相撲協会の崩壊とガバナンス

昼間のワイドショーで面白い議論が展開されていた。「ガバナンスとは何か」という問題だった。面白いのは誰一人ガバナンスについて説明ができないのに、ガバナンスは必要だとして議論が進んでいたことである。誰も不思議に思っていないことが面白くもあり不思議でもあった。

ワイドショーでは今、貴乃花親方の引退が騒ぎになっている。だがその問題の本質は「言った言わない」である。当初は貴乃花親方優位だと思われたのだが、一部のスポーツ新聞が「貴乃花親方が勘違いしていた」という情報を流し始めた。スポーツ紙は今後も相撲協会から情報をもらう必要があり親方たちの意見に疑問を挟めない。そこで貴乃花親方の勘違いで相撲協会のいじめはなかったのだという情報を流しているのだろう。ジャーナリストの中にはこれを無邪気に信じて情報を流していた人もいた。

ここからわかったことは相撲協会の統治の仕組みはかなり前近代的であるということである。メールが発達した現代でも知り合い同士の口頭伝達が主な連絡手段なのだ。だがそれをおかしいという人はいない。なぜならば相撲協会に集まってくる人たちは彼らを利用して商売をしているからだ。みな「伝統社会なのでそんなものなのだ」という。

話の流れから、相撲協会は補助金の分配の管理を一門に任せることにしたということがわかってきた。一門に所属していない親方は「お金を何に使ったのか」がわからなくなるからダメなのだそうだ。だが、よく考えてみるとこれはおかしい。そもそも、暴力問題が起きたのは一門の内部で管理が行き届いておらず、これまでもお互いにかばい立てして暴力を隠蔽してきたからである。隠蔽ができているうちは良かったが外に漏れるようになり、騒ぎになったというのが事の発端だった。だが、相撲協会は身内の暴力問題も管理できない一門にお金の管理をさせようとしている。

一門にお金を管理させるという決定は口頭で「なんとなく」行われ、知り合いの親方たちに口頭で「なんとなく」伝えられた。その時に異論を挟んだり再検討を促した人たちはいなかったのだろう。結局、難しい問題に対応できないと人は知っているスキームに戻ってゆき、問題はなかったことにされる。

だが口頭連絡では誰が何を言ったかがよくわからず、その解釈も人それぞれである。理事会で口頭でなんとなく決まったことについて、それぞれが合意しないままでなんとなく理解したのであろう。だから理事会から出た人たちの解釈も最初から実はバラバラで、それが伝言ゲームを起こす中で「なんとなく」誤解されたのだ。これを、予備情報と思い込みがあって聞いていた貴乃花親方は諸般の事情もあり「ああ、これは自分がいじめて追い出されようとしたのだ」と感じ、「じゃあ俺はやめる」となった。それを突然聞いて慌てた田川の講演会の人たちは東京にやってきて涙ながらに「俺たちは何も知らされていない」と訴え、テレビは親方たちの「言った言わない」について一時間以上も話し合いを続けているということになる。全部がなんとなく行われており、それぞれが勝手に解釈した情報が飛び交っているというのが、村落的なガバナンスの欠点である。

このワイドショーの議論の中で、相撲ジャーナリストの人が面白いことを言った。相撲も一門を廃止しようという話が出たそうなのだがうまく行かなかったそうだ。ある程度票の取りまとめをしてくれる一門がないと「選挙がぐちゃぐちゃになる」というのである。そこから先はスルーされていた。誰もこれが重要だとは思わなかったのだろう。そして別の人が「そもそも誰がガバナンスなんて言い出したんですかね」と言った。「横文字で言われてもわからない」というのである。

もちろん相撲協会にはガバナンスはあった。それは一門というくくりの中で「なんとなく」行われていた。それがうまく行かなくなったので新しい統治方法が必要になっているのである。古い統治方法がうまく機能しなくなっている理由もなんとなくはわかっている。弟子の数が減っており外国人に頼らないとやってゆけなくなっているからである。相撲協会は引きこもるか、透明性の高いガバナンス方法を学ばなければならない。全てがなんとなくなのは、結局理事会で話し合ってこれを公式見解として一つに統一しないからである。

日本人は意思決定ができない。

相撲でガバナンスという言葉が出てくるようになったのは、例の暴力騒動以降のようだ。相撲は公益法人なので「ガバナンス」が求められるのだが、それができていないというわけである。では、ガバナンスとは一体何のことを意味しているのかと問われると、日本人にはうまく答えられない。にもかかわらずみんなで「やれガバナンスがなっていない」だの「日本にはガバナンスは向かない」だの言っているということになる。「公益法人にはガバナンスが必要だ」とみんななんとなく信じており、それぞれが勝手に解釈している。

実際の相撲協会は日頃から冠婚葬祭などで結びつき合っている地縁血縁的集団がないとどうやって理事長を決めていいのかすらわからない。地縁血縁の縛りがないと、ある人は貴乃花親方のように理想にこだわり続けるようになる。また、別の人たちは「票を入れてくれたら優遇してやる」とか「あの親方は普段から気に食わなかった」と言い出して選挙が荒れてしまうのであろう。

相撲協会が古いガバナンスに依存してしまうのはどうしてなのか。それはお金の流れに関係があるのではないかと思う。

「公益法人だからさぞかしたくさんの補助金を受け取っているのだろう」と考えて調べてみたのだが実際の補助金の額はそれほど大きくなさそうだ。つまり、透明性を持って扱わなければならないお金はそれほど多くない。一方、放送権料はかなりのもので一場所あたりの収益は5億円になる。これが年間6回も行われるので、NHKは30億円を相撲に支払っている。ちなみにこれは大河ドラマと同じくらいの予算規模なのだそうである。

大相撲は現在の仕組みを維持している限りにおいては黙っていても年間に30億円が入ってくる仕組みになっている。これを理事長が差配して山分けするということになれば取り合いになるのは必然である。一門という伝統の縛りをなくすと手近な親方を買収して多数派工作をしてあとは山分けということができてしまう。だからこそ一門のような固定的な仕組みを作って、これを相互監視によって防がなければならない。伝統はしがらみとして変えられないからだ。

ガバナンスは日本語で統治の仕組みと置き換えることができるのだが、英語由来の言葉なので英語経由で「後から検証可能な」というようなニュアンスが付帯している。一方、日本にも古くからの統治の仕組みがあるのだが「なんとなく緩やかにふわっと決まる」という日本流の仕組みが紐付いている。みんなが勝手に解釈できるので「自分が否定されている」という気分になりにくいのだろう。

ここにも過剰適応の問題がある。人は知らないものではなく知っているものに惹きつけられる。だが、その中で視野の外側にあるものが見えなくなってしまうことがあるのだ。

相撲は将来的に行き詰ることが見えている。スポーツファンたちはもっと透明性が高いところにゆく傾向があるからである。国際社会に接触しプロ化も進んでいるサッカーや野球には契約の概念があり努力が報われやすい。こちらのほうが実力どおりにの見返りが得られる仕組みが整っている。将来的にはメジャーリーグやヨーロッパサッカー界での活躍も可能である。

相撲は中学生で入門した後は相撲しかやらせてもらえないので幕内になる前に怪我などで廃業しても「全くつぶしがきかない」ことになる。今回の元々のきっかけになった日馬富士暴行事件では被害者に味覚障害が残った。相撲しか知らずつぶしがきかない上にちゃんこ屋も開業できない。暴力事件に向き合わなかったことで再び暴力が起こる素地は残されたままなので、今後、まともな親が相撲部屋に弟子を預けるはずはない。田川から来た泣いていた支持者の子供たちは貴乃花親方が去ったあとの大相撲を応援することはないだろう。「おじいちゃんたちが惨めな思いをした」のを目の前で見ているからだ。

また「モンゴル人閥」ができることで相撲協会のガバナンスは危機にさらされた。彼らはモンゴル人のままでは親方になれない。モンゴル人も日本の親方たちが見えないがそれは同時に日本人もモンゴル人社会が見えないということを意味している。だから日本人理事にはモンゴル人は管理できない。

これを緩やかに変えるためには徐々にお金の流れを変えてゆくべきなのだが、NHKの年額30億円は少し大きすぎる。これが貴重な財源であるということは確かなのだが、これがあるせいで将来の収入が閉ざされつつあるというとても皮肉である。スポーツ新聞を黙らせるには十分な金だが、相撲ファンを増やすには十分ではない。

実は同じようなことが日本の政治や社会でも起きているのではないかと思う。日本は債権国なので外国からお金を持ってくる必要がない。製造業が稼ぐ必要も農産物を売る必要もないのだ。すると外から新しい価値観を取り入れてでも海外にものを売ったり資本を調達しようという意欲は失われる。そこで、ガバナンスが必要なくなり「今入ってくるお金を好きな人だけで山分けにしようぜ」というような気分が生まれるのだろう。

問題は村と村の間にある


右側にあるシステム経由で投げ銭をいただきました。テスト的に導入したので入金があるとはおもわず、お礼をどうするか、どう報告するか、ご本人にお礼を出すかなどの詳細を考えていませんでした。毎日あまりあてもなく書いているのでこうした励ましはとてもありがたいです。なお文字数に制限がありメッセージは137文字で切れるようです。いろいろ行き届かず申しわけありません。


貴乃花親方の問題を見ながら、日本の村落共同体について観察している。小さな村落の集まりである日本社会では村と村は緊張関係にある。だから、村を超えた協力は起こらないというような話になりつつある。逆に緊張関係が破られてしまい一つ強い村ができると「ガン化して暴走する」ということだ。村構造には利点もあるが欠点も多い。しかし、日本人は村に慣れ過ぎておりそれ以外の社会統治の仕組みを村統治に置き換えてしまう傾向があるようだ。

観察の過程でわかったのは、すべての問題は個人に落とし込まれるということだ。問題を指摘して改革を起こそうとした人、組織の限界を超えて成長しようとした人などはいじめられて貶められることになる。その時に問題ではなく人格が攻撃されるのが常だ。

今回は貴乃花親方問題について考えたのだが、もともとのきっかけは「日馬富士暴行問題」だった。このブログのタグは今でも日馬富士暴行問題となっている。解決されるべき問題は暴力の根絶だったのだが、いつのまにか部屋の長である親方同士の人格攻撃に矮小化されて鎮圧されてしまった。その過程で日馬富士暴行問題を起こした構造上の問題は解決されることなく、八角理事長が再選されたことで「禊がすんだ」ことになった。

だが、同じような問題はいくらでも見つかる。例えば伊調馨選手の問題は、才能があり国民栄誉賞まで取った伊調馨選手が成長を求めた結果排除されかけたという問題である。大切に扱えばまだ金メダルが取れたかもしれないという問題の他に、成果をあげたのにさらなる成長を目指した結果組織に反逆して潰されかけたということになる。このため「あの人は選手なのか」と存在を無視されかけている。この裏には至学館という村が女子レスリングを支配しているという問題があった。日本人は個人は村の限界を超えて成長してはいけないという掟の中で過ごしており、もし限界に触れてしまうと追放の憂き目にあうということである。フジテレビの取材によると練習場所を提供する大学は極めて少ないそうだが、これは栄監督ら至学館派閥が女子レスリング強化選手の許認可権を握っているので大学側が「忖度しているのだ」という観測がある。この問題がうやむやになれば、成長を目指す日本の女子レスリング選手は海外に拠点を移さざるをえないかもしれない。

またマクドナルドでwi-fiがうまく動作しない問題の裏にはフランチャイズ店と本部がお互いに問題を押し付け合ってあうという事情があった。単にwi-fiをつなぐという問題を解決しようとするとなぜかマクドナルドのフランチャイズ店が本部に不信を持っているという事情がわかってしまうのだが、wi-fiを接続するというコンビニエンスストアでもできているような簡単な問題は解決しない。これは彼らが顧客サービスなどという「どうでも良い問題」には興味がなく、普段からの人間か安慶に夢中になっているからである。

このことから森友学園問題が解決しない理由もわかる。官邸(その実態は特定の経済産業省の官僚らしいのだが)が財務省に干渉することにより内部で問題が処理できなくなった。加えて迫田さんから佐川さんへの引き継ぎが行われてしまい問題の隠蔽に失敗したのだろう。つまりこれは村を超えて起きた問題なのだと言える。問題が大きくなっても安倍官邸や財務省官房(つまり麻生大臣のことだ)は問題を他人事だと考えている。さらに本省と地方組織という問題もある。問題の全容はさっぱりわからないのだが、ニュースを追っていると「誰が悪い」という指の差し合いが始まるので有権者は組織図に詳しくなってしまう。だが組織図は問題を解決しない。安倍首相はこれを財務省が勝手に解決すべき問題だと認識しているし、自民党の議員たちも「安倍政権を変えれば自民党に実害は及ばないかもしれない」などと考える。

問題はいつも村の外にあると誰もが認識しているのだが、実は村と村の際に落ちているということになる。

相撲、女子レスリング、マクドナルドの問題は村と村の争いごとだと考えられる。日本人はそもそも村の争いが大好きなので人間関係や組織図に注目する。ここで誰もが忘れているのは「競争力の低下」という結果だ。村の中の争いに夢中になると外が見えなくなる。例えば、暴力が蔓延している相撲に弟子が集まるはずはないのだから中期的に相撲は弟子を集められなくなるだろう。レスリングは才能のある選手を潰してしまうのだから国際競争に勝てなくなるはずだ。そしてマクドナルドの客はスターバックスやコンビニのイートインスペースへと流れる。内部闘争に夢中になり個人の人格攻撃を繰り返す裏では競争力の低下が起こるということになる。絶対にそうなる稼働かはわからないのだが、どの小競り合いを見ていても競争力低下の結果であり新しい競争力低下の原因になっている。

となると森友問題も実は透明性や法治主義の問題ではないということがわかる。内部で問題が解決できない組織を放置すると国際競争力が低下するのである。多分北朝鮮問題に日本が関与できないという問題は偶然起こったことではないのではないだろうか。同時に、安倍政権を変えたところで日本の競争力は高まらないかもしれない。もちろん、放置することはできないが、かといって変えただけでも問題は解決しないだろう。

問題の原因は実は人にあるわけではなく、村と村の際にあるからだ。

日本型村落の暴走はなぜ起こるのか

泰明小学校の狂気について考えた。最初は校長先生が暴走しているのだと思っていたのだが、どうやら銀座とその公立小学校の校長がいっしょになって狂気に蝕まれているらしかった。持続可能なコミュニティには再生産機能があるのだが、銀座ではそれが失われている。しかしながら過剰な選民意識とプライドのせいでそれに気がつかないばかりか、外から見ると狂っているとしか思えない思いつきを実行に移そうとするというのがその筋書きだった。子供というのはある程度騒ぐものだが、高齢化して活気を失いつつある街はそれを「品格がない」と抑圧する。

ここに見られるのは「社会の寛容性が失われてゆく」という過程である。社会の寛容性が失われると優秀な人たちが遠ざかるというようなアメリカ型の考察(クリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求める)も成り立つのだが、銀座では子供は騒ぐことも許されずアルマーニの服をきておとなしくしていなければならないのである。こんな街でゆっくり子育てができるはずはない。街はすでに中国人観光客頼みになっており、新住民も引き付けられないとしたら衰退してゆく他に道はなさそうだ。

なぜこのようになったのだろうかと考えた。どうやらコミュニティが持っているべき機能は何なのかというアイディアを日本人が持てなくなっていることに原因がありそうだ。そこで、もともとはGHQに原因があるのではないかと思った。GHQは日本人が狂った戦争に突入する理由をヨーロッパと同じように全体主義に求めた。しかしながら核となる首謀者がいないことに戸惑う。それはあまりにも謎めいていたのでカルト宗教的な怪しさを感じ、国家神道が悪いのだろうという結論にいたる。そこで、国家神道を中心とした集団主義を破壊する中で、日本の伝統的村落が持っていた再生産機能が破壊されたという筋書きだ。

こうした村落の斬り崩しは40歳代から50歳代の親の世代から始まった。団地に住む核家族がもてはやされて、料理などの伝統は全てテレビで覚えるというのが、今の70歳代の人たちが始めたライフスタイルである。例えば我々が伝統だと思っているおせち料理もデパートのマーケティングがテレビによって流布したもので、恵方巻きとあまり変わらない程度のありがたみしかない。これが行き着いたのが「土日には私鉄に乗って公園のようにデザインされた街に出かけ、ショッピングを楽しむ」というようなライフスタイルだ。私たちはこうして「一人ひとりが自由に幸せの形を見つけるのだ」という信仰を獲得してゆく。

日本型村落について考え始めた頃は、日本型村落をかなりネガティブものだと捉えていた。これも個人主義信仰と関係がある。バブル期ごろまでに成長した人たちは多かれ少なかれ「日本型の村落と集団主義には欠陥がある」と信じており「アメリカ流の個人主義こそがかっこいい」という刷り込みを持っている。考えを進めるうちに、むしろ村落的共同体に戻るのも処方箋としてはありなのかなと思えるようになるのだが、「日本は集団主義的であり近代に目覚めるためには個人が大切」という思い込みはかなり強い。

後ろに戻るにしても前に進むにしても、私たちが本当に持っていた共同体について理解した上で、それが今後も成り立ちうるのかということを考えなければならないように思える。

さて、ここまではGHQが悪いという前提で論を進めてきたのだが、必ずしもそうとばかりは言い切れないなと思った。昔、CS放送で「腰の曲がる話」というミニ映画を見たことがある。1949年に農林省が作った映画だ。もともと医療を呪い師に頼っていた村で女の人たちが立ち上がり共同診療所を作るという話なのだが、実は農業協同組合の設立を女性に訴えるために作られた映画である。旧弊な男性たちは当初は女が仕事を放り出して住民自治に立ち上がるのはけしからんなどと考えているのだが、やがて考えを改めざるをえなくなるという筋になっている。

このことからわかるのは、GHQは国家神道体制が悪いとは考えていても、集団主義が悪いとは考えていなかったということである。むしろ、住民自治を強めて自治に参加させた方が国家に騙されることはなくなるだろうという見込みがあったように思える。そしてそれに協力した国も「個人の考えをすり合わせて」などという面倒なことはいわず、みんなが協力して力や智恵やお金を出し合えば、もっといい暮らしができますよと言っていた。

そうなると、GHQを責めるのはお門違いだなと思える。つまり、我々の祖先は村落は当たり前にあるものなのでそれがなくなるとは考えていなかった可能性が強い。都市に出かけてゆく人たちというのは例外だと考えていたか企業が新しい村落になり得ると信じたのかもしれない。そう考えると共産党と公明党がイデオロギーによる共同体を作ったことも納得ができる。彼らは大企業に守られる立場にはなく、自分たちで共同体を再創造する必要があった。そのために選んだのが日蓮やマルクスといった彼らにとっての神々なのであろう。

その一方で、自治組織として作られた集団はどれも男性中心の既得権益獲得手段に変わってしまった。女性と再生産機能が否定され「戦いと規律」によって暴走してゆくのである。このことからいくつかのことがわかる。

  • 一概に、集団主義が悪いというわけではない。
  • 集団の中には男性的機能と女性的機能があるのだが、集団が暴走する過程で女性的機能が抑圧されてゆく傾向がある。(ジェンダー論として「女性」に再生産機能を割り当てることについては異論があるかもしれない)
  • これはGHQのような外からの圧力の結果として生じているのではなく、我々の社会に内蔵されているようだ。
  • こうした、コミュニティに対するある種の欠落はいわゆる左翼と呼ばれる人たちには顕著に見られる。「個人が大切」と考えるあまり、いつまでたっても考えがまとまらず、自民党に変わり得る勢力が作れない。

この欠落は保守の人たちの中に顕著に見られる。彼らは口では個は集団に尽くすべきと言っているが、実は搾取のために集団を利用しているに過ぎない。日本型村落に戻ろうと考えた時一番障害になるのが集団への回帰を求める保守の人たちだ。彼らのなかには、過剰な自己防衛本能と他人への懐疑心に苛まれた「自裁信仰」の持ち主か、安倍首相のように自分の家族の利益のためには他人を利用しても構わないという利己主義者しかいない。そもそも我々がどのようなコミュティを形成していたのかということには興味がなく、戦時下ででっち上げられた国民を戦争に動員するためのカルト的な物語を持ち出して「これが伝統である」と騒ぎ立てるばかりである。

当初このブログを始めた時には「社会が再び成長するためにはどうしたらいいのか」ということを考えるはずだった。しかし気がついてみると我々の社会は成長どころか現状維持すら怪しい状態いあるようだ。ここから抜け出すためには、私たちがどのような集団を形成していて、どこに向かいつつあるのかということをもう一度冷静に考えなければならないのではないかと思う。日本人が「居心地の良い空間で次世代をはぐくみ育てること」をこんなに軽視する理由がわからないからである。