タルコフスキーのストーカー

文章を書いていると、時々「何のために書いているのか」分からなくなる事がある。何かを探しているはずなのだが「一体何を探しているのか」「本当に探しているものは見つかるのか」とか、そんな疑問が浮かび上がってもくる。そもそも他の人ではなくどうして自分がと思う事もある。周りの人もあまり幸せそうな顔はしない。
ということで、本を読むのをやめて、「ストーカー」という映画を見た。大学のときに一度見た事があるのだが、眠かった記憶しかなかった。どうしてそんな映画が見たくなったのかすらわからなかった。

この映画はSF仕立てになっているが、筋書きは単純だ。ストーカー(密猟者)と呼ばれる人が、絶望を抱えているらしい作家と教授を連れてゾーンと呼ばれる所に行く。ゾーンに入るのは非常に危険で、逮捕される危険性がある。運良く入ることができても、殺されることすら覚悟しなければならない。ただ、ゾーンの中には「すべての希望がかなう部屋」があるのだ。妻は「こんどは仕事を見つけて働くっていったじゃないの」と、泣いて止める。

「希望」を探す人たちが、希望がかなう目前で戸惑う。それぞれの「希望」に対する態度は異なっている。最後にストーカーは帰って来て、本がたくさんある部屋で涙ながら妻に不満をぶちまけて泣き崩れる。「結局、作家も学者もインテリっていうのは、希望なんか本気で追求していないんだ」結局、幸せは探していた所にはなかったが、身近にあるということが暗示される。しかし、まだストーカーはそのことに気がついていないようだ。
意味ありげな映像なのだが、何かを意味しているわけではないようだ。(実際にはチェルノブイリ事故を意味するのではという説がある。)「探査」「探求」をできるだけ純粋に象徴するようにくみ上げられているようだ、ということが本人のエッセーから読み取れる。本人曰く、奥さんに象徴される「純粋な愛の価値」を書きたかったのだそうだ。奥さんは最後に見る人に「いろいろあったけれど、後悔はしていない」と言い切る。

ただ映画の伝えることは「幸せは近くにあるのだから探索をやめろ」ということでもなさそうだ。ストーカーは同じ場所に戻ってくるだけなのだが、その世界は探索をする前と後で違っている。そもそもゾーンには絶望した人でなければ入る事はできない。つまり本物の絶望をくぐり抜けてこそ、何かを見つけることができるということだろう。そしてそれは探索の結果見つかるものではない。作家は部屋の近くで「いばらの冠」を見つけ、分かったぞとつぶやくのだが、本当に分かったかどうかは怪しい。探索という行為自体が何らかの意味を持っているのであるが、そこに分かりやすい記号が隠れているわけではない。

人間は「探索せざるを得ない」気持ちになることがある。そこには何もないかもしれない。なぜ生きてゆくのかという問いに意味がないのと同じように、なぜ探し求めるのか、どうして探索に取り憑かれるのかという問いにも意味がないのかもしれない。

もし、引きこもっている人や、これから引きこもろうという人がいたら、心行くまで絶望して、引きこもり続ければいいのだと思う。だが、そんな人は決して独りではないはずだ。私たちはそうやすやすと絶望に折れてしまうほど弱くはないのだと思う。

平気で嘘をつく? あの人たち

よく、殺人事件の容疑者の実家にマスコミが押し掛けて、両親を吊るし上げることがある。つるし上げのために「生育歴」という言葉が使われる。これを批判して「子どもの自己責任だから親を吊るし上げるのはおかしい」という人たちもいる。一体どちらが正しいのだろうか?
「平気でうそをつく人たち」にショッキングな話が出てくる。ある子どもが銃で自殺する。その弟の成績が下がってくる。鬱病を発症したらしい。弟は診療を受けるのだが、医師はショッキングな事実を知る。両親は弟に、兄が自殺で使った銃をプレゼントしていたのだ。医師は「これは、兄と同じように銃を使って死ねということですか?」と聞いてみるのだが、両親は話をはぐらかす。医師はどうやら、本当に治療が必要なのは両親ではないかと考えるが、彼らは自分たちが精神的に問題を抱えているとは思わない。

多くの人は精神的に問題があると「なんらかの罪悪感や苦痛」を感じ、社会的な活動が制限される。だが、ごく希に罪悪感も苦痛も感じない人もがいる。こういう人たちをサイコパスとかソシオパスと言う。彼らの犠牲になるのは周りにいる人たちで、子どもは真っ先に犠牲者になる。

最初の質問に戻る。ということは「殺人事件を起こした人がいるのなら、親も一緒に捕まえてくればいいだろう」ということになるのだろうか。残念ながら、話はそんなに簡単ではない。

私たちの中で完全な人格をもった人なんか一人もいない。また、自分の嫌いな人を「あの人は社会的じゃないからサイコパスに違いない」と言い出したらキリがない。社会的に不安が溜まれば溜まるほど、こういった疑念は広がってゆくだろう。どうやら一体どちらが正しいのだろうかという質問自体に問題がありそうだ。

どっちかにケリをつけたいと我々が考えているとき、そこにあるのは漠然とした不安感だ。疑念がありそうな人たちを独り残らず精神病院に送りつけても不安感は消えないだろう。

サイコパスにとって、社会正義の名の下に人を罵倒できるポジションは活躍の場所である。普通の神経を持っている人であれば聞けないような事を平気で聞く事ができるだろうからだ。

こういった人たちの中には社会的に成功している人も多い。罪悪感はある種「ブレーキ」になっている。この制約から解き放されると活躍しやすくもなる。自己啓発書の中には罪悪感から解き放たれることを勧めるものも多い。

最初の「平気でうそをつく…」の例は分かりやすかった。銃を子どもに贈るなんて、どう考えてもおかしいからだ。しかし、必ずしも分かりやすい事例ばかりとはいえない。それではどうすればいいのか。結局どっちが「悪いのか」とか、「是」か「否」かという質問から離れてみる必要があるということじゃないだろうか、というのがだらしない今日の結論だ。

共感覚 – 2,000人に一人の感覚

Lightという単語という単語は何色だろうか?では、Rightでは? もしこの質問が何のことやら分からない人は私の仲間ではない。私はこの違いは昔遊んだ色付き文字ブロックの違いだと思っていた。どうやらそうとばかりは決めつけられないようだ。

ジョン・ハリソンの「共感覚」によるとこのような現象は色聴と呼ばれ、共感覚の中では一般的なものだそうだ。音を聞くと、音に色がついて見えるのである。私はこの色の違いで日本語の「ラ」と、La, Raの違いを認識している。ラはオレンジ、Lはレモン色、Rは茶色に見える(というか聞こえる)。単語を記憶するときにも使っている。(こういう記事もある。どうやら普通の事のようだ。)色で覚えるわけだ。

色聴者は、見るだけでは音に色はつかない。別の記事によると、読む文字に色がついている人もいるという。また香りを形で感じる人もいるようだ。遺伝するという説もありジョン・ハリソンは「男性の50%に致死性のある伴性優性遺伝」だという可能性を示している。

Wired Visioのこの記事によると、特定の音と形が結びつくのも、共感覚の一つだという。ラマチャンドラン氏が提示するのは「キ」と「プー」の音のうち、どちらが丸みを帯びているか、というものである。こちらの感覚は多くの人が持っているのではないだろうか。

統合失調症の患者にも同じような感覚があり、薬物でも再現できるというのが、ちょっとひっかかるが、別に日常生活には支障がない。

色聴の仕組みはよく分かっていない。脳の混線だという人もいれば、誰でも持っているが意識されないだけだと考える人もいる。これが今回書きたかったことで、意識している世界が我々の認知するすべてではないという可能性があるわけだ。意識のさらに一部が言葉なのだが、言葉だけを使って分析的にコミュニケーションをとると、さらに世界の統合が難しくなることがある。