公共の崩壊 – 自己責任と夏休みの宿題不要論

Quoraで夏休みの宿題不要論という質問があるのを見た。ちなみに今は教育改革ではなく「日本人の政治嫌いと公共不信」について考察している。




この質問に「学校で夏休みに宿題を課す理由は勉強習慣を維持させるためでは?」という毒にも薬にもならないような回答を書いた。たくさんの回答を書いたので面倒になっていたのである。ところが面白いコメントが帰ってきた。勉強が好きな子はむしろ代行業者を使うというのである。

この質問を書いた人は宿題が不要であるということを証明したいわけで「宿題に意味がある」という回答は求めていないと思う。ところがその理由にまでは思いが至らなかった。これはどちらかというと「できる子」の視点である。できる子は公共を不効率なものと考えていてそこから出て行きたいと思っているのである。

学校の宿題はカスタマイズされていない。怠け者の子供は宿題を溜めるだろう。一方で、中途半端な内容の宿題はかえってできる子には邪魔である。夏休みくらいは学校に押し付けられない「将来に役に立つ」勉強をしたいのだ。つまり、平均をとると誰のためでもないものができあがってしまう。これが多数決民主主義の別の問題だ。社会主義的に一律に与える課題の問題という意味では社会民主主主義の問題と言っても良い。

学校側から見ると「親の世代と同じことをさせていると親が安心する」という理由で宿題を出すという事情があるようだ。変わらないことをみせるために宿題が出されているわけで「こんなものはいらないのではないか」という議論には対応できない。変わらないことを優先しているうちにシステム自体が疑問視されるというのはいろいろなところで見られる。そして実際にそこから離反する人も出てくるだろう。

一応彼らのために制度を再設計すると基礎勉強は最低限にして自由裁量時間を増やすべきだということになる。多分勉強しない子は最低限のことしかしないはずだが、それを外からなんとかすることはできない。中には日中を一人で過ごし「何をしているかわからない」という子供も出てくるだろう。という一方、できる子も夏休みの勉強の成果を学校に持ち帰ることはないだろう。彼らは受験勉強で忙しく「学校に構っている時間はない」からである。

我々はこれまで「公共の不在と政治嫌い」について主にこぼれ落ちた側からの議論を展開してきた。機能不全に陥っているセクターでは全体の調整力が失われ無力感としての政治不信が起こりますよねという図式である。ところがその対局には実は「公共に縛られたくない」という人たちもいる。能力があって自由主義の方がいいという人たちである。これを一つの制度で解決することはできないし全員を集わせて話し合いをさせるということもおそらくできないだろう。

ここまで大きな(あるいは遠い)視点になると問題は、公共というものが公共教育でさえも大きくなりすぎていて誰のためにもならないものになっているということがわかる。

さらに追い打ちをかけるのは「社会が提供する標準的なコース」に乗っていては落ちこぼれるかもしれないという恐怖心である。自己責任論に苛まれて個人の成長を追求してもそれが大きな広がりを持つことはないだろう。彼らは公共が機能している社会(そんなものがあればだが)に逃げてしまうだけだ。昔から学校の宿題が物足りないという人はいただろうが、行き過ぎた危機感がなければ「代行業者を使ってでも逃げ出したい」とまでは思わなかったはずである。

学校の先生は一生懸命に勉強して終身雇用の先生の地位を得る。ところが生徒はそうではないので「自己判断」で宿題を評価するようになる。するとお金を出してごまかそうという人やサボってためてしまってどうにもならないという人が出てきてしまう。その意味では学校制度はすでにかつてのようには機能しなくなっている。多分公共もかつてのような安心感を我々に与えてくれない。一度壊れた信頼は取り戻せないのだ。

日本人は身分保障をしてくれる集団を作るが、家族や地縁のような拘束力の強い集団は作れない。そして集団が身分保障をしてくれなくなると集団への貢献を控えるので集団は成長したり拡大したりできなくなる。集団を成長させても寡頭の意思決定者に搾取されるだけだと感じるからだ。かといって個人の意思疎通を通じて利害調整したりすることはできないので個人主義的な成長も難しい。こうして日本人全体が政治や公共を信じられなくなり様々な問題を引き起こすのだろう。

根底にあるのはちょっとした不信感だが、その不信感が機能不全を生み、それがさらに不信感を増大させてゆくのである。

早いうちから囲い込みを始める日本人にはアップルもディズニーランドも作れない

最近iPhoneを買った。そのうちFOMAが停波になるという話を聞いたからである。そこでSIMを探したのだが結局諦めてしまった。今回観察したいのは「恐れ」が作る停滞である。大げさに言えば社会と協力体制が構築できないことで成長から取り残されているという現象だ。




まず問題なのか選択肢の多さである。そして一旦選択すると抜けられないようになっている。「この業界はある程度儲かる」となると過当競争が起きる。そして業界が大きくならないうちに囲い込み合戦を始めてしまうのである。

顧客獲得競争が激化すると顧客獲得コストが膨大になる。会社は一旦つかんだ金蔓からその原資をしぼり取らなければならない。こうなると顧客は気軽にお試しができなくなる。するとお客は逃げてしまうのである。だから日本の産業は成長できないのだ。

格安SIMは「半額キャンペーン」が横行している。だがそれは一年間半額とか半年間半額である。逆に言えば「将来確実に二倍に値上がりするものを買ってくれ」ということである。将来劇的に値上がりするものを買う人などいないということを誰も認識できない。日本の通信事業者はそれくらい遅れている。

さらに店はお客が選択できないように情報を撹乱する。キャンペーンの内容がコロコロ変わる上に、選択基準がバラバラで比較できないからそのうちに選択に疲れてしまう。ところが疲弊しているのは実はお客ではない。

ある店員は「SIMフリーにしないとどこの格安スマホも使えない」という。そこでNTT DoCoMoに電話するとSIMロック解除をしているかどうかは契約していない端末についてはわからないという。ところが、実際にはSIMロック解除をしなくてもキャリアが揃っていれば使えるというところが多い。このようなことが延々と続く。みんなが不確なことを言っていてその真偽を確かめているうちに疲れて選択そのものを諦めてしまう。だがそこで気がついたのは「この業界の人たちは誰も全容がつかめなくなっているのだ」という事実である。つまり彼らは手探りで延々と彷徨っている。多分賃金もそれなりにしか支払われていないだろう。

日本人は政治的な変化を求めないということを非難しながら書いてきたのだが、実際に変化が起きている現場は確かにもっと悲惨だ。日本人はお互いに協力できず小さな村を作って競い合う。変化にさらされた現場は大混乱し、それが定着してしまうのである。

こうした混乱の結果諦めの境地に達した人は多い。いろいろ質問をするとそのうちにお店の人の頭が飽和してゆくのがわかる。最終的に彼らはフリーズする。多分、同じような体験を何度もしているのだろう。迷いだした客に適切な対応ができないのである。お店の人は「アアマタカ」と思いながら手元にある電卓を意味なくカチャカチャとさせ始める。

顧客が慎重になるのは顧客もまた先の見通しが立たないからである。つまり半年後に面倒になれば解約できるようにしておかないと安心できないのだ。背景には終身雇用の崩壊という問題がある。でも余裕ができれば新しいサービスを探す。その芽があらかじめ摘まれてしまえばそれが回り回って社会の成長につながることはない。

ちょうどSIMを探していた時に停電の話を書いていた。いつもは動いているものが動かなくなっても「自分には何もできないし誰かが調整してくれるのを待とう」という姿勢が蔓延している。と同時に、政治嫌いも進行している。政治嫌いとは「公共への不信感」と「無力感」が合わさった状態だ。つまり、私一人が何かしても何も変わらないから目を背けようということである。

多分、全体がなんとなく機能しないことはわかっているが、自分一人ではどうしようもないという諦めはいろいろなところにあるのではないかと思う。

いろいろ観察してみるとエントリーレベルでは数百円のものが出ている。月々千円台なので実は気軽に始めさせてみれば案外使ってくれる人は多いのだと思う。フレキシブルにすれば二台持ちをしてもいいという人だって出てきてもいい。だが、日本の事業者は規模が小さすぎてそれができない。

そんなことを考えているとAppleが新しいサブスクリプションサービス(Apple TV+)を月額600円で出すという話を聞いた。大手は「とりあえず安い価格で使ってもらう」ことで顧客を大量に引き抜くという作戦に出るらしい。考えてみればこれはディズニーランド方式だ。定額制で全部使えますよということにして優位性を作り、プレミアムサービスや付加価値をつけて行くというやり方である。

日本の会社にはそのようなことはもうできない。生き残ってアップルになる前にお互いに足を引っ張りあって潰れてしまうからである。多分通信も黒船がやってくるまで同じような膠着状態が続くだろう。

感じがいい森田健作を知事に選んだのだからいざという時に助けが来なくてもそれはそれで仕方がない

千葉県ではまだ停電が続いている。漁業や乳業などに被害が出始めた。冷凍設備が使えなくなり魚を廃棄したり、牛乳を捨てたりもしているようである。換気が悪く死んでゆく家畜もいるそうだ。(朝日新聞




もともと千葉県は東京近郊にあることを利点にした一次産業が盛んな地域だ。しかし、東京に近い土地でさえ電気という基本的な問題さえ容易に解決しないということに驚いた人もいるのではないだろうか。

しかし、つくづく社会というのは愚かだなと思う。原因を解決して気持ちを改めようなどと思う人は出てこない。まず起こったのが「他人を指差す」行為である。そしてあらかた騒いだら問題ごと切り捨てて忘れてしまう。

当初は初動が遅れ経済産業省が9月13日に全容解明を始めるまで地方自治体と東京電力の間に体系的な連絡はなかったようである。これは県に意識がなかったあらわれである。元はと言えば本人も認めているように森田健作知事のリーダーシップのなさに起因するのだが、感じのいい人を選んで知事に据えてきたのは千葉県民だからあまり知事を非難することはできない。悲惨なのは森田知事はどちらかといえば非都市部で支持されていたということだ。

安倍政権も自治体も問題を東京電力に押し付けることになりそうである。いわゆる炎上→犯人探し→押し付け→疲弊といういつものコースが再現される。

この問題押し付けが実は今回の大規模停電の要因の一つになっている。福島第一原発の廃炉費用を捻出するためにインフラ整備費用を抑えなければならなかったという問題はすでに指摘されている。おそらく人員も削減されていたのではないだろうか。あるいは少子高齢化を前提に採用や賃金が抑制されていた可能性もある。

だから、感じがいいだけの政治家たちはそれぞれの方向に逃げている。そして現実を直視したくない支持者たちもそれに追随するのである。東京都の小池百合子知事はTwitterで「電柱の地下化」などと言っていた。確かに表参道のようなおしゃれなエリアみたいになればかっこいいが、そのためにはいくらかかるのか。そもそも東電が設備維持費を削減していたという事実をどう見るのかなどといった具体的なことは一切語られない。そもそも問題に対処して動いているような形跡も見られない。東京は伊豆諸島という被災地を抱えているのだが他人事のままである。小泉進次郎環境大臣は福島福島と叫び福島に行ってしまった。廃炉の問題は経産省の問題であるといい続けて「かっこいいこと」だけを言い続け、国民はそれを支持し続けるだろう。

問題を見なければなかったことにできる。だからデモをやったり政権批判したりする人は嫌われる。どうしても「日本人はもう足元の簡単な問題を解決できない」ということを思い出してしまうからである。

有権者は変化を求めていない。そればかりか日本が衰退してゆくことを織り込んでおりこうした問題から目を背けている。だから、日本人は千葉の問題が解決しないことを怒らない。逆に、それを突きつけてくる人に腹を立て「自己責任」を言い立てる。そしてさらに問題が解決できなくなる。

多分、我々の政治嫌いは次のステージに来ていると思う。多分日本人の政治嫌いは「いつ生まれた」というより徐々に育まれてきたのであろう。段階的に見ると、ポリティカルアパシーから諦めへと進行している感じである。この後に及んで助けあえない社会に住む我々が今できることはそれをただ淡々と見つめることだけなのかもしれない。

日本人には誰も何もまとめるつもりがない

今日は「日本人は誰も何もまとめるつもりがない」というテーマで書く。政治嫌いとかそれ以前の問題だ。興味がない以前に、そもそもまとめるつもりがない。




竹本直一IT担当大臣が早速いろいろなネタを提供している。自分の公式ウェブサイトは閉鎖されておりどうして閉鎖されているかわからない。また、公式YouTubeではAV動画が残っていたそうだ。多分関係者が高評価したものが残っていたのだろう。事務所ののほほんとした仕事ぶりが分かる話だ。

極め付けだったのが「はんこ議連の会長だった」という点である。早速面白がった記者が質問をし「印鑑とITの両立」といういかにもTwitterでバズりそうなキーワードを提供してしまった。聞いてくれた記者はグッジョブであるが脱力感しか残らない。今回の改造は安倍適材適所内閣(はいはい)と命名したい。

この問題が過去の面白い問題を呼び起こした。国の改革提案から「印章の義務化の廃止」という項目が排除されてしまったというのである。ちょっと話題になったがすぐに忘れ去られた。具体的には次のようなことを言っているそうだ。さらに改革するなら業界に補償せよなどとも言っている。

1つ目は行政続きにおける「本人確認押印の見直し」、2つ目は法人設立における「印鑑届出義務の廃止」、3つ目は「一般的な取引におけるデジタル化の推進」である。つまり、本人確認には引き続き印鑑のみを用いるべきであり、一般的な取引をデジタル化することには反対するという主張である。

印鑑廃止、業界団体の反発で見送り これは「異常な光景」なのか?

政府はマイナンバーカードの普及を進めている。ICカードを使えば本人認証ができるはずである。2019年3月現在の普及率は12.8%だそうだが、使い道がなければ更新しない人も出てくるだろう。未だにこのカードを出すと珍しがられる。普及に346億円の国家予算を使いポイントもつけるかという話も出ている。だが、こうした努力も「結局印鑑が必要だ」というだけで台無しになる。つまり国の政策には整合性がない。

さらに国会の業務効率化にも逆行する。印鑑業界を守るためにかなりの工数をかけているはずである。費用削減効果は億を超えるのではと思うが、そもそも試算もないようだ。霞ヶ関でも一旦書類として印刷し捺印した上でそれを電子的に読み込みOCRをかけるということになる。無駄の極みであるデジタル政府を作ってそれを海外に売り込むのだなどという威勢のいい言葉は並んでいるが、実際には印鑑さえ削減できない。政治のリーダーシップがないからである。

結局国はどこに行きたいのだろう?と思うのだがその方向性は全く見えない。安倍首相は憲法改正をやりたいと言っているが内閣改造と憲法改正の関係もわからない。首相が言っているのは「俺は俺でやりたいことがあるから国のいろんなことは適材適所でよろしく」ということだ。それを菅官房長官が「適材適所なんじゃないですか」といって薄ら笑いしている。

安倍総理大臣には統合力がないが、統合力がないことを誰も責めない。そもそも前回見たように日本人は共助や自治に興味がないからだ。誰も何もまとめないことを取り立てて不思議に思わないのである。だって国は昨日と同じように動いているからである。ある意味社会はそれぞれ自律的に動いていて極めて民主的な社会と言える。ただし何も変えられない。

こうしたバラバラさは災害時対応でも見て取れる。日曜日深夜から始まった大規模停電が千葉県で続いているのだが、被害の全容解明をしようと動き出したのはなんと金曜日の9月13日だったそうだ。それまでの間東京電力は地方自治体に被害の全容報告をしなかった。経済産業省が入ってやっと電柱2,000本という数が出てきた。

確かに9月11日に内閣改造がありそれどころではなかったという気持ちはわかる。

今回特殊だったのはこれがほぼ千葉県だけの話だったということである。つまり千葉県だけで解決ができるはずの問題だったのだ。だが、千葉県全体をあげて対策本部を作ったという話はついに聞かれなかった。森田健作知事も多分大変だったんだろうが何をしていたのかよくわからない。千葉市長はTwitterで「いろいろ調整しているなあ」というのが見えてきた。小西ひろゆき議員も政府批判を混ぜ込みつつ「自分はいろいろやっている」とアピールしていた。それはそれで立派なのだが、誰もそれをまとめない。そしてまとめないことについて誰も何も言わなかった。自分の家の電気がつくことだけが重要だったからである。電気が復旧した地域からそれは他人事になった。

前回日本人は政治が嫌いだという話を書いた。たくさんの人が読んでくれているようだ。だが、問題はもっと深刻である。つまり総理大臣から下「誰も話をまとめよう」という発想を持たないのである。公共を嫌っているわけではない。そもそもそんな発想がない。

改めて「昔からそうだったのだろうか?」と考えてみても答えが出てこない。おそらく昔からそうだったのだろうが、かつては職場や住居にそれなりのまとまりがあり国や地方公共団体は「それをお手伝いしているだけ」で済んでいたのではないかと思う。つまり公共がなくてもそれほど困らなかったのだ。そういう小さなまとまりが崩壊してもなお日本人の意識は大して変わらない。

自民党は憲法改正案の中で公共の福祉の拡大や緊急事態条項の設置など「公の拡大」を求めている。そもそも統合しようという気持ちがないのになぜ権利だけを欲しがるのだろうかとは思う。

だが、仮にそんなものを政府に与えたとしても日本人はそれを使いこなせないだろう。そもそも公共というものに全く意識が向かわないからである。日本人は今でも村社会を生きていて、地方自治体以上のレベルのまとまりを意識できないのではないかと思う。

日本人は助け合いが嫌いという謎

日本人は実は助け合いが嫌いだという文章を読んだ。自己責任時代と言われているので「ああそうだな」と思った人もいるかも知れないし、また日本人論だろうと苦々しく思った人もいるかもしれない。




坂本治也関西大学法学部教授は「日本人は共助が嫌いだ」という国際的な調査を起点に論を展開している。ボランティアをやりたくないし興味もない、自治会の活動にも参加したくない、寄付もしたくないという人たちだ。自分たちで助け合いがしたくないなら国に押し付けるという選択肢もあるのだが、日本人は公助にも否定的である。なぜか「自己責任」を主張して問題をなかったことにしようとするのである。

ところがなぜ日本人が公助も共助も嫌いなのかという点がわからない。そこで、坂本さんは別の調査を出してきた。それが「日本人の政治嫌い」である。共助嫌いの人は政治参加にも否定的であるという相関関係があるそうだ。政治に関心がないほど助け合いにも興味がない。

まず重要なのが、ここで言っている「政治」というのは自治と意思決定のことだということだ。これについてQuoraで聞いてみたのだが大した答えは戻ってこなかった。Quoraでは毎日のように政治問題が語られている。みんな政治に興味があるはずなのに、助け合いには興味がない。坂本さんも政治というラベルを使っているのだが、実は政治には自治・意思決定・助け合い以外の領域があるのかもしれない。

Quoraで語られる政治とは日米同盟維持のために憲法を語ったり韓国を罵倒することであって、街の助け合いなどといった生活に密着した政治が語られることはない。これがいつからなのかはわからないが、昔からポリティカルアパシーなどと言われていたなあとは思う。GHQが入ってきて民主主義万歳となった少ない時期を除いて日本人は政治を自分たちのこととは考えていないと思う。

別の人からはアメリカ人も政治の話はしないという答えが返ってきた。この人が言っている政治はイデオロギーや宗教のことである。確かにアメリカ人は明らかに個人で折り合わないだろうことは語らない。ただ、コミュニティや予算の問題については積極的に発言する人が多い。つまり民主主義国家のアメリカでは「小さな政治」が語られる。そして今回の2020民主党ディベートなどでは国家の問題として「暮らし」は主題になる。前半をなんとなく聞いていたのだが中流階級の健康保険負担などについて熱心な(そして意見が激しく対立する)議論があった。

このように「政治」と言っても様々な政治がある。ここで言っている政治とは「公共・社会・住民参加」などなのだが、こうした「意思決定としての政治」は学術研究者が考えれば真っ先に浮かんでくるが、世の政治好きにとっては全く興味・関心がないテーマなのかもしれない。

日本人は社会参加に関してかなりシビアに「費用対効果」を見ていると思う。自分の意見が通りやすいパスをかなり慎重に見極める。そして普段の生活で我々の意見が集団に取り入れられることはほとんどない。だから日本人は暮らしと密接する政治に関心がない。持ち出しが多くなると予想するからで、たいていその予想はあたる。

こうなる理由は簡単だ。日本人の多くは決める側ではなく従う側に置かれるという体験だけをして一生を過ごす。例えば学校で意思決定するのは先生と先生のお気に入りの一部の学生たちである。その他の学生たちは「拍手したあとで従う側」で終わってしまう。日本人は個人主義でもないが集団主義でもない。どちらかというと寡頭制でお互いを承認賞賛するというシステムが作られやすい。

同じことは自治会やPTAでも行われる。どの会にも役員会を掌握して手放さない一部の人たちがいる。「その他大勢」に期待されているのは二等兵としての役割である。上官を賛美し下働きをするのが二等兵の役割である。だから自治会もPTAも役員のなり手がない。意識としては徴兵と同じことだからだ。

日本人が政治を嫌うのは寡頭で意思決定するからなのではないかと思う。かといって単純民主制にすると多数派と少数派が生まれ少数派は抵抗勢力になる。あるいは拮抗するとお互いに対立して足を引っ張り合う形が生まれる。日本の議会がうまく行かないのはこのためである。お互いに思っていることを言語化して共有しようという気持ちはないし、さらに言えば相手を理解しようという意思もない。

日本人は総じて親密で言語によらない関係を好むので寡頭政治に頼らざるをえない。寡頭であれば「阿吽の呼吸」で意思決定ができるからである。日本人の非言語依存の意思決定の弊害だが、これを弊害という人はいない。

記事の中にも書かれているが、寡頭制で意思決定してきた人たちもうすうすこのことに気がつきつつある。そこで彼らが「動員」をかけようとして新しい公共という言葉を持ち出した。例えば憲法に「公共の福祉」の拡大解釈を書き加えて国民を動員しようというのである。

この新しい動員はもともと公共という概念が薄かった日本人に別の感情を呼び起こす。ある人たちは「これを利用する側につけば相手に持たれかかることができる」と考える。うまくやれば相手を搾取できると考えるのである。また別の人は「これに巻き込まれれば搾取されるだろう」と考える。当然意見はまとまらない。

冷静に考えてみても、なぜこうなったのかはよくわからない。だが現実はそうなっている。現代の日本人はとにかく変わりたがらないので、共助・公助ぎらいは多分なくならないだろう。自己責任社会は当分続くことになるはずで、それは「小さな政治」ぎらいを伴うはずである。面倒だから考えない、そして考えないからもっと面倒になるという悪循環だ。

政治の選択肢は無秩序に広がる自己責任で不安が増してゆきそれが経済不振にまでつながる世の中と、公助という名の下に責任を誰かに押し付けるという過負担な社会の二択だけである。だが、日本人はそれに抵抗しない。自発的に助け合うのは嫌だからだ。

空っぽだからこそ支持される「小泉進次郎」という現象

小泉進次郎さんが新しい環境大臣になった。空っぽな人だなあと思った。その空っぽさゆえに支持されるのだろうとも思った。「小泉進次郎」という現象を見ていると我々日本人が政治に何を期待しているのかということがわかる。小泉さんが一生この現象に付き合って行けるかという点は問題だが、それは本人が解決すればいいことだ。




小泉さんは結婚発表を官邸で行った。この際に育休について聞かれ「考えている」といった。ところが大臣になってしまえば育休は取れそうにないですねと問われると「育休が問題になるというのは記者たちが古くさすぎるからだ」と言いだした。嫌な感じは全くしなかった。条件として「奥さんの心理的負担を減らす」と付け加えたからである。

視聴者の頭の中には「奥さん思いのいい男」という印象だけが残ったことだろう。よく考えると育休の話は全く解決していない。つまり、小泉さんは問題を解決せず本人を感じよく見せることを優先したのだ。逆に問題を解決しようとすれば議論が起こる。政治に問題解決を期待しない日本人にとって、議論は単なる嫌な揉め事に過ぎない。誰も政治家に問題解決は期待していない。だから小泉さんの人気はまた上がった。

原発の排水問題についても同じ手法が取られた。排水の問題は担当ではないと言い切った上で「小名浜の魚連会長」の実名を出した。小泉さんは小名浜の魚連会長の名前も知っているのか!という驚きが感じられるが、実は問題は何も解決していない。そして大臣就任の時に原発依存しなくていい国の仕組みを考えるとも言ったが、考えるだけで問題を解決すると言っていない。そして実際に問題が起きている千葉ではなく福島に向かった。

小泉さんは人の話をよく聞くし彼らが欲しい答えを返してくれる。つまり話を聞いている人には「ああ、小泉さんは我々のことをわかってくれているんだなあ」という印象は残る。しかし、その一方で実は何も解決はしていない。よく考えてみると10年の間に小泉さんが「これを解決した」というよく知られている課題は何もないはずだ。

問題を解決しないが話も聞かない人もいる。その代表が安倍首相である。北朝鮮拉致問題でスターになった安倍首相には官僚組織を率いて問題解決をした経験がない。安倍首相は自分が見下している人の話は聞かないので一部の人たちから蛇蝎のように嫌われるのだが、根っこは同じである。単に見せ方を変えて敵を作らないだけで印象がこうも変わってしまうのである。

小泉さんの人気は高い。何も解決しないことは失敗にならない。だが、問題に取り組んで軋轢が起こればそれはすぐさま失敗になる。何も取り組まないことで「失敗していない感じのいい人だ」という印象が残る。日本は失敗した人を叩く社会であり、失敗しない感じのいい人が高い得点を得られることになっている。小泉さんは人気が高かった小泉純一郎首相の息子であり、兄が俳優になれるほどのイケメンで、まだ何も失敗していないというだけで好感度があがる。日本人はそれを喜んで支援するのである。

新聞は「成果をあげれば」といっているがこれは建前を自動的にタイプしただけのことだろう。指が勝手に動いて書いてしまったのだ。実は何もしないで情報発信だけしていた方が小泉さんが首相になれる可能性は高まると思う。単に日本は古くさいねといっているだけでいいのだし社会はそれを望んでいる。

次の首相にふさわしい人物について、日経新聞が2日に報じた世論調査では、小泉氏が29%でトップ。2位は安倍首相、3位が石破茂元幹事長だった。菅義偉官房長官は先月、小泉氏の入閣について会見で問われた際、党の農林部会長や厚生労働部会長として「経験を積んでいる」と評価。「今後の活躍を期待している」と語っていた。

小泉進次郎環境相、38歳で初入閣-「ポスト安倍」試される手腕

実は小池百合子元環境大臣も同じような感じで首相候補と見なされ、実際に総裁選に出たりした。彼女も「感じがよく男性社会に挑戦してくれそうな」ところが良かった。組織の調整などをした経験はなく、したがって実際に組織やプロジェクトを持ったところで失速した。日本だけの問題ではなく「ピーターの法則(ダイヤモンド出版)」として知られる。

希望の党という政党で大混乱したが小池さんの人気がなくなることはなかった。一度感じが良いという印象が着くとそれが残像のように残る。政治家本人が問題解決志向にならずお人形さんとしてとどまる限りそれで構わない。職業としての政治家を選んだ以上ファッションモデルのように周囲が着せ付ける政策を選んできれいに見せていればいいのだ。それが日本人が求めるプロの政治家なのである。

西洋型の民主主義では「どんなビジョンを持って何をやったか」が重要視される。例えば韓国では検察改革というビジョンがありそれが軋轢を生んでいる。またイギリスの政治家たちは周囲に混乱をもたらすことがわかっていてもブレグジットを前に進めようとしている。ボリス・ジョンソン首相はついに「女王に嘘をついたのでは?」と疑われるようになってしまった。問題解決こそが政治でありそのためには嘘もやむをえないとジョンソン首相は思っているのだろう。

ところが日本人は「何もしないし何も決断しない」リーダーを求めるという傾向がある。その意味では日本人は政治に期待をしていない。坂本明也関西大学法学部教授が日本人は助け合いも政治も嫌いだということを調査や論文を元に解説している記事が見つかった。坂本さんは次のように結んでいるが、おそらく日本人が自発的にそんな議論を始めることはないだろう。

筆者としては、日本人の(低投票率に限られない)「政治嫌い」と「共助嫌い」の現状、その改善の必要性の有無、また改善するとすれば何が求められるのか、について深く生徒らに考えさせる機会をぜひ設けてほしい、と願っている。

日本人は、実は「助け合い」が嫌いだった…国際比較で見る驚きの事実

日本人は助け合いができず問題が起これば自己責任に押しつぶされてしまうから身動きが取れなくなる。また、政治家はどこかのレベルで何らかの組織を率いなければならなくなる。

しかし、それでも日本人は何かの組織を率いて失敗した人を「汚れた」として嫌う。こうやって日本人はだんだん身動きが取れなくなり、国が開いている以上は最終的に「思い切った行動」に出て失敗するだろう。それは最終的には悲劇かもしれないが、それを求めているのもまた日本の有権者なのだ。

わからないという不安 – 日本人が集団で相手を非難するのはなぜなのか

ABCニュースのトップはボルトン氏の辞任の話だった。大統領は自分がクビにしたと言っているが本人は自分から辞めたと言っている。既定路線だったようで特に分析などは出ていないのだが、やはりニュースといえばニュースである。ところが日本のニュースはまだ内閣改造に搦めて日韓関係をやっている。「内閣改造は対韓強硬路線を示すために行う」というのである。日本のマスコミは安全毛布としての韓国にしがみついている。




Twitterをみると安倍内閣が千葉を忘れて内閣改造に没頭するのは何事だというつぶやきと復旧に奔走する野党議員を罵倒するつぶやきが見つかった。こちらも状況がわからない外野が騒いでいるようだ。

この様子を見るだけで日本人がどんな精神状態に置かれているのかがわかる。誰かを非難したくて仕方がないのだがそれが自分に跳ね返ってくるのが嫌なのだろう。そこで叩けるものを叩いて騒いでいる。誰かを叩くのは多分不安だからだろう。

日本人はアメリカには勝てないと理屈抜きで考えているのでアメリカがうまくいっていないというニュースは見たくない。一方韓国には勝てると考えていて、韓国関連のニュースを見たがる。旧秩序に基づいて現状を見ている。見えるはずのない歪んだメガネだがどういうわけかものの見方は変えられない。

電気については「面白いなあ」と思うことがある。電気が復旧しないのには必ず理由があるはずである。多分現場は何が起きているかを知っているだろう。だがテレビ局が見たがるのは「災害のすごい絵」と「責任者の処断」である。マスコミは常に部外者なので大きな絵を切り取りたがる。原因がわからないから次第に「誰を非難するか」に意識が向かう。こうして問題解決から意識が遠ざかって行く。

不思議だと思っていたのだがようやく理由がわかった。つまり「何がどうなっているのか」がわからないものを外から触っているからこういう絵しか流せないのだ。原因が分かればその原因について説明すればいいのだが、それができないのだろう。ニュースアンカーもレポーターの紹介係になっているだけで情報を統合しない。というよりそういう発想がないのだ。

初動の時期に東京電力に話を聞いてみて思ったのだが、各現場は情報を持っている。ただそれを他部署に伝えたりお互いで共有しようという発想は全くないようだ。聞かれるまで黙っている人と教えてもらうまで黙っている人がいる。そしてそれがマスコミによって無理やりにつなげられるとストーリーがでっち上げられ炎上する。SNSの発展によりショートする回路は格段に増えている。

電力会社に質問すれば答えは教えてくれる。東京電力の職員は千葉市役所の本庁舎にも常駐しているそうだ。つまり話を聞ける人もいる。すなわち「質問ができる人がいない」ということになる。

何を聞いていいのかがわからなければ何も伝えられない。日本の新聞記者は受け身の日本式教育を受けて記者クラブで与えられる情報を餌にして育つのでそうなるのだろう。問題意識を持って「これはこうなのじゃないか」という仮説が立てられない。仮説を立てて推論ができないと何が起きているのかがわからない。あとは騒ぎに乗るだけである。

同じことが多分日米関係にも言えるのだろう。日本人はアメリカで何かが起きていることはわかっている。だがそれが何なのかがわからない。誰も正解を教えてくれないからである。

アメリカはそれを仮説を作って説明しようとする。

イアン・ブレマーが面白いことを書いている。トランプ大統領は症状であり原因ではないというのだ。つまりトランプ大統領が問題を引き起こしているのではなく、問題の結果がトランプ大統領だということである。イアン・ブレマーは極のない世界という世界観を持っているので、その症状は無秩序だろう。今回はジオポリテックリセッション(地政学的不況)という言葉を使って説明しているようだ。

イアン・ブレマーはこれを地政学的不況というコンセプトで説明しようとしているものは、結局なんだかよくわからない。ただ、言葉を与えるだけでお互いに共有できるようになるという不思議な作用がある。とりあえず古い体制に戻ることはなく新しい状態に移るためのトランジショナルな状態にあるのだと考えることで、ようやく話し合いの糸口が掴める。日本人はこれをやらずに単に騒いでいる。騒げば誰かがなんとかしてくれると思うからなのかもしれない。しかし、騒いでも状況が元に戻ることはない。

イアン・ブレマーの仮説がどれくらい正しいのかはわからない。重要なのは「大きな仮説」を立てて包括的に物事を眺めることである。つまり、元には戻らないがかといって、この世の終わりでもないということなのだ。

日本人が仮説を立てて何を質問すべきなのかが考えられないのは多分学校教育のせいだろう。正解を学ぶことしかしないので自分で問題意識を持って調査しようという気持ちになれない。だから今のテレビを見ていても不安になるだけだ。だが、もうテレビを非難しても何も解決しないだろう。だから学校教育についてせめても何の役にも立たない。

我々にできることは多分自分で新しく情報を集め始めることだけなのだ。

千葉市の台風被害と停電状況について

千葉市の上空を台風が通過した。ものすごい風だったのだが台風は過ぎてしまえば生活はもとどおりになるだろうと思っていた。だが大規模な停電が発生し、街は依然混乱したままである。今回はなぜ停電が発生し復旧に時間がかかったのかを考えたい。問題は多分街路樹である。




通過直後、近所の桜の木が軒並み倒れていた。どうも桜は根の張り具合が悪いようだ。

また、物置や自転車置き場などが潰れたりしていた。あまり想定されていないレベルの風が吹いたのは確かなようである。BBCまでも過去最強だったと伝えている。

このため停電が相次いだ。この停電状況を伝えるテレビ報道が大雑把だった。千葉県南部(君津市など)はかなり太い回線がやられたらしく全面停電が起きているようだ。だが、千葉市は電気が全く来ていない街区と平気な街区が細かく分かれているのだ。

住んでいる地域はなんともなかったのだが、隣の町は1,000件程度が停電したそうで今も復旧していない。停電をすると信号も止まってしまうし病院も診察中止になる。これがテレビでは伝わっていない。Twitterではもっと大騒ぎになっていて「千葉が大変だ」というようなツイートが流れている。なぜか安倍政権が批判されていた。多分千葉を知らない人が騒いでいるのだろうなあと思ったが、なんでも利用するんだなあと思った。

意外だったのが電車が軒並み止まってしまったことである。成田空港は陸の孤島になった。JRだけでなく京成線も高速バスも止まってしまったからだ。東千葉では駅舎の屋根が吹き飛ぶということがあったがそれが全路線に影響しているとは思えない。

JRは1日経っても復旧しなかった。つまり千葉駅に乗り入れる鉄道は麻痺状態になった。信号機が止まっているところはあるが路線バスは平常運転のところが多かった。電車は月曜日中は復旧せず、火曜日の午前中に動き始めた。

千葉にいる人は「とりあえず津田沼まで出れば東京に通勤できる」ということになったのだろう。月曜日の津田沼駅には2km以上の長い行列ができた。「社畜だ」「いや仕方がない」というような議論が起こった。

こうした大きな話は伝わってくるのだが肝心の復旧状況がわからない。NHKはテレビで初動の「現状把握ができていません」という話だけを伝えた。さらに市役所にも全く連絡が入っていなかった。そこで街を見ながら東京電力に話を聞きに行った。

信号機に何かひっかかっているが、こういうのは例外的だ。国道と高速道路に出るこの道の信号機はしばらく使えなかった。

途中、イチョウの並木の道を通るのだが時々傾いているものがある。この時には気がつかなかったのだが、イチョウの木に電線がかかっている。銀杏がたくさん落ちていて臭い始めていた。

街路樹の根張りはそれほど深くないようで、風に持ち上げられて倒れているものが散見された。

面白いことに、こうした光景が見られることろはどこも停電していた。コンビニが休みになっているところもある。こうした地域では家で料理も出来ないし、かといって買い置き食料がなければ食べるものもなくなる。その上いつまで我慢すれば復旧するのかもわからない。しかし、隣の街区はなんともなかったりする。実に不思議な光景だ。

東京電力で話を聞いた。状況が把握できていないということはないらしい。さらに「おたくの地域は9月11日以降に工事が設定されていますよ」と教えてくれた。つまり、マスコミは伝えない(相変わらず嫌韓報道しかしていない)し市役所には伝わっていないが情報じたいはあるのだ。特に市役所は「報告があれば伝えてあげる」という体質なので自分で情報をとって伝えるという気持ちに全くなれないのだろう。

どうやら架線が切れたということ自体は電気を1分ごとに通して調べることができるそうだ。「鳥が止まってショートする」ということも「よくある」らしい。迂回路も設定してあるので別のルートから電気を流してみて切断箇所を特定して行くようだ。鳥は落ちてしまうので修理しなくても電気は流れる。が、なんどやっても流れないなら枝が引っかかったりしているのだろうと予測して修理に向かうそうである。しかし、なんらかの理由で面で切れてしまったら修理箇所は特定できなくなる。

そんなことを考えながら帰り道を歩いていると、電線が木の枝の間に器用に通っていることがわかった。なぜか電線は三本組になっていてかなり高いところを通しているのだが、イチョウは成長が早いので枝がかかってしまうのだろう。

そうこう考えたところ「うちの近くだけ停電が全くなかった」理由がわかった気がした。街路樹にハナミズキが選ばれている。低木なので電線にかからないのだ。街を作る時に住民が選定したという話を聞いたことがある。「ああ、こんなことなんだ」と思った。こんなことで停電地域とそうでないところが分かれているのだ。

帰りに寄ったスーパーマーケットの棚からは惣菜パンだけが消えていた。停電地域の真ん中にありコンビニも閉店しているところがある。車のない高齢者はここまで歩いてきたんだろうなあと思った。。お年寄りの一人が入り口の床にしゃがみこんでいて「ここにいると邪魔だ」と連れ合いの人に言われていた。だが動けない。「冷たい水がない」と従業員に訴えかける人もいた。車があればこんなことにはならないのだろうがそうでない人もいるということである。

家に帰って停電地域の表を見ると街路樹がきれいに整備されているような地域は停電が起きていないか復旧が終わっていた。隣の四街道市にはガス灯を整備した地域もあるがそこだけは停電情報がなかった。新聞記事を見ると電線が樹木と離れている。大手デベロッパーが都市計画をしたような住宅街は無事だったのだろう。

確かなことは言えないのだが、多分東京電力の人は何が明暗を分けたかを知っているはずである。だがそのことが行政に伝わることはないんだろうなあと思った。多分市役所の職員が自分で考えて東京電力に問い合わせをするということはないはずである。東電もわざわざそんなことは伝えないだろう。今度いつ同じような台風がくるのかはわからないが、同じようなことが将来にわたって繰り返されるんだろう。街路樹を入れ替えるのはお金がかかるし中には反対する人も出てくるだろうなあと思う。確か東京でそんな話があったように記憶している。調べてみたらこれもイチョウだった。

せめてテレビにはこの辺を細かく取材して伝えてもらいたいのだが、それも難しそうだ。TBSの与良正男というコメンテーターが「千葉では鉄塔が倒れたから大規模停電が起こったのかも」などというざっくりしたことを言っており、若いアナウンサーたちがしたり顔で頷いていた。千葉ではまだ48万個が停電している(9/11現在)そうである。

鈴木琢磨とタマネギ男

面白い話をTwitterから仕入れた。「日本でチョ・グク氏がタマネギ男と呼ばれている」という話である。タマネギは韓国語でヤンパという。タマネギ男は약파남(ヤンパナム)という。検索してみたら「テレビ朝日が放送で伝えている」という記事がたくさん出てきて驚いた。てっきり韓国発のあだ名だと思っていたからである。




これをつぶやいたところ韓国語がわかる人から「日本でそう呼ばれていて、韓国に逆輸入された」という話を教えてもらった。

もともとこの話を始めたのは鈴木琢磨さんだと思う。毎日系の週刊誌にいた人で学校時代は朝鮮語専攻だったそうである。鈴木さんはヤンパと左派(좌파/チュワパ)が似ているので揶揄しているのだという説を得意そうに語っていた。が、それを辺真一さんに言わせようとして辺さんに嫌がられていた。

「あれ?何かあったのかなあ」と思っていたのだが、辺さんは事情を知っていたのかもしれない。鈴木さんは「こんなことまで知っている情報通なんだ」という印象になるが、実は「チョグク疑惑は玉ねぎのようだ」という話を聞きかじって広めてしまったのではないかと思う。フェイクニュースなのだ。

辺真一さんやその他の韓国系の人たちはそれでも日韓の関係維持に心を砕いているようである。だが、日本人関係者は日韓関係などどうでもいいと思っているのだろう。単に消費できるニュースとして極めてぞんざいに扱っている。今のワイドショーには日韓関係がアイデンティティになっている人と韓国で飯を食っている人が混在している。そして韓国で飯を食っている人の方が見ていて面白い。思い切ったことをいえるからだ。

いずれにせよワイドショーの担い手たちが「自分たちはジャーナリズムをやっている」という意識がないのは確かだ。彼らは週刊誌気分で問題を煽っているだけなのだろう。

中には利益関係者もいる。公平な専門家として韓国批判を展開している武藤正敏さんは、徴用工訴訟の当事者である三菱重工業の顧問をされているそうだ。外交官として(多分)立派な業績を残されたであろう武藤さんがなぜ三菱重工の顧問をなさっているかはわからないが2013年からということなので「この問題を収めること」を期待されたのかもしれない。

ある人は自己の正当化のため、またある人は商売のため、面白おかしく言動をエスカレートさせた結果、長崎県が災害レベルと言っている韓国の旅行客の減少が起こった。もちろんテレビ局は責任は取らない。テレビ局は厳しい競争の中で広告枠さえ売れればあとはどうでもいいのである。

真実はテレビが作る。演出上「タマネギ男」という名前はキャッチーで覚えやすい。まずテレビ朝日がタマネギの模型を作り「次から次へと疑問が出てくる」というようなことを言い、それをTBSが真似してニュース(あるいは情報番組)で同じような模型を使っていた。テレビが目指すわかりやすさと胡散臭さをあの玉ねぎは象徴しているが、テレビの中にいて時間までにパネルを仕上げなければならないスタッフから「何かいいネタないですか?」と言われて、それを断れる人がどれくらいいるんだろうかという気にもなる。

その一方で、全く無視されているニュースもある。最近トランプ大統領がタリバンとの秘密会談をキャンセルした。なぜ秘密会談のキャンセルがわかったかというと例によってトランプ大統領がTwitterで暴露したからである。これが一部で話題になっている。

トランプ大統領が会談をキャンセルしたのは米兵を含む12名がタリバンに殺されたからである。ただ、この手の話題をTwitterで読んでゆくと、トランプ政権内部で外交政策が一貫しないということがわかってくる。政権内部で深刻な対立が状態的に起きているらしい。トランプ政権はスタッフの入れ替わりも激しい。高官の離職をきっかっけに、国務省の外交官が多数の退職したという話は2017年のものだったが、未だに対立は続いているようだ。

例えば、長島昭久自民党衆議院議員と鈴木一人教授の会話には次のようにある。トランプ大統領は選挙キャンペーンで話せるディールが欲しいのでいろいろな人にいろいろなことをやらせている。その際に邪魔な人を排除してしまうのだ。この他にも例えばアフガニスタンディールではボルトン氏を外してしまったことでアフガニスタンの状況が読めなくなっているようだ。

GHQの憲法制定過程と中道政権の話を簡単に勉強した時、民政局と各部局との間に対立があったという話を読んだ。アメリカは個人主義なのでそれぞれの部局の人たちが自分たちの信念で行動し、結果的に収拾がつかなくなる可能性がある。現代はそれが歴史文書ではなくTwitterで伝わってくる。テレビ局はネタには困らないはずである。

テレビ朝日の玉川徹的説明を間に受けると「日本に関係が深いから韓国ネタをやっている」ことになるのだが、それは建前に過ぎない。アメリカの内部で外交混乱が起きていることのほうが日本に関係が深いからである。

ところが日本のテレビはこれをやらない。わかりにくく馴染みがないという点では韓国もアメリカも似たようなものなので、視聴者が不安を感るだけに終わるニュースは流したくないのだろう。「政権に言われてやっている」というより高齢の視聴者はもう日本がうまくいっていないという話は聞きたくないのだ。

韓国ネタを見ていれば、視聴者は昭和と同じように「日本は韓国よりマシなアジアで唯一の民主主義国である」という幻想にひたっていられる。我々には安全毛布を高齢者から取り上げる権利はない。だが、ニュースは別のところからとってこなければならない。テレビの報道はもう重要さを基準にニュースを選んでくれないからである。

嵐の中の民主主義国 – 新興国のデフォルトリスク

アルゼンチンがまたしてもデフォルト危機にあるという。新聞や雑誌は辛抱ができずポピュリズムに走る国民を非難するような論調である。だが、本当にそうなんだろうか?と思った。




緊縮財政を行っていたマクリ政権に人気がない。そこでアルベルト・フェルナンデスという「ポピュリスト」が政権を取りそうだというニュースが流れるとアルゼンチンペソが下がりデフォルトリスクが浮上した。格付け会社の中には実際にデフォルト状態にしていたところもあるようだ。

ところが最近になってマクリ政権下でもすでに国庫には金がないということをアルベルト・フェルナンデス候補が言い出したようだ。マクリ政権も緊縮では選挙に負けると考えて政策を変えつつある。一方で、アメリカの国際金融学者は「アルゼンチンはどっちみちデフォルトを起こす危険性が高い」などと言っている。「ポピュリズム政権で市場が混乱するだろう」という見込みに基づいての観測だろう。日経新聞は「左派ポピュリズム政権が市場に見捨てられた」という観測を流している。

だが、実際にはアメリカで金利が正常化しつつあり資金が海外に流出しているという側面もある。つまりアルゼンチンが真面目にやっていないからデフォルトに近づきつつあるとばかりは言えないのだ。

アルゼンチンがデフォルト危機を繰り返すのは国民の意識が変わらず財政規律を守りたがらないからだという話がある。統計の不正問題も起きているのだという。ただ、同じような条件下似合っても日本はそうなっていない。日本は債権国だからである。

アメリカの金利が「正常化」に向かうとわざわざ新興国に投資しなくてもよいと考える人が増えて資金が債務国から債権国への引き上げる。すると通貨価値が下がるので対外負債の負担が増え、新興国が軒並みデフォルト危機に陥ってしまう。

アルゼンチンが危ないということはトルコなんかもそうなんだろうなと思ったら、案の定そのような記事が見つかった。2019年5月の記事では「過去2年で40%もリラの価格が下がっている」そうだ。

しかし債権国にお金が流れ込んでくると言っても「債権国の人々」にお金が行きわたるわけではない。あくまでもお金を持っている人に流れ込んでくるというだけの話である。このため債権国の政府は有権者に政府支出で対応するか見殺しにすることになる。お金を生み出して動かしているのは国際金融であり、製造業やサービス業などの実業ではない。働いてもお金が稼げないから庶民の暮らしは楽にならない。

例えば日本は高齢者には手厚いが現役世代や将来世代には冷たい。フランスではまたイエロージャケット運動が再燃しつつあるそうだ。国際金融が作り出した嵐に晒されるのは一般庶民である。

ところが先進国の代表者たちは決してこのことを問題にしない。却って状況を悪くするような行動に出ている。

アメリカでは不満を持った人がトランプ大統領を支援した。トランプ大統領は有権者の目を中国に向けようと関税競争を始めた。面子を重んじる中国も応戦し、91兆円が失われる危険性があるとのことなのだが、実際にはそれがいくらくらいの損出になるのかはわからない。米中貿易戦争も不透明さを増すのでさらに債務国から債権国に資金が戻ってしまう。金融市場の不安定化を温暖化に例えると、最初の温暖化が連鎖反応を起こしつつあるような状態である。

アルゼンチンはデフォルト危機を繰り返しており改革も進まなかったことで中堅層が大量に国内流出したそうである。動ける人は国を去ったわけだ。中に残った人たちが「ある日突然目を覚まして」改革を志向するということなどないということがよくわかる。ところが今回の嵐には逃げ場がない。国際金融も貿易もつながっているので、まともに機能している資本主義国がどこにも存在しないのである。

民主主義が成り立つためにはその担い手が安定感を感じていなければならない。特に現在の民主主義は普通選挙による民主主義だから庶民の動揺が直接民主主義の危機につながってしまう。マクリ政権はきちんと財政規律を守ったがその恩恵が庶民にもたらされることはなく企業が吸い取るだけだった。いくら頑張っても暮らしはよくなららない。「ではポピュリズムだ」とか「もう暴れるしかない」と人々が考え出しても不思議はない。

民主主義は国際金融の嵐にさらされている。だが、中にいるとそのことがよくわからない。暮らしに困窮した有権者がデモやポピュリズムなどの極端な行動に走らない限りそれが見えてこないのである。