内田イズムが復帰する時

また日大のアメフトの問題である。「もういいよ、加計学園問題について追求しろよ」と思う人もいるかもしれない。だが、ちょっと嫌な話を思いついたので書かずにいられない気分になった。

内田監督は断罪されて少なくとも関東のアメフト界からは追放された。しかし経営者として学校には残るようである。今、テレビ朝日のワイドショーを見ながらこれを書いているのだが、テレビ朝日はややリベラル寄りの姿勢なので「理不尽な監督の支配から脱却して民主的で合理的なスポーツに戻るべきである」という論調で話を進めていた。これは「普通の」感覚であろう。

確かにそうなのかもしれないのだが、もしこれで日大が勝てなくなったらどうするのだろうかと思った。この件で普通の私たちは大いに清々しい思いをしたのだが、勝てなくなった時に「ほら、昔のスパルタのほうがよかったでしょ」などと内部の人が言い出す可能性があるのではないかと思ったのである。

同じ感覚を共有しているコメンテータはアメリカ流のコーチングを採用すべきだと言っていたが、司会者らにスルーされていた。現在の経営陣がこれを許容する見込みはそれほど大きくなさそうである。

もしそうなった時チームはどうなるのだろうかと思った。内田監督はいなくなったが経営陣には残るので同じように成果を求めるだろう。そして内田さんは「正解」を知っていると思っている。それは選手を恫喝して追い込むという方法である。もし、新しいやり方で成果が出なかった時、現場のプレイヤーはそれでも新しいコーチングを続けることができるのかと考えると、かなり気持ちが揺れるのではないかと思う。新しいコーチングが正解かどうかはわからないのだが、少なくともシゴキでは一度結果が出ているからである。もし、そこで古いマインドセットが復活すれば、中から自浄作用を働かせるのは以前より難しくなるに違いない。

すでに日本のアメフトはアメリカのレベルから遅れていることはわかっている。アメリカでスポーツを学んだ人たちは異口同音に「日本のやり方は不合理だ」と指摘する。アメフトにもそのような声がある。さらに新しくわかってきたところによると「日大のOBでも日大には子供を入れたくない」という人が現れているようである。こうして、新しく変わることに失敗した組織はそのまま衰退してしまうのである。

なぜこのような話を思いついたかというと、もちろんこの話を政治と重ね合わせているからだ。2009年までの数年間、政治には「有権者の手で政治が変えられる」という期待があった。しかしながらそれが失敗に終わってしまった(あるいは失敗に終わったと見なされた)ために、やはり政治を変えるのは無理なのだというような失望に変わっている。そう考えると日本は一度内田監督が退任た世界ということになる。

日大の例に戻ると、日大はこれから独自の指導方法を確立する必要がある。スパルタ指導はよくなかったという認識はあるわけだが、同時にスパルタ以外の指導方法は実践も研究もしてこなかった。彼らは今期は試合に出ることができないので、これからの一年を新しい指導方法を確立するのに充当すべきなのだが、学校側が外部からの指導者を受け入れそうな様子はない。

同じように日本も「今のような曖昧な意思決定と縁故主義に侵された政治は嫌だ」という気分はある。ただし、一度それ以外のマネジメントを実践しようとして失敗した過去がある。加えて自分たちが麻生政権まで行っていたマネジメントがどんなスタイルだったのかということを整理できておらず、そのために反省ができないという状態である。さらに野党側は首相の不正追求に執着しておりマネジメントスタイルを整理した上で国民に提案するというようなことはやっていない。日本人は内省を嫌い集団での競争に熱中するからである。

「まともな人であれば安倍政権は支持しないであろう」という感覚は当然なのだが、ではどのような政治を希求するのかということを、これを読んでいる人たち一人一人に聞いてみたい。多くの人は「まともな民主主義が回復されるべきだ」という普通の感想を述べても、それがどんなものなのか他人に説明できないはずだ。「普通の民主主義で<成果>が出ると確実に保証できるのですか」と聞かれると言葉につまってしまうからである。

たかがアメフトの問題という言い方はもちろんできるわけだが、実はかなり大きな学びがある。体制を崩すのはそれほど難しくないが、新しいものを作るのはとても難しい。そして、一度失敗したところから学びなおすのはさらに難しいのである。

日本人は「民主主義というのは誰かが正解を与えてくれる社会体制ではない」ということを理解しなければならない。ただ、明治維新以来「こうすれば勝てる」というゲームを政府から与えてもらっていた「普通の人たち」にとってこれはかなり恐ろしい社会なのかもしないと思った。

日大の危機管理はなぜ世間からの怒りを買ったのか

今回はこのTweetから、日大の危機管理の問題について考える。このお話を読むとなぜ日大病にかかると時代から取り残されるかということがわかる。

永江さんは、日大の危機管理と我々が考えている危機管理は違っていると言っている。だが、この細切れのTweetからはいったい何が違っていて、なぜそれが起きているのだろうかということはわからないので、自分なりに補足してみた。

今、大げさに「日大は日本の問題が凝縮されている」と騒いでいるのだが、実は半分嘘である。日本の「日大病」には特有のメカニズムがある。非言語によって獲得された知識が客観視されないままで暴走すると歯止めが効かなくなる。個人の判断も停止されており、トップも状況を客観視できなくなる。だが、勝てなくなった組織が不正に手を染めるという現象自体はそれほど珍しいものではない。

同じことが20世紀終わりのアメリカでも起きていた。エンロン事件ととかワールドコム事件という言葉を聞いたことがある人もいるかもしれない。エンロン事件はもともとエネルギーを扱っていたエンロンが会計操作をして業績をごまかしたという事件である。エンロンには社会的非難があtまり2001年に破綻した。エンロンが不正に手を染めたのは株価維持のために「勝ち続けなれればならない」と考えた。株価を維持するためには業績がよくなければならないので、様々なテクニックを使って会計をごまかした。しかし、当時の会計基準ではこのエンロンの不正を暴くことはできなかった。さらに関わっていた会計事務所のアーサーアンダーセンも多分知っていたのであろうが「知らなかった」で押し通したので、アメリカ全体を巻き込んだ大きな騒ぎとなった。

こうした背景や経緯は今の政治の文書不正問題や今回の日大のアメフト部の問題と似ている。だが、その対処方法はかなり違っている。

アメリカは幾つかのことをやった。まずエンロン事件を防止できるようにサーベンスオックスレイ法を制定して会計監査を厳しくした。結果、アーサーアンダーセンは閉鎖に追い込まれたのだが、当時の基準では違法ではなかったのではないかと言われているそうだ。にもかかわらず炎上を恐れたアーサーアンダーセンは操作の段階で資料の廃棄も行ったそうである。さらにMBAでは倫理教育を行うようになった。エンロンやアーサーアンダーセンにはMBAホルダーが多く、このままではMBAホルダーが悪の根源だという認識が広まりかねなかった。

この結果、MBAではコンプライアンスという考え方を教えるようになった。コンプライは遵守するという意味だが、遵守する対象には法律と社会的規範が含まれている。

アメリカ政府が法律を作ったのは金融市場を守るためである。不正が蔓延すれば金融市場の透明性が失われて外国からの投資が引いてしまいかねない。MBAにも優秀な生徒を集めなければならないので「倫理も教えており不正にはコミットしない」という姿勢を示す必要があった。

日大病は「内と外」が乖離することによってコミュニケーション障害が起きるという問題があった。一方でアメリカ社会は移動を前提としており透明性を確保する必要があった。日大と他大学お対応を見ているとよくわかるのだが、日大は「自前で囲い込んで生徒にいうことを聞かせる」ことを前提としているので不正が蔓延しやすい。一方他大学は「生徒を確保する」必要があり他校との交流もあり自浄作用が働きやすいと言える。つまり、日大と他大学のアメフトコミュニティでは「関係者」が違うのだ。関係者をステークスホルダーと呼ぶ。

このような経緯からMBAを通じてコンプライアンスという言葉が一般化することになった。「ステークスホルダー」という考え方もここから生まれる。つまり、企業は株主の利益の最大化のためだけにあるのではなくその他の関係者である顧客・従業員・納入業者など全てを満足させるべきだというような理念である。健全な日本の企業にも「三方よし」という考え方がある。

このことからリスク管理の理念も変わってゆく。もともとはダメージコントロールのような理論だったのだろう。永江さんのいうところの「警察的な総会屋対策」などはそれにあたる。だが、今の危機管理理論ではそのように考えないはずである。クレームを行ってきた人がどのようなステークスホルダーなのかということを理解した上で、危機管理をこの人たちに「正しい価値を伝えるためのオポチュニティ」として捉えるというように変化した。

永江さんは返信の中で総会屋対策は耳を貸さないことと言っている。これは総会屋がルールに則っていることを偽装しながら総会を破壊しようとするからである。内田前監督らの記者会見は「タックルしてくる危険なマスコミ」から内田監督らを守るために行われたのである。

一方で、日大の当該選手のインタビューには幾つかの目的があった。表向きの目的は謝罪だが、その謝罪を通じて「監督の指示があった」ということを伝える機会を作った。これは危機管理としては極めて正しいやり方である。と、同時に選手の弁護人は「できるだけ正確に包み隠さず伝えること」により、受け手が常識的な判断の元に「正しく判断してくれるであろう」と信頼した。つまり、関係性を結ぶことに成功したことになる。つまり、インタビューアは敵対者ではなく協力者になり得るのである。

内田前監督と同じことをやろうとしているのが安倍政権だ。野党は「政府の揚げ足を取って政権を奪取しようとする総会屋」のような存在であり、デモに扇動されるような人たちはすべて「総会屋に操られた手先」である。だから彼らのいうことに耳を貸さないのが危機管理の基本になっている。このため、自分たちに投票しない有権者もマスコミもすべて「潜在的な敵」である。確かに防衛には成功しているが、潜在的敵からアイディアをとってくることはできない上に、弱みを見せると攻撃されるので不都合な情報は隠されることになる。こうして騒ぎが広がってゆくのだ。

安倍政権は「自分たちの正義を実現するためには職員が自殺したり書類が改竄されるくらいは構わない」と思っているはずだし、内田前監督は「日大が勝ち続けるためには、相手選手が潰れるくらいは少々の犠牲に過ぎないし、選手の一人や二人の将来が「あんなことくらいで」なくなるなら、最初からアメフトなどやらなければよかった」と思っていたはずだ。彼らはある意味ディフェンスに成功している。だが倫理観もディフェンスされてしまうために「外側とは異なった倫理観」を持つことになってしまうのだ。

アメリカの経営がエンロン事件から学んだのは「インチキはいけない」ということなのだが、それにとどまらず、危機が起きるということはチャンスでもあるのだということを学んだ。彼らは好んで「漢字ではリスクは危機と書く」という。つまり日本では危機というのはデンジャーであると同時にオポチュニティだというのである。

日大は周囲から隔絶される道を選び、それに沿った形での危機管理を発展させた。周囲からの攻撃を恐れているので、政府からの天下りを受け入れて警護を固めようとしている。日本政府にも同じような考え方があり、彼らの基本戦略も情報鎖国である。日大アメフト部はこの結果アメフト界から排除されようとしているのだが、日本政府にも同じような状況に向かっているのかもしれない。ただ、この時点では国際社会から排除されるのか有権者から排除されるのかはよくわからない。

日大病の病理と起源 – なぜ「日本の闇」が日本大学に集まるのか

もはや日本語が話せない日大病患者

ワイドショーで面白いものをみた。日大の常務理事の一人が政府への説明に訪れた。記者たちに囲まれたこの理事は一言も発することがなかった。代わりに視線をちょっと動かす。すると機械仕掛けのようにお付きの人が「すみませんでした」と謝るのである。

この光景をみてかつて1980年代にアメリカ人が日本人に対して持っていたであろう心情を味わっているのではないかと思った。日本人ビジネスマンは何を考えているのかわからない。代わって説明をするのは英語通訳なのだが、どうやら正確には翻訳をしていないようだ。日本では英語通訳者の地位はとても低く、日本のビジネスマンが何を考えるいるのかはよくわからない。日本人は内なる言語日本語と外向けの説明言語英語を使い分けており、英語の地位はとても低いようだ。これが、当時のアメリカ人が日本人に持っていた感想だ。

この構造が21世紀にも引き継がれているらしい。日大は内なる言語と外なる言語を使い分けている。外なる言語は記者向けの「ごめんなさい」というボキャブラリしかない。説明責任どころか説明する言語しか持たないのが日本大学なのである。これは「説明責任」という言葉に抵抗を示している麻生財務大臣に似ている。麻生大臣にとって記者に説明することはすなわち自らの敗北を意味する。ルールを設定し話したいことを決めるのは偉大な自分のはずなのにそれが周りに理解されないから麻生大臣は苛立っている。この日大の常務理事も同じような「屈辱」を味わっていたのだろう。

この外なる言語を持たないのが今回ご紹介する「日大病」の症状の一つである。日大病は毎日のようにワイドショーに取り上げられている。いろいろなキャラが出てくるが全て罹患者で説明をすればするほど「嘘つきだ」とか「何も説明していない」と言われる。しかしこれは表面上のことである。世間が炎上するのはすでに人々が日大病の毒素にさらされていてアレルジックな症状を引き起こすからだ。

もう少し日大病について見て行こう。

言葉が信頼できない社会では反社会的行為が信用の通貨になる

アメフトの学生連盟が内田監督とコーチの関与を認めたようなので、内田前監督とコーチが嘘をついていたと認定しても構わないようだ。以下はその前提の元に分析を進める。ただ内田前監督は嘘をついているわけではない。内田前監督は内向きの言語で語ったのである。だが「組織のために個人が切り捨てられても構わないではないか」というのは外から見れば反社会的な信仰だ。

あるワイドショーが面白い理論を提唱していた。コメンテータが持ち出した理論によると選手は直系の弟子として見込まれたと想定する。そこでボスに絶対服従するかどうかを試すために無理な課題を出されたというのだ。篠竹監督・内田監督・井上コーチは同じ高校の出身のようで選手はその直系にあたる。そこで「忠誠心を試すために」このような課題を出されたのだという説明になっている。背景にあるのは学校ではなく学校の外局のような存在の事業会社だ。すでに一部のメディアで取り扱われていて、ここでは「殺人タックル」という名前までつけて事件を煽っている。それを取り上げたいが証拠がないのでコメンテータの作家に言わせたのかもしれない。

一度コミットしたら逃げられない

背景には組織としては反社会的な行動をとらなければ勝てないという見込みがある。みんなやっているのだから仕方がないということなのだろう。そのためには自分の良心でなく組織に従って動く「コマ」が必要なので選手はそれにリクルートされたのだ。これは彼らの社会では栄誉なことであった。彼らの誤算は彼が少しばかりやりすぎたこととビデオとSNSが存在していたという点である。

だが、それだけでは「コマ」たちが余計な良心の呵責を感じて逃げてしまうかもしれない。そこで彼らは別の手段をとる。それは日大アメフト部を途中退部すると有名企業の人事部にお触れが回るというような話だ。なぜかITメディアが伝えている。

日大アメフト部のOBからは「もし内田監督から嫌われたり、自主退部したりしたら『○○は使い物にならないよ』と各一流企業の人事担当者に通達されてブラックリスト入りしてしまう危険性もある。だから部員は是が非でも監督にだけは逆らえない環境が整う」と指摘する声まで聞こえてくるから、開いた口が塞(ふさ)がらない。

これを見たとき北朝鮮のようだなと思った。金正恩に忠誠を尽くせば栄達が得られるかもしれないが、時には反社会的な命令に従わないと「脱北者扱い」されて就職できず社会的に抹殺される。日大の学生は高校でアメフト部に入った時からこの収容所にいて死ぬまでそこから離れることはできない。

日大病の起源 – なぜ人々は安倍首相の政治と内田監督の行為を重ね合わせて考えるのか

このアメフトの一件を見ると日本のいろいろな闇が「デパート」のように凝縮されていて面白い。では、その起源はどこにあるのだろうか。

日本大学の前身は国家神道を普及させるための皇典講究所なのだそうだ。日本の法律はヨーロッパからの輸入品である。例えば明治大学はフランス流の自由主義に基づいた法律を研究したいという同期で作られた。こちらの流れは自由民権運動につながり、戦前の政党政治の一翼を担うことになった。

日本大学は「日本独自」の法律を研究するという動機で作られたようである。皇典講究所は戦後GHQに否定されて神社本庁に合流する。この神社本庁と人的な交流があるのが日本会議なので、流れとしてはつながっている。

勝てる見込みがなくなった時に日大病が発病する

勝てている時には問題がないのだが勝てなくなると「少々無理をしてでも勝ち続けなければならない」という認識が生まれるものと思われる。こうして反社会的行動が信用通貨になり組織内に蔓延するのが日大病である。国家神道が必ずこうした病気につながるとは思えないが、集団行動と非言語的な習得という二つが重なると病気の進行が防げなくなるのだろう。

日大はプライベートで収容所のような環境を作ろうとしたのだろうが、これを国家レベルでやろうとしているのが今の自民党ということになる。公共という概念を持ち出して個人から判断力を奪おうとする方向性は似ている。彼らにとっての関西学院大学は中国と韓国なのだろう。まともに当たれば人口の多い中国には勝てないのだから、こちらはなりふり構わず多少の反社会的行為を行わせても(決して自分ではやらないのだが)構わないと考えるようになる。これがリベラルが恐る「戦争」の正体である。

組織の活性化を図るためにはメンバーを鼓舞したり目標を定めたりして個人を活性化させる必要がある。そのためには集団と個人の目標を照らし合わせて共通点を見つける「コミュニケーション」が必要である。これは「個人の自発性」が結果的に集団を活性化させるという世界観である。これを一般的には「民主主義」と言っている。スポーツと体育を比較した中でこのような論法を展開する識者も出てきた。これは極めて現代的でまともな態度だ。スポーツと民主主義が対応し、体育と全体主義が対応している。

日大アメフト部では「無理難題を要求」したり「辞めていった人たちを見せしめ的にブラックリストに乗せたりする」というように逃げられないようにしてから恩恵を与えて忠誠心を誓わせるという手法を取っている。この環境に慣れると反社会的行為に違和感を持たなくなると同時に外の世界と同じ日本語は話せなくなる。

日本会議は「個人というのは集団に尽くすことによって初めて活きる」という一貫した世界観がある。逃げられないようにして服従させた上で全体を反映させるというやり方なのが、彼らに言わせればそれは無力な個人に優しい共同体だ。これに安倍首相の人材掌握術を重ね合わせても行動原理は一致している。官僚の人事権を握り逃げられないようにしてから、その指示に従った人たちを優遇してゆくというやり方をとる。こうしたやり方は批判的な含みを持って「全体主義」と呼ばれるのだが、安倍首相にとってみれば「友達や親類に優しくして何が悪いのだ」ということになる。全体主義は優しい共同体でもある。

どうやら日大アメフト部の出身者たちはそのブランド価値は気に入っているようで「顔を出してまでは大学に反抗したくない」と思っているようである。つまり、彼らは全体主義が日本で重んじられていて自分たちもその構成員であるということを知っている。全体主義は優しい共同体でもあるのだ。

勝てなくなると反社会的な行動が信用通貨になるという現象は日本社会全体にも起きている。立場が使える人たちは国民に嘘をついて安倍政権への忠誠を誓っているのだが、立場が使えない人たちは常識的な言動を否定したりごまかしをいうことで忠誠心を発揮しようとする。これがいわゆる「ネトウヨのヘイト」であり、外から見れば日大病が日本全体に蔓延していることを示している。ただ、外の世界からみればヘイトでも彼らにとってみれば「正義のための戦い」ということになる。ネトウヨは正義を取り戻すために戦う聖戦士でもあるということだ。

日大病は治癒しないが壁にぶつかり破壊される

このように優しい日大病社会の問題は嘘やごまかしが蔓延することで本来の実力が発揮できなくなることなのだろう。

当該選手が黙って指示に従っていたら、フットボールには反則試合が蔓延することになっただろう。あるいはすでに蔓延しているのかもしれない。すると彼らは肉体的鍛錬や技術の向上を図らなくなるので国際的な水準にはついて行けなくなる。同じように日本企業は国内では競争力を保つことはできるが、国際的な競争力は失いつつある。しかし、病状が進めば冒頭で見た常務理事のように「日本語が話せない」状態に陥り、自浄どころか自己認識すらできなくなるだろう。日本の経営者はやる気のない社員が日本をダメにしていると考えている。

「日大病」にかかった組織はどこかで必ず壁にぶつかる。例えば、日本陸軍は国際秩序に挑戦した結果国際秩序とぶつかって敗れた。しかし、沖縄を切り捨て長崎と広島が犠牲になるまで自浄作用は働かなかった。

同じように安倍首相も民主主義への挑戦者と呼ばれるようになり、国際競争力は落ち、また北朝鮮を巡る対話からも排除された。アメリカから忠誠心を試されることがあれば喜んで反社会的な手段を使ってでも法案を通したり資産を差し出したりすることになるかもしれない。孤立したまま残るかなんらかの財政的な破綻が予想される。

日大アメフト部はすべての対外試合に出られなくなった。学際社会から排除されてしまったのである。ただし、これは日大アメフト部だけの問題だ。経営体としての日本大学も別の壁にぶつかるかもしれない。経営陣は反省している様子はないので、このままでは「患部」として切り捨てられなければならない。もし中途半端な状態で復帰させれば、反則行為が蔓延し「勝つためには日大レベルの反則行為を行わなければならない」という内田ルールが全体を支配することになるだろう。

宮川選手がいつでもアメフトに戻れるようにチームは待っているという話があるのだが、これは脱北者にキャンプに戻っておいでという含みを持っている。日大のアメフト部は単なるスポーツ集団ではなく利益共同体であり、彼らもまた「忠誠心のためには個人の倫理を超える」ことを期待されている。これが彼や彼らにとって良いことなのかよくわからない。だが、すでに彼らはそのような生き方にコミットしており、今から「自発的で自由な」世界では生きて行けないのかもしれない。

日大病に侵されると自分たちが病気なのだということがわからなくなる。やがてその反社会的行為で相手を攻撃して消滅するか後世まで癒えない傷を負うまでそれが続くのだ。その意味では日大病はとても恐ろしい病気だ。