英語は飽きたらやめなさい

前回も書いたのだがQuoraで「日本人が英語ができないのはなぜ」か問題というのが定期的に出てくる。前回は「日本人が」というのと「私が」というのでは結論が変わるという話を書いたのだが、今回は言語学習そのものについて少し考えてみたい。いろいろ発見したことはあるのだが、細かいことを書いても伝わらなさそうなので、一つだけを伝えたい。それは「語学学習は飽きたらやめるべき」ということだ。語学学習は「同じことを続けてはダメ」なのだ。

すでに習得してしまったので「英語ができない」という人の気持ちがわからない。そこで昔挫折した言語をやってみることにした。もともと学生時代に海の向こうから聞こえてくるラジオの言葉が理解したかったという動機で始めたのだが、だらだらと全く理解できないままで数十年が過ぎた。だから、文字と漢字由来の言葉をいくつか知っている程度で全く進展しなかった。旅行に行ったことがあり「トイレはどこですか」「駅はどこですか」「これはいくらですか」「これを一つください」は言える。

韓国語の形容詞と動詞には固有語が多くそれが記憶できない。英語も同じところでつまづいた記憶がある。中学生の時に学校でボキャビルをやらされたのだが根気がなく続けられなかった。必要かどうかがわからない単語をいくつも覚えて昇級するというシステムに「バカじゃないだろうか」と思った記憶がある。結局英語が使えるようになったのは英語だけで生活するようになってからである。

そこで単語のCDを入手し、ヤフオクで落としたiPodに入れて聞いた。繰り返し聞いたのだが、全く覚えられる気がしなかった。韓国語の動詞は短いものが多く、単語のように思えないのだ。5級の最初の部分でさえダメという状態だ。これは一ヶ月くらい聞いていたがあまりにも覚えられないので苦痛になってやめてしまった。

そのあと、K-POPの歌詞を検索して意味を調べるということをやった。先に和訳してくれている人たちがたくさんいるのである。ところがこれも挫折した。意味を掴むには十分だが、細かく見るとわからない文法要素が多い。文法が日本語と似ており語尾が変わると意味が反対になったりするし、細かいニュアンスや、立場の違いによって語尾が変わったりもする。語尾を間違えただけで「失礼だ」といって殴られかねない言語なのである。多分日本語を覚える人も語尾学習は大変だろうなと思ったので、そういう人に会ったら優しくしてあげようと思う。あまりにも覚えられないので、OpenOfficeに簡単な文法辞典みたいなものを作ったのだがそれでも覚えられない。これも嫌になってやめた。だが、そのあともYouTubeにあるプレイリストは聞き続けた。

さらに同じ頃にYouTubeで3分ほどのバラエティ番組の字幕の書写を始めた。GoogleTranslateに入力するのだ。ローマ字入力ができるマイナーな方式をMacに入れた。この点Macは便利だと思う。最初はタイピングミスなどがあったがこれは3日くらいで覚えられた。韓国語はスペルを固有に覚えて行かなければならない。そしてよく使う単語ほどスペルが難しい。

このように最初の二ヶ月くらいは挫折しかないという時間が過ぎ去った。YouTubeで聞けるたくさんのミュージックビデオを素直に聞いている時が懐かしいと思ったくらいである。と同時に、もう歳だから新しい記憶は無理なのでは?とも思った。

最初に「あれ?」と思ったのは、最初の歌を繰り返し聞いている時だった。さすがに三ヶ月くらい聞いているとところどころ覚えてくるのである。偶然聞き続けたこの歌は「今僕がいう言葉は異常かもしれないが、なぜかちょっと君は難しくて僕は途方にくれる」で始まる。基本的には求愛の歌だが韻を踏むために「真夏の夕立」とか「赤い赤道の影」「砂漠の塩」などというよくわからない言葉も出てくる。ちなみに「途方にくれる」に当たる口語的な「쩔쩔매」をGoogleTranslateは正確に翻訳してくれない。最初はいちいちこういう言葉や文法要素に引っかかっていたのだが、とにかく聴いているうちになんとなくところどころ覚えてしまった。

最初はでたらめだと思っていた音の列が意味を持って聞こえてくるという「例のあの」瞬間がやってきたわけだ。

ここで再発見したのは諦めたあとでも脳では情報処理が続いているということだ。昔このブログで立ち泳ぎについて何回か書いたことがあるのだが、最初はジタバタしていて「立ち泳ぎなどできるはずがない」と諦めても脳で情報処理は続いていて、次にやってみるとできるようになっていたりするのだ。ここで嫌々やっていると苦手意識がついてしまうのでしばらく離れてみたほうが良い。

語学学習は単なる学習ではなく「体育的」な要素を含むので離れることが重要になってくる。理解するのではなくできるようになるのが大切なのだが、わからないままやっていると苦痛になってしまうのだ。

こうなると徐々に単語が覚えられるようになる。8月に聞いても全く覚えられる気がしなかった形容詞や動詞がなぜか半分くらいは頭に入っている。いろいろやっているうちになんとなく覚えたのだろう。こうなると「理解」が使える。よく間違える単語のスペルに気をつけたり、似ている音韻の別の形容詞が覚えたりできるのである。最初は点だったものがお互いに結びついてネットワークが作られるのだ。理解を司る脳の分野には最初に餌となる点をたくさん与えてやらなければならないようだ。つまり「わかる」というのはあらかじめ覚えているものを結びつけてゆく作業であり、わからなくても記憶プロセスそのものは進行している。そして点がなければ理解もできない。

最後の難関は副詞でこれは今でもかなり怪しい。例えば「まさか」とか「すでに」とか「もしかして」とかその類のものである。だが、これは別のやり方を見つけた。ドラマを見るとキーフレーズが頭に残ることがある。例えば「私は未だに先輩みたいなパートナーに出会っていません」とか「考えているよりも」とか「突然なんだよ」とか「ま、まさかお前」いった具合に表情と音が結びつくと副詞が覚えられる。ただ、どのシーンが頭に残るかはわからないので、手当たり次第に日本語の字幕が入ったドラマやバラエティ番組を見た方がいい。いわゆる言語シャワーというやつである。

今回はやや散漫になってきたのでポイントになりそうなところをまとめる。ポイントは集中してやって嫌になったらやめることだ。

  • まずは無駄な基礎運動を続ける。これをやらないと難しいところには進めない。
  • だが、嫌になったらやめてもいいし、むしろ積極的にやめるべきだ。「嫌になる」ほどやると、あとは脳が処理を始めてくれる。
  • 次に、自分が先を知りたいとか何を言っているのか是非とも知りたいと思うようなものを見つける。
  • わからないという苦痛はできるだけ避けて、わかりたいという欲求を大切にする。

ということで勉強を再開して四ヶ月が経過しようとしている。そこで、ドラマを見て筋を覚えてから今度は音声だけを聞いてみた。すると全てではないがほとんど「どのシーンか」はわかるようになった。全く意味がわからない音の羅列ではなく言語に近づいてきている感じがする。

年をとっているので記憶力は確実に落ちているものと思われるが、それでもこれくらいは記憶できるんだなと思った。「若かったらもっと覚えられたのに」とは思わない。昔からそれほど記憶力や理解力に恵まれていなかった上に勉強は苦手なので下手な成功体験がないからである。

言語学習は自転車の乗り方を覚えたり水泳のやり方を覚えたりするのに似ている。ある意味スポーツに近い。そして、一回新しいことを覚えると今度はそのやり方を横展開して別のことを「もっと早く」覚えることができるようになるのではないかと思う。

ここから言いたいことはたくさんあるのだが、あえて一つ挙げるとしたら言語学習は「苦手だ」と思ったらやめてもいいということである。ただ、やめたあとでも処理は続いているので「全部やめてしまう」よりもやり方を変えて飽きずにやれることを見つけるのがよいかもしれないと思う。苦痛を減らしてできるだけわかる喜びをこまめに見つけると言語学習は長続きするのではないかと思う。

いつまでも英語が習得できないのはどうしてなのか?

今日は英語の習得について考える。日本人は英語が苦手とされており「学校教育が悪いから英語がいつまでたっても習得できない」という意見が根強い。これについてはいろいろ思うところがあるのだが、ある程度英語が使えるようになってしまったために、それぞれの意見が妥当なのかがよくわからない。いったんできるようになってしまうと、なぜできるようになったのか忘れてしまうのである。

最近、韓国語をやり直している。韓国語に興味を持ち始めたのは高校生くらいの時だと思う。ハングルは簡単なので時間をかければ読めるようになったのだがそれ以上進まない。韓国に行ったときには日本語と同じ順序で漢語を並べると通用するので感動したのだが、それでも「ホテルに電話したいのですか」と「トイレはどこですか?」しか覚えられなかった。

少し思い立ってやり直しをしようと思った。手始めに韓国語の初級である「5級」の単語集のCDを見つけて繰り返し聴いているのだが、いつまでたっても単語が覚えられない。「ああ、やっぱり年を取ると記憶力が落ちるんだなあ」などと諦めかけたのが7月の末頃だと思う。

しかし、年齢ばかりを言い訳にしていても仕方がない。中学のときにボキャビルが苦手だったことを思い出した。友達の中にはスイスイと覚えて次の級に進む人もいるのだが、単語帳をただ覚えるのは退屈でいつまでたっても覚えられないのである。自分は怠け者で勉強ができないダメな人なのだと思っていた。

だが、今にして思うと「興味がないこと」が続かないだけの普通の人なのかもしれないと思う。

最初にやったのは韓国語の同じ歌を毎日続けて聞くというものだった。面白いことに歌だと半月も聞けば音は入ってくる。ある程度経過してから意味を調べると記憶が定着するのである。「影」「夏」「塩」「赤道」などととりとめのない言葉を覚えたのだが、これはその歌に出てくる歌詞の一部だ。

だが、それだけで韓国語が覚えられたという実感は得られない。さらに半月くらいかけてバラエティ番組を日本語の字幕で見た。食事を作るという番組なので「にんじん」「かぼちゃ(ズッキーニ)」「砂糖」「麦」「米」「スイカ」「きゅうり」などという言葉を覚えた。いったん言葉を覚えると単語帳の言葉も入ってくる。こうやって集中してやらなければならないんだなと思った。

外国語を楽しむためにはある程度のボキャブラリの集積が必要だ。だが、覚えるはじから忘れていってしまう。この忘却曲線は坂道のようなもので、言葉を習得するときにはこの坂をあえて登って行かなければならない。そして、それは年齢とともに徐々にきつくなってしまう。だから興味が続く素材をたくさん集めて時間をかけて聞くことになるのだ。

考えてみるとかなり長い時間を学習に充てている。それがあまり苦痛にならないのばバラエティ番組や歌そのものに興味があるからだろう。新しい言語を習得するためにはある程度の集中した時間が必要であり、なおかつ興味のある対象でないと続かないということだ。そしてそれをたくさん集めなければならないのである。

その意味では学校の英語の勉強は最悪の学習法だといえる。短い時間でだらだらとあまり興味のないことを学ぶので、記憶力に自信があって勉強そのものが好きという一部の変わった人を除いて「できるようになった」という達成感が得られない。学校で英語が得意になったという人はよっぽど変わった人なのではないかと思う。課外で興味のあるトピックを見つけるのが大切なのではないだろうか。そして三ヶ月などの期間を決めて時間を作ることが重要なのだろう。いったん長期記憶側で覚えると忘れにくくなるし、忘れたとしてもちょっとしたきっかけで思い出すことができる。

外国語を覚えるのはかなり面倒な作業なのだが、良いニュースもある。かつて、英語を学ぶときには留学でもして「言葉に浸かれる環境」を作る必要があった。だが、今はYouTubeなどを使えば原語のコンテンツは豊富に用意できるし、自分で集めなくても次から次へと新しいコンテンツがオススメされてくる。

さらにGoogleTranslateも使える。例えば「程度を表す言葉」を覚えたいとすると、これをあらかじめGoogleTranslateに仕込んでおいて毎日聞くことができるのだ。リンクしてあるページで音声ボタン(スピーカーボタン)を押すと読み上げソフトが文章を読んでくれる。もはや辞書が必要ないのである。

大きいという形容詞は「クダ」なのだが、韓国語の形容詞を形容形で使うためには(n)eunで挟む必要がある。形が変わって「クン」になってしまうともう聞き取れなくなってしまうので、一連の形をまとめて記憶する必要がある。これは「国(ナラ)」を付けた活用の形である。

크다.
큰 나라.
국가가 크다.

難しい話」で作るとこうなる。辞書形はオリョプタだが、名刺の前に付くと「オリュン」のように聞こえる。これも日本語を入力すれば正しい形がすぐにでてくる。

어렵다.
어려운 이야기.
이야기가 어렵다.

操作方法はちょっと複雑だが、Macを使うと簡単に単語帳が作れる。スピーチ機能を利用すればよいのだ。

テキストを保存して「スピーチ」で読む必要がある。ただし、デフォルトでは韓国語は読んでくれない。コントロールパネルの「音声入力と読み上げ」で「テキスト読み上げ」タブを押して「カスタマイズ」でおめあての言語のファイルをダウンロードする必要がある。韓国語を読みたい場合にはいちいちこれを切り替える必要があり面倒なので、ブラウザーからGoogleTranslateを呼び出した方が簡単かもしれないとは思うのだが、これはこれで別の面白い使い方がある。英語の方言に対応しているのである。英語でHey Judeの歌詞を調べてきてテキストとして保存する。これを米語、英語、スコットランド英語、豪語、南アフリカ英語、インド英語などで読むことができるのだ。

民主党系保守の政治家はなぜ嘘つきなのか

長島昭久という衆議院議員が、希望の党の党首が「暫定的である」という報道に異議を唱えた。しかし「自分は反対であるとは言わずに、これは誤報だ」とやった。いつもの手口なので「民主党系保守の議員というのはなぜ嘘つきなんだろうか」と思った。翌日になってやはり今回の希望の党の党首は暫定であるということがわかった。やはり当初の直感は正しく長島議員は嘘をついていたのである。

後になって話を聞いてみると、希望の党には互選によって代表を決めるためのルールがなく、これといったまとまりもないようだ。だから、そもそも本格的に選挙をして代表を決めることなどできるわけはなかった。つまり長島さんは状況が読めいないか、人の話を聞いていなかったことになる。それでも長島さんが「暫定代表はフェイクニュースだ」と言いたかった理由もなんとなくわかる。つまり新しい国会で首相指名選挙がありその時に書ける名前がないと「格好がつかない」と思ったのだろう。結局渡辺周議員の名前を書くことにしたらしいのだが「誰だそれは」と言われているようだ。つまり、長島さんの言っていることにも理はある。

それにしてもなぜ「民主党系保守の議員は嘘つき」なのだろうか。思い起こしてみると、前原さんも結果的には大嘘つきだった。枝野さんと前原さんを比べると、枝野さんのほうがリベラルで前原さんのほうが保守であるという印象が強い。結果的に枝野さんは「筋を通した」と言われ、前原さんは民進党を壊滅させた大嘘つきということになった。

いろいろ考えてみたがこれといった説が思い浮かばない。例えばある人は、保守政治家が嘘つきなのはマウンティングが関係しているという。確かにありそうではあるが、嘘とマウンティングは結びつかない。

最終的に考えたのは、保守というものが環境に内在している暗黙的な知識に依存しているという説だ。保守は暗黙知に依存しており形式化されていないから、環境が変わるとそれを再編成できないということになる。だが、この説明では何がなんだかわからないのではないかと思う。ここから先を説明するのが難しい。

そもそも、保守が嘘つきであるという理由がわからないのは、何が保守であるかが確定できないからである。だから、保守の人たちがどんな人であるのかを考えてみる必要があるだろう。

長島さんは幼稚舎から慶應という筋金入りの慶應ボーイで、ジョンホプキンス大学で研究員もしているようだ。まず裕福であり頭も良いのだろう。地方議員をまとめて逆風の希望の党で小選挙区から勝ち上がったところを見ると、人望もあるはずだ。

こういう人の意見がぞんざいに扱われることはないだろう。もともと現状に対して肯定的なのだろうし、また現状も彼に対して肯定的であることが予想される。だから現状に満足しており、政治的態度も現状容認型になるであろう。普段彼らは声をあげる必要は無い。だから「何も言う必要がない」ということになる。

一方「リベラル」と呼ばれている人たちはどんな人なのだろうか。例えば菅直人さんのケースを見てみよう。菅さんは地方のサラリーマン家庭の出であり学生時代に市民運動にのめり込んだ。現状になんらかの不満があったことが伺える。だから世の中を変えようとしたのだろう。しかし共産系の市民運動家が多い現状も気に入らなかったようで「独自の組織」を立ち上げた。そのあとも無所属で立候補している。どうしてこのようになったのかはわからないのだが、いつも現状に不満で、既存の運動ともあまりそりが合わないことがわかる。弁理士という職業を選んだのも、親が「技術系のサラリーマンは不遇だ」と言っていたのを参考にしたという話がある。つまり、恵まれていない親から生まれた現状にあまり肯定的な態度を持てない人だったわけである。

これは本来のリベラルとは全くかけ離れた定義だが、ここでいう「リベラルな人」というのは常に自分にぴったりな環境が見つからないか、あるいは常に他人に不満を持っているということになる。だから常に発言を続けている。さすがに嘘ばかりつくわけにはいかないから、それなりに一貫した軸を見つける。だから、リベラルな人たちが発言するとそれなりに筋が通っているように見える。

では、いつも周りから認められて尊重されている人たちが「これは気に入らない」という環境に置かれたらどうするだろうか。リベラルな人たちは常に気に入らない環境に置かれているのでなんとかしようとするわけだが、保守の人たちはそんな経験をしたことがないから、何をどうしていいかわからない。そこで長島さんのような突拍子もない行動に出てしまうのではないか。

長島さんの場合は自分の考えと違っていたり、自分と理想としている状況と違っていると、SNSで「それは真実ではない」などとつぶやくのがお決まりになっている。満足な時には何も言わないのだから結果的に「いつも嘘をついている」という印象になるのだろう。

つまり、正確に言うと民主党系の保守の議員が嘘つきというわけではなく、現状に肯定的な人が外に向かって発言するのは嘘をつく時だけなのだということになる。

一方違った理由で嘘をつく人たちもいる。前原さんの場合はもともとの家庭が裕福ではなかったが頭が良かったために良い大学に行くことができた。小池百合子さんは発想と発信力は素晴らしいが、実務経験はなく加えて女性である。こういう人たちは現状には満足していないが、自分が持っていないリソースを補うために「保守」を偽装する。最初から嘘をついているのかもしれない。そして、たいていの場合彼らの嘘は他人を傷つける。それは、彼らの嘘の動機が他人の人生やリソースの無償利用にあるからである。

一方で、自民党の議員は自分の思うように政治が進められるので嘘をつく必要がないように思える。だが彼らも民主党の人たちとは違った理由で嘘をつく。

安倍晋三は岸信介の孫であり恵まれた境遇で育った。小泉純一郎の元で政治を学び「後継者」扱いだった人で、いわば王子様みたいなものだ。だから相手を説得して何かを成し遂げる必要はないし、ましてや自分で経済政策を考える必要はなかったはずである。だから、安倍首相は多分アベノミクスがうまくいっているかどうかわからないだろうし、もしかしたらアベノミクスが何なのかということすらよくわかっていないかもしれない。

安倍首相が嘘をつく理由はいくつかある。まずは民主主義を守って国民のために働いているという。さらにアベノミクスはうまくいっていると嘘をつく。さらに、アベノミクスはうまくいっているのだから国民は何もしなくていいし、政治を知る必要もないと言っている。

麻生副総理の言動を見ているとこれが嘘だとわかる。麻生さんが嘘をつく必要がないのは、もはや首相にはなれず統治に責任もないからである。

麻生さんが言っているのは次のようなことだ。

  • 国民はバカで騙されやすいし、統治するためにはヒトラーの手口を学ぶべきである。つまり、国民には主権者としての能力はないので適当に管理すべきだということだ。
  • さらに北朝鮮のおかげで選挙に勝てた。日本海側にいた人たちは特に騙されやすかった。つまり、北朝鮮の脅威から国民を守るなどというのは嘘(あるいは方便)であって、本質は権力闘争だったということである。

早期の解散を言い出したのは麻生さんだという話がある。当然裏では安倍首相もこの意見に賛同しているのだろう。だが、安倍首相はしばらく首相でいたいので本当のことは言わない。ついでに嘘を取り繕うのにも疲れたらしく今年は国会を開かないという。熟議するというのも謙虚になるというのも嘘で、数があれば国会審議を通すことができると知っているのだろう。

ここまでをまとめると次のようになる。保守は現状の受益者なのだが、なんらかが変わったことでその環境を再現できない人たちということになる。民主党系のようにすぐにバレる嘘をつくか、自民党のように現状が破綻していることが露見しないように嘘をつくのが保守なのである。

ここまでだと単なる悪口になってしまう。一方、リベラルも菅直人前首相を見る限りは「なんだかよくわからないけれど現状が嫌い」ということになる。保守とリベラルで共通しているのは、うまくいっている状態が再現できないということである。つまり、どちらも同根で単に迷惑な人たちなのだ。そして、再現できない理由は彼らが依存している環境が暗黙知によって形成されているからなのである。

つまり、うまくいっていた状態が再現できれば建設的な保守やリベラルができる。今回の定義では現状に肯定的だと保守なのだから、建設的な保守というものが論理的にはありうるということになる。と同時に、今回の適宜では現状に不満な人はリベラルなので、建設的なリベラルもありう流ということになる。

では、再現のためには何が必要なのだろうか。ここでは料理のレシピの概念で説明したい。ふわふわなケーキを作るためには二つのやり方がある。一つはすべての手順を覚えることだ。そしてもう一つのやり方はレシピを入手してその通りにやることなのである。この二つは同じに見えるが決定的な違いがある。

レシピというと小麦粉・卵・バター・砂糖の分量を意味するように思えるのだが、実際には室温や混ぜ方なども重要だ。混ぜすぎるとグルテンが発生するし、混ぜないとダマになったりする。そればかりではなく例えば卵を室温に戻すなどの作業も必要だ。つまり、美味しいケーキを作るためには分量や手順などの他に外的環境も考慮する必要があることになる。例えば単に味噌を寝かせても醤油はできない。醤油を作るためには蔵にある菌が必要である。蔵の温度と菌の存在も外的環境である。

だから、夏にうまくいっていたケーキ作りが冬にはうまくゆかないということが起こり得るし、蔵の外で味噌を再現することはできない。外的環境が変わるからである。だから「見よう見まね」では再現が難しいものが多いのだ。

長島さんが嘘をつく必要があるのは、自分の地元の成功体験を新しい環境である希望の党で再現できないからなのだった。また安倍首相の場合も、経済運営がうまく行かないのは、どうしたら経済がよくなるかという根本的な理解がないからである。意図的に嘘をついて相手のリソースを利用しようとした小池さんや前原さんを除けば「仕方がなく嘘をついている」ことになる。

つまり、現在の保守は社会が成功するレシピを欠いた状態にあると考えられる。なぜ欠いてしまうかというと恵まれた受益者であるからだ。恵まれた受益者がレシピを作れないのは、いつも一定の環境でケーキを焼いているか、そもそもコンビニでケーキを買ってくるだけだからなのだと言える。

一方で、ある成功をコピーできた人たちというのは、ある程度成功する社会のレシピを形成しつつあるということになるだろう。今回、民主党政権の熱狂を引き継いだのは無所属と立憲民主党なのだが、無所属の人たちは所与の環境を保全することで勝ち上がった人たちである。つまり、立憲民主党だけがある程度レシピを完成しつつあるということになる。そのレシピを作っていったのはあまり政治的経験が無いSEALDsなどの新しい市民運動らしい。

彼らがレシピを再現できれば同じスキルを使って成功する社会を作れるかもしれないということになる。彼らが現在の体制に肯定的な態度を持てばそれは保守ということになる。外的環境が変わったからこれまでのレシピが無効になったのだと考えれば、それが「改革保守」の意味なのだと言える。

いささか面倒な手続きを踏んだが「無能で嘘つきな保守」について考えることで「改革保守」が何なのかということを説明することができた。が、ここで立憲民主党を過度に持ち上げるのは控えたい。なぜならば選挙の熱狂をコピペしただけという可能性も捨てきれないからだ。つまり、彼らが成功する政党になれるかどうかは彼らが成功体験をある程度形式的に分析できるかにかかっているということになる。SEALDsの学生たちは経済で成功した経験はないはずなので、そもそも経済運営の成功をコピーはできない。つまりは、改革保守なるものが成功するためには、また別の知識が必要なはずなのである。

わからないというのはどういう状態なのか

政治についてのブログを書いていると政治問題について語っている人の声を聞くようになるのだが「一般の国民にはちゃんと伝わっていないのではないか」というような苛立ちの声を耳にする。だから、説明すればいいんじゃないかということになるのだろうが、実はその対応は考えものである。そもそも「わかっていない」ってどういうことなのかは、わかっている人にはわからないからである。

こういう時は、何かわからないことを勉強してみるのがよい。ということでファッションについて勉強している。ファッションについて勉強できる素材は豊富にあるので、もし情報が足りないことが「わからない」を解消するなら、多分数日でファッションがわかるようになるだろう。

が、ファッションがわからない人が、ファッション雑誌やWEARを見るとこうなる。

すべてのコーディネートがそのまま入ってくるので却って混乱してしまうのである。そもそも情報が多すぎてよくわからない。つまり、情報は少なすぎてもわからないのだが、多すぎてもわからなくなる。この図はまだマシなものだ。なぜならば本来は色がついておりテクスチャーもある。こうなるともうカオスだ。ファッション雑誌などは企業のタイアップが入るので、ますます混乱度合いが増す。WEARやPinterestはフォルダーを作って整理ができるので、似ているものを集めてみよう。

集めてみると、なんとなくまともになったが、これもよくわからない。なぜならば、何をもって似ていると判断しているかがよくわからなくなってしまうからだ。最初は色が同じようなものを集めていたのに、途中で形に注目したりするし、形に注目してもグラデーション状になっているので、何がどれと似ているのか途中でわからなくなり混乱する。

これを克服するためには情報軸を自分で決め込む必要がある。今回はトップスの大きさとボトムの大きさで分類した。

すると4つの類型ができる。上下が細いもの、上下が太いもの、片方が太いものの4つだ。これに「普通」が入るので、全部で5つの類型になる。さらにパンツの裾だけを絞って細さを追求したものが派生し、細いままで裾だけにゆとりをもたせて(いわゆるベルボトムみたいなやつだ)が派生する。つまり、自分なりに軸を作って並べて初めて全体像が見えるということになる。右下はスカートのような感じなので男性はあまりやらないファッション領域になる。つまり、この順列組み合わせがすべて成り立つわけではないということもわかる。

軸を作るということはつまり、その他の要素を捨ててしまうということである。つまり、情報の刈り込みが必要になる。もう一つ重要なのは、学習する人が自分で軸が作れないと、いつまでも全体像が理解できないということだ。

ファッション上級者は別の見方をしているらしい

では、ファッション雑誌が軸を作ってあげればよいということになるのだが、ファッション業界の人は多分軸が作れないのではないかと思う。例えばIラインとかAラインとか言う言葉がある。Iラインを基準にして、ボトムにゆとりをもたせたのがAラインなのだが、これを別の人が見ても「普通の」格好に見えてしまう。なぜならばそもそも標準が異なるからだ。

一昔前のジーンズにはもう少しゆとりがあった。バブル期に青春期を過ごしたような人から見るとこれが標準で、Iラインが「細く」見える。つまり、人によって基準となる場所が違うのだ。これを模式化したのが下の図だ。

基準点が異なっている上に、細い服を体をがっちりした人が着るとIラインではなくなってしまう。つまり、標準が移動するのでラベルがあてにならないのだ。例えばIラインに大きいジャケットを羽織るとそれがVラインになるという見方もあれば、Iラインに太いVラインを追加しただけだという見方もできる。こういうとややこしいのだが、単純化すると、熟達者は比較の中でものを見ているのである。

地図は作ることに意味がある

「上下のバランスをきちんと決めるとよいのだ」ということがわかると地図自体にはあまり意味がなくなる。さらに、これにテイスト(軍隊由来のものを持ってくるとか、白と青でまとめてマリンと呼ぶのか、アメリカ由来のものを持ってくるとか、いろいろな香りづけがある)を加えるのだが、これは付加的な情報だということになる。つまり、形が先にあり、次にテイストがくるという重み付けが「内面化」された時点で、だいたいのことが「わかった」ということが言える。そうなると、あとは、地図を片手にどこまでが許容範囲なのかとか、どれが一番ウケがよいのかということを探って行けばよいことになる。

これは地図を俯瞰で見るのか、あるいは特定の場所から見るのかというのに似ている。「わからない人」と「わかる人」が話し合えないのは、実は視点の違いにあるのではないかとも思える。

政治がわかる人とわからない人の違い

例えば、右翼・左翼は普遍的な定義のように見えるが、実は比較の問題であって、政治についてわからない人には意味が取れない。多分、自分の立ち位置があり、それによって右翼・左翼の定義はまちまちなのではないだろうか。現在の右翼・左翼というのは自民党政権から見た距離の違いでしかない。55年体制が基準点になっており、その中心から、どれだけ周縁に離れて行くかによって、感覚的に計測しているだけなのだろう。が、基準点もアクターも動いているので、世代によっては捉え方が異なるのではないだろうか。

顕著な例としては、自民党内部の権力闘争に負けて新天地である社会主義リベラルに移動した小沢一郎がいる。多分、今の人たちは小沢一郎は山本太郎と組んでいるので左翼だと認識しているのではないだろうか。が、田中派の人たちはもともと地方分配派なので、政治手法はあまり違っていないのかもしれない。当時のタカ派の人たちは中央よりやや右寄りだったが、今では主流派になっており。これを日本の右傾化と呼んでいるのだが、若い人たちにはピンとこない表現だろうし、そもそもそんなことに興味がない人にとってみれば「みんなが揉めているのだが仲良くできないものだろうか」くらいにしか思えないのではないか。

感覚的にわかる人と地図を作らないとわからない人

ここから、そもそも「わかる」ということはいくつかの別のことを指しているのではないかとい可能性が浮かび上がってくる。

例えば、ユングは世の中の理解を「感覚的なのか直感的か」で分類した。ルールを元に世界を理解する人もいれば、ディテールでものを見る人もいるというわけだ。ディテールで見る人には「自分が好きなファッション」があり、そのディテールを埋めてゆくことが世界を理解するということなのかもしれない。つまり、全体の地図が作れなかったとしてもそれほど「わからない」という感覚には陥らない可能性がある。

直感的にわかることとわからないこと

その他に、直感的にわかることと、考えなければわからないことというのがある。例えば、都議会議員選挙では、豊田真由子議員の件の方が稲田朋美議員の問題よりも大きな影響を与えているそうだ。自衛隊が政治的運動を禁止されているということはある程度歴史や法律の体系を知らないとわからないが、豊田さんの人格がちょっとおかしいということは誰にでもわかるからだ。

また、加計学園のように「誰かを贔屓している」というのは支持率を動かすが、憲法違反の疑いのある安保法制の問題はあまり支持率を動かさなかったという事例もある。これは「贔屓をする人は危ない」という経験的な理解が日本人の間に浸透しているからだろう。

これが「感覚的に物事を見ている」ということなのか、それともまた別の要素なのかはわからない。あるいは過去の経験則から判断の基準を作る人と、内面化したルールから未来予測をする人の二つに別れるのかもしれない。

画像をストックするサービスを作る

ファッション雑誌を集めている。コーディネートの参考にするためだ。スキャンしてウェブサーバーにアップロードする。「公開」状態になってしまうとまずいので、ユーザーIDを入力してアクセスを制限する。

スキャンの自動化

スキャナーした写真はそのままでは使えない。多分ページをバラバラにしてそのまま保存すると言うこともできるのだろうが、コーディネートだけを切り取って色彩を補正する。これは手作業が必要だ。リサイズは自動化できるのだがエラーも多いので手作業でやっている。しかしファイル名を整えるのにはアップルスクリプトが使える。ファイルをドロップすると連番と日付を付けてくれる。

メタ情報が重要

写真が100を超えてしまうとどこになにがあるか分からなくなる。そこで、データベースに情報を入れておくのが重要だ。付加する情報は試行錯誤の後、次の4つになった。

  • 時期(年・月)
  • どの雑誌(あるいはカタログ)から抜いたのか:出典
  • カテゴリー
  • タグ

時期の情報は意外と大切で、例えばジーンズの形が時代によってかなりめまぐるしく違ってくるなどと言うことが分かる。だが実際には雑誌によってかなり時代性が異なるので、出典ごとに並べたほうが分かりやすい。

すべての写真はなんらかの目的のために収集されているので、何らかのカテゴリーに分類できる。カテゴリーはある程度の決まりを作ったうえで分類しないと収拾がつかなくなる。一方タグはいくつでも思いつくままに作れる。1つの写真に複数のタグということも可能なのだがUIはやや複雑になる。1つに写真に1つのタグでもそれなりに使える。

つまり自由に使える分類と固定化した分類の2つがあると利便性が増すのだ。

インターフェイスとスマホ対応

レスポンシブルデザインができて当たり前みたいな風潮があるので、最初は両対応にしようとしたのだが、これはやめたほうがよさそうだ。PCは一覧性がメリットだが、これをスマホで再現すると写真が良く見えない。ポイントは「予め写真の大きさやプロポーションが決められない」という点であり、既存のグリッドデザインでは対応できない。ただ、ウェブでみるためには写真の高さは640px程度に抑えておいたほうがよい。

PC版で異なる大きさとプロポーションの写真を並べるためにはmasonryというプラグインが使える。Pinterest(あるいはテトリス)のように写真が並べられるのだが、可変グリッドと言う名前がついているそうだ。jQueryを利用している。メニューはアンカーで並べたほうが全体像が掴みやすい気がする。

一方、スマホは写真を一枚づつスワイプしたほうがよい。FlickityというjQueryのプラグインが使える。写真の高さをCSSで(imgタグではなく)100%指定した上で並べるとそれなりの閲覧性が得られる。メニューをアンカーで並べるとうるさいのでプルダウンメニューを多用することになる。リストをプルダウン化するプラグインもあるのだが面倒なので利用しなかった。

これを切り替えるのだが、ありものを継ぎ足して作ったためにかなり場当たり的な構造になっている。切り替えにはJavascriptを使う。自作したほうがよいのだろうが、ネットには簡易的なものが落ちている。ただし、当たり前だがPCではスマホのデザインも使える。ということで実際にはスマホでアクセスしてきたときだけ、スマホ専用のデザインに切り替えるようになっている。

後作業

今回は数年に渡って開発したものを継ぎ足しながらシステムを作った。当初はlightbox.jsなどを利用していた。これはprototype.jsを使うのでjqueryベースのスクリプトとはあまりコンパリビリティがない。またタグ付けのシステムは画像をリストアイテムとして扱うのだが、可変グリッドシステムはdivを使っている。このためこの2つのインターフェイスには互換性がない。

本来ならば、使われているスクリプトやメニューを外部化したり整理したりということが必要になるのだろう。データベースのアクセスも2つのやり方が混在していたりする。こういうリファクタリングをやらないとプログラミング上手にはなれないと思うのだが、なんとなく「動けばいいや」と思ってしまうところがある。最初から別のシステムを作り直してもよいかもしれない。

行動が楽になる

画像データベースに限らないと思うのだが、こうしたシステムを作ると行動が楽になる。例えばカーディガンを着るときに「過去に見た写真」を数ある雑誌から探すのは面倒だが、このシステムを使えばスマホの画面から一発でほしい情報に到達できる。

Twitterの議論が不毛なのはそこに智恵がないから

今日のお話はいささかお説教めいている。すこし身近にしたいので「Twittter」という誰もが不毛だなあと考えている題材に落とし込むことにした。Twitterにはなぜ俺より馬鹿なやつしかいないのかという問いを置いてみた。

Twitterには多くの情報が乱れ飛んでいるが、解決策は落ちていない。

情報とはデータをある目的のために並べたものである。Twitterではデータはしばしば「Fact(事実)」とか言われる。事実には、原因とその結果が含まれるようだが、これらはごっちゃにされることが多い。情報には物語も含まれる。これはどちらかといえば情報が先にあり、情報に合うように事実を並べたものである。

宇宙を例に出すとわかりやすい。データや事実に当たるものは星だ。これを宇宙を航行するために並べ替えたものが情報になる。神様が宇宙を創ったからという理由で地球を中心に並べた惑星図を物語といい、「あの星がペテルギウスの形に見えるのはペテルギウスが空に昇ったからである」というのも物語である。物語は事実を解釈したものだが、解釈に沿って事実を並べ替えることもできる。これは「原理主義的な」と言われたりする。

さて、情報が必要になるのはどうしてなのだろうか。星の例で言うと宇宙を航行する必要があるからだろう。つまり行動が伴うと情報が必要になる。行動が必要なければ情報はいらないのだ。Twitterの議論がくだらないのは人々が行動しなくなったからであると置ける。

さて、ここまではデータを動かないものとして考えているわけだが、実際にはデータが蓄積されてくると、ある程度の予測ができるようになる。行動指針のことを「洞察(インサイト)」などと呼ぶ。さらに重要なのは、星と違って人間が作った事実は変わりうるし変えうるということだ。変わらないものを受け入れて、変えられるものを変えてゆくことにはいろいろな呼び名があるのだろうが、ここでは智恵と名付けたい。

智恵はTwitterだけではなく、あらゆるところで欠如している。最初のうちには「みんな馬鹿だから」智恵がないのだと思っていたのだが、どうもこれは正しくないようだ。そもそもTwitterで他の人が馬鹿に見えるのは、人の位置がそれぞれ異なっているからだ。つまり、その人の立ち位置から見える「事実」はその人が一番よく知っている。どう見えているかというのも事実の一種なので、他の人よりもいろいろなことを知りうる立場にいるということになる。だから他の人が馬鹿に見えるのだろう。

日本人が智恵を扱えない原因の一つとして考えられるのは、日本の教育がデータと簡易的な処理方法の詰め込みに力を入れており、得られた知識をそれをどう生かすかということについてはあまり力点を置いていないからだろう。これはキャッチャップ型の工業後進国には即したやり方だが(物理法則は変わらないので事実の変化を伴わない)のだが、サービス産業主体(ソリューションベース)の先進国にはふさわしくなかった。

次の理由は社会のプレイヤーが智恵の領域にアクセスしないことによって生じる。例えばマクドナッルドのバイトは来たお客さんにできあいのハンバーガーを提供するという仕事だけを行っている。ここに来て、お客が自分のニーズを伝えて「それに合うようなものを作ってくれ」と頼んでみると良い。マクドナルドのバイトは多分怒り出す。さらにバンズの置いてある位置やバーナーの位置をちょっと変えてみる。多分、バイトはハンバーガーが提供できなくなってしまうだろう。

たぶん、これと同じことが社会全体に起きている。時代が変わると経年劣化や変化が起こるので、事実そのものが変化してくる。ところが日本の教育は変化を扱えないので、溜め込んだ知識にほころびが出てくる。するとほころびを取り繕うために時間を取られるので、知識を洞察に変えたり智恵を溜め込んでゆく時間がますますなくなる。つまり忙しいので智恵を貯める時間がないということになる。智恵が貯まらないと現実に即して行動を買えてゆくことができないのでますます忙しくなるというわけだ。

本来は「我々は智恵を持つべきか」というようなことを書きたいのだが、これはマクドナルドのバイトに経営マインドを持つべきだと言っているのと同じことなので、言うだけ無駄だと思う。しかし、データだけがいくら集まっても、それが智恵に昇華するということはない。どちらかというとたまり続けるデータとその加工に翻弄されることになる。これはビックデータを扱った人なら経験があることだろう。だが、この感覚もデータに埋もれてみないとわからないことだ。

つまり、データの氾濫に疲れ果てて「なんとかしなければならないのでは」と思った時に大きなチャンスがあると言える。疑問と違和感の中には解決のために鍵が隠されているのはずなのである。

高橋まつりさんはなぜ泣きながら資料を作っていたのか

高橋まつりさんの自殺をきっかけに日本でも労働時間に関する議論が出てきた。論点はいくつかあるようだが間違って伝わっているように思えるものも多い。そんななか、ドイツの労働時間について書いてある読売新聞の記事を見つけた。これを読んで「日本もドイツを目指すべきだ」という感想を持った人がいるようだ。

結論からいうと、日本はドイツを目指せない。記事を読むとドイツで長時間労働時間を強いると人が集まらないから、労働時間を長く設定できないと書いてある。ところが、この記事には書かれていない点もある。執筆者はドイツ在住なので知っているはずだから、書かせた側に認識がないのだろう。

ドイツの職業制度は2本立てになっている。3割は大学に進むが、その他の7割は職業教育に流れるそうだ。これをデュアルシステムと呼ぶらしい。7割は職業人としての教育を受けるのだが、社会の中で「労働の対価はどれくらいで、基本的に必要な知識は何」という知的インフラが作られていることになる。だから、労働者は会社を選ぶことができるのだ。労働者は会社を選別するので、企業は環境を整える。何も「ドイツ人の善意」がよい職場環境を作ったわけではない。

一方で高橋さんの例を見てみたい。高橋さんが「東京大学を卒業して電通に入った」ということは伝えられているが、何を専攻したのかということは伝わってこない。日本では「東大に入れるほど頭がよかった」ということは重要だが、そこで何を勉強したのかということにはほとんど意味がないとみなされるからだだろう。

週刊朝日でアルバイトをしていたことから「マスコミで働きたかった」ということは伝わって来が、電通ではネット広告の部署で金融機関向けにレポートづくりをしていたようである。もし、欧米のエージェンシーでレポートづくりをしていたとしたら、その人は「マーケティングの専門家」か「データサイエンティスト」のはずだ。

もし「データサイエンティスト」だったとすれば、いくらでも就職先はあっただろうし、ドイツのように社会が職能を意識するような社会だったらなおさらその傾向は強かったはずだ。だが「なにのためにレポートを作っているかわからない」と嘆く高橋さんにその意識はなさそうだ。

分業制の進んだアメリカで「顧客のリエゾン」が「データサイエンティスト」の真似事をすることはありえないだろう。だが、日本では「何を勉強したのか」を問わずに学歴で新入社員を入社させて専門教育をせずにそのまま現場に突っ込むということが行われていたことになる。おそらく部署にもインターネット広告に対するスキルはなかったのではないだろうし、高橋さんも自分が何の専門家なのかという意識はなかったはずだ。マスコミ感覚で広告代理店に入り「クリエイティブがやりたい」と考えていたようなのだが、その期待も満たされていなかったかもしれない。

ここからわかるのは電通が「自分たちですらどうしていいかわからないことを地頭の良さそうな学生」にやらせていたということだ。

アメリカで「データサイエンティスト」という職業が成り立つためには、仕事を経験した人が学校に戻って学生を教え、その学生が企業に新しいスキルを持ち込むというサイクルが必要だ。ところが日本では一度会社に入ると学校に戻るという習慣がない。だから社会の知識が更新されない。

では「高橋さんは何を学ぶべきだったのだろうか」ということになる。それは人間関係である。3年以上電通にいて「電通の仕事のやり方」を学べば、そのあとは関連会社からの引きがあったはずだ。つまり、日本の学生は一生そのコミュニティにいなければならず、だからこそ「脱落してはいけなかった」ことになる。皮肉なことにこの閉鎖性が外から知識が入ってくることを妨げている。

立場を考えてみるとデータサイエンスを学んだ学生が電通で働けないということになる。まず入れないだろうし、入ったとしても「成果が出ていないのに成果が出ているような資料は作れません」ということになる。電通の管理職はそれでは困るわけで「専門家は使えない」という評価に繋がってしまうのだ。

このように高橋さんが「意味を見いだせない仕事をやらされて疲弊していた」ことの裏にはきっちりといた理由付けがあり、単に高橋さんの運が悪かったわけではない。

これを改善するためには「社会がどのように知識を更新するのか」というプロセスを作る必要がある。すると労働の流動化が図られて、悪い職場環境は淘汰されるだろう。と同時に国の競争力は強化される。

皮肉なことに新聞社にも同じ知識の分断がある。

冒頭の記事では生産性と労働時間のグラフがある。この中ではなぜか日本の方がアメッリカよりも労働時間が短い。記事の仮説が正しければ日本の労働生産性はアメリカを上回っていなければならないのだが、現実はそうではない。日本は非正規化が進んでおり(主に高齢者の置き換えが進んでいるものと考えられている)労働時間が短くなっている。ゆえに「労働時間が短くなれば自ずと精査性が上がる」わけではない。この記事がいささか「結論ありき」になっていることがわかる。

新聞社は、その分野の人に記事を書かせて、出来上がった結果だけに着目する(専門家のプロセスはわからないから)ので「日本もドイツを見習わなかければならない」などと書いてしまう。そのために必要なのは「社会の優しさ」なのだというな結論を導き出しがちだ。考えてみれば、学校での専門教育を受けたわけでもなく、地方の警察署周りをして根性を身につけただけの人が社会問題全般を分析するようになるのだからそれ以上のことは書きようがない。

今回よく「なぜ日本の大企業は軍隊化するのか」という問題意識を目にするのだが、日本人は第二次世界対戦末期の陸軍を「軍隊だ」と考えている節がある。陸軍は必要な食料や兵器を持たせず「根性で勝ってこい」などといって送り出していた。現在の会社は社員に十分な知識を与えず、それを自力で更新する時間も奪っている。確かに似ているのだが、これが「軍隊」だというわけではない。こんな軍隊だったから日本は負けてしまったわけで、要は日本は経済戦争に負けつつあるのだということにすぎないのではないだろうか。

要は社会全体で、複雑な問題を扱えなくなりつつあり、その隙間を「根性」や「社会の善意」で埋めようとしてしまうのだ。

頭がいい子の家のリビングに図鑑があるのはなぜか

Twitterのタイムラインで頭がいい子の家のリビングに図鑑があるのはなぜかというエッセイを見つけ、我が意を得たりと思った。

子供が「頭が良い」というのはお勉強ができるという意味だろう。決してIQが高いという意味ではないはずだ。この文章を読むといくつかのことが分かる。

  • そもそもリビングがあるにはお金持ちの家だ。
  • 母親がつきっきりで「この子は何に興味があるのかしら」などと面倒を見ることができるということは、その母親が専業主婦か時間の自由が利くような職業に就いていることを意味する。
  • そもそも、子供に「学習環境を整えよう」などと思うのはかなり意識の高い家庭だ。子供にタブレット端末を与えておくと黙って黙々とゲームなんかを始める。自分の時間が欲しい両親はタブレットを与えてしまう。そこで退屈な図鑑なんか見ようという子供はいない。

つまり、ここから浮かび上がる家庭環境は、両親ともに大学を出ていて学習が好きであり、なおかつ母親に時間の自由がある家庭ということになる。これは現代の家庭ではアッパークラス(それもかなり恵まれた層の)の部類に入る。そもそも、図鑑を複数揃えられるというのはお金に余裕があるということなのだ。

これとは逆に親が忙しく、学習意欲がない家庭はどうなるのだろうか。忙しいからといって自分のスマホやタブレットを与えておく。すると早いうちから刺激に反応してただただ時間を過ごす子供に成長するのだ。マルチタスクのスマホは人の集中力を奪うという研究結果もある。気が散りやすくなる訓練をしているということだ。

つまり、この文章は「お金のある親の子供は金持ちになる可能性が高い」ということを言っているにすぎない。現在一番高価なリソースは「子供と一緒に過ごす時間」なのだが、これに同感する人は多いのではないだろうか。図鑑は余裕のある家にたまたま置かれているだけという可能性があるのだ。

イギリスはなぜイラク戦争の検証報告書を出せたのか

イギリスの独立調査委員会が7年の歳月をかけてイラク戦争の参戦は間違っていたという報告書を出した。いくつかの日本の新聞がこれを報道したのだが、裏には「日本ではなぜ出せないのか」という含みがあるものと思う。良い質問だと思う。なぜ、日本ではこうした報告書が出せないのだろうか。

当たり前のことだが、イギリスの報告書は「イラク戦争への参戦」という事実を扱っている。その意思決定をした最高責任者はブレア首相だ。結果として多くの兵士が亡くなった。

まず第一の背景は、イギリス人は「政治家は嘘をつく(あるいは間違える)」という前提でいることではないかと考えられる。前のエントリーで見たように、イギリス人の政治家は頻繁に嘘をつく。毎日新聞の報道を読むと、一度報告書を出したが国民は納得しなかったとある。世論が納得しなかったので報告書を出すしかなくなったのである。

次に意思決定者がはっきりしているという事情がある。ブレア首相が国民に「大量破壊兵器がある」と言って説得したのだ。報告書は「それが嘘だった」と言っているのである。

チルコット委員長は、調査委員会には政治家が含まれておらず、批判のために調査したわけではないと説明する。その目的は「同じような間違いを繰り返さない」ことなのだそうだ。独立調査委員会は、政党対立が前提になっているということが分かる。調停者として第三者が出てくるのだ。

では、なぜ日本ではこのような報告書を出すことができないのだろうか。第一に日本人は間違っていたということを極端に嫌う。いったん「裏切った」となると、そのまま社会的生命が失われることが多い。背景には「細かな検証はしないが、一度明白な証拠が出たら、何されても構わない」という前提があるのではないかと思う。日本人にとって、社会的約束は血の盟約で、失敗は許されないのだ。

次に日本では意思決定者がはっきりとしないという事情がある。責任者は明白ではなく、多くの人たちが利害調整しながら、なんとなく意思決定してゆく。そのルートは非公式であり、外からはよく分からない。意思決定は単発の出来事ではなく、長いプロセスなのだ。イギリスではブレア元首相が訴追されれば済むのかもしれないが(実際にそういう動きがあるようだ)日本では集団責任になる。責めを負わされるのは「外務省」や「自民党」などの集団だ。つまり、プロセス全体が間違っていたことになってしまうのだが、それをただすためには、プロセス全体をそう取っ替えするしかなくなる。

独立した調査委員会を作っても、調査対象との関係性を持つので、実際には独立にはならないし、調査される対象も集団の正当性が毀損されるのを恐れて、庇い合いが始まる。第三者が調停を前提にしていたということから、日本には明確な対立はないということになる。故に第三者が成り立たないのだ。

一連の報道を読んでも「なぜイギリス国民が納得しなかったのか」という点がよくわからない。多分、主権者として意思決定に参加したという意識があるのかもしれない。これが日本人だと自分たちの生活に直接の影響がない限り「政府が勝手に決めたこと」だと考え、深刻に捉えないのではないかと思う。あるいは、死者を出したあげく、難民の流入問題に直面しており「なぜこんなことになったのか」と真剣に捉えている可能性もある。中東の戦争は日本にとっては「対岸の火事」に過ぎないのかもしれない。

日本人の意思決定は曖昧な上で遅い。間違いは少ないかもしれないのだが、いったん組織で間違えると同じ間違いを何度でも、最終的に破綻するまで繰り返すことになる。イギリス方式は意思決定が素早いが間違える可能性がある。しかし、意思決定プロセスが(日本に比べて)単純なので、失敗から学ぶことができるのである。

イヌはどの程度「賢い」のか

うちのイヌが餌を食べなくなった。どうやらドライのドッグフードがお気に召さないらしい。ビスケットは食べるので、ビスケットを手で与えてから少し混ぜ込むと渋々食べはじめる。では、最初からビスケットを混ぜておけばよいと思ったのだが、それでは食べない。つまり、人が付いていないとダメなのだ。

ほったらかしにしておくと「家族がいると思われる場所」に向かって鳴き始める。餌は置いてあるのだから食べればよいと思うのだが、それは嫌らしい。

この様子を見てイヌはどの程度賢いのだろうかと思った。調べてみると2歳児程度の知能を持ち、200単語程度を理解するという。中には簡単な文章を理解するイヌもいるそうだ。だが、学術的に調べられる知能は問題解決能力を計測するものであって、情緒的な共感能力を計測するものではないようだ。

なぜ、うちのイヌが餌を食べないのかは、よく分からないが、餌は単に空腹を満たす機能的なものではなく、情緒的な側面があるのではないかと思える。

第一に、餌を食べてしまうとビスケットが貰えないということを知っているという可能性がある。この仮説を取るとイヌには長期的な知能があることになる。長期的利益のために短期的な利益(つまり目の前の餌)を我慢してしまうのだ。しかし、これだけでは餌があるにも関わらず、長い間家族を呼ぶ理由は分からない。

イヌは家族の付き添いを求めている。つまり「自分が愛されていること」を確認したがっているのだ。ドライフードは「エサ」なのだが、ビスケットは「ご飯」だということだ。いつもご挨拶代わりにニコニコしながらビスケットを貰うので、ビスケットに対して好ましい感情を持っているのかもしれない。この他に「ご飯と大豆を混ぜたやつ」を食べるのだが、これも家族がそばについて与えているせいで、ガツガツと食べる。イヌは人間と同じ物を食べたがる。だからこれは「ご飯」なのだろう。

この仮説を支持すると、イヌは「共感能力」を持っており「記憶」によって餌の感情的な価値を判断しているということになる。単に賢いだけでなく、共感能力を持っているというのはペットにとっては大切な資質だろう。例えばハムスターにはこのような共感能力はなさそうなので、面白みには欠ける。どちらかといえばかわいい姿を鑑賞する愛玩動物と言ってよいだろう。ウサギもかわいいが何を考えているのかはよく分からない。

イヌは本当に賢いと書きたいところなのだが「自分でエサを食べろ」と言い聞かせても理解はしてくれない。あくまでも自分発進であり、相手の要求は理解できない。これがイヌと人間が決定的に違っている点だ。

本当のところは分からないが、共感性を持っているというのはペットとしては大切な資質である。と、同時に「認められたい」「認知されたい」「他の人と同じように扱ってほしい」という欲求は人間のレベルのでなくても持っているということになる。ソーシャルメディアの「いいね」が時々問題になるのだが、意外と根深い感情なのかもしれないと思える。

と、同時に「必要とされている」という感覚は人間の時間にも特別な意味を与える。「社会性」という言葉には、相互依存という動物が持っている機能が関連しているのかもしれないと思う。