日本人は政治の話をしないしできないので、このまま終戦を迎えるしかない

Quoraで日本人は政治の話をしないという質問を見つけた。しばらく見ていたのだが「ああこれはダメだな」と思った。




前回、日本は自らがGHQになって終戦宣言をするかあるいは永遠のインパール作戦を戦う以外にないだろうと書いた。「ではどちらを選ぶのか」ということになるのだが、今回のお話から見る限りはインパールの確率が高そうだ。すると第三の道はないのかなとも思える。

これまで積み重ねてきたお話は次のような感じだ。日本のシステムはほぼ破綻(あるいは経年劣化)しており解体しなければならない。だが日本人はどういうわけか破綻を認めたがらない上に、失敗するとわかっているのにもとどおりにしたがる。もともと集団的な競争が好きなので「負け」を認めてしまうとみんなから叩かれる上に、旧来のものを保全したいという欲求が強いからである。

米英のような個人競争社会ではないので個人の自由度はないし、北欧型の共助社会でもないので再出発しようとする人は「結果負けた人」として容赦なく叩かれる。諦めなければ成功する人になれたかもしれない人も強制的にゲームオーバーになるのでそのまま社会に負けた人たちが沈殿する。ただこれが構造として理解されれば「ああ、これはまずいんじゃないか」と思えるかもしれない。構造と行動様式が無意識であり漠然とした不安を生み出しつつも行動にはつながらないという点が問題なのだから解決も実はカンタなのである。

いずれせよ「みんなはどうしたいのか?」というのが問題になる。

しかし個人の理想について語り合える人はいない(一方的に語ってくる人はいるが大抵大きな問題が固着している)ので、そもそも個人が希望を語れるのかということを知りたくて「日本人が政治について語らないのはなぜか」という質問をフォローしてきた。回答は絶望的なものばかりだった。

だが、面白いなと思うものはあった。いったん政治の話をはじめると戦争になるという人がいたのだ。何気なく書いたのかもしれないのだが「劇場型政治」について見たあとでは「そうだな」と思う。普通選挙が始まったときから劇場型政治は始まり、それは多分現代でも変わっていない。例えば、西表島では自衛隊誘致を巡って島が二分しており長老は島が潰れると危惧している(八重山毎日新聞)ようだ。このような話はいくらでもある。

現状のシステムを打破しようとしても人々はそれを認めようとしない。しかし正解がわかるわけでないのでそれぞれの視点で言い争いを始める。それを譲らず、相手を指差し罵る。それはなぜかやがて集団化し競争が加熱する。すると、人々は政治課題ではなくその競争に熱中してしまうのである。さらにそれが人々は政治や身近な社会問題について語らなくなるのだ。

世の中が良いときには政治について語るのは楽しい。人々が理想とする社会について語れるからである。しかし政治課題が不利益の分配になると当然人は黙りこむのだ。

ただ、ここまで見てみると「個人が抱えている問題を社会化したうえで政治問題を話し合いによって解決するのは日本人には無理らしい」ということもわかる。もともと議会制民主主義が村(つまり所与の環境)同士の競い合いを最初から内包してしまっているからである。

個人の理想を語ることを無理で危険と思っている上に相手の話もあまり聞かないのだから、無理してそんな社会を目指す必要はないわけだし、だったら考えずに楽しいことだけを考えていたほうがいいのかもしれないとも思えてくる。

考えてみたところで社会全体がある日突然公共の楽しさに目覚めて政治課題について考えるようになることはないのだろう。少なくとも明治維新以来150年はそんなことは全く起こらなかったのだからこれからも起こらない可能性が高い。生産性向上を目指してもインパール作戦に参加するだけなのだとしたら、そんなものには近寄らなければいいという結論が得られる。

日本の戦中はもう始まっているのかもしれない

普通選挙が始まってから政党内閣が崩壊するまでの過程を調べている。基本的に言いたいことは一つだけだ。「日本人には民主主義は無理」なのである。これを調べていて日本は今戦中と呼べる時期に入っているのかもしれないと思った。終戦しなければインパール作戦が延々と続くことになる。




明治維新が始まって第二次世界大戦が終戦するまで77年だった。現在、第二次世界大戦終戦後75年である。新旧年表を比べてみた。こうすると「明治・大正・昭和・平成」というフレームから自由になれるということがわかって面白い。

明治憲法が制定されたのは明治維新から23年目にあたる。明治維新を旧年表元年とすると旧年表23年だ。新年表23年は1967年という高度経済成長期にあたる。旧年表27年目に日清戦争が起こったが、この時期の内閣が田中角栄内閣だ。この辺りまでは国の成長期と言って良い。

数年前後するのだが日露戦争が起こった時とプラザ合意が並ぶ。プラザ合意が重要なのはここから円高が加速して交易条件が悪化したからである。資金はその後土地などの資産に向かい資産バブルが起きた。つまり過熱した夏が破裂に向けて膨張を始める時期なのだ。アメリカでは「日本に学べ」という風潮もあり日本人は無邪気にそれを信じていた。季節でいうと夏が終わり秋が始まる時期だが、日本人は「いつまでも夏休みが続くだろう」と思っていたのである。

47年目に第一次世界大戦が始まる。一応この戦争は日本が列強としての存在感を示していた頃の戦争であり日本は勝ったことになっている。だが現代年表ではこの年にバブルが崩壊する。じつはこの辺りには秋になっていて衰退が始まっていたということがわかるのだが実は秋口というのは過ごしやすい時期だったりする。ここからいつまでたっても暖かくならないと人々は不安になるのである。

よく「失われた20年」などというのだが、実はこの日が傾いて行く時期が結構長い。村山内閣の横に原敬内閣が並んでいる。旧体制が終わり政党政治が始まった頃である。日本では自民党政権が終わりを迎えていた。つまり旧年表で国民が政治に「動員される」というのは衰退の始まりなのだ。戦前の政治には戦争という国家プロジェクトへの協力体制という側面があった。具体的には納税が戦争を支えていたのだ。

大正が終わり昭和になった時期は天皇を補弼する人たちの内部調整力が失われ西園寺公望が一人で組閣の最終調整をする「最後の元老時代」のはじまりだ。実際には議会が「軍部が膨張したら国がつぶれてしまうから財政を削減させてくれ」と言っていた時期に当たる。これが、森・小泉内閣の時代と重なっている。こちらは官僚中心の保守本流が政権維持能力を失い「自民党がぶっ潰された」時代である。

「新自由主義的な小泉竹中路線」とは既存勢力が力を奪われ、無党派層にも優しくない政治が始まった時期である。この辺りから非正規労働がなし崩し的に解禁されてゆく。無党派層は旧来の会社の保護も受けられず、地縁共同体もなく、国家もあまり力を貸してくれないという時代を生きることになった。この人たちが何に動員されているのかと考えると答えはすぐに出てくる。企業という戦争に駆り出されているのである。かつては国を支えていた軍隊が今度は国を喰らい始めるのだ。

古い年表では金融恐慌が起こる頃に第一回普通選挙が実施される。議会政治が劇場政治を繰り広げる裏では軍部との緊張関係が生まれていた。この緊張関係は軍部の勝利で終わる。現代年表では第一次安倍内閣、福田内閣、麻生内閣のゴタゴタが続き、リーマンショックを経て民主党政権ができたころである。

古い年表は「拳銃」が決着をつける。ここで犬飼首相が殺されてしまうのだ。議会は軍隊に抗議せず逆に萎縮してしまう。二・二六事件と二回目の安倍政権がほぼ並んでいる。軍人に萎縮した内閣が軍部の暴走を許しているのとほぼ同時期なのだ。今の日本には軍人はいないのだが、官邸がその代わりになっている。その拳銃は「地位」である。官邸の取り巻きたちは青年将校よろしく言論恫喝を行うのだが、対立する勢力は一枚岩になれない。配置が違うはずなのに起きていることが恐ろしいほど似ている。

官邸の取り巻きたちは経産省の官僚だというのが一般的な見立てになっている。「官邸で一番の嫌われ者は…」4人の現役官僚が本音トークという記事では安倍内閣は経産省内閣だと書かれている。これが国民の一部から熱烈に支持を受けているのは、彼らはかつて企業と組んで日本の産業を引っ張ってきた「立派な軍人さん」だからである。だから日本人は安倍内閣を支持し続けている。つまりは日本を敗戦させるのも彼らだということになるだろう。

この後、古い年表では2014年に盧溝橋事件が起き、2016年に第二次世界大戦がヨーロッパで開戦する。2017年には大政翼賛会ができ、2018年には真珠湾攻撃が起きた。今暴走しているのは何かと考えるのはなかなか面白いが、実は我々が知っている自民党政権と安倍官邸は別のものかもしれないと思えるし、もう「戦争は始まっているからこのまま破綻するのを待つしかない」とも思える。

この年表によると1944年は2021年にあたる。だが、古い年表のように官邸が敗戦の宣言を行うかどうかはわからない。その場合我々の国は長い長いインパール作戦を戦うことになる。兵隊が使い捨てられ補給されず、大本営の延命だけが優先されるという悪夢のような社会である。

日本社会と二つの村構造

前回「劇場型政治」について見た時、日本の政党政治は普通選挙が実施された頃から劇場化しやがて崩壊したと書いた。




今回読んだ「日本史の論点」の中にも大正デモクラシーと議会政治についてに短い一節がある。日本は急速な近代化をする必要があり官僚指導のトップダウンの政治システムが作られた。これが却って議会政治の成立を難しくしたという経緯が書かれている。官僚システムがしっかりしていたために話し合いで国をまとめる必要がなかったのである。

廃藩置県の時に藩をまとめて郡にしたのだが選挙区は複数の郡を一つの単位とせざるをえなかった。この藩の構造が議会政治に組み込まれていったようである。よくこのブログで「日本は村社会で公共を理解しない」と書くのだが、自分自身でもこれを信じていないところがあった。社会的合意のある理論を引いているわけではないので「まあたとえに過ぎないんだろうな」と思っていたのだ。でも実際には「本当の村」が議会政治になったという経緯があるようだ。

この「日本史の論点」を読むと、日本の近代国家作りはトップダウンで行われたことがわかる。そしてこれも薩長土肥という限られた藩出身者の個人的ネットワークに支えられていた。このため日本の政治体制はトップとボトムにそれぞれ違う村構造を抱えることになった。

トップの村は天皇に責任が行かないように権力を分配していた。これは明治維新の担い手が限られたインナーサークル(つまり村)であったために成り立っていた仕組みだと思うのだが、国家が大きくなるとこれも機能しなくなる。最後の元老であった西園寺公望が政治に関与しなくなり天皇が昭和天皇に代わるころから非公式の(憲法に規定がない)調整機能は失われた。議会政治も成り立たなかったので明治体制は軍部依存の戦時体制に突入し壊れてしまうのである。

繰り返しになるが、日本の政治には異なる二つの村があったことになる。一つは天皇を取り巻く側近たちの村であり、もう一つは旧来の藩に由来する本物の村である。では、この村構造は戦後どうなったのであろうか。

議会政治家は「保守」として残るがやがて傍流化してゆく。トップの方の村を引き継いだのが官僚出身の吉田学校でありその政策(公式にまとめられたものではなかった)が吉田ドクトリンだったのだろう。官僚出身者による村であり天皇の代わりにGHQをいただいた政治体制を作ったことになる。これも実は憲法外の非公式組織だった。

ここで最後の元老らしい役割を担っていたのは宮沢喜一だ。サンフランシスコ講和条約の際には池田勇人(全権委員)付きのスタッフだったそうだ。宮沢喜一はバブル崩壊時の首相であり、非自民系の細川内閣二道を譲ることになる。つまり自民単独政権の最後の内閣だった。と同時に戦後GHQ体制を知っている最後の首相だったのだ。

一方で、足元の議会政治は村政治から脱却できなかった。都市部に村がなくなると浮動票などと言われるようになりそれに代わる公共は作られなかった。さらに個人的ネットワークに支えられた保守本流も政策立案能力を失う。つまり戦前の村構造は保守本流と保守傍流という流れに変化したということになる。

細川政権のあとの政権を担ったのは、森喜朗・小泉純一郎・安倍晋三と言った人々だ。彼らはもともと議会制民主主義(下の方の村)にいて上の方の村(保守本流)に否定されていた人たちである。小泉純一郎の「自民党をぶっ潰す」は保守本流の破壊と権力の奪還だった。しかし小泉はその代わりになる新しい村も近代国家的な公共も作らなかった。公共を作らなかったせいで小泉路線は「新自由主義的で弱者に厳しい」などと言われることになる。旧来の村利権に守られた人はそれを感じず、徐々に無党派層と呼ばれるようになった人は「新自由主義に翻弄されている」と感じているのかもしれない。

この時期に壊されたもう一つの構造が中選挙区制度による譲り合いのシステムだった。これは大正期の藩どうしの譲り合いに似た制度だった。日本は比例代表ではなく中選挙区制で事実上の連合政権を作ってきたことになる。政策によるまとまりも作れないので「二大政党制」ができない。デュヴェルジェの法則を成り立たせるはずの契約と妥協ができないのだ。新しい伝統を作らずにとにかくこれを破壊したのは小沢一郎らだった。

なぜ小泉も小沢も新しい村を作れなかったのかはわからない。だが小泉には自分には新しい村が作れないことがわかっていたのだろう。政界を引退してしまった。あとは好き勝手に原発の運動に参加したりして余生を楽しんでいる。しかし小沢はそれがわからない。そのため山本太郎を引き入れたり玉木雄一郎と組んだりして集団破壊行為を繰り返している。小沢には新しい村は作れないうえに、実は自分は岩手県という村落構造がしっかしした地元に支えられているという意識もないのかもしれない。小沢には拠り所になる村があり、そうした拠り所を持たない人たちを抱き込んで新しい公共ができるのを阻んでいる。

非自民系では菅直人がリベラル村を代表して立憲民主党側から玉木雄一郎(国民民主党)を非難し、千葉の村では野田佳彦が小さな国民民主党の村を作り、結果的に立憲民主党と食い合いをしている。このように小さな村長がいつまでたっても現役を引退できず現役世代をかき回しているというのも現代の特徴である。

いずれにせよ現在の静かな混乱は、日本人が個人的なネットワークでできた集団である「村」を拡張できず、さらに後継者も育てられないし、かといって引退もしないという点に問題がありそうである。だが、保守の政治家も意外と過去を振り返ったりはしないので、そもそも自分たちが村から抜け出せていないということに気がつけないのかもしれない。

神の啓示としてのノートルダム大聖塔の尖塔火災

ノートルダム寺院が火災になっているというニュースがTwitter上を流れてゆく。完成したのは1225年で全てが完成したのは1345年なのだそうだ。日本では鎌倉時代から南北朝期にあたる。




このニュースを見て比較的まともなTweetをする人が「イルミナティが……」と呟いていた。衝撃度合いとしてはわかるし否定もしないのだが、ちょっとそれはどうかなと思う。にもかかわらず今回のタイトルは「神の啓示」である。これを聞くと普通の日本人は「シューキョーはちょっとな」と思うのではないだろうか。

最初はショックだというニュースが流れていた。フランスはカトリック国でノートルダム大聖堂はパリ大司教区の司座になっているそうだ。つまり精神的支柱が燃えていると言っても過言ではないのである。改修工事が行われていたせいで火事になったのでは?とも言われているそうだ。つまり放火ではなく事故だったということだ。(時事・AFP

石造りなのになぜ燃えたのかと思った人も多かったようだが内部には木材が使われていた(テレビ朝日)という。ストーブのように空気が上に集まる構造だったという指摘も目にした。

Twitterで印象的だったのは空爆で破壊された聖堂が「再建された」というTweetだった。つまり、形があるものはなくなるが人々に気持ちがあればまた再建すればいいというのである。そのために「みんなでお金を出し合おう」というような気持ちが大切だということになる。マクロン大統領は早くも再建を表明し(毎日新聞)寄付も呼びかける意向のようだ。

神様というものが存在するのかということはわからないし何かが壊れてしまうというのはショックなことだ。大切なのはその存在を信じて「信じる気持ち」を再建しようという心意気だ。その気持ちを集めるために聖堂があるということになる。

ただ、現実的な問題はあるようで、組織の隔たりの問題などもあり再建計画が滞る可能性もあるのでは?と指摘(時事・AFP)されている。そもそも過去には人々から放置されてきた歴史もあるという。この中に出てくる「ビオレ・ル・デュクという人が記録を残してくれたために再建ができるだろう」というのは記録の大切さがわかる話だ。人は今自分たちのために記録をとるわけではないのである。

Wikipediaのビオレ・ル・デュクの項目には、ビクトル・ユーゴが修復を訴えたことと当時の色々思惑で再建計画が錯綜した様子が書かれている。気持ちを一つにするというのは必ずしも容易なことではない。さらに意外なのは、この建物がビオレ・ル・デュクらによって改変されているという点である。つまりノートルダム大聖堂は古い伝統を残しつつも、時代によってアップデートされているという側面があるのだ。ノートルダムは単なる博物館ではなく生きている建物なのである。

さすがキリスト教国だなどと思ったのだが、なぜか熊本城を思い出した。産経新聞によると熊本城の再建には20年の歳月と600億円がかかるそうである。崩落した石垣を修復するためには手作業が必要で、1日に1つしか作れないという。気が遠くなりそうな時間と労力がかかる。にもかかわらず今でも一日いちにちと再建は進んでいる。これを疑問視する人はあまりいない。フランス人と同じように日本人も「古い伝統を残しておく」価値を知っているからだ。

精神的な支柱というものは「形」が大切なのではなく、それがつくられる過程を通じて人々の心が集まることが大切なのだ。だから壊れたら終わりになるわけではなく「また立て直せばいい」のだ。逆に言うとそれが立て直せないと思った時点でその建造物は意味を失ってしまうということになるだろう。何かを壊せないというのも「もう作り直せないのでは」という不安から来ているのかもしれない。

なんとなく「何かを壊すのを恐れてはならない」というのは言葉としてはわかるのだが実感はしにくい。実際には「壊れた」という事実が重要なのではなく、そのあとで人々がそれを復興したいのかという気持ちの有無こそが大切だ。人類にはそれができる資質があるということになる。神の存在を信じるにせよ信じないにせよ、こうした人が持っている可能性は信じてもいいのではないだろうか。

日本史の論点 – 邪馬台国はどこにあったのか

評判の「日本史の論点」を読んだ。とはいえ日本史の全部に興味があるわけではなく、古代史と大正デモクラシー以降だけを読んだ。もちろん、細かい点を全部把握できたわけではないのだが、なんとなく人にお話ししたくなるネタが豊富にある。通勤途中に飛ばし飛ばし読んでも面白そうだし、まとまった休みに読んでも楽しいかもしれない。




古代史の担当の倉本一宏さんによると「邪馬台国がどこにあったのか」という議論そのものがあまり意味を持たなくなっているのだという。倉本さんはは倭国連合と倭王権という二つの概念を紹介している。九州には邪馬台国を中心とした倭国連合があり、「それとは別に」倭王権があったというのである。

倭国連合は魏に朝貢していたがこれとは別に呉に倭王権が朝貢していた可能性もあるそうだ。魏志倭人伝の資料は残っているのだがそれ以外の書はあまり残っていないので記録になっていないのではないかと説明されている。つまり魏志倭人伝に倭国について書いてあったからといって、それが大和朝廷につながったという歴史認識そのものが正しくない可能性があるというわけである。

昔の学説は「そもそも日本というまとまりがあったはず」ということから出発し歴史を組み立てていたのだが、日本という枠組みが朝鮮半島とどう連動しているのかということや、列島の中にある歴史は「日本史一本だったのか」という点はあまり考慮されてこなかった。

この本には金印の話(つまり漢が日本を認識していた)話も出てこず、混乱の結果九州と中国・近畿に別の塊が出てきたというところから始まる。彼らが意識したのは朝鮮半島利権であり、それを認めさせるために当時の大国である中国の目を意識するようになっていったという筋書きになっている。そして魏と交流のあった邪馬台国(倭国連合)の話はどこかに消えて行き、倭王権の話になる。これ以降邪馬台国の話は本には出てこないので「歴史書にあるからといって本筋ではない」として切り離された可能性もあるのかななどと思った。

加耶の鉄利権に関心があった倭王権は百済に加担して朝鮮半島に出兵した。倭王権は宋の後ろ盾を得て朝鮮半島再度介入しようとする。天皇の空位時代があった後、婿入りした継体天皇が即位する。倭王権は渡来人の技術を取り入れて軍事的に強い国づくりを目指した。

だが、589年に隋が中国を統一すると倭王権は朝鮮半島に介入できなくなる。日本は遣隋使を送って朝鮮半島利権を認めさせようとするが「政治制度が不備である」という理由で退けらる。そこで政治制度を改革し自らを「天子」と称することで朝鮮諸国からの優位性を認められたという。ところがせっかく信頼関係を築いた隋がなくなってしまう。

隋にどうしても従おうとしなかった高句麗に4回侵攻したがその結果内政がおろそかになり滅亡してしまった。朝鮮半島では百済が滅亡し日本に助けを求めた。ところが、天智天皇は白村江で負けてしまい(663年)つづいて国内で壬申の乱が起こった(672年)。この頃から日本は内政の充実を優先させざるをえなくなる。

大宝元年(701年)から日本でも元号が使われるようになり政治体制が整ってゆく。歴史書も作られて国としての体裁は整った。だが、なぜか次第に朝鮮半島への関心が失われてゆく。この本にその辺りのことは書かれていないのだが、国内で金属資源が採れることがわかったという背景はありそうだ。製鉄がいつ国内で始まったかはわかっていないようだが、国内で製鉄ができるようになる。708年には秩父で銅が採掘されたことを祝って元号が和銅に改められた。こうして日本は国内で経済が回せる閉鎖系になってゆく。

さらに国際情勢も変化した。中国の政治的混乱が治ると朝鮮半島の現状が固定され倭国が介入できる余地がなくなる。こうした背景があり、なぜか王権の関心は東国へと向かった。陸奥鎮東将軍が最初に任命されたのは和銅2年だそうだ。そういえば東北では金が採れるんだなとも思ったのだが、その辺りのことも書かれていない。

この本を読んで面白いと思ったのは日本が最初から外国の目を意識して政治体制を整えていったという経緯である。背景にあったのも軍事的な野望ではなく経済的な事情である。だが、半島に進出すると自然と中国にぶつかってしまう。この辺りの図式は実は明治維新とそれほど違いはない。大正期の記事を読むと日本では政党政治がうまく機能せず大陸進出がほぼ唯一の論点だったというようなことも書かれており、地理的背景によって日本人に繰り返し同じ構造の議論を繰り返しているということもわかる。

外国の目という観点でみると、何かを認めさせたい時には外向きにシステムを整えるが、次第に関心を失って内向きになり、またショッキングな事件が起きて外向きになるという循環を繰り返していることもわかる。

この本は古代から現代までカバーしており、論点が簡潔にまとまっている。このため好きなところをつまみ食いしながら日本史の常識を更新することができる。昔学校で習った歴史認識はもう過去のものなのかもしれない。「日本史の論点」は新書で手軽に読めるので、ぜひゴールデンウィークのまとまったお休みにでもいかがだろうか。

努力しても報われない社会 – 上野千鶴子が投げかけた疑問

野千鶴子が東大で行った演説が話題になっている。上野さんのような人が東大にいると日本の民主主義は崩壊するだろうと思った。




全部読んだわけではないが、東大生は頑張れば報われる社会を生きてきたのだが、彼らが今後直面する社会は必ずしもそうはなっていないということを言っているようだ。これを聞いて「キリスト教的民主主義の伝統がないと、人はこういう疑問を持つんだな」と思った。やはり日本に民主主義は無理なのかもしれない。

我々は民主主義・自由経済社会を生きていると考えている。人々が平等であるのは当然善であると考え、なぜそうあるべきなのかということはブラックボックスに入れて考える。特に最近の中国バッシングを見ていると一党独裁は最初から悪で民主主義こそが正義だと考えていることがわかる。その一方で日本の民主主義には誰もが不満を持っている。自分の思っているような社会がおのずから作られないからだ。だからこそそうでない社会を叩き、自分たちは善であると思い込もうとするのだ。だから日本人は政治的問いかけが自分たちに向くのを極端に恐れるようになった。

このようなことになるのは欧米型の民主主義国の支配体制が終わり非民主的な国が経済的に成功してきているからである。実は、日本人が持っていた民主主義に対する感覚を我々自身が疑い始めているのだ。

民主主義というのはキリスト教の考える「愛とか平等」から神様というエッセンスを除いたものだと考えられる。結果的に経済的に繁栄したために「まあ、この考え方に乗っておけば問題はないだろう」ということになった。

もう少し突き詰めて考えるとキリスト教が「愛」と呼んでいるあのふわふわしたものが経済発展に良い影響を与えているということはわかるだろう。つまりまずお互いに信頼して経済のプラットフォームを造ることで我々は破壊ではなく生産に専念することができるようになったのだ。また「多様性」を認めることで、それぞれが持っている才能を経済発展と繁栄に活かせるようにもなった。

その背後にあるのは、実はかなり楽観的な世界観だ。キリスト教では我々が生きられるのは神様からの恩寵があるからだと考える。そして特にこれを感じることができるのは実は失敗を経験したことがある人なのではないかと思う。

「もうここまでだろう」と思って全てを諦めた瞬間に回復に向かうということが人生には確かにある。水の中でバタつくのをやめたら実は浮いていたというあの感覚だ。この浮力をキリスト教では奇跡と言ったりする。キリスト教の実践は、助け合いの輪に加わることによって「こうした奇跡」を身近に感じるということでもある。実は助け合いを通じてその環境を作っているだけとも言えるのだが、実践と参加が需要な宗教である。

シスターも上野と同じようなことをいうだろう。「東大生は特別に恵まれている」という言い方はキリスト教的には「普遍的に存在する奇跡」によって守られているということになる。だから、感謝してそれを周囲にも広げて行かなければなりませんというというのが多分教会的なメッセージになる。

だが、日本にはこうしたキリスト教的な伝統はないということが上野の発言からわかる。日本はまず自由主義経済から受け入れたがその時にたいした疑問は持たなかった。戦後民主主義が入ってきた時もアメリカが戦争に勝てたのだからきっとそれはいいものに違いないと考えた。だから、今になってジタバタと闘争を始めると、実はその根底にある楽観を理解していなかったということに気がつくのだ。そして「溺れるかもしれない」と思うともっと体を激しく動かすことになる。

日本人は極めて苛烈な競争意識を持っているので溺れた人を助けない。それどころか叩いてもいい存在と認識して群衆になって叩き始める。すると人はもっとバタつく。日本人は弱者が認められることがない社会だ。社会に弱者が存在することも認められないし、身内にいることも認められない。そしてついでに自分の中にもそういう弱者がいることも認められない。だから溺れている人もそれを見ている人も実は恩寵や奇跡を実感できなくなる。

本来民主主義・自由主義経済は「通貨などという形のないものをみんなで信頼するところから始めよう」という極めてあやふやなところから始まっている。「自分が使った金が自分のところに戻ってくる」と考えるのはかなりおめでたい人だ。管理する人が誰もいないのに経済がおのずとうまく回り人々は豊かになれるなどというアダム・スミス理論はキリスト教的には神の恩寵でも日本人にとっては妄言でしかない。つまり、民主主義・自由経済はかなりおめでたい理論なのである。

神の奇跡が本当にあるかという保証はどこにもない。神は人間をこの世界に送り出す時にメーカー五年保証のようなものもつけてくれなかったし、契約条件も新約聖書で無効になってしまった。人は十戒の世界を追放されて、イエス・キリストによって「ただ信じなさい」と荒野に放逐されとも言えるのだ。

フェミニズムや環境保護といった戦いが自己証明を始めるとそれは闘争になってしまう。例えば捕鯨運動や菜食主義などは欧米でも批判が根強い。「なぜ神は我々を愛してくれないのか」という代わりに「肉は食べないから私を愛してください」というのは実はキリスト教的ではないのである。モーゼのように神の言葉を聞けない我々が新しい契約条件を作ることはできないのだ。

努力しても報われないかもしれないという疑いはおそらく合理的なものだろう。が、合理的に接している限り永遠の闘争が続いてしまうのだ。叩き合いはもうおまけみたいなものである。多分、この叩き合いに疲れた人たちは独裁という「確かな政治」を求めるだろう。自由からの闘争は多分何度でも起こり得る。

西洋流の民主主義や自由経済には突き詰めてゆくと根拠のない領域がある。それは信仰と個人の理想という日本人に取ってみると極めて曖昧なものに支えられた実にあやふやなものなのではないかと思う。

敗戦できない国日本の迷走する成長戦略

今日は敗戦できない国というキーワードで成長戦略について考える。勝負や競争が大好きな日本人は負けが認められないというお話である。つまり日本人は勝つことが好きなのであって、必ずしも勝負師ではないのである。




Quoraで、なぜ日本ではデビットカードが普及せずに、不便なチャージ式のカードばかりが流行るのかという質問があった。法律整備の問題と金融機関側の問題あるのだろうと調べたところ、金融庁のウェブサイトに全銀協の「決済高度化に関する取組状況について」というドキュメントが見つかった。どうやら、金融庁と業界が組んでプラットフォームを作ったらしい。

細かいことはわからないのだが、雨後の筍のように同じようなサービスが出てきて乱立するのはこの護送船団方式のせいだったんだなと思った。アメリカだと企業間が競争してプラットフォームを造るので利便性の高いものが生き残るのだが、日本の場合は官庁と業界が機会を作るのだ。当然仕組みは複雑化するだろう。外に向かって競争するのが大好きな日本人なのだが、うちわで競争をするのは苦手という奇妙な二面性を持っている。

もちろんそれで成功するものもあるのだろうが、最近では失敗が目立っているようだ。敗者を集めても勝者にはなれないという単純な理屈がある。ジャパンディスプレイ(JDI)が台湾と中国のもとで再建されることが決まったと日経新聞が伝えている。

JDIは革新機構が二千万円を出して議決権を握ったのだが、この革新機構の経営自体がうまく行かなかった。民間出身の取締役が提示した報酬は高すぎるとして報酬を抑制したために反発が起きて大量辞任が事件が起きている。結局新報酬体系を作り民間と比べると見劣りのする報酬体系になった。(時事ドットコム)政府が気にしたのは他機構とのバランスだったのだが、実際に意識すべきは実は中国と韓国だった。

日立製作所・東芝・ソニーが「儲けられない」とさじを投げた事業である。力の衰えた経済勝者たちが引退するのは認めたくない。そこでそれらの事業を寄せ集めて一つの巨人を作った。それがJDIである。だが、意思疎通がうまく行かず、中国や韓国にも勝てなくなってしまっていた。スポーツであれば引退勧告の時期なのだが、日本政府にはそれができなかった。

清算してしまうと負けを認めることになってしまうので、買い手を求めたのである。だが、実際に買ってくれるところは中国と台湾しかなかった。その中国ですら国内に工場が新設されているからという理由で買取に難色を示したという。結局、台湾企業が間に入り今回のディールをまとめたのだという。

日経の記事は「結局責任問題が曖昧になった」ことを指摘しつつ、技術流出を恐れるアメリカが介入してくる可能性があることを示唆している。記事は触れていないが、折しも中国とアメリカは貿易戦争の最中であり、この流れに引っかかってしまう可能性もあるのかもしれない。日本政府は実はそれほど気にしていないのだが、アメリカが中国に技術流出するのを嫌うのである。

そもそもできないことを引き受け、それができないといって中台に丸投げし、日本がこれまで蓄積してきた技術を盗まれかねない状況を作っている。政府が考えているのは自分たちの責任の回避だけである。負けを認めた人が粛清されてしまい再出発が許されないという「一発退場」社会なのだろう。

ディスプレイ事業を国に押し付けた日立だが別の件でも問題を抱えている。それが原子力発電所である。こちらはもっと悲惨なことになっている。

安倍首相のトップセールスがすべて頓挫し海外向けに原子力発電所を輸出するのが難しくなった。(東京新聞)どの国でも福島の事件を織り込んで安全対策費や建設費が高騰しているのである。福島第一をきちんと国内処理をしていればセールストークにも信憑性が出たのだろうが、一度失敗すると日本のような大国ですら処理ができないということが知られているのだからこれは当然のことだろう。

だが、政府は失敗を認められない。ニュースでは「経団連が」となっているのだが、日立の会長が「原発議論をしてくれ」と言っている。議論とは言っても安全性について話し合いましょうということでは全くない。もっと原発を建てたいと言っているのだ。これが反発されている。

だが、ダイヤモンドオンランの記事は日立会長の苛立ちは政府に向いているのでは?と指摘している。つまり政府が敗戦宣言をしてくれれば日立も手仕舞いができるのだが、それができないならということに苛立ちをぶつけているというのである。

ここからわかるのは、救済の仕組みが大きくなればなるほど他人の思惑が絡み合い動きを取るのが難しくなるということである。中国はQRコードという簡単な仕組みを作って安価な決済システムを作ったが、今の日本は失敗を恐れてそれを複雑化させてしまう。アメリカは競争社会なので敗者が消えてゆくが復活もある。日本はこのどちらもできないので、国が関わるまでに大きくなった事業がことごとく失敗してしまうのだということがわかる。

安倍政権の成長戦略とは実は衰退産業の介護なのである。

中でも重要なのが「終わらせ方」である。日本は見切りをつけて終わらせるのが下手だ。結果だけを見る所があるのでこれを失敗とみなしてしまうのだろう。この状況は第二次世界大戦の末期に似ている。行きがかり上戦争に勝ちづつけてきた日本はそこから抜け出せなくなり国としての戦略を立てられないまま第二次世界大戦に突入した。出口戦略を持たなかった故に(つまり負けたらどこで撤退するかを決めていなかった)泥沼化し、国民財産をすべて焼き尽くすまで戦争を止められなくなってしまった。

現在の状況はこれに似ているのだが、決定的な一打がないので敗戦決断ができない。第二次世界大戦は沖縄・広島・長崎という犠牲があってやっと終わったのだが、70数年後の我々もまた同じような過ちを繰り返そうとしているのかもしれない。

F35A – 国民の無関心が彼を空飛ぶ棺桶に押し込めた

三沢基地所属のF35Aが墜落した。今日はこのニュースについて考える。




これについて最初は「政府は人を殺せる」というタイトルをつけたのだが、しばらく考えてみて、彼をあの飛行機に乗せたのは我々一人一人なんだなと思った。我々は特攻隊の話を愚かな昔話として語るが、今の日本人に当時の彼らを責める資格はないと思う。実はあの飛行機の欠陥はわかっていて、国会でも指摘されていた。その時の政府答弁は「不具合があることは知っているが私たちは聞いていない」というものだった。

この答弁に聞き覚えがあるという人は多いはずだ。特区が特定の人を儲けさせることは知っているが私たちは知らないとか、地元で首相を忖度する動きがあるが首相は知らないとか、安倍政権になってこんなことが繰り返されている。そして、とうとう国民は加害者としてこの件に加担させられてしまったのである。そしてこの状況を放置しておく限り次々と犠牲者が出ることになるだろう。次は外国で人を殺してしまうかもしれないし、追い詰められた官僚が亡くなるかもしれない。もっともこの中に社会の助けがあれば生きられた人たちは含まれない。そういう人たちはもうずいぶん前から「自己責任」に殺されている。

感情的に高ぶっていてばかりいても仕方がないので、状況を整理しよう。

もともとこの飛行機は無理のある開発が進んでいたようだ。これはよくあるプロジェクトの失敗だ。いろいろな人の要望を聞きすぎて収拾がつかなくなってしまったのだ。半田滋という東京新聞出身のライターがゲンダイに記事を書いている。これだけだと偏っていそうなのでQuoraでも聞いてみた。総合するとこんな感じになる。

  • F22をベースにして、陸海空軍の要求仕様を詰め込んだために使い物にならない(中途半端な)仕様になった。装備が多く大きすぎるということのようだ。
  • 開発費が高騰していたがトランプ大統領が値下げさせたため無理が生じた。
  • 一機あたりの値段が政治的に下がったので、大量に売って開発費を稼ぐ必要が出てきた。

このため幾つかの欠陥が積み残しになった。後でリストが出てくるが全て数えると966件になるという。重大な欠陥も含まれている。

  • ソフトウェアの開発が遅れており「飛ぶだけで何もできない」可能性があった。
  • 乗組員が窒息する可能性がある。
  • 逃げ出そうとしても逃げ出せず、中に閉じ込められる可能性がある。
  • エンジンが1つしかないので、1つが壊れたら確実に墜落する。

ところが、この欠陥ゆえに次第に安倍首相がトランプ大統領のご機嫌をとるための道具になってゆく。もともとトランプ大統領がF35は高すぎる!と言ったためロッキード・マーティン社の株価が急落した。これがトランプ大統領にとっての成功体験になっているというのである。つまり安倍首相としては個人的な貸しを作りやすい飛行機だったのである。

日本流の情の政治では困っている時に助けてくれるのが真の友達である。だから、安倍政権は無理難題を引き受けたり、ポンコツな人材を引き受けたり、ポンコツな飛行機を引き受けてしまう。そしてこれを貸しにして自分のやりたいことを相手にやってもらうということになっている。

さらに体裁上は「アメリカから最先端のものを買わせていただいている」という取引になったそうだ。もともと軍事秘密の塊なので日本は重要な部分に触れることはできない。少し長いが半田さんの文章から引用したい。これは2017年の記事である。あらかじめわかっていたのである。

FMSとは、米国の武器輸出管理法に基づき、(1)契約価格、納期は見積もりであり、米政府はこれらに拘束されない、(2)代金は前払い、(3)米政府は自国の国益により一方的に契約解除できる、という不公平な条件を提示し、受け入れる国にのみ武器を提供するというものだ。

[中略]

当然ながら、問題も噴出している。日本の会計検査院は10月26日、防衛省がFMS取り引きを精査できず、米国の言いなりになってカネを支払っているのではないかと指摘した。

防衛省が2012年度から16年度までにFMSで購入した武器類の不具合は734件(91億9118万余円)ある。このうち12件(3194万円)は、防衛省の担当者と武器を受け取った部隊との間の確認作業などに時間がかかり、米政府が期限とした1年以内を越えて是正要求したところ、米政府から門前払いされた。日本側の大損である。

「ポンコツ戦闘機」F35、こんなに買っちゃって本当に大丈夫?

これを放置した結果も、半田さんの文章から読み取ることができる。なんらかの異常があったのだろう。犠牲になったのは働き盛りのパイロットだった。

操縦していた細見彰里3等空佐(41)は、三沢基地のレーダーから機影が消える直前、無線通信で「ノック・イット・オフ(訓練中止)」と伝え、間もなく消息を絶った。

F35墜落、原因究明を阻む「日米間のブラックボックス」の実態

さらに日経新聞も「脱出装置は使われなかったようだ」としている。ただ、直前まで意識があったが脱出できなかったのか、それとも急激に意識を失ったのかということはわからない。

細見さんに何があったのかということは最後までわからないかもしれない。人々はすでにこの事件にいろいろな思惑を重ねて見ているからだ。まずアメリカの当事者たちは「外国に秘密がバレるとまずい」と思ったようだ。中国やロシアのことを心配したのである。CNNはアメリカも捜索に加わっていると書いているのだがこれは親切心からではないだろう。日本より早く見つけて軍事秘密を回収しようとしているのだろうし、そもそも日本は捜索もさせてもらえないかもしれない。つまりこれは日本側が調査できないということを意味する。そして日本政府は今後もアメリカが「問題ない」といえばそれを鵜呑みにしていつ墜落するかわからない飛行機を買い続けるかもしれない。

この姿勢が安倍政権の性格に起因することは間違いがないのではないか。責任を取りたくないことは部下に任せて聞かなかったことにすればいいというのは首相がさんざんやってきたことだからだ。共産党がすでにこの問題を2月に取り上げている。が我々はこれを無視した。「どうせ共産党がいつものように騒いでいるだけだ」と思った人も多いはずだ。

米国からの兵器の大量購入を決めた安倍政権が、105機の追加取得を行うF35ステルス戦闘機について、岩屋毅防衛相は15日の衆院予算委員会で、米政府監査院(GAO)が報告で示したF35の未解決の欠陥966件(2018年1月時点)の「リストは保有していない」と述べ、同機の欠陥を把握していないことを認めました。日本共産党の宮本徹議員への答弁。宮本氏は、F35のコスト急増問題に加え、「どういう欠陥があるかもわからないまま105機も爆買いするのか」と批判しました。

安倍政権の“浪費的爆買い”

さらに問題なのはこれが与野党運動会に利用されてしまうという懸念である。共産党が声高に反対すれば与党支持者が「強硬な対応」にでて思考停止に陥ることは目に見えている。多分「自衛隊員の命を政治利用するな」というような話になるのだろう。だが、今の野党はこの件を取り上げていない。パイロットが見つかっていないので「亡くなった前提」で政治利用すると逆に反発される可能性がある。いつ持ち出せば一番効果的に安倍政権を叩けるかという野党の思いが透けて見える。彼らももうパイロットの件を実は忘れているのかもしれない。

もちろん地元は地元で心配している。東京新聞は地元の不安を伝えるが、いつ落ちるかわからない飛行機の基地にされたのではたまったものではない。

岩屋毅防衛相はすでに同型機の飛行見合わせを表明し、三沢市の種市一正市長との面会では「地元の皆さまに大変ご不安を与えてしまい申し訳ない」と陳謝した。基地周辺住民の不安を考えれば、原因が究明され、対応策が完了するまで飛行を再開すべきではない。

空自F35墜落 国民が分かる究明に

ここからわかるのは安倍首相の「気配り」を起点にして全てがバラバラな方向に歩み始めているということである。安倍首相は周りにいい顔をしたいのだが、そのために大勢の関係者たちが犠牲になり、傍観者を加害者として巻き込む。今回の最大の犠牲者は今回まだ行方が分かっていないパイロットとその家族であり、次に基地近隣に住んでいる人たちだろう。そして加害者は非常に残念なことなのだが、我々一人ひとりなのだ。

イスラエルの総選挙と日本への影響

先日、トランプ大統領がゴラン高原のイスラエル支配を認める声明を出してちょっとした騒ぎになった。もともと安定している地域のようで、これを追認しても大した問題にはならないだろうという観測をどこか(Quora、Twitter、ブログ)でお伝えしたように思う。が、今にして考えてみると「イスラエルの選挙対策だったんだな」とわかる。読み返してみたら選挙についても書かれていた記事もあった。




イスラエルで総選挙が行われ、現与党のリクードと野党連合「青と白」がどちらも勝利宣言を出したそうだ。リクードが政権をとれば史上初の長期政権になるのだが、ネタニヤフ首相は検察当局から「狙われて」もおり、選挙情勢は微妙だった。

ここまではイスラエルの中の話なのだが、これが回り回って日米同盟にもちょっとした影響を与えている。

イスラエルは一院制の比例代表制で、一党が過半数を取りにくい仕組みになっているそうだ。今まで一度も一つの政党が過半数をとったことはないのだという。リクードを率いるネタニヤフ首相は裁判を抱えており司法の出方によっては政権を維持できない可能性もある。娘婿がユダヤ人であるトランプ大統領にはネタニヤフ首相を応援する理由があった。このほかにもネタニヤフ首相はガザ地区を空爆してハマスへの攻撃姿勢を示しており、日本とは比べ物にならない「選挙対策」の苛烈さがある。経済的に安定してはいるが、黙っていると消えてしまう国家である。

この突然の領有権支持宣言を見ると、アメリカが必ずしも国益ではなく大統領の個人的なつながりによる選挙対策を優先した外交を展開しつつあることがわかる。これにお付き合いすると国益を損なう可能性があるということである。安倍首相としてはじわじわと実績を積んで集団的自衛権の名の下に太平洋に君臨する輝かしい日本を作りたいのだろうが、その場の瞬発力で動くトランプ大統領はパートナーとしてはふさわしくない。

人間はわからない現象を見ると合理的に解釈してしまうという悪癖がある。前回ご紹介した記事では「シリアのISが撤退してしまったので、アメリカが関与し続けるためにはなんらかの揉め事が必要なのでは」という見解が紹介されていた。しかし、若干無理があると思ったのか「これをトランプ大統領が理解しているかはわからないが……」という但し書をつけていた。結局、このようなロングレンジの構想があるわけではなく、次の選挙にどう有利かくらいのレンジで動いているということになるのだと思う。

これをめぐって日本では複雑な対応があった。日本はシナイ半島への多国籍軍(MFO)に参加するのだが、これは国連とは関係のない枠組みである。安倍政権は、集団的自衛権の実績を増やして、国連とは関係のない集団的自衛の枠組みを日本が主導できるようになる日を夢見ているのだろう。これが、いわゆるリベラルがいう「日本を戦争ができる国にする」の正体である。日本はこれを支援するというポジションは崩さなかった。

一方で、外務省はゴラン高原でのイスラエルの実効支配を認めなかった。なんでもアメリカに追随するはずの日本としては珍しい対応だ。これを認めてしまうとロシアの北方領土の実効支配も認めなければならなくなる。日本はこれだけは認められないという立場なのだろう。これも長期的な視点に立っているが過去に縛られている。面白いのは北方領土が帰ってこない理由も日米同盟の過去の約束に日本が縛られているからだという点だ。アメリカはあまりにも短期的に動いているし、日本は長期的に縛られすぎているということがよくわかる。

このように一つのニュースをみるといろいろな疑問がするすると解けてゆくことがある。だが、テレビや新聞でこうした一連の流れをみることがほとんどできなくなっているように思う。断片的な情報が流れては消えてゆくのである。こうした一連の情報をかろうじてつないでくれるのがいくつかのTwitterアカウントなどである。国会議員とか国際政治学者などのアカウントがイスラエルに興味を示すTweetをしており、これを読み解くといろいろなことが見えてくるのだ。

リベラルの人たちは今回のニュースにほとんど反応しなかった。多分野党が攻撃材料として使っていないからなのだと思う。代わりに彼らが夢中になっているのが桜田元オリンピック担当大臣の辞任である。安倍首相の任命責任を追求して困らせる方が彼らにとっては重要なのだろう。「くだらないなあ」とは思うのが、安倍批判だけである程度票は取れるようなのでここから抜け出すのはなかなか大変なのかもしれない。

給料が上がらないという議論を読み解く

「給料が上がらない」とか「いや問題ない」という議論がある。これについて観察する。読むのは日経新聞ダイヤモンドオンラインの野口悠紀雄の記事である。




日経新聞がOECD加盟国を調査したところでは、日本の民間部門の時給は1997年から2017年の20年の間に先進国で唯一下がっている。これが生産性の低下を招き、生産性が上がらないから給料が上げられないという負のスパイラルを生み出している。日経新聞はこれを「貧者のサイクル」と呼ぶ。スパイラルになると因果関係を調査してもあまり意味がない。

この件に関しては一般の関心も高いようだ。Quoraで聞いたところ多くの閲覧者が集まった。整理された回答とは言えないのだが、マネジメント・消費者・投資家という複合した要因が長い時間を書けてこうしたトレンドを作ってきたということは感じ取れる。

これとは別の切り口もある、野口悠紀雄は今回ご紹介するのとは別の記事で、中小・零細企業から正社員が放出され大企業が安く人を雇えるようになったからなのではないかと言っている。つまり構造的閉塞状態が続くと大企業独占が強まりますます企業に有利な雇用環境が生まれてしまうのである。貧者のサイクルがどんどん強まってしまうわけである。

日経新聞の記事では最低賃金を上げて付いてこれなくなった経営者を切り離すべきだという意見を紹介している。が、今の自民党は地方の不満を爆弾のように抱えこんでいるようなのでこの政策が実現することはおそらくないだろう。

ところがこの現状を政府は認めてこなかった。ゆえにこの現象には二つの見解ができている。今回のQuoraには、なぜか政府側の見解に添った回答に「高評価」が付いている。今は生活に困るほど困窮していない人もいて「大したことはない」というバイアスが働く。これまでの豊洲の議論・高橋まつりさん事件・伊藤詩織さん事件に通じるものがある。日本人は本能的に「問題の警告」を嫌うのだ。

安倍政権は総雇用者所得が上がっているから給料は上がっているのだと主張してきた。だから問題ないというのだ。では、総雇用者所得とは何なのか。実はこれは合成して作られた数字なのである。毎月勤労統計調査」の1人当たり名目賃金(現金給与総額)に、総務省「労働力調査」の非農林業雇用者数を乗じたものだ。と説明されている。もともと一つの統計ではないので何かを分析するためにデザインされたものではない。ゆえに政府に実態を把握する意欲があるならば、なんらかの調査を行うべきだろうし、

そこで、野口は非正規雇用が増えたせいで労働者数が上がり全体として数字が上がっているのだと分析している。一人当たりの労働でみた実質賃金は下がっているということなので「働かなくてはならない」高齢者と女性が増えているというのだ。安倍首相はこれを一億層活躍と言っているが、見方を変えれば「一億総動員」である。だが、これも一人ひとりに意見を聞いたわけではなく、どちらが正解なのかはよくわからない。

一つだけ確かなのは支出を抑えたい今の労働環境=消費市場が高付加価値型の製品やサービスを求めることはないだろうということである。また低賃金に張り付く労働力が比較的手に入りやすいので、低賃金依存の労働環境が「正解」となり、ますます貧者のスパイラルが強化されてゆく。こうして日本は経済成長から取り残されてしまうのである。

この二つの記事を読むといろいろなことが見えてくる。まず、野口が指摘するように与野党の議論が噛み合っていない理由がわかる。野党は日本人全員が相対的に苦しくなっていることを問題にしている。が、自民党は全く別の数字を持ち出して「企業は人件費への支出を増やしているから問題はないのでは?」と言っているのである。議論が噛み合っていないというより、議論するつもりがないのだろう。なぜかというとこれは「政策の正当性」の議論であり、政策の議論ではないからだ。

ここで「どちらが正しいのか」という運動会的視点を離れて問題を見てみよう。企業は人件費を削減しようとして非正規雇用への転換を進めた。ところが全体としてみるとなぜか人件費は上がっている。これはどういうことかというと「全体効率が落ちている」ということである。部分最適化を進めても全体として最適な解が得られるわけではないということを意味している。

高度経済成長期には本社機能が優れたビジネスプランを作りそれを分散するという手法が取られていた。こうすると全体的に効率が上げられる。先端部が生産的であれば末端は生産性を求められず「いうことを聞いていれば」よかった。いわば中央集権的な成功事例である。

ところがバブルが弾けて「どうしていいかわからない」状態になると、本社機能が末端に「何か儲かる仕組みを探せ」というようになった。もともとそういうデザインの社会ではないため探索機能はうまく機能せず、中央集権的なやり方も手放さなかった。そこで本社決済で行える人件費削減が流行し、ますます正解が探せなくなっている。このため効率が落ち、社会全体で人件費の高騰という形で現れてきている。つまり「生産性が上がらないのに総雇用者所得だけが上がっている」というのは問題がないどころか、大問題なのだ。

もっと平たい言葉で説明すると「みんながバラバラに働いているから効率が悪くなる」ということになる。すると一人ひとりの労働者は満足できるほどの給料がもらえず、企業も割高な給料を払っているということになってしまうのだ。そして、この結果振り落とされるのは競争力のない地方の中小零細企業である。彼らが自民党にしがみつけばしがみつくほど自分たちの首を絞めてしまうのだが、運動会をやっているあいだはそれに気がつけない。

もちろん安倍政権がこうした状況を作り出したわけではない。安倍政権はどちらかというとこうした集団パニック的な状況を傍観・追認しているだけである。ところが野党がこれを「安倍政権のせいだ」と攻撃するので、自動的に「防御しなくては」という防衛本能が働いているのだろう。

こうして落ち着いて複数の文章を当たるだけで「ああ、これは全体的にうまくいっていないな」という遠近感が得られるのだが、みんなそれぞれの運動会に忙しいので日本全体がこの問題に気がつくことはないのかもしれない。