スーパーシティ構想という無能なクーデターが監視社会批判につながるまでの絶望的な顛末

前回は、スーパーシティ構想が無能なクーデターだと書いた。こういう決めつけ的なフレーズは本質を表していなくてもTwitterで受けることがある。ただ、この話は何というかそれだけで終わらせるのは惜しいところがある。日本人が集団で無脳化している様子がよくわかるのだ。

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加計学園問題 – 嘘が嘘を呼ぶ

2015年4月2日に会議があったかなかったかで大騒ぎになっているのだが、あまりにも細かすぎていったい何が問題になっているのかがさっぱりわからなくなってしまった。加計学園は継続開削の対象なのでそれなりに追いかけているつもりだが、それでもしばらく目を離していると何が起こっているのかがわからなくなってしまう。今回の騒ぎの原因は首相が2017年1月21日まで「知り得る立場にいたのだが知らなかった」と言ったことが「嘘だったのではないか」ということが問題になっているようだ。これが嘘だとすると安倍首相と加計理事長の間に収賄の容疑が生じるとのことである。

この件は幾重にも「嘘」が積み重なってできているのだが、国民の間にはすでに一定の「真実」ができあがっているように思える。みんなが何を思っているかということが真実なのであって、実際に何があったのかというのはそれほど重要ではない。だがこれを言葉にしてみることは実は重要だ。意外と曖昧さが残っているのである。

加計学園の理事長と首相は昵懇の中である。同時に、加計学園は今治市との間で新しい学校を作りたいという計画もあった。しかし、関係省庁が反対し石破大臣も越えられそうにないハードルを設置したので首相に口利きを依頼した。首相は柳瀬秘書官を使って省庁に圧力をかけると形勢が逆転し、加計学園は獣医学部を作る事に成功した。

ところが、曖昧さも残る。加計学園がいつ獣医学部を作ろうと決めたのかはよくわからない。また最初に加計学園が今治市に話を持ちかけたのか、それとも安倍首相が積極的に制度を作って加計学園を応援したのかもわからない。また選定過程にも曖昧さがある。つまり、今治市が加計学園と政府を仲介したのか、それとも加計学園が今治市と政府を仲介したのかがよくわからないのである。

うろ覚えの知識では、戦略特区制度では地方自治体が事業者を選んで選定が進むことになっていたと思うのだが、調べてみるとこれについて明確に書いている資料は意外と少ない。国家戦略特別区域会議というものを開催するらしいのだが、これの主催者が誰なのかがよくわからないのである。

別の知識では首相が強いリーダーシップを発揮して岩盤規制を打ち破ることになっているのだが、首相がどこで力強いリーダーシップを発揮したのかはよくわからない。そもそもなぜ首相が力強いリーダーシップを発揮しなければ物事が進まないのかもわからない。

さらに同じ業種の戦略特区をいくつ作るのかということもよくわからない。今回は京都と新潟が落とされたようだということになっているが、この特区は地域を決めてから事業者を選ぶようになっているとすると新潟と京都は今治の件には関係なく特区を立ち上げればよい。今治プロジェクトが走っている間は新潟は同じようなプロジェクト提案をしてはいけないというルールはないはずだ。なぜ首相が力強いリーダーシップを発揮する特区制度をブロックするために別の大臣の作った基準が発動しうるのだろうか。考えてみると、なんらかの裏事情の想定を使って追加説明を加えないと特区制度そのものがうまく説明できないのだ。

つまり「あるべき姿」が何だったのかがよくわからなくなっており、従って何が嘘なのかもよくわからないという状態になっている。だが、攻撃する方もされる方もあまりそのことには興味がないようで、しきりに誰が嘘をついたとか嘘をついていないとか言い合っている。有権者も「嘘つき探しゲーム」に熱中しているようだ。

いずれにせよその意味では官邸が嘘を吐き続けるのは実は当然だ。ゴールは「加計学園の今治プロジェクトは決まり通りに行われた」ということを証明することなのだが、その途中で曖昧な意思決定が行われている。そこでそれに合わせてつじつまを合わせようとしているうちに誰もが大混乱に陥っている。するとどこかが整合しなくなる。この場合切り捨てられるのは中央から遠い人たちなので、彼らが文章を持ち出して「自分たちは正しい報告をした」と言いだして騒ぎが大きくなり、もはや収集がつかない状態だ。

この原因になっているのは首相の「力強いリーダーシップ」という嘘である。首相のリーダーシップがどのように発揮されたのかがよくわからないので。首相秘書官の関与もよくわからなくなっている。誰もが首相は日本で一番偉い人だからなんとかしてくれるのだろうと思っているのだが、実は何もしていないし監督もしていないということがわかってしまった。

加計理事長は2015年2月25日に加計学園理事長と安倍首相が会ったというのが記憶違いだったといっている。これは少なくとも加計学園が事業主体であり国も関与していると主張していることになる。関係としては「国」→「加計学園」→「地方自治体」である。柳瀬秘書官の説明でも「国」→「加計学園」→「地方自治体」ということになっている。加計学園が連れてきた専門家が「新しい獣医学部」について熱心に語ったことになっており、地方自治体はいたのかいなかったのかよくわからなかったことになっているからである。だが、実際には国は地域を設定してから事業者を決めることになっているはずである。いったいどっちが正しいあり方だったのだろう。

加計学園は今治市に96億円の支援を要請している。この支援自体は学校が認可されたら行われるということなので県や市の説明責任には直ちに影響はない。しかしながら実際には工事は先行して行われておりそのためにはお金が必要だったはずだ。加計学園が自己資金ですべての工事費用を調達できているのなら問題はないわけだが、加計学園には借金があり銀行からお金を借りていたはずである。つまり「まだ認可されるかはわからない事業」が担保になってお金を借りていたことになる。首相の関与には担保価値があるのである。すると「首相がいいねと言っていた」と誰かがほのめかしていたとしたら、その人は詐欺行為を働いていた可能性が高い。理事長がこれを主導していたとしたらこれは学校ぐるみの詐欺行為だし、別の人が主導していたとしたら加計理事長は使用者としてこの人を特定して告発する責任がある。

プロセス通りに許認可をしていたとしたら開学は間に合わなかったはずだ。すでに提案が間に合わないといって降りた学校があることがわかっている上に、認可が降りるかどうかまだわからない状態で借金もしなければならない。このような提案ができる事業主体はない。

もともと、戦略特区は外国に対する利益供与として設定されたという話がある。日本市場は監督官庁の既得権保護のために閉鎖的な空間になっている。アメリカが自分の国のルールで事業を展開しようとした時省庁の関与が邪魔になる。そこで首相が関与して省庁の既得権を排除しようとしているというのである。外国への利益供与のために国内産業が犠牲になることを一般に「売国」という。

嘘の追求はそれなりに続けていただいても構わないと思うのだが、野党になるのか後継の自民党の首相でも構わないのだが、この制度の問題を洗い出して問題点を国民に説明すべきだろう。背景にある問題は首相の「お友達の要求を叶えていい格好がしたい」という首相のわがままだ。ただ、実際にプロジェクトを進めようとすると臆病になってしまう上に、お友達が何をやりたがっているのかを理解しようという気持ちもないので、状況が大混乱する。この制度を温存している限り同じようなことが度々繰り返されることになるだろう。

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日本人に蔓延する嘘とコリント人への第一の手紙

聖書の中に遠くにいる信者にあてた手紙の一群がある。後世の創作が混じっているという意見もあるそうだが、主にパウロという人が書いたものとされ、今のトルコ、ギリシャ、イタリアなどに送られている。2018年5月22日は日本の社会に嘘が蔓延しているということについて深く考えさせられる日になったのだが、聖書を読みながら、社会に蔓延する嘘をどのように評価すべきなのかということを考えた。

日大の監督が選手に犯罪行為を命じたが直接は指令せずにコーチに伝えさせた。断りきれなくなった選手は実際に行為に及んでしまうわけだが、そのあとで深い反省の念にとらわれて顔を出して謝罪した。一方で監督とコーチは一切の説明を拒み社会から逃げてしまった。後から経緯をみると、監督は末端を切れるように準備していたのではないかと思える。まずは生徒が「行き過ぎた行為をした」と切り捨て、逃げきれなくなったら今度はコーチが勝手に指示したことだと言い逃れるつもりだったのではないかと思う。

さらに首相が加計学園の問題で嘘をついていることが明白になった。安倍首相は記録を確認したがなかったと口を滑らせたが、後になって慌てた官邸側は「記録はなかった」と軌道修正した。もう嘘はバレている。しかしながら支持者たちは「もっと証拠を出せ」と騒いでいる。これも、最初から悪いことをしているという認識があったのではないかと思える。だから記録に残らないように友達を官邸に招き入れたり、ある特定の日時までは何も知らなかったと主張しているのだろう。そして嘘が露見すると、周囲を切り捨てて行く。

日本社会はこの状況をどう理解して、彼らの嘘をどう裁くべきだろうか。

現在、Twitterで枝野幸男さんなどの野党の政治家が「裁判だったら」というような論調で話をしている。これがかなり恐ろしいことだなと思った。国会議員に不逮捕特権があることからわかるように、政治は司法からは切り離されている。対立に埋没してゆくうちに野党はこのことを忘れてしまっている。

蔓延する嘘は社会に様々な悪影響を及ぼしつつある。国会は他人を断罪する場になっている。このような場所で建設的な議論ができるわけはない。日本社会で建設的な提案がなされることはしばらくないだろうし、第三者的な野党によるチェックがなくなれば、与党は倫理的に問題がある法律を平気で通すようになるだろう。

すでに野党の死は確定的だ。建設的な議論をしたい人たちが野党に集まってくることはない。彼らの元に集まってくるのは何者かを破壊したい人たちだけである。そうなると野党側は安倍政権の矛盾を通じてしか自己像を構築できなくなる。彼らは細かな党派に分かれてお互いに牽制し合うようになった。

次の問題は社会に蔓延する嘘である。法律を定める国会議員が嘘をついてもいいのだから、その法律は誰かの胸先三寸でどうにでもなる程度のものに過ぎない。その目をかいくぐることさえできればそんな法律は破っても構わないと思うようになるだろう。罰則がない努力義務など忘れてしまった方が良いことにもなる。

一部の人たちは律儀に政府の矛盾点を指摘し、時々デモに出かけたり勉強会に参加したりする。しかし日本人は表向きの対立を嫌うのでわざわざこのように言い立てたりはしない。彼らは身内の間では不正を働き、他人は厳しく罰するようになるだろう。集団で顔が出ていないと考えるならば、大勢で一人を責め立てて社会的生命を奪うことすら厭わない社会はすでに実現している。一方で、難しい社会的な問題には関心を寄せない。一人ひとりが何かをしたところでどうにもならないと感じているからである。社会的な公正や正義という意味では日本社会はすでにある種の破綻状態にある。安倍政権は統治に失敗したと言えるが、失敗したところで社会がなくなることはない。

さて、ここでコリント人への第一の手紙に戻りたい。もともとのキリスト教はユダヤ社会に現れたカルト宗教の一つである。キリスト教団はユダヤ社会の倫理観に挑戦したために教祖が殺された。それに納得できない弟子の3人が集まって「教祖は復活して俺たちはそれを目撃した」と主張して、周囲からはキチガイ扱いされてしまう。

初期のキリスト教はある意味でオウム真理教事件とあまり変わらないような経緯を辿るのだが、ここから先の展開が違っていた。弟子たちはラビたちに復讐することはなく、教えを周囲に広め始める。ユダヤの戒律は弱者への差別につながる。この時代の弱者も病気になった人や結婚システムに救済されない女性などであり、これは現在とそれほど違いはない。

周囲からキチガイ扱いされながらも、弟子たちは各地を周りユダヤ世界を飛び出してローマの支配地域に広がってゆく。ローマ領域には様々な宗教社会があり、それぞれに律法と差別があったのだろう。そこからあぶれた人たちが集まって原始的なコミュニティができた。

キリスト教からみると、世界は不誠実で道徳に反する行いが蔓延する汚れた場所である。コリントに集まった人たちは外の世界を糾弾し、また内部でも主導権争いを繰り返すことになったようだ。コリント人への第一の手紙はその様子を聞いたパウロが教団をたしなめた上で綱紀粛正をするために送った手紙なのである。

初期のキリスト教団は智恵をあまり信用しなかったようだ。ユダヤ社会が論理に支配され社会正義の実現をおろそかにしたからだろう。パウロは「外の人たちを裁くな」と主張した。代わりに「自分たちは道徳律を守り、キリストの教えを実践すべきである」と言っている。

もちろん、パウロの教えそのものが妥当だったかという点には疑問もあり、現在の教会がこれを守っているとも言えない。例えば、女性は男性の従属物だと書かれており、同性愛(男色)は明確に否定されている。このことが現在のキリスト教圏の同性愛者を苦しめている、教皇は「同性愛者はそのように作られた」として許容する姿勢を見せているが、内部には少年に対する性犯罪などの問題がある。

今回、日大の選手が顔出しで謝罪した上で釈明したのを見たとき「このように選手を追い詰める社会はまずいのではないか」と感じた人たちは多いのではないかと思われる。さらに関西学院大学の現在の2年生たちは高校生だった時にアメフト部の仲間の死を経験している。死因ははっきりしないようだが彼らは仲間の死を通じて「アメフトに対するあり方」を真剣に考えたのではないか。関西学院大学の生徒の名前は公表されていないのでこのことが表立って語られることはないだろうが、生徒たちは真剣にこの問題と向き合っている。

しかしながら、今でも日大は「生徒の勘違いだった」という姿勢を崩しておらず本質的に反省する様子は見受けられない。もともとブランド価値を維持するために経済的な理由から選手を追い詰めているようである。大人たちは自分たちがいい思いをするためにアメフトを利用していおりスポーツの倫理性を軽視しているのだが、生徒たちにとってはそれは命と人生がかかった真剣な実践の場なのである。

「嘘が蔓延する社会を放置してはいけないのではないか」と我々が考える時に頭の中では何が起きているのだろう。脳の働きだと理解することもできるし、私たちの頭の中には他の動物とは違う「霊的な何かがあるのだ」と考える人もいるかもしれない。

日本では宗教的な言論には拒絶反応があり、理性的な人たちの間で「霊的な言葉」という表現がそのまま受け入れられないことはよくわかっている。だからパウロのようには「私たちは霊的な言葉に従うべきだ」などとは主張しない。しかしながら、キリスト教がどのようにして社会的な公正をローマ社会に広げていったのか、なぜ多神教だったローマ社会がこうした社会的公正を受け入れざるをえなくなってしまったのかということを理解するのと同時に、私たちの頭の中に芽生えた「これはよくないのではないか」という気持ちが何に由来するものなのかをよく考えてみるべきではないかと思う。

いったん立ち止まってこのことを考えた上で、私たちはこのまま声高に他人を裁く道を選ぶのか、それとも別の選択肢を模索すべきなのかを考えるべきなのだと思う。

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ある意味「トカゲの尻尾」だった山口達也さんと被害者女性

柳瀬元秘書官の問題はそれほど話題にはならなかった。もちろん柳瀬さんは嘘をついているのだが、想定内の嘘だったので外形的な体裁は整っている、だから外形上は嘘をついていないことにできる。お友達の優遇がもともとこの特区制度の狙いだったわけで多くの人は自分で努力をするよりも権力にコネをつけた方がトクだと考えたのではないだろうか。これは縁故主義の社会が没落して行くある意味おきまりのルートである。

柳瀬さんの行為はいわば「民主主義違反」なのだが、麻生さん流にいえば「民主主義違反罪という罪はない」ことになる。セクハラであろうが、民主主義の十厘だろうが、この国の新しい道徳では罰則がないことはやってもよいことになる。一方、一人ひとりの個人は国のいうことを聞いて「社会に貢献する」ことが道徳的に求められる。国はこのような形で道徳を教科にするようである。強いものは守られ弱いものは犠牲になるのが道徳的に正しいという社会が形成されようとしている。

一方で日本人が気にすることもある。普通でいることには特段の価値はなく他人に利用されるだけだ。しかしそれではフラストレーションがたまるので「普通から脱落した人たち」を娯楽的に叩くことが推奨されている。不倫やセクハラが叩かれることが多いのだが、在日外国人を叩いたり、特殊学校に通う生徒を叩いたりすることも横行しているようである。こうした例外規定があることで普通の人たちは「まあ、しかがたない」といって体制を維持する道徳をサポートすることになる。つまり人を叩くことで体制の維持に協力するようになるのだ。

今回「山口達也元メンバー」が叩かれたのもその一つだろう。山口さんを叩くだけでなく、被害女性を探し出して表に引きずり出そうとしている媒体もあるという。山口さんは、どうやらもともとお酒の問題を抱えており周囲の人間関係にも困難さがあったようだ。しかし事務所はそれを見て見ぬ振りをしており管理不能な状態になったとたんに大慌てで「知らなかった、気がつかなかった」と切り捨ててしまった。もともと事務所は自分たちに非難の矛先が向かわないように最初から切り離すつもりで弁護士を入れて記者会見を開いたようだが、山口元メンバーがTOKIOとのつながりを示唆してしまったために、今度は大慌てで他のメンバーが「それは許されない」と芝居掛かった記者会見を開くことになった。

今になって思えば「ペテロ」の逸話を思い出す。夜が明ける前にペテロは三回「イエスなどという人物は知らない」と言って自己保身を図った。だがTOKIOの行動は個人が社会から叩かれることを必死で回避しようとするという意味ではむしろ人間味のある嘘である。

さて、ここで嘘をついているもう一つの大きな集団がある、それがNHKだ。NHKは柳瀬さん流にいうと「嘘をついていないのだが嘘をついている」という状態にある。日本社会では自分の組織を守るためにこうした言動が許されている。文化的には組織防衛に極めて寛容な体質を持っていると言えるだろう。

週刊誌やワイドショーが、被害女性はスタッフ側からLINEのアドレスを交換するように指示されたと供述していると伝えている。NHK側はこれを否定しておりNHKのスタッフはそのような指示はしていないと言っている。だからNHKの関与はなかったということになる。被害者女性は「かわいそうだから決して表に出てはいけない」ということになっているので、自分の体験を語ることはないだろう。彼女は他の出演者たちと同じように疑われたまま自分のトラウマも抱えたままで囚われて生きて行くことになる。これは実はかなり残酷な人生なのではないかと思う。だが、NHKが元になった状況を改善することはないだろうから、同じようなことはまだ起こるかもしれない。しかし日本社会ではそれも「組織を守るためには仕方がない個人の犠牲だ」と考えるのではないだろうか。

これは「聞かれたことにしか答えていない」という例である。つまりNHKの番組は多くの外部スタッフを抱えており、彼らがそれを指示した可能性がある。そしてその指示に関してNHKのスタッフが指示をした可能性は残っているし、仮に外部スタッフが勝手にやったということになっても監督責任は残るはずである。

安倍首相が秘書官や奥さんを通じて何か意思を伝えたとしてもそれが法律違反に問われることはない。同じようにNHKもいざとなれば「外部スタッフが勝手にやったことだ」として切り離してしまえば社会的な非難を受けることはない。あとはタレントを切り離してし、私たちは被害者でしたといって終わりである。

個人が自己責任のために必死で嘘をつくのに比べると、組織の嘘はどこか落ち着き払った調子がある。自分たちが社会をコントロールしていて「世論などいかようにもなる」という自信があるからだろう。そして、実際に世論はその場の雰囲気で動く。

今回は週刊誌が問題を嗅ぎつけてあのやっかいな事務所が騒ぎ立てるまえに「ニュース」という形で先に既成事実を作ってしまい「NHKは一切関与していなかった」という形を作った。実際には問題のきっかけを作り(あるいは放置していた)にもかかわらず、うちは被害者ですよという体裁にしたのである。そのあとも「聞かれたことには答えたが、聞かれなかったことには答えなかった」というお芝居を続けている。もちろんこの行為は法的には何の問題もないし、日本社会では道義的にも「組織を守るための忠義である」と肯定される場合が多い。

財務省や官邸のやり方を見ていると「外部のスタッフを巧みに切り離して問題の隠蔽を図り、最終的には末端の個人にかぶせる」というやり方が日本社会に蔓延しているのがわかる。たいていの人は「社会とはこんなものだろう」と考えるので、柳瀬さんが嘘をついていたとしても特にそれを機にすることはない。

こうした行為が法律に触れているわけではないので、柳瀬さんを裁いたり、NHKを断罪することはできない。しかしながら、いざとなれば個人を切ってしまえばいいのだと考えることで組織の上の方にいる人は次第にモラルをなくして行く。自分が出世するためなら誰か弱い他人を犠牲にして知らぬ存ぜぬを通していればよいということになるからだ。そして、普段から「何かあったらこいつに詰め腹を切らせよう」などと物色し、それを当然のように思うわけだ。

私たちの社会にあるこうした風通しの悪さはこのように作られている。実はTwitterなどで他人を叩くことで我々も知らないうちに共犯者になっている。一時の騒ぎが治るとまた別の問題がおきて大騒ぎになる。多分柳瀬さんの問題も忘れ去られて加計学園もなんとなく「逃げ得」ということになるのかもしれないし、NHKではまた同じような問題が起こるかもしれない。しかし、同じ問題が起きたとしても誰か適当な犯人を見繕ってその人を叩いて終わりになる。

NHKの道義的責任を問うことはできないのだが、こうした人たちが政府を「マスコミとして監視している」ことになっている。実は政府が一向に態度を改めない裏にはこうした事情もあるのではないかと思う。実は「お互い様だ」と思っているのだろう。

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柳瀬参考人招致について – 首相秘書官制度は廃止すべきタイミングなのかもしれない

柳瀬元秘書官が参考人として国会で答弁した。今回の証言を参考にすると柳瀬さんは嘘をついていなさそうである。多分、安倍首相のお友達だから加計学園が優遇されたのだろうが、普段から「安倍首相の関与がなく」見えるように行動していたのだろう。想定内の嘘なので「騙している」という罪悪感が希薄なのだろう。応援する人の中には「法律の範囲内でお友達を優遇して何が悪い」といい出す人がいたが戦後70年経っても日本人は法治主義という概念を完全には理解していないことがわかる。

合間に田崎史郎解説を聞いたのだが、国民も無関心なので「首相の関与が証明できなければセーフ」というのが官邸側の意向のようである。その線だけ守れればあとは明らかに嘘に見えても「負け」にならないと考えているようだ。日本の組織は最終的には信頼によって成り立っているところがあるので「もう有権者との信頼なんかどうでもいい」と割り切ればかなり政権の自由度は高くなる。と同時にこの国の政治中枢にいる人たちが日本人が持っていた「実際の運営は契約ではなく相互信頼に基づく」という社会通念を一切無視しているということがわかる。

一方で野党にも契約と民主主義という概念を理解していない人がいる。この議員は秘書官はジムの調整役に過ぎないのに「絶大な権限」を認めてしまっている。オフィシャルな民主主義とその裏側にある調整主義の違いが混同されているのだろう。

このことからわかるのは日本人は民主主義の契約という概念を理解できていないということだ。だから法律にお友達を恣意的に優遇できる仕組みを入れることにも抵抗はないし、事務調整官に過ぎない秘書官が実際の権力をふるってもそれが当然だなどと言い出してしまうのだ。

だが、というかだからというか、今回の一連の騒ぎには、見過ごされている深刻な疑念を浮かび上がらせた。Twitterを見ていると多くの人がこのことに気がついているようだ。

柳瀬さんが首相に何も報告をしていないとすると、柳瀬さんがどんな資格で特区関係者に話を聞いていたのかがよくわからなくなってしまう。秘書は連絡役であり法的には何の権限も持たないはずである。

柳瀬さんの立ち位置はいわば幕府のお側用人に似ている。将軍と老中の間でやり取りをするのが仕事である。政府では大きな権力を持っていたように描かれることが多いのだが、本来の意思決定者ではなかったはずだ。

お側用人は単なる将軍のスタッフ職なのだが、柳瀬さんは現在経済産業省の事務次官に次ぐ役人側のナンバーツーである。この人が「秘書官」という役職をもらい自由に動けるようになっている。本来は法的な裏付けがないので何の権限も持っていないのだが、逆に「法的な縛りがなくなんでもできる」ことになる。いわば「フリーのエージェント」なのだ。首相には憲法上の責任があるので、誰と会ったかということは国民からの監視対象になっている。しかし、秘書官には権限がないはずなので誰と会ったかは極秘にできる。つまり首相の隠密としても動けるし、首相のお目こぼしがあれば自分や自分が存在する組織のために自由に動けてしまうのである。

情報の流れという観点から政府組織を見ると、秘書官はセキュリティホールのような位置付けになる。

この「セキュリティホール」が数年に渡って自分が誰に会ったかを上司に報告していないと国会で堂々と公言している。例えば首相秘書官は国防上の秘密も知り得る立場にある。彼がマスコミなどから面会記録を監視されないのは首相がスタッフを管理しているという前提があるからだ。しかし柳瀬さんはどうどうと「自分は首相に監視されずに好きな人に会えるのですよ」と言っている。つまり、外交上の秘密をバラしたとしても誰にも気づかれないしそれを国会で罰せられることもないのですよと「ドヤ顔」で語っている。

秘書官の「使い勝手の良さ」を首相秘書官を経験した江田憲司さんはよく知っているようだった。柳瀬さんはそのことがわかっており唯一緊張した顔を見せていた。江田さんも「首相秘書官」として隠密的に動いたこともあるのだろう。その制度の欠陥を指摘してしまうと過去に遡っていろいろな疑念が掘り起こされかねない。そこで江田さんの追求はある種の緊張感を持ちながら中途半端なものになってしまっていた。

首相秘書官が秘密を漏洩するだろうなどとは思えないのだが、実際にドキュメントのごまかしなど「こんなことはやらないだろう」ということがどうどうと起きている。財務省の官僚が嘘をついたりセクハラで解職されたりするなどということは一年前には想像できなかったことだ。政治の世界ではモラルが崩壊しており、もうなんでもありいうつもりでいたほうがよさそうだ。

首相は秘書どころか奥さんも管理できていない。普通の人は夫婦なのだから夫の許可を取った上で夫の意思を忖度して動いていると思う。つまりいくらなんでも夫婦なのだから奥さんが何をしているのか知っているだろうと思うのだ。実際には安倍昭恵さんは自らの感情でふらふらと動いて周りに迷惑をかけていたようだ。そして未だにそのことを反省しているようには思えない。常識では考えられないことが起きている。

首相が夫人を管理できないのは、この人が近くにいる人と本当の意味で意思疎通ができないからだろう。いくらなんでも秘書が何をしているのか知っているだろうとみんなが思っているのだが、首相は本当に管理できていないのかもしれない。

加計学園問題を攻撃したい人は「首相の関与」を証明しようとして躍起になっている。しかしこれは想定されていた嘘であり、加えて柳瀬さんは体裁を取り繕えないことにはそれほどの罪悪感を持っていないようである。だが、実際には首相が必要な意思決定やマネジメントをしないで権限がはっきりしていないスタッフを泳がせていたことの方が問題は大きいのではないだろうか。

お側用人が幕府の政治に悪影響を与えたように、首相秘書官も政策決定の透明性を損ねている。首相が管理できないなら、首相秘書官制度そのものを廃止すべきではないかと思った。

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加計学園は今治に獣医学部を作ってもよいと思ったわけ

加計学園問題に関する文部科学委員会の答弁を一部聞いた。これを聞いて「特区下で認可するというのならそれはそれで構わないのでは」と思った。

加計学園が今治に獣医学部を開学するにあたって政府は石破4条件をクリアしたこれまでにない素晴らしい獣医学部ができるという理由での「説明」を試みていた。しかしこれは日本で多く見られるように単なる説明のためだけの説明である。これを日本語では建前といい本音は別のところにあるということは与野党共わかっている。

この説明が嘘であることは委員会審議を通して明らかだった。与党は「手順通りに行われたのですね」ということを確認するばかりで答弁も当然「手順通りに行われた」というものばかりだった。つまり中身について説明できないのだ。さらに野党の逢坂委員の説明はたびたび中断した。そもそもこれまでの答弁の解釈について当事者が説明できないのである。本来はこれまでの答弁から内容を明らかにし、それからその矛盾を追求するというやりとりになるはずなのだが、そこまで行かないで質問が終わるのである。(毎日新聞の記事によると10回中断したそうだ

しかしながら、答弁の内容は実は人によって微妙に異なっていた。林文部科学大臣は「所管ではないから答えられない」と言っていた。政務官レベルは「法律の趣旨に基づいてやっている」と主張した。そして、文部科学省の官僚は「上から降りてきたから審議はしなければならないし、訴えられるのも怖いので形式的に流した」と説明した。

特に顕著だったのは官僚の答弁である。彼らは実は加計学園問題には関心がない。委員会答弁に実績として「自分たちは責任がない」という理屈を残しているだけなのである。判断したのは有識者だが彼らも議事録を残さないことで責任を取らなくてもよいことになっている。

どうやら戦略特区の背景にある精神は「政治の力を使って無理筋のものをねじ込む」というものらしい。ある議員はTwitterで「裏口入学」と言っていた。つまり、政府関係者に近い筋にある人たちを優遇するための制度なのである。もともとそれが狙いなので「私物化した」ということを証明しても違法だという認定はできないのだ。

石破4条件というかなり高いハードルが設定されたのだがそれは単に建前であって、実際には表から入れない人たちを役人の智恵で合格させるという制度だ。官僚たちは「忖度」しているわけではなく実は法の精神に基づいて働いているのである。計算違いがあったとすれば、学校がとんでもないどらむすこであったという点くらいのものだろう。普通の精神であれば「30点しかないから勉強しなさいね」と言われれば恐縮して勉強しそうなものだが、それでも勉強せずにほとんど何も書かない答案を出して「名前はあるから合格でしょ」と言っているのである。

もともと入り口選定のプロセスは特区の許認可とは別のところで行われている。つまり、政治的に選抜しているのだ。政治的に選抜というと聞こえはいいのだが、要は自民党の要職にある人たちの意向が反映されやすいということである。つまり、戦略特区とはもともと政治が行政に介入するために設計された制度なので、今回のような議論になるのは最初からわかっていたことなのだ。

この過程で京都産業大学は特区を利用することを辞退したのだが、実際には辞退する必要はなかった。加計学園程度でも形さえ整えれば学校を作れるのだから、京都産業大学も厚かましさを発揮して残ればよかった。今回の過程を見ていれば、多分「ああ入ってしまえばあとは何をやっても良いのだな」と思う人が大勢出てくるだろう。今後特区は「席に座って名前さえかければあとは努力しなくても周りがなんとかしてくれる」制度になるはずである。

これまでの日本の制度は「問題がありそうなものをすべて排除する」ことによって、民意が反映されないという制度だった。つまり、民意というのは間違える可能性があるので「親心」で何もさせないというのが日本のやり方だったということになる。つまり、完全な民主主義国家ではなかったということだ。

だが今回の特区はつまり「政治家が責任をとるからとにかくやってみよう」という制度である。安倍首相に一つ間違いがあるとしたら、国会でこう言わなかったことくらいなのだ。

加計学園が私のお友達であるのは確かだが、実力が足りない学校でもないよりはマシだし、そうでもしなければ地域振興ができないのだからグダグダ言わずに認めるべきだ。とにかく選挙で自民党が負けなかったのは、つまりこのやり方が黙認されたということなので、野党にとやかく言われる筋合いはない。

国民が自民党政権にあまり拒否反応を示さないのは、何か問題があっても霞ヶ関の優秀な官僚がなんとかしてくれるだろうという了解があるからだろう。ついでにいえば防衛に関してはアメリカに管理されておりこちらも間違胃がないと思っているのではないだろうか。つまり、完全な民主主義ではなくどこかで修正されるという期待があるから政治にあまり関心を持たないのだ。

この加計学園の委員会審議はすべての国民が見るべきだと思った。つまり、民主主義が実現していて、もう官僚やアメリカの「親心」が期待できないということである。

今回は学校だった。実際の生活にはそれほど影響がない。今治市は「土地を無償で譲渡して市民生活に影響がある」と言っているが、実は道路誘致と土地政策の失敗であって、大学がこなければ早晩破綻する土地だった。つまり、あの土地は何かに利用できる土地ではなくお金をかけたものの森に戻さなければならない程度の土地だった。さらに、獣医師になる試験を厳しくすれば実力のない獣医師が入ってくることはない。

しかし、冷静になってこの特区を見てみると「外国から労働者を入れて格安で使う」という制度が多いことがわかる。これは地域に大勢の格安労働力が入ってくるということだとわかる。日本にはパスポートコントロールがないし、入ってきた人のパスポートを取り上げることはできないので、こうしてなし崩し的に入ってきた経済移民が多くの町で見られるようになる日も近いだろう。

つまり、今回加計学園のでたらめを放置したことで起こる影響は実は広範囲に及びかねないわけだが、これも民主主義の帰結なのである。その時に官僚をせめても彼らは「自分たちが責任を取らない理由」という長大な論文を国会答弁のなかに仕込んでおり何もしてくれないだろう。

我々が知らなければならないことは一つしかない。日本は官僚的温情主義を捨てて、普通の民主主義国になろうとしているのである。

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