働き方改革を論じたければバラバシを読もう

昨日は「プログラマーとして成功したければ海外に出るべきだ」と書いた。賛成してもらえたかどうかは全くわからないが読んで頂いた人は多かったようだ、なんとなく「ああそうだな」と思った人もいるだろうし、反発した人もいるかもしれない。日本はもうだめだと思っている人は「やっぱり日本はダメなんだ」と考えてなんとなく安心感を感じたかもしれない。

観測としてはただしそうだが、少しだけ理論的に考えてみたい。理論が話からければ批判もできないし、対応策も見つけられないからだ。

収穫加速という理論がある。発明はさまざまな基礎技術に基づいて成立するのだが、基礎技術が充実すればするほど、あるアイディアが現実化する時期は早まるという理屈だ。こうしたことが起こるのは、知識がネットワーク状に連携しているからだ。

このように、ネットワークの価値は点の数と点の結びつき(線)の数によって決まる。やみくもに広がっているネットワークには、実は中心と周縁があり、中心にいたほうがなにかと有利になる。

例えば、ITの場合は日本語で得られる知識は英語で得られる知識よりは少ないはずだ。ここで重要なのは、その有利さはプログラムの価値だけに止まらないということだ。効率的なプログラミングができる人がいると企業の生産性が向上する。企業は有利に競争できるのだから、英語で情報が取れる会社のほうが勝ち残る確率が高まる。良い顧客が残ると、プログラミングの会社はさらに良い顧客に恵まれることになる。するとプログラマの給与が高くなり、さらによいエンジニアが集まる。よいエンジニアが集まるとその周りには学校が作られ、よい先生が集まり、収入アップを目指す生徒が押し寄せるという具合である。

こうした「中心と周縁」の形は日本人が考えるものとは違っているかもしれない。日本人は中心と周縁をピラミッド状に捉えることが多いのではないだろうか。例えば自動車産業は顧客網を持っている大手メーカーがトップに立ち、その裾野に多くの部品産業が集積するという形をとっている。また、広告代理店はテレビ局の枠を買っているので、他社よりも安い値段で広告を売ることができるし、テレビ局も顧客を握っている広告代理店を頼らざるを得ない。

ピラミッド型の場合、知識は頂上に蓄積されてあまり流通しない。例えばマクドナルドやコカコーラの収益の秘密は本社が握っていて、周縁の人たちの賃金はあまり高くない。

しかし、プログラマの場合そうはいかない。知識はネットワークのそのものに溜まっている。具体的にはプログラマ個人とそのつながりである。その「すべり」をよくするためには、粒をそろえておく必要がある。つまり最低賃金でプログラマを使い倒すようなことはできない仕組みになっている。

日本では「最低賃金を1500円にしろ」という運動はあるが、技能労働ができるような職場やフリーランスの環境を用意しろというような運動は行われない。それは労働者自身が自分たちが最低賃金で働くだけの技能しかなく、それ以外の職業機会もないということを認めていることになる。だれもが中心になれるわけではないので、当然ながら数としては、周縁の人たちが目立つことになる。

一方で政府の側も政策的に最低賃金の仕事を量産している。アベノミクスを労働の側面からみると正規雇用を非正規に置き換えて行くという動きなのだが。これはバブル期以降の企業のマインドがそうなっているからだ。収益が見込めないので人件費を削るしかないと考えているのである。これが足元の労働市場を荒らしている。イオングループはアベノミクスは幻想だったと言い切り、自社ブランド製品を値下げするそうである。収益の悪化は従業員の賃金に影響を与えるはずだ。

官僚や政治家の情報源は、旧来型の製造業と運輸や小売などのサービス業なので、知識ネットワークが競争力の源泉になるような職業を念頭においていないのだろう。

今まで見たことがない現象を理解するためには、表面の制度(例えば高度技能移民を増やすとか、最低賃金をあげるというような類だ)を見るだけではだめで、その裏に何があるのかを理解する必要がある。

とても難しそうに見える「ネットワーク」の振る舞いだが、2008年ごろに「複雑系」として話題になった。中心にいるのは、ダンカン・ワッツやバラバシなどである。ちょうど、労働の国際間移動が経済を活性化すると言われていた頃である。

なんとなく話だけきいても良く分からない複雑系やネットワークの議論だが、基本的な考え方が分かりやすく解説されている。

「各国では移民の制限が始まっているではないか」という声が聞かれそうだが、高度技能移民を使って産業競争力をあげた国々と、そうでない日本では状況が全く異なる。いわば周回遅れを走っているわけで、同じ土俵で議論することはできないのではないだろうか。

このネットワーク理論は例えば「なぜベータはVHSに負けたのか」という考察にも使える。クリステンセンなどが「バリューネットワーク(リンク先はITメディア)」という理論を使って説明している。これも応用編だけ読むと「なんとなくそういうものかなあ」というだけで終わってしまうので、理論的なところを読んでおくといろいろな考察に使えるのではないだろうか。

パククネ・トランプ・安倍晋三

パククネ大統領に抗議する人々の群れを見ながら、これアメリカや日本と何が共通して何が違っていたのだろうかと考えた。割と共通するところがあると思える一方で、アウトプットはかなり異なっている。

トランプの図式が一番わかりやすい。人々はある理想を追いかけたがそれは叶わなかった。そこで変革したいが、人々は解答を持っていない。そこで全てを総とっかえしてやろうという機運が生まれて大衆が殺到した。

ということで、これをパククネに当てはめてみる。日本で伝わっているのはパク大統領が有権者から攻撃されているという点だけなのだが、実際にはそれを扇動している人がいるのではないかと考えられる。自然発生的に集まったものではないのだろう。そして、そこには「裏切られた理想」があったはずである。それが何だったのかはあまり伝わってこない。

日本の場合はもっとわかりにくい。「裏切られた理想」は民進党が担っている。つまり先導者(煽動者)が安倍晋三である。つまり、民進党が何かをやればやるほど安倍首相に支持があつまるという仕組みになっている。ところが韓国のようなリアルな世界での反発は起こらない。代わりに人々が集まっているのがTwitterだ。炎上が繰り返されている。実は日本はトランプ後の世界であると言える。煽動者が機能している限り、怒りは何か別のアウトプットを求めるのだろう。

アメリカではすでに非白人にたいして「国に帰れ」などという動きが出ているそうだ。日本の場合には社会秩序や一般常識といったものが攻撃材料になっているのだが、アメリカの場合には「白いアメリカ性」が問題になるのだろう。

変革は「リベラル」で括る事ができる。つまりまだ見た事がない理想の世界の追求だ。そしてその理想の世界を形にしたのが「イズム」だ。その反動には名前がない。保守というのとも違っている。保守はある意味世界(イズム)でそれを表明して恥ずかしいという事はない。今起こっている運動はイズムではないので人々はそれを表明したがらないのである。

トランプ大統領は自分の政策を表にしたが矛盾だらけで全てを実現できるとは思えない。それを気にしないのは、それぞれの発言はその時々の思いつきの集積だからだろう。だからこそ、受け手は好きな発言だけを受け入れる事ができる。トランプは「マイピープル」全てが喜ぶ政策を実現したいと真摯に考えている。ただ、そんなマイピープルはどこにも存在しない。

例えばヒトラーはドイツ人は東方に進展する権利があると主張して多くのドイツ人の支持を受けた。しかし、その主張にヒトラーイズムという名前が与えられる事はなかった。この「形にならない感じ」が大衆を動かす。もしヒトラーがこれをイデオロギー化していればそれほどの支持を集めなかったかもしれない。それは変革の一部になってしまうからである。人々が「失った」と考えているものが人々を熱狂させるのだが、実際にそれを持っていたかはわからない。

そのように考えると韓国が一番悲惨だなと思った。彼らが怒っているのは民主主義と法治主義が機能していない事だ。だが、実際に韓国に民主主義が機能した時代は一度もない。さらに悲惨な事に彼らは自分たちの力で民主主義を手に入れた歴史もない。でも、だからこそ純粋に怒る事ができるのだろう。

そう考えると、なぜ名前のないイズムがTwitterで蔓延するのかがわかる。一人ひとりがつながっていないので、それをまとまった形にする必要がないし、無理にまとめればどこかにほころびができて崩れてしまうだろう。この繋がっているようで実は分断されているものが煽動を容易にしているように思える。

 

欅坂46がオタクに謝罪すべきかもしれない理由

欅坂46というグループがハロウィーンのコスプレにナチス風の軍服を採用し、ユダヤ人団体から謝罪を要求されているそうだ。これがハフィントンポストに掲載され、逆に欅坂46を擁護する動きが広がった。だが、秋元康はまず日本のオタクに謝罪すべきかもしれない。

欅坂46がナチスの軍服だと気がつかずにあのコスチュームを着用した可能性はある。では、そもそもなぜ、ナチスの軍服=カッコいいと考えられるようになったかを考えてみたい。

ナチスの軍服はアニメの中で何度も登場している。有名なのは「宇宙戦艦ヤマト」と「機動戦士ガンダム」だ。どちらも悪役なのだが、日本人のクリエータはこれを絶対悪としては描かなかった。これは日本が第二次世界大戦で敗戦したというのと関係しているだろう。つまり「絶対悪」とされた側にもそれなりの事情があるということが理解されていたわけである。

ガミラスは惑星が荒廃してしまい生き残りのために地球型惑星を探していた。ジオンはもう少し複雑で被差別階層が選民思想に目覚めたということになっている。ただし、その中から旧人類を凌駕する人々が生まれたというモチーフがあり、実は敵味方ではないのではないかという可能性が提示されている。

そこでデスラー総統やシャー・アズナブルにはアンチヒーローという位置づけが生まれることになった。デスラーは帝国そのものを代表しているが、シャーの存在はもっと屈折している。いずれにせよかつてのオタクはこうした葛藤を理解していた。

ところが、こうした設定がオタク世界に正しく受け継がれなかった可能性がある。単にあのような軍服がなんとなくかっこいいという評価だけが残ったのかもしれない。つまり善悪が作り出す葛藤という側面が抜け落ちているのだ。

欅坂46のクリエーターが「オタクはこれくらいやっておけば受けるだろう」という安易な発想を持っていることが分かる。あくまでもオタクは彼らから見ると対象物であって、その背景にあるコンテクストはまったく理解されていない。かわいい女の子にかっこいい制服を着させれば彼らは喜ぶだろうという安直な姿勢が見える。つまりオタクの劣化を前提にしており、それゆえに稼げると考えているのだ。

この背景にあるのは「悪とされた人たち」の葛藤の物語である。ガミラスですら絶対悪のようには描かれず地球と人類が迎えるかもしれない未来が提示されている。ガミラスとイスカンダルは選択できる未来である。運命を受け入れて滅びるか、他者を犠牲にして生き残るかということである。

ここで、議論になっているのは「なぜナチの軍服だけが悪者扱いされるか」という点かもしれない。たとえばMA1やチノパンももともと米軍由来だが、圧制者のシンボルとしてタブー視することにはならなかった。最近では単にアーカイブ化され街着として流通している。そこには葛藤はないのでハローウィーンの衣装としては面白みに欠ける。

このことからやはり過去の物語性を消費していることは分かる。うっすらとした葛藤の記憶はあるのだが、それは風化しているのだ。

ユダヤ人団体が恐れるのはユダヤ人迫害の記憶の風化なので、彼らが抗議するのは当たり前のことである。クリエーターは彼らに対して「なぜ、こうした格好をさせたのか」ということを説明すべきなのだが、多分「日本のオタクにはこの程度の理解力しかないから」としか言えないのではないかと思う。もし、そうでないならクリエーターは堂々と説明すべきだろう。

また、クリエーターたちは「欅坂46というのはドメスティックでとてもヨーロッパなんかで展開なんかできるグループじゃないんですよ」といっていることになる。だからこそ、海外展開の際のコンプライアンスまでは意識しなかったのだろう。ここでも「日本のオタクはこの程度の似たような女の子ををあてがって置けば十分なんですよね」と言っているということになる。

つまり、演者に意図があったかが問題なのではなく、この程度で十分なんだと考えている点が問題だということになる。愚弄されているのは実はファンなのではないだろうか。

この件に関して一番気持ちが悪いのは当の本人たちがどう考えているかが伝わってこないところだ。アイドルは秋元先生が着ろといったものを着るというのが前提になっているからかもしれない。

意思のないアイドルというのは西洋世界では考えれられないが、日本人男性は意思を持たないお人形のような女性を好むということになり、それそのものが人権侵害だということになってしまう。

ただ、西洋ではスカーフで女性の顔を覆うのも人権侵害だと考えられているのだが、これについては民族的な伝統の問題があり、彼女たちに人権が侵害されているとは一概に言い切れないという微妙な問題がある。ゆえに西洋で人権侵害的だとされるからといって日本人を非難するのはやめたほうがよい。

「フレンズ」というアメリカドラマのエピソードに「スタバで何を頼むかという意見すらない人間は人扱いされない」というようなエピソードがある。一般的な知能を持っている人は意見を持っているはずだというプレッシャーを風刺したものだ。つまり、政治的な意見を持たない人間というのはお人形だと考えられてしまい、それを強要するのも人権侵害だという理屈になる。

ただ、欅坂46のメンバーの中に歴史やオタク文化に詳しい人などいるはずがないという前提を置くのはやめたほうがいいかもしれない。

ネット上の人種差別発言と本物の差別

アメリカ人が作った日本人を題材にした映画を見た。ここにでてくる日系の人たちのお辞儀が変だと思った。彼らはいつも相手の目を見ている。目を見ていないと不安なのだろう。そこで改めて思ったのだが、日本人はお辞儀をするときに相手の顔を見ない。

アメリカ人(それが例え日系人であっても)は、相手を対象物として捉えている。考えてみると当たり前のことだ。そこには「私」と「あなた」の関係がある。裏返せば、日本人は会話をしているとき相手を意識していないということになる。そこには「我々」という拡張された私がいるのみだ。主語を特定しなくても話が進むのは「我々」が主題を共有しているからだろう。

日本人は拡張された私(我々)としか会話をしていないということは、つねに価値観が共有されているということを意味する。故に日本人の会話には「いいえ」とか「私はそうは思わない」はあり得ない。「我々」が複数になり、ちょっと人と違ったことを言うと吊るし上げられることがある。こうした「私」を共有することを「空気」と呼ぶのだと思う。日本人は「私達」に埋没することに居心地の良さを感じるのだ。

故に、人を「あなた化」することは懲罰になり得る。最近こんなことが起きた。難民を差別するひどいイラストを描いた、はすみとしこ氏という無名のイラストレーターを応援する人たちの個人情報が晒されたのだ。晒した人がセキュリティ会社の社員だったことで騒ぎが広がった。

これはとても不思議だ。晒された「個人情報」はFacebookあたりから流れた公開情報らしいのだ。どうして公開情報をリスト化すると「個人を暴いた」ことになるのだろうか。

一つ考えられるのは「職場の情報」と「個人の意見」が結びつくことによって「その人個人の意見」が「職場の意見」だと混同されることがあり得る。つまり、そこには「私」というものはあり得ず「xx会社の社員」とか「教員」という「我々」として扱われるという事情があるのだろう。しかし、そのことを差し置いても「個人情報が晒された」ということが懲罰になり得るのは、その人が「個人として認知される」のが罰としての意意味合いを持っているからだろう。これを「アイデンティティの確立は懲罰だ」と英語で説明しても、きっと分かってもらえないのではないかと思う。

皮肉なことに「個人を暴いた」ことの懲罰も、暴いた個人の情報を暴き返すというものだった。反安倍 闇のあざらし隊氏の職場が特定され、それがセキュリティ会社だったことで、騒ぎが大きくなった。

さてこの「私のない日本人」という分析を見て「自分には当てはまらない」と思った方も多いのではないかと思う。職業経験が長いと「私」と「お客様」とか「私」と「利害が重ならない相手」などと接する機会が増える。つまり徐々に「私」と「あなた」として話す経験を積むわけである。こうした「私」の意識は地位が高くなるほど高くなるだろう。地位の高い日本人の仕事は主に利害調整だからだ。これが家庭に持ち込まれ、その子女も「私」意識を学習してゆくということになる。社会的地位は世代間で引き継がれるのだ。

逆に職場で個々の仕事に携わっている人は、調整作業をすることは少ないだろう。故に「私」意識を持たないままで職業人生を過ごすことになる。つまり「私意識のなさ」は職場での地位が低いことを意味する。これが家庭に引き継がれると「私意識のなさ」が社会的に地位が低いことのスティグマになってしまうのだ。当人たちは平気かもしれないが、地位の高い(あるいはそうした家庭に生まれた人)たちからは蔑視の対象になってしまうかもしれない。しかし、それを指摘されることはないだろう。本物の差別というのは過酷で、決して表沙汰になることはないのだ。

ネットで差別発言を繰り返している人というのは「回りの人が言っているから自分も安心だ」と考えているのではないかと考えられる。そこでアイデンティティを晒されることで「罰せられた」と感じる。もし、普段から「私」として過ごしていれば、そもそも過激な差別発言は行わなかっただろうと思われる。その人のブランド価値を下げてしまうからだ。(もっとも、職業的に浮かび上がることを目的に「炎上マーケティング」を試みる人もいるだろうが……)

公共空間で人種差別をするということ自体がその人の社会的地位の低さを暴き出してしまうのである。本物の差別というのはもっと過酷だ。表沙汰になることは決してないにも関わらず、人々の間に共有されており、無意識に立ち現れるのだ。

女たちはなぜLINEはずしをやめられないのか

LINEいじめについて考えている。今回までの結論は非自発的に作られた閉鎖的な空間では人間関係の単純化が起こるというものだった。しかし、このモデルは選択的にグループを作る母親同士の息苦しい「カースト化」は説明ができない。

もともと、人間の社会は伝統によって体系化されていた。しかし、伝統的な社会は解体し「個人の価値観が」価値体系を決めるような社会が作られた。伝統からは解放されたものの、個人は自由への不安に苛まれるようになる。さらに、選択肢が増えると「他者の動向」を規範として採用するようになった。テレビや雑誌といったメディアによって「他者」は拡大した。選択肢は爆発的に増えたが、選択が難しくなり、不安も増大した。

女性の価値は何を持っているかで決まる。どの街に行き、何を選択するかによって価値が決まるのだ。ところが、その価値を自分で決めることはできない。他者の評価がその人の価値を決める。こうした選び取る力を「女子力」と呼んでいる。何が正解なのかは分からないが、それは確実に存在する。

さらに、ママの価値は「持っている」夫や子供の価値によって決まる。つまり、人がモノのように扱われるのだ。子供に何を着せているか、清潔に保たれているかなど、すべてが評価の対象になる。そのように考えると「どんなママと付き合うか」が評価の対象にならないはずはない。

ぞっとする話だが「ユニクロのシャツが気に入らない」というのと「あのお母さんが気に入らない」というのは同列の話なのだ。ユニクロのシャツについて悪口を言う人が「ユニクロのシャツをいじめている」という意識を持つ事はないだろう。従って、LINEで悪口をいう母親も実は「それが悪口だ」という認識を持っていないのかもしれない。

もちろん、これだけで事態が息苦しくなるはずがない。女性はいつも品定めされているが、自分で価値を決めることはできないし、正解が何なのかもよく分からない。それは価値を決める他者が不特定多数に広がっているからだ。そこでグループを限って、そこで価値基準を決めれば良い。価値基準のはその場にいる人たちや話し合いの成り行きで決まる。最終的な結果が大切なのではなく、話し合いの過程こそが重要なのだ。そこで、そこに集った人たちの選択が正当化されるように物事が決まって行くだろう。集団の状況や成り行きのことを「コンテクスト」と呼ぶ。

妻たちは夫に事細かな状況を話した挙げ句「私は悪くないわよね」と承認を求めることがある。夫はなぜながながとした話が問題と関係があるのかは分からない。女性はコンテクストを相手と共有することで共感を得たいと思っているのである。

ママ友はコンテクスト依存の高い文化なのだと言える。

コンテクスト依存の高い文化では「ユニクロのシャツが気に入らない」と公言している人の仲間が「ユニクロのシャツを着る」ことは裏切り行為だ。そのコンテクストの選択を批判することは、そこにいる人たちの人格を否定し、それまでの話し合いの過程を否定することになるからだ。だからそれは全人格をかけた戦いなのだ。

この時点で、女性たちは、不特定多数の他人からの拘束を受け、さらにママ友たちの拘束を受けている。拘束しているのは他ならぬ本人たちだ。なかには子供が仲間はずれになるからといって、息苦しい拘束から逃れられない人もいるのだという。

スマホの登場で拘束は24時間続くようになった。マルチタスク化の効果で合理的な判断力は鈍り、やりとりは感情的になる。新しい情報は、その人の脳につかの間の報酬を与える。するとやり取りは過激化することになるだろう。

問題の根幹は「選択」と「選択した個人の価値」が不可分に結びついているという点だ。なんとかしてここから抜け出す事ができれば、苦しみを減らすことができるだろう。

しかし、テレビでは無数の企業が「正しい選択」をと迫ってくるし、ランキング番組は常に新しい正解を問い掛けてくる。そこから抜け出すのはそんなに簡単なことではないのではないのかも知れない。

派遣労働

「笑いごとではなくなってしまった都市伝説みっつを論破する」というオンライン上の論文の中に、派遣労働に関する記述がある。派遣会社が行なっているのは「付加価値の創造であるから、存在意義を認めよ」という主張だ。これだけを取り出して経済学的に論じると、このステートメントは「是」である。GDPを算出するにあたって、派遣会社のサービスは日本経済に付加価値を与える。
よかったね…これからも派遣労働を続けてよいよ。
とはならないと思う。ただ、こうした問題を真剣に考えなければならないのは「金融」のヒトではないとも思う。
派遣労働が好まれるのにはいくつかの理由がある。
一つ目は経済的な負担が減るからだ。整理解雇の時の退職上乗せ金、保険、年金などがそれにあたる。
二つ目は固定費の削減だ。特に製造業は設備が老朽化し、内需も外需も縮小してしまったために、余剰な設備を抱えている。これを整理しないままで「人間」を整理してしまった。儲かるときだけ調達してきたい。変動費化とでもいうのですかね。別の産業も興ってこないようだし、今まで工場で働いていたヒトがプログラマになれるわけでもない。プログラマすら余剰なのだ。
三つ目は終身雇用の維持だ。給料体系を別立てにすることで、結果的に終身雇用された人たちの給与を維持している。おまけに身分制度的な受け取られ方をする。中世的な「下見て暮らせ」政策だ。完全に経済合理性だけで派遣が使われていたとしたら、正社員の派遣イジメのようなことは起きなかっただろう。が、実際にはこうした問題が発生している。

対価

だが、それぞれに社会は対価を支払っている。
一つ目は会社が負担しなくなった社会保険は、誰か別のヒトが支払うことになる。最終的には国が支払う。国というと分かりにくいが、税金だ。つまりこれを読んでいるあなた(ただし、働いているヒトのみ)が支払うのだ。さらに、年金システムや国民健康保険にも悪い影響を与えるので、システムの維持が難しくなる。こうなると、年金受給者も他人事ではいられない。これを国債で調達することも考えられるが、これは長期的にみて(下手したら短期的に見ても)維持可能ではない。明日の票を心配する政治家はどうだかわからないが、社会の継続性を考える政治家はこの問題に取り組んだ方がいい。
二つ目は経済合理性だ。前回「レイオフは株価を押し上げなかった」という記事を読んで勉強したように、安易な解雇には経済的な合理性がなさそうだ。加えて派遣労働者を大量に採用するにはそれなりのコスト(新聞で労働者を募集したり、教育したり、営業マンがかけずり回ったり、履歴書を整理したり…)がかかる。「派遣を使えば固定費が削減できる」ということだけを見ると確かに合理性がありそうだが、経済全体での合理性は低いように思える。確かに付加価値なのだが、一つの労働にたいして関わるヒトの数が増えているだけなのだ。おかげで何か新しい仕事があるたびに企業はリソースの確保を行なう必要がでてくる。これは生産的な付加価値なのか。しかしこれを考えるのは金融屋のシゴトではない。経営者のおシゴトだ。
三番目はちょっと深刻だ。終身雇用制を維持するために「コアでない人たち」を派遣化した。例えば工場労働者は高度な技能を必要としない限りに置いてはコアでない人たちだといえそうだが、工場のちょっとした工夫が生産性を上げる可能性は排除されてしまうだろう。また、店頭のスタッフをアルバイトにすることはできるだろうが、彼らは顧客接点なので、これを単純労働力で置き換えるのは実は危険なことなのだ。「新しい発見」ができなくなりつつある。これが「モラル」とか「モラール」とかいう領域にまで踏み込むと生産性は確実に下がり始める。
この件に関してもう一つの問題は、人事部の生産性の問題だ。人事部は採用権限を持つが、かならずしも経営的な判断を行なうわけではない。彼らは派遣業者と接するときにはお客さんになる。お客さんは神様だから、かなり鷹揚に振る舞っているはずだ。何かあったら営業を呼ぶ。これが実はコストになっている。その他に現場とのやり取りも発生する。これがすべて料金に乗ってしまうのだ。さらに現場ではここから教育を加え必要な調整を行なう。明確なコスト意識がないと(多分コスト意識を持つためには当事者意識が必要なのだろう)ここを合理化するのは難しい。ここで値引きの交渉が始まると、営業マンや派遣労働者への支払いが影響を受ける。するとやる気がなくなったり、職場で不満を訴えるかもしれない。しかしそれを受けるのは人事部ではなく現場のマネージャたちだ。すると、さらに時間が取られ…。
結果的には、終身雇用すら怪しい状況が生まれているようだ。社員をリストラしたり、海外移転を避けられない会社が出て来た。新卒すら採用することができないし、いったん採用した人たちを恫喝して辞めさせるという(大学生からすると悲劇だし、企業側から見ると究極のムダといえる)この流れはさらに加速するだろう。変化を臨時雇用の人たちに押し付けたせいで、結果的に自分たちが変化するきっかけを失ったと言ってもよい。

処方箋

労働者側から見ると「ピンハネされていると思うなら辞めりゃいい」と思う。多分日本人はマジメ過ぎるのだ。ただ、最初にこうしたシステムにたいしてサボタージュを行なう人たちは大きな社会的圧力に曝されるだろう。周りに理解者がいないわけだから、個人を責めさいなむことになるかもしれない。自由は時に過酷だ。ただ、めちゃくちゃな主張に聞こえるかもしれないが、マルクスだって「搾取反対」という主張を理論で固めた訳だから、頭のいい日本人にそれができないはずがない。要はヒトが納得できて、シンパシーを覚えることができる理論を構築できるかどうかにかかっている。ただ、本来社会に経済的な付加価値を与えるはずの労働者が反乱を起こした状態は、平たくは「資本主義の死」と呼ばれることになるだろう。
ただ、戦う相手は多分派遣会社ではないように思える。どうも日本の会社全体に蔓延している「コスト意識のなさ」が敵なのではないかと思う。「デフレなんだから生産性なんか上げたってさ」という気分である。これを解決するのは、強力なリーダーシップを持った企業家や起業家であるべきだろう。もし日本にこうした類いの人たちがいないのであれば「日本はオワタ」状態なので、そのまま停滞してゆけばいい。
次の問題はこうしたいびつな労働条件を導入しなければ延命できない企業の問題だ。努力すればなんとでもなると思うのだが、どうもそうではないのだという。こうした企業の中には「派遣労働がなくなったら海外に出てゆくしかありませんな」という人たちがいる。こうした企業に対峙して政治家達が「それは大変だ」と思ってしまうのは、日本は結局製造業しかできない国で別の産業など起こり得るはずがないという変な確信があるからだろう(まあ、平たく言ってしまえば自信を失っているわけだ)。もしそうであれば「日本はオワタ」状態であるので、そのまま停滞に向かうべきだ。イノベーターがあらわれないのも資本主義の死だ。
でも、それでいいのかねと思う。こうした状況を改善するのは、全体的な派遣の禁止ではないだろう。しかし、もし企業経営者たちが一人ひとりの努力でこうした状況を改善してゆこうという意欲を失っているのであれば「禁止」してやってもいいかもしれない。みんながやめないとやめられないというのは非常に情けない事態だ。
これはタバコやアルコールに似ている。飲むも飲まないも個人の自由だ。しかし、これなしで生活できなくなったとしたら、これは別の話だ。こうした状況を「中毒」という。肺がんになってもまだ喫煙をやめられないのであれば取り上げてやった方がいい。ただ、その前にもう一回考えてみるべきだろう。経営者には本当に自由意志が残っていないかどうかということを。
藤沢さんがこの説で言っていることは一つだけ正しい。自由市場では過度な政治的参入はない方がいい。しかし「みんなが派遣を使い倒すから俺も」と言っている社会が本当に自由市場なのかはもう一度考えた方がいいだろう。なぜならば、個人が考えられなくなった社会では、いろいろな局面で「親切な政府」が介入することになるだろうからだ。これは資本主義の死よりも恐ろしい。これは自由の死で、もしかしたらいつか来た道の再現なのかもしれないからだ。

ビジョナリー・ピープル

成功した人たちをインタビューした結果をまとめた本。ただインタビューしただけでなく、簡単にフレームワーク化している。いわゆるビジョンは、外から与えられるものではなく、内側から出てくるものだ。好きなことをしているときには、時間は苦にならずにシゴトに没頭できる。故に熟達が進み成功しやすくなるといったところだ。
ただ、こうすればビジョンが得られますよというマニュアル本ではない。かなり多くの人数のインタビューが紹介されており、そこに至る道は様々だ。また、この事業をやったら成功するだろうというビジョンを得る人もいれば、好きだからこれをやろうと思っているうちに結果として成功した人もいる。さらに読字障害に苦しんだり、ケガでスポーツを引退して、仕方なく別の道に進んだという例も出てくる。
インタビューの後に、統計処理された結果が出てくる。そこで強調されるのは、外的な要因(外発的動機づけとも)に従うのではなく、内的な要因(内発的動機づけ)に従った方が成功しやすく、また幸福度も高そうだということだ。外発的動機づけとは、例えば「家族を養うために」とか「給料やボーナスが高いから」といったものを指す。内発的動機づけというのは「やりたいから」とか「これをやっていると幸せだから」といったような動機だ。
外発的動機づけに頼った成果主義は2つの点でうまく機能しなかった。一つは金融機関のように倫理をインセンティブが越えてしまった例だ。ゲームに勝ち逃げして40〜50代で引退し悠々自適な生活をしようと思う人が多くなると、業界全体が暴走することになる。人によっては燃え尽きてしまうこともあるだろう。一方、いわゆる「成果主義」は実際には収益が上がらなくなった会社が、どう損を分配するかという理由で導入されたようだ。元富士通人事部の城繁幸さんの書いた本を読むと、富士通では現場にのみ成果主義を押しつけることによって、効果的に会社全体のモチベーションを下げることに成功している。最後に富士通の社長だった秋葉さんが「日本には成果主義はなじまなかった」といってあっさりと方針転換してしまったのだが、実際には外発的動機づけが内発的な動機を殺す可能性があることを理解すべきだった。インセンティブにドライブされている企業は、逆インセンティブによってモチベーションを失う。
さてビジョンが大切なのはわかったのだが、「やりたい事をやっていれば」「成功できる」という事になるのかという疑問は残る。シゴトに生きる人もいるだろうが、シゴトは生活費を稼ぐための手段にしか過ぎないという人もいるだろう。また「ビジョンの質」が悪ければ、アウトプットの質も自ずから低下する。最悪なのは内的な声に従っているはずのビジョンが実は他人の影響を受けているだけのものだったというケースだろう。例えば人気職業ランキングで志望先を決めている人たちが誰かに強制されているとは思えない。しかしよくよく考えてみると「人気があるから」「社会的に成功しそうだから」というのは外発的な動機だ。つまりビジョンと外発的動機づけを区別するのはとても難しい。
ビジョンは内部からわき出してくるものなのだが、例えば瞑想をしていたらビジョンが浮かび上がってくるというものではないし、天使がやって来て授けてくれるというものでもないだろう。実際にはいろいろな外的な刺激を受けてその中から自分なりのビジョンを組み上げてゆくことになる。実際にやってみて「ああこれをやっていると苦にならないな」ということを発見するまで、内発的な動機に気がつかないケースもあるだろう。
結局、いろいろやってみて、自分で考えるしかない。リーダーに必要な素養であって、全ての人が内発的な動機づけを必要としているわけではない。リーダーでない人たちにはやはりインセンティブ・プログラムは効果的に作用する。しかし成功したい人たちや、組織を成功に導きたい人たちは、内的な動機づけと外的な動機づけの違いを理解するべきだろう。