マーク・ロスコ

日曜美術館の再放送でマーク・ロスコの回をみた。高村薫がロスコについて語っている。高村さんは「普通に見えているものを、どうしてわざわざこういう風に描く必要があるのか」というようなところから、抽象画への興味を持ったそうだ。いわゆる一般人は「抽象画は評価されているから芸術作品なのだ」と思うわけだから、さすが芸術家の感想だといえる。高村さんはこの疑問を小説にしたそうだ。

マーク・ロスコの作品には説明がない、質感で塗り込められた色にしか過ぎない。絵画というよりは「環境」だ。河村美術館にロスコ・ルームと呼ばれる部屋がある。河村美術館は、絵画というより壁画であり、この部屋にいると何か赤に包み込まれるようだと解説している。環境は特定の精神状態を作りだす。

環境が感情を作るのと同時に、見る人の精神状態も重要な役割を果たしている。実際にこのロスコ・ルームを見に行ったことがあるのだが、その時にはあまり何も感じなかった。美術館は順路ごとに出口を目指す構造になっている。ゴールを目指すことばかりに夢中になると、一つひとつの絵に集中できなくなる。逆に、ちょっと疲れていたり、感情的な揺れがあったりする方がこういった絵に引きつけられるのかもしれない。

ロスコの絵は、もともとシーグラムビルの中にあるフォーシーズンズというセレブなレストランに飾られることになっていたのだが、ロスコはそれを拒否した。もしロスコが「建築家」的な要素を持った人であれば、その場の採光や環境などを考慮した上で絵画を制作しただろう。光が刻々と変われば、絵の表情も変わるはずだ。また、見る人によっては全く違った印象を持つかもしれない。

動的な環境の中で絵はさまざまな表情を見せただろう。しかし、ロスコはそう考えなかったようだ。限られた空間の中で自分の絵だけを置いてほしいと願ったのである。つまり、絵の動きは限られたものになるだろう。飛んでいる虫をピンでとめて、標本として飾るようなものだ。

結局、アメリカの絵画のトレンドは移り変わってゆき、ロスコの絵は時代遅れだと見なされる。しかし、彼は作風を変えなかった。その後、体調を崩し大きな絵画が描けなくなり、結局最後には自殺してしまう。抗鬱剤をたくさん飲んだ上で手の血管を切ったのだそうだ。そして死後に、財産分与を巡り、家族と財団の間で裁判が起こった。(以上、wikipedia英語版のロスコ・ロスコ事件の項による)

この一連のドラマティックな出来事がロスコの絵に「意味」をつけることになり、彼の絵は2007年に7280万ドルで落札された。表面的にある意味よりも遠くにある何かを捉えようとしていた絵が、通貨的価値と伝説を付加され、消費されてゆくといった構図がある。そのあたりから出発し、高村さんと姜尚中さんは「意味のある世界を解体して…」というような議論をしていたように思われる。

姜さんはこの絵を実際に見て「癒されるし、我がなくなるように思えるからウチに一枚欲しいなあ」とのんきなことを言っている。しかし、実際のロスコを調べてみると、セレブな空間に飾られることを拒否し、自分のスタイルを曲げることを拒否し、ほかの人たちと作品を並べられることを拒否している。強烈な自我を持っているようだ。

作品がある境地に達すると、周囲にあるものを巻き込む。作者の意思を越えていろいろな感覚をひきおこすのだ。いったん動き出すと、絵から引き出されたものなのか、絵にまつわる意味から引き出されたものなのかは区別できない。これがコミュニケーションといえるのか、それとも内側から来る対話(つまり独り言)なのかは分からない。多くの人が何らかの感情を引き出されるわけだから、人の間に共有する何かがあるのかもしれないし、そんなものはなくて、一人ひとり孤立しているのかもしれない。

高村さんの一言には引っかかりを感じた。高村さんは「本当は現実世界はこうは見えないのに」というところから論をスタートされていた。しかし、もしかしたら本当に世界がああいった抽象画のように見えている人もいるかもしれない。

例えば、ある日突然普通の時間の流れから飛び出してしまったように感じることがある。人によってはパニックを起こしてしまいかねない感覚だ。昔の人たちはこれを神秘体験としていたが、現代人は例えば通勤電車の中で神秘体験を起こすと会社に遅刻してしまうので、精神科で薬を処方してもらうようになった。ロスコの絵のような世界を体験するために、わざわざ違法な薬物を使ったりする人もいる。実際に、「ロスコの世界」を体験している人はかなりいるのではないかと思う。
普通、そうした世界を見た人は、見た事がない人に説明ができない。伝える技術がある人だけが、それを表現できる。とすると、こうした絵は描かれた時点でその役割を終えていたことになるのかもしれない。あるいは「私だけがこんな世界を見たのではないか」と考え、それを瓶に入れた手紙を海に流すようにしてそっと放流する。それを拾った人が「ああ、私の他にもこういう人がいた」と考えるのであれば、それは独り言のように見えてもコミュニケーションの一形態なのだろう。

(2012年9月1日改稿)

インド料理と文化受容のステップ

まだインド料理店が数える程しかなかったころ、六本木のインド料理店でよく見られる光景があった。インド人の店員に向かって「インド料理はそれほど辛くなかった、もっと辛くても大丈夫なはずである」と日本人(まあ、たいてい男性なのだが)が自慢するのである。この人たちにとって、インド料理=カレー=辛いということなのだろう。そして辛い料理が食べられる=エライという図式が成立するのだ。多分。
ここで「インド料理」とか「カレー」と呼ぶのは、主に北インドで食べられているあの料理のことである。その他、チベット文化圏にはモモや焼きそば(なぜか、唐辛子が使われていてとても辛い)と、汁気が多く、魚もよく使われる南インドの料理、そしてペルシャ圏から入って来たシシカバブや焼き飯などの文化がある。
実際にこういうことはよくある。わからないものや異質なものに遭遇した場合、人は差異に注目しがちだ。そしてその差異の程度の大きさによって序列が決まるわけだ。数値で表現できる程度の違いは序列を決めるには都合がいい。例えば「メタボ検診」で注目された腹囲85cmもそんな数字の一つだろう。他に2つの基準があるのだが、それは忘れ去れ数値だけが一人歩きした。身長や胸囲が違えば基準となる腹囲も違うはずである。
しかしこの「六本木カレー野郎」が特別変わった人だということでもない。例えば、カレーハウスCoCo壱番屋には、甘口、普通の他に、1辛〜10辛までのメニューがあり、「とび辛表」という名前がついている。お客のニーズがあるということだろう。
さて、カレーのおいしさの一つに「一晩寝かせたカレーはうまい」というものがある。カレーチェーンの中にはカレーを一晩寝かせてレトルトパックにつめて出荷するところがあるのだそうだ。どうして一晩寝かせたカレーはおいしいのかという決定的な説明はないそうだが、それぞれの具材の味が混じり合い一体となるからおいしいのだろう。日本人や欧米人が煮込んだカレーをおいしいと思うのは、多分シチューや鍋料理などの煮込み料理からの印象があるからだ。しかし、実際にはスパイスの味は一晩寝かせると飛んでしまう。つまり、日本人がおいしいというカレーは本来の味わいをわざわざ飛ばした料理だということになる。
デリーにあるスパイスとお茶の店ミッタル・ティー・ハウスがカレースパイスと一緒に配布するレシピ集によると、カレーは煮込み料理ではないようだ。所要時間は1時間以内で、香りを楽しむために使うスパイス類は最後に入れなければならない。最初に炒めたタマネギの甘み、油、それぞれのスパイスで味と香りを付けたのがカレーのおいしさだ。
「カレーは手で食べるべきだ」というのがある。これも六本木のカレー屋で人が講釈しているのを聞いた話だが、ナンをカレーにつけてはいけないそうである。これ、本当なのだろうか。カレーをナンにたらすのだそうだ。外人が間違ったハシの使い方をしていると、やはり正したいと思ってしまう。同じようにインド人も、日本人の間違ったマナー(つまり、スプーンでカレーを食べる)を苦々しく思っているのではないだろうか。しかし、汁気の多いカレーを手で食べるのはとても勇気がいる。
そう思ってインドまでカレーを食べに出かけたところ、実際には食卓にスプーンがおいてあることが多かった。隣にいたサラリーマンらしい2人づれを観察したところによると、一人は手で食べ、一人はスプーンを使っていた。路上で安いカレー(汁だけで具がない)を食べさせる屋台にはスプーンがなかった。ここはチャパティでカレーを拭うようにして食べるしか手がなさそうだ。列車のお弁当に出てくる料理にはあまり汁気がなく、これは手軽に手で食べることができる。(インド人のエンジニアたちも自分たちで弁当を作って持ってくるが、あまり汁気はなさそうに見えた)そして、インド人はあまり他人がどういう食べ方をしているのかということには興味がなさそうだ。
一応、手で食べる場合には、簡単なルールがある。必ず右手を使い、カレーとご飯を指先で混ぜる。指先にカレーを入れ、親指で押し出すようにして食べるのである。ナンで食べると「辛い」ということしかわからない。しかしご飯とカレーを混ぜると、カレーのスパイスが空気に触れる。するとスパイスの香りが立って別のおいしさが味わえる。別にこれができなければダメということはないが、こういう食べ方に挑戦すると新しい経験ができる。
新しい文化を受容するとき、人はまず自分の持っている経験を使って解釈しようとする。その次に数値のような「客観的」な指標を使っての解釈を試みる。さらに形を模倣しようとする。しかし実際には、いちからその文化に触れてみると、形の裏にある理由が見えて来たりするものである。

ブレヒトと異化効果

NHKの対談番組でミヒャエル・エンデがブレヒトについて語っているのを見て肝っ玉おっ母とその子どもたち (岩波文庫)を読み返したくなった。エンデは役者としてブレヒトの演出を受けたことがあるのだそうだ。ブレヒト=異化効果と習い、無名塾の芝居まで見に行ったのに筋の方はすっかり忘れてしまっていた。当時はあまり興味がなかったのだろう。

あらすじ

舞台は新教と旧教が戦うヨーロッパ。商人「肝っ玉おっ母」は戦場を30年間さまよい続けている。肝っ玉おっ母は子どもを育てるために戦争を生活の糧にしているのだが、子ども達は全て戦争の犠牲になって死んでしまう。彼女は途中で戦争の惨めさに気がつきそうになるのだが、結局覚醒することはない。

観客は、自分の置かれている状態がわからないままさまよい続けるおっ母を客観的に見ることが「要求」される。これがブレヒトの異化効果である。

途中で唖の娘が太鼓を叩いて叫ぶ場面が出てくる。ここが一つの山場になっているのだが、彼女は唖者なのでメッセージを叫べない。これは、劇作として失敗しているのではない。わざとそういう風に作られている。ブレヒトには、観客に感情移入させないことで、批判的に状況を観て欲しいと考えている。これも異化効果だ。

演劇の魔力

肝っ玉おっ母のものすごい所は、ブレヒトの企みにもかかわらず観た人を共感させてしまうところだ。「大竹しのぶの演技に感動した」とか「世界観に引き込まれた」とかいう観劇評を見つけた。(※たまたま見つけたのがこれ。淡々としたト書き(ネタバレになっている)について書いてあるので、演出家は異化効果を意識していたようだ)

観客たちは作者の意図に反して勝手に感動してしまう。演劇は生きているのだ。「感情を揺さぶられることで癒されたい」という観客の抜き差しならない欲求が浮かび上がる。共感を拒絶する演劇を見ても人は共感して癒されてしまうのだ。

ブレヒト劇は、ドイツ共産党入党歴のある千田是也によって日本に紹介された。異化効果の背景には当時劇場化しつつあったドイツの状況がある。偉大な俳優だったヒトラーはドイツ国民を熱狂させた。こうした演劇的空間に批判的になるためには、一歩引いた姿勢が必要になるはずだ。だが知識人の抵抗は市民には受け入れられなかった。ドイツ国民はヒトラーの演劇空間に引き込まれてしまったのだ。

「肝っ玉おっ母」はかなり特殊な状況で書かれた作品だ。これが輸入され、戦後も上演され続けた。日本の演劇にはかつてこのような左派的な伝統と意図があったのだ。

思考の荒野

この戯曲を読んで考えたのは、戦争によって翻弄される人の愚かさ、戦争の惨めさといったものではなかった。独りで考える人がたどるであろう、堂々巡りの荒れ地についてだ。途中に「気付きの種」があったとしても、人は自分が置かれている世界からは容易に抜け出すことはできないのではないかと思うのだ。

「肝っ玉おっ母とその子どもたち」では、娘の太鼓が気づきにあたる。魂の叫びのようなものはあるが、明確には言語化されない。そして、それでもまだ歩き続けるべきなのか、立ち止まって言葉を発するべきなのかという問いに簡単に答えはない。

いろいろな状況にあてはまる何かがあることが、優れた物語の一つの条件なのだろう。共産党、反ナチといった政治的な意図で作られた芝居が、今でも上演されるのはこういう理由もあるように思える。

ブレヒト=異化効果ではないようだ

ブレヒト=異化効果だと習ったのだが、この「異化効果」をWikipediaでひくと日本語にしか項目がない。英語版のWikipediaには、Non-Aristotelian Drama(非アリストテレス劇)だと書いてある。文学作品が持っているカタルシス効果を否定した演劇を非アリストテレス劇というのだそうだ。

ブレヒトが当時の左翼思想によって日本に導入された時点の解釈が、今でも受け継がれているのだろう。

ただ、ブレヒトの芝居が単なる社会批判だったのなら、ここまでの人気を集めることはなかっただろう。「感動」や「共感」を与える素地があったからこそ、現代でも上演され続けているわけだ。

感情に飲み込まれることに抵抗を示すために作られた芝居が、皮肉なことに感情や共感の根深さを浮き彫りにしている。人はそれほど共感しやすい生き物なのだということになる。

 

注目されるコモンズ

ノーベル経済学賞で注目されるコモンズ

ノーベル経済学賞(アルフレット・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞というのだそうだ)のキーワードはガバナンスだった。受賞した1人の研究対象はコモンズだそうだ。新聞報道を読む限りは、人間が社会を維持するために相互協力が有効だという主張のようだ。国家でも経済でもない公共をみなおそうということらしい。これを市場競争主義の反省に立った主張だと見る向きもいる。

自律的に運用される市場

ちょっと極端な例なのかもしれないが「ヨーロッパの朝市」みたいなことを考えてみる。みんながチーズやら野菜やらを持ち寄って、そこそこの値段で売る。お客さんも新鮮な食糧が手に入るので市場をありがたいと思うだろうし、一人が10種類の野菜を作るより、得意な野菜に特化して収穫を交換した方が効率的だ。よく考えてみればこれも市場だ。うちのトマトの方が甘いといってちょっとした自慢合戦をするのが「競争」ということになる。ところがそこに大きな街の資本家が乗り込んで来て、安い労働力を集めて作った野菜を売り出したとしても、これも市場だ。
「ヨーロッパの朝市」には自主的なルールが作られる。みんなが使えるテントなどの機材や、野菜が洗える場所なんかが備え付けられる。そういった場所はみんなで管理する。しかし悪辣な資本家はそういった場所を利用しないし、保持するために金を出したりもしないかもしれない。

競争と協力は両立する。また両立させなければならない。

脱線する前にここでやめておくことにするが、何が言いたいかというと、「市場」と「コモンズ」は二律背反の概念ではないということだ。ただ、みんなで協力して作っている市場と何人かが独占している市場は明らかに違った市場だろう。前者の市場は参加者によって守られている。しかし後者の市場は常に警戒する必要がある。いつ搾取されて怒った労働者が石を投げてくるかもしれないからだ。
ここにお客さんを加える。お客さんがコミュニティの一員である場合には、悪辣な資本家の店では買い物をしないかもしれない。「あの人悪い人よ」というのをみんなが知っているからだ。しかし、例えば表からそのことがわからなかったり、お客さんがコミュニティの参加者でない場合には、単純に店構えがきれいだから、値段が安いからという理由で品物を選ぶことになるだろう。どちらも市場原理に従った(つまりお客さんに選択されるので)淘汰が起こるはずだが、その結果は大きく異なってしまう。

従来の貨幣理論だけでは説明できない市場の成り立ち

この違いを「通貨流通量」で説明することは難しい。
経営学の方でも、このところ資産としての信用が大切みたいなことが言われ続けている。共生もキーワードになりつつあるようだ。かならずしも「新しい」ことが賞賛されるわけではなく、どのような価値観を提供するかが重要ということだろう。
一方、今年の経済学賞には批判もある。例えば池田Blogは「変だ」といっている。この批評によると、理論としては新しくも、わかりやすくもないそうだ。この分析はたいへん面白い。なぜならば「美しい数式では解けない」ようだからだ。つまり、群れを維持するために、人間はかなり複雑な行動を取っているのかもしれないということが提示されているようだ。純粋な理論家ではなく、フィールドワークに基づいてという点がこうした違いを生んでいるのかもしれない。
こうした議論が起こる背景には、経済学かくあるべきという専門家の見方があり、市場原理で泣いている人がいるから、市場原理は批判されるべきだと考える人がいるということなのだろう。フレームは世界を理解するために有用なのだが、それがうまく作用しなくなった場合にはフレームを再編成する必要がある。
多分これから1年は、市場主義や数式の美しさというものより、「共生」やら「信頼」といったウエットな議論が多くなってくるだろうと思われる。個人のレベルではコントロールできないように思えるが、一人ひとりの心持ちが実はシステムに重大な影響を与えているというような世界だ。それが受け入れられて改めて考えるまでもないというレベルに落ち着いたあたりで、再び「個人」「スキル」「起業」といった個人にを示す言葉が流行することになるだろう。

ビジョナリー・ピープル

成功した人たちをインタビューした結果をまとめた本。ただインタビューしただけでなく、簡単にフレームワーク化している。いわゆるビジョンは、外から与えられるものではなく、内側から出てくるものだ。好きなことをしているときには、時間は苦にならずにシゴトに没頭できる。故に熟達が進み成功しやすくなるといったところだ。
ただ、こうすればビジョンが得られますよというマニュアル本ではない。かなり多くの人数のインタビューが紹介されており、そこに至る道は様々だ。また、この事業をやったら成功するだろうというビジョンを得る人もいれば、好きだからこれをやろうと思っているうちに結果として成功した人もいる。さらに読字障害に苦しんだり、ケガでスポーツを引退して、仕方なく別の道に進んだという例も出てくる。
インタビューの後に、統計処理された結果が出てくる。そこで強調されるのは、外的な要因(外発的動機づけとも)に従うのではなく、内的な要因(内発的動機づけ)に従った方が成功しやすく、また幸福度も高そうだということだ。外発的動機づけとは、例えば「家族を養うために」とか「給料やボーナスが高いから」といったものを指す。内発的動機づけというのは「やりたいから」とか「これをやっていると幸せだから」といったような動機だ。
外発的動機づけに頼った成果主義は2つの点でうまく機能しなかった。一つは金融機関のように倫理をインセンティブが越えてしまった例だ。ゲームに勝ち逃げして40〜50代で引退し悠々自適な生活をしようと思う人が多くなると、業界全体が暴走することになる。人によっては燃え尽きてしまうこともあるだろう。一方、いわゆる「成果主義」は実際には収益が上がらなくなった会社が、どう損を分配するかという理由で導入されたようだ。元富士通人事部の城繁幸さんの書いた本を読むと、富士通では現場にのみ成果主義を押しつけることによって、効果的に会社全体のモチベーションを下げることに成功している。最後に富士通の社長だった秋葉さんが「日本には成果主義はなじまなかった」といってあっさりと方針転換してしまったのだが、実際には外発的動機づけが内発的な動機を殺す可能性があることを理解すべきだった。インセンティブにドライブされている企業は、逆インセンティブによってモチベーションを失う。
さてビジョンが大切なのはわかったのだが、「やりたい事をやっていれば」「成功できる」という事になるのかという疑問は残る。シゴトに生きる人もいるだろうが、シゴトは生活費を稼ぐための手段にしか過ぎないという人もいるだろう。また「ビジョンの質」が悪ければ、アウトプットの質も自ずから低下する。最悪なのは内的な声に従っているはずのビジョンが実は他人の影響を受けているだけのものだったというケースだろう。例えば人気職業ランキングで志望先を決めている人たちが誰かに強制されているとは思えない。しかしよくよく考えてみると「人気があるから」「社会的に成功しそうだから」というのは外発的な動機だ。つまりビジョンと外発的動機づけを区別するのはとても難しい。
ビジョンは内部からわき出してくるものなのだが、例えば瞑想をしていたらビジョンが浮かび上がってくるというものではないし、天使がやって来て授けてくれるというものでもないだろう。実際にはいろいろな外的な刺激を受けてその中から自分なりのビジョンを組み上げてゆくことになる。実際にやってみて「ああこれをやっていると苦にならないな」ということを発見するまで、内発的な動機に気がつかないケースもあるだろう。
結局、いろいろやってみて、自分で考えるしかない。リーダーに必要な素養であって、全ての人が内発的な動機づけを必要としているわけではない。リーダーでない人たちにはやはりインセンティブ・プログラムは効果的に作用する。しかし成功したい人たちや、組織を成功に導きたい人たちは、内的な動機づけと外的な動機づけの違いを理解するべきだろう。

コモンズ

よく「若者の公共でのマナーがなっていない」という言葉を聞く。また、給食費などの費用を払わなくなったというニュースが話題になったりもした。一見、関係のない二つの話題だが「公共」や「準公共」が崩れてきているのではないかという認識が背後にある。
まず、公共についておさらいする。公共には二つの力が働いている。一つは群れを維持しようという力、もう一つは公共への費用負担せず利用だけしようといういわゆるフリーライダーの脅威だ。前者は、信頼といういっけん無償の行為に見えるものに社会的なベネフィットがあるということを示唆している。普段は二つの力がバランスしているのだが、フリーライダーが増え公共財が蚕食されると公共財は維持ができなくなってしまうのだった。
電車の中で化粧をする若い女性が「群れを維持する力」を失ったとは思えない。彼女たちを観察するとむしろ必要以上に群れの秩序を大切にしている様子がわかるだろう。ただその様子は地下組織のようだ。場所を持たないので常に連絡を取り合っていなければならない。
社会には公共に使える場所がある。これを「コモンズ」と呼ぶ。スマートモブズ―“群がる”モバイル族の挑戦は渋谷の交差点で携帯電話でテキストメッセージをやり取りする若者達の描写ではじまる。北欧にも同じような光景があったそうだ。作者の観察によると、両者に共通するのは、こうしたひと達は、家に居場所と地位がない。こうした居場所のなかった人たちが見つけたのが仮想空間としての携帯電話だった。そして期せずして新しいコモンズが無線上で成立したのが、日本や北欧の携帯電話だということだった。
人々は意外と合理的に行動している。例えばOLと言われる人たちは予め会社の意思決定から排除されている。この人たちが「一般職」から「派遣」へと移行するに従ってその度合いが強くなるが基本的に「公式の意思決定」から排除されているという点は変わりがない。政治の現場でも状況は同じだ。そこには影響力が与えられる群れの下位のメンバーとして留まるか、それとも別の公共権を作るかという選択が生まれる。そこで作られたのが新しい携帯電話の空間だったというのだ。そこにあるのはとりとめのないやりとりの無秩序なやり取りだ。しかしそこに秩序が生まれ、ついでに多くの商機を生み出した。
その人たちがとどまった環境を子供部屋と呼ぼう。子供部屋には生活の維持に必要なもの(例えば台所や風呂といったような)がない。ここで育つと生活を維持する力を学習できない。にも関わらず消費生活は豊かだった。台所がなくてもコンビニがあるという具合だ。そこにはお金を出せば、しがらみなく好きなものが買えるという自由がある。お金には重要な性質が二つある。一つは消費行動が匿名であるということ、もう一つは等価交換の原則が成り立つということだ。何かが必要であればそれに見合った費用を払わなければならないのである。コミュニティ参加へのインセンティブがなかったのはこういった事情によるものだろう。コミュニティには私有地と共有地がある。
村は私有地の他に共有地を持っているのが普通だ。この共有地はコモンズと呼ばれる。日本語には入会地という言葉もある。同義だという人もいるのだが、日本語と英語の概念は少し異なっている。日本語と英語のWikipediaを見てみるとわかるが、英語のthe commonsには「Shareされる」という定義しかない。一方、日本語のコモンズには、公共財は全ての人に開放されるが、コモンズはメンバーに対してのみ開かれているというのだという限定条件がついている。なぜか定義が二本立てになっているのだ。国が管理するのは公共財だ。しかし公共事業は公共財ではないことがあるし、特定の団体(メンバー・エクスクルーシブだ)に税金投入が行なわれる場合もある。漁業権や水利権も入会だがここにもメンバーシップの問題がある。入会地には利権とメンバー以外を排除するという「おまけ」がついている。どこまでも本音と建前の二段構えの構造がある。
日本が第二次世界大戦に負けたとき、アメリカからの憲法を受け入れた。(押し付けられたという人たちもいる)このときに受け入れた国家観概念は「万人に開かれた」ものだ。日本国憲法は全ての国民が差別を受ける事なく一定以上の豊かな生活がおくることができる国になることを約束している。当の国民はあまりこのことを理解しなかったのではないかと思われるが、このときにコモンズにあたる制度も作られた。たとえば地域住民が参加してコミュニティを支える人材を教育する教育委員会も、こういうコモンズの考え方に基づいている。
自発的に国家や地域運営をしていないと、誰かに自由を浸食されるかもしれないという場合には「コモンズ」はうまく機能するだろう。アメリカの場合にはイギリスの王権に対してこういった主張をする必要があったのかもしれない。しかし日本の場合には利権と
一体になった入会地を持つ村落が積み上がって作られた国家だった。つまり、モデルとしては、誰にでも開かれた「公共」の下にメンバーにだけ開かれた「入会地」がある二重国家なのだ。こうした場合「公共」がどんな目にあうのかは火を見るよりもあきらかだろう。利権を求める人たちに切り売りされて、入会地化しまうのである。
村落共同体は、いくつかの方法で崩壊した。地方から都会に出て来たときに村落は再構成されなかった。地方では後継者がいなくなり村落共同体は縮小してゆく。後に残ったのはベッドタウンという小さな私有地の集まりだ。ここではコモンズも入会地もなくなっている。「核家族」といわれたこの共同体は群れを形成するには小さ過ぎる。
もう一度、電車で化粧をする女性を見て「若い人たちは公共のマナーがなっていない」という時にどういう心理が働いているかを考えてみよう。指摘した人が考えているのは「電車で化粧をするのはマナーに反する」と考えている。そして「当然のことながら、女性たちはそのマナーに従わなければならない」と主張しているのである。こうした「公共の場」は二重の構造を持っている。実際には全員に開かれていることになっているが、実は利権が存在し、社会の一部に支配されているわけだ。
女性やコドモ達は、こうした場所で自己主張して公共の支配権を獲得しようとは思わなかった。家でも職場でも誰かが支配していて、彼らの流儀を押し付けるのだが、他にも楽しい所はたくさんあった。ネットはそうした「楽しい所」の一つだ。こうした「楽しい場所」にはローカルの流儀がある。それはとても厳しく、流儀の入れ替わりも激しい。バーチャルの世界でも、多数の入会地が生まれている。継続性がなく不安定なのが新しい公共圏の特徴だ。加えて現実の入会地には利権があるのだが、バーチャルの入会地には確固たる利権がない。
デジタル入会地の悲劇は「はてな」や「2ch」の悲劇として知られる。2ちゃんねるにはそれなりのルールがあるが「2ちゃんねるのようにでたらめ」というように認識されることがある。そこには3つの原因がある。一つには内部ルールが成熟されていないこと(そもそも学習する機会がなかったのかもしれない)、次にルールを理解しない人たちからもアクセスされてしまうこと(つまりそもそも入会地にすることができない)、最後に匿名であるためにある種のはけ口として利用される可能性がある。こうした所はくだらないから排除してしまえという人たちもいる。一方、こういうところがなければ、自分の考えを再編成し知識を体得する機会がない人もいるのが現状だ。
まず、コモンズの伝統がありそれが世代間で受け継がれてきた国のインターネットにはデジタルの公共圏も作りやすい。例えば知識を貯蔵し、誰でも使えるようにしようというWikipediaもコモンズの一つだ。しかし、そもそもそういった伝統がなく、世代間で継承もされなかった国のインターネットでは、コモンズは新しく作られる必要がある。それもできればオトナ達に浸食されないように「こっそり」とだ。政府の援助は期待できない。もともと利権のない所に投資は行なわれないだろうからだ。
さて、ここまでコモンズについてだらだらと考察を積み上げて来た。最後にどうして「コモンズ」が必要なのだろうかを考えてみたい。エンジンが回転するためには最初のイグニションが必要だ。コモンズはその最初の一押しという役割を持っている。コモンズに投資することは誰の利得にもならないので、誰にとっても損のように思える。しかし公共物がなければ、エンジンは周り続けることはできないのだ。こうした「公共」があってはじめて、自由競争が担保されると言ってもよいだろう。
開かれたコモンズにはもう一つの価値がある。開かれた空間は新しい才能を集めてくることができる。これは閉じられた空間である入会地にはない特色だ。多様性は競争力を増すという前提を受け入れるとするならば、コモンズを持っている集団は内部の競争を円滑に進められるだけでなく、外に対しても競争力を持つことができるということになる。
ともすると「日本には公共圏がない」とか「若者は公共マナーがなっていない」というような論調になりがちなのかもしれない。しかし、日本語でもWikipediaが成り立っているところを見るといちがいにそんなことも言えないようだ。逆に「公共」と言われている場所が誰かの専有物になっていて、社会の発展を阻害している場合もあるのではないだろうか。

クリエイティブな脳を作るには – 今月号のハーバード・ビジネス・レビューから

今月号のHarvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2009年 10月号 [雑誌]のタイトルは「論語」なのだが、冒頭にコラボレーションの重要性が書かれており、後半には脳についての短いエッセーがいくつかある。
ロデリック・W・キルギーとクリント・D・キルツのCognitige Fitnessでは、脳をクリエイティブな状態に保つための秘訣が書かれている。年を取ったからといって、脳が衰えるとは限らないそうである。秘訣は運動と新しい体験だそうだ。
この論文は、歩き回ること(Walk About)を推奨している。歩き回ること、すなわち運動そのものも脳に良いそうなのだが、その中に見つかる新しい発見が脳を活性化させるのだという。人間のミラー・ニューロンはまねることによって学習する。ミラー・ニューロンを使うと人間は実際の行動を起こす前に、物事を「見る」ことになる。すると、実際に行動したのと同じような効果がある。これが学習の一つの側面だ。見て回ることによって、新しい発見をすることで脳の学習回路を活性化することができるのだ。
もう一つ重要なのは「遊ぶ」ことの重要性だ。最近、報酬系の働きについてはいろいろな本が出ているので、おなじみの概念なのだが、楽しむことによって学習能力は強化される。そこそこ楽しめる遊びでないと苦痛を生み出す事になるのだが、あまり真剣に遊ばないと報酬系を満足させることはできない。時間を忘れることができるほど真剣に遊べる何かを持つ事が重要というわけだ。
さて、クリエイティビティというと右脳の働きが重要視されることが多いのだが、新しいパターンを発見するのは左脳の働きによるところが大きいそうである。既成のマインドセットから逃れるためには、人の話を聞いてみるのが効果的だという。このとき、同じような人たちとばかり話をしていても新しいパターンは見つかりにくい。だから、多様性のあるチームを持つ事は重要だ。同じ人たちとばかり話をしていると、一つのパターンの中で堂々巡りをすることになりかねない。
一方、右脳も新しいことに興味を持ち続けることで活性化されるのだという。
まとめると、常に新しいものに興味を持つ人たちが、クリエイティビティが高いのだということになる。ここまではだいたい、市販されている脳科学の本の内容をなぞるものになっている。目新しいのは、与えられた問題に対して、新しいパターンを見つけるという訓練だろう。問題にアプローチするのにモデルを作って友達と話し合ってみるというのがよいのかもしれない。
さて、続くガーディナー・モースの話は、理性的になれば問題の解決が容易になるかということについて教えてくれる。人間の脳はは虫類的な脳、動物の脳、人間の脳の3層構造になっていることを知っている人は多いだろう。動物とは虫類の脳は、報酬系(ドーパミンが理性を抑えて、欲しいものに対して突き進むことになる)と嫌悪系(扁桃体がキライなものから逃げる働きを持っている)の二つがアクセルとブレーキのような働きをしている。確かに、報酬系が暴走すると理性が抑制されて依存的な傾向を見せる。恐怖によって理性的な判断ができず、長期的には不利な判断をすることになりかねない。これだけを見ると、理性を磨いて、有利な判断ができるようにしたほうが良さそうである。
しかしこの論文によるとなんらかの原因で感情が損なわれると、判断そのものができなくなってしまうのだという。物事の優先順位が付けられず、すべての選択肢の中から一つのものが選べなくなってしまうのだそうだ。例えばどのようにファイルを片付けるかということを一日中検討しつつ、結局何も決められないというエピソードが出てくる。結局、我々は感情の働きからは逃れることができないのだ。
この感情は意識に昇る前に体を通じてフィードバックを送っているそうだ。これが、直感や無意識の正体なのではないかという。例えば1/00秒見た映像にも無意識に反応するそうだし、「これ何かおかしいな」と考えたとき、意識より先に手に汗が出るといった反応があらわれるそうだ。
瞬時の感情に捉えられてはいけないのだが、無意識や感情なしに判断を下す事はできないのだという。

マルコム・グラッドウェルに聞く – 努力だけしてもムダ

マルコム・グラッドウェルの「天才!成功する人々の法則」を読んだ。原題はアウトライヤーという。標準値から外れた例外的な人といったような意味合いだ。成功するには並外れている必要がある、というな含みがある。アメリカは個人の「才能」を重視する社会だ。こういった天才がどうやってつくられるのかというのがメイン・テーマになっている。
マルコムは次第に、才能があるのは必要最低の条件であって、天才であっても環境が整わなければ才能が発揮できないのではないかということを見つける。例えばIQが195あってもめぼしい成功を収めることができなかったクリス・ランガンという人が出てくる。この環境が何かということは細かく定義されていないのだが、豊富な資源と機会のことのように思える。マルコムは自主性・複雑さ・努力に見合う報酬を列挙する。
天才と呼ばれる人が才能を発揮するには、練習を積む必要がある。ここでは経験的に10,000時間という練習数字が提示される。つまり才能+後天的な何かが必要だということだ。そういった言葉は出てこないが「技術(スキル)」と呼んでもよいだろう。練習するためには、それに専心できる環境が必要だ。いくらコンピュータ・プログラミングの才能があっても、コンピュータを使える環境がなければ練習を積む事はできない。だから環境は重要なのだ。
もう一つ環境が重要なのは、そこに文化が絡んでくるからだ。文化にはいろいろな傾向がある。ここでは「権力に対して率直に意見を言える文化」「率直に従える文化」「けんかっぱやくない文化」などが挙げられている。いくら才能があっても文化的な傾向が抑制されてしまえば、芽が出る事はないだろう、とマルコムは考える。
この考え方は東洋哲学にも出てくる。才能を「命」、環境を「運」という。これをあわせて運命と呼ぶわけだ。成功できるかどうかは運命次第ということになる。
さて、日本のコンテクストではこの文章はちょっとした読み替えが必要だ。日本は長い間、環境が同一であり、才能も同一だという前提があった。同じくらいの才能の人を選抜して集めることが多かったからだ。才能にばらつきがある場合には、違いがないフリをしつつ低い方に合わせることが多い。あとは努力次第ということになる。こういった環境ではちょっとした差違が大きな違いを生むと思われやすい。状況が膠着してくると、やる事がないから「もっとがんばれ」というようにいっそうの努力を求めることになる。
また「英語さえできれば」といったように、スキルがあればなんとかなると思い込みたがる。スキルは努力すれば身につけることができるからである。しかしマルコム・グラッドウェルに言わせれば、努力だけしても環境が整っていなければムダなのである。特に現代のように成功の機会の限られた社会では、努力の浪費は日常茶飯事の出来事だ。
このような努力重視型の社会はいろいろな意味で才能を無駄遣いしている。一つは才能のない人に努力をさせているということ。もう一つは才能がある人につまらない努力をさせていること。そして最後には環境が整わないのに努力だけさせているということだ。最後の環境についてはすこし理解が進んで来ている。学力テストの結果「貧富の差が学力テストにあらわれている」からだ。お金がないから塾に通わせないということが学力格差につながっている訳ではなく、勉強をする文化がない層が顕在化していると見た方がよさそうだ。例えば夏休みに塾に通わせる家庭と、別に何もさせない家庭はお互いに交流がない状態になっているのだそうだ。ものすごく頭がよいのに、勉強しない家庭に生まれたがために実力を開花させることができないこともあるかもしれない。サッカーが飛び切りうまいのに、そういった才能を重要視しない家庭というのもあるだろう。一方、飛び級のような制度もないので、才能のある子どもも中庸な子どもが同じカリキュラムで努力させられている可能性も否定はできない。
最後にクリス・ランガンの話に戻る。IQが飛び切り高く家で独自に研究をしているそうだ。確かにマルコムが指摘するようにこの人が才能の無駄遣いをしている可能性もなくはないのだが、彼の優れた才能が後世に評価されないとは限らない。我々がまだ理解できないだけなのかもしれない。マルコム・グラッドウェルは最新の研究を私たちが持っている常識に引きよせる点に価値があるのだが、学術的な裏付けが十分にあるものではない。ただ、それらを差し引いても、才能、技能、環境のバランスという視点は、今ある環境で我々が才能や努力を無駄遣いしていないかを確認するのに役立つだろう。

グランズウェル

細分化されるコミュニティ

先日、髪の毛を切りに南青山に行った。千駄ヶ谷の駅を降りると高校バスケットの大会をやっており、平均身長が高そうな人たちが集っている。しかし、ユニフォーム姿なのでどの人たちも同じに見える。サラリーマンの多いエリアを抜け、美容室が集っている(本当に美容室が多い)エリアに行った。かつてハウスマヌカン(ほとんど死語だと思うけど)が担っていたファッションリーダー的な役割を、最近では美容師たちが担っている。散髪が終わり、表参道を通っていて裏原宿と言われるエリアを通る。なんだか「ファッション偏差値」の高そうな人たちがうろうろしている。昔は作り込んだ服が多かったのだが、今はシンプルなものが多い。だからちょっと体鍛えてますくらいの感じじゃないといろいろと難しいように思える。
ところがここから状況は一変する。明治通を越えると、遠くからH&Mを目指してきた人たち、地方の修学旅行生(この人たちは竹下通りあたりから流れて来ていて、体操服姿だ)、観光のおじさんたちが増えるのである。こうした人たちが、いろいろなところで話題になっている「中間層」である。価格も価値も求めたい人たちだ。ただファッションに関する限りあまり真似をしたいとは思わなかった。
宮下公園からシェーキーズに抜けるあたりはキャットストリートと呼ばれる。この辺りはかなり趣味が細分化されている。だから目的がないと歩くのが難しい。髪の毛を留めるものを探しにいったのだが「コンチョ」というものを買ってアクセサリーを自作しろといわれた。ただのボタンにしか見えない銀製品が4,000円近くもする。こうした情報を仕入れるためには人に聞いて回るしかないだろう。
港区、渋谷区とたかだか1時間程度の距離にこれだけのバリエーションがある。

ポジショニング

例えばこの渋谷区から港区にかけての一角(千駄ヶ谷から原宿までを歩いた距離はわずか4kmに満たない)では、いくつかの異なった要素がお互いに浸潤しながら、お互いに連係したコミュニティを成立させている。そして一時は裏原宿と呼ばれていた所に、裏裏原宿のような場所ができている。実際のコミュニティの生成はもっと複雑かもしれない。

細分化しているからこそ、キャラ付けが重要

この状況は、オンライン上ではもっと複雑になる。オンラインでは青山のワンクリック先は秋葉原というような状況も存在しうる。そもそも人の顔が見えにくいのでどのようなポジションにあるのかを明示するのは至難の技といえるかもしれない。
かつて「日本のウェブは匿名の人が多い」ということで失望した起業家がいた。実際にはその他大勢的な人たちと、オンライン上のセルフ・プロモーションの重要性に気がついた人が分離してゆくのかもしれない。とはいえ、本人たちはそれほど大それた気分で足跡を残しているわけではないと思うが。※この記事を書いたのは2009年7月31日だ。しかし2010年12月現在、記事の書き直しをしている時点では状況は随分変わった。mixiには実名で活動する層が現れている。

グランズウェル

こうした動きを体系化したのがグランズウェルという考え方だ。ソーシャル・テクノロジーを使った企業と顧客の関係維持について書かれている。フォレスターのスタッフが書いた本なので、データの裏付けが多く説得力がある。
この本によると、ソーシャル・テクノロジーの波は、人、技術、経済学(トラフィックは金になる)を柱としている。ウェブ利用者の多くが、創造(ブログライターなど)・批判(有名ブログにコメントを残す人たちがいる)・収拾(はてなブックマークの人はこれにあたる)・加入(SNSに参加する人たち)・観察・不参加という段階がある。アメリカの割合は、18%、25%、12%、25%、48%、44%だそうだ。これに比べると日本は、22%、36%、6%、70%、26%ということで、観察者(つまりブログなどを閲覧するがコメントなどは残さない人たち)が多いことがわかる。一昔の言葉で言えばROMに人が多いのが特徴になっている。東アジアは集団的な傾向が強く、ソーシャル・メディア先進国だという。一方ドイツ・フランスではソーシャルメディアの浸透率はそう高くない。
この人たちと企業が交流するにはいくつかのやり方がある。特徴的なのは、これまでのような中央集権的なやり方ではなく、消費者の「友人のように」つまり同じ目線でコミュニティに参加するということだ。逆にこの人たちをコントロールしようとするのは大変危険だ(これについては本にいくつか実例が出てくるし、実際に有料でブログ記事を書いてもらったり、シコミをすることへの警戒心は強い)

  • ブランドについての意見を聞く
  • 実際に話をしてみる(FacebookのFanサイトなどはこれに当たるだろう)
  • 今あるコミュティを活気づける
  • ユーザー同士の交流を支援する
  • 商品開発などに統合する(しかしこの方法は難易度も高いのだという)

こうした動きを「誰に」「何の目的で」「どうやって」「どんなテクノロジーを使って」伝えるか(これをPeople Objectives Strategy TechでPOSTと呼ぶ)を設計してゆくのだそうだ。
こうしたソーシャルメディアを使ったプロモーションは、どの層の顧客にも有効というわけではない。価格に敏感な人たちや高齢者には効果が薄いかもしれないし、企業の側も中央集権的なやり方に慣れていて、こうしたマーケティングに移行できないマーケターも多いだろう。
ソーシャルメディアを使ったプロモーションは何も企業だけのものではなく、専門的なスキルを持った個人にも有効なプロモーションの機会を与えてくれるだろう。「グランズウェル」という言葉そのものはバズワードに終わる可能性もあるが、その考え方は決して一時の流行ではないだろう。

共感覚 – 2,000人に一人の感覚

Lightという単語という単語は何色だろうか?では、Rightでは? もしこの質問が何のことやら分からない人は私の仲間ではない。私はこの違いは昔遊んだ色付き文字ブロックの違いだと思っていた。どうやらそうとばかりは決めつけられないようだ。

ジョン・ハリソンの「共感覚」によるとこのような現象は色聴と呼ばれ、共感覚の中では一般的なものだそうだ。音を聞くと、音に色がついて見えるのである。私はこの色の違いで日本語の「ラ」と、La, Raの違いを認識している。ラはオレンジ、Lはレモン色、Rは茶色に見える(というか聞こえる)。単語を記憶するときにも使っている。(こういう記事もある。どうやら普通の事のようだ。)色で覚えるわけだ。

色聴者は、見るだけでは音に色はつかない。別の記事によると、読む文字に色がついている人もいるという。また香りを形で感じる人もいるようだ。遺伝するという説もありジョン・ハリソンは「男性の50%に致死性のある伴性優性遺伝」だという可能性を示している。

Wired Visioのこの記事によると、特定の音と形が結びつくのも、共感覚の一つだという。ラマチャンドラン氏が提示するのは「キ」と「プー」の音のうち、どちらが丸みを帯びているか、というものである。こちらの感覚は多くの人が持っているのではないだろうか。

統合失調症の患者にも同じような感覚があり、薬物でも再現できるというのが、ちょっとひっかかるが、別に日常生活には支障がない。

色聴の仕組みはよく分かっていない。脳の混線だという人もいれば、誰でも持っているが意識されないだけだと考える人もいる。これが今回書きたかったことで、意識している世界が我々の認知するすべてではないという可能性があるわけだ。意識のさらに一部が言葉なのだが、言葉だけを使って分析的にコミュニケーションをとると、さらに世界の統合が難しくなることがある。