人を動かす

1月の目標は「人を動かす」というものだ。ということで、安易だが「人を動かす」を読んでみた。とはいえ図書館にある「人を動かす」は、ほとんど貸し出されている。みんな人を動かしたくて仕方がないのだろう。
ブログばかり書いると、むなしさみたいなものを感じることがある。大抵の情報は一時の慰みに過ぎない。芸能情報と同じで消費される存在だ。議論の結果「やはり私は正しかった」という結論になることが多い。つまり、多くの議論は「動かないための理由作り」に使われる。多くの論争は正当化の為に費やされる。最後に「お金」は、誰かに行動して貰った結果生じるものなので「人を動かすこと」抜きには、ビジネスはできない。故に「人を動かす」ことはとても大切なのだ。
ところが当初の期待とは違って「人を動かしたい人」は、この本を読むべきではない。ディール・カーネギーは「人を動かすことはできない」と断言している。人は「自分のやりたいことしかしない」のから、自発的に行動して貰う事はできても、動かすことはできないだろうと言っている。逆に強制されると反発心が生まれる。故に、人を動かすためには自分の心持ちやモノの考え方を変えなければならない。だから「自分が動く」べきなのである。
この本は、1937年に書かれている。自由競争が前提になっているようで、交渉する人もされる人も「決裁権」を持っている。ここが現代の日本との大きな違いだ。現代の日本は経済が縮小してゆくことが暗黙の前提になっている。だから、人を動かすのは「誰かに損を押し付けたいから」であることが多い。
人々には自由裁量権がない。あるドラッグストアで300円の乳液と8,000円の乳液を売っている。中間商品はない。同じ製品を隣では250円で売っている。店員さんには300円のものを250円で売る権限はないし、1,000円くらいの商品を作る事もできない。本部からは高額商品を売るように言われる。だから一生懸命に8,000円の製品の話をする。そこで、パンフレットを出して解説しようとする。あいにく印刷物がない。客は300円の製品を見つけて「もっと安いなにかがあるのではないか」と思って探している。最初から1,000円以上の品物には興味がない。もし1,000円以上のものが欲しいならデパートかどこかに行くだろう。もう少しまともな椅子に座って製品説明が受けられる。客としては嫌なヤツに思われるのも好ましくないので、一応店員さんの話を聞いてあげる。
この店員さんが取り得る戦略は「今抱えているお客さんと楽しく会話して契約時間を過ごす」事だけだ。いずれこの人たちもいなくなるかもしれないが今はしのげるだろう。本部の人たちも「売れれば儲けものだなあ」としか思っていないのかもしれない。だから後方支援はない。来る客といえば「もっと安いものを」と考えているわけだから、てきとうにあしらうべきなのだ。ほったらかしにしていれば、自分でなにか探すだろう。
店員は大した決定権はもっていない。(ついでに、製品についてたいした知識も持っていない)お客もせいぜい500円くらいの予算しか持っていない。この状態で「相手に関心を示して、名前を覚えてもムダ」だろう。
こうした状況では、誠意だけでは人を動かすことはできない。だから現代の日本では「人を動かす」は役に立たないので、この本は読んではいけないのである。
現代日本は「何も変わらないし変わりたくない」社会である。自分が変わらないためには、他人に変わってもらう必要がある。だから「自分が変わらないために他人を変えよう」と試みるのだ。「人を動かす」を読んで「相手が誠意を持って自分に接してくれれば、僕もそうするのに」と夢想することになる。自分に誠意がないのは、世の中が悪いからである。試しに「人を騙す」コールドリーディングの本を読んでみるとこのことが良くわかる。『あるニセ占い師の告白 ~偉い奴ほど使っている!人を動かす究極の話術&心理術「ブラック・コールドリーディング」 (FOREST MINI BOOK)』を読んでみよう。ちなみにガイジンが書いたことになっているが、日本人が偽名を使って書いている。本自体が一つの騙しになっている。
人を信頼させる理屈は「人を動かす」と同じである。誠意を見せて、相手のいうことを聞いてやる。自分が読み取るわけではなく、相手に全部話させる。これも「人を動かす」に似ている。ディール・カーネギーは、対話と提案によって「両方がトクをする」点を探してゆく(だから、両方の自由度が重要なのだ)が、コールドリーディングの本では「相手が変わらなくていい理由」を探して行く。この為に使うのが「前世」だそうだ。「前世でこういうことがあったので、今の状況は当たり前である」という理屈を創作する。
冒頭で「人が動く事によって、お金が発生する」と書いたのだが、コールドリーディングの本のカモは「パーソナライズされた、動かないですむ理由」を聞くためにお金を払う。失恋したのも、ダイエットに失敗したのも全て「前世」に理由があり、仕方がない。こうした「ニセスピリチュアリスト」はアメリカにもいるそうだ。日本人が集団主義的で依存心が強いからこうした占いに頼るのだとはいいきれない。
この2つの本は「だいたい同じ」原理に基づいて書かれている。大きな違いはその前提だ。「人を動かす」は、お互いがトクをする合意点を探す(探せる)世界を前提にしている。こうした前提の元で生きている人はこの本を読むべきだろう。しかし「お互いが合意点を探す自由度がない」世界を生きている人は、「人を動かす」を読む前に、こうした自由度を持つ事ができる環境を探すべきなのだといえる。

非デュシャンヌの笑い – 偽りの笑顔

親戚に女の子がいる。いま1歳。この子がかわいい。多分血がつながっているからだろう、とは思う。この子がかわいいのは、時折見せる笑顔のせいだ。この子に限らず子どもの笑顔はかわいい。大抵、あかちゃんは見つめると笑い顔を返してくれるのだ。しかし顔は口ほどに嘘をつくによると、この笑顔生後10か月を過ぎると「人が近づくと自動的に」笑うのだそうだ。
人間が作る事ができる表情は10,000程度。意識して動かせるところと、意識しなければ動かせない筋肉がある。笑ってみるとわかるのだが、笑い顔に関係する筋肉は2つ。口の周囲と、目のまわり。口は意識して動かすことができる。しかし目は楽しくないと動かないのだという。赤ちゃんの笑い顔にも2種類があって、母親に笑うときには目と口が動く。知らない人(たぶん親戚のおじちゃんも含む)への笑いは口だけだ。
あかんぼうが嘘をついているとは思えないのだが、別に楽しいから笑っているわけでもない。別に誰かに教えてもらったわけでもないのだが、とりあえず笑ってみる。すると回りが和み、襲われる危険が少なくなる。こうやってあかちゃんは身を守っている。襲われないどころか、遊んでもらえたり、運が良ければ食べ物がもらえたりする。
怒りや不安は「完遂しない経験」だった。完遂しない経験が積もり積もって、悪い場合には世代間を越えて伝わるのだった。一方、笑いも何もない所にうまれる。とりあえず、笑ってみる。すると場が和み、私たちが本来持っている「可愛がりたい」というような感情が刺激される。するとさらに場が和む。このように、感情には、スパイラルの起点としての役割がある。
こうした、目が笑っていない状態を「非デュシャンヌの笑い」(non duchenne smile)と呼ぶそうだ。Wikipediaによると、デュシャンヌの笑いは不随意筋である目の回りが動くので「純粋な笑い」であると考えられている。一方非デュシャンヌの笑いは口角だけで笑っているのだから、本当に楽しい訳ではない可能性がある。つまり嘘が介在する余地があるというのだ。
笑いのトレーニングに「口角を上げる」というものがある。割り箸を使って口角を上げる訓練をしろというのだ。残念なことに口角だけを上げても、目が怖いままでは笑っているようには見えない。笑顔のトレーニングに割り箸を使うのは口角が意思の力でコントロール可能だからだ。つまりお愛想笑いの練習ができるわけである。
口角を上げるトレーニングが重要なのは、筋肉がこわばっていて半分しか上がらなかったり、右か左のどちらかしか動かなくなっている場合が多いからだと思う。普段使わなくなっているか、抑圧されていて笑えなくなっている場合には、こうした訓練は重要だろう。しかし実際にこの練習をしてみると、楽しくないのに笑うことに違和感を感じるようになる。そして訳もなく落ち込んだりする。口をかたく結ぶのは「緊張」の現れだからだ。緊張が続くと却って弛緩してしまうのだ。怒りは完遂しない経験だ。本来は怒るべき場面で笑っていると怒りの経験が完了しないから、お愛想笑いは有害かもしれない。
一方、目を使った笑いは楽しい事を思い浮かべないと作れない。これは緊張を緩和するのに役に立つ。実際に笑いには緊張の緩和という役割がある。たとえば、誰かがスピーチでとんでもないことを言う。一瞬何が起こったのか分からない。緊張がその場を支配する。誰かが「わはは」と笑うと、それが冗談だったということが分かる。この場合人は楽しいから笑っているわけではない。緊張が臨界点まで高まり、それを緩和するために笑うのだ。そして笑うとだんだん楽しくなってきて緊張があったことを忘れてしまう。
雑誌などでいろいろな人の笑いを観察すると、口角だけを使った笑いは到る所に見られる。たとえば選挙のポスターは、たいてい口角だけの笑いだ。不自然にならない程度に目尻が下がっていたりする。これが失礼にならないのは、笑いが相互作用によって成り立っているからだ。
たとえば私がまじめに話しているのに、あなたがデュシャンヌスマイルを振りまいたら、きっと私は怒り出すだろう。それは私はまじめに話しているのに、あなたがそれをまじめに受け止めなかったと考えるからだ。しかし口角だけを上げて微笑みながら聞いてくれれば、私の興奮は収まるかもしれない。それは「楽しいから笑っている」わけではなく、その場を円満に納めるための笑いだからだろう。このように人はノンバーバルコミュニケーションを通じて感情のコントロールを行いながら会話を進める。
Twitterではこうした非言語のコミュニケーションチャネルが塞がっている。だからオフラインのコミュニケーションに慣れている人は、Twitterを不完全なチャネルだと思うだろう。一方、Twitterに慣れている人は、言語的な要素(たとえばエモティコン :-))を使って感情を捕足するのに慣れているか、こうした感情的な要素を排除してニュートラルな会話ができる人ということになるだろう。たぶん、感情を排除しているのではないかと思われる。最近はウェブカメラを使って非言語的なコミュニケーションを導入することが可能なのだが、こうしたやり取りは却って「生々しい」と敬遠されることが多いからだ。
生々しい会話に慣れている人は、こうした会話を「ぱさぱさして」抑圧的だと感じられるのではないかと思う。これは都市と農村の人間関係に似ている。農村の人から見ると、都会の人間関係は稀薄で「ぱさぱさしているように」見えるだろう。しかし都市の生活に慣れた人にとって農村の人間関係は濃厚すぎて煩わしいと感じられるはずだ。これは群れの密度と交換される情報の多さに関係しているのであろう。農村よりも都市の方が人口密度が高い。交換される情報量も多いので、農村と同じ密度で情報を発信するときっと疲れてしまうに違いない。同じようにインターネット上を流れる情報量は飛躍的に大きく、濃密な関係を不特定多数と結ぶと疲れてしまうのかもしれない。
コミュニケーションの中に「笑い」をうまく織り込むと、効果的に意思を伝え、対立を解く事ができる。楽しいから笑う場合もあれば、笑うから楽しくなるということもある。そして、笑いは状況によって意味が異なり、不適当な時や場所で笑うことが侮蔑の意味に捉えられたりする。オンラインメディアではこうした非言語を使ったコミュニケーションがうまく使えない場合があり、それを代替する機能が必要になるかもしれない。

アクティブリスニング

アクティブリスニングは問題解決のための対話

アクティブリスニングは積極的に聞く技術なのだと説明される。しかしネット上のアクティブリスニングの解説には部分的なものが多い。また、結局の所「相手に話を聞いてもらえたと考えてもらえたら勝ち」とか「相手は学習の宝庫なのでトク」といった損得、勝ち負けに落とし込んだアクティブリスニングの解説も見られる。実際に、アクティブリスニングの原典の一つであるトーマス・ゴードンの本ゴードン博士の人間関係をよくする本―自分を活かす相手を活かすを読むと、どうもそれが誤解なのではないかと思えてくる。アクティブリスニングは問題解決のための対話手法の一部らしい。

子どものカウンセリングから生まれたアクティブリスニング

トマス・ゴードンは子どものカウンセリングを行なっていた。しかし子供たちが口を揃えて「問題があるのは親の方だ」ということに気がつく。親にカウンセリングを受けさせるわけにもいかないので、親業とはリーダーシップであるという路線で、親に「聞く技術を教える」ことにしたのだという。あいづちをうつ、距離を取る、批判をしないなどという個別のメソドロジーについては、様々なウェブサイトや解説本が出ているので割愛する。

操作しないことが重要

キーになるのは、相手の話を聞くふりをして「相手を操作しないようにする」ことの重要性だ。たとえば会社を辞めたいと言っている人にたいして「僕はそういう人は好きじゃない」と自分の価値観を押し付けたり、「世の中はそんなに甘いものじゃないんだよ」と説教したりすることが他人を操作することにあたる。また「僕に相談されても…」と話題を変えてしまうのも聞かない行為だろう。ゴードンはこうした一連の行動を「非受容の言語」と言っている。アクティブリスニングでは、相手を「好ましい方向に向かうように援助」したりもしない。この行為そのものが操作に当たるからだ。
相手は自分で問題を解決する。聞き手はそのための手助けをするだけだ。それではどうして相手は人に話をするだけで問題を解決できてしまうのだろうか。

経験を完遂する

人が怒りや不満を持つというのはどういう状態なのだろうか。それはある感情が完了しないことから生まれるようだ。つまりその感情を整理し、それがどこから来ているのかを捉えるか、別の経験が起こりその感情が上書きされてしまえば、怒りは消えてしまうということになる。経験を完了させてしまえばいいわけだ。他人に何かを話すことでこうした経験を(少なくとも頭の中では)完了することができるのだ。
ここで非受容の言語を聞いてしまうと、話し手は自分の経験を完了できなくなる。そればかりか自分の言い分に対して防衛をはじめてしまう。すると問題が解決できなくなってしまう。するとイライラが募るので、いつまでも怒りや不満を抱えたままである。
たとえば女性が何人も集って喫茶店で話をしている。相手のいうことを聞いているようなのだが、実は全く話を聞いていない。大抵「それでさあ」といいながら全く関係のない自分の話をはじめる。このように、誰かに聞いてもらえるだけで満足してしまうのである。居酒屋でも同じことが起こる。愚痴を言い合っているだけなのだが、それでも参加者はなんだかすっきりした気分になる。こうした時に「自分の価値観を押し付けるのはよくない」し「自分が聞き手に回っては疲れるだけ」である。しかし無反応なのもよくない。相手のいうことを聞いてやる必要はない。ただあいづちを打てばいいということになる。話をすることで「経験を完遂している」ということになる。
アクティブリスニングはそれだけでは「対話」ということにはならない。なぜならば、相手は一方的に自分の話をしているだけだからだ。

アサーティブ – 自分のことは明確に伝える

アクティブリスニングは実はもう一つの技術と対になっている。それは自分の問題を明確に伝えることだ。トマス・ゴードンの本には出てこないのだが、これを「アサーティブ」とか「アサーティブネス・コミュニケーション」と言ったりする。私の気持ちを「私」を主語にして伝えるのだ。つまりアクティブリスニングとは、ただ聞き手に回るだけの技法ではないのだということになる。喫茶店や居酒屋の会話とは違っているわけである。
大抵の場合この二つは別々に言及される。だから「アクティブリスニング」だけを見ていると「ただ聞き手に回る技術」だということになり、「アサーティブ」だけを見ていると、ただ自己主張しているだけということになる。しかし実際はコミュニケーションなので、相手のことは相手に話させる、自分のことは自分で伝えるという二局面が一つのコミュニケーション術になっている。

相手と自分の問題を切り分ける

自分の問題を解決できるのは自分しかいない。トマス・ゴードンが強調するのはこの問題の切り分けだ。相手を操作してしまうのは、相手が抱えている問題をつい自分のモノだと認識してしまうからなのだ。聞き手が相手の問題を解決してやれるのは、その人よりも一段高いところに立って、問題を俯瞰的に見ているからだろう。逆に「我々」の問題について、相手の言い分を一方的に聞かされるのはかなり苦痛だろう。さらに悪い事に、相手に自分の意見を伝えるのはさらに苦痛だ。だから利害関係がある会話においては、ついつい相手の話に自分の考えを紛れ込ませてしまうことになる。ここに相手を操作する余地が生まれる。
本では「私が持っている問題」「相手が持っている問題」という図式がくり返し使われる。そして「自分が持っている問題」について許容できない場合にはそのことを相手に自分の問題として伝えることが大切だと、ゴードンは主張するわけだ。
つまり、アクティブリスニングを使ったコミュニケーションでは、相手と自分の問題を切り分け、さらに問題が何なのか(つまりどんな経験が完了していないのか)を明確にすることが重要なのだ。

個人主義社会と集団主義社会

この「誰が問題のオーナーか」という概念はかなり受け入れがたい。理解するのに「ん」と一呼吸置かなければならない。これはなぜなのだろうか。
個人主義であるはずのアメリカでさえ、相手の問題に絡めて自分の願望を伝えてしまうことがある。英語は主語がある言語なので「私」「あなた」という切り分けは容易にできるはずだ。しかしながら実際には彼らにとってもそれは難しいことだということが分かる。まして、我々が日本人と日本語のコミュニケーションを考えるときには「私」と「あなた」がなく、「我々」とか「世間では普通は」とかいう主語(しかも隠しながら使う事ができる)の存在が問題になる。そもそも言語的なコミュニケーションがどれくらい重要なのかという視点も出てくる。
日本人のコミュニケーションを考えるにはまた別の視点が必要なようだ。それは、相互依存的で「私」と「あなた」がない世界だ。明日は、英語にはこうした相互依存の関係性を肯定的に現すコトバはないのだという主張を交えながら、日本人のコミュニケーションについて考える。こういった信頼関係は一度でき上がると非常に強固なモノなのだが、作り上げるのに時間がかかる。アクティブリスニングは、バーバルコミュニケーションを軸にヒントとしてノンバーバルコミュニケーションを使う。しかし、日本人の関係性構築は「ノンバーバル」が中心なのである。こうした一連の特徴が多分、日本人を「コミュニケーションべた」にしているのだろうということが洞察できそうだ。

リーダーとは何か

集団は権限の一部をリーダーに委譲することで自分たちを外敵から守り、協力関係を築くことができた。しかし政治的リーダーだけをみてもその種類は一つというわけではない。外に打って出るための組織に必要な父性的リーダー、内部調整のための母性的リーダーが存在するのであった。また、破綻しかけの組織にはコドモ型リーダーが出現するかもしれない。例えば自民党末期の麻生太郎さんはコドモ型リーダーだろう。このようにリーダーの性質を見ると、その組織がどんな状態にあるのかをも見る事ができるかもしれない。リーダーには国際的なバリエーションもあるようだ。アメリカのような個人主義・平等な社会のリーダーと、中国のように集団主義・権力格差が大きい国のリーダーでは期待される役割が異なるはずだ。
さて、ここまで考察してきたところで、教科書的なリーダー像について勉強してみよう。ハーバード流リーダーシップ「入門」を使った。リーダーシップに必要なものは2つ。ビジョンとコミットメントだ。リソースを適切に管理して、プロセスを円滑に進める人たちをマネージャーと呼ぶ。ただプロセスがうまくいっているかを見るのが監督者である。このように指導者だからといってリーダーというわけではない。ある目的を設定して、そこに導くのがリーダーというわけだ。一方、コミットメントとは「本気で取り組む」こと。コミットメントを示すためには、言動が常に一致していて、熱意があり、言動と行動が一致している必要がある。
さて、ビジョンが明確で、理にかなっているものであれば自動的に採用されてもよさそうである。しかし、実際には、人はビジョンだけでは動かない。どうにかして、このビジョンが本物で信頼に足るものだということを納得して貰わなければならないのだ。コミットメントが重要なのはそれが人を動かすからだ。
リーダーの性質は生まれついてのものと考えられがちである。これをカリスマ性と呼ぶ。しかし実際にはカリスマ性がなくてもリーダーになる人たちがいる。リーダーはいくつかの資質を使って人々に影響を与える。

  • カリスマ
  • 専門知識
  • 地位や立場(地位が先にあってリーダーシップを発揮することがあると筆者は指摘する。逆に地位があってもリーダーでない人たちがいるということになる。もう一度、マネージャー、監督者、リーダーの違いについて考えてみよう)
  • 成功実績(過去うまくいったから、未来もうまく行くだろう)
  • コミットメント
  • 共通の価値観(人は、共通の価値観を持っている人をリーダーに担ぐ傾向がある)
  • 共感(話を聞いてくれる人はリーダーとして受け入れられやすい。聞き出すために、アクティブリスニングという手法が用いられることがある)

リーダーとは何か

この本は、MBAの学生向けにリーダーについて書いている。本の最初の部分はこのようにリーダーについて定義しているのだが、後半はキャリアマネジメントについて書かれている。MBAを取りたいと思う学生はリーダーの地位を熱望してマネージャーのキャリアをスタートさせるわけだ。この点が日本と異なる点ではないかと思われる。日本人の場合、給料が上がるから管理職になりたいと思う人は多いだろうが、必ずしも責任を伴うリーダーのポジション(そう、リーダーには権限だけではなく、責任も伴うのだ)を熱望する人は多くないのではないかと思われる。
また、リーダーの役割が比較的狭義に解釈される。それは集団を今いるところから他の場所に移すのがリーダーだという考え方である。常に変化していない集団はそのまま衰退に向かうだろうということである。これが現状維持を求める日本の集団との大きな違いだ。集団が変化に対する消波ブロックのような役割を果たすと、リーダーに求められる資質は異なってくるように思える。
アメリカに比べると日本は集団性が高い。個人の資質ではなく集団の総意が重要な社会だ。集団内に権力格差が大きければ「偉い人の言う事を聞く」という文化が生まれる可能性があるのだろうが、日本人は中国人程は権力格差を持っていない。故に結果的に突出したリーダーが出る事を嫌い、コンセンサスを重要視する文化が生じるのではないかと思われる。
強いリーダーを求めない集団では(これは日本だけではなく)、ビジョンを元に強力なリーダーシップを発揮しようとする人がいると引き摺り下ろしが始まる。引き摺り下ろされないようにするには、相手のいうことを聞いた共感型・調整型のリーダーになるか、畏怖心を抱かせる(あの人に逆らうと怖い)になる必要があるように、いっけん思える。

リーダーシップとは取引ではない

しかしリーダーシップについての議論をもう一度見ておこう。リーダーシップはビジョンを通して人々に影響を与えるということだった。これは取引とは異なる。取引は「〜してあげる代わりに」「〜してくださいね」といって支持を取り付ける事だ。一方リーダーシップは「一緒に〜に行くといいことがある」と納得させることなのだ。リーダーシップは取引することなしに、相手を動機付け(モチベーション)、規範を示すということが言えるだろう。
集団が老化現象を起こすと、変革の意欲がなくなってしまう。ここでR/C(レベニューとコスト)に対するモニタリングが利いている組織であれば、やがて失敗の少ない事業しか行えなくなり、やがてはコスト削減しか取り得なくなる。顧客に影響を与えることなしにRを変化させることはできないが、従業員は自分たちの支配下にあるからだ。すると変革に対するリーダーシップを取り得る人材は外に流出する。すると自己変革ができなくなる。これが死のスパイラルを形成する。
自民党では別の事が起こった。自民党にはR/Cモニタリングは働いていない。組織がうまく動いていた頃には、複数の候補者が血みどろの勢力争いを行いリーダーを決めていた。小泉純一郎のように「変革します」というような人たちもいた。しかし組織が老化するに従って「みんなで仲良く決めよう」というようなことになり、自分たちの権益を侵害しなさそうな穏やかな人たちをリーダーとして頂くようになる。すると自己変革ができなくなる。自民党には顧客はいないのだが、有権者がそれに当たる。自己変革して「ビジョン」を示さないと、変化した有権者の欲求には応えられない。そして「みんなでやろうぜ」から「みんなで逃げよう」に移行して、最終的な分裂がはじまった。組織には「形式を維持しよう」という機能と「自分たちを変えて行こう」という機能があるのだろう。これが微妙な均衡が働かなくなったときに組織の死が訪れるのかもしれない。
民主党はまた別の経過を辿っているように思える。「ビジョン」に当たるものはマニフェストだったのだが、2009年のマニフェストを見ると「どのように利益を分配するか」という取引のリストになっていることが分かる。農村にいくら、コドモを持っている母親にいくら、沖縄にいくら、高速道路を使う人たちにいくらといった具合だ。自民党は成長期の政党だったので、アメリカ型ではないにしても「ビジョン」を作る機能を持っていたのだが、民主党は低成長ないしは縮小期の政党でありビジョンを作る機能がビルトインされていなかったのだろう。結果的に取引に長けた党のリーダーと、理想は語るけれどメンバーの権限を制限しない「お飾り型」のリーダーが管理する体制に落ち着いた。
「民主党にはもともとリーダーシップはなかった」と言えるかもしれないし、「国民はリーダーシップなど求めていなかった」と取る事もできる。もう変化はいいよというわけである。国全体が小泉純一郎さんの作ったビジョンにうんざりしている。フォロワーたちは分かりやすいビジョンに飛びついたが、結果的には搾取されるだけだったからだ。同じ事が企業にも言える。1990年代の終わり頃、低成長期に入ったころ「変革しなければ、淘汰されてしまう」というようなビジネス書が氾濫した。結局これでトクをしたのはコンサルタントの人たちと一部のIT産業だけだった。そのあと起こったのはコストカットの嵐だったわけだ。今20年程たって、あのときにミドル・マネージャだった人たちが、企業のトップに立っているのだが、彼らが変革に対して懐疑的なのはむしろ当たり前といってもよい。
さて一体何が悪かったのか。多分「変革」をどう行うべきかという議論が欠けていたからだと思われる。ビジョンは変革するために作られる。故に変革に失敗したビジョンは組織のトラウマを残すのである。次回は変革管理について見て行きたい。

リーダーシップの国際比較


リーダーシップについて、教科書的なことを調べる前に、日本の立ち位置を見ておきたい。例によってホフステードの指標を使う
ハーバード流リーダーシップ「入門」によると、リーダーシップには似たような概念がもう2つある。マネージメントと監督だそうだ。マネージメントは、目的を設定してそこに行き着くための算段を整えることなのだそうだ。これについては後日まとめる。

日本はリーダーシップ後進国?

送信者 Keynotes

まず、このグラフを見ていただきたい。日本は集団指向が強く(IDVが低い)、集団の力関係が平等ではない(PDIが高い)。故に、不平等な上下関係に基づいた関係が温存されやすく、個人が先頭に立つ形でのリーダーシップが形成されにくい。つまり日本はリーダーシップ後進国なのである。だいたい日本人は…。

落ち着いて全体像を見る

まあ、というのが、大方の見方かもしれない。これは日本人が国際比較を行うときに欧米と比較をするからである。立ち位置を見るためには全体を見なければならない。

送信者 Keynotes

クラスターの数は便宜的に5つに分けた。どうやらIDVとPDIには相関関係が認められるようだ。この線に沿って「赤」「緑」「オレンジ」がある。そこから離れたところにオーストリア、イスラエル、デンマークがある。他のヨーロッパに比べると集団生活に慣れた個人主義者といったようなポジションだ。また対局には集団性が強く、権力格差が著しく高いフィリピンのような国がある。
東南、東アジアの他の国々から見ると、日本はより個人主義的で平等性の高い国ということになる。

「グループ」の見方

これだけでは何のことか良くわからないので、指標を個別で見ておく。個人主義的な指向が高い国の人たちをマネージメントするのに必要なことは何だろうか。ここでは3つを挙げておきたい。一つ目に必要なことは個人の役割を明確に設定しておくことである。これをジョブ・ディスクリプションと呼ぶ。もう一つはその仕事をすると個人にどういういいことがあるかということをはっきりさせることだろう。つまりモチベーションの持たせ方が異なるわけだ。集団指向の強い国では、集団にどのようないいことがあるかを明確にすれば、人々は自ずから従ってくれる。しかし個人主義の国ではそうはいかない。最後はこの2つの裏返しだ。つまりマネージャーになっている人たちが個人としてどう思っているかを常に明確にしておくことだ。「私はこう思う」「私はこうしたい」というのが「私たちはこうあるべきだ」よりも大切だということになる。
だいたいこの3つを明確にしておけば、ヨーロッパやアメリカではうまくやって行けるように思えるし、アメリカ人の部下を持ったときにも安心だろう。逆に集団指向の強い国では日本のような「私たちはこうあるべき」というやり方でマネージメントができる。より濃密な人間関係が求められるかもしれない。国によって文化依存があるはずなので、その表現の仕方は異なるだろうし、日本人がアメリカで感じるように、心を開くまで時間がかかるかもしれない。アジア系の人たちと対応する場合にはこの原則を心に止めておくとよいよいに思える。

「Power Distance」の見方

PDIは直感的に見るのが難しい。平たく言うと、俺はあなたよりエライといったような上下関係がより強固な社会ということになる。アメリカでは人は生まれながらに平等だと思うのだが、PDIの高い社会ではそうではないのである。インドのPDIは77だし、中国も80だ。ここに入った日本人は「より偉そう」に行動する事が求められるかもしれない。周囲がそうあるように期待するわけだ。
このインデックスの難しいところは、例えばイタリアと日本を比べるとあまり差異がなく、中国とインドを比べるとあまり差異がないところだろう。にも関わらずイタリアは赤群でインドは緑群である。イタリア人は日本人と同じ程度に上下関係にうるさいということになる。しかしクラスターを作るにあたって個人主義も指標に入れているので別のグループに分類されているわけだ。

リーダー、マネージメント、監督

オレンジ群や黒群の人たちは、「目を離す」と権力的な行動に出るのではないかと思える。例えば集団の財産を自分のもののように扱ってしまったり、目下の人たちに尊大な態度を取ったりするかもしれない。これは権力者だけの特質ではないだろう。社会全般に、自律性・自発性が期待しにくい。かといって「自律的に行動してください」と求めることもできない。もともと社会とはそのようなものだと思っている可能性があるからだ。こうした社会では「監視・監督」が重要な役割を果たす。一方、アメリカで監視・監督というと「独裁者が出ないようにリーダーを監視する」というように使われることが多い。
また、自律性が低い人たちと一緒に働くためには、一つひとつのインストラクションを明確にする必要がある。必要なリソースを使う許可を与えて、プロセスごとに明確に支持をするわけだ。このリソースとプロセスの管理はマネージメントを特徴付ける機能なのだが、同じことをアメリカ人に行なうと「マイクロマネージメント」と拒絶反応が起こるのは目に見えている。アメリカ人をマネージするためには、大まかなゴールと報告点について指示を与え、プロセスは管理しないことだ。難し目のコトバを使うと「ゴールとマイルストーンと設定して…」ということになる。
ここで、今まで話題にして来た「リーダー」の役割が、リーダー、マネージャー、監督者に分かれることが分かって来た。ここでは出てこなかったが、利害がコンフリクトした時の「調停者」という役割を加えると、だいたい指導的立場にある人たちが何をやらなければならないかということが見えてくるように思える。

国際比較の大切さ

これから見て行くリーダーシップ理論はアメリカで作られたものだ。故に、リーダーシップそのものの定義がアメリカ的だ。アメリカ的とは「グループ全体の目標を設定して、それに向かって平等な個人を動機づける」というリーダー像だ。この目的をビジョンと呼ぶ。しかし、これが日本に当てはまるかどうかは分からないし、中国や韓国のようなアジア各国で使えるかどうかは分からない。
アメリカから見た日本の特徴は「コンセンサスを大切にするので、集団の意思決定に時間がかかる」ということなのだそうだ。これをマトリックスから理解すると、日本は個人主義ではないので個人のビジョンやモチベーションに頼った意思決定が出来ず、かといって中国のように権力者が支持した通りにも動かないというように理解ができる。この平原のちょうど真ん中にあり、意思決定を迅速に働かせることができないわけだ。逆にそれがレギュレータとして働いているともいえる。じっくりと考えた末に集団に都合のよい意思決定だけを取捨選択するということである。これがうまく働くかどうかは、外的環境にかかってくる。リーダーシップが求められるのは、外的環境が劇的に変化し続けるからだそうだ。外的環境が劇的に変化するのは、情報とお金の2つが流動性を増してきているからで、これを「グローバル化が進んでいる」と表現したりする。
指導者の役割は一様ではない。変化に対応するためには、中国のように強い権力者が指示をするやり方か、アメリカのようにコミュニケーションを通して他人に影響力を与えるやり方に自らをシフトしなければいけない。

運用注意

最後に蛇足として運用の注意事項を。ここではアメリカとか中国というような言い方をかなり不用意に使っている。僕が知っている例では「アメリカで勉強したタイ人のデザイナー」とか「日本での生活歴が長いアメリカ人のマネージャー」といった人たちがいる。この人たちは、日本では日本人のように振る舞うのがよいということを知っているので、集団的なコンセンサスを大切にしたりする。タイ人なのだが、個人主義的な価値観も理解する。このように人間は複数の価値観を理解して振る舞うことができる。また外資系に慣れた個人主義的な日本人と、日本企業で定年まで勤め上げた日本人は同じ価値観を持っているとは言えない。
また、このことが差別的な感情を生んだりもする。どちらが優れているとか劣っているというように受け止められてしまうわけだ。これを乗り越えて行くのはとても難しい。アメリカに対して過剰な劣等感を持っていたり、アジアに根拠のない優越感を持っている人もいるかもしれない。

ビハインド・ザ・サン

ある物語が人に響くとき、その背景には普遍的にあてはまるテーマや物語があるのだとされる。ビハインド・ザ・サン [DVD]は2001年のブラジル映画。原作はアルバニアの小説。
20世紀の始まりごろのブラジル。川が干上がってしまった荒涼とした大地。2つの家の間で土地の争いが起こっている。この土地を取ったり、取り返したりする過程で、殺し合いが起こる。殺し合いは様式化されていて、もはや家の名誉のかかった闘争になっている。まず長男が殺される。次男は長男の復讐のために相手の家のものを殺す。満月までは休戦協定があり安全なのだが、そのあときっと殺されてしまうだろう。
映画を見ている我々は客観的な視線でこの映画を見ている。だから「土地を巡ってこんな争いをしていては、いつかは一家は皆殺しになってしまうだろう」ということが分かる。逃げてしまえばよさそうなものなのだが、名誉がかかっているので逃走するわけにもいかない。逃げ出せば、きっと土地は相手の家に渡ってしまうにちがいない。つまり、解決策は「殺されること」しかないわけだ。
この映画のキーになっているのは、映画を見ているひとと同じ目線に立っているサーカスの2人(途中で「あの人たちはバカなことをしている」とつぶやくシーンがある)だ。人々が労働に勤しんでいる間、広場で楽しそうに祝祭に興じている姿はある意味ドロップアウトした人々だといってよいだろう。次男はこのサーカスの世界に触れる事で復讐に疑問を持つようになる。
もう一つは名前のない3人目の息子。まだ復讐に巻き込まれておらず、サーカスの女性から本を貰い、字が読めないのに本を読むことになる。(つまり、空想の中で、自分が知っている世界を再構成しつつ物語を創作しているわけだ)多分、この子どもに名前がないということが重要で、この子どもが「解決策」になる。ぜひ結末はDVDなどを見て確認していただきたい。

人殺しはなぜいけないのか

ヤノマミを考えたときに、なぜ人殺しはいけないことなのかということについて考察した。いったん命に値段をつけてしまうと、人の命をもってあがなえば何をしてもよいということになる。この一家の闘争の歴史はそれを象徴している。人の命に等価なのは人の命しかないので、いったん殺し合いが始まると、解決策は「逃げる」(ヤノマミはこうする)か「誰もいなくなるまで戦う」の二者択一ということになってしまう。この権利を人々から取り上げて、国が一括管理しようというのが死刑制度だといってよい。よく死刑制度を存続させる議論で「抑止力として死刑を残すべきだ」という人がいるが、死刑は抑止力にはならない。「私の命をかけて、相手を殺してしまおう」という人はいなくならないだろうからだ。国が「人々の財産を守るために殺し合う権利」を取り上げるという抑止力も、国対国の争いでは無効だ。ある程度様式化されていたり、兵士の人権に関する取り決めがあったりするのだが、やはり戦争は集団同士の人殺しなのだ。
闘争を止めることができるのは、関わっている人たち全員が「ああ、こんな事をしていても何も変わらない」と思う出来事だけだ。映画の中には少なくとも片方の当事者の間にはそれが起こる。すると、対立していた視点が一段上に上がる。それがサーカスの視点であり、映画を見ている人たちの視点だ。だから、この映画を見ると、俯瞰的な視点の重要性がよくわかる。
つまり命を取ったからといって、人殺しやその他の重大犯罪をあがなってもらったことにはならないのだと人々が思ったとき、はじめてこの手の犯罪がなくなる可能性が生まれるということになる。そう思った人たちは、罰として命を取ろうとは思わなくなるはずだ。
一方、こうした冷静で客観的な思考を持ち得るのは、我々が当事者ではないからである。もし子どもが殺されたとしたら、相手も命をもって罰してほしいと思うようになるかもしれない。しかし一方当事者の視点は問題を根本的には解決してくれないのだ。
解決策にはロジックはない。つまり議論から解決策は生まれない。我々が「ふ」と思うことだからだ。ロジックがないからといって、意味がないというわけでもない。

俯瞰する事

例えば同じことが、いろいろな論争にも当てはまる。例えば、基地の問題が解決しないのも同じことだ。例えば基地の問題を解決するためには、世界的な軍事の枠組みをどう変えてゆこうかという視点がないと根本的には解決しないだろう。そう考えると、核の枠組みについて話し合う現場ではもっと積極的に議論に参加してもよかった。
なぜこういう視点を持てないかということについて考えてみたい。「あの政党」が選挙に勝つ事を軸に意思決定をしているからだ。パイが拡大しているときには成長利益を誘導してくればよいのだが、パイが拡大しないと仮定すると、誰かがもっている利益を取り上げて持ってくるしかない。基地はマイナスの利益なわけだから、損の付け替えをせざるをえないわけだ。
現実の問題を解決するのは、当事者の視点を越えたリーダーシップから生み出される解決策か、我々一人ひとりが「ああ、当事者で闘争していても、何も変わらないだろう」と考えて行動を変えて行くかのどちらかだろうと思われる。
日々の議論の中で、我々は当事者的な視点から逃れることはできない。小説や映画といった創作物はそうした視点を脱するためのきっかけを与えてくれる。この映画の中では、3番目の男の子が持っていた本と、サーカスがそれにあたる。人々が本を読んだり、映画を見たり、テレビドラマを鑑賞するのは、こうした機能を持っているからなのだ。
ある物語が人に響くとき、その背景には普遍的にあてはまるテーマや物語があるのだとされる。これがある限り、出版物が日々のつぶやきに取って代わられることはないだろう。逆に本が一冊残らず消えてしまったとしたら、出版物から普遍的にあてはまるテーマが消え去り、日々の闘争の中に埋没してしまったということなのだろう。

「場」を作る

Blogos経由でHatenaの記事を読んでいたら面白い記事を見つけた。記事にするのもどうかなと思い3分くらいで、ちゃちゃっとコメントを書いたのだが、まとまりそうなネタがないので、今日はこれをネタにすることにする。クリス・アンダーセンの「フリー」が良くわからないというのだ。この記事を分析すると、日本だけがどうしてデフレと不況に苦しむのかという理由の一つが見えてくる。
この本、昔本屋で立ち読みしただけ。だから書評として正しくないだろう。ここで分析したいのは記事の内容だ。フリー経済と対比させて「漁場で魚をとる」例を挙げている。この人は海にいる魚をとるのはタダだと言っている。六甲の水もタダだ。これを読んで思い出したのは「日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)」だ。日本人がユダヤ人のフリをして書いている本なのだが、この中に「日本人は水と空気はタダだと思っている」という考察がある。しかし実際には漁師たちは漁場を整備したり、水産資源が枯渇しないように調査をしているはずだ。旅館も山菜をとってくるのは無料かもしれないが、そうした山林を観光資源として守るためにはさまざまなコストを支払っている。これを「場を維持するためのコスト」と呼ぶことにする。
つまり、ビジネスには「場」が必要だということになる。しかしそれを無自覚に使うと将来的には「場の資源」が枯渇し、ビジネスが成り立たなくなる。しかし日本人の多くが「場」について無自覚になると、コストを支払うインセンティブがなくなり、最終的にはビジネスを成立させる環境がなくなってしまうのである。
例えばこういう例はどうだろうか。企業の成長のためには「優秀な人材」を育てる必要がある。故に企業は大学卒業者を教育し、こうした人材を育てて来た。しかし、その事に無自覚になると「今いる優秀な人材を使えばいいや」と思うようになる。(育てなくても、中途労働者の市場にそこそこ優秀なヒトたちが集っていたということもあるだろう)誰も次世代の人材を育てなくなり、将来的にイノベーションを担う若手が枯渇する。これは一例だが、こうした例はいくつも考えられる。
例えばフリーではないにしても、ほとんどフリーの実例として「格安バスツアー」とか「韓国10,000円」なんかがある。実際には地方や外国の土産物屋にお客を運んでいるのだ。運賃を格安に抑えることで「ビジネスの機会」を作ろうという戦略だろう。実はよく行なわれていることなのだ。
日本人がこのブログ筆者のような疑問を持つのは、戦後、あまり「場」を維持してこなかったからだろう。本当のところはよく分からないのだが、アメリカで儲かっているビジネスを日本に持ってくればよかったからという事情が大きいように思える。ましてや「場」を作るのはもっと苦手だ。新しい場を作る事ができなければ(難しい言葉では市場の創出とでもいうのだろうか)既存の市場はやがて収縮をはじめる。その内誰も利潤を追求することができなくなり、やがては市場は死に至る。
イノベーションにはいろいろな分類の仕方があるのだと思う。イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)によると、既存技術の継続的に洗練する事、ローコストのソリューションを生み出す事、そして新しい市場を作る事だそうだ。継続的なイノベーションはやがて効力を失う。だからそれ(継続的なイノベーション)だけではやがて市場は死んでしまうのだ。これは家電と自動車の凋落を見ているとよく分かるだろう。
オープンソースについては興味深い洞察がなされていると思う。オープンソースのソフトウェアはそのままでは経済的な価値を生み出さない。これを実際の需要と結びつけるのが「格安のPCの販売」だろう。ここに「場を維持するコスト」という考え方を持ちこまないで、「無料なんだしせいぜい利用すればいいや」と考えるとオープンソースを担う労働力はただ搾取されるだけの存在ということになってしまう。オープンソースとはいっても開発のための環境や作ったソフトウェアを配布するためのサーバーなどは必要なわけで、儲けた企業は、オープンソースのコミュニティを維持するためにこうしたコストを分担しなければならない。こうした場ができると、エンジニアたちは自分たちの力量をアピールして次のシゴトにつなげることができる。つまりこうした企業は、シュンペータの言った「銀行家」の代わりにリソースを再配分しているということになる。
同じ「フリー」を見ても「場を作って維持する」ヒトと「場をタダで利用すれば後は知らない」ヒトでは感想が変わってしまう。日本人はいつのまにか、場に寄生するフリーライダーばかりになってしまったのではないかと思える。だからこそ、こういうビジネス市場を自分たちのコストで構築しようというヒトたちがものすごく不思議に見えてしまうのだ。
さて、最後の一言はかなり重みがある。こうして自分たちが場所を作らなかったがために日本の経済は縮小をはじめた。30代より下のヒトたちは、縮小している経済しか知らない。すると「小さくなった市場をより多くの人間でとりあうよう」になる。
そうした中で、フリーミアムを成立させるのはとても難しい。フリーミアムは、結果的に一部の裕福なヒトたちが、他のヒトたちの面倒を見るという形態だ。これについては別の記事をご紹介したい。アパレル企業のGAPは、10,000円くらいするジーンズを売りつつ、横で1,900円のジーンズを売っている。一応値下げしていることになっているが本当にそうなのかは良くわからない。もともと違うものなのではないかと思える。これは、プレミアムを支払ってでも買いたいヒトと、安くならないと買わないヒトを同時におさえる戦略だ。在庫処分ではなく最初から低価格の製品も作っているのではないかと思う。
例えば年収が1,000万円くらいあれば、別に10,000円のジーンズは高くないだろう。別に値下げまで待たなくても、仮に値下げ品があっても定価で値段で買ってゆくと思う。こうしたヒトたちが10%くらいいればこういう商売もなりたつ。このGAPの戦略には落とし穴がある。
一つは、このジャーナリスト氏が言っているように「本当の値段は?」と思い始めたときに起こる。日本は製造業の国だ。だから「モノには原価があり」それに「労働力」と「販売経費」を足したのが、正当な値段ということになっている。だから本当は1,900円で売れるジーンズを10,000円で売るのはよくないのだ。(仮にそれで満足して買ってゆくヒトがいたとしても…)
インド北部のような「ど商人」の国に行くと、正札という概念そのものがない。「いくらだ」と聞いて、本当に欲しいのでなければ値切っても構わない。商人が提示する値段は定価ではない。これくらいで売れるといいなあという願望にしかすぎない。1/10にして売ってくれるかもしれないし、5%もひいてくれないかもしれない。これはヒトによって払う対価が違っているということでもある。ヒトによって支払う金額は違うわけだ。しかし、日本人がこういう場面を見ると「本当の価値はいくらで、高い値段を支払うのは騙されているのだ」ということになる。だから値引かないと損だと考えるのだ。
二点目には、経済そのものが縮小し、誰も「場を維持するため」にコストを支払う余裕がなくなったときの問題がある。みんながフリーや格安に殺到すると、フリーミアムモデルは成り立たなくなる。場を維持する責任感がないとも考えられるし、そもそもそんな余裕がないのだとも言える。すると場が作られなくなり(ジーンズが格安でしか売れなくなればGAPは日本の商売を縮小して中国などの新興国に向かうだろう)、既存の場はやがて消失する。そうして経済がまた縮小してゆくわけだ。
確かに、フリーは目新しい概念ではない。目新しいのは、ネットが登場して市場を創出するためのコストが限りなく無料に近づいているという点だけなのかもしれない。しかし、場所を作るヒトや場所のコストを負担してくれるヒトがいなくなり、代わりにフリーライダーばかりになってしまうと、経済は確実に縮小する。
ところで、僕はもう結論として「だから日本人は場をつくるためにがんばるべきだ」とは言わない。こういうのは自分で実際にやってみる事だし、もしつくれないと確信したらそれができる場所に移住すべきと思うからだ。そもそも「誰かが場所を作る」のを待っていること自体がフリーライダー的だ。やってみると分かるが、自分で場所を作ったつもりでも誰かのアーキテクチャの上に乗っているだけということが多い。なかなか難しいし、最初は誰にも相手にしてもらえない。しかし、ここまで場所や機会がなくなると「もう自分でつくるしかないなあ」と覚悟を決めるヒトも増えるのではないかと思う。そうしたヒトたちが立ち現れることによってしか、新しい成長は生まれないのだろう。

派遣労働

「笑いごとではなくなってしまった都市伝説みっつを論破する」というオンライン上の論文の中に、派遣労働に関する記述がある。派遣会社が行なっているのは「付加価値の創造であるから、存在意義を認めよ」という主張だ。これだけを取り出して経済学的に論じると、このステートメントは「是」である。GDPを算出するにあたって、派遣会社のサービスは日本経済に付加価値を与える。
よかったね…これからも派遣労働を続けてよいよ。
とはならないと思う。ただ、こうした問題を真剣に考えなければならないのは「金融」のヒトではないとも思う。
派遣労働が好まれるのにはいくつかの理由がある。
一つ目は経済的な負担が減るからだ。整理解雇の時の退職上乗せ金、保険、年金などがそれにあたる。
二つ目は固定費の削減だ。特に製造業は設備が老朽化し、内需も外需も縮小してしまったために、余剰な設備を抱えている。これを整理しないままで「人間」を整理してしまった。儲かるときだけ調達してきたい。変動費化とでもいうのですかね。別の産業も興ってこないようだし、今まで工場で働いていたヒトがプログラマになれるわけでもない。プログラマすら余剰なのだ。
三つ目は終身雇用の維持だ。給料体系を別立てにすることで、結果的に終身雇用された人たちの給与を維持している。おまけに身分制度的な受け取られ方をする。中世的な「下見て暮らせ」政策だ。完全に経済合理性だけで派遣が使われていたとしたら、正社員の派遣イジメのようなことは起きなかっただろう。が、実際にはこうした問題が発生している。

対価

だが、それぞれに社会は対価を支払っている。
一つ目は会社が負担しなくなった社会保険は、誰か別のヒトが支払うことになる。最終的には国が支払う。国というと分かりにくいが、税金だ。つまりこれを読んでいるあなた(ただし、働いているヒトのみ)が支払うのだ。さらに、年金システムや国民健康保険にも悪い影響を与えるので、システムの維持が難しくなる。こうなると、年金受給者も他人事ではいられない。これを国債で調達することも考えられるが、これは長期的にみて(下手したら短期的に見ても)維持可能ではない。明日の票を心配する政治家はどうだかわからないが、社会の継続性を考える政治家はこの問題に取り組んだ方がいい。
二つ目は経済合理性だ。前回「レイオフは株価を押し上げなかった」という記事を読んで勉強したように、安易な解雇には経済的な合理性がなさそうだ。加えて派遣労働者を大量に採用するにはそれなりのコスト(新聞で労働者を募集したり、教育したり、営業マンがかけずり回ったり、履歴書を整理したり…)がかかる。「派遣を使えば固定費が削減できる」ということだけを見ると確かに合理性がありそうだが、経済全体での合理性は低いように思える。確かに付加価値なのだが、一つの労働にたいして関わるヒトの数が増えているだけなのだ。おかげで何か新しい仕事があるたびに企業はリソースの確保を行なう必要がでてくる。これは生産的な付加価値なのか。しかしこれを考えるのは金融屋のシゴトではない。経営者のおシゴトだ。
三番目はちょっと深刻だ。終身雇用制を維持するために「コアでない人たち」を派遣化した。例えば工場労働者は高度な技能を必要としない限りに置いてはコアでない人たちだといえそうだが、工場のちょっとした工夫が生産性を上げる可能性は排除されてしまうだろう。また、店頭のスタッフをアルバイトにすることはできるだろうが、彼らは顧客接点なので、これを単純労働力で置き換えるのは実は危険なことなのだ。「新しい発見」ができなくなりつつある。これが「モラル」とか「モラール」とかいう領域にまで踏み込むと生産性は確実に下がり始める。
この件に関してもう一つの問題は、人事部の生産性の問題だ。人事部は採用権限を持つが、かならずしも経営的な判断を行なうわけではない。彼らは派遣業者と接するときにはお客さんになる。お客さんは神様だから、かなり鷹揚に振る舞っているはずだ。何かあったら営業を呼ぶ。これが実はコストになっている。その他に現場とのやり取りも発生する。これがすべて料金に乗ってしまうのだ。さらに現場ではここから教育を加え必要な調整を行なう。明確なコスト意識がないと(多分コスト意識を持つためには当事者意識が必要なのだろう)ここを合理化するのは難しい。ここで値引きの交渉が始まると、営業マンや派遣労働者への支払いが影響を受ける。するとやる気がなくなったり、職場で不満を訴えるかもしれない。しかしそれを受けるのは人事部ではなく現場のマネージャたちだ。すると、さらに時間が取られ…。
結果的には、終身雇用すら怪しい状況が生まれているようだ。社員をリストラしたり、海外移転を避けられない会社が出て来た。新卒すら採用することができないし、いったん採用した人たちを恫喝して辞めさせるという(大学生からすると悲劇だし、企業側から見ると究極のムダといえる)この流れはさらに加速するだろう。変化を臨時雇用の人たちに押し付けたせいで、結果的に自分たちが変化するきっかけを失ったと言ってもよい。

処方箋

労働者側から見ると「ピンハネされていると思うなら辞めりゃいい」と思う。多分日本人はマジメ過ぎるのだ。ただ、最初にこうしたシステムにたいしてサボタージュを行なう人たちは大きな社会的圧力に曝されるだろう。周りに理解者がいないわけだから、個人を責めさいなむことになるかもしれない。自由は時に過酷だ。ただ、めちゃくちゃな主張に聞こえるかもしれないが、マルクスだって「搾取反対」という主張を理論で固めた訳だから、頭のいい日本人にそれができないはずがない。要はヒトが納得できて、シンパシーを覚えることができる理論を構築できるかどうかにかかっている。ただ、本来社会に経済的な付加価値を与えるはずの労働者が反乱を起こした状態は、平たくは「資本主義の死」と呼ばれることになるだろう。
ただ、戦う相手は多分派遣会社ではないように思える。どうも日本の会社全体に蔓延している「コスト意識のなさ」が敵なのではないかと思う。「デフレなんだから生産性なんか上げたってさ」という気分である。これを解決するのは、強力なリーダーシップを持った企業家や起業家であるべきだろう。もし日本にこうした類いの人たちがいないのであれば「日本はオワタ」状態なので、そのまま停滞してゆけばいい。
次の問題はこうしたいびつな労働条件を導入しなければ延命できない企業の問題だ。努力すればなんとでもなると思うのだが、どうもそうではないのだという。こうした企業の中には「派遣労働がなくなったら海外に出てゆくしかありませんな」という人たちがいる。こうした企業に対峙して政治家達が「それは大変だ」と思ってしまうのは、日本は結局製造業しかできない国で別の産業など起こり得るはずがないという変な確信があるからだろう(まあ、平たく言ってしまえば自信を失っているわけだ)。もしそうであれば「日本はオワタ」状態であるので、そのまま停滞に向かうべきだ。イノベーターがあらわれないのも資本主義の死だ。
でも、それでいいのかねと思う。こうした状況を改善するのは、全体的な派遣の禁止ではないだろう。しかし、もし企業経営者たちが一人ひとりの努力でこうした状況を改善してゆこうという意欲を失っているのであれば「禁止」してやってもいいかもしれない。みんながやめないとやめられないというのは非常に情けない事態だ。
これはタバコやアルコールに似ている。飲むも飲まないも個人の自由だ。しかし、これなしで生活できなくなったとしたら、これは別の話だ。こうした状況を「中毒」という。肺がんになってもまだ喫煙をやめられないのであれば取り上げてやった方がいい。ただ、その前にもう一回考えてみるべきだろう。経営者には本当に自由意志が残っていないかどうかということを。
藤沢さんがこの説で言っていることは一つだけ正しい。自由市場では過度な政治的参入はない方がいい。しかし「みんなが派遣を使い倒すから俺も」と言っている社会が本当に自由市場なのかはもう一度考えた方がいいだろう。なぜならば、個人が考えられなくなった社会では、いろいろな局面で「親切な政府」が介入することになるだろうからだ。これは資本主義の死よりも恐ろしい。これは自由の死で、もしかしたらいつか来た道の再現なのかもしれないからだ。

個人の自立心が日本を強くするか?

起業家を支援するグロービスの堀さんが個人の自立心が日本を強くすると言っている。これについて考えてみたい。
まず「個人の自立心が大切だ」というステートメントだが、これは正当化できるように思える。経済が流動化しつつあり、自分の核をもっていないと状況に流されてしまう。情報が氾濫しているのもその一つのあらわれだ。「私の問題意識」を核に持っていないと、情報に押し流されることになるだろう。問題はそれをどうやって実現してゆくかということだ。
先日チリで地震が起きた。地震そのものの被害よりも二次災害の方が悲惨だったようだ。一つは地震の後に起こった津波だった。警戒システムが網羅されていなかったことで情報が行き渡らなかったようだ。次の災害は暴動と略奪だ。略奪に参加したのは荒くれ者ばかりではない。普通の市民に見えるひとたちも参加している。支援食料が届かないのだ。略奪は犯罪だが、飢えるヒトが目の前の食料をあさるのを責める気持ちにはなれない。今朝のNHKのニュースでは、最近の急成長の影響で貧富の格差が増大しており、この不満が爆発したのかもしれないという観測を伝えている。
阪神淡路大震災の時、こうした略奪は行なわれなかったといわれている。コミュニティの力が大きかったようだ。国の援助システムもチリよりは格段に整備されていたからかもしれない。
ホフステードの指標で日本とチリを比てみる。チリはラテンアメリカ諸国に一般的な傾向を持っている。集団性とUAI(リスク回避傾向)が高い。集団性が高いのは「日本と同じではないか」と思われるかもしれないが、日本の集団性は東アジアの他の国やラテンアメリカ諸国よりは低い。こうした国から見ると日本は「まだ」個人主義の国ということになる。PDIが高いので「ボスのいうことはなにがなんでも聞かなければならない」という傾向があり、男性化傾向は低い。(多文化世界―違いを学び共存への道を探るを参照のこと)
日本人が個人主義傾向の低い国(例えば中国など)の人たちを見ると「わがままだ」と感じることがある。集団主義が家族を核としているためだ。だからいざというときには地域社会や国家といった共同体的なコミュニティではなく、家族や地域のようなコミュニティに助けを求めるし、家族を防衛するために動くわけだ。日本が疑似家族としての会社や国家に対して忠誠心を感じるのに比べて、こうした国では家族が生き残ることの方が優先順位が高いといえる。同じような集団主義でも日本の集団主義は抽象度が高い。血族は取り替えが利かないのだが、日本人の集団は個人が選択する余地がある。
この特質の違いが防衛システムにもあらわれている。日本人は地域社会が協力しあって安定化をはかることにより震災後の混乱を防衛した。一方、チリは家族のような小さな集団を守るために平常時は反社会的と言われる略奪を行なってでも自己防衛を図っているのである。
さて、堀さんの議論に戻ろう。この議論には2つの面白いミックスが見られる。一つは「個人が自立しなければならない」というステートメントなのだが、注意深く読んでみると「個人の活力が結果的に集団としての日本の強さを生み出す」という別のメッセージが隠れている。堀さんは西洋的なコンテクストで教育された方なのだろうから、個人の活動が結果的に集団の活力を生み出すという考えには違和感を持たないだろう。アダム・スミスも同じようなことを言っている。個人のばらばらの経済活動が国家を強くするみたいなことで、国家が丸抱えで競争する重商主義を捨てて自由主義経済が生まれたわけだ。
しかし、これが日本のコンテクストに取り入れられると、おかしなことが起こる。それは日本人がこのステートメントを「みんなで一緒に自立心を持ちましょう」というように受け取る可能性があるからだ。これは集団主義的な考え方だ。
今朝のNHKニュースで面白い特集をやっていた。私らしさを表現するために15秒のコマーシャルを作りましょうというのだ。広告代理店と大学が共同でカリキュラムを作ったらしい。まず「私のいいところ」を100以上みつけ、そこからメッセージを作り上げてゆく。最終的にこれを発表させていた。簡単に100個見つけられる子もいれば、まったく思いつかない子もいる。先生がやっとの思いで1つのよいところ「7か月目から水泳をやっている」を選んだ子どもを見て「水泳みんなやってるよ。もうちょっと考えてみようよ…」みたいなことを言っていた。
自尊心が生まれるのは、自分の特質について「心からよい」と思えるからだ。怒られながら無理矢理見つけるものではない。この先生にしても「それはすごいねえ、どうしてそんなに続けられるのか教えてよ」くらい言えばよさそうなものだ。そしてそれを機械的に15秒のコマーシャルに落としてゆく。メッセージは瞬間的なものだから「キャラ」が立っていているものがクラスで承認されて終わりになることになるだろう。
自尊心がこうした機械的な作業から生まれるものかね、とも思うが、これが工業主義的な国の自尊心の育て方なのかもしれない。もしかしたら他のヒトが「ガンコ」と思っている特質が、本当のそのひとらしさであり美点なのかもしれない。しかし、先生が「ガンコはいいことじゃないよ」と指導してしまえば、それがそのヒトに刷り込まれることもあるだろう。
ここで起こっているのは、大げさに言えば「個人主義」と「集団主義」の対立だ。自尊心が自立心につながるわけだから、ここで「先生に受けそうなキャラを出しておこう」と考えると、結局自立心が育たないということになってしまう。
さて、ここまで書いて来て、じゃあいったい何が処方箋になるのか?と思われる方もいるかもしれない。
まず第一に、西洋的な社会に触れて「個人主義」の洗礼をうけた人たちがいる。この人たちを邪魔しないようにしなければならない。現実的にはかなり難しい。たとえば、國母選手は早くからプロになり、スノーボードのコミュニティでの交流も活発なようだ。こういうヒトが個人主義の社会で当たり前のようにやっていることを集団主義の社会で行なうと、おおいに叩かれることになる。どうも匿名でならいくら叩いてもいいと思うのは若い人たちの特質ではないらしい。我々の社会がもとから持っている特質が引き継がれているだけのようだ。根強い集団主義的な表現の仕方だ。
次に重要なのは、集団主義的な特質を闇雲に否定しないことだろう。NHKのCMの授業で見たように、社会は見た事がないものを再生することはできないのだ。これは社会には再生産の機能があるからで、故に一度獲得した文化は長い間大きく変わることがない。そもそも「みんなで一緒に変わりましょう」というのは個人主義ではない。また、セルフプロモーションはキャラ作りではない。自分の特質や得意なことを使って世の中に貢献するための作業だ。結局個人主義といってもそれは社会との関わりの中で作られてゆくべきだ。
日本のネット環境は「匿名性が高い」と言われて来た。アメリカでは、まず個人の発言が立ち上がり、それが社会的な影響力を持つようになった歴史がある。しかし、日本では別の歴史をたどりそうだ。まず個人のつぶやきとして始まり、それが匿名化した勢力になる。今はある程度「世論」としてのプレゼンスを持ちつつあり、社会にプレッシャーを与えるところまで来ている。この後どうなるかはわからないのだが、ここから次第に自尊心が育てばよいのではないかと思える。
ただし、これは我々一人ひとりが変わらなくてもいいという主張ではない。経済的な変化が大きくなると、一つの集団がその人の一生の面倒を見ることはできなくなるだろうからだ。しかしそのためには、我々の社会がどんな性質を持っていて、それがどのような機能を果たして来たのかを改めて見つめ直してみる必要がある。それができてはじめて自尊心が生まれる。自分がよいと思っているサービスが世の中に広まれば結果的に多くのイノベーターや起業家を生み出し、日本を成長させる原動力として作用するだろう。

社会脳

よく、人間は社会的動物だと言われることがある。そして日本人は集団主義でアメリカ人は個人主義者だというような言い方もする。しかし、実際のところそれがどういうことなのかよく分からない。実際のところ、日本人もアメリカ人も集団から影響を受けている。そして脳にはこの「社会性」を処理する回路があるのだそうだ。これを社会脳というらしい。
別に小脳や前頭前野というような特定の器官が存在する訳ではない。群れを維持するのに必要な回路をありものの脳神経から改良してきたのだそうだ。大抵の脳の回路は自分自身の体から出るさまざまな変化をフィードバックしている。しかし、ミラーニューロンのような回路は相手の変化を受けて反応する。SQ生きかたの知能指数は、この社会脳にについて書かれている。
ソーシャル・ネットワークを研究する上で「ソーシャル」とは何なのかということを理解することは重要だと思う。それは意識的な活動というよりは、無意識の活動のようだ。なぜかこの人が好きだとか、なんとなく好きになれないと感じることがある。このように感じるのは社会性に関する認知の一部が、意識よりも早い速度で処理されてしまうかららしい。この本はこれを「表」と「裏」と呼んでいる。
信頼と不信の回路も異なったところにある。好きかどうかということを決めるのは表の通路のシゴトなのだが、嫌いかどうかを決めるのは扁桃体のシゴトだ。だから「なんだかわからないが、生理的にダメ」ということが起こりうる。この男性は「車を持っていて、日曜日に楽しいデートをさせてくれるから好き」と考えるのは、表の通路のシゴトだ。しかし、車の中のふとした仕草で「もうこの男性はありえない」と考えることもある。それは昔父親から受けた虐待を扁桃体が恐怖として覚えているからかもしれない。しかし車の中で突然パニックを起こして逃げ出さないのは、扁桃体の信号が前頭前野で抑制されているからである。
ミラーニューロンが作り出す働きを「共感」という。社会化の能力は2つの異なる能力からできている。一つは相手の表情を読み取る能力。もう一つはそれに対応して適切な行動をする力だ。アスペルガーの人たちは、相手の表情やちょっとした皮肉などを読み取る事が苦手だ。一方、昔サイコパスと呼ばれた反社会的行動を起こす人たちは、こんなことをしたら相手が傷つくだろうと想像したり、自分が嫌われてしまうのではないかということを理解したりすることができない。
スポーツ選手を見ると、自分まで活躍している気分になったりする。これは共感が働いているからだ。映画スターを見て、主人公と同じ気分になることもある。このように「正常」な状態では、自分の感情と相手の感情を区別することはできないし、映画スターが演じる人物のように「現実」と「仮想」の意識もできない。しかし、一方で自分はスポーツ選手ではないのだとか、これは映画であって現実の出来事ではないのだと理解することはできる。このように意識と無意識がアクセルとブレーキのような働きをしている。
ヒトから拒絶されるとたいへん傷つく。社会的な拒絶は肉体を傷づけられたのと同じ場所で処理されるのだそうだ。傷つけられるのは嫌なので、こうしたつながりを回避するようになる場合がある。「無視する」ことも「殴る」ことも同じようないじめになるということが分かるだろう。

オンラインメディアに関する捕捉

バーチャルな体験に関する記述にはいくつかのものがある。「現実」と「仮想」の区別ができないという点が一つ。そして、お互いに離れた場所にいる人たちの間では、どうしても「抑制」機能が働かなくなることがあるそうだ。メールのやり取りがエスカレートしたり、掲示板が炎上したりするのは、怒りに任せて書き込みをしても、読み手は書き手が怒っていることに気がつかないからだろう。一方書き手の側も怒ってキーボードを叩いているうちにどんどん怒りがこみ上げて来て(これは社会脳の働きではなく、自分の頭の中のフィードバックだ)さらに怒りのコメントを書き込むことになる。
文字だけでリアルタイムのコミュニケーションができるインターネットは人類にとっては新しい経験だ。手紙の場合にはやり取りに一定の時間がかかるので、その間に冷静になることができる。これで表と裏の時間差が調整できるわけだ。しかし、インターネット上のコミュニケーションではこの時間差を埋める前にやり取りが完了してしまう。ヒトがこのようなメディアにどう対応してゆくのかは分からないが、これに適応するような社会性が必要になるのではないかと思われる。もちろん、インターネットに接するのは、実生活の社会生活を経験した後になるはずなので、実生活での社会性の不安定さはそのままインターネットの世界にも持ち込まれるだろう。
何回か主張しているように、ネットによってコミュニケーション能力に不具合が生じるわけではない。しかし、社会やヒトが持っていた社会性の不安定な要素は、ネットにも持ち込まれて拡大することもあり得るのではないかと思われる。
例えば、対人関係に不安を抱えている子どもが携帯メールを手にする。即座に返事が来ないことを「拒絶」だと感じることはあり得るだろう。「相手が拒絶されている」ことを想像して、メールが来たらすぐに返事を出さないと不安になるということも十分に起こりえる。その子がやがてTwitterに手を出して、いつ自分に通信が入ってくるか分からないから、パソコンの前から離れられないとなると、これは問題だ。社会生活が健全に送ることができなくなってしまうからだ。しかしこの子からTwitterを取り上げることは根本的な対応策にならない。ここで必要なのは、相手から即座に返答がこなくても自分は受け入れらるだろうという自信や、相手になんらかの事情があってすぐには返事を返せないのだろうと理解できる想像力などが必要になる。
また、オンライン上では、全く関係のない他者とその場限りの関係を結ぶ場合が出てくる。お互いに「拒絶」を痛みとして怖れている人たちがここに入り込んで来てしまうと、ノーと言えないまま曖昧な関係が続いてしまうことがあるだろう。これが時として大変危険な状態を生み出す。これを回避するためには、それとなく拒絶する(拒絶しても、言葉を選びつつ円滑な人間関係を維持できるのは、社会脳の働きの一つだ)スキルを身につけることが大変重要だ。

mixi

光浦靖子さんは今東洋医学にはまっているそうだ。あまりにもはまり過ぎて、ついに学校に通っているのだという。大竹まことのゴールデンラジオで、そんな光浦さんがおもしろい話をしていた。学校で宿題が出されている。パソコンが苦手な光浦さんは課題を仕上げるのがむずかしそうだ。そんなとき、友達たちが手を差し伸べてくれた。宿題を一緒にやりましょうというのだ。なんて親切なのだろう、と光浦さんは思う。しかし、ふと気がつくと、光浦さんはある「危険」を冒していることに気がつく。クラスには2つの友達の集団がある。一つはすでに職業にしようとしていたり、関連したシゴトをしているプロの人たち。もう一つはそうでもないグループだ。一つのグループで「あっちのグループにも助けてもらっている」という話をしたところ、一瞬気まずい雰囲気が流れたのだそうだ。
これが本当にあったことなのかは分からない。ネタという可能性もある。しかしなんとなく「ありそうだなあ」と思わせる話だ。光浦さんはこのとき「そういえば学校でも似たようなことがあったなあ」と思ったそうだ。

送信者 Keynotes

昨日のソーシャル・リンクのピラミット上では、学校の知り合いは「標準のリンク」ということになりそうだ。一生をかけるほどのコミットメントとはいえなそうだし、お互いに助け合っているので相互性は確保されている。しかし、それでも「どっちと仲良くするか選んでよ」というような無言のプレッシャーがある。けっこう縛りがきついのだ。
ある職場で働いていたとき、同僚の一人からmixiのおさそいを受けた。ほのめかすようにやって来て「それとなくこのアカウントが私のものである」と気づかせる。名前はハンドルネームだし、顔写真も出ていない。それはまるで秘密結社の入会儀式のようだ。そこから友達関係をたぐってゆくと、どうやら「このハンドルネームがこのヒト」みたいな類推ができる。この同僚ラインマネージャークラスの人たちで40代だ。たぶん一人ミドルマネージャーが入っているのだが、シニアマネージャー(マーケティング事業部長といういかめしいタイトルだった)との間に溝がある。会社の外でこの人たちが楽しそうにやっていることは気づかれてはならない。誘ってくれたヒトはインナーサークルに加入してほしいという気持ちがあったわけではなく、どうやら仲良くしていることを見せつけたい気持ちがあったようだ。観客がいないショーもまたむなしい。別のラインマネージャーは「オンラインに強い」という自負心があり、mixiの中でマーケティング活動を行なっている。この人のリンクポリシーはすこしオープンだった。
よく、日本のインターネットコミュニティは「匿名だ」という話がある。確かにそうなのだが、mixiは厳密には匿名とは言えないように思える。実際に内輪に入ってみると、誰がどのハンドルネームを使っているのかというのはかなり自明だからだ。しかし、外からは分からないようになっている。匿名が障壁の役割を果たしているのだ。
光浦さんの例で見たように、日本社会の普通のつながりはかなり濃密だ。ある種の忠誠心さえ求められることがある。しかし、こうしたつながりなしには生活できないのも事実だ。地域や会社などのつながりが稀薄になったり、力を失ってくるとその影響力はより強くなる。例えば、どこの保育園に空きがある、どの医者が親切だというようなことが分からないと子育てすらできない地域では、お母さん同士の口コミはかなり重要だ。
強いコミュティに属していて、そこに満足している人たちは「実名」で交際ができる。それはある種、特権のようになってしまっている。特権を与えられているのは、会社の社長、重役クラス、起業家、作家などといった人たちだ。その他の人たちは符牒を使って話をするわけだ。ある種、普通のつながりが地下化してしまっているようだ。こうした人たちにとって「実名で友達同士のネットワーク」は「あり得ない」ということになる。
「マイミク」という言葉にはちょっと強迫的な響きがあって、実生活上の友達関係を反映しているようだ。
もちろんmixiでも弱いつながりは機能しているようだ。ここにも既存のチャネルを補完する役割がある。例えば人気のあるジーンズのコミュニティでは、輸入ものや通販が本物かどうか、今人気の形はどんなものか、カタログはもう発送されたか、バーゲン品はまだ残っているかといった情報が交わされている。店頭では聞けない情報ばかりだし、お店のない地方もある。中には「アルバイト店員」と思えるような人たちもいるようだ。しかし、Facebookが企業のオフィシャルサイトを積極的に誘導しているのに比べると、mixiのコミュニティは公認度が低い。どこの誰かだか分からない人たちの間で非公式の情報が飛び交っているといった状態だ。
mixiは楽しく、まったりと過ごす場所だ。日本人は実名でくつろぐことはできない。背景には人間関係が稀薄化したというよりは、人間関係が濃密すぎて気軽に名前が出せないという事情があるようだ。
そんなコミュニティに登録しているヒトは現在1700万人。稼働率は60%程度らしい。すると、使っているヒトの人口は1000万人程度ということになる。(ちなみに2009年5月のTwtter登録者数は50万人程度だったようだ。流行する前なので、もう少し増えているものと思われる)
このエントリー、昨日の続きなのだが、こうした環境で「自分の意見を他人に分かるように表明して、相手の言う事を理解しつつ、妥協して結論を導きだす」ことができるだろうか。まず、自分をコミュニティの中から浮き立たせることを忌避しているし、つながる相手はかなり慎重に選んでいる。これは裏返せば、一度コミュニティが確定してしまうと妥協の余地が少ないことを意味しているように思える。これが「議論」だ。ディベートは「競技」のように捉えられることが多いのだが、実は妥協点を探る擦り合わせの作業だ。
そしてさらに重要なのは、この特性を作ったのはmixiではないということだ。mixiは日本人のコミュティに対する感性によって作られ、多くの人に支持され(1700万人が多いかは議論の別れるところだが)た。実名が前提になっているFacebookが日本に入って来ることができないように、多分mixiもこのままでは外には出てゆけないだろう。

Twitterが顕在化させたもの

たとえば、みんながスクーターに乗るようになった。一方、車の売り上げが減って来ているようだ。だから、近い将来には誰も遠くに出かけなくなるに違いない。こういう推論があったらあなたはどう思うだろうか。僕は、この推論は少し乱暴なのではと感じる。この議論を正しく行なうためには、スクーターは主に町で使うものであって、車は近くからかなり遠い町をカバーするということを理解する必要がある。もっと遠くの町にでかけるためにはバスを選ぶだろうし、海外へ出かける場合には飛行機を使えばいい。このように乗り物は目的にあわせて選ぶべきだ。車が減ったとしてもバスに乗る人は増えているかもしれない。
グロービスの堀義人さんの心配はまさにこれにあたる。ご本人はつぶやきだと言っているが、ごちゃごちゃした議論ほど、考察の起点としては面白い。堀さんが問題にしているのは、議論の質とコミュニケーションツールだ。堀さんは議論の質が下がり、速報性が増すだろうと考えているようだ。その結果ロジックよりも別のもの(例えば情操的ななにか)が重要視されるようになるだろうが、Twitterは一時の熱狂に過ぎないので、やがてはTwitterそのものが別の流行に取って代わられるだろうと考えている。
乗り物の例で、議論の質に当たるものは「距離」だった。そして何をツールとしてつかうかにあたるものが「乗り物の種類」だ。しかし、ここで問題が出てくる。車はコンビニに行くのにも使えるし、日本一周にも使える。もっと極端な話をすると、自転車を使って日本一周をすることも可能だ。しかし、この場合は全国紙の社会面くらいを飾るかもしれない。ここから示唆されることは、ツールが使える範囲は、設計された意図を越えて拡張しうるという事実だ。
青木理音さんは堀さんに答える議論の中でTwitterの140字を使って議論をすることは不可能だろうといっている。これは「自転車を使って日本一周をすることはできないだろう。少なくとも俺にはムリだ」と言っているのだ。(詳細には議論しないが、自転車で日本一周が可能なように、Twitterを使った議論のプラットフォームを作る事は可能だろうと思われる。Twitterは部品だからだ)ここには堀さんの議論を越える種のようなものが見られる。
議論の質というのは難しい問題だ。堀さんの議論では「量」を増やせば「質」が低下するという前提があるが、青木さんは「量を増やす事によって上がる質もあるのではないか」ということを言っているわけだ。
さて、議論を進める前にSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)について考えてみる。ここで取り扱われるのは「議論の質」ではなく、「つながりの質」についてだ。Linkedinの日本語コミュニティである質問が出された。Linkedinでのリンクリクエストをどのように処理するかという問題だ。ほとんどのメンバーが「実際に会った事のあるヒトだけに限定しています」と答えていた。僕も実際に会ったことがあるヒトしかリンクしていない。しかし、LinkedinにはOpen Networkerと呼ばれる人たちがいる。LIONと称されていて、ほとんど手当たり次第にリンクを申請するわけだ。営業目的で使っているヒトと、表示される数を競う競技型のヒトがいる。LIONはLinkedinでは推奨されておらず、半ば黙認状態にある。そしてこうしたつながりから営業をしかけられるのをほとんどのヒトは嫌っている。
しかし、議論の中に変わった方がいた。このヒトはリンク申請を基本的に断らないのだという。話を聞いてみると「たくさんのつながりがあり、その中から1%か2%程度のモノになるつながりが生まれればよいのだ」と考えているようだ。
人間が把握できる関係性の量は限られている。群れが円滑に機能するのは150人くらいだそうだ。優秀な営業マンであれば5,000人くらいの名刺を管理できるかもしれない。このスレッドの中で教えて貰った話によると、大阪のホテルマンは地道な努力の結果4,000名のお客さんの顔と職場を把握したのだそうだ。
しかし、Linkedinはこうした不特定多数のつながりを維持するようには設計されていない。名刺にはいろいろな整理方法があるだろうが、コネクションを整理する機能は備わっていないのだ。
大抵のヒトたちはLinkedinをシゴト関係の普通のつながりを維持するのに使う。これを普通のリンクと呼ぶ事にする。普通のリンクには相互性が強い。シゴトの問い合わせをしたり、ヒトを紹介しあったりすることができるくらいの関係性だ。終身雇用で一生会社の外から出られない職場のつながりはこれよりも強い。こうした運命共同体(他の選択肢を諦めて、ある集団にコミットする)に関わるものを強いリンクと呼ぶ。一方、LIONが求めたのはそれよりも一段弱いつながりだ。相互性が消えて、頼み事をするにはちょっと弱いのだが、情報収集をしたり、今まで自分のつながりの中にはなかった新しい発見ができる可能性を持っている。たくさんのつながりを受け入れているヒトの実感では、1%か2%くらいが標準的なつながりに発展する。
こうした弱いつながりを持つ事の意味を発見したのが、マーク・グラノベッターだ。グラノベッターは、職探しにおいて、普段やり取りがある人たち(職場や家族)よりも接触頻度が低いつながりの方が有用だということを調査した。これが複雑系研究の中で再評価された。「スモールワールド仮説」では、こうした弱いつながりが、世界がばらばらになるのを防いでいるのだと考えている。
グラノベッターは、普段接触しない人たちとの関係性を、弱い靭帯の強み(The strength of weak ties)と呼んだ。強い靭帯のメンバーは同じような環境にいて、似たようなことを経験している。意思疎通は簡単だが、新しい発見はない。一方、弱い靭帯から入ってくる情報は新しいものが多い。シゴト探しで求めたいのは「新しい情報」なので弱い靭帯の方が有用なのだ。
これはアイディア開発にも当てはまる。強い靭帯よりも、弱い靭帯の方が多くの情報を集めることができる。発見の現場においてはアイディアの質はコントロールできないので、数を集めることが唯一質を担保することになる。やがて学習のフェイズに移る。すると意思疎通がしやすい組織で運営した方が効率性が増す。
最初の堀さんの議論に戻ろう。堀さんは量が増す事で議論はますます感情に左右されるようになるのではないかと考えた。取り扱う情動(一時的な感情)性に関する問題は別途議論する必要があるだろうが、量を増す事で得られるのは情報のバラエティーなのだ。これは新しい発見が重要な議論では非常に重要な要素だろう。つまりTwitterは時と場合によっては議論の質に貢献するわけである。
ここまで、強いつながり、標準のつながり、弱いつながりという3つの層を見て来た。強いつながりは運命共同体であり、弱いつながりは相互性が希薄化しているのだった。しかしTwitterの作るつながりはこれとは異なっている。いわゆるFollowというやつだ。単純な機能なのだが、予告も自己紹介もなくFollowして、いらないと思ったら勝手に切ることもできる。どうしてこのような使われ方がされるようになったのだろうか。

送信者 Keynotes

地方都市では、三軒先に住んでいる娘さんの情報はかなり詳細に知れ渡っている。地方の高校を卒業し、東京に行って、3年間OLをしていたのだが、2年結婚した後離婚した。そういえばあの人のおばさんも…、という具合だ。やや強いつながりに近い標準的なつながりとはそのようなものだろう。
地方都市と東京の違いはこのつながりの質にある。都市部ではアパートの隣人がどんなヒトなのかを気にする事はあまりない。また、知られたいとも思わない。しかしこれとは別の知り合いの形態が生まれる。「いつもコンビニのバイトにはいっている青年」とか「電車の中でとなりに座るおじさん」といった類いの人たちだ。また日曜日の新宿に行けば、歩行者天国でパフォーマンスをしている人たちがいる。観客は投げ銭をしたり、拍手をしたりするが、面と向かって「あんたのパフォーマンスは面白くない」というヒトはあまりいない。パフォーマンスの代わりに日曜演説会を開くヒトもいるかもしれない。多分反応は似たようなものだろう。ここで形成されるつながりは、弱いつながりよりもさらに弱い。これを弱い弱いつながりと呼ぶ事にする。弱いつながりと弱い弱いつながりを分けているものは、観客になる人たちの視認性だ。弱いつながりではお互いの顔は見えている。しかし弱い弱いつながりでは視認性がぼやけはじめる。社会学的に「群衆」という用語は別の意味を持っているので、「観衆」とでも呼べばいいだろうか。(ここに集る人たちは暗黙のルールに基づいて行動している。これが無目的化して制御できなくなったとき、その集団は群衆と呼ばれることになる。)
観衆がいるのが都市で、いないのが(きんじょの公園に紙芝居を見に来るコドモの素性はすべて知れ渡っているだろう)地方ということになる。
Twitterが出てくる事によってインターネット上のつながりは一気に都市化した。Twitterは弱い弱いつながりを表現する装置として機能しているのである。故にこの流れは不可逆的なものなのではないかと思われる。問題は、こうした都市的なつながりが、新宿でパフォーマンスを見るお客さん達のような統制を自発的に獲得できるかにかかっているように思われる。
今回のシリーズでは、ソーシャル・メディア、リンク、議論などについて、このつながりのモデルを使いながら考えてみたい。

二律背反的な考え方から抜け出す

前回の議論では、内部留保(戦後に貯め込んだ企業の儲け)を資本家に渡すべきか、従業員に戻すべきかという問題が一つの争点になっていた。資本家に渡っても、それが職場を作れば従業員に還元されるはずなのだが、現実にはそうなっていない。その上、従業員は正規から非正規へというのが一つの流れになっている。さらには経済状態が悪くなると、即リストラだ。
こうした動きが広がっているのは、株価を維持するためには、リストラをやった方がいいという「常識」が存在するからだ。この流れはまず雇用が流動的なアメリカで広がり、1990年代の半ばに日本に輸入された。しかし、もしもこの常識が本当でないとしたらどうだろうか。
どうやら今週の日本語版には載っていないのだが、国際版のニューズウィークの表紙は「レイオフをレイオフ」だった。英語の記事を読むのは気が重いが、なんとかやってみる。作者はJeffrey Pfefferという人。スタンフォードの教授で、ボブ・サットンとの共著があると書いてある。
Pfefferは、レイオフは株価を上げないし、生産性も下がるのだということをいろいろな統計を持ち出して説明する。その上、常識とは違って直接のコストカット効果もないそうだ。よく言われているように、リストラが行なわれると、辞めてほしくない人から辞めてゆくからで、その人を雇い直す場合も多いのだという。もちろん、残った人たちも「いつ辞めさせられるか」という事を悩むようになるから士気が下がるし、職場のモラルも低下する。この結果、コストが改善しないのだ。
日本はこのレイオフを「リストラ」として輸入したのだが、フランスはそうしなかった。その結果、日本はいつまでも不景気から抜けさせずフランスは回復した。フランス人は「自分たちは辞めさせられないだろう」という自信があるので、消費を手控えなかったそうだ。
このようにいくつもの「レイオフは株主にもよい影響を与えない」ということが分かっているのに、どうして経営幹部はリストラに走るのか。Pfefferは、企業が上場するときに、周りの人たちから「他の企業もやっていますよ」とアドバイスされるからではないかと考えているようだ。記事では上場の時のアンダーライターから、上場前にやっておく事の1つとして、会社をスリムにしろと言われた企業経営者の例を挙がっている。
さて、このことを日本に当てはめてゆくわけだが、記事の冒頭に気になる記述がある。縮小する業界(例として挙っているのはアメリカの新聞産業だ)ではリストラやむなしとされているところだ。これを考慮に入れて考えるといくつかの事が分かる。

  • アメリカの場合には、様々な企業がいろいろなアプローチで経営を行なっている。故に統計的に有為な差が付くのかもしれない。しかし、横並びの日本ではどうだろうか?
  • 国全体が沈み込んでいて、全てが「アメリカの新聞産業」のような状態に陥っているとすると、リストラが多い状態はやむを得ないのではないか?
  • そもそも、どちらの陣営にも属さずに「事実」を見つけてきて議論をしている人たちがどれくらいいるだろうか?

どちらかの陣営に属している人たちは、対立をあおっている間は彼らのシゴトが成り立つような構造に置かれているので、本質的に問題解決には寄与できない。そもそも自分の主張と違っている事実が見つかった場合にはそれを解釈するか隠してしまうことになる。多分、大学教授という立場が貴重なのは「中立」だからなのだろう。
山から小川が流れている。川のそばには村がある。まず上流の人たちが水を汚さないようにして水を使う。それから下流に流れてゆく。時々水利権の問題でいざこざが起きるがなんとなく解決しながらやってきた。しかし、下流に水が流れてこなくなった。下流の村の人たちは上流に文句を言う。上流には水があるようだ。しかし彼らに聞くと「時々水が流れてこなくなるからイザという時の為に取ってある」と言われた。この場合解決策は水の分配ではない。不安定化している水源をなんとかしなければならないだろう。もう水がないのだったら、水の豊富な場所に移住しなければならないかもしれない。水を使わない生活にシフトする人たちも出てくるだろう。
もし下流のコミュニティが上流とは全く関係がないのだったら、下流の人たちを閉め出してしまえばいい。しかし、上流の人々が下流の人々の労働力に支えられた生活をしている場合にはどうだろうか。上流の人たちは下流のやつらは文句ばかりいうから、よそから人を連れて来て何年か働かせればいいよと言い出すかもしれない。でも、その人たちもこの地域に馴染めば同じような権利を主張するに違いない。本質的な解決策にはならない。そのときには、水源の水はもっと細っているかもしれないのに、だ。
また、自由競争にもいろいろな質があることが分かる。下流の村に住んでいる人達が、上流に自由に移り住むことができれば、それは「自由競争」がうまく機能していることになる。しかし、実際には下流の人たちは上流に移り住む事はできない。また、上流の人たちが水をたくさん使えるのは、たまたま標高が高いところに住んでいるから、かもしれない。
水がないところでは水を巡る争いが起こる。同様に、チャンスがないところにはチャンスを巡る争いが起こる。でも、本当の問題は「誰が最初に持ってゆくか」ではなく、何が枯渇してきているかを探るところだと思うのである。二律背反的な議論からは解決策は生まれないのだ。

トヨタとソーシャルメディア

1996年、勤めていた会社の人がうれしそうにやってきて、新しいホンダの車を見せてやると言った。もちろん僕が日本人だからだ。会社の周りを一回りして「どうだ、静かだろう」という。僕は正直当惑した。日本人の僕にとって、車が静かなのは当たりまえだったからだ。アメリカ人にとって、日本車を持つというのは自慢のタネだった。という事で、トヨタがこの何ヶ月で吹き飛ばしたものの重みは大きいようだ。
Newsweek ( ニューズウィーク日本版 ) 2010年 2/17号 [雑誌]の今週号にトヨタの一連の対応についての記事が載っている。ことの発端はアクセルを踏み込んだ状態になり、車が止まらなくなってしまったことだった。ディラーに持って行ったところ「問題が見つからなかった」ということになってしまう。こうした事態が全米で起こり、今では19名が亡くなったという数字が一人歩きするまでになってしまう。この後日本で今問題になっている、ソフトウェアの「問題」が起こった。プリウスのブレーキの設定によりちょっとした誤差が発生する。
ずれは1秒にも満たない。ソフトウェアは修正すればいいようだし、深刻な問題ではない。トヨタによって不運だったのは、このソフトウェアの問題とアクセルの件が結びつけられてしまったことだった。例によってこの件についてLinkedinで聞いたのだが「最初はアメリカ人(と、その部品)のせいにしようとしたのだが、ソフトウェアの問題だということが分かった」と指摘する人がいた。雨だれ式にいろいろな情報が出てくることによって、事態が混乱してしまったようだ。この人は、アメリカ人の現地社長が引っ込んでしまって、日本人が出て来た事も気に入らないようだ。
トヨタがこういう事態に陥ったのは、皮肉にもこれまでこうした問題が起こらなかったからのようだ。トヨタの安全神話は完璧だった。神話が裏切られると怒りに変わるというのは、何も日本人に限ったことではない。「あのトヨタが」というのが今回の事態をややこしくしている。また、こうした問題が起きなかったことで、社内には連絡体制や対応マニュアルがなかったのかもしれない。するとちょっとした情報が経営陣に伝わりにくくなる。
問題の根本にあるのは2つのコミュニケーション上の問題だ。一つは「外国人とのコミュニケーション」であり、もう一方は「ソフトウェアエンジニアとの擦り合わせ」の問題だ。Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2010年 01月号 [雑誌]は最近大野耐一論をやっている。大野さんはトヨタの品質第一主義を語る上でグルとも言える人物だ。記事の中で、大野さんは問題が見つかってもそれを現場のマネージャに指摘しなかったという逸話が出てくる。大野さんはチョークで線を引く。そして、現場のマネージャに一日ここで現場を見ているようにと指導したのだそうだ。現場のマネージャは自分で考えることによって問題を発見し「成長」する。こうした地道な努力によって、社内に自分たちでカイゼン運動を推進してゆく文化が作られた。
こうした「言わなくても分かる」文化はモノ作りの現場で同じ文化を共有するマネージャには有効だったことだろう。これは言い換えると暗黙知を暗黙知のまま伝えてゆくやり方だ。このコミュニケーションのスムーズさが、日本の産業界の強みになっている。これを裏返すと日本が何に乗り遅れてしまったのかが分かる。
日本の自動車エンジニアは半ば自嘲気味に「内燃機関を使った車より電気自動車の方が仕組みが簡単なのだ」ということがある。「だから誰でも作れるだろう」というわけだ。確かに駆動系はそうなのかもしれないが、トヨタの件で分かったことは、車が走るコンピュータになりつつあるということだ。バグのないプログラムは考えられない。ブラウザーやワープロならクラッシュしてデータがなくなるだけですむが、車の場合にはそうは行かない。
コンピュータプログラムを作っている現場で大野さんのやり方を採用することはできない。一日見ていてもキーボードを叩く音が聞こえてくるだけだ。確認するためにはテストが必要だ。テストは順を追って行なう必要がある。ちいさな部品で問題が起きないことを確認したら、それを組み合わせてテストを行なう。最初の段階を「完璧」にしておかないと、どこに問題があるのかが分からなくなってしまう。分からなくなったら、最初からやり直しだ。ひどいときには改行コードや空白といった「見えない文字」が問題を起こしている場合すらある。つまり見ても分からないわけだ。プログラミングの現場では一人ひとりが自己管理できるかどうかが重要だ。逆に天才プログラマが作ったプログラムも問題を引き起こす。後で開いてみても分からなかったりする。
同じことが外国人とのコミュニケーション上にも問題を引き起こす。ある文化圏では「暗黙知」を使った指導が「日本人以外にチャンスを与えない」という印象を与えることがある。日本人はこれを見て「いちいち口に出さないと何も分かってくれない。怠けているに違いない」と考える場合がある。トヨタはアメリカでの生産に熟達しており、この問題は克服しているものと思われていた。しかし、実際に問題は起きた。そして、問題が起きると「アメリカ人のプライド」にまでエスカレートする場合がある。これは東洋と西洋の間に起こる問題とは言い切れないようだ。ダイムラー・クライスラーの場合はドイツとアメリカの経営陣・従業員の間にコンフリクトがあったのだとも言われている。お互いに学ばないことで溝が埋まらないというわけだ。ニューズウィークにはGMを抜いてアメリカ1の自動車メーカーになってしまったことと結びつける分析があった。
さて、トヨタにとって今状況は「燃えている」と言ってよい。こうした中で、積極的に識者のブログに投稿したりソーシャルメディアのコミュニティに投稿すべきだという記事もニューズウィークに掲載されている。火事の最中に燃えている家に突っ込むようにも思えるだが、本当にこれは得策なのだろうか。ここにも「透明性」と「開放性」(英語ではオープンネス)を重んじるアメリカの文化的な背景があるようだ。Linedinは「トヨタは正直でなかったし、死者まで出ているのに、もうソーシャルメディアなんてどうでもいい」という人もいるのだが、やはり正直に「できる事をやるのだ」という宣言をこうしたメディアでも行なった方がいいという人もいる。
ソーシャルメディアというとTwitterを思い出す人が多いと思うが、ここでソーシャル・メディアを使えというのは、「Twitterを使って、安全性をささやけ」ということではない。心配や疑心暗鬼でいっぱいになっているブログライターやコミュニティに参加して「トヨタは安全だし、顧客に聞く姿勢を持っている」ということを直接表現しろということのようだ。とはいえ、普段からこうしたメディアの動向に詳しくないと、いざというときにどういうメッセージをどういうトーンで伝えればいいかということは分からないかもしれない。例えばメディアに「コピペ文」でメッセージを送りつけると状況は悪化してしまうだろう。
ソーシャルメディアの誕生とともに、ウェブを使ったマーケティングは「広告」から「PR」へと広がりつつある。ソーシャルメディアを使ったコミュニケーションは文字情報が中心だ。暗黙的なメッセージは伝わりにくい。「言わなくても分かる」文化からの脱却は日本人が得意とするところではない。また、伝統的には、出入りの業者(新聞記者とか雑誌記者を業者と呼ぶのは恐縮なのだが)に情報を流し、あとは「よしなに」とお願いするのが日本流だった。これは記者クラブ制度を見てもよく分かる。ウェブを業者に任せている企業は、こうしたメッセージを代理店を通さずに伝えるチャネルを持っていないかもしれない。PRが広告と違う点は、普段からのプレゼンス(日本語でいうところの「おつきあい」)の重要性だ。
トヨタに限らず日本企業は言わずもがなですませてきたコミュニケーションを言語化する必要があるだろう。

投瓶通信

中央公論をぱらぱらとめくっていたところ、蓮實重彦さんと浅田彰さんの対談が載っていた。20年前にも対談をやったそうだ。いろいろ世相を斬った後で、最後に発信する事について論じている。蓮實さんが主張するのは、基本的に評論は「投瓶通信」であるべきだということだ。これは、多くの物書きにとって、励ましと言ってよいかもしれない。

昨日のマーク・ロスコの例で見たように、自分の主張が完全に理解されることはないかもしれない。むしろ、自分の内面を表現ししたいというやむにやまれる気持ちを持っているだけの人もいるだろう。蓮實さんは自分の発信したものに対して評価を貰えるのは10年後でもかまわないという。海に瓶を投じるように自分の思いを発信し、誰かがそっと受け取るのを待つ。まるで祈るような作業だ。

さて、ここまで書くと、なんだか蓮實重彦さんを礼賛しているように聞こえるかもしれない。そうではない。むしろこの表現に違和感を感じた。本当に投瓶でよいのだろうか。

ものを考える作業には2つの種類がある。ある問題を解決するためにものを考えることとそうでないものだ。例えば、中小企業診断士が顧客のために考える場合に「僕の主張は10年経ったら理解されればいいのだ」ということはできない。この人の仕事は今ある経営課題を見つけ出して、なんとか収益をあげることだろう。こうした課題は考えているだけではだめで、いろいろとやってみなければならない。故に、効果が上がらなければ理論的にどんなに優れていてもあまり意味がない。

別の人がもっと優れた解決策を持っているかもしれないが、クライアントにとって受け入れが難しければあまり意味がない。つまり、解決を目指す場合には、必ず意見の交換、現実とのすりあわせが必要になってくる。だからこういうコミュニケーションは投瓶ではいけない。

蓮實さんは評論は投瓶でいいという。評論は課題のない「考える」作業なのだろうか。どうもそうとは思えない。評論家も前段でいろいろな社会事象や政治について考察しているだろうからだ。

この対談は、インターネットの登場で短くなった発信とそのレスポンスを問題視している。

Twitterを考えてみよう。140字程度の短いメッセージが発信されるとそこに短いレスポンスがつく。やりとりが生きているのは、いいところ1時間くらいだろう。こうして多くの考察が発信され、消費されてゆく。考える時間はないからだんだんと脊髄反射に近づく。「いい」「わるい」「すき」「きらい」で仕分けされて終わりである。Twitterが導入されることによって人々はより政治について考えるようになったと言われる。しかし、多分それは間違いだろう。人々は以前にも増して考えなくなった。あまりにも考えることが多すぎて一つひとつのメッセージを吟味しているヒマはないからだ。

政治は世論を聞いて政策を変える。新聞はそれにリアクションする。以前は「マニフェストには必ずしも従う必要はない」といっていたのに、予算がマニフェスト通りに作られないとなると「マニフェスト違反ではないか」という。これはもう脊髄反射だ。そして、居酒屋では政治談義に花が咲き、それが世論となって政治を動かす。この回路の悪いところは、誰も新しいアイディアを投入しないところだ。いっけん大きく反響するように見えて回路の中を同じような情報がぐるぐると流れているだけなのである。

こうした状況を見ていると「いやあ、これは間違っているんじゃないの?」と思ってしまう。みんなちょっとは何か考えろよということだ。しかし、そうしたループから抜けて「俺は、歴史に評価してもらえばいいから、現実なんか知らんもんね」ということになっても良いものなのだろうか。
蓮實重彦さんは、(多分、勝ち組の一人として)東浩紀さんを挙げている。東さんは、多くのヒトにレスポンスを貰うことを指向し、いろいろな仕組み作りを試みているのだそうだ。そして「そんなことは貧乏臭い」と切って捨てるのである。レスポンスを貰うことは下らないことで、メディア戦略ばかりを考えた勝ち組は、むなしい勝利に過ぎないという。

イノベーションの記事で見たように、アイディア・ジェネレーションのプロセスには3つの段階があるだろう。一つは沈思黙考して一人で考え抜く作業だ。これが終わったら、その考えを持ち寄って実行可能な何かを作る必要がある。最後に実行して、それを反省して最初に戻る。つまり考察作業というのは「投瓶だけ」でもだめだし、「レスポンスを待っている」だけでもいけないわけだ。
中央公論がどれくらいの部数を出版しているのかは分からないが、もうあまりメインストリームの人たちからはレスポンスが得られないポジションに落ち着いているのかもしれない。老後暮らしてゆくお金は心配しなくてもいいから、今の経済不況もあまり関係ない。みんなからそこそこ尊敬されていて、あとは歴史に評価してもらうのを待つだけということなのではないか。この記事を読んで考え込んでしまった。

2012年1月10日追記:依然この文章は「投瓶通信」で検索トップにある。この文章を読み返して、さらに投瓶について調べてみた。もともとは政治的に孤立させられた人が、それでも自分の理想に意味があることを信じて文章を発信しつづけることなのだそうだ。少なくとも日本にはこうした孤立は存在しない。むしろ誰でも好きな文章を発信することができる。にも関わらず多くの人が「自分の意見は誰にも到達しない」とか「もはや到達しなくなった」と考えている。何が間違っているのか、どうあるべきなのか、もうちょっと考えて見なればならないのだろうと思う。

最後に蓮實重彦さんと浅田彰さんは、こう結論づける。「結局20年経って思うのは、何も驚くべき事はないということで、これが一つの驚きだった」と。日本の最先端の思想家や評論家が、もう驚く事は何もないのだと結論づけるほどこの国は枯れているのだろうか。それくらい、彼らの考察に対して、下らないレスポンスしか返ってこなかったのだろうか。