ネトウヨと竹の子族の共通点についてもう少し考える

前回、政治はイデオロギーからファッションスタイルになるべきなのではと書いた。思いつき議論だったのだが意外と楽しんで書くことができた。

その中に出てきた竹の子族は最初はサブのテーマだったのだが書いているうちに面白くなってしまい最終的にはタイトルに格上げされた。ネトウヨはよくヤンキー文化と比較されるのだが、竹の子族と比較すると色々と面白い類似点が出てくる。リテラシーやセンスのない人たちが自分を大きく見せようとすると「ああなってしまう」という共通点がある。ネトウヨは間違った歴史観をどうどうと語り、竹の子族はいっけんきらびやかな化繊の洋服を着ている。だが、どちらもある意味「こけ脅し」である。

今回は少しだけ竹の子族について調べてみたい。竹の子族は原宿の歩行者天国で踊りだした人たちの総称で多いときには2000人くらいが50人程度の小集団に別れていたとされている。きらびやかな化繊の衣装にはハーレムスーツという名前がついており、これを売り出した店の名前がスタイルの名前になっているのだそうだ。(ファッションの歴史 竹の子族の歴史)これがテレビで紹介され多くの観衆を集めて社会現象化した。

書籍「東京ファッションクロニクル」によると、竹の子族は新宿や六本木などのディスコに入り浸っていた未成年が母体になっているという。大人の真似をしていたが未成年だということが露見してストリートに追い出されたのである。この本において竹の子族は「1970年代のファッションの大衆化」の一番最後のトピックになっている。ストリートと文化が一体化していた最後の世代である。

1980年代にはカラス族、渋カジなどの別の「族」が出てくる。これまでは東京のエリアとスタイルが結びついていたのだが1980年代になると雑誌などの媒体がスタイルをまとめるようになった。続く1990年代には「本物の」洋服が入手できるようになったが、西洋向けに作られたものをぶかぶかのままで着ていた。こうしたファッションのトレンドは21世紀になると消えてしまう。東日本大震災が起こる頃にはトレンドそのものが消えてしまうのである。デフレでファッションが売れなくなったという人もいるが、それぞれがアーカイブの中から好きなファッションを選ぶという個性化の時代に突入したとも考えられる。

昭和のファッションが族になるのは帰属意識があったからである。今風の言い方をすればアイデンティティということになる。つまり、街や集団に相応しいスタイルがあり、そこにいけばスタイルの一部になることができたという時代である。1970年代は音楽や街が帰属意識と結びついていた。1980年代になると「デザイナー」や「ブランド」という別の帰属意識が生まれる。最終的に行き着いたのは「それぞれが好きな格好を選択する」という時代である。つまり、ファッションは2010年代頃から「個人主義」の歴史が始まると解釈することができる。人々は少なくともファッションにおいては集団に頼らなくてもやって行けるようになったのである。

その意味で日本の今の政治状況は昭和のファッションに似ている。政党という集団があり、そこに帰属することで所属欲求を満たすといえるからだ。前回までは家産共同体という実用的な側面から日本の政治を見たのだが、今回は、安倍首相を応援して見せることによって所属欲求を満足させていると解釈している。対するリベラルは野党の再編が進まないために所属欲求を満たすことができない。これが「共産党と組んででも安倍首相を倒すべきだ」という苛立ちにつながっているのだろう。

竹の子族ファッションの特徴は「和風」ということであるが決して着物ではなくどことなく暴走族の衣装に似ていた。シルエットはだらしなく着崩されており、派手な色の化繊を使ったステージ衣装の色合いが強かった。昭和の若者は今よりも貧弱な体つきをしており体型を隠す必要があったのだろう。また服飾に関する知識はなかったが化繊を使えば安くてビビッドな色を出すことができたので、あのような衣装になったものと思われる。チームによって意匠が違っていたそうである。だが、こうしたファッションに観るべき価値はなくのちの世代に継承されることはなかった。

竹の子族は「和風ではあるが決して本物の着物ではない」。反社会勢力から不良までアンダークラスの人たちがなぜ和風の衣装に惹かれるのかはよくわからないのだが、服飾に対する知識がないので安易に「伝統」の持っている威厳に頼ろうとしたのかもしれない。一方で和装と洋装の統合に成功した人たちもいる。パリコレには和装にインスパイヤーされた衣装がたびたび発表されており人々の関心を惹きつけている。色数を制限した「シックさ」を体現した衣装はのちに「カラス族」と呼ばれる別の種族を生んだ。彼らは正しく和装を理解して洋装に取り入れている。だが、結果的には竹の子族もカラス族も絶滅してしまった。

竹の子族は個人の力を信じていないので集団で均一化した振り付けで踊っていた。これも政治家の意見をコピペして騒いでいるネトウヨに似ている。

一人ひとりは地味であまり技量もないのだが集団で集まることによってそれなりに見えるという仕組みになっており、それを眺める人がいるという構造があることがわかる。こうした戦略はAKB48や「モーニング娘。」にも引き継がれている。モーニング娘。はもともとはオーディションに落ちた人たちの集まりだが、オーディションに合格した人たちよりも人気が高かった。

これも実は特異な文化である。ヨーロッパ演劇ではコーラス(もともとギリシャ演劇のコロスに由来する)はメインキャストと厳密に区別されている。韓国のボーイズバンドでもメインになる集団とサブの踊り手たちは衣装で区別される。ところが、日本ではEXILEのようにバックダンサーがメインのパフォーマーに格上げされたりAKB48のようにもともと区別されないという文化も並存している。日本人は個人よりも集団が群れているのが好きなのである。

さらに、実は踊っている人たちよりも周囲で見ている人たちの方が多いという特徴もある。個人に技量がないので個人では輝けないのだが、実際には踊ることもしない大勢の人がいて「本格的な人たちよりも親近感が持てる」といって群舞を支持するのである。

よく日本は集団主義だなどというのだが、日本の集団には強力なリーダーはいない。何となくみんなが集まってそれをみんなが眺めるという核のない共同体である。ファッションという文脈でいうと「西洋流の洋服はなんとなく敷居が高い」ので伝統に回帰しようとしたが結果的に自己流になってしまったということになる。つまり、個人の自信のなさが伝統につながっているのだが、かといって伝統も理解できていないので自己流に解釈しているということである。

EXILEのようにパフォーマーが技術を磨くことでメイン化する例もあるが、ただの群舞に終わってしまう集団は周囲から見るととても「ダサく」見えてしまう。だから周囲には広がらずそのまま衰退してしまうのだ。竹の子族が衰退していったようにネトウヨもやがて衰退する運命にあるといえるだろう。ネトウヨ的言動を磨いて思想化するという動きはないからだ。

これといった伝統がない地域が伝統的な街のイベントを復活させようとして広まったものに「ヨサコイ」がある。地域おこしのために作られたB級グルメのような伝統である。ヨサコイの衣装にもどことなく特攻服的な匂いがある。フリーで利用できる和風の柄を使い体型を隠すためにダボダボに作られているから同じようなものになるのである。だが、竹の子族の衣装と比べるとかなり整理されて様式化されている。ダンスとして個人の技量は必要とされないので、スターヨサコイプレイヤーが出てきてセンターで踊るというようなことはない。ヨサコイという和風な名前がついているがひらがなのよさこいではない。日本の「保守」の伝統も実はカタカナの「ホシュ」なのかもしれない。

竹の子族が出てきた1979年というのはバブルの入り口にあたる。同じ頃に出てきたのがDCブランドブームである。個人がデザインの入った洋服を劇場化した渋谷の街を歩くというような文化が生まれるのだが、これに乗れなかった人たちが少し外れた原宿に集まったのだろう。

日本はすべての人が同じ生き方をする時代が終わり、一人ひとりが個人の政治的意見を持たなければならなくなってきているのだろう。それに乗り遅れた人たちが乱暴な意見を「自分を大きく見せることができる」として支持しているのがTwitterにおけるネトウヨ的言動の正体なのではないだろうか。多分、こうした派手な言動は放置していればやがて消え去ることになるだろう。第一に自身のなさから出てきた擬似思想なので自信がつけば誰も支持しなくなる。さらに、集団で群れれば群れるほど異様さが際立つようになる。

ただ、自民党にこうしたネトウヨ議員が集まるという点については注意深く見守らなければならないのかもしれない。安倍首相には統治の意欲や見識がない。この意欲や自身のなさが同じように政治的意見を持てない人たちを引き付けるのだろう。つまり、自民党が自ら進んでスラム化していることになる。スラム化が進めば進むほど普通の人は自民党を放置するようになるだろう。一部では政策論争を避けるために周辺候補を恫喝しているという噂もある。安倍首相は政策論争では石破茂に負けてしまうので周囲を威圧して権力を手に入れようとしている。いわば竹の子族がパリコレに殴り込みをかけるようなものであろう。そして、代々木公園の群衆に支えられた自民党はパリコレに勝ってしまうのである。

やがてこの政治的な虚しさは解消されるのだろうが、その後に出てくるのは多分「本格的な政治」にはならないのではないかと思う。日本人にも有名なデザイナーがいてヨーロッパでも高く評価されている。だが、日本人が選んだのはユニクロだった。ただ、ユニクロが悪いというわけではなく、人々が「自分の思うようなスタイルが選べる」ことになり、過激で不恰好なだけのスタイルはかつてのようには流行しなくなった。こうして一人ひとりがリテラシーを高めて行くことによって、過激な意見が抑えられることになるはずである。

4釦ジャケット・5釦ジャケット

古着屋でComme Ca Ismのコットンジャケットを見つけた。108円だった。よく見るとボタンが4つ付いている。4釦ジャケットだ。「これはどう着ればいいのか」と思った。

他にもスタンドカラーのコットンスーツが売られていた。普通に4釦として着ることもできるが、襟を立てると5釦としても着られるというものである。こちらはSHIPSのもので500円で売られていたものである。

今ではすっかりなくなった多釦スーツだが、以前はちらほら見られたのかもしれない。メーカーにとっては迷惑なのかもしれないが、型番を伝えると発売シーズンと当時の値段を教えてくれる。いつ頃流行したものなのかを調べると、どちらも2003年から2004年のシーズンに作られたものらしい。

メーカーよるち、当時のルックブックなどは残っていないということだ。ある程度時間がくると処分してしまうのだそうだ。さらにネットは今ほど発達していないのでウェブ上にもルックブックは残っていない。手持ちのカタログを調べてみると、DNYKの1997年のカタログとGian Franco Ferreの2000年のカタログに4釦ジャケットが見つかった。さらに調べると1997年のVersaceのカタログにも4つ釦のものがある。この頃にリバイバルとしてウール素材の多釦スーツが扱われていたことがわかる。ちょうどクラッシックな3釦が標準だった頃なので、このような多釦スーツが扱われる余地があったのだろう。DNYKは上二つ掛けにしており、Ferreは三つ掛けにしていた。今でいうチェスターコートのような着方をして縦長のラインを作っているものが多いような印象を受ける。

そもそもいつ頃からこのようなトレンドが始まったのかと思い、図書館で’50s&’60s メンズファッションスタイルという本を取り寄せてみた。

無難なグレーのスーツの中にも4釦が見られるし、オランダが提案しているというTwen Lookというスタイルの一部として4釦スーツが提案されている。この頃には洋服を部品にするような「コーディネート」という考え方は一般的ではなかったようだ。代わりに変わった形のスーツを着るという文化があったことになる。

もともと多釦スーツがあり、それが1990年代にリバイバルした。最終的にコットン素材のカジュアルなジャケットに降りて行き、最終的に消えてしまったことになる。

こうした釦の変遷はある程度西洋の流行を参考にしている。しかし、日本独自で発展した流行もある。日本は大きめの体型の人が多い西洋からスーツを輸入したためにオーバーサイズのものを着るのがかっこいいという時代があった。バブル期には誰もが大きめのスーツを着ていた。ここから揺り戻しがあり、今度はタイト目のスーツが流行する。現在ではこれも収束しオーバーサイズの衣服が流行面では主流になっている。

面白いことにアメリカのファッション指南のウェブサイトを見ると「サイズを合わせる」のが絶対条件になっていてオーバーサイズという概念そのものが存在しない。Fitting Clothesというサイトは次のように言っている。

If you see a man wearing tight fitting clothes on the street, chances are you peg him immediately as ‘gay’ or a self-involved metrosexual. If you see someone wearing baggy or loose clothes, you think of them as sloppy and not someone you would trust to get things done (if they’re at the office).

一時期流行したメトロセクシャルだが、今では日本語でいう「ナルシスト」のような扱いを受けているようだ。1994年の造語であり、2000年代に流行したということだ。タイト目のスーツはナルシストかゲイであり、一般男性は体にあったサイズの服を着るべきだと主張されているのである。

特に若い日本人は体つきが平坦なのでオーバーサイズにした上でレイヤードするという選択の余地があるのだろう。「ストリート系」や「モード系」のファッションサイトなどを見ても、BEAMSのカジュアルカタログもオーバーサイズ全盛だ。日本人は保守的とされているのだが、こと洋服に関しては東京は革新的な都市なのかもしれない。アメリカ西海岸をモデルにしているSAFARIも日本のオーバーサイズの流行を無視できなくなったのか「ジーンズは太いほど余裕があるように見える」などという記事を出している。

4釦ジャケットなど今では全く見なくなったと書きたいところなのだがオーダーメイドなどでは4釦スーツを作っているところもあるようだ。どちらかというと若い人が着るということなのだが、実際にオーダーする若者がいるのかどうかはよくわからない。

またMen’s Clubの2017年4月号の中にも4ポケットタイプジャケットの特集があり、この中に4釦のジャケットが見られた。こちらはテーラードジャケットのように着ることもできるというような提案の仕方になっており、仕事着という位置付けではないようである。タイドアップしてチノパンツと合わせるなどの提案が見られた。ただしそれほど広がっているとは言えないようでWEARには着用事例がなかった。このように多釦スーツやジャケットをリバイバルさせようという機運はあるものの、なかなか着る側が乗ってこないということなのかもしれない。

ただ、最近ではチェスターコートのような長めのスーツ型のコートも流行している。こちらは釦の数が多いものもある。釦が多いほどクラッシックな雰囲気になるので、また釦の数が多いスーツが流行することがあるかもしれない。

流行のメカニズム

ファッションの社会学を読んだ。この本によれば、流行ができる理由は明確らだ。閉鎖されていてメンバーがお互いに影響し合っているコミュニティがある。彼らは、財産や時間が余っていることを誇示して労働者階級とは違うということを示す必要がある。また、仲間内で全く同じ格好はしたくない。この結果、こうしたコミュニティには自律的な「トレンド」のサイクルが生まれる。ファッションの流行サイクルは自律的であり政治や経済の状況には影響されないのだそうだ。

ただし、これだけではファッションの流行は仲間内だけのものになってしまうだろう。

これを摸倣したいと感じる層が別に存在する。当初自律的にファッッションを決める階層は貴族だったのだが、中産階級に引き継がれ、さらに映画俳優やスポーツ選手などが担うようになった。その内に巨大な発行部数を誇るジャーナリズムが介在するようになり「消費」の対象になる。

ファッションジャーナリズムは情報の通り道に過ぎないのだから、憧れの存在を見つけ出すことはできても、ないものを作りだすことはできないはずである。デザイナーは勝手にトレンドを作り出すのではない。過去のアーカイブやミューズになりそうな対象物、またはコミュニティを参考にしつつ、新しい何かを提案しているということになる。

これとは別の観察もある。ジンメルは「外では共同体に隷属している」している弱者が、はけ口として、まずは見た目から刷新しようとファッションを利用する、というようなことを言っているのだそうだ。現代でも女性のファッションでは、常に「解放」がテーマになっているという観察がある。トレンドの発信源は「上流階級」なのだが、実際にトレンドを発信するのは「その中でも弱者」ということになる。現代でも、女性ファッションのテーマは「解放」であるという観察がある。男性が、背広という比較的安定した形を手に入れたのに比べて、女性のファッションは見られて、選ばれることを前提にしている。ここから解放を試みているという観察だ。

流行は「区切られた見せびらかしの時間と空間」を持っている集団によって作られ、摸倣されるものだと定義できる。

  • 同調:あるコミュニティのメンバーとして認められたい。
  • 摸倣:そのコミュニティのメンバーでない人が、コミュニティを摸倣したい。
  • 区分:そのコミュニティの中から、半歩抜きん出たい。
  • 解放:隷属するコミュニティの規範から解放されたい。

ファッション業界が目下悩んでいるのは、昔のような規範集団が残っているのかということだろう。オートクチュールは既に衰退しつつある。一方で、中国のように新たに消費に加わった国には、フランスやアメリカのブランドに対する熱烈な購買意欲がある。不況とされた2011年だが、ブランドの売上げは好調だったそうだ。中国人がブランドモノを「熱烈歓迎的」に買うのは、エルメスのバッグの高級さゆえではなく、フランス人のような生活がしたいからだろう。「品物の良さ」を品定めできるようになるためにはさらに時間がかかるのではないかと思われる。

ファッション雑誌を読むと「今年のトレンド」がどこからか湧いて来たような印象を持つことがある。またマーケターが自分が売らなければならないモノに集中しすぎるあまり、それがどのような来歴で作られたものかという視点は消えがちだ。しかし人々が本当に摸倣したいと思っているのは「モノではなく人」「人よりもコミュニティ」だ。つまり裏側に人が透けて見えなければ、ファッショントレンドは意味を持たないのだ。

消費は祝祭になり得るか

買い物は祝祭化しており、場合によってはかつて宗教が担っていた機能を代替しているようにさえ見える。この主張を「ああ、そうだな」とか「何かの哲学書で読んだなあ」と感じる方もいらっしゃるだろう。また、そんな馬鹿なことがあるはずはない、と思う人もいるのではないかと思う。

消費は祝祭ではない。だから祝祭空間が持っている機能をすべて満足させることができない。いったい何が欠けているのだろうか。
かつて宗教と買い物の間にははっきりした垣根があった。ファッションの歴史(下巻)を参考に見て行きたい。

ファッションの近代化は1815年頃から始まった。背景にはアメリカが綿の生産地になったこと、テキスタイルの機械化が進んだことがある。

1829年にバルセルミー・ティモニエがミシンを商業ベースに乗せる。その後、アイザック・シンガーがミシン業界を席巻した。工程の分業化が進み、デパートで注文服を受け付けるようになる。
しかし、一番重要な点は「中産階級」が生まれたことだ。チャールズ・フレデリック・ワース(シャルル・フレデリック・ウォルトと書いている文献もあるが同じ人だ)が、予めデザインを作り、それを売り込むことを始めた。これを「オート・クチュール」と呼ぶ。

1851年、第一回ロンドン万博が開かれた年だ。最初は中産階級向けに商売をしていたのだが、メッテルニッヒ公爵夫人に服を売り込んだ。これがパリ中で評判を呼び、ついには海外からの観光客を呼び寄せるまでになった。(ちなみに、トーマス・クックにより鉄道による団体旅行が行われるようになったのは1839年から1841年頃だった。)

ファッションデザインアーカイブによると、1868年にフランス・クチュール組合(サンディカ)が作られ、1911年にパリのファッションショーが開始される。プレタポルテが出てくるのはこれよりずっとあと、第二次世界大戦後だそうである。

産業革命の後「消費に回す金がある中産階級の人たち」がデパートへ買い物に行くようになった。彼らは「労働とは別に消費をする場所と時間」を持っていた。もともとこうした時間や空間を持てたのは土地を持っている貴族だけだったのだが、経済が成長し、層が厚みをましたのだと考えられる。『共産党宣言』が刊行されたのが1848年だそうだ。プロレタリアート(無産階級)という言葉が発明された時点で、彼らは資本家であり、ブルジョワだという概念ができた。

この頃の市民はまだ宗教に影響を受けた生活をしていたはずだ。神様が死んだり(ニーチェ)、無意識という言葉が発明されたり(フロイト)するのはまだ後のことだ。なぜ消費の担い手が貴族から中産階級に広がると消費が始まるのかという疑問は残る。身分制度が揺らぐと支出によって身分を証明したり、価値を共有する必要が出て来たということなのではないかと思う。消費の現場にいなければ、流行に関する情報を得る事はできなかっただろう。

ワースがオートクチュールを始めるまでは、消費者が「生地を買い」「装飾品を選び」「仕立て屋に行き」「お針子に仕立てさせる」という作業を行っていたのだ。つまりコミュニティに流行があり、その流行に沿ったものを消費者が選んでいたということだ。男性服からは顕著なファッション性は消えていたが、女性服の流行はめまぐるしく変化しつづけていた。

現代では、出来合いの服を選択し、それをどう組み合わせるかで「モテるかどうか」が決まる。つまり、ファッションで自分が所属したいコミュニティに所属できるかどうかが決まる。さらに、コミュニティがどのような「モテ」を選択するかには明確な決まりはない。「自分にあった服を着ればいいんじゃないですか」などといいながらも漠然としたラインは存在する。コミュニティの移動も可能といえば可能だ。

消費者が出て来たばかりの時代には、それなりのコミュニティがあり規範が決まっていた。どのような服を着るのかということはメンバーに知られていて、それに従って職人が服を作る。消費階級がふくらみ、上流階級のコードを伝達するうちに「モード」が生まれ、やがて、発信源が仕立て屋からデザイナーに取って代わられるようになった。

こうした流れはやがて、人々に「自分は何者か」という問いを突きつけるようになる。まず科学が発展し、自分たちが聖書をベースにして作り上げて来た世界観が「実は正確でない」ことに気がつき始める。国際分業と植民地獲得競争が激化するにつれて「国民」という概念が組み上げられるようになる。このブログで何回か取り上げた、1930年代のドイツやオーストラリアの人たちのように「ドイツ性」や「ドイツ語圏を生きるユダヤ人性」というやっかいな問題もうまれた。やがて、ウィーンに上京して来た画家志望の青年が、都市のコミュニティから排除されたのち「崇高なアーリア性」を崇拝するような時代がやってくるのである。ヒトラーがウィーンで美術学校に受け入れられていたら、現在のヨーロッパは今とは違った形になっていたかもしれない。

現在の銀座はコミュニティの要件を欠いている。何の情報もなしに銀座に行っても、誰もその人を仲間に加えてはくれない。自分の活動は自分で定義する必要がある。ヒトラーほど極端な人が出てくるかは分からないが、阻害された後に多いに立腹する人も出てくるだろう。

消費が宗教的な祝祭空間にならないのは、消費するだけでは何かに所属している気分が味わえないからだ。逆に消費が所属欲求を満たす仕組みさえ作れば、消費は祝祭になり得る。

ファッションに見る、消費者の誕生

買い物は祝祭化しており、場合によってはかつて宗教が果たしていた機能を代替している。この主張を「ああ、そうだな」とか「何かの哲学書で読んだなあ」と感じる方もいらっしゃるだろう。また、そんな馬鹿なことがあるはずはない、と思う人もいるのではないかと思う。ある人は宗教はそんなに軽薄なものではないと思うだろうし、ある人は宗教のように訳のわからないものではないと感じるだろう。

これはおもしろい問題だと思う。なぜなら、本来、消費は儀礼行動ではないので、儀礼空間が持っている機能をすべて満足させることができないからだ。では、いったい何が欠けているのだろうか。
かつて宗教と買い物の間にははっきりした垣根があったはずだ。ファッションの歴史(下巻)を参考に見て行きたい。ファッションの近代化は1815年頃から始まった。背景にはアメリカが綿の生産地になったこと、テキスタイルの機械化が進んだことがある。1829年にバルセルミー・ティモニエがミシンを商業ベースに乗せる。その後、アイザック・シンガーがミシン業界を席巻した。工程の分業化が進み、デパートで注文服を受け付けるようになる。

しかし、一番重要な点は「中産階級」が生まれたことだ。チャールズ・フレデリック・ワース(シャルル・フレデリック・ウォルトと書いている文献もあるが同じ人だ)が、予めデザインを作り、それを売り込むことを始めた。これを「オート・クチュール」と呼ぶ。1851年、第一回ロンドン万博が開かれた年だ。最初は中産階級向けに商売をしていたのだが、メッテルニッヒ公爵夫人に服を売り込んだ。これがパリ中で評判を呼び、ついには海外からの観光客を呼び寄せるまでになった。(ちなみに、トーマス・クックにより鉄道による団体旅行が行われるようになったのは1839年から1841年頃だった。)

ファッションデザインアーカイブによると、1868年にフランス・クチュール組合(サンディカ)が作られ、1911年にパリのファッションショーが開始される。プレタポルテが出てくるのはこれよりずっとあと、第二次世界大戦後だそうである。つまり、19世紀の後半にはファッションショーはなかった。

デパートが生まれ、服が産業として成立したのは、産業革命の後「消費に回す金がある中産階級の人たち」が生まれたからだ。彼らは「労働とは別に消費をする場所と時間」を持っていた。もともとこうした時間や空間を持てたのは土地を持っている貴族だけだったのだが、経済が成長し、層が厚みをましたのだと考えられる。『共産党宣言』が刊行されたのが1848年だそうだ。プロレタリアート(無産階級)という言葉が発明された時点で、彼らは資本家であり、ブルジョワだという概念が発明されたことになる。「資本主義」という言葉が成立したのもこのあたりではないかと思う。

この頃の市民はまだ宗教に影響を受けた生活をしていたはずだ。神様が死んだり(ニーチェ)、無意識という言葉が発明されたり(フロイト)するのはまだ後のことだ。なぜ消費の担い手が貴族から中産階級に広がると消費が始まるのかという疑問は残る。身分が自明でなくなった分、支出によって身分を証明したり、価値観を共有する必要が出て来たということなのではないかと思う。消費の現場にいなければ、流行に関する情報を得る事はできなかっただろう。

ワースがオートクチュールを始めるまで、ファッションデザインといってもそれほど突飛なものはなかった。消費者が「生地を買い」「装飾品を選び」「仕立て屋に行き」「お針子に仕立てさせる」という作業を行っていたのだ。つまりコミュニティに流行があり、その流行に沿ったものを消費者が選んでいたということだ。男性服からは顕著なファッション性は消えていたが、女性服の流行はめまぐるしく変化しつづけていた。

今とは情報の伝達の仕方が逆になっている。現代では、出来合いの服を選択し、それをどう組み合わせるかで「モテるかどうか」が決まる。つまり、自分が所属したいコミュニティに所属できるかどうかが決まる。さらに、コミュニティがどのような「モテ」を選択するかには明確な決まりはない。「自分にあった服を着ればいいんじゃないですか」などといいながらも漠然としたラインは存在する。コミュニティの移動も可能といえば可能だ。高校時代オタクだった子が、東京に出てくるのをきっかけにPopeyeや「脱オタクファッションガイド」を片手に服を探すということがあり得る。

しかし、消費者が出て来た時代には、それなりのコミュニティがあり、規範が決まっている。どのような服を着るのかということはメンバーに知られていて、それに従って職人が服を作る。消費階級がふくらみ、上流階級のコードを伝達するうちに「モード」が生まれ、やがて、発信源が「デザイナー」に取って代わられるようになった。

こうした流れはやがて、人々に「自分は何者か」という問いを突きつけるようになる。まず科学が発展し、自分たちが聖書をベースにして作り上げて来た世界観が「実は正確でない」ことに気がつき始める。国際分業と植民地獲得競争が激化するにつれて「国民」という概念が組み上げられるようになる。930年代のドイツやオーストラリアの人たちのように「ドイツ性」や「ドイツ語圏を生きるユダヤ人性」というやっかいな問題もうまれた。やがて、ウィーンに上京して来た画家志望の青年が、都市のコミュニティから排除されたのち「崇高なアーリア性」を崇拝するような時代がやってくるのである。ヒトラーがウィーンで美術学校に受け入れられていたら、現在のヨーロッパは今とは違った形になっていたかもしれない。

 

アルマーニの起源

アルマーニについて見てみよう。今ではバブルの代名詞として知られている。アルマーニだが、成功したのは新しい市場の開拓に成功したからなのだ。信じられないかもしれないが、その成功はどこかユニクロの成功に似ていて、違っているところもある。テキストとして使ったのはジョルジオ アルマーニ 帝王の美学だ。

ジョルジョ・アルマーニは、1975年に自身の会社を興す前に、デパートで働いていた。かつて西武パルコがそうだったように、ミラノの街が外国からの文化を受容する窓口になっていたようだ。同じ時期1967年にファッション雑誌『ウォモ・ボーグ』が誕生した。全てに前例がないので自分たちで作り上げる余地が多分にあったのだという。

アルマーニはその後、セルッティの元で働くようになり、ファッションの基礎を学んだ。そして1975年にゲイのパートナーでもあったガレオッティ(後に40歳の若さでエイズで亡くなる)に促され自身のブランドを立ち上げた。アルマーニ自身は意外な事に針の持ち方を知らないそうだ。つまり彼はテイラー出身ではなかった。リテイラー出身なので「街で何が流行っているか」ということを形にするのが彼の役割なのだ。イタリアにはこうした職業は存在しなかった。後にこういう人たちは「デザイナー」と呼ばれることになる。

アルマーニの特徴は、スーツから彼が余分だと考えるものを除いてゆく「脱構築的」な考え方と曲線を多用したパターンだ。これが体の線を活かした独特なラインを生む。しかし、保守的な人たちの間では1970年代にはオイルショックによる不況もあり、こうした新しいラインは受け入れられなかった。アルマーニを着ていたのは主に俳優やアーティストといった人たちだ。

彼の服はアメリカに渡った。高級デパートで扱われるようになり、1970年代の終わりまでには俳優達が着るようになった。そして1980年のアメリカン・ジゴロでリチャード・ギアが着たことで世界的に知られるようになった。この図式は面白い。アルマーニはしつらえの高級服に手がとどかなった人たち向けに作られている。セレブしか入る事ができないパーティーや映画を通じて「高級感」をアピールしつつも、一般の人たち向けに作られた服なのだ。この「憧れ」がアルマーニの人気の秘密になっている。「憧れ」が続く間、このブランドの人気は保たれるだろう。裏返せば、憧れが消えたとき、ブランドの寿命も終わってしまうことになる。憧れを作っているのは「情報の格差」である。なので、彼らは情報をコントロールしようとする。

アルマーニは確かに高級品なのだが、既製品であることには変わりはない。ハンドメイドの工業製品なのだ。ピエール・カルダンらがこうしたジャンル – プレタポルテ – を作るまでは、服には一般庶民向けの服か、テイラーが作る高級服しかなかった。つまり、プレタポルテの位置づけは新しい「ニッチ」だったわけである。そしてこういったニッチに飛びついたのは、アーティスト、俳優といった人たちであり、この人たちが後にトレンドセッターとなることで、普通の人たちまでがプレタポルテの服を着るようになった。アルマーニは自分の服は飾るための高級品ではなく、シゴトをする人が着るための服だと言っている。(これについては実際に、お店の人にいろいろ聞いてみよう。本当にアルマーニはシゴト服として使えるだろうか?)

新しいニッチの創出が成功に結びついたのは、ユニクロも同じだ。ユニクロの服はパターン化された工業製品だ。かつて、ファッション業界にはこういった考え方はなかった。全ての製品が多様化・個性化に向かう中で、ユニクロだけが部品化・機能化を指向したのだろう。色も形も単純で比較がしやすい。そして「暖かい繊維」といった売り方は電化製品のそれに近い。デザインが多様化してくるとこんどは逆に「何を選ぶのが正解なのか」が分からなくなる。つまりこちらは、情報が多様化し、どこまでも伝わるようになった時代にあったポジションを獲得しているのだ。スペックはニュアンスよりも伝わりやすいのだ。

ファッション雑誌は(雑誌については別の独立したエントリーをつくろうと思っているのだが)新しいデザインを売るためにそれぞれのメッセージを発信する。すると全体としては混乱したメッセージがつくられ、訳が分からなくなってしまう。ユニクロが解決しているのは「一般庶民にも分かりやすいおしゃれさ」だ。ここに、みんなユニクロを着ているという第三者のメッセージや家族の情報が加わることで、ユニクロが正解なのだと思わせるような空気が生まれたのだと思われる。
ユニクロを見ていて面白いなと思うのはこうしたニッチが意図して作られた訳ではないという点だ。多分正しく認知もされていないし、柳井さん自身もこういう認識はしていないのではないかと思われる。その証拠にユニクロはジル・サンダーと組んだ服を作ったり、アーティストと組んだTシャツなどを発表したりすることがある。マーケティングとしては面白そうだ。

さて、ユニクロは最初から工場から流通・マーケティングまでを一環してカバーしているが、アルマーニはそのようなやり方を取らなかった。最初はGFTという会社を通じて流通を行なう。SIMのような会社と提携して品物をつくってもらっていた。そしてライセンスという比較的新しいやり方を通じて、各地のデパートに品物を卸していた。成長するに従って、アルマーニはいくつかの拡張戦略を取る。一つはこうした流通や製造の過程を自前化することだ。ジーンズやカジュアルラインを作っているSIM(現在はSIMINT社)は、1989年に20%の株式をアルマーニ社に取得され、1994年までには90%以上の株式がアルマーニに保有されている。日本にアルマーニを持ち込んだのは伊藤忠商事だった。主にデパートで売られていたのだが、直営のショップが出来始め2000年代に入ると銀座にアルマーニタワーが作られた。

もう一つの成長戦略がラインの拡張だ。イタリア軍人に服を着てアマチュアモデルになって貰ったことから軍服などにインスパイアされエンポリオ・アルマーニが作られる。ビジネスマン向けにコレッツィオーネが出来る。そして若年向けにアルマーニ・ジーンズや、A|Xといったブランドが立ち上げられた。最後には、ホテル、スパ、家具などと多角化路線を突き進んでいる。

ユニクロが柳井正さんの強烈なリーダーシップによって支えられているように、アルマーニも、パートナーの死後はジョルジョ一人が支えている。評伝には彼の「病的」ともいえるコントロールについての記述がある。ファッションショーに使われる素材はすべて本社から送られ、全ての最終判断はジョルジョが行なう。コンセプトはジョルジョの頭の中にしかないのだ。部下を叱責する姿は、例えばアップル社のスティーブ・ジョブズを思わせる。部下は完全に「手足」となることが期待されるのだ。つまりこれは同時に彼らが死んだ後、ブランドの行く末に問題を抱えているということになる。

さて、情報という観点からまとめてみよう。アルマーニのようなデザイナーズブランドは、選ばれた人たちの物でしかなかった情報を小出しに一般に流出させることで裁定取引(アービトラージ)の機会を作り出していた。しかしユニクロはアービトラージがなく、かつ情報の取捨選択が難しい状況で選ばれやすい服を市場に提供している。背景には情報価値の暴落(情報のデフレ)がある。だからユニクロを模倣したい企業は、その安さを分析するのではなく、企業がどのような情報環境でどんな情報を提供しているのかを分析すべきだろう。