日本人は責任をどのように理解したのか

レスポンシビリティ(対応性)という言葉に責任という訳語を与えたのは誰かということを調べた。前回紹介した橋本大二郎の短い文章の他に「西周が訳した」ということを証明できる資料はなかった。

そもそも荘子(そうし)が天子について書いた文献の中に天子の責任という言葉が出てくるようで、責任という言葉は新しく作られたものではなさそうである。明治時代に宮内省が編纂した辞書にも「責めと務め」というような定義が見られる。明治時代には民法の中でも負債を弁済する任のような意味合いで責任という用語が使われていたようだ。連帯責任も同じように負債に関する概念だったようである。

この他に責任内閣制という言葉がある。内閣が君主ではなく議会に対して責任をとるという制度だと考えられている。この責任はレスポンシビリティの訳語なので古くからこの二つの概念が同居していた可能性は高い。

日本語には古くから責任という言葉が存在し民法では「債務を弁済する義務」のように用いられれていたようだ。このため各種の国語辞典を見ると、どれも同じように「責を負う任務」というような定義が最初に出てくる。中にはこれをレスポンシビリティの訳語としている辞書もある。

英語では「対応性とか即応性」という言葉が当てはまると書いたのだが、ケンブリッジ辞典は「duty/義務」や「blame/非難」に結びつけている。国や社会によって何を責任とみなすのかについては若干の違いがあるようだ。

いずれにせよ、明治憲法は恩賜の欽定憲法なので政府が国民に対して説明をしなければならないというような意識は希薄だったのだろう。さらに庶民の生活の中では、概念的な「社会契約による権限委託」というのは理解されにくいが、具体的な「何か問題を起こした時に金銭的な補償をする」という行為の一部として責任が理解されていたと考えて良いのかもしれない。

ただ、日本人がまったく政治的な概念に理解や関心がなかったということはないようだ。西洋に比べて日本は遅れているということを実感した日本人は慌てて西洋の社会制度を学び始める。この中で概念的な人権や契約という概念をフランス語や英語で理解した人たちがいた。日本人は何をかんがえてきたのかというNHKが出している書籍によると、日本にはフランス流の民主主義を模索する自由主義者とイギリス流の立憲君主制を模索する立憲改進という二つの民主化勢力があったそうで、草の根的な民権運動も存在した。自由主義者だった中江兆民が社会契約の考え方を日本に紹介したとき日本には「社会」という考え方はなく、民の約束という意味の民約という言葉が使われたそうだ。

「原語でコンセプトを理解できてすごい」という見方もできるし「余計な概念がなかったのですんなり受け入れることができた」という見方もできる。今回観察している「責任」をめぐる諸概念は契約と権限移譲という基本コンセプトを理解した上で英語で読んだ方がわかりやすい。これを日本語に訳した上で漢字の意味に引っ張られると話が複雑になる。漢字の縮約能力が仇になっていると言えるだろう。

いずれにせよ「経済的補償」の一環として責任という概念を理解した日本人はGHQが憲法を書いた時に不用意に同じ訳語を使ってしまったと考えられる。内閣がグループで国会に対応するという意味を「連帯して責を負う」という法的補償の概念で理解してしまったことにより誤解が生まれる素地が作られた。これは内閣は天皇ではなく国会(つまり国民)に対応するのですよということと首相が勝手に決めてはいけませんよということを言っているのだが、これを訳者がどのように理解したのかは今になってはよくわからない。

「政府は国民から社会的合意に基づいて作られた概念的な契約によって権限を委託されている」という理解はさらに遅れた。昭和の時代に「政府」の問題は行政責任の問題だった。つまり公害を放置した時に国が補償してくれるのかという具体的な補償の問題として政府の責任を捉える人が多かった。

このため平成が終わりを迎えつつある現在でも、アカウンタビリティ(説明責任)という言葉は辞書に載っていない。現代用語の基礎知識に「行政責任」と「アカウンタビリティ」という項目が立っており、未だに「現代用語」扱いになっている。

これらの言葉がいつ使われ始めたのかということはよくわからなかった。Google Trendは2004年以前の傾向が調べられないのだ。いろいろ調べると「企業統治用語」として日本語に定着したのではないかという可能性が見えてきた。

アカウンタビリティは「企業の株主に対する説明責任」というコンセプトで使われ始めた。同じように最近使われるようになった言葉に「コーポレートガバナンス」や「コンプライアンス」がある。もともと持ち合いが多く株主に対する責任が曖昧だった日本企業の中に西洋流の「契約と説明責任」とか「社会責任」という概念が広がっていった頃である。日本でこれが顕著になったのは2000年代初頭の村上ファンドやライブドア(堀江貴文)あたりではないかと思われる。お金が絡んだ方が日本人の理解は早いのだが、これが道義的責任とか社会的責任となると途端に暴走が始まることがわかる。

例えば連帯責任という言葉はもともと「連帯保証」という債務に関する用語だった可能性が高いのだが、これが軍隊やスポーツチームなどで使われるようになったという経緯がある。この連帯責任という言葉は軍隊では見せしめにチーム全体を殴るための口実に使われていたようで、用例がいくつも出てくる。

ここに出てくる文章を読んでいると気分が悪くなるが、要するにマネージメントの失敗を八つ当たりの暴力によって目下に押しつけるのが「連帯責任」だ。しかしこれを制裁と呼びたくないので「体裁のある」用語を使ったのではないだろうか。これが戦後になって体育会系のマネージメントに応用されたのではないかと考えられる。お金のやり取りがない時に通貨として使われるのが村八分のような社会的な非難と制裁という名前の暴力なのである。

この二つに共通するのは現場が「金銭的なマネジメント」に関わっていないという点である。兵隊が補充されてくる場合「兵士を雇うことに関する費用対効果」は考えなくてもよい。すると現場マネージャが暴走して私的制裁を練り込んだマネジメントを行うようになる。日本のスポーツの近代化が遅れたのも「無償の努力は美しい」というアマチュアスポーツが過度に賞賛されたからだ。すると現場のコーチが思い込みで選手をしごくというのが当たり前になってしまう。こうした現場で責任が曖昧になると「連帯責任」という「無責任」が横行することになる。

自己責任という言葉はその最たるものである。もともと債務関連の言葉だった。これが集団で責任をおう連帯責任という考え方になった。行政責任という言葉も生まれる。これは借金ではなく保証金という形での支出を伴う。行政責任はないという意味合いで、だったら誰に責任があるのかということになる。本来なら会社などの集団に補償責任を負わせたいのだが、フリーランスの場合には問責する主体がないので「自己責任」という言葉を無理やり作って押し込んでしまったのだろう。しかしこの「無責任用法」が生まれてしまうと一人歩きし、力が弱いものに対して「お前が悪いんだろう」と単純化されて使われるようになった。政治家など力のある人に「自己責任だ」という言い方はしない。

日本人はこのようにグループ間のお金のやり取りを通じて社会契約的な概念を理解していることがわかる。これが溶解してしまうともっと概念的な「社会」を作ってルールを普遍化するか、個人と個人の間の無秩序な指の差し合いに陥ってしまう。日本人は後者を選んでおりそれが現在の混乱の一員になっている。

自己責任という言葉はいつ生まれたか

自己責任という単語がある。例えば生活保護を受けている人が困窮しているのは自己責任であるというように使われる。説明責任という言葉はいつまでたっても定着しないが、自己責任という言葉は「正しく」行き渡っている。理由を考えたのだが、これは責任という言葉が日本語では独自に解釈されているからではないかと思った。責任はやまと言葉の「〜のせい」の訳語なのだ。




まず、レスポンシビリティの訳語として責任という言葉が当てられたというところまでは確認ができた。原典は確認できないが明治時代に西周が訳したという話がある。橋本大二郎のブログに「対応力」とでも訳すべきだったという話が出てくる。どうやらこの<誤訳>はその筋では有名らしい。

そこから連帯して責任を負うという用語が生まれる。日本国憲法に連帯して責任を負うという言葉があることから戦前から使われていたことが伺える。

内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。

The cabinet, in the exercise of executive power, shall be collectively responsible to the diet.

この時にすでに日本語には責任を持つではなく「負う」と書かれているので負債めいたニュアンスがあることがわかる。英語は集団で対応しますよという言い方になっている。これは内閣総理大臣が一人で対応するのではなく内閣全体が対応するのですよということを言っており、権限についててほのめかしている。内閣には固有の権限(exercutive power)があるが、総理大臣一人に好きなようにさせませんよというニュアンスがあるのだが、なぜか日本語では削られている。そして「負う」という動詞が充てられている。原文は形容詞であえて日本語に訳せば「責任がある」となる。だから「固有の権限を行使するにあたって、内閣は国会に集団で対応する」が正しい訳語になるのではないだろうか。

余談ではあるがresponsibleにはforという使い方とtoという使い方があるそうだ。forは物事に対して使われ、toは人に対して使われる。そしてこのように「〜に対して(説明などの対応をする)責任がある」という言い方になる。

この「〜に対して責を負う」という言葉は集団主義的な使われ方をすることが多かった。体育会系で「チームの連帯責任」などということがある。責任の所在が曖昧になっており、なにかあったら罰を与えるからお互いによく見張っておけよというような意味合いがある。この集団が溶解することで、自己に責務を負わせるという考え方が出てきた。これが「自己責任」だ。ではいつ頃から自己責任という言葉が多用されるようになったのだろうか。

英語では自己責任という言葉はかなり限定的に使われる。本来人間は神様から治癒能力を与えられており投薬なしでも病気が治ると考える人たちがいる。彼らは病気に対して反応できるという意味でセルフレスポンシビリティという言葉を使っており、2004年に限定して調べた時にもそのような意味で使っている文章が見られた。この「セルフ・レスポンシビリティ」を引き寄せの法則などに関連付けて「自分の幸せには自分が責任を持つべきだ」などと使っている文章は見かけた。本来の英語の意味が誤解されているのか、原典通りに理解しているのかはよくわからない。

この言葉が「お前のせいだ」という意味を持つようになったのは比較的最近のことだ。Google Trendで自己責任を調べると2004年に山があるのが確認できる。この時に書かれた共産党のウェブサイトが見つかった。イラクの人質事件は自己責任であるという政府の主張を糾弾したものだ。いくつか調べたがどれも「イラク」との関連の中で使われていた。

イラクで数名の邦人が拘束された。日本政府には彼らの人命を守る義務があるのだが実際には何もできない。そこで「勧告を無視して危険を承知で出かけて行ったのだから結果的に救出できなかったとしても政府のせいではない」という論が展開された。これが2004年なのだ。こうした使い方が昔からあったのかはわからないが、自己責任が今のように使われるようになったきっかけのひとつは小泉政権が「政府の責任を被害者に転嫁した」ことにありそうである。

「政府に責任がある」というのは「対応しなければなりませんよ」とか「そういう機能があるんですよ」という意味なのだが、日本人はこれを「イラクで人質が誘拐されたのは政府のせいだ」と取る。そこで政府は「いや、のこのこと出かけていった人たちのせいだ」と言い訳した。それに追随したマスコミが騒ぎ出し「帰ってきた人質たちを非難してやろう」という空気が生まれ、実際に彼らは避難にさらされることになった。ハフィントンポストのこの記事を読むと当時の激しさが少しだけわかる。

2015年には後藤(健二)さんというジャーナリストが「責任は自分にある」と宣言してイラクに行って実際に人質になり殺された。これが名詞化されて「自己責任という言葉が一般化する」という考察がある。QUORAで聞いたところ「自己責任」に当たる英語は、at one’s own riskではないかと指摘してくれた人がいた。リスクを取るという意味だがそのリスクの中に他人から責められるというニュアンスはない。しかし、日本には責任を負うという概念があり、その中には何かあった時には「ムラ」が叩いても文句を言わないというニュアンスが含まれている。

現在、私たちはセクハラ問題や強制わいせつ問題などで「被害を受けたとされる女性にも責任の一端があるのではないか」という議論をしている。いわば自己責任論である。イラクに出かけて行った人たちに同じような視線が向けられていたことがわかる。とにかく誰かを叩きたいという日本人の心象がこの「自己責任論」には色濃く映し出されている。常に問題を「誰かのせいにしたい」という気持ちがあるのだろう。

責任は「説明や対応ができるように準備しておく」という概念であり「責を負わせる」という罰則概念ではない。だが日本語の責任という言葉には「責」が入っているので「誰を非難すべきか」という議論に陥ってしまう。叩く資格は「普通で善良な暮らし」をしているという簡単なもので、叩くにあたって実名を公表する必要はない。これが、結果的にではあるが過剰さの要因になっている。

その一方で「職務を明確にして対応する」のはとても苦手である。それは役割分担が不明確で誰が何を決めているのかよくわからないからだ。レスポンシビリティは明確な役割分担と権限移譲によって生まれるので、それがない社会ではそもそも責任の取りようがないのである。だから説明責任という言葉はいつまで経っても日本には定着しない。

連帯責任の源流は連座制や五人組などの制度だと説明する人たちがいる。中国起源概念が日本に取り入れられたという面白い議論をOKWebで見つけた、またスポーツの連帯責任について考えているコラムの中に河合隼雄の母性集団・父性集団という概念が出てくる。今回の考察では日本人は契約概念が理解できないという見方をしているのだが、河合は責任の所在が曖昧な集団を母性集団として区別しているようだ。

責任の所在が曖昧な社会では連帯責任という言葉がよく使われる。野球部員がタバコを吸っているのを見つかると甲子園に行けなくなるとか、正座させられて殴られるというようなものが一般的な使い方である。今回のTOKIOの騒動でも連帯責任という言葉が使われた。テレビでは疑問を持ちつつも流されてしまったコメンテータが多いようだが、個人が責任と向き合えなくなると批判する人はいなかった。周囲の人たちは個人が償うためのサポートはできるが、向き合うのはあくまでも山口達也さんなのだが、母性的(あるいは体育会的)な傾向の強いジャニーズ事務所ではどこまでも責任の所在や一体何にたいする謝罪だったのかということは曖昧にされ続けた。

このように役割が曖昧なまま結果的に集団を叩いて管理をしていたという事情があり、集団が溶けてしまった現在はそこから浮いてしまった人たちに必要な権限は与えず「個人の資格で叩く」行為が蔓延している。その発端になったイラクで叩かれたのは会社に属している人たちではなくボランティアという個人だった。仮に企業が派遣していたとしたらその企業が叩かれていたはずなのだが、叩く企業がないので個人を叩いて「自己責任だ」と言っていたことになる。

だが集団だと責任を取るのかと言われると疑問もある。自衛隊は「戦闘状態にある」という日報を送り続けてきたのだが、それはすべて隠蔽された。そして最終的にはできの悪い通販番組のように「それは個人の感想です」という注釈をつけられて「自衛隊員は戦闘状態だったと言っているがあくまでも個人の感想にすぎず、あれは戦闘状態ではない」などと言い出している。日本では個人は非難の対象にはなるが権限は与えてもらえず発言も無視されてしまうのである。

いずれにせよ「連帯して責を問う」という伝統的な考え方があったからこそ、個人で責任を負うという考え方がで出てくるわけだ。だが、個人には対応力はないので個人責任という言葉は不当なものになりがちである。それに加えて「結果的にリスクを負う」くらいのことはあっても、集団の憂さ晴らしのために叩いて良いという根拠はどこにもない。

だが、私たちは不思議なことにこの自己責任という言葉をすんなり理解して、あたかも昔からあった言葉のように使うのである。

バベルの塔に住む日本人は民主主義を理解できない

荒れる学校について考えているうちに、そもそも日本語には民主主義に関する用語の理解が欠けているということがわかってきた。これについて考察しているブログは多いのだが、議論そのものがあまり注目されてこなかった。例えば責任とResponsibilityという用語で検索するといくつかの文章を読むことができる。

今回は「先生が体罰という抑止力を失ったために学生がやりたい放題になった」という投稿をきっかけに、荒れる学校について考えている。この問題を解決するためには、まずコミュニティをどう保全するのかを話泡なけければならない。しかし、話し合うための言葉すらないうえに問題を隠蔽したがる人たちもいる状態では話し合いすらできない。

先生や保護者が協力して適切な監視体制を作ったり生徒に自主性を持たせれば暴力を使わなくても問題は解決するのだが、日本人は民主主義社会が持っているはずの協力に関する用語を持たないためにお互いに意思疎通ができない。これはバベルの塔に閉じ込められた人たちが協力して塔を建設できないのに似ている。

前回のエントリーでは学生か先生に権限を与えるべきだと書いた。ところが日本語でこの議論を進めようとするとややこしいことが起こる。権限と責任という二つの言葉だけを見ても、これを好きなように定義する人たちが現れるからだ。「日本人がバカだから民主主義が理解できない」という言い方をしても良いのだが、英語の表現を漢字語に置き換えた時に生じた問題が修正できていない。

例えば先生の権威を認めるべきだと主張すると、権威という言葉から絶対王政の権威のようなことを想像する人が出てくる。これは言葉に「威」という漢字が含まれているからだろう。畏れて従うというような意味がある。しかしこれを英語で書くと先生の権限を認めて委譲すべきだという意味になる。権限も権威も「オーソリティ」の訳語である。この言葉はラテン語からフランス語を経由して英語に入った。元々のラテン語の意味は「増える・増やす」ということのようだ。これが「書く」という意味になり、書かれたものを引用して「誰もがそうだな」と思える概念を「オーソリティ」と呼ぶようになる。ここから派生して、権限を裏書きして認めることも「オーソリティ」と呼ぶようになった。

つまり、民主主義的な用語では「社会的な合意のもとに先生に学校を管理する権限を認めること」を先生に権威を与えるべきだということになる。だが漢字に「威張る」を思わせる言葉が入っているので「先生は偉いから逆らわないでおこう」という意味に取る人が出てくる。逆に先生は税金で雇われているだけであり、自分たちの使用人だから威張られるのはたまらないと考える人も出てくるだろう。

「権限」を「威張ること」と考える日本人は多い。例えば日本レスリング協会は「自分たちは選手を選抜して指図する正当な権利がある」と考えており問題になっている。パワハラが認定されたあとでも間違いを認めない上に、スポーツ庁には平身低頭だが選手に対しては「威張って」しまう。これは権威を間違えてとらえている一例といえる。このように何かを遂行するために権限を与えてしまうと人格そのものが偉くなったと考える人が多い。「権威」とか「権限」の裏にある契約や権限移譲という概念がすっぽり抜け落ちてしまうからだろう。

そんなの嘘だと思う人がいるかもしれないので、英語の定義を書いておく。慣習的に認められた権威はあるが、最初に書いてあるのはendorse(裏付け)である。語源の「書く」という概念がそのまま受け継がれているように思える。

: to endorse, empower, justify, or permit by or as if by some recognized or proper authority (such as custom, evidence, personal right, or regulating power) a custom authorized by time

続いて責任という言葉についても考えてみよう。責には「咎める」という意味合いを持っているので、どうしても「何かあったときに責められる役割」というように思ってしまう。だから責任を取るというのは叱られることか辞めることを意味することが多い。これも英語の意味をみてみると、元々の意味は法的な説明を求められたときに反応ができるように準備をしておくという意味になる。だから反応する・対応するという言葉の派生語が使われているのである。

例えば日本語ではよく自己責任という言葉が使われる。これは何か悪いことがあったらそれはお前のせいだから俺たちは知らないというような意味合いで使われる。これは自己を責め立てるという言葉の響きのせいだろう。しかし英語で検索すると「生命は治療のために必要な力を全て持っている」という意味しか出てこない。ある界隈で使われている特殊な用語でしかない。そもそも他人に説明するという意味の言葉なのでそれが自己に向くことがないということなのではないかと思う。連帯責任という言葉もレスポンシビリティの訳語にはならない。これにはグループで連帯的な法的責任を負うという意味でライアビリティが当てられることはあるようである。英語と日本語ではこれほど違いがある。

語源を調べてみるとわかるのだが、これらはすべてラテン語を経てフランス語から英語に入った概念だ。それを日本人が取り入れる時に「法律で定めてはっきりさせておくこと」「記録を残して説明できるようにしておくこと」「役割を明確にして説明できるようにしておくこと」をすべて一括して「何かあったら咎め立てをすることだ」と理解してしまい「〜責任」という用語を当ててしまったことがわかる。つまり法的な契約の概念がなかった当時の日本には「咎め立てる」という概念しかなかったのだろう。現在はここから「では咎められなければ何をやっても良いのだな」という自己流の民主主義の理解が広がっている。

生徒が責任を持つべきだと英語でいうと、生徒が自分たちの意思でクラスの運営を決めてその結果にも責任を持つという意味になる。このためにどんな権限が必要なのかということが議論されることになるだろう。だが、これが日本語になると、何かあった時に生徒をグループで叱責するという意味に捉える人が出てきてしまうのである。

ついでなので他の「責任」についても見てみよう。

説明責任という言葉がある。accountabilityという。もともとは「数える」だが、これは借金などの記録をしておくことを意味していた。つまり貸し借りを数えた帳簿を作っておいていざという時に説明・証明できるようにしておくことを意味している。これがビジネス全般に広がり、何かあったときに説明できるようにビジネスの詳細を記録することをaccountabilityというようになった。これも「説明系」の言葉であり、説明に失敗したら叱られるという意味ではない。また、相手の疑念に答えずに言葉遊びでごまかすことも説明責任とは言わない。問題は相手の疑念であり、その背景には相手が権力を移譲しているという前提がある。現在の安倍政権が説明責任を果たさないのは民主主義が一時的・条件付きの権限移譲であるということを理解していないからだと考えられる。

こうした契約意識の希薄さは国会議員を交えた政治議論にも多く見られる。

国民は天賦人権ばかりを強調するが国を守る義務を負うから自衛隊に入って叩きなおすべきだという意見がある。権利と義務が非対称でありその間のつながりが一切説明されていない。これは権利と義務を個人的な「貸し借り」概念に置き換えて、これだけ貸してやっているのだから借りは兵役で返すべきだというように解釈した上で、都合よく「俺に従うようになるようにお前の根性を叩き直している」という主張に利用しているからだろう。

この権利義務関係は「税金を払って恩を売っているのだから、当然あるべきサービスを受け取れる権利を持っている」という貸し借りの概念に置き換えられている。途中のプロセスが抜け落ちてしまうので、過剰な権利意識と呼ばれるのだろう。

契約概念に置き換えて「権利・義務」を厳密に使うと、「日本国民は私有財産を持つ権利があるから同時に他人の財産を尊重する義務がある」のように裏表概念として用いるべきだということになる。父兄は子弟に教育を受けさせる権利があるのでそれが行使できるように適切な努力を払うか誰かに権限を移譲して環境を整えてもらうべきだということになる。また父兄は自分たちが持っているのと同じ権利を他の子弟の父兄にも認めるべきだからお互いに協力して他人の権利を遵守する義務を負うということになる。過剰な権利意識にはつながらないし当たり前のことであり「日本人には天賦人権などおかしい」という話にはなりようがない。つまり「天賦人権などおかしい」と言っている人はそもそも権利・義務という概念をよく理解していないのだろうということになるだろう。

学校の問題は「自分たちの権利を行使するためには他人の権利を守る義務もあるということなのですよ」というだけの単純な話なのだが、権利だけを主張するわがままな人が増えたからみんなに兵役の義務を課して自衛隊にぶち込んでしまえなどということをいう人がいては却って問題は複雑化する。本来は法律について理解すべき国会議員が却って議論を混ぜかえしているという残念な状態にあるのだ。

こうした問題が起こるのは、封建的な政治意識しか持たなかった日本人が契約概念を理解しないままで英語を適当に訳してしまったことに原因の一端があるようである。