Dolce & Gabbanaと中国の炎上騒ぎ

Dolce & Gabbanaのショーを見て、身長が様々なモデルを使っていることが気になった。「多様性を受け入れてこのようなモデルを使っているのだろう」と思ったのだが、実際にはそうではないようだ。今回はクリエイターに勝手な思いを重ねてしまいがちな我々の性質について考える。




Dolce & Gabbanaのショーには様々な人たちが出てくる。例えば2019年春夏のショーには高齢のモデルが多数採用されている。このような光景を見るとつい「多様性を受け入れているのだ」などと書きたくなる。

ところがこれを裏打ちしようとしても「SNSが主流になった現代の多様性を受け入れるために様々なバックグラウンドの人たちを登場させた」などという記事は出てこない。出てくるのは中国でDolce & Gabbanaが炎上したというような話ばかりである。

中国について、デザイナー2人は苛立っていたようだ。コピー商品の氾濫を防ぐためには本物を浸透させることが大切なのだが、あまり中国マーケットが好きではなかったのはないかと思われる英語のインタビュー記事を見つけた。「コピーでいいならコピーを着ていればいいじゃないか」というようなことを言っている。日本からもD&Gが撤退している。コピーが多かったことに嫌気がさしたのではないかという観測がある。

ただ、同社本国のクリスティアーナ・ルエラ常務取締役は、こうもコメントを寄せた。「日本市場に氾濫(はんらん)するD&Gの模倣品が大きな障害になっている」

http://www.asahi.com/fashion/beauty/TKY201006010144.html

彼らはビジネスとして世界に自分たちの商品を売るよりもクリエイターとして尊重されたいという志向が強いようだ。

過去のインタビュー記事を何本か読んだのだが、Dolce&Gabbanaは過去に何回も問題発言を繰り返しているそうである。敵に回したのはアメリカのアンチトランプ、同性愛者などいわゆる「リベラル」な人たちである。デザイナー二人も長い間同性パートナーだった経験があるわけで、ついついリベラルに分類したくなるのだが、実はかなり保守的傾向が強いようである。メラニアトランプと親交がありトランプ大統領を支持している関係で、ショーに出演したモデルに反乱を起こされたこともあるそうだが、イタリア人なので政治に興味はないとこれを一蹴している。(HUFF POST

同性愛関連の発言ではエルトンジョンの怒りを買った。同性愛者だからといって全ての人がリベラルな家族観を持っているわけではないのだ。

「私たちはゲイの養子縁組に反対します。伝統的な家族が唯一のものなのです」。2人はことわざを引用してこう述べた。「化学的につくられた子供や借り物の子宮なんて必要ありません。人生は自然のままに。変えるべきでないものがある、ということです」

https://www.huffingtonpost.jp/2015/03/16/elton-john_n_6875760.html

今回の中国では、このやんちゃぶりが政治議論の枠を越えてしまった。つまり民主主義的な意見対立ではなく、ついに民族的な騒ぎに発展してしまったのだ。デザイナー2人は、最初は謝罪するつもりはなかったがようだが、最終的にSNSで謝罪するという「かっこ悪い」対応になってしまった。(FASHIONSNAP.COM

経済的に自信が出てくると今度は名誉が気になる。これは日本がかつて通った道である。Quoraでも何回か「日本人は中国人をどう思っているのか」というような質問を目にした。国力はついてきたが果たして立派な先進国になれたのかという後発先進国型の自意識だ。日本が長い間欧米の目を気にしてきたように、国もこれから長い間先進国の目を気にすることになるのかもしれない。

Dolce&Gabbanaはキャリアの最初にモデルを雇う金がなく一般の女性にモデルなってもらったことがあるとWikipediaに紹介されている。モデルに様々な人たちが登場するのはこの辺りが背景になっているのかもしれない。決して「政治的正しさ」から来ているわけではなさそうだ。そもそも既存の服のルールを破ったり、ボロボロのジーンズをハイファッションとして仕立てているわけだから政治的な正しさの対極にあるということも言える。デザイナーとしては型破りさが求められるがビジネスマンとしては政治的正しさが求められるというのはとても難しい。また自身も同性愛者なのに保守的な考え方を持っているという点にも難しさがある。

我々は「成功したクリエイティブ」であるファッションデザイナーに政治的正しさを求めがちだ。今回抱いたのは「クリエイティブな人たちは多様性を支持するリベラリストだろう」という根拠のない期待である。しかし、彼らが成功したのは既存の価値観に挑戦したからなのだから、我々の期待通りに「いい子でいてくれる」とは限らないのである。

韓国ファッションの文化侵略

最近WEARで韓国ファッションとかKーPOPファッションというトレンドが出てきた。人によって解釈は様々なのだが、黒いスキニーとタイトなシルエットが目立つほか、スポーツブランドをミックスしたようなものもある。よくミュージックビデオで出てくるスタイルである。他には奇抜な色で染められた髪色というのもある。ステージ映えを意識した華やかな色と程よく鍛えた体を協調するスリム目のシルエットが特徴だ。




この傾向はなかなか面白いと思う。もともと韓国は自国文化が日本に侵略されることを恐れ、長年日本のポップカルチャーを封印してきた。日本文化が解放されてもしばらくはモノマネが続いており、今でもアメリカのポップカルチャーの強い影響を受けている。本来ならオリジナルとは呼べそうもないが現在のK-POPを見ていると「それでも他のどこにもない韓国風」としかいいようがない。また韓国ファッションというとアメリカブランドの偽物というような印象があり、現在でも韓国のブランドが日本で流行するようなことはない。こうした一見不利な状況にもかかわらず「韓国ファッションがおしゃれだ」とか「真似をしたい」という人がいる。

そればかりか日本の音楽チャートでもK-POPは常連化しており、ドームの動員数も増えている。現在は第三次ブームと呼ばれるそうだが、新大久保のような文化集積地もできており「文化侵略だ」などと言い出す人まで出てきている。

ところがこの動きに全く追随できていない人たちもいる。未だに韓流ブームを説明するときにヨン様やBTSなどという人がいる。彼らにはYouTubeもドームツアーも全く見えておらず、NHKと政治ニュースの一環としてしか韓流ブームが見えていないのだろう。新大久保に韓流好きが集まるのを快く思わない人たちはこういう時代に遅れているのにメインストリームにいると思っている人たちなのだが、ファンたちは全く別のメディアから情報をえているので、そもそも「けしからん」という声さえ聞こえていないだろう。

東方神起とTWICEで「知った気になっている」のも危険だ。紅白歌合戦を見るような人たちもコアではない。ドームツアーのリストにはEXOやSHINeeなどが出てきているが、さらに新しいグループが続々と続いており、彼らですら旧世代になりつつある。

2004年から2008年頃、日韓では、ブーツカットジーンズやミリタリーやグランジの要素を取り入れた「男らしい格好」が流行していた。このころの日韓のスタイルはほぼ同期していたのではないかと思う。

ところがリーマンショック後に日本と韓国は全く別の道を歩み始めたようだ。K-POPの男性アイドルはどんどん「こぎれいに」なっていった。と同時にスリムフィット化が進む。とはいえ男性アイドルも腹筋を見せびらかすなど男性らしい体つきが良いとされているので、ある程度体を鍛えてスリムパンツなどでタイトフィットに仕上げるのが良いとされているようだ。メンバー分裂前の東方神起・2PM・スーパージュニアなどはデビューしたてのときにはロック調の荒々しい服装だったが徐々にスーツ化が進みこぎれいになっていった。その後発のEXOなどは最初からこぎれいなスリムスーツスタイルが多く、時代がきちんと動いていることがわかる。

この間に日本でも大きな変化があった。シルエットがどんどん大きくなっていった。Men’s Non-Noはハーフモデルを細めの日本人に入れ替えた。細いモデルにたくさんの洋服を着せて体の線を隠すようになっていったのである。最初はボトムだけが太くなり、次に全身が太くなり、最近ではほどほどの太さのものの方が良いということになっているようだ。

30歳代以降の男性ファッション誌はこの一連の動きに追随しなかった。しばらくは市場の要求にしたがってゆったり楽なスタイルがよいとされていたようである。ただゆったりしたスタイルを成り立たせるためにはモデルが鍛えられている必要がある。中年太りの人がゆったりとした服を着ると単にだらしなくなってしまうのだ。人気があったのはアメリカを真似して普通のシルエットにこだわったSAFARIだった。アメリカ人の洋服の選び方はシルエットの面では保守的でありあまり変化がない。日本人が着物を着崩さないのと同じなのかもしれない。GQなどのファッション情報でもシルエットを変えようという提案はなく「ルーズなものはだらしない」という指南が載っている。

日本のファッション雑誌はある程度のスタイルができるとそれが固着する傾向があるように思える。ファンが大きな変化を好まず、そのときのトレンドにあったモデルが選ばれ、そのモデルが似合う服を着せるようになるからである。すると服ではなくモデルにファンが付くのでますますスタイルが変えられなくなるのだろう。

Men’s Non-Noは業界の意見を反映しつつ、同時にアイドル誌になっている。これではファッションは学べないので巷ではユニクロのファッションを使ってきれいにまとめましょうというようなガイドブックが出ている。MBという人がこうした指南書をたくさん書いている。

ファッションについて勉強し始めたときには「どうもファッション雑誌を見てもよくわからないなあ」と思っていたのだがWEARをフォローしたり参加したりするようになってからようやく「実際に流行しているものとMen’s Non-Noなどの業界人が流行させたいものは違うんだな」ということが理解できるようになった。これを補うために各誌ともストリート特集を組むのだがどうしても「自分たちが見せたいものを見せる」ことになってしまう。各新聞が自分たちの主張に合わせて世論調査の質問項目を操作するのと同じようなことが起こる。永田町や霞ヶ関に記者クラブがあるように、東京のファッション誌にも狭いコミュニティのつながりがあるのかもしれない。

村が強固になると過疎化が起こるというのはこれまで見てきた通りである。日本人は不満を表明して離反したりしない。自然とついてこなくなってしまうのである。そして村はそれに気がつかず、知らず知らずのうちに少子高齢化が進む。

新しいトレンドが出てきても、固定ファンがついたMen’s Non-Noは既存客を捨てて新しい流行には移れないだろう。ジャニーズも小柄で中性的な男性がセンターになるので、ある程度の筋肉量を要求するK-POPファッションには追随できないだろう。

現在のファッションは全く違ったところから入っている。それがYouTubeやインスタグラムだ。韓国のテレビ局はケーブルが入って競争が激しくなった。そのため各テレビ局がYouTubeにビデオを流しており言葉はわからなくても韓国の生の状態がわかるようになっている。そこに出てくるK-POPスターのファッションがダイレクトに入ってくるようになった。韓国のトレンドは明らかにタイトフィットなのでそれがWEARなどに乗って拡散するという「紙媒体を全く通らない」拡散方法が出てきている。

政治の世界で「過疎化」を見てきた。ある程度成功を収めたコミュニティが成功に閉じ込められて衰退してゆくという姿である。日本ではこれが政治以外でも見られるのだが、ファッションにはある程度の自由度があり、政治のように閉じ込めが起こらない。

小選挙区制で選択肢がなくなった日本の政治は「政治そのものからの離反」が起こっている。小選挙区の場合二つのうちどちらかを選ぶのだが、日本人は、自分が勝ってほしい政党ではなく勝てる正解に乗る傾向が強いので選択肢がなくなってしまうのである。政治にも固定層である人たちがついていて、彼らに最適化された時代遅れの政治が行われるようになってきている。

しかしほとんどの人たちは選択肢のない政治からは離反している。こうなると政治への貢献はなくなり、嫌なことがあったときだけアレルギー反応を起こして決定を拒絶するということになってしまうはずだ。

笑顔が弛んだ政治家や経営者は信用するな

ビジネスで成功するためには外見に気を配ることが重要である。特に笑顔は重要だ。なぜ笑顔が重要かというと、笑顔は根性で作るからである。時々顔が弛んでいる政治家がいるが、彼らは多分部下に面倒ごとを押し付けているから自分で表情筋を使うことができなくなっているのだろう。こういう人には何をやらせてもだめだ。きっと嘘ばかりついているに違いない。

写真を撮られ慣れていない人が顔を撮影してみるとうまく笑えないことが多い。この状態でいろいろな書籍やウェブサイトの情報をみると混乱する。変に力を入れると不自然になってしまうからだ。笑顔は多くの筋肉で作られている。つまり、笑うための筋肉が衰えていると笑えなくなってしまうばかりか顔の動かし方すら忘れてしまうのである。顔が動かなくなると余分な老廃物が顔に蓄積され顔が弛んでしまう。こうして大人の顔は弛んで行くのである。

そこで特定の筋肉を鍛えて笑顔を取り戻したくなるのだが、これも実は愚策である。笑顔を作る特定の筋肉はない。

だから笑顔が弛んでいるなと自覚したらまず筋トレが必要だ。闇雲に顔を鍛えるのは得策ではないので、OSの仕組みを理解して賢く筋トレしたい。脳には理解できない信号を与えると休んでいる間に情報を整理する仕組みがある。これを知っていると様々な動作に応用ができるだろう。

笑顔を作るためには様々な方法が考案されている。例えば割り箸を口に当てて顔を横に広げたり、ペットボトルを吸うという方法がある。表情筋を使うのがトレーニングの目的だ。手っ取り早く効果を上げるために関係のある動作だけを取り出しているのだろう。しかし、表情筋が寝ている状態でこれをやろうとすると動作が不自然になる。特定の場所だけが力み過ぎてしまうからだ。場合によっては無理がかかり特定の場所が硬直してしまうかもしれない。無理に姿勢を作ろうとして腰を痛めるのと同じである。

笑顔は総合芸術であり、その意味では経営に似ている。賢い表情筋も作れないようでは、会社の経営もうまくできないだろう。ましてや国家の運営などできるはずもない。だから笑顔が作れない人を信頼してはいけないのである。

情報をインプットするためには、手始めに母音の形を一つずつ大げさに作ってゆく。例えば「あ」では口を大きく開ける。また「い」は口を横に開くという具合だ。しばらくやっていると口の周りの筋肉が疲れてくるはずだ。この時口だけでなく鼻筋の筋肉を意識したり目を見開いたりしてもよい。鼻が詰まっている人の場合、鼻が通るのがわかるはずである。ゆっくりやらずに早くやるのもよいだろう。つまり、何をやっているのかわからなくなるくらいの負荷をかけるとよいのである。

これを数日続ける脳に様々な動きがインプットされる。するとあとは脳が勝手に整理してくれる。だいたい3日もすればかなりの形になるだろう。あまり力を入れずに口角があげられるようになったら完了である。力んだ笑顔は怖い。この時に適切な睡眠が大切だという説がある。子供が自転車を覚えるのにも使われる理屈で細かな脳の仕組みはわかっていないようだ。要するに複数の筋肉の協働が必要な3Dの動きは寝ている間に脳で処理されるのである。

この時点で写真を撮影してみると、顔がほっそりしていることがわかる。顔を動かすと顔に溜まった余分な水分が下に押し出されるようである。例えば、ほうれ線を消すためにリンパマッサージをする方法がある。目の下をマッサージしてたるみの原因となっているとされるリンパ液を外に流し、そのあとで首を下にマッサージして外に出すというものだ。確かに一時的に効果が出たような気がするのだが効果は一時的である。それよりも顔全体を動かしたほうが効果が高いように思える。

顔の基礎トレが終わり老廃物も流れたら、楽に表情筋がコントロールできるようになっているはずなので、大人の余裕で口角を少しだけあげてかすかな微笑みを作ろう。

決して、アプリでズルをしたり、ボトックスで筋肉を緩めようなどと思わないほうが良い。あれは、言葉は悪いかもしれないがあまりにもお手軽すぎる。大人は正攻法と根性で笑顔の再建に取り組むべきである。

これは、表面的には笑顔のトレーニングのようだが、実は全体を管理するためにはいろいろな筋肉の協働が重要だということも学んでいる。そして学習のためには休息時間も必要だ。多分笑顔の作り方を忘れている人が学ばなければならないのはこのことなのである。どこか特定の場所に無理をかけると負担がそこに蓄積しやがてシステム全体が破綻する。これを避けるために全体をうまく動かすのが経営や政治の本来の役割なのだ。

インスタ映えするための正しい立ち方を覚えてついでにダイエットにも役立てる

正しい立ち方を覚えると本当の自分に出会えるかも

ファッション写真を気軽に投稿できるサービスが増えた。インスタグラムなどで自撮りをアップする機会もあるだろう。しかし、いざ写真を撮影してみると普段鏡で見ているよりスタイルが変に見える。実は自分で思っているより立ち方が悪いことがあるからだ。鏡を目の前にすると自然と格好をつけてしまうが、写真だとそれがわからない。

よく「体を上から吊っているように立てばいい」などと言われる。確かにその通りなのだが、このやり方だと体のあちこちに力が入り不自然な状態になる。立ち方の本を探してみるのだが、なかなかぴったりの本に出会えない。スポーツの立ち方やウォーキングまで視野に入れると幾つかの本が見つかる。

ネット通販にはいろいろなダイエット機器が売られているのだが、実はスタイル矯正を目的にしたものが多い。だから脂肪が燃焼していないのに「一瞬でウエストが5cm減った」みたいなことが起こるのだ。つまり、正しい立ち方を覚えるとこうした機器を買わなくても「一瞬でウエストが5cm減った」みたいなことが実現できる。本当にスタイルが悪くてどうしようもない人はそれほど多くないことになる。

まずは猫背矯正から

最初に壁に踵と背中と後頭部を付けて立つ。正確には背中とお尻と踵が後ろにつく。この状態で後ろに倒れている感覚があるとしたら普段体が丸まっていることになる。頭が前に出ていると顔が大きく見える。スタイルが悪いと考えているなら多分猫背のせいだろう。

よく、モデルの教科書などで「首を上から吊られている」と表現することがある。だが、実際にやってみると、どこに注意を向けていいかわからない。だから順番に覚えたほうが遠回りに見えて近道である。

最初にやったほうが良さそうなのは猫背対策だ。猫背対策といっても背中だけに力を入れて立とうとすると反り腰という中途半端な姿勢になる。また今まで猫背で前を向いている人が猫背を矯正すると当然ながら顔が上を向く。

文章だけだとよくわからないので図にしてみた。真ん中の状態が反り腰なのだが、これで長い間立っていると確実に腰痛になる。人間の体を支えるのは実は腹筋などの「コア」だ。腰には大きな筋肉はないので、腰だけで立とうとすると腰が緊張して腰痛を起こすわけである。逆にコアトレーンングをすると立ち方が改善され結果的に体重が減りスタイルがよくなる。

顎が上に上がっている状態は最初のうちはしかたがないのでそのままにしておく。無理に顔を下に向けると首にシワが寄ってしまうのだが、これを矯正するためには顔を上に上げて顎と首筋をストレッチすると良い。

最初は1の状態になっているのだが全体が前傾しているので気がつかない。顔だけをなんとかしようとすると首が詰まって首筋にシワができる。これを防ぐためには一度3のように顔をそらせて首を伸ばしてから顎だけを前に引く。ただ、猫背矯正をしている時には正直首までは気が回らないと思う。

お腹を引っ込めるためには力を入れずに上に伸ばす

猫背対策ができるようになったら次に腹をやる。太っている人はお腹を引っ込めようとするが、実は腹は前に出るのが正しい姿勢である。

まず体をだらりと下に下げると腹が出る。次に腕を組んで上に伸ばすと当然お腹が引っ込む。中年になってお腹だけがぽっこり出てくる人はたいていここが緩んでいる。これを常に上に伸ばした状態にしておくのが写真写り的には「正しい姿勢」であり、当然苦しい姿勢だ。腹筋などのコアトレの重要性を実感するはずだ。

足が地につかないのが美しい

最後に腰をやる。いわゆる骨盤を立てるというやつである。だが、骨盤がどこにあるのか、と聞かれてもよくわからない。ネットの情報には「骨盤が立っている日本人はほとんどいない」などと書いてあるものもあり(自分のメソッドだけでしか骨盤は立てられないなどと主張している)非常にわかりにくい。

片方の足をつま先立ちにして上に体を伸ばすのだ。これには二つ目的がある。骨盤を立たせることと、動きを作るためである。ファッション写真なので動きを作るのが重要だが、単に立ちたいだけなら骨盤が立った感覚だけを覚えれば良い。

つま先は立たせておいてもよいが、軽くつけてもよい。このときの骨盤の形が「正常に立っている」状態である。女性のヒールは多分この状態を人工的に作っているのだと思う。これをときどきやらないと、どうしても骨盤が寝てしまう。

軸になっている方の足は外即で立つ。いわゆる土踏まずの外の部分を使うのだ。片方だけを爪先立ちにするのは、バランスを崩してポーズを作らないと兵隊のような直立不動になってしまうからである。しっかり立っている方の脚を支脚と呼び、反対側の脚を遊脚という。この考え方はギリシャ彫刻の立方にも見られ「コントラポスト」として一般化されている。最初はクリティオスの青年像のように微妙に崩していたが、徐々に大胆に崩されるようになる。

立ち方の本にフォースタンス理論というものがある。あれは安定させる立ち方でファッション写真の基本の立ち方ではない。ただしファッション写真の中にも力強さや安定を重視するものがある。例えばストリート系やミリタリー系ではこうしたしっかりしたスタンス理論が役に立つ。美しさの基準は常に一つというわけではない。

吊られているように立てというのはシンプルでわかりやすそうなのだが、実際にはどこに力を入れてたっていいのかわからないのでアドバイスとしてはそれほどわかりやすくない。逆に変なところに力が入ると自然に動けなくなるし、動きを優先すると形が崩れてしまう。

基礎ができたら、顔・手・脚などの各パーツを調整する

ここまでで立てるようになるので、次に各パーツをやる。まずは先に述べたように首を後ろに引きストレッチする。そしてそのまま顔を前に出す。すると首が伸びた状態で前に出る。顎先を意識して自分と同じ高さのところをみると顔が正しい位置になる。次に手だが石坂浩二によると肩を意識すると自然と手の位置は決まるそうだ。そこまでできなければ何か持つとよい。実生活では何も持たずに手の位置を意識することはないので仕事をやらせると楽だ。何か持っていると(なければ襟でもバッグでもよい)何かしらの形は作れる。脚は開き気味にしたいのだが、これも普段脚を組んだりしているとうち向いているのでうまく外側に開いてくれない。反対側の肩を外に向けると不思議なことに脚が開く。

ここまで出来たら骨盤が前に出っ張っているところに手を当てて右や左に傾けるといろいろな形が作れる。こうして一つひとつの動きをプログラミングし直すと、安定的に綺麗に立つことができ、同時にダイエット効果も得られる。

ZOZOスーツの憂鬱

今回はZOZOスーツについて書こうと思う。「やる気がない思いつきなら最初からやらなければいいだろう」と思った話である。

ユニクロの柳井会長がZOZOスーツはおもちゃだといったという話が伝わってきた。日経新聞が面白おかしくこう伝えている。

人が服に合わせるのではなく、服が人に合わせる――。全身タイツのような「採寸スーツ」を無料で100万枚以上配る前代未聞のアイデアを実行したスタートトゥデイ社長の前沢友作(42)。ユーザーやマスコミを敵に回すことも辞さなかった異色の経営者が表舞台に出始めた。だがそのアイデアを「おもちゃだ」と一笑に付す人物がいる。アパレルの巨人、ユニクロの柳井正(69)だ。

これについては批判もでている。ユニクロは古い世代の会社であり、ZOZOこそが新しいというポジションなのだろう。ただ、柳井さんは実際に試したわけではない。実際に試さないのに批判するのはいかがなものかと思った。

そこで、実際に試してみた。だが、やってみて「あれ、この会社大丈夫なのかな」と思った。いろいろ考えて「あれは社長の思いつきだったので気にしない方がいい」という結論に達した。お金はかかっているが道楽なのだろう。

もともとZOZOスーツはお客様のためを思って作られたものではない。例えば、バナナリパブリックには客が入れた情報をもとに適切なサイズをレコメンデーションする機能がある。本気でオンラインサイトをよくしたいならあらかじめデータを採取した上でシステム化したはずである。ただ、このようなきめ細かな仕組みは現場からではないと出てこないだろう。

ZOZOスーツが最初に発表されたのは2017年だった。しかし、センサー型は大量生産がうまく行かず、途中でマーカー型に変更された。この時40億円の損出が出たとされる。これはこの会社が「社長の思いつき」を形にするやり方で運用されていることをうかがわせる。オーナーだから40億円の損出を出しても道楽で済むのである。

しかし、これでも受注した分の生産が間に合わず発送は大幅にずれ込んだ。だが、この時の対応は極めてずさんだった。社内調整が全くできていなかったのだろう。なんども「次こそは発送できます」という様なアナウンスが送られていたがモノは一向に届かなかった。このことからこれも社長と周囲の思いつきで走っていたことがうかがえる。

最初は送料だけはとるということだったのだがいつの間にか送料無料ということになったようだ。しかし、カスタマーサポートによると申し込みの時点でクレジットカードの与信枠を取っており、これを商品の発送が終わるまで引っ張り続けていたそうだ。結局これがキャンセルされたのは発送が終わった後だった。これを知ったのはスーツが送られてきても送料請求に対するお知らせがなかったからだ。最初は「クレジットカードの与信枠が途中で切れてしまうので、あらためて手続きをしていただきます」と言っていた。お金の管理も極めてずさんなのである。

さて、今年の8月になってようやくスーツが届いたので手元にあるiPod Touchで撮影をしようとしたのだが途中でアプリが落ちてしまう。何回も落ちるのでこれは同じことを経験している人がたくさんいるのではないかと考えたのだが、検索をしてみてまとめサイトまでできているのに驚いた。本当にたくさんそういう人がいるようだ。どうやら機種によってできたりできなかったりする様である。

そこで再びカスタマーサポートに問い合わせたところ「一つひとつの機種ごとに手作業でカメラの調整をしなければならず、お客様のお持ちの端末では処理ができません」と言われた。

ZOZOTOWNカスタマーサポートセンターXXでございます。いつもご利用いただきありがとうございます。このたびはZOZOSUITの計測につきましてご不便をおかけしておりますこと、深くお詫び申し上げます。お問い合わせの件について確認いたしましたところ大変恐縮ながら、お客様の機種は対応端末ではございませんでした。こちらは画像認識をおこなうためのカメラの調整が機種ごとに必要なため調整が完了した機種を対応機種として設定しております。今後調整のうえ、対応機種につきまして順次拡大を予定しておりますので大変申し訳ございませんが、お待ちいただけないでしょうか。せっかくご注文いただいたなかこのようなご案内しかできず大変心苦しいのですがご理解いただきますようお願い申し上げます。

ただ、これがその場しのぎの嘘なのか、それとも本当のことなのかはよくわからない。発想の時にも経験したのだがすぐに「お待ちいただけないでしょうか」と言ってしまう会社なのだ。社内でも「一生懸命頑張っているから」辛抱強く待っていて欲しいというようなことがまかり通っているのではないかと思える。「設定している」ということなのだが、音声ガイドまで流しておいて計測の段階でアプリを落とすことが「設定」なのだとしたらずいぶんずさんな設計である。いずれにせよすべての端末で手作業でカメラ調整などできるはずはないのだから、サポートはそもそも最初から諦めているんだろうなと思った。

するとさらに追い打ちをかける様なメッセージをもらった。

ただ、これを読むと「対応端末を確認しろ」と言っているのでテスト済みのものがこのページにでているのかなと考えて再び読んでみたのだが、その様な記述は見つけられなかった。記述があったとしても「対応していないから」という理由で突然落とすのは如何なものかと思われるが、多分部署ごとにバラバラに対応してて横同士の連絡がない会社なのだろう。ただ担当部署ごとのサイロ化も日本の企業では珍しくなく取り立てて批判する気にはなれない。

もし、仮に最初からわかっているのなら対応機種をどこかでアナウンスするべきだった。もともとは送料は取るということだったのだから「できないならできない」というべきだ。次にアプリを落とすのではなく「機種が対応されていません」というアナウンスを出して客に落としてもらうべきだろう。突然落ちたのでは何がなんだかわからない。そもそも、こんな不安定なことを客にやらせるべきではないのだが、それにしてもひどすぎる対応なのだろうなと思った。

この辺りでトップの道楽で個人情報を提供してやっているんだから、こっちがモニター料を請求したいくらいだと思う様になった。

この時点でもうZOZOTOWNでは買い物はしないだろうなと思った。個人的な見解だが、エンジニアが疲弊しているとわかっている会社のものは買いたくないと思うからだ。最初から社長の思いつきでセンサー付きの高価なスーツを無料配布しようというつもりになったのだろうが、それができなかった。そこで光学的に読み取ろうとしたのだろう。でも、もしそれをやるとしたら背景を白バックにするなどして距離を正しく区切ってもらわなければならない。エンジニアなら「そんなことは無理」とわかっていたはずだし、カスタマーサポートに力があれば「お客さんにそんなことはさせられないからオンサイト(実際の店舗)」でもやりましょうという提案くらいは出たはずである。

さらに不信感に追い打ちをかけたのがTwitter対応である。「できない人が大勢いるんですね」とつぶやいたらアプリをアプリをアップデートしろというレスポンスが来た。そもそもコンタクトセンターが「お客様の機種は対応していない」と言っているのだから、場当たり対応にもほどがある。

なぜこの様な状況になっているのかはわからないのだが、前澤友作社長の派手好きな性格にも問題がありそうだ。高価な絵を買ったり、野球チームが欲しいと言ってみたり、芸能人と付き合って「宣伝だ」とばかりにインスタグラムに載せて問題になったりしている。

ZOZOスーツは100万件も注文をもらったというアナウンスだけが大切なのであり、実際に利用できる人が少なくてもさほど問題にならないに違いない。こうしたリーダーシップだと現場が疲弊しそうだが、とにかく話題にさえなれば良いのだから、現場もあまり気にしていないのではないかと思われる。ただ、ネットは炎上の危機がありそれだけは怖いのだろう。

柳井会長は日経の記事の中で「ものづくりの背景がない」ことを限界だとしている。製品のできが悪ければ成長もみこめない。つまり実際のスーツやジーンズなどのデザインがいまいちだというのだ。実際にはIT産業としてもあまり実業に関心がなさそうである。話題先行型の企業なので、マスコミの評判で話題先行型のマネジメントをせざるをえないものと思われる。

ただ、後になってよく考えてみたのだが、そもそも中高年はZOZOTOWNのターゲットではないので「企業はお客さんのことを考えてきちんと対応しなければならない」という価値観をどの程度重要なのかはわからない。「お客さんの顔を見ていない」という批判はできるのだが、バブルの時代にはそんなアパレル企業はいくらでもあった。それでも認知されてさえいれば国内では通用してしま。つけを払うのは後になってからだが、その間の時間を十分に楽しめば良いとも言えるのだ。

ZOZOTOWNの場合大学生の認知度は高い。ファッション雑誌に「WEARISTA」のコーナーもあり憧れの対象になっている。WEARなどを使ってユーザーが作ったコンテンツをきっかけにネット経由で客を集めているので宣伝広告にはあまり問題がないのである。今ではPinterestにも情報が流れておりネットでファッション検索をすると必ず最後はZOZOTOWNに行き着く。ターゲットになっている人たちはスタイルに問題がない上にきちんとしたスーツをあつらえる機会はそう多くない。だからオーバーサイズのアイテムを着てもそれほど問題にはならなず、したがってスーツによる計測など最初からいらない。さらに前澤社長がしょうしょう「おいた」をしてもそれほどブランド価値が毀損しないのである。

問題は多分「成長のために次のステージに進まなければならない」とか「いずれは世界にでなければならない」せっつく大人にあるのではないかと思った。

ネトウヨと竹の子族の共通点についてもう少し考える

前回、政治はイデオロギーからファッションスタイルになるべきなのではと書いた。思いつき議論だったのだが意外と楽しんで書くことができた。

その中に出てきた竹の子族は最初はサブのテーマだったのだが書いているうちに面白くなってしまい最終的にはタイトルに格上げされた。ネトウヨはよくヤンキー文化と比較されるのだが、竹の子族と比較すると色々と面白い類似点が出てくる。リテラシーやセンスのない人たちが自分を大きく見せようとすると「ああなってしまう」という共通点がある。ネトウヨは間違った歴史観をどうどうと語り、竹の子族はいっけんきらびやかな化繊の洋服を着ている。だが、どちらもある意味「こけ脅し」である。

今回は少しだけ竹の子族について調べてみたい。竹の子族は原宿の歩行者天国で踊りだした人たちの総称で多いときには2000人くらいが50人程度の小集団に別れていたとされている。きらびやかな化繊の衣装にはハーレムスーツという名前がついており、これを売り出した店の名前がスタイルの名前になっているのだそうだ。(ファッションの歴史 竹の子族の歴史)これがテレビで紹介され多くの観衆を集めて社会現象化した。

書籍「東京ファッションクロニクル」によると、竹の子族は新宿や六本木などのディスコに入り浸っていた未成年が母体になっているという。大人の真似をしていたが未成年だということが露見してストリートに追い出されたのである。この本において竹の子族は「1970年代のファッションの大衆化」の一番最後のトピックになっている。ストリートと文化が一体化していた最後の世代である。

1980年代にはカラス族、渋カジなどの別の「族」が出てくる。これまでは東京のエリアとスタイルが結びついていたのだが1980年代になると雑誌などの媒体がスタイルをまとめるようになった。続く1990年代には「本物の」洋服が入手できるようになったが、西洋向けに作られたものをぶかぶかのままで着ていた。こうしたファッションのトレンドは21世紀になると消えてしまう。東日本大震災が起こる頃にはトレンドそのものが消えてしまうのである。デフレでファッションが売れなくなったという人もいるが、それぞれがアーカイブの中から好きなファッションを選ぶという個性化の時代に突入したとも考えられる。

昭和のファッションが族になるのは帰属意識があったからである。今風の言い方をすればアイデンティティということになる。つまり、街や集団に相応しいスタイルがあり、そこにいけばスタイルの一部になることができたという時代である。1970年代は音楽や街が帰属意識と結びついていた。1980年代になると「デザイナー」や「ブランド」という別の帰属意識が生まれる。最終的に行き着いたのは「それぞれが好きな格好を選択する」という時代である。つまり、ファッションは2010年代頃から「個人主義」の歴史が始まると解釈することができる。人々は少なくともファッションにおいては集団に頼らなくてもやって行けるようになったのである。

その意味で日本の今の政治状況は昭和のファッションに似ている。政党という集団があり、そこに帰属することで所属欲求を満たすといえるからだ。前回までは家産共同体という実用的な側面から日本の政治を見たのだが、今回は、安倍首相を応援して見せることによって所属欲求を満足させていると解釈している。対するリベラルは野党の再編が進まないために所属欲求を満たすことができない。これが「共産党と組んででも安倍首相を倒すべきだ」という苛立ちにつながっているのだろう。

竹の子族ファッションの特徴は「和風」ということであるが決して着物ではなくどことなく暴走族の衣装に似ていた。シルエットはだらしなく着崩されており、派手な色の化繊を使ったステージ衣装の色合いが強かった。昭和の若者は今よりも貧弱な体つきをしており体型を隠す必要があったのだろう。また服飾に関する知識はなかったが化繊を使えば安くてビビッドな色を出すことができたので、あのような衣装になったものと思われる。チームによって意匠が違っていたそうである。だが、こうしたファッションに観るべき価値はなくのちの世代に継承されることはなかった。

竹の子族は「和風ではあるが決して本物の着物ではない」。反社会勢力から不良までアンダークラスの人たちがなぜ和風の衣装に惹かれるのかはよくわからないのだが、服飾に対する知識がないので安易に「伝統」の持っている威厳に頼ろうとしたのかもしれない。一方で和装と洋装の統合に成功した人たちもいる。パリコレには和装にインスパイヤーされた衣装がたびたび発表されており人々の関心を惹きつけている。色数を制限した「シックさ」を体現した衣装はのちに「カラス族」と呼ばれる別の種族を生んだ。彼らは正しく和装を理解して洋装に取り入れている。だが、結果的には竹の子族もカラス族も絶滅してしまった。

竹の子族は個人の力を信じていないので集団で均一化した振り付けで踊っていた。これも政治家の意見をコピペして騒いでいるネトウヨに似ている。

一人ひとりは地味であまり技量もないのだが集団で集まることによってそれなりに見えるという仕組みになっており、それを眺める人がいるという構造があることがわかる。こうした戦略はAKB48や「モーニング娘。」にも引き継がれている。モーニング娘。はもともとはオーディションに落ちた人たちの集まりだが、オーディションに合格した人たちよりも人気が高かった。

これも実は特異な文化である。ヨーロッパ演劇ではコーラス(もともとギリシャ演劇のコロスに由来する)はメインキャストと厳密に区別されている。韓国のボーイズバンドでもメインになる集団とサブの踊り手たちは衣装で区別される。ところが、日本ではEXILEのようにバックダンサーがメインのパフォーマーに格上げされたりAKB48のようにもともと区別されないという文化も並存している。日本人は個人よりも集団が群れているのが好きなのである。

さらに、実は踊っている人たちよりも周囲で見ている人たちの方が多いという特徴もある。個人に技量がないので個人では輝けないのだが、実際には踊ることもしない大勢の人がいて「本格的な人たちよりも親近感が持てる」といって群舞を支持するのである。

よく日本は集団主義だなどというのだが、日本の集団には強力なリーダーはいない。何となくみんなが集まってそれをみんなが眺めるという核のない共同体である。ファッションという文脈でいうと「西洋流の洋服はなんとなく敷居が高い」ので伝統に回帰しようとしたが結果的に自己流になってしまったということになる。つまり、個人の自信のなさが伝統につながっているのだが、かといって伝統も理解できていないので自己流に解釈しているということである。

EXILEのようにパフォーマーが技術を磨くことでメイン化する例もあるが、ただの群舞に終わってしまう集団は周囲から見るととても「ダサく」見えてしまう。だから周囲には広がらずそのまま衰退してしまうのだ。竹の子族が衰退していったようにネトウヨもやがて衰退する運命にあるといえるだろう。ネトウヨ的言動を磨いて思想化するという動きはないからだ。

これといった伝統がない地域が伝統的な街のイベントを復活させようとして広まったものに「ヨサコイ」がある。地域おこしのために作られたB級グルメのような伝統である。ヨサコイの衣装にもどことなく特攻服的な匂いがある。フリーで利用できる和風の柄を使い体型を隠すためにダボダボに作られているから同じようなものになるのである。だが、竹の子族の衣装と比べるとかなり整理されて様式化されている。ダンスとして個人の技量は必要とされないので、スターヨサコイプレイヤーが出てきてセンターで踊るというようなことはない。ヨサコイという和風な名前がついているがひらがなのよさこいではない。日本の「保守」の伝統も実はカタカナの「ホシュ」なのかもしれない。

竹の子族が出てきた1979年というのはバブルの入り口にあたる。同じ頃に出てきたのがDCブランドブームである。個人がデザインの入った洋服を劇場化した渋谷の街を歩くというような文化が生まれるのだが、これに乗れなかった人たちが少し外れた原宿に集まったのだろう。

日本はすべての人が同じ生き方をする時代が終わり、一人ひとりが個人の政治的意見を持たなければならなくなってきているのだろう。それに乗り遅れた人たちが乱暴な意見を「自分を大きく見せることができる」として支持しているのがTwitterにおけるネトウヨ的言動の正体なのではないだろうか。多分、こうした派手な言動は放置していればやがて消え去ることになるだろう。第一に自身のなさから出てきた擬似思想なので自信がつけば誰も支持しなくなる。さらに、集団で群れれば群れるほど異様さが際立つようになる。

ただ、自民党にこうしたネトウヨ議員が集まるという点については注意深く見守らなければならないのかもしれない。安倍首相には統治の意欲や見識がない。この意欲や自身のなさが同じように政治的意見を持てない人たちを引き付けるのだろう。つまり、自民党が自ら進んでスラム化していることになる。スラム化が進めば進むほど普通の人は自民党を放置するようになるだろう。一部では政策論争を避けるために周辺候補を恫喝しているという噂もある。安倍首相は政策論争では石破茂に負けてしまうので周囲を威圧して権力を手に入れようとしている。いわば竹の子族がパリコレに殴り込みをかけるようなものであろう。そして、代々木公園の群衆に支えられた自民党はパリコレに勝ってしまうのである。

やがてこの政治的な虚しさは解消されるのだろうが、その後に出てくるのは多分「本格的な政治」にはならないのではないかと思う。日本人にも有名なデザイナーがいてヨーロッパでも高く評価されている。だが、日本人が選んだのはユニクロだった。ただ、ユニクロが悪いというわけではなく、人々が「自分の思うようなスタイルが選べる」ことになり、過激で不恰好なだけのスタイルはかつてのようには流行しなくなった。こうして一人ひとりがリテラシーを高めて行くことによって、過激な意見が抑えられることになるはずである。

4釦ジャケット・5釦ジャケット

古着屋でComme Ca Ismのコットンジャケットを見つけた。108円だった。よく見るとボタンが4つ付いている。4釦ジャケットだ。「これはどう着ればいいのか」と思った。

他にもスタンドカラーのコットンスーツが売られていた。普通に4釦として着ることもできるが、襟を立てると5釦としても着られるというものである。こちらはSHIPSのもので500円で売られていたものである。

今ではすっかりなくなった多釦スーツだが、以前はちらほら見られたのかもしれない。メーカーにとっては迷惑なのかもしれないが、型番を伝えると発売シーズンと当時の値段を教えてくれる。いつ頃流行したものなのかを調べると、どちらも2003年から2004年のシーズンに作られたものらしい。

メーカーよるち、当時のルックブックなどは残っていないということだ。ある程度時間がくると処分してしまうのだそうだ。さらにネットは今ほど発達していないのでウェブ上にもルックブックは残っていない。手持ちのカタログを調べてみると、DNYKの1997年のカタログとGian Franco Ferreの2000年のカタログに4釦ジャケットが見つかった。さらに調べると1997年のVersaceのカタログにも4つ釦のものがある。この頃にリバイバルとしてウール素材の多釦スーツが扱われていたことがわかる。ちょうどクラッシックな3釦が標準だった頃なので、このような多釦スーツが扱われる余地があったのだろう。DNYKは上二つ掛けにしており、Ferreは三つ掛けにしていた。今でいうチェスターコートのような着方をして縦長のラインを作っているものが多いような印象を受ける。

そもそもいつ頃からこのようなトレンドが始まったのかと思い、図書館で’50s&’60s メンズファッションスタイルという本を取り寄せてみた。

無難なグレーのスーツの中にも4釦が見られるし、オランダが提案しているというTwen Lookというスタイルの一部として4釦スーツが提案されている。この頃には洋服を部品にするような「コーディネート」という考え方は一般的ではなかったようだ。代わりに変わった形のスーツを着るという文化があったことになる。

もともと多釦スーツがあり、それが1990年代にリバイバルした。最終的にコットン素材のカジュアルなジャケットに降りて行き、最終的に消えてしまったことになる。

こうした釦の変遷はある程度西洋の流行を参考にしている。しかし、日本独自で発展した流行もある。日本は大きめの体型の人が多い西洋からスーツを輸入したためにオーバーサイズのものを着るのがかっこいいという時代があった。バブル期には誰もが大きめのスーツを着ていた。ここから揺り戻しがあり、今度はタイト目のスーツが流行する。現在ではこれも収束しオーバーサイズの衣服が流行面では主流になっている。

面白いことにアメリカのファッション指南のウェブサイトを見ると「サイズを合わせる」のが絶対条件になっていてオーバーサイズという概念そのものが存在しない。Fitting Clothesというサイトは次のように言っている。

If you see a man wearing tight fitting clothes on the street, chances are you peg him immediately as ‘gay’ or a self-involved metrosexual. If you see someone wearing baggy or loose clothes, you think of them as sloppy and not someone you would trust to get things done (if they’re at the office).

一時期流行したメトロセクシャルだが、今では日本語でいう「ナルシスト」のような扱いを受けているようだ。1994年の造語であり、2000年代に流行したということだ。タイト目のスーツはナルシストかゲイであり、一般男性は体にあったサイズの服を着るべきだと主張されているのである。

特に若い日本人は体つきが平坦なのでオーバーサイズにした上でレイヤードするという選択の余地があるのだろう。「ストリート系」や「モード系」のファッションサイトなどを見ても、BEAMSのカジュアルカタログもオーバーサイズ全盛だ。日本人は保守的とされているのだが、こと洋服に関しては東京は革新的な都市なのかもしれない。アメリカ西海岸をモデルにしているSAFARIも日本のオーバーサイズの流行を無視できなくなったのか「ジーンズは太いほど余裕があるように見える」などという記事を出している。

4釦ジャケットなど今では全く見なくなったと書きたいところなのだがオーダーメイドなどでは4釦スーツを作っているところもあるようだ。どちらかというと若い人が着るということなのだが、実際にオーダーする若者がいるのかどうかはよくわからない。

またMen’s Clubの2017年4月号の中にも4ポケットタイプジャケットの特集があり、この中に4釦のジャケットが見られた。こちらはテーラードジャケットのように着ることもできるというような提案の仕方になっており、仕事着という位置付けではないようである。タイドアップしてチノパンツと合わせるなどの提案が見られた。ただしそれほど広がっているとは言えないようでWEARには着用事例がなかった。このように多釦スーツやジャケットをリバイバルさせようという機運はあるものの、なかなか着る側が乗ってこないということなのかもしれない。

ただ、最近ではチェスターコートのような長めのスーツ型のコートも流行している。こちらは釦の数が多いものもある。釦が多いほどクラッシックな雰囲気になるので、また釦の数が多いスーツが流行することがあるかもしれない。

シングルマン

よく多様性などという言葉を使うわけだが、概念的なことばかりだとよくわからない。シングルマンはマイノリティとされる同性愛を扱った映画である。現在はオープンに語られることもある同性愛だが、キューバ危機当時のアメリカではやはりおおっぴらに語られることはほとんどなかったようだ。しかしながら舞台がロスアンジェルスというオープンな都市なので全く隠しているというわけではなく、隣人は「多分そうなのだろう」ということがわかっている、という状態である。

コリン・ファースが演じる主人公は2つの意味で異端者である。第一に同性愛であり、イギリスからロスアンジェルスに移り住んだ外国人でもある。大学の先生をしていてあまり優秀でない学生に文学を教えている彼の人生は味気ない。

ここで扱われるテーマの一つは「同性愛は本物の恋愛なのか」というようなことだ。主人公は女性を愛することができるので選択的に同性愛を選んでいる。また16年連れ添った恋人を交通事故で失っており、その穴を埋めがたいものとして感じている。さらに現在でも付き合うことができる女性もいる。これらの条件から同性愛は異性愛の代替物ではなく、本物の愛なのだということが主張されている。

出てくる登場人物はみな美しい。というより、その端正さを見たいためにこの映画を手に取る人の方が多いのではないかと思う。よく知られているようにトム・フォードは自身のブランドも手がけるデザイナーで、登場人物の衣装もいくつか手がけている。やはり衣装はどれもすばらしく、男性の個性を引き出し美しく見せている。トム・フォードが手がけるのは多分自身を投影しているだろう主人公と、主人公の熱烈な信奉者である学生の衣装なのだが、学生の方はフワモコの白い衣装をつけている。多分、AKBの推しメンに「こういうのを着てほしいなあ」というのと同じような感覚なのではないかと思えるほどだ。

いくつかの映画評をみると「これはゲイを扱った映画ではない、人間を扱った映画だ」とか「男女の関係ではありえないプラトニックさを扱っている」とか「コリン・ファースはゲイの役ではなかった」というものがみられた。が、残念ながら男性は欲望の対象だと考えられており、肉体関係に及ぼうとする描写も見られる。そのため、ある種のポルノ映画っぽさ(よく言えばイケメンのプロモ映画)が残っている。

すべての登場人物が否応無しにモテてしまうので、この映画にはいわゆる歌舞伎町的なくねくねしたおかまっぽさもないし、逆にハードゲイ的な過剰なマッチョさもない。さらに登場人物たちが自分たちの存在を誰かに認めてほしいという過剰な欲求もない。これがこの作品の世界を美しく守っている。

だが、主人公と男性たちはすぐさまお互いが「特別な人たち」であることを見抜いてしまい、恋愛関係に進んでもいいかなと思ってしまうようである。つまり、ものすごくモテるわけだが、これが現実的に起こり得るのかというのはよくわからない。その意味ではゲイのファンタジー映画になってしまっているようにも思える。

ここからゲイというのは他の人たちとは違った特別な人たちなのだというような意識が見られるのだが、これが意図されたものなのかそうでないのかはわからない。見方によっては、トム・フォードが考えるゲイ社会とはルッキズムで形作られた一種のエリート社会であり、醜い人間が入り込む余地はないとも言える。

一方、作中では隠れたマイノリティとしての同性愛者が一般の人たちには恐怖の対象として捉えられてしまうのだというような主張がある。これもマイノリティの被害者意識からきているのか、それとも実際の感覚なのかということはわからない。つまり、外見による階層でのエリートでありながらも、一般の価値観と共存できないのではないかという被害者意識も抱えているようである。

一般にマイノリティというと「多数派に虐げられるかわいそうな人たち」という印象を持ちがちなのだが、実はマイノリティの中にも価値の階層があり、それがマジョリティとの間に軋轢を生む可能性があるということになる。もちろんトム・フォードはそのようにはとらえず「得体の知れない人たちに感じる恐怖なのだ」と主張したがっているのかもしれない。

劇中に出てくるハクスリーは「すばらしい新世界」というディストピア小説やLSDに対する関心で知られているようである。すばらしい新世界はルッキズムと知性で形成された階層社会であり、人々は副作用のない薬物で幸福を得ているという設定なのだそうだ。原作者のクリストファー・イーシャーウッドはイギリスからロスアンジェルスに移り住んだ同性愛の作家である。

この映画は考えようとするといろいろなことが考えられる映画ではあるのだが、題材がきれいなだけにその背後にある主張を受け入れるのはなかなか難しいのかもしれないと思った。実際には美しい男性を鑑賞する映画として楽しんでみたほうが良いようにも思えるのだが、コリン・ファースは中年期に差し掛かっており、ようやく作品世界をぶち壊さない程度の肉体を持っている。

なお、映画を見ている時には全く気がつかなかったのだが、隣にいる人たちがやたら攻撃的なのはマイノリティの人たちが経験する多数派の悪意や攻撃性を象徴しているのだと解説している人がおり、なるほどなと思った。

また、この映画を見る前に結末を知っていたのだが、知らないでみたほうがよいのかもしれない。知ってしまうと、すべてが予定された調和の中で進行していると思えてしまうからだ。

ファッション写真の右と左

ファッション写真を見ていると、右脚に重心をかけて立っているケースが多いように思える。特にカタログだとその傾向が顕著だ。だんだん気になって右と左について調べてみることにした。

ファッション写真に携わる人はアートの歴史について学んでいるはずだからという理由で、まずはギリシャ彫刻について調べた。

7世紀中頃から前5世紀前半にかけて制作されたクーロス(青年像)は左脚を前に出しているが、体重は均等に乗っている。このころの神の立像も重心は均等になっている。シンメトリーな方が神々しく見えるからだ。仏像もギリシャ彫刻の影響を受けているのだが、仏像は今でもシンメトリーである。あまり派手なポーズがついた仏像を見たことがある人はいないのではないだろうか。ありがたみが薄れるからだと考えられる。仏像が左右対称性を崩す場合、顔は大抵怒っている。荒々しさを表しているものと考えられる。

ところが、彫像の対称性は徐々に失われる。どちらかに重心がかかったポーズをコントラポストといい、紀元前480年ごろの「クリティオスの少年像」が初出だと考えられている。足部が失われおりどちらが支脚なのかはわからないが、左脚が支脚になっているものと思われる。筋肉の動きを見ると体重の乗せ方も均一ではないそうだ。

紀元前360年の「幼児のディオニュソスを抱く神ヘルメス」では、右脚が支脚になっている。左側に開いており、左に支えが置かれている。時代はアルカイックではなくヘレニズム期に入っている。ミロのビーナスも右脚支脚で左側(画面でいうと右側)に開いている。ギリシャ世界では神に人間味を与えた方がより信仰されるだろうという考え方があったのかもしれない。

しかし、このポーズは運動機能的な利き足を模写しているというわけでもなさそうだ。例えばディスコフォロスではディスクを左手に持つので、左支脚になっている。ドリフォロスではは槍を左手に持って右支脚になっている。

いずれにせよ、コントラポストは右支脚が基本になっており、これがローマ時代に盛んに模写されることとなる。こうしたお手本をカノンというのだそうだ。

だが、ファッション雑誌において、右を支脚にし左を遊脚にするという厳密な決まりごとはないようだ。同じ側ばかりだと退屈になってしまうので、時々入れ替えたりしている。また日本にはギリシャ彫刻の影響はそれほどないようで、日本のモデル事務所の場合ポートフォリオの写真がほとんど左支脚になっている人もいた。

さて、写真の中には脚を肩幅に開き均等に立っているものもある。正三角形が作られるので安定して見えるのである。ここで変化をつけるために体をどちらかに傾けることがあるのだが、左(画面で見ると右になる)を前にしているケースが多いように感じられた。似たようなポーズはボクシングで見られた。右利き選手の場合、パンチを打つ方の手が奥になり、左を前にしたスタンスになる。写真の場合殴り合うわけではないのだが、自然に左側を前にする(正確には利き手側を奥にする)ということになるのかもしれない。

演劇には上手・下手という表現がある。画面で見て右側が上手だという。優位になっている人は上手におり、劣位の人は下手にいるという約束事があるそうだ。登場人物は大抵上手から出てきて下手に下がって行く。ということで写真でも優位にいる人を画面で見て右側に置くことがある。スティル写真でも左にスペースを開ければ登場人物を引き立てつつ背景を説明することができる。

しかし、これもすべての演劇がそうというわけではない。例えば、戦争という運命に翻弄される「肝っ玉おっかあと子供達」では、巡回馬車は画面の右に向かって進んで行く。スーパーマリオブラザーズも左から右へと動く。このようにして少なくとも演劇では左右は重要な意味を持っていて、知らず知らずのうちのその常識を受け入れている。

こうしたテクニックはインスタグラムの写真などでも使える。例えば悲しい感じや圧迫された感じを出したければ、左から右へと上がって行く背景を選び左側に立つことで、圧迫感を演出することができるだろう。こうすると画面の左下にいるような印象を与えるからだ。逆に右側に立って(写真を撮る時には左側に立つことになる)左画面を解放すると、その場所に到達した達成感を表すことができるかもしれない。

政治ポスターでもこうした左右が使い分けられている。アベノミクスで困難に立ち向かうというポスターでは安倍首相は画面の左側にいて右上を見ている。一方で首相として権威付けたいときには画面の左が解放されているという具合だ。本人が意図していないものもあるかもしれないが、そう見えてしまう。

「民衆を導く自由の女神」でも市民は画面右に向かって進んでおり、中央よりやや右側に自由の女神が立っている。これは苦難に立ち向かう市民というようなニュアンスがあるのかもしれない。

Es Lebe Deutschland(ドイツよ永遠に)で検索するとヒトラーの画像が出てくる。この絵はハーケンクロイツを掲げて画面の中心に立ったヒトラーの背景に翼のような物体があり後光が差している。天に守られて前進するヒトラー像というものを演出しているのだろう。

このように画面の左右中央と上下を使い分けることは政治的プロパガンダでもよく使われている。私たちはこうしたメッセージに知らず知らずのうちに従っているのである。普通に構図を切っている分にはあまりこうした類型にはまる可能性は低いかもしれないのだが、知らないうちにはまってしまうことがあるかもしれない。逆に、意図的にこうした構図を利用することで面白い写真が撮影できることもあるだろう。

おじさんたちはこうやって時代に取り残されてゆく

この夏は何が流行っているんだろうと思い、WEARのランキング一覧を覗いてみた。すると上位のコーディネートは白いTシャツに普通のパンツというコーディネートだった。一瞬「最近の若者は貧乏だからこういうシンプルコーデがいいんだな」などと思ってしまった。が、実際に持っているTシャツやカットソーを着てもこうはならない。おじさんで体型が違うからなんだろうなあと諦めて終わりになった。

今回のお話は、POSデータだけをみていると、若者の動向などがわからなくなるよというお話である。

そうこうしているうちに、Tシャツについてちょっとした発見をした。いくつかのオンラインファッションサイトが手持ちのアイテムと売っているアイテムを比較してくれるサービスを導入している。どうやらデータベースは共有になっているらしく、一箇所で登録しておくと他の場所でも比較ができる。面白そうなのでいくつか登録してみた。

この登録がかなり面倒だ。着丈や袖といったデータを登録しなければならないのは仕方がないとして、幅を3箇所計測しなければならない。面倒だなあと思ってやってみたのだが、そこで発見したのは、ものによって、幅というのがまちまちだという事実である。あるTシャツは脇の下が52cmで一番下が57cmくらいあったりする。つまり、台形になっている。一方でユニクロやGUのようにあまり変化がないものも存在する。こちらの方が作るのは簡単そうで生地の無駄も少ないのではないだろうか。実は、これがシルエットにかなり影響を与えている。台形になっていた方がゆったりとしたシルエットが作れるのである。この緩い感じが重要なのだ。

改めて流行のランキングを見てみると、流行しているのはゆったりとした印象を受けるシルエットだということがわかる。つまり、ランキングをつける人たちはどうやらそれがわかっていて投票しているようなのだ。

もちろん、サイジングが重要ですよなどという人はいるわけだが、どこが大切なのかを教えてくれる人はほとんどいない。つまり、そういう情報や了解は若い人たちの間にだけ流通しており、商品を企画する大人にはあまり知らされない可能性が高い。

実際にいくつかのサイトで手持ちのTシャツと売れ筋のTシャツを比較してみたが、今は裾にかけて広がっている「デザイン」が流行のようだ。

50歳台の人たちはバブルを経験しているのだが、アパレルというと海外から輸入されたハイブランドを意味していた。そこで高級ブランドや使っている生地などのストーリーには極めて強く反応する。その一方で輸入品なので日本人の体型には合っていなかった。このためサイジングには無頓着になりがちなのではないだろうか。

ユニクロのようなメーカーは大量に品物を捌く必要があり、その裁断も単純なものになりがちであろうと予測できる。デザインの専門家と違って一般人は「色や形を工夫すればデザインになる」と思いがちだ。同じようにユニクロもサイジングにはこだわれないぶん、企業のロゴマークをつけた色とりどりのデザインを好む傾向にある。

つまり、見ている人によってものの本質は全く異なっているのだが、過去に成功体験があったり、企業の都合などが加わると、それがわからなくなるのではないかと思う。

こうやって時代に遅れて行くのだなあと思った。

この話の厄介なところは、ソーシャルリスニングなどをしても、視点が発見できないという点である。そもそも仮説を立てる時点で「どの色がいいのか」などとやってしまうと、サイジングなどの視点が抜け落ちてしまうからである。

と、同時に店舗で服を買うという人は減ってゆくかもしれないと思った。お店でメジャーを持って洋服を買っている人がいたらそれは確実に変な人だが、スマホが登場した現在では人目をはばからず洋服のサイズを比較できるわけだ。もともと凝り性で「オタク気質」と言われる日本人には、実は細かいサイジングの追求というのは極めてのめり込みやすいトピックなのではないかと考えられる。