決められない政治から決めさせない政治へ

日本は西洋とすべてのものが逆さまだというような話を読んだことがある。確かノコギリの使い方とかそんな話だったのだと思う。最近の政治状況について考えていてそれを思い出した。西洋では政治は決めるために行うのだが日本は決めさせないことが政治の主眼になっているようだ。日本人は相手に意地悪をするためなら強力な粘り腰を見せる。




安倍総理大臣が「憲法改正は必ず自分の手でやる」という決意を示したそうだ。共同通信が伝えているのでそんな話はあったのだろう。与野党で話し合いの機会を作るとも言っている。

確かに首相の頭の中はそうなっているのだろうが現実はそうはなっていない。時事通信が国会閉幕について法案成立率93.3%だったと言っているのだが、残りの7%に入っているのが国民投票法の改正である。お花見問題があったのでそれどころではなかったというのが表向きの理由である。だが本当にそうなんだろうか?

安倍政権支持者としては「野党が審議妨害をした」と非難したいだろうが、実際に自民党が見ていたのは有権者たちだろう。有権者はおそらく「憲法改正などどうでもいい」と思っているはずである。彼らが期待するのは「変わらないこと」であり、次に期待するのは「自分たちがちょっとでもおいしい思いができること」である。

そんな総理の唯一のお友達が麻生財務大臣だ。一読すると憲法改正を応援するかのようなことが書かれている。だが、よく読んでみると憲法改正を応援するとは一言も言っていない。文春オンラインが伝えるところによると「評論家」として本気ならもう一期やれと言っているだけである。そうすると自分も自動的にもう1期財務大臣ができる。79歳なのでおそらくこの後は引退だろう。

衆院選、参院選と国政選挙に6連勝した安倍政権が憲法改正をやらなかったら、いつやるのか。もっとも、残り2年を切った総裁任期で、憲法改正案を発議し、国民投票に持ち込むのは政治日程上、非常に厳しい。安倍総理が本気で憲法改正をやるなら、もう1期、つまり総裁4選を辞さない覚悟が求められるでしょうね

麻生太郎副総理79歳が「安倍4選の可能性」に初めて言及!

ある政治評論家がこの裏話をしていた。本当かどうかはわからないがなるほどなあと思わせる。

麻生元首相は大宏池会を復活させたい。今は岸田さんが領袖なので彼を取り込みたいのだろうと言っていた。吉田茂の孫の自分が本来ならば宏池会のプリンスでなければならないと思っているのかもしれない。おそらく絶対になびかないだろう石破さんと無派閥ながら勢いのある菅さんを評価しないのは彼らが大宏池会構想には意味を持たないからなのだという。

この見方が正しいのかはわからないが、もしそれが本当だとすると「岸さんのあとの池田さんは憲法改正には意欲がなかった」という発言の意味がわかる。つまり、我々の結集を邪魔するとあなたの夢である憲法改正を我々(勝手に大宏池会ができている)はやらないよと言っているのだ。あるいは後継を清和会系から出したかったとしても我々は反対するだろうとも読める。憲法改正はそももそも保守傍流の夢であり現行憲法を作った吉田茂の流れをくむ保守本流や孫の麻生太郎には関係のない話である。つまり、彼にとって憲法は単なる取引材料なのだ。

思えば安倍首相の政治人生はお友達のために尽くす人生だった。彼が怖いからとか付いていると得をするからついて行く人はいるだろうが、彼の熱意にしたがおうという人はいない。さらに、党内には最初から是々非々で付き合っている人たちがいる。彼らはおそらく安倍首相には悲願達成して欲しくないだろう。憲法改正が成し遂げられてしまえば協力者は一枚カードをなくすのだ。

野党としては「安倍政権が一番やりたいことをやらせない」ことには成功したが、かといって彼らの望みである政権を取ることはできないだろう。有権者は野党の望みも叶えない。有権者は「自分たちに還元してくれれば不都合は黙認してあげますよ」という姿勢である。さらに自民党の中にも牽制力が働いていて「一番やりたいことはさせない」ことになっている。さらに官僚も自分たちの権利を侵害する民主党は追い出せたが、そのあとには威圧的な官邸の相手をさせられることになった。お互いに縛りあっていて誰も本当に欲しいものは手に入れられない。

これは「決めさせない政治」だなあと思った。そこで「決められない政治」というフレーズを思い出した。検索したところ日経新聞の記事が出た。

日経新聞によると「決められない政治」というのは自民党政権末期に参議院で民主党が躍進した頃に使われ始めた言葉なのだそうだ。2008年春先というから福田政権から麻生政権になるころの話である。

このねじれにうんざりした国民は民主党政権を選ぶのだが、最終的に民主党政権が決めたのは消費税増税だった。民主党の約束を反故にし「財務省の言う通りにやらないと国が持たない」という判断は国民を失望させた。おそらく官僚組織がかなり抵抗したのだろう。ここにも「相手のやりたいようには絶対にやらせない」という決めさせない政治があったことになる。日経新聞を読むまで全く記憶になかったのだが、この頃は「赤字国債を発行させて欲しい」と民主党政権側が自民党に懇願しそれを自民党が妨害していたようだ。それで結局消費税ということになったのだろう。

国民は民主党政権までは支援したがそのあとの「決めさせない政治」には関心を持たなかった。そして勝手に失望し、元の自民党政治が復活する。「これで決められるぞ」と一度は思ったのだがどうやら日本人の縛りあい根性というのはちょっとやそっとのことでは変わらなかったらしい。また元の決められない・決めさせない政治が復活しつつある。

我々日本人はおそらく「政治が変わらないこと」を望んでいるのだろう。縛りあって決めさせないというのが日本人の根幹にある唯一の統治戦略なのだ。

萩生田文部科学大臣の「グラウンドゴルフスキャンダル」について考える

萩生田文部科学大臣にスキャンダルが出た。グラウンドゴルフ大会に援助をしていた疑惑があるそうだ。読んでみたのだが文部科学大臣辞任と豚汁というのがいかにもバランスが悪いなあとおもった。これをどう捉えるべきかと思ったのだがこの戸惑いこそが本質なんだろうなと思い直した。




国会が終わってしまえばそれほど問題にはならなくなるだろう。マスコミは「野党の審議拒否」は伝えるが、官邸に個人的に恨まれかねない政治家のスキャンダルそのものは伝えない。国会が終わると火種が消えるのでこのニュースも扱われなくなるだろう。ちょっとタイミングが遅かった。結局「騒がれることが悪いこと」なのであり、悪いことが一律に騒がれているわけではないんだなあとため息が出るだけだ。

「利益供与」の内容なのだが、お弁当・豚汁・グラウンドゴルフの景品など「これくらい別にどうでもいいじゃないか」というものだった。おそらくこの程度のことをやっている政治家は多いのだろうが、普段はたいして問題になることはない。「俺が大臣をクビにした」と言いたい人が出てくるまで指摘されることはないのである。しかし、証拠があれば形式上はかなり厳しく判定される。証拠が上がって露見すると文部科学大臣をやめなければならないというのが「相場」になっている。実際に「この程度のこと」でやめた大臣たちが最後まで本会議にも出てくることはなかった。

全体的にとてもバランスが悪い。

かつて金権政治家は厳しく断罪された。我々が議員や大臣にある程度の期待を持っていたからである。ところが今はそうではない。「ああ、みんなやっているんだろうなあ」としか思わない。つまり、平成時代というのは議員の権威が失墜して「この程度のこと」を責めなくなった時代でもあるのだ。またため息がでる。

一方で有権者の方に問題がある。「少しの利益供与でも認めてしまうとキリがないから全部禁止している」のだから豚汁もダメということになる。ところがこれも行き詰る。今回のグランドゴルフの件でいうと、有権者たちは明らかに萩生田さんに期待しているからだ。振舞ってもらう側はダメとは思っていない。つまり日本人は「自分がおいしい思いができないこと」が嫌いなだけで、政治家の利益供与自体をいけないとは思っていない。だからなくならない。

おそらく大した饗応でもなかったのだろうが、やらないと「なんだ萩生田さんはケチだな」という話になるはずだ。みんな表向きはおねだりしないが期待を持っていてそれが裏切られると怒り出す。それが村(萩生田さんの地元は東京なのだが……)というものである。今回これが露見すると次は振る舞えない。そうすると「ああ、あの人やっぱりやっていたのね」ということになってしまうだろうし「もう役に立たなくなった人」だと思われるだろう。でもそれはそれで構わない。別の誰かを探せばいい。代わりはおそらく誰でもいいのだ。

アメリカでは自分が応援する大統領候補や議員候補を当選させるために寄付をしたりボランティアをしたりする。だから政策について勉強もするし「この人でなければ」と思う。ところが日本人は自分が応援した政治家を議会に送り込もうなどとは思わない。政治にそんな期待はもともとしていない。有権者が期待するのは「政治家がどれくらい自分たちのところに何かを持ってきてくれるのか」ということだけである。猫ならネズミを採ってきてくれればそれでいいと日本人は考える。顔の違いはわからない。採ってくるネズミの数が大切なだけで猫そのものには興味がない。

日本は民主主義が定着していないというような言い方はもちろんできるのだが、最初からそれほど期待もしていない。誰か出さなければならないならせめておいしい思いをさせてくれる人がいい。それだけである。

そもそも政治にそれほどの期待がない上に政治家に高い倫理性を求めなくなったせいで「この程度のこと」では誰も驚かない。ただ「野党に餌を与えない」くらいのニュアンスで閣僚を辞任させて隠しただけなのだ。辞任させられた菅原一秀元経産大臣などは「運が悪かった」ということになるが、代わりは誰でもよかったということでもある。菅原さんが辞めて政治が混乱したという話は聞かない。おそらく萩生田さんもそうだろう。誰か大臣という名前の人がいればいい。

国民は動かない。だから継続的に何かを与え続ける必要がある。それが大型予算である。だがそれも続きそうにない。例えば菅官房長官のホテル50カ所構想などがそれだ。Twitterではバラマキ批判が起きていた。

だがこれも実は見掛け倒しである。金を配るとは一言も言っていない。景気がいいバラマキのように一瞬見えるのだが、その内容をよく読んでみると「お金を貸す」というだけのものである。官邸がいろいろバラマキたくても財務省がOKを出さないのだろう。日本は空前の黒字超過なのでお金は余っていてその上超低金利になっている。必要なのは資金ではなく需要なのだが、政府に信頼がないので国民は未来に期待をせずしたがって誰も投資をしない。そんな中お金を貸しますよと言っているだけである。この財政投融資についてQuoraで聞いてみたがレスポンスはなかった。誰も説明できないのだ。にもかかわらずTwitterでは「バラマキだ」「亡国だ」と騒ぎになっている。つまりみんな政権批判には関心があるが政治には関心がないのである。批判する側も実は政策にはたいして期待していないことになる。

日本の政治には軸がない。このため思いつきの判断や政策が横行し、知識に基づかない非難が飛び交っている。それでも我々の国はなんとか動いているように見える。だが、もしかしたら我々は単に自由落下しているだけなのかもしれない。

神奈川県の情報流出事件と統治の危機

神奈川県で個人情報が流出する事件が起きた。データ総量は27テラバイトだったそうだが、容疑者は「3年前からやっていた」と言っている。おそらく総流出は相当なものになるだろう。この事件から何を読み解けばいいのかを考えてみたい。




第一の考察点は「最後のセキュリティホールは人間だった」というものである。この事件が起こる前の「お花見問題」ではシンクライアント方式の議論があった。情報が分散されるクラウド型やPC型よりも昔のホスト方式(今はシンクライアントと呼ばれる)の方が有利だというようなことが議論されていた。

システムが堅牢に作られていてもそれを扱う人間の問題は無視されてきた。終身雇用型・自社調達の環境に慣れた日本人は従業員は「問題なく」ルールに従うと考えてしまうのだが、その考え方はもう通用しない。

今回は富士通系のリース会社がデータを消去して廃棄会社に渡していた。つまりデータは消去されていた。ところがデータラベルを消していただけで情報は残っていたのだろう。データを復元することができてしまった。復元したのは仕事で使おうとしていたそれなりに知識のあるIT会社の経営者だったという。

次の考察点は「日本型の組織は垂直の職掌分業には向かない」というものだ。前回の文書管理の問題では菅官房長官はおそらく文書管理には興味がないということがわかった。中間の官僚は文書管理には詳しいが、彼らは表向きには内閣を補佐しているだけである。それでも成り立ってきたのは政治家の側が官僚を信頼して任せてきたからだった。ところが官邸主導の名の下これが崩れてきている。

両者に共通するのは、日本型のマネジメント慣行には実は意味があるということである。ところが日本人はこれを言語化してこなかったので、なし崩しになっても何を失ったのかを意識しにくいのだろう。

今回の問題では中途採用の正社員が入社直後の3年前からやっていたという。日本では終身雇用制がなし崩し的に崩れたために、こうした変則的な雇用体系に対応するマネジメントが育っていない。今回も「監視がなく盗み放題」だったそうだが、まさか中古のハードディスクが簡単に転売されるなどとは思っていなかったのではないだろうか。

もちろんお花見名簿破棄問題と神奈川県の情報流出問題は別物なのだが、官公庁の雇用とマネジメントという共通の課題がある。

よく「日本の政治が劣化している」と言われる。おそらく政治家の心持ちの問題を言っている人が多いのだと思う。だが、実際には現在の雇用環境に見合ったマネジメントスタイルが確立されていないという問題がある。統治哲学と言ってもいいが、政治哲学のない安倍政権が長かったせいで統治制度が劣化しているのである。

統治にとって文章管理は国の基礎である。例えば太閤検地は「戦国時代」と言われる内戦状態からの回復過程で徴税のための記録を再整備しようという試みだった。太閤検地は記録をするだけでなく記録の基礎になる単位まで作り直したと言われる。記録が乱れていくということは統治能力が失われてゆくということを意味している。現代民主主義ではこれに説明責任という全く別の責任も伴う。安倍政権は説明責任を果たしていないが、おそらく統治の根幹である記録管理もできなくなっているのだろう。

この問題は「ベンダーが悪いのか県庁が悪いのか」という犯人探しが興味の対象になっている。問題の根幹がわからなくなった時誰かを責め立てるのは常套手段なのだが、それによって問題が解決することはない。

与党も野党も頼りにならない今、こうした点に問題意識を持つ新しい政治的リーダーの存在が待たれる。さもなければ国はバラバラになってしまうだろう。