」ものもあるのである。ポリゴナムもそのような植物の一つだ。

ヤフオク

古いマックをメイン機として使っているのだが、最近どうも様子が怪しい。スリープしたら電源が切れて時計がリセットされていた。それから怖くてスリープされられない。電池で起動したところ10分で反応がなくなった。だからノートなのに動かせない。常時機動させていたらハードディスクにも悪いだろうなあと思う。この手の機種は内蔵電気がイカれると機動すらできなくなるのだ。

古いソフトを起動するには古いPPCのデスクトップ型が良いのではないかと思った。今はどうか知らないが昔のマックはよく働く。何せ1999年に買ったデスクトップ機をまだ使っているのだが、これがちゃんと動くのだ。

中古屋で10,000円のG5を見つけたのだが、ハードディスクがない上に持って帰るのも面倒だ。小さいのないかなあと思って探し当てたのがヤフオクだ。1円とかごろごろある。もし1円で落札しちゃったら、送料で大変なことになるんじゃないかとも思った。

あまりにも世間知らずだった。

価格がつりあがり始めたのは終わり二時間ほどになってから。見ているうちにどんどん値段が上がる。最近の機種はあっという間に10000円を超えて手の届かないことになった。つられて値段を上げてゆくわけだが、ふと冷静になった。いくつかはジャンクなのだ。つまり動かないのである。ハードディスクは入っているのだが、?マーク(昔はサッドマックとか言ったのだが、今のは何ていうのだろうか)が出ているのがある。多分壊れているっぽい。動作確認済みとか書いてあるが、iMacの最近のやつはハードディスクはずすのめちゃくちゃ大変だよ、知ってるの、というものまで値段が上がってゆくのだ。結局動かないノートが3000円くらいになった。後から考えるとばかげているが2000円くらいまでは入札していたのだ。

古いパソコンなんか誰も見向きもしないだろうと思ったのだが、ライバルが現れた。この人がどんどん値段を吊り上げてゆく。4000円くらいで誰も入札していない同機種があるので、だいたい3000円くらいが相場なんだと思う。2台あるうちの一台は2500円で競り落とされた。最初はわざわざ吊り上げているのかと思ったのだが2台とも欲しいらしい。一台目は2000円で降りたたのだが、こうなると不思議なもので「最後の一台」が欲しくなる。完全に誤認だ。来週にも同じようなものが出るのだろうから。結局、3000円で落札した。値ごろなのかはよくわからない。

いつのまにか時間は深夜1時になっていた。多分、ヤフオク的にはピークタイムなのではないかと思う。いくつもの商品が日曜の深夜(つまり月曜の朝)が締め切りになるように設定されている。そのまま心臓がどきどきして眠れず、結局、朝まで眠れなくなった。

同じことをもう一度繰り返したいかといわれると、微妙なところだ。夜眠れなくなるのは嫌だからだ。だが、この「競る間隔」には麻薬的なところがある。闘争心って快楽物質を放出するんだなあと思った。ヤフオクで散在する人、結構多いのではないだろうか。

そもそも、本当に使い物になる機種が来るのだろうか。今は別の意味でどきどきしている。もしかしたら全く使い物にならないものを買ってしまったかもしれないし、最悪届かないかもしれないのだ。

コメはいつめしに変わるのか

外国人から日本語について聞かれてもにわかに答えられないことがある。コメはいつめし(あるいはごはん)に変わるのだろうか。普通に考えると電子炊飯器に入れた状態はコメだが、出したときにはめしになっているということになる。では、透明な炊飯器があり中身が見えたとして、いつからめしになるのだろうか。

この質問は問いの立て方が間違っている。めしをみて「これはコメか」と問われれば「はいそうです」と答えるからだ。つまり、コメはめしに変化したのではないのだ。だが、生米をみて「これはめしだ」という日本人はいない。つまり、コメに「食べられる」という属性を与えたものがめしなのだ。

同じことは水にも言える。水を温めたのがお湯だ。お湯は水であるが、水はお湯ではない。水に「温かい」という属性を与えたのがお湯である。お湯に場合は事情が異なっている。40度程度はぬるま湯と呼ばれるが、これが30度の場合には水という人が多いに違いない。つまり何度からがお湯とはいえないのだ。ちなみに温泉法によると25度以上のものは温泉と呼ぶらしい。法律的には25度以上はお湯なのだ。

ではこれが日本語特有の現象かと言われればそうではない。小麦(wheat)を粉にしたものが小麦粉(flour)で、これを加工したものがパン(bread)だが、焼かれていない状態ではパンとは呼ばず生地(dough)と呼ばれる。食べられない状態のパンを生地と呼んでいるのだ。だからコメがいつめしになるのだと聞かれたら、小麦はいつ生地になり生地はいつパンになるのかと聞けばよいのだ。コメはあまり形が変えずに食べられるのでこのような混乱が起こるのだろう。

Sankei’s Paranoia

I was bit surprised. One of Japanese leading newspapers Sankei called a demonstration protesting Abe’s “war law” as a Nazi-alike activity.

It is cognitive dissonance. Sankei and its supporters believe they are doing right things. However, they are frustrated because young people don’t follow Sankei. They internally explained that was because young people ignorant and immature. But the anti-government movement showed they are not ignorant but willing to change the situation. So they have changed their explanation. The young people are protesting because the young people are brainwashed by a evil party like Nazi.

Ironically, the movement is ignored by Japanese voters. About 50% of voters still supporting Abe because it is still better than DPJ’s traumatic three years. Japanese voters are afraid of changes. Only right wings feel the movement is a threat and can’t help calling the movement a Nazi like activity.

Recently Sanae Takaichi a minister of Internal Affairs and Communications told the government could suspend a broadcasting station if the government judged programs were unfair. It must be a shocking comment for westerners but Japanese voters didn’t react much nor called it a Nazi alike attitude.

Japanese have enjoyed full spec democracy for 70 years but it seems that the US failed to “install” democracy to Japan.

池田信夫さんはマックを使うといいんじゃないか

どうでもいいといえばどうでもいい話なのだが、池田信夫さんがLENOVOのパソコンについて怒っている。どうやらOSをアップデートしようとしたところ、不具合が生じて、最終的にデータが吹っ飛んだのだという。そこで中国は信用できないと息巻いているのだ。

いや、LENOVOのパソコンはいいパソコンですよ。作りが単純で頑丈なので持ち運びに気を使わないし。HDやメモリの入れ替えなどのメンテナンスも楽だし。メモリやSSDも安くなっているので、改造のしがいもある。個人的には中古で買ったので「安いのによくここまで動くなあ」と思った。

とはいえ、OSを入れ替えたらデータ吹っ飛んだというのは、さすがに引くなあ、とは思った。確かに、OSをアップしたらタッチパッドとか無線LANが動かなくなったという話はよく聞く。LENOVOのウェブサイトに案内されている方法ではだめで、手動で直したという人が多い。これ、中国(LENOVO)のせいというよりはアメリカ(マイクロソフト)のせいだろう。

OSの切り替え時にパソコンを買い換えたのもよくなかった。どのOSでも切り替え期の新製品は人柱だ。問題が枯れてから価格COMなんかで評判を見て買うのが正しい方法だろう。

いずれにせよ、OSを入れ替えるのにバックアップ取っておかないっていうのが「狂ってるなあ」と思う。Macにはタイムマシーンという方法があり、外付けのハードディスクに取ったバックアップから復旧できる仕組みが整っている。だからOSを入れ替える前にタイムマシーンするのがお決まりだ。デスクトップPCであれば、複数のハードディスクに違うバージョンのOSを入れておくこともできる。最悪データが吹っ飛んだらネットでリカバーできる仕組みもある。高いといわれるMacだが10万円を切るminiというカテゴリがある。(Mac Miniについては別途調べた。その記事はこちら

一方、Windowsはバックアップを取るのが意外と面倒だ。

さらにWindowsで驚くのが「クリーンインストール」という言葉である。Windowsパソコンが重くなったというと、お決まりのように「できればクリーンインストールを」と言われる。最初はからかっているのだろうと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。相手は真顔だ。しばらく使っていたら重くなって復旧できないなどというのはMacintoshの世界では冗談でしかない。

手持ちのXPパソコンをWindows10にした人もいるらしいのだが、XPからWindows10にするためにはクリーンインストールしか手がないのだそうだ。古いパソコンは捨てて新しいの買ってくれという意味だとは思うのだが、あまり便利でもないし、クールでもない。

池田さんは動画の編集をしなければならないので、49,000円のパソコンで一番早そうなやつを買ったとのことだがが、Macであれば最初から動画編集などができるツールを揃えることができる。素人が使っても使いやすいようにインターフェイスが工夫されている。他社製品と組み合わせる必要がないので、ドライバーも安定している。

ということで、池田信夫さんはDELLなんか買わずにMacを導入すべきなのではないだろうか。しつこいようだがMacが欲しくなった方はこちらもごらんいただきたい

友達の喧嘩にまきこまれた – 検索ワードから

検索に使われたキーワードから面白そうなものを抜き出してみた。いろいろ悩んでいる人が多いらしい。

Q.友達の喧嘩にまきこまれた
A,.それは大変ですね、としか言いようがない。

Q.マイナンバーカード Felica
A. Felicaではなく、ISO/IEC 14443 TypeA/Bという規格らしいが、よくわかりません。これお仕事だったのだろうか。調査に協力できなくて申し訳ない。

Q.マイナンバーカード 点字
A.確かに必要かも。申請すれば付けてもらえるらしい。知らなかった。

Q.プラモデル火事
A.それは大変でしたね。シンナーに引火するの?

Q.Lineやめられない
A.スマホをお風呂に沈めてみてはいかがか。

Q.文明の衝突問題点
A.それは僕も知りたいですがわかりません。イデオロギーなき世の衝突を文明で代入しただけという批判があるみたいですね。

Q.ハイルヒトラー意味
A.ジーク・ハイルは「勝利万歳」という意味らしいが、ハイルは英語のWholeと同根で「完全な」とか「健康な」とかいう意味があるようですよ。

Q.オリンピックいらない
A.かかわる人が次々と不幸になる。最近ではパラリンピックの応援団のSMAPとか。確かにいらないという人の気持ちもわかりますね。

Q.シュレーバー回想録
A.「なにそれ」と思ったのだが、フロイトでしたね。すっかり忘れていた。

Q.戦争は平和である。
A.元ネタは『1984』ですね。最近では安部首相もキムジョンウンも使っていて、東北アジアでは流行しつつあるみたいだ。

Q.MBTIキャラ
A.だからあれは占いでもキャラでもないの。

Q.アベノミクスどうなった
A.どうなったんだろう。失敗したんじゃないですかね。

Q.二重ルーターメリット、デメリット、設定
A.このワードが検索されるたびに5000円くらいで相談に乗ってあげられるのにと思う。ちゃんと設定すれば二重でも三重でもきちんと動くよ。

Q.クリスランガン
A.まったく記憶になかったが、マルコム・グラッドウェルの本に出てきたらしい。

Q.ジェームスディーン・ゲイ
A.へえー知らなかった。本当なのか。過去にそんな話を書いたのかなあ。

Q.放蕩息子の帰還現代的意味
A.そんな哲学的なこと書いた覚えはないが、あれは父の赦しについて書いてある。現代的な意味合いはなくて、かなり普遍的な話だと思うよ。

春子の「成仏」

『あまちゃん』が最終週を迎えた。鈴鹿ひろ美が歌を披露して「昔の春子が消える」というのが昨日の内容だった。昔の春子は「残してきた思い」のようなものを象徴しており、それが消え去ることで「過去の思い」が解消するということを演劇的に表現している。思いを残していたのは春子だけではない。劇中では語られないものの鈴鹿ひろ美にもそれなりの思いがあったようである。

人は誰でも過去の選択に後悔した記憶があるはずだ。そうした後悔は消えてしまう場合もあるが、いつまでも残り続けることがある。ただし、それを直接的に表現することはできないために、可視化するためにはなんらかの工夫が必要である。今回は過去の選択と後悔が主人公の一人になっている。

そしてそれが「解消」されたときに、ある種の解放感が得られる。これをカタルシスと呼んだりする。ドラマの中では、過去の後悔が登場人物を結びつける装置として働いているので、これが解消されることでドラマそのものからの解放が図られる。

よく「あまロス」ということが語られる。『あまちゃん』が終ってしまったら、心の中にぽっかり穴が開くだろうという予想である。ところが、よくできた演劇は「時間と空間」が区切られていて、いわゆる「演劇的空間」が作られている。そこに引き込んでから解放してあげるところまでが劇作家の仕事だ。

区切られた空間で演劇を見るのは、普段の生活の中では得られないカタルシスが得られるからだ。お茶の間で見ることが前提のテレビドラマでにはこうした区切りがないものもあるのだが、今回はうまく作用している。

問題は、なぜこのドラマでカタルシスを得る必要があるのかという点だろう。今回のドラマは東日本大震災を扱っている。震災では多くの命が失われた。ご遺体も上がらず「さよなら」も言えずに別れ別れになってしまった人たちがたくさんいるはずなのである。

日本人は、亡くなったら自然に還って行くという死生観を持っている。最終的には個人が消え去り集団に戻るというのが、伝統的な考え方である。これは現代の仏式の葬儀儀式にも残っていて「順番を追って」気持ちを切り離して行く。通夜を行い、葬儀をして、初七日があり、四十九日がある。霊魂の存在を信じるかどうかによって「成仏」にはいろいろな解釈があると思うのだが、生きている人たちから見ると、こうした手順を追う事で「お互いに残した思い」を解消する装置になっている。

NHKでは「3.11の被害者をいつまでも忘れない」というようなキャンペーンをやっている。そのキャンペーンソングの中に「私はなにを残しただろう」という歌詞があるし、思い出すのも「あの人たち」ではなく「あの人」だ。いつまでも忘れたくないという気持ちが残るのは当然だ。その一方で、当事者たちからすると「いつまでも思いが残っている」ということは、なかなかしんどいことなのではないかと思う。

100x100「昔の春子が解消した」ことの裏にあるのは、単に過去が解消したということだけではなく、そこで得たつながりを保ちつつも「さあ、前に進もう」という共感だ。直接的には犠牲者については触れず – このドラマでは終始一貫して直接的な言及は避けられている – 思いを汲み取ろうという努力が感じられる。

演劇的なカタルシスに価値があるのは、私達の普段の生活の中に意のままにならないことが多く存在するからだ。

トウガラシから見えてくるもの

インド料理について調べていて興味を持ったので、トウガラシのことを調べてみた。なかなか面白いことが見えてくる。

トウガラシは中米(現在はメキシコ説が主流らしい)原産のナス科の植物だ。にも関わらず、トウガラシ料理を自国の文化と結びつける民族は多い。例えば韓国と日本を比較するのに「トウガラシとワサビ」という言い方をする人もいるし、インド料理やタイ料理にはトウガラシが欠かせない。

新大陸からヨーロッパに渡ったのはコロンブスの時代であり、それ以前のインド料理にはコショウはあってもトウガラシの辛さはなかったはずだ。こうした料理を見るとグローバル化という言葉が使われる以前から、世界の交易が盛んだったことが分かる。

トウガラシの叫び: 〈食の危機〉最前線をゆく』は、気候変動とトウガラシの関係について書いた本だ。邦題を読むと、いたずらに悲壮感をあおる本のように思えるが、実際にはトウガラシとアメリカ各地の人々の関係について実地調査した「明るめ」の本だ。

この本を読むと各地のトウガラシ – 日本人はひとまとめにしてしまいがちだが、実際には様々な品種がある – とのつながりと「トウガラシ愛」が分かる。気候変動によって引き起こされたと思われる水害によって壊滅的な被害を受けた土地もある。気候変動が将来の可能性の問題ではなく、いま目の前にある現実だということが強調されている。その一方で、過去には育てられなかった作物が収穫できるようになった土地もあるそうだ。

『トウガラシの叫び』は作物の多様性についても言及している。農作物も産業化しており、大量に収穫が見込めるトウガラシがローカルのトウガラシを駆逐して行くことがあるそうだ。それぞれのトウガラシには固有の風味というものがあり、それが失われることで、食べ物の多様性も失われて行くであろう。各地のトウガラシ栽培には、先祖たちのストーリーがある。それが失われるということは、すなわち先祖とのつながりや誇りといったものが切れてしまうということを意味する。

その事は、『トウガラシの文化誌』からも読み取ることができる。この本も人々のトウガラシ愛について言及している。

両方の本に書かれているのが、タバスコ・ソースについての物語だ。現在に至るまでルイジアナの一家が所有した企業によって作られているタバスコ・ソースは、南軍の兵士がメキシコのタバスコ州から持ち帰ったトウガラシから作られている。この一家の先祖は、北軍による攻撃を受けてその土地を追われてしまった。戦争が終わって戻ってくると土地は荒れ果てていたのだが、ただ一本残っているトウガラシを見つけた。タバスコペッパーは生きていたのだ。そのトウガラシから作ったソースは評判を呼び、今では世界中で使われている。

このようにトウガラシから分かることはいくつもある。地球温暖化や気候変動は身近な作物 – つまり私達の生活 – に影響をあたえている。多様な食文化は、食材の多様性に支えられている。グローバル化はそれを脅かしつつある。一方で、伝統的に思えるローカルな料理も実はそのグローバル化の影響を受けて変質している。変質してはいるものの、世界の人たちはおおむねこの変化を歓迎しているようだ。

トウガラシに着目するといろいろなことが見えてくる。理屈だけを見るよりも、具体的な物や人に着目する事で、問題についての理解が深まる。

さて、世界の人々がトウガラシに愛着を感じるのはどうしてなのだろうか。

トウガラシにはカプサイシンという成分がある。ほ乳動物はこの物質を摂取すると舌に痛みを感じる。ところがこのカプサイシンを少量だけ摂取すると体温が上がり、ランナーズハイに似た症状を感じるらしい。エンドルフィンなどの鎮痛成分が生じるためと言われている。

また食べ物の味を明確にする機能があるようだ。よく「辛いものばかり食べていると舌がしびれてバカになる」と言う人がいるが、実際には逆らしい。このことは日本人の好きなスシとワサビの関係を見てもよく分かる。ワサビの辛みが加わる事で、味に「枠組み」のようなものが生じ、うまみが増すのが感じられるからだ。

日本人と味覚

インド料理について調べていると「日本人が持っている味蕾の数は世界一である」というような記述があった。なかなかすばらしいことではあるが、日本人が書いた日本人論を見ると「これ、本当かなあ」と思うことがある。特に、客観的な事実が書いてあり、出典がないものは要注意だ。ということで調べてみた。

この「日本人が持っている味蕾の数は世界一」という表現は、いくつかの事実が合成されてできた「風説」のようだ。このフレーズだけを聞くと「ああ、僕の味覚も優れているんだなあ」などと思ってしまう。そして「トウガラシばかり食べている他の国の人と違い、日本人は繊細な味が分かるのだ」という結論を出したくなる人もいるかもしれない。

味覚を調査した論文がいくつ載っている本には「白人に比べて、アジア系には味蕾の数が多い人の割合が高い」書いてあるものがある。この研究は中国人と白人を比べているが、アジア系一般に言えることらしい。インド料理の本で読んだのはこの「アジア系」を日本人に置き換えたもののようだ。

一方、オーストラリア人と日本人を比較対象した研究には別の記述がある。オーストラリア人と日本人を比べて味の識別能力がどれくらいあるかを調べた。「うま味」(グルタミン酸など)で優位な差が出たが、その他の感度に違いはなかった。この調査は溶液を使ったものだ。ところが、実際の食品の味付けを変えて出した所、オーストラリア人と日本人には違いがあった。(以上『味とにおい – 感覚の科学-味覚と嗅覚の22章』)

どうやら「白人と比較するとアジア人(日本人も含まれる)には味覚が鋭敏な人が多く」「日本人は西洋の人の味の好みは違う」というところまでは「事実」らしい。一般的な体験を重ね合わせても、日本人の方が薄味を好むという点までは合意ができそうな気がするが「日本人の味覚は世界一」とまでは言えないようだ。

この「日本人の味覚は優れている」という説には続きがある。ネット上でいくつか見つけたのは「うま味は日本人が見つけた。これがわかるということは日本人が繊細な味つけを好むからだ」というような主張だ。確かに「うま味」は世界共通語になっていて、5つの基本的な味(しょっぱい、あまい、すっぱい、にがい、うまい)の1つとして認知されている。ところがこれも「日本人」をどう捉えるかで、意味が違ってくる。

うま味を見つけて、命名したのは、池田菊苗という日本人だ。1907年に発明して特許も取っている。ところが「うま味は日本人が発見した」と聞くと「日本人一般が古くからうま味の存在を知っていた」というようにも取れる。

ところが、東南アジアから東アジア一帯には魚醤を使う文化圏がある。魚が発酵するとタンパク質が分解されうま味成分が作られる。例えばキムチにもこうしたうま味成分が含まれている。つまり、日本人は海洋アジア系の伝統を引き継いでいるということは言えても「日本人だけがうま味を知っている」とまでは言い切れないことになる。アジア人は古くからうま味を利用してきたのだ。

一方で、日本人が諸外国の人々と比べて特に際立っていることもある。それが「風味」に関する欲求だ。風味は「フレーバー」と翻訳されたりするのだが、どちらかというと「新鮮さ」を識別する指標として使われることが多い。スーパーでも「産地直送」の新鮮な野菜や魚などに人気が集る。そのために物流網が発達し、鮮度を保つ冷凍技術なども充実している。デパートの売上げが落ちていると言われているが、デパ地下の人気だけは衰えない。

強い味付けが好まれないのは「魚や野菜の素材を活かして新鮮なうちに食べるのが一番おいしいのだ」と思っている人が多いからなのかもしれない。

こうした鮮度に対する欲求が際立っているせいで、外資系のスーパーマーケットはなかなか日本で成功することができない。コストコのように価格で成功している店もあるが「日用品」「加工食品」「肉」といった主力商品は、どれもあまり鮮度が重要でないものだ。

また、新鮮な素材が豊富に手に入り、消費者の食べ物への関心が高いために、東京では世界各国の料理が食べられる。

総論すると、日本人の味覚が世界一と言えるかどうかは分からないが、新鮮な食べ物が手に入れやすい点と、世界各地の料理が食べられる点では、かなり幸福な環境に暮らしているということはいえそうである。

『最後の授業』の誤解

『最後の授業』という感動的な短編がある。

アルザス地方に住む少年が学校に遅刻して行ったところ、大人たちが深刻そうな様子で集っている。どうやらフランス語の先生が、プロシア人たちによって辞めさせられるらしい。今日が最後の授業だというのだ。フランス語の先生は「フランス語は世界で一番の言語である」ことを強調する。少年はフランス語を習得できなかったことを恥るが、もう二度とフランス語を勉強することはできないだろう。小説は「フランス万歳!(Vive la France)」という言葉で締めくくられる。

この話の教訓は「国語というものの力強さと素晴らしさ」で、一時期、国語の授業では必ず教えられていた。今40歳代の日本人であれば誰でも知っている話だろう。勉強する機会は充分にあったのに、勉強させなかった、という先生の後悔の念が語られ、フランス語をろくに習得できなかった(動詞の活用ができない)生徒も悔しさをにじませる。

これを日本語と中国語の関係に置き換えてみよう。もちろんこんな史実はない。だから中国語を英語に置き換えてもらっても構わない。しかし何語に置き換えても「かなりショッキング」に聞こえるのではないかと思う。どちらも異民族支配をにおわせるからだ。

沖縄地方に住む少年が学校に遅刻して行ったところ、大人たちが深刻そうな様子で集っている。どうやら中国語(あるいは英語)の先生が東京人たちによって辞めさせられるらしい。今日が最後の授業だというのだ。中国語(あるいは英語)の先生は「中国語(あるいは英語)は世界で一番の言語である」ことを強調する。少年は中国語を習得できなかったことを恥じる。小説は「中国万歳!(あるいは英語万歳!)」という言葉で締めくくられる。

アルザス地方に住んでいるから、この人たちは「フランス人だろう」と、私達はついそう思ってしまうのだが、実際に住んでいるのは「アルザス人」だ。アルザス語はドイツ語の一派である。(Wikipediaにはドイツ語の方言と書かれているのだが、これはことの本質に影響する問題だ)小説の中に「フランス人だと言い張っているが、フランス語もろくにしゃべれないじゃないか」という言葉が出てくるのだが、これは当たり前である。アルザス人にとって、フランス語は学校で習わなければ覚えることができない「外国語」(という言葉が適当でなければ、別系統の言葉)なのである。

この状態は実は現在でも続いている。フランスにはバイリンガルな人たちが相当数存在する。
この話のもう一つのポイントは「アルザス人」と「プロシア人」の関係だ。この頃にはまだ「ドイツ人」という概念はなかった。例え話の中で「沖縄」を出したのはそのためだ。現在の沖縄人は標準語をきれいに話すし、琉球方言が日本語と同系統にあるのは間違いがない。しかし、これを「琉球方言」と呼ぶか「沖縄語」と見なすかは、実は大きな問題だ。「独立したアイデンティティ」と見なすことも可能だし「日本人とは違う」という差別の温床にもなる。日本人としてのアイデンティティを持っている大阪府在住の沖縄人(例えば金城さんや仲村さん)を「差別するのか」という問題になりかねない。

フランス留学時にこの話に接した日本人は「ああ、民族にとって言葉は大切なのだなあ」と純粋に感動してこの話を持ち帰ったのだろう。しかし、実際には複雑な背景持ったお話なのだ。だから、最近ではこの話は教科書では教えられなくなってしまった。

アルザス地方にはこうした複雑な背景があり、天然資源や軍事拠点の問題からドイツとフランスの間で領土争いが続けられてきた。現在フランスでは「地方語」を大切にしようという運動があり、アルザス語の他にも南フランスのラテン語、サルジニア語、カタロニア語、バスク語、ケルト系の言語などを保存しようという動きが起きている。フランス語は大言語なのでこうした複雑なことが起こるのだろう、と思いがちだが、フランスの人口は6500万人だ。母語としてフランス語を話すのは7200万人なのだという。

アルザス語話者は「書き言葉としてドイツ語を使い、日常言語としてはアルザス語を話す」ことがあり、その意味では「ドイツ語の方言」ともいえる。これは九州地方の人が日常会話で九州方言を使い、学校で標準語の習うのに似ている。

日本人は「日本語は一つしかないに決まっている」と考える傾向がありそうだが、1億人以上が話す言語なので、それなりの多様性がある。しかも学校では方言の文法を教えないので、扱いが曖昧になることがある。

例えば、西日本方言には共通語にない特徴があるのだが、学校できちんと習わないために、使い方が曖昧になる傾向がある。例えば「買いよー(今、買っている)」と「買っとー(既に買ってある)」は違う意味なのだが、きちんと説明できる人は少ないのではないかと思う。「雨が降りよー(今降っている)」と「雨が降っとー(雨が降ったあとがある)」も違う状態だ。

また「しゃべれる(この人は英語がしゃべれん)」「しゃべりきる(外人とはようしゃべりきらん)(この原稿は長すぎるけん、時間内にすべてしゃべりきらんばい)」は同じ能力を現す表現なのだが、能力的に可能なのか、その意欲や余裕があるのかという違いがある。つまり方言は文化的に下位にあるからといって機能的に劣った言葉であるとは言えないし、日本語の各方言が同じ文法的構造を完全に共有しているわけでもない。

定義や独立した政治意識がないので「九州方言を九州語と呼ぼう」という動きもなければ、どこからどこまでが「九州語」なのかも分からない。例えば瀬戸内海沿岸で話される言語が「九州語を基底にしているのか」「中国地方の言葉を基底にしているのか」「そもそも西日本諸語は一つの言葉なのか」はそれぞれ議論の余地がありそうだ。

琉球方言を例に挙げたので、それだけが特別なように見えてしまうのだが、実は日本語の中にもそれぞれ特徴が異なった言語層がある。それを意識しないで使い分けている。

この「民族の問題」は、頭の体操レベルなのだが、実際の問題を考えるうえで役に立つのではないかと思う。

現在、尖閣諸島、竹島、北方領土など「辺境地域にあるのに、国家や民族のアイデンティティにとって大切な」地域の問題がクローズアップされている。大抵の場合「中国」「日本」「韓国」「ロシア」という国家領域の問題なのだが、ついつい民族問題として捉えてしまいがちだ。民族というのは複雑な概念だ。『最後の授業』では、フランス=フランス人と捉えることで、ドイツとの競争を有利にしようとした。このように、対外的に団結するために「民族=国家」という人工的な概念を作り上げることがある。

よく「我が国固有の領土」という言い方がされる。「北方領土は我が国固有の領土」という言い方は、確かに合理的な正統性があるのだろう。しかし、実際には「アイヌなどの北方民族の地」なのではないかという見方もできる。できるだけドライに「政府が合法的に手に入れたか」を問うべきだと思うのだが、ウエットな感情なしにこれらの問題に肩入れできる国民が果たしてどれくらいいるのか、少し疑問に思ったりもする。つい「日本人の土地を返せ」と感じてしまうのである。

日本国=日本人=日本列島という国に住んでいると「民族」「国家」といった問題はかなり自明のものに映る。しかし「日本語」や「日本人が何なのか」という概念は、実は私達が考えるように自明のものではない。そして対峙している国の中には、ロシアや中国のように多民族の国もある。また韓国のように、1つの言語を共有する民族なのに、3か国によって呼び方が異なる人たちもいる。