なぜ日本の戦争責任の議論はぐちゃぐちゃになるのか

先日、第二次世界大戦は侵略戦争だったのかという議論に回答した。回答していて「納得感は得られないだろうなあ」と思った。日本人が考えているオトシマエのつけ方と世界の考え方があまりにも違うからである。




そこで別の立場から回答を書いたところ高評価をたくさんもらった。これはこれで勘違いされているんだろうなあと思う。日本だけが悪いわけではないという回答なのだが、日本だけが悪いわけではないのだから反省しなくてもいいというように捉えられるのではないかと思ったのだ。この辺りが「空気が支配する社会」の難しさだ。集団圧力ですべてが決まってしまうので、内省・総括が起こりにくいという特性があるようだ。

日本人は多分この議論で「侵略戦争は悪いことだから謝罪してしまうと近隣国に頭が上がらなくなる」と考えているのではないかと思う。日本人は一度間違えた人はとことん叩いてもいいことになっている。それが次の掟破りの唯一の抑止力になっているのである。善悪の基準を内部に作らないので、結果的に騒ぎになったことが再び起こらないように抑止力が働くのだろう。そして、侵略戦争は悪いことに決まっているのでありそんなことをする人は悪い人なのだということになると、侵略事実そのものが認められない。

ところが欧米ではそうは考えない。例えばイギリスはインドを独立させてあげたことになっていて賠償はしていない。アメリカが独立した時も経済的な問題は話し合っていないそうだ。アメリカの場合は複雑で、実際に独立した人たちは白人であり征服者だった。つまり謝罪は現地にいた人たちになされなければならない。

例えば、アメリカ人はハワイ王国で革命を起こし最終的にハワイを併合してしまっている。勝手にルールを決めてアジア系とハワイ系の投票権を奪ってから「民主的に」王を追い込んだのだそうである。後になって謝罪はしたが補償はしていないようだ。つまりごめんなさいとは言ったが経済的な責任は取らなかった。決議は「今後もよく話し合ってくださいね」というだけである。同じようなあいまいな決着は本土のネイティブアメリカンとの間にも結ばれているようだ。

大陸欧州も同じようなことをしている。

ベルギーはコンゴを支配してかなりひどいことをした。最初は王様の私的なプロジェクトでありのちにあまりにもひどすぎるということになった。しかしベルギーはコンゴに経済的な補償はしていないはずである。フランスはハイチが独立した時に経済封鎖をしてハイチに賠償金を支払わせている。「奴隷所有者の権利を侵害したから所有者に賠償しろ」というのだ。ハイチは経済封鎖されており貿易ができなかった。だから山林を切り開いて木材を売ったそうだ。そのため今でもハイチは極貧国であり山は禿山になっているそうだ。やっていることがメチャクチャなのだ。

共通点は「その場その場で交渉をしてケリをつけている」という点である。そのため条約を結んで講和を確定してしまう。そして交渉が完全でなければ過去に遡って謝罪はするのだが経済的な賠償までは認めない。

「侵略戦争が悪い」となったのは、植民地獲得戦争に収拾がつかなくなり戦線がヨーロッパに拡張した上に非白人国家(つまり日本のことだ)まで参入してしまったからだろう。ヨーロッパの名誉クラブだった主権国家が非白人国に波及すれば収拾がつかなくなる。各地の植民地が賠償を求めて主権国家として戦争を起こせば多額の賠償も要求されかねない。そこで「植民地獲得は悪いことだったからみんなでやめましょう」という空気を作り、植民地を解放して「あげた」ことにした。

この時、東京裁判では旧植民地(インドとフィリピンが入っている)にコミットさせた上で、日本は悪いことをしたと断罪した。だが賠償責任だけは負わせなかった。日本は「なんだか助かった」と思ったのかもしれないが、そんなことをすればヨーロッパの国々は旧植民地からの訴訟リスクにさらされることになる。つまり、日本は自分たちが犠牲になってヨーロッパの総括・清算にお付き合いしたという事情がある。

つまり、ヨーロッパは自ら解放してあげたのだから賠償してあげなくてもいいが、日本はその機会を奪われたことになる。その上欧米は「日本からアジアを解放してあげた」ということにもなっている。

歴史を調べるのは楽しかったのだが、こんなことをいくら調べても日本人には響かないだろうなあと思った。例示したら例示したで「植民地賠償しないというのが国際法上正解なのだ」と言い出す人が出てきそうだ。つまり日本は悪くないという議論が展開されるのだろう。日本人はどこまでも「何が正解で、どっちが良くてどっちが悪いんだ」ということを知りたがる。

実際には日本だけでなくどの国も植民地に多かれ少なかれひどいことをしている。日本の場合は植民地と呼ぶのは感じが悪いからそう呼ぶのはやめておこうという配慮もあったようで朝鮮半島など「外地」の扱いなどがかなりあいまいになっている。だがそれも内向きの理屈であり非支配地には意味のない話だ。

欧米先進国は「その場その場で状況を確定させつつ、利権も確保しつつ、後で蒸し返されないようにいろいろ協力してあげる」というようなことをしている。つまり、旧植民地との関係をマネジメントしつつ現在の主権国家体制を維持している。

日本も本来なら過去にやったことは間違っていたと謝罪した上で、経済問題はきっちりと線引きをすべきだった。だが、このあいまいさに日本人自身が耐えられなかったのだろう。政権内部にも「全部悪くなかった」などと言い出す人が出てきた。すると「日本は全然反省していないではないか」とこれを利用する人たちが出てくる。

日本は行きがかり上列強になってしまったという歴史がある。だがこの事実が消えるわけではない。今からでも冷静に歴史を学び直してより良いご近所付き合いの方法を学ぶ必要がある。そのためには「全面的にいい国も悪い国もない」ということから認識をあらたにすべきではないだろうか。

香港とれいわ新選組 – 気に入らない政治決定に従わないのはズルいのか

香港のプロテスターが170万人を超えたそうだ。イギリスでは香港人にイギリス市民権を発行すべきだという議論があるそうである。ガーディアンが伝えており、日本語でも補足記事が出ている。




もし香港にイギリス人がいるということになればイギリスは保護名目で香港に干渉できるようになる。だがこれはクリミア半島にロシア人を送り込んで「住民の意思でロシア帰属を決めさせた」というのと同じことである。ハワイも同じような理屈でハワイ王国から独立した。本土から白人が大勢押しかけてルールを変えて「民主的に」ハワイを独立させたのである。つまり、また「いつもと同じやり口」新たな国際紛争が生まれることになる。

とはいえ、香港を全く見過ごすわけには行かない。彼らは民主主義・自由主義という新しい宗教に触れたいわば自由主義社会の同士である。自由主義社会は信仰告白の意味も込めて、なんらかの連帯を示す必要があると考えて当然である。

原因になっているのが中国的な限定的民主主義であることは明らかだ。香港にも普通選挙制度はあるそうだが親中国的な職能団体によって「補正」されてしまう。だからいつまでたっても不信感がおさまらない。ゆえにこの問題を根本的に解決するためには香港に完全な自治権を与えなければならないことになる。「逃亡犯条例はもうやりませんよ」などといくら言っても無駄なのである。

この件について「香港のデモは一部住民のわがままである」という論評が聞かれる。日本は体制維持派と体制不満派がいつまでも折り合わないという勢力図が長い間固定されている。このため不満派に対する蔑視感情があるのだろう。不満派といっても実際には日本の経済体制には組み込まれていた。彼らは正社員であり組合を組織することができていたからである。

普通選挙には住民を結果にコミットさせることにより暴動を抑えるという役割を持っている。権力者目線に立つと「主権者的な満足感を演出しつつうまく管理する」ことが重要になるわけだ。

日本では普通選挙が実施されているのだから、本来的には国民が主権者である。だから、国民は結果が気に入らなくても結果責任を受け入れなければならない。内政の場合は経済政策の失敗を受け入れなければならず、日本が他国に対して加害者になった場合も加害者責任を問われる。そして責任を問われるのは政府ではなく国民である。

日本の場合第二次世界大戦の総括をしておらず、戦前の主権者である天皇は責任をとらなかった。このため主権者というものがどのような存在なのかということは議論されておらず、主権者意識は薄い。それでも本来的には選挙に行かなかったからといって主権者の責任からは逃れられない。よく「難しいことはわからないから選挙には行かない」という話がさも当然のように語られるが、そんな理屈は通らないはずなのだ。

ところが日本では面白い現象が起きている。れいわ新選組の支持率が共産党と並んだそうだ。投票率が50%を取った選挙というのは「この政治には関わりたくない」という人が半数を超えているということである。彼らは選択肢がないと諦めていたが選挙後にれいわ新選組を見て新しいソリューションを見つけたことになる。

理屈上主権者責任を問われるとはいえ、小選挙区制のもとでは選択肢は限られている。そしてほとんどは結果が決まった出来レースである。政治家も土着的理解で民主主義を扱っているが、有権者も土着的に「そんなの関係ない」と思っている。だが、正社員中心の経済構造が崩れるに従って足元から「出来レース的な政治」が溶け始めている。

れいわ新選組によって「永田町プロレス」が通じなくなるというところに惹かれるインテリ層も多いようだ。それくらい潜在的な破壊願望が強いのだが、どういうわけか日本人はシステムを内側から簒奪して欲しいと考えるようだ。つまり、正規のプロセスに従って政治を撹乱してもらいたがっているのである。ただ、選挙中にTwitterでみたレスポンスは「目からうろこが落ちた」とか「涙が出た」など感情的なものが多かった。実は感情的な反応なのだが合理的な演出を好むというところに日本人らしさがあるように思える。

選挙の前にはれいわ新選組がほとんど語られることはなかったのだが、選挙後露出が増えたので初めて認知したという人も多いのだろう。実際はともかく山本太郎代表のパリッとしたスーツ姿をみて「意外と筋が通っている」と感じた人も多かったのかもしれない。あれだけで支持率が二倍になるということが起きてしまったのだ。

有権者が政治に興味を持たずかといって表立って抗議もしないという状況下、二大政党制で選択肢を限るのは永田町にとっては都合が良い制度のはずだった。だがそれは「普通選挙制度」そのものを危うくしているのかもしれない。有権者は建前通りには動いてくれない。実質的には香港と同じような状態が生まれつつある。いつまでも政治に納得しない層が出始めているのである。

天皇でさえ逆らえなかった「空気」と主権者意識

昭和天皇は何を語ったのか ~初公開・秘録「拝謁(はいえつ)記」~を見た。時節柄問題が多いなあと思ったのだが、Twitterではそれほど評判にはならなかったようだ。




筋自体は単純である。宮内庁初代長官の残していた記録を元に昭和天皇が自身の戦争責任について国民に訴えかけようとしたが、それを吉田茂に止められたというものである。これだけを見ると「昭和天皇は戦争について反省したがっていたのに吉田に邪魔されてかわいそう」という像が得られる。つまり吉田が悪いということになる。

どうしても時節柄NHKはこの問題を利用してどう世論操作をしようとしているのだろうなどと思ってしまう。すると全てが疑わしく見える。吉田は経済を優先しアメリカの防衛力を「利用しようとしていた」と得意げに語る場面がインサートされている。一方、昭和天皇は改憲・再軍備派であり吉田にそのことを言った方がいいのではないかとして長官らに制止されている。象徴なので政治的発言はできませんよということである。

この憲法改正の件は「反省を制止された」という筋とは直接関係がないので、逆にこれを言いたかったのでは?などと思ってしまった。つまり、天皇は改憲派だったのだから改憲すべきだという主張に読めるのだ。

NHKがなぜこのような構成にしたのかはわからない。安倍政権に忖度したのかもしれないが、逆に護憲派に利用されるのを防ぎたかったからなのかもしれないとも思える。

番組は、戦争を止められなかったのは軍が下克上で天皇の意に沿わなかったからという筋立てになっている。つまり、軍というのは暴走するから憲法第9条は改正すべきではないという護憲派に「政治的に利用される」可能性がある。番組では軍が悪いわけではなく軍閥が悪いというような言い方になっている。現行憲法は内閣が責任を持ち自衛隊には権限がないのでこの点はクリアになる。

なぜ、NHKが特定の人たちの政治的宣伝のために作ったのではないと思える部分もある。保守に評判が悪い東京裁判史観がそのまま入っており、これは保守の人たちにとっては攻撃材料になるだろう。南京大虐殺は所与の事実として扱われて、天皇はそれに憤っている。

ではなぜ天皇は戦争を止められなかったのか。権限の上では大権がありなんでもできたはずだった。昭和天皇はこれを「勢の赴くところ」と言っている。つまり「そういう空気ができていて誰も逆らえなかった」というのだ。さらに、開戦時にも今や不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至る。洵(まこと)に已むを得ざるものあり。豈朕が志ならんや。」と言っているそうだ。不幸にして戦争になっちゃったが仕方がなかったのでありこれが私の志であるはずがあろうか?という意味だそうだ。

番組の中では、開戦の時に「仕方ないけど本意じゃなかった」と言っているから再独立時にも「反省している」と言えばわかってもらえるんじゃないかというようなことが延々と話し合っている。そして、最終的には「本意じゃなかったかもしれないけど、ハンコを押しちゃったんだから仕方ないですよね」と決着する。長官は民間出身でありの契約という概念を理解していたが戦前の宮中にはそれがなかったということになる。

繰り返しになるが、天皇は唯一の主権者であり何者にも制約を受けない存在だった。その天皇が「そういう空気があったから仕方なく戦争に突入した」と言っているわけだ。

主権というのは自己決定権の事を意味するらしい。唯一の主権者であった天皇すら国家の命運についての自己決定ができなかったことになる。党派を越えて冷静な意見を持った元老を失ったという背景もあるのだろうが、当時の日本は勢いと集団圧力が実質的な主権者になっているということがわかる。

昭和天皇はこれを国民と一緒に反省する機会を奪われた。つまり主権者が勢いに飲まれて戦争加害者になりまた国内では戦争被害者になったということを総括しなかったということになる。そして吉田茂は「もう終わっちゃったんだし暗いことはナシナシ」とばかりにそれを忘れ去ろうとした。

次に戦争が起こり日本が加害者になれば、それを決めたのは我々ということになる。日本では国民一人ひとりが主権者だからである。当時の天皇が置かれていた状況と今の状況は似ている。党派対立ばかりが激化し冷静な判断力を持ったカウンセラーのような人がいない。いずれにせよ次に「それ」があった時にも我々は「勢いに乗って決めたわけで我々のせいではない」というだろう。

仮に「やむをえない戦争」というものがあったと仮定する。その戦争は犠牲者を生むだろうからその責は意思決定者が負わなければならない。結果に責任を持つといわないと周囲から信頼してもらえないからだ。だから、先の大戦において主権者の責任が曖昧なまま放置されたことは、多分日本の再軍備議論が進まない一因になっていると思う。それは「これからも我々が我々の意思決定に責任を持つかどうかはわかりませんよ」と言っているのと同じことだからである。

例えば参議院で政党を禁止して党派性のない人たちを選ぶというような解決策を取れば、少なくとも党派対立によって勢いで物事と決めるということはなくなるだろう。つまり、反省も適切に行えば(つまり指差し合戦に終わらなければ)多分解決策はいくらでも出てくるのだ。

その意味では「憲法を変えたって別に何も変わりませんよ」と言っているあの言葉がいかに重大なものなのかということはよく考えたほうがよさそうだ。何かを変えるということはそれなりの責任を負うということだからであるが、そんなことはないから気軽に決めてくださいと言っているからである。

東京湾の水質汚染 – 日本人はどうにもならないものを前にどう取り繕うのか

パラリンピックテスト大会のスイムが中止になったそうだ。大腸菌の濃度が二倍だったという。そもそもよくそんなところで大会を開こうと思ったなと感じた。




不思議だなあと思ったのはこれが元環境大臣が都知事を務める東京で起こったということである。小池都知事のTwitterを見てみたがこの件については取り上げられていなかった。多分興味がないのだろう。実行側も「想定内だった」と言っているので数値以下だったら汚くとも強行しようとしていたんだろうなあと思う。選手というのは兵隊と同じでイベントのためのコマなんだなと思った。

前回はマラソンスイムのテスト大会で「水が臭い」という文句がでていたというがなんとか取り繕った。これについては東京都もIOCも問題を把握していたという記事が出ている。都市排水と下水が一緒になっているので雨水と汚水が一緒に溢れ出してしまうのだそうだ。日本は一度公害問題を克服した国なのだが、もはやそれは過去の話なのかもしれない。だが、パラリンピックの記事を見ると「これから原因を突き止める」と言っている。つじつまが合わないので「知らなかった」と言って逃げているんだろうなあなどと考えてしまう。

この件について謎のウェブサイトがTwitterに上がってきた。ある港区議員のウェブサイトの情報をもとに構成されていて「対策ができていない」という内容になっている。

しかしその議員(榎本茂)の公式ウェブサイトを見ると「自分が当選するまで問題は放置されていたがもう大丈夫」と書かれている。人口が急増したために下水処理施設が間に合わず処理能力以上の汚水はそのまま流しているというところまでは一緒だが「対策はしているから大丈夫だ」というのである。ところがいつ完成するかは書かれていない。つまり、オリンピックまでには間に合わないだろうということである。

榎本議員はどうやら選挙で小池百合子陣営と協力体制にあるらしく都政に批判的なことは書かれていない。一方、Facebookには「対策を要請した」というページが見つかった。ただここでは「屋形船のせい」ということになっていて、都市の排水問題の根本二ついての対策は書かれていない。言い方は悪いが屋形船を引き合いに出して「やっている感」を出そうとしているのだろう。だが、この人は港区の区議なのだからできることは限られている。

小池都知事を筆頭に、この件について直接的に責任を取ろうという人はいないようだ。オリンピックはやらなければならないという大枠の空気はできていて、それを選挙に勝ったという背景を持つ知事が支えている。小池百合子さんという個人を超えて「そのときの選挙の空気」がその後の数年間を支配するという構造である。「私は空気とルールに従ってちゃんとやっています」という日本型土着民主主義だ。

オリンピックはその都市がようやく先進国としてオリンピックが開催できるようになったということを宣伝する装置として機能してきた。今回のオリンピックは日本はもはやそのようなプロジェクトを遂行する力はないのだということを内外に知らしめるための装置として働くのだろう。

かといって誰も責任は取らない。「だって仕方がない」からである。仕方がないとはつまり自分はリーダーシップを取るつもりはないということなので、リーダーシップの不在とも思えるが下手に手を出したら「あいつに才覚がないからできなかった」と非難されかねない。問題解決が難しくなったとき火中の栗を拾う人はいない。

中には東北沖の魚は放射能汚染されているとして輸入規制をしている国もあるそうだ。東京を離れて太平洋岸のどこかで大会を開催するという代替案も考えられなくはないが、今後は安倍首相のいった「アンダーコントロール」は東アジアでは信頼されていない。福島県によると今でも規制している国は中国・台湾・韓国などアジアの国が多いようだ。

日本人が「だって仕方がないじゃないか」と考えるのは「まあ仕方がないなあ」と周りの国も思っているのだろう。だったら自分たちは日本を排除して粛々とやって行こうと考えているのかもしれないなあと思う。

日本人には表現の自由は扱えず、自主憲法を制定することもできないだろう

スーパーの前でソルティーライチを飲んでいたところ女子中学生(もしくは小学校高学年くらいか)二人組みに睨まれた。自転車を停める場所がないのが気に入らなかったらしい。慌てて横に避けた。学生二人は無表情だった。




アメリカだとこの場合「Excuse me」から始まり自分の要求を丁寧に伝えることになるだろうと思った。家庭から始まる社会化の第一歩である。だが、日本人は自分の願望を伝える訓練をしない。親が同伴している場合だと何か要求する子供を「迷惑だから」と叱りつけることもあれば「あなたがいなくなれば私が罪悪感を覚える必要はないのに」と睨まれることもある。要求を言語化できない日本人は比較的早いうちから不機嫌そうな空気を醸し出して集団で圧力をかけるやり方を覚え、それを終生使い続ける。

なぜこうなるのかを考えた。まず、学校で自分の願望を伝える術を学ばないからだという理由を思いついた。先生は決まったルールとカリキュラムに従うことを要求し、学生には従うかサボるかという選択肢しかない。このため、要求を社会化する方法を学ばない。これはもともと家庭教育や文化一般の傾向であって、学校だけが悪いというわけではないのかもしれない。いずれにせよ、日本人は抵抗しないが自分に関係がないコミュニティには協力しないという方法を覚えて行く。

しかし、それだけではないような気がする。自分の要求を伝えるということは他人の要求を聞くことでもある。ところが空気を作ると自分は変わらなくても済む上に多数派になれば支配欲求を満たすこともできる。日本人は折り合いをつけたり他者から変化を要求されることにとても強い抵抗感を持つ。自分の領域には踏み込んで欲しくないのだろう。

このため、日本には何をしてもいい多数派、協力しない見えない人たち、常に妥協を強いられる少数派が生まれることになる。そう考えると「選挙に行かない人たちが半数を占める」という状況の源流がよくわかる。日本には二大政党制はできない。多数派、不満な少数派、無関心という三つの層にわかれるのだから、均衡が取れた異なる二つの考え方など最初から生まれるはずはないのだ。

日本人の話し合いは「どちらが多数派か」という議論になり、多数派が無条件に少数派を圧迫してもなんら問題がないと考えるのだ。だから、日本の民主主義は多数決にやたらにこだわる。多数決で白黒決めたがる人とそれに抵抗する人が出てくるのだ。少数派も少数派として自分たちの意見を通そうとは思わないようだ。彼らもまた「自分たちは実は多数派なのだ」と思い込むようになる。

西洋の民主主義では議会で多数をとったからといって強引に物事を進めていいということにはならない。意見の重み付けをしているだけであり決して多数派が少数派を無視していいということにはならないはずだからだ。

このことを踏まえるといろいろな分析に便利に使える。

「表現の不自由展・その後」でも個人の自由が徹底的に無視されていることを観察した。多数派の人たちが思い込みをもとに表現の自由に圧力をかけ、挙げ句の果てに脅迫電話をかけてくる。一旦少数派と見なされた相手には「何をしてもいいのだ」と考えている人が多いことがわかる。

表現の自由を扱っていた側も個人の信条の吐露をそれほど重要視していなかったようだ。国の補助が入ったいわば正当で多数派のイベントの穴をかいくぐってこんなやばいことができるという自慢である。彼らにとってそれが社会に勝つということなのかもしれない。内心のない日本人にとって表現の自由とは自分たちが社会を支配しているという満足感を得るための道具であり、その穴をかいくぐって一泡吹かせてやったという達成感だったのである。

このような土着的民主主義を背景にすると憲法改正についての議論がなぜ進まないのかも見えてくる。憲法を錦の御旗としている人たちは憲法に触れさせないことで「自分たちが民主主義の正当な後継者なのだ」と信じ込むことができるし、憲法を変えたい側も「自分たちは憲法を変えられる力があるから何をしてもいいのだ」と思い込むだろう。私は改憲・護憲という数合わせばかりが話題になり「本質的な憲法論が語られない」ことに腹を立ててきたのだが、実は数合わせこそが日本人にとっての本質であり、実は憲法も平和主義もそれほど重要ではないのかもしれない。

今回の分析は自分の欲求を伝えられないということを起点にした考察であり、それを憲法問題について広げるのは如何なものかと思われるかもしれない。だが、自分の要求を伝えられないことは相手の要求も聞くつもりがないということにつながり、合意形成ではなく空気でしか統治できないということになる。ゆえに、他人の要望を聞き自分の要望を話す技術を身につけない限り、日本で民間主導の憲法論議が始まることは「絶対に」ありえないだろう。無理に憲法を変えてもいいがそれは「少数派を抵抗勢力に追い込む」ことを意味する。憲法はみんなのものではなくなり「憲法回復」が政治問題化するだろう。そして一番大きな問題は多数派と少数派の間で見えない無関心層が離反することだ。

ところがこんな日本人にも唯一許された自由な場がある。日本人は社会化されない領域では表現を磨くことができる。個室には自由がありその中では相手と折り合う必要がないからである。そのためコミケのような場所ではそもそも政治的な課題は扱われない。政治問題とはつまり社会問題だからである。全てが個人の幻想の中にあり、その中でなら何をしても自由だ。これが我々日本人が達成し、今後も持ちうる最大限の自由である。

形骸化したシステムは「誰にとっても優しくない」状態になろうとしているが、意見調整できない日本人が自らの力でリフォームすることはないだろう。だが、個人の中には豊かな創造性の世界が広がっている。経済活動や社会活動はほどほどにして個人の世界に耽溺するのがもっとも創造性が高い生き方だということになる。

これが、今回の考察によって導き出された日本の未来像である。

日本人の表現の自由は個室の中でしか許されない

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」は結局関係者が全部逃げ出してしまい終わりになったようだ。




中でもひどかったのが東某という人で「責任は全て津田大介にある」とした上でTwitterで宣言してアドバイザーを辞めてしまった(Buzzfeed)そうだ。大村知事も芸術監督の責任だといってTwitterの一部を削除して「逃亡」してしまった(Zakzak)と非難されている。津田は一応総括の文章を出したが、過去に自身の不適切な発言を認めた。最初から適格ではなかったのだろう。

結局取り残されたのは彼らにおもちゃにされた現代芸術家たちである。今後公的機関で行われる芸術祭は「コンプライアンスチェック」が厳しくなるだろう。日本でいうコンプライアンスとは厄介ごとを避けるという意味である。ただあいちトリエンナーレの件が日本の表現の自由を狭めたとは思わない。もともと我々の社会には表現の自由などない。憲法で書いたからといってそのまま保障されるわけではないのである。

どうしてこうなったのか?と考えた。いろいろな議論が局地的に起こったようだが、どれも「どちらが正しいのか?」という議論になっている。つまり芸術とか正義というのは単なる道具であり、実際に起こっているのは万人の万人に対するマウンティングである。他人の内心には誰も興味がないのである。

ここで一貫したポジションが確立できないと「議論に負けた」ことになってしまう。議論に「負けた」人は袋叩きにしても良いというルールができているので関係者が全て逃げ出してしまうことになった。現代芸術の意義を個人の内面を社会に打ち出すことだとすればこの打ち壊しあいこそがまさに壮大な現代芸術といってよい。その表題は「現代日本の病理 – 表現の自由をめぐって」である。

社会化されない個人というのはある意味可燃性の高い素材だ。だがこの可燃性がなければ人間は前に進めない。だからこそ厄介な社会化という作業を通じてこれを社会と折り合わせてゆくわけである。進歩を前提にする民主主義社会で表現の自由が守られなければならない意味はそこにあるのではないかと思う。当然、意味火を扱っているわけだから、安全な場所を作って燃やす必要がある。それが美術展の役割だ。

津田監督はこれが可燃性であることは知っていたようだが巷で出回っている津田と東の対談をみると「火遊びをしている」感覚しかなかったようである。日頃からTwitterでの言論火遊びに終始する彼らは表現の社会化を軽視している。だが日本には伝統的に個人の自由を尊重するという考え方はなく、そのような青臭いものは冷笑すべきだという社会的合意があるのだろう。その冷笑的態度の中で「より高く飛べた」とか「相手をキックした」などといった言論プロレスを楽しむのが日本の政治言論の正しい鑑賞法である。

日本はもう成長しなくなった社会なので成長のために個人意識の社会化が重要であるなどといくらつぶやいてみても誰も賛同はしてもらえない。それどころか「世の中ってこんなもんでしょ」と冷笑したほうが知的に見えるということが、東と津田の対談を見ているとよくわかる。

ではこれを「日本人」という主題で括っていいのかという問題が出てくる。一応真面目に考えてみたところ朝5時にコミケに向けて殺到するおたくの映像がニュースとして流れてきた。コミケは彼らの生活にとって欠かせない大切なもののようだ。コミケはおたくのアイデンティティなのだと思った。

コミケでイスラム教徒を侮辱したり天皇を燃やしたりする作品が展示されないのは、コミケが持続を前提に「大切に」運営されているからだなのだろう。一人ひとりが作品の内容に責任を持つからコミケは荒れない。だが、コミケの内容と社会的な規範がぶつかった時、あるいは社会が悪者を求めてコミケの作品を「弾圧しようとした」時、コミケの参加者は政治的代表者を出して「表現の自由」について議論し社会的にアピールするはずだ。

誰かのアイデンティティになった芸術はコミュニティによって守られる。コミケのは多分寝る間を惜しんで作品を作っている人たちの労力と作品が好きで好きで仕方がない人たちによって経済的に支えられている。一人ひとりの思いが湿気となって延焼を防ぐのである。

このことからあいちトリエンナーレが逆に湿気を失い砂漠化していたことがわかる。これを扱っている人たちは個人の可能性や厄介さといった問題を抱えておらず芸術を他人事としてみている。

東と津田にとってトリエンナーレは「アイデンティティ」ではない。彼らは現代アートの作家にはシンパシーを感じておらず、単に税金を使って「火遊びができる」ことを喜んでいたのだろう。彼らにとって他人の内面というのは単なるおもちゃである。これは河村市長や大村県知事に取っても同じことである。現代芸術という何か立派なものを庇護している自分たちが好きであり、また愛国心という名の下に誰かを批判する自分たちが好きなのだ。

ハフィントンポストによると何人かは自作品の引き上げを申し出たそうだが、これは芸術家としては当然の対応だろうと思う。世界で活躍する彼らは表現の自由を庇護してくれる社会で活動したほうがいい。

熱を失った国の政治議論はより大きな物語へと向かい非難の応酬になる。それは現実社会が方向を失い成長がなくやりがいも感じられないというのと実は裏表の関係にあるということがわかる。日本の政治言論が過激で冷笑的である理由がよくわかる。自分たちが社会を変えられるとは思っていないし他人の熱意も尊重できないからなのだろう。

この結果砂漠化した言論空間には「これは恫喝してもいいんだ」と考える人が湧いてくる。脅迫メールが770通も届いたそうだが協働の意欲を失った社会の醜さがよく表れている。彼らは匿名で破壊することにしか関心がない。

ただ、それを日本人を主語にして語るのは間違っているのかもしれない。コミケのように立派に運営され経済的にも成功している事例はある。だが、コミケも個室の幻想を飛び越えて現実問題の解決に向かうことはない。日本人の表現の自由は個人の趣味趣向の中に閉じ込められており、決して社会と交わってはいけないとされているのだろう。日本人は実は限られた表現の自由しか許されない国に住んでいるのだ。

産経新聞がまた新しい願望込みの物語を投げ込んだ

面白いニュースを読んだ。トランプ大統領が安倍首相と会談した時「父親はカミカゼだったのか」と聞いたというのである。




トランプ大統領はカミカゼがなぜタンクを半分空にして特攻したかったのか知りたかったらしい。「お酒か薬の影響だったのか」と聞いたそうだ。安倍首相は「愛国心ゆえだった」と答えたそうだが、トランプ大統領は「愛国心でタンクを半分カラにして突っ込むとは」とジョークのネタにして支援者の集まる席でスピーチしたようだ。他国の文化を重んじるという気持ちが全くないある意味アメリカ人らしい態度である。

このエピソードがQuoraで紹介された。これに不愉快な思いをしたらしい回答者から「曖昧なことを言うならばソースを示せ!」と苦情めいた回答が入った。時期的に韓国と日本の間の軋轢が問題になっており、韓国人に対しては居丈高になるのにアメリカだと何も言えないのかという含みを持ちかねない話である。

こうした感情的な問題に関しては上から抑えてやるといい。つまり「日本人は英語ができないから知らないのは仕方がないですよね」と言ってやるといいのである。日本人は英語とアメリカ人に対してコンプレックスを持っているので「親切に教えてあげる」のがよいのだ。序列を気にする人には実に効果的である。

実はこのエピソードはニューヨークポストが元ネタである。もともと伝統のある新聞だったようだがタブロイド化し最近では過激な見出しで知られるという。英語版Quoraで調べてみたが評判はあまり芳しくはなかった。日本でいうスポーツ紙のような扱いらしい。ただし記名記事なので全くの作り話だと斬って捨てるわけにも行かない。

支援者たちはアメリカ人なので当然日本の戦争のことなどには大した関心はない。例えばアメリカ人はほとんど原爆について考えたことなどないだろう。だから特攻のような常識では考えにくい精神状態も単なるパーティージョークになってしまうことがある。片道切符で特攻するなど常軌を逸しているのだからお酒か薬物の影響だったのだろうと笑って終わりである。当然相手に対する共感もリスペクトもない。

英語で情報が取れる人なら誰しもアメリカ人は日本に対してさしたる関心がないことは知っている。だから日米同盟もその程度の確かさしかないということはよくわかっている。だが、英語で情報を取らない日本人はそのことが不安で仕方がない。ゆえにこういう話はなかったことにしがちだし、願望込みで解釈を加えがちだ。

韓国とのやり取りを見ていると「ちょうどその反対のこと」が起きている。韓国人が日本に反抗的な態度をとると、それを大きく拡大しいつまでも騒ぎ続ける。日本人は韓国人ならなんとかなると思っているからなのだろう。

日本人は心象による序列を作ってしまうところがあり対等な人間関係や同盟関係が作れない。だから政治家が絡んだ外交交渉で日本はいつも間違える。心象で目が曇っているので侮られたり不用意に怒らせたりするのである。

とはいえ、日本がアメリカ人から下に見られているのはいつものことだし相手はタブロイド紙なのだからそんなに気にする話でもない。ところが産経新聞の記事を見て驚いた。ニューヨークポスト電子版を引き合いにしているのだが、安倍首相の父親が特攻隊だと知ったトランプ大統領が安倍首相の説明に心を打たれたという感動秘話になっているからである。「トランプ氏、日韓首脳の「なまりある英語」を揶揄 安倍晋太郎氏が元特攻隊員と知り感銘」となっている。外国人が日本の心に触れて感動するという「日本スゴイですね系」の記事である。

確かにニューヨークポストはこのジョークの意味は書いていないのでトランプ大統領が特攻隊をクレイジーだったと言っているわけではない。だが、パーティーで気楽に話題にしているのだからリスペクトしたわけではないだろう。この話はネットですでに紹介されていたので産経新聞は「フォローしなければ」と思ったのかもしれない。彼らにとって安倍首相はヒーローなので「ヒーローが何も言い返せなかった」では困るのだ。

ただ、新聞電子版を読んでネタ元(ちなみに記名記事である)に確認も取らずに勝手に解釈を加えているわけで、これはもはや新聞記事ではない。願望込みのファンタジーだ。

ただこの件で産経新聞を非難する気にはなれなかった。産経新聞も自分たちのプリンスがトランプ大統領に相手にされていないことは知っているのだろうなと思った。だからこそ躍起になって物語を作ったのだろう。また朝日などの反安倍陣営の新聞も政治的な影響を失っていてこうした心象を正当化する記事を書きかねない状況になっている。こちらもインテリ層が政治に対して影響力を持てなくなったということを認めたくない。

一種のメンタルクライシスにある新聞が心象的創作物からは逃れられるはずはないのだ。

ただ、これが我々の政治的な意思決定にどんな影響を与えるかという点は気になった。日本人は本音と建前を分ける二重思考を社会的に容認している。このため自分が本当はどう考えているのかがわからなくなってしまうことがあるのではないかと思った。

産経新聞が本当はアメリカに相手にされていないことを知りつつ「安倍首相はアメリカに強い影響を与えている」と信じている限り、彼らは難しい判断から目を背け続けるだろうなあと思った。そうすると我々読者はますます自分たちが信じたい物語だけを信じることになるだろう。

日本にはその意味では信頼できるジャーナリズムはないのかもしれない。誰もそんなものを求めていないからである。にもかかわらず日本人は政治的に中立でありたいと考え、中立な新聞やメディアを持ちたがる。中立とは「自分の意見とぴったり合っている」ということだから偏っているのだが、他人の意見を尊重できない我々はどうしても自分の中にある偏りは見たくないのであろう。実に不思議な光景である。

日本はもうだめだおしまいだと叫ぶ人たち

Quoraで日本はもうダメだという話が出ていたので「20兆円も海外から利子収入が入ってくるのになぜ悲観論ばかりなのか?」と書いた。もっと冷静になって次世代投資について考えるべきであるという提案だ。すると最近にになく高評価がたくさん集まった。改めて日本閉塞論に息が詰まっている人たちがたくさんいるんだなと思った。閉塞感を意識化する機会は少ないので言語化すると喜ばれるのだろう。




このエントリーには面白いコメントが2つ付いた。

一つは「でたらめをいうなやはり日本はおしまいだ!」というコメントだった。国の予算が100兆円あり20兆円を海外からの上りで穴埋めするというのはおかしいと書いてきた。国と企業の収益がごっちゃになっているのだが、ポイントは自分の観測と違った意見が出ると感情的に否定してしまうという点だろう。楽観論も悲観論も感情の領域にあり合理的な政治の問題ではない。だが、実際に政治を動かすのは感情なのでこうした声を無視していいということににはならない。ただこの意見を合理的に否定するのは難しいだろう。否定されればされるほどかたくなになってしまう。

もう一つのコメントは「政府債務が溜まっているのは確かである」という点とそれでも「教育への投資が少ないのは確かに問題だ」という点を指摘してきたものだった。実際に研究者とお話をする機会がある現役世代の方である。つまり、極度の楽観論や悲観論のどちらも正しくないということを理解している人もいるのだ。

Quoraの政治板は短い間に950名がフォローするコミュニティになったのだが、感情的なレスポンスをする人、冷静な理解をする人、とにかく議論を吹きかけて勝ちたがる人とありとあらゆる人が集まってきている。1,000人というとミニコミ紙レベルだと思うのだが、新聞はもっと大変なんだろうなあと思った。民主主義になるとさらにこれが複雑に絡み合う。

今回の「楽観論」は「国際収支発展段階説」という説に基づいている。国際収支発展段階説によると、やがて債券取り崩し状態に入るのだそうだ。今の日本の段階を成熟債権国と呼ぶそうだが、この状態があと数十年続くという。なのでポイントはこの成熟段階をいかに長引かせ、あるいは若返らせられるかという点にある。当然これといった正解はない。

お金が湯水のように入ってくると言ってもいいことばかりではなく当然代償がある。「世界最大債権国」日本、直接投資急拡大の必然には「慢性的な通貨高に悩みその度に景気が悪化する」と書かれている。何らかの理由で景気が悪化すると新興国から資金が逆流して円などの安全資産に戻ってしまう。すると急激に交易条件が悪化して日本は製造業で稼げなくなってしまうというわけである。つまり、資産が製造業を圧迫するという皮肉なことが起こる。

同じことはアメリカでも起きている。アメリカは取り崩し段階に入り赤字が続いている。これは長年製造業が圧迫され中国などの人件費が安い国に転移してしまったからである。アメリカは意識して構造転換をしなかったためにラストベルトという工業地帯が取り残されそれが問題になっているのである。背景にあるのは構造的な問題なので中国にケチをつけたりFRBに文句を言っても工場がアメリカに戻ってくることはない。先日ご紹介したアメリカの通貨切り下げ策は実は債権国を降りてサイクルの最初に戻れということなのだ。それはつまりアメリカの金融市場を爆破してしまうということである。

債権国であると言っても喜べない事情がもう一つサイクルの外にある。それが膨らみ続ける国家債務だ。

金融市場の大崩壊が近い将来に起こりうる理由という恐ろし気な記事がある。リーマンショックが起きたとき各国政府が問題を吸収した。このため「表面上危機が収まっていたように見えていた」のだが、トランプ大統領がそれをぶち壊しにしようとしていると言っている。つまり、トランプ大統領が引き起こすであろう混乱はアメリカだけでなく金融市場全体に災厄をもたらすかもしれないということだ。

  1. アメリカ株式市場がリーマンショック級の3割を超す大暴落を起こす
  2. アメリカ株に連鎖して先進国、新興国が株価暴落を引き起こす
  3. 米中貿易交渉が決裂し、米中を悪性インフレが襲う
  4. 米国債が売られて金利が上昇、世界の債券バブル崩壊で新興国の債券が紙くずになる
  5. 新興国通貨が暴落しあちこちでハイパーインフレが始まる
  6. 地政学リスクが高まり、ドルが売られて原油、金価格が高騰

実は、日本も似たような状態にある。政府が国債を発行し実質的に日銀が引き受けている。これが破裂しないのは日本は債権国であり円が安定しさんだと見なされているからである。つまり日本政府の実力が過大評価され問題が先延ばしされておりどんどん大きくなっている。これが弾けた時の痛みは相当なものだろう。

日本はかなり厄介な時期に債権国になったのだなあということがわかる。企業がお金を貯めこみ政府に働きかけて税金を支払わなくなる。法人税が下がると節税のために人件費をあげようというインセンティブも失われ消費市場が冷え込む。足元の景気が悪くなるので、政権を維持するために国債を発行して危機を乗り切ろうとする。するとインバランスが蓄積して金融市場が混乱する可能性が高まるというわけである。

面白いのは、日本にはお金が有り余っているのだからそのお金を使って将来に投資すればいいではないかという観測と、インバランスが高まっているからかつてない恐ろしいことが起こるかもしれないという観測が同時に並び立つところである。これはどちらも事実であり、どちらかが正しければどちらかが間違っているというものではない。

ここまで冷静にわかれば「今はなんとなかっているのだからどうにかしてこの恩恵を長い間享受できるようにしよう」と考えるのが自然である。コラム:英国に学ぶ「成熟した債権国」への道=山口曜一郎氏によるとイギリスもかつて債権成熟国の段階を経験して今も先進国なのだから、イギリスに学べばいいのではないかと書いている。

また、英国が自国の特徴を生かしてサービス収支や所得収支の黒字体質を確立したように、日本にはもともとモノづくりや技術力に優位性があるため、過去の経常黒字で積み上がった多額の対外資産を活用すると同時に、産業の競争力回復を目指し、国際収支の発展段階説で言えば第四段階と第五段階を行き来するような形になるのが理想的と考える。

英国に学ぶ「成熟した債権国」への道=山口曜一郎氏

つまり日本も上がりを国内投資する体制さえ作れればイギリスのように長い間債権国としての特権を享受できるであろうというわけである。ただ、何に使うのかは国でビジョンを作るか、ビジネスコンペの体制を整える必要がある。競争させるなら地方分権にして地方ごと競わせたほうが良いだろう。

ところが実際にはそのような話し合いの素地はできていない。そればかりか各国でポピュリズムが横行し有権者が扇情的に煽られるばかりである。どうやら日本も例外ではないようだ。欧米に比べると静かではあるがポピュリズムが蔓延している。

我々は、実は解決策があるのに、極度の楽観論と悲観論の間を揺れ動きながらさまよっているのだ。

朝日新聞の凋落と維新の会の躍進

先日来、Quoraはまだあいちトリエンナーレの件で盛り上がっている。これを見ているうちになぜ彼らは執拗にこの件に固執するのかがわからなくなってきた。そして橋下徹さんのTweetをみて疑問が氷解した。




橋下さんは天皇の肖像画が燃やされた件を「あなたたちへの攻撃」と付け替えている。つまり天皇は自分たちの先祖だと置き換えた上で「お前らの先祖」を焼いて見せるべきだというのである。橋下さんがとても上手だなと思うのは「津田ら」の先祖を焼いてみろと言っているという点だ。非論理的に津田らを「我々」から除外している。道徳心・「我々のフレーミング操作」なのでポピュリズム手法ということになるだろう。

ただ、橋下さんがこれを意図的にやっているとは思えない。これが橋下さんの強みなのではないかと思う。彼は大衆が何を望むのかということをよく知っているのである。そしてこのことからポピュリズムが必ずしも悪のレッテルでないということもわかる。ポピュリズム自体は単なる動員力であり、問題はその背景だ。

維新の弱みはこれが産業振興などに結びつかないところである。大衆動員が産業と結びつけば豊かさの再創出につながるはずだが、大阪はこれに成功しなかった。このため大阪は家電や繊維産業の後継になる企業誘致ができていない。だが彼らは官製イベントを導入したり敵を見つけて戦ったりして、ある程度の満足感を大阪府民・市民に与えている。

慰安婦少女像の要点は、旧日本陸軍の行為に対する批判から我々への批判に付け替えたところなのだろう。慰安婦少女像に怒っている人たちはどうやら韓国人が日本人を屈辱していると置き換えているようだ。Quoraでは慰安婦少女像の代わりにコーランを燃やしてもいいのかと質問する人もいたが、慰安婦少女像は我々の振興の対象ではないと書いたところで彼らは聞き入れないだろう。いったん心象が出来上がると日本人はそこから出てくることはできない。

Quoraでは韓国人を主語にした質問が繰り返し上がっている。実際に韓国人全部が反日教育で日本攻撃に動員されているという事実はないので、却ってそれを証明しようとして躍起になるのだろう。ただ、この軋轢はだんだん大きくなってきており7月から8月にかけてのニュースをみると実際に「日本製品を買ったりするのは控えなければならないのではないか」という空気が生まれているようである。ただ運動が加熱しすぎると困るのでテレビのニュースではどこまでが合法かという情報まで流していた。

維新は大阪では人気があるようだが、それ以外の地域には広がっていない。今回動員できた人たちは「自分たちこそが主流派なのだ」と信じているので、立憲民主党に代表される左派リベラルからの引き剝がしには成功したものの、維新へは向かわず自民党を信仰するようになってしまった。維新の元気の良いやり方は自民党の穏健層を離反させるので自民党と一体化することもできない。

SPAとSAPIOのようなバブル崩壊後日本に民族主義をもたらした雑誌も商業的には成功しなかったようだ。SPAは扶桑社という産経系でSAPIOは小学館だそうだ。彼らが攻撃対象にしたのは商売敵である朝日・インテリリベラル層だった。朝日新聞は「反日新聞だ」と思わせるところまでは成功したようだが、雑誌を応援する人も現れず無料で読めるネット情報に流れたのだろう。

維新が目をつけたのは「インテリリベラルへの反発」である。ではインテリリベラルとは何だったのだろうか。

早稲田大学のような例外はあるが、東京の有名大学にはフランス法学校系やキリスト教系のリベラルな学校が多い。関西もそうだろう。つまり西洋にキャッチアップする過程で西洋を精神的な理想にした学校が多かったのだ。だが、その背後には数で勝る日大のような大学がある。日大はフランス法学校系の大学への対抗上作られた国学という伝統を持っているそうだがが、戦後急速に大衆化した。これといった思想的背景はなく社会の実務層を支える人材を輩出した学校である。

つまり日本の社会は、官僚を輩出する東大・京大/西洋型インテリリベラル/思想的背景を持たないその他大学という三重構造があると言える。キャッチアップ型をマネージャーレベルで支えたのがインテリリベラル層だった。つまりキャッチアップの必要性がなくなったのでインテリリベラル層も消えてしまったのだ。残ったのは現状維持欲求が強い実務者層だ。

日本の言論界は官僚にはなれないが理想主義を持ったインテリリベラルが政治家や実務系の人たちを少し「下に見る」という時代が長かった。例えば、新聞では朝日新聞、テレビではTBSなどがそれにあたる。だが朝日新聞に代表されるインテリリベラルは社会改革には熱心ではなかった。やはりその点では既得権者だったことになるだろう。恵まれた立ち位置から社会を嘆いていただけだったと見なされた。

日本の成長に陰りが見え始めた時、インテリリベラルに蔑まれてきた「普通の人たち」が雑誌によってもたらされた「自分たちこそが正当な日本という国の担い手なのだ」という価値観に影響を受けるようになる。ただ、プレ民主党の時代、雑誌系保守思想と自民党は結びついていなかった。

結局、理想主義の結果として出てきた民主党が2009年の政権交代に失敗してしまいインテリリベラルの息の根は止められてしまう。結局「既存の空論ばかりで何もできなかったではないか」というわけである。

そこでインテリこそが守旧派であり改革を阻害しているという付け替えが行われるようになった。それが維新という言葉である。自分たちが実務派でありインテリは言葉ばかりで何もしてくれないというイメージ作りだ。ただ彼らは自分たちでは理論構築ができなかったので理論そのものは別のところから輸入した。

維新という言葉はもともと大前研一が作り出した用語である。維新勢力は大前に接近するがのちに大前を「口だけインテリである」と批判するようになる。そして、地方自治と維新という言葉の正当な後継者は自分たちであると宣言した。これは2012年に安倍政権が政権を奪還してから3年後の2015年のTweetだ。

維新のような野党には実際の分配はできないのだから「絶え間ない戦い」を継続するために支持者たちを鼓舞し続ける必要がある。今回の表現の自由騒ぎもその燃料の一つとして利用されたのだろう。この議論が何かを解決することはないだろうが、支持者たちに自分たちこそが正当な社会の担い手であるという印象と満足感を与えることはできる。

ただ、そのためには社会の異物が必要だ。その異物は戦前には非国民と呼ばれ、現在では反日と呼ばれる。多様性の排除はヨーロッパやアメリカにも見られる「ありふれた」現象だが各地で危険な軋轢を引き起こしている。今回の騒ぎはそのプレビューのようなものなのかもしれない。

今はちゃんと走っているが壊れたら買い換えられない車としての日本社会

日本で政治議論が折り合わない理由を考えていて、思考が思わぬところに飛んだ。




まず土着民主主義というものをおき、日本では民主主義への理解が進んでいないのでは?と書いた。土着民主主義は西洋流の民主主義を自己流で理解したものだが原型は親密な集団に由来する村落型民主主義である。経験を今日融資している人たちの間で作られた民主主義携帯なので違いを乗り越える文化はない。このため制度が古びても相互調整して制度設計ができないのであろうと考えた。

さらに、土着民主主義と民主主義の二重思考があまりにも巧妙だったので、自分たちがどのような行動様式を持っているのかがわからなくなっているのではないかとも考えた。つまり他人と話し合えないどころか自分が何を考えているのかもわからないのではないかと置いたのである。

次に、システム論を考えた。現場保存欲求が強すぎるので現行システムは誰も対抗できずシステムの変更もできない。システムが制度疲労を起こすとカバーできない領域が増えてゆくのだがルールをハックして自分に都合が良いように利用することはできる。ルールハックが横行すると、反感が増えるのでこれもさらに話し合いをさらに難しくしているのだろうと考えた。これがかつてあった村落と違うところである。村落は具体的な制約なのだがゲームルールは人工的な制約である。

システムやゲームのルールを自己流に解釈するとうまく生き残れるがそこから零れ落ちると途端に困窮する。さらに真面目にルールを守ろうと考えるとそれも損をすることになる。ゲームのルールは単にゲームのルールにすぎないからである。この文章を書いている途中でQuoraに「憲法はゲームのルールに過ぎない」と書いたところほぼ黙殺された。一度作られたルールはなぜか神聖視されるという傾向もある。

今回はまた別の材料を見つけた。2019年参議院選挙の分析が出たらしい。思考過程がインフォグラフィックになっていてわかりやすい。「現場維持欲求」のもう一つの別の顔が見える。

分析は段階的に進む。まず、地域と年齢という属性で分析してみたがたいした傾向は見つからない。社会属性で分析すると大企業で働いている人は自民党を支援し高齢者の一部が立憲民主党に流れていることがわかるそうだ。一方で、フリーランスや個人事業主の中にはれいわ新選組に流れた人が多い。左派リベラルから「インテリ臭さ」を取ったのがれいわ新選組である。ただ、ここまで見てみても何がドライバーになっているかはわからない。

そこで将来の見通しについて聞いてみた。努力が報われると考えている人は自民党に入れておりそうでない人はれいわ新選組や立憲民主党に入れているそうだ。さらに将来の見通しが明るいと考えている人は自民党に入れていてそうでない人はれいわ新選組や立憲民主党に入れている。つまり属性ではなく心象で支持政党に違いが見られるのである。

記事はここから「日本は希望分断社会だ」と分析している。

この記事を読んでいて、分析から「左派リベラル層」が消えているのが面白いなと思った。記事は「高齢者は希望が持てない」としている。彼らはかつて現役層として社会党のリベラル思想を支援した人たちなのではないかと思った。比較的高学歴で朝日新聞を読んでいたような人たちである。この層が分析から消えてしまっているのだ。朝日新聞は多分高齢になったリベラルが読んでいるだけで、現役世代は「反日新聞」としてしか認知していないのではないかと思う。

高度経済成長期の左派リベラルは「今の社会を変えればもっと良い社会が待っている」という希望を持っていたように思える。インテリといっても東京に出てきて6大学と言われるような学校に入学できた程度のインテリなのだが、それなりの数はいた。東京の上位校にはフランス型の人権思想を教える法学校から発達したところやミッションスクールなどが含まれている。つまり高度経済成長期までは日本にはキャッチアップ志向があったのである。

多様性のある社会を作ろうというのはその一つの例だろう。だが、今回の立憲民主党のアピールがうまく行かなかったところをみてもこうした楽観論が現役世代に全く受け入れられていないことがわかる。リベラルは高度経済成長に由来するゆとりから生まれたのだから、かつての「インテリ」という階層が消えていることがわかる。あるいは西洋に追いついたら今よりもっと良い暮らしができるという理想が消えてしまったのかもしれない。キャッチアップ欲求がなくなり日本からはインテリリベラルも消えた。

この調査は山田昌弘の希望格差社会を参考にしているので「希望」と言っているが、実際には「社会がこれより良くなるだろう」という期待はないのではないかと思うし、そもそもそんな時代があったことすら忘れられているのではないかと思った。

例えていえばかつてあった社会は新車みたいなものだった。誰も壊れるとは思っていないからドライビングテクニックを磨けばもっと早く走れるのではないかと考えたのだろう。さらに車を買い替えるという選択肢も存在した。だが、日本が衰退し始めると「今の車が壊れたらもう買い換えられない」と考えるようになり「今の車でも十分立派だ」と思い込むようになる。かつての新車を知っていた人はこれを退廃だと思うのだろうが、そもそも新車を知らない人は困惑するばかりであろう。

ゆえに、山田昌弘の言葉を引用して「希望」と名付けるのはちょっと違うのではないかと思った。

さらにこれについて考えていて現役の「希望を持っている層」がなぜ自民党を支持するようになったのかがわかったような気がした。自民党というよりはインテリリベラルから票を奪いたかった人たちの不断のマーケティング努力があったのではないかと思う。これについてはエントリーを改めたい。