日本とアメリカのヒーローは何が違うのか

QUORAに「アメリカのヒーローは最初から力を持っているのに、日本のヒーローは普通の人が道具によって強化されるのはなぜか」という疑問があった。これは日本の村落性を考える上で面白い質問だなと思った。QUORAには途中まで書いたのだが、こちらでは少しそのあとを補強したい。なおQUORA版には「日本人の匿名性について知りたい」というので追加したのだが、まじめに分析しだすと膨大な資料をもとに網羅的な研究が必要になりそうだ。


アメリカのヒーローが能力を持っているというのは正しいと思うのだが、日本の場合は少し見方が違うように思える。

日本では「いっけん普通の人」がヒーローになるというのは合意できるのだが、実は普通の人たちではない。例えば仮面ライダーは「ただ装具をつけたから変身できる」というわけではなく、仮面ライダーになれる人(適合者)とそうでない人がいる。例えば、初代のガンダムも適合者が能力を開発する話だった。また、戦隊もの前作のキュウレンジャーもキュウタマに選ばれなければならない。実は日本型のヒーローには「潜在的な能力があるが顕現していない」という特性がある。

こうした特性は少年ジャンプなどにも見られる人気の類型で、ジャンプはこれを「成長」と呼んでいる。ジャンプは戦いと成長の話がメインで「能力を持っているがそれが発揮できていない」という物語が人気なのだ。こうした埋もれた個人が社会的接触によって磨かれて最終的に勝利するという類型が多いのだといえる。

アメリカにも「成長」はあるが日本ほど類型的なわけではない。

例えば、スーパーマンは異星人の能力が必ずしも社会に受け入れられないというラインがある。これを受け入れさせるためには責任を引き受けなければならない。最初に能力がありこれを社会的に折り合いをつけて行くというコースは日本とは真逆である。これは移民国家というアメリカなりの建国の歴史が元型になっているのかもしれない。

バットマンにはそもそも能力がなく、表向きの「成功したビジネスマン」という像と裏の「悪を成敗したい」という欲求が分離している。ブルース・ウェインはこの異なる目標を折り合わせる必要がある。どちらかといえば内面的な統合がテーマになっている。

これが極端に表現されたのがスターウォーズだ。旧六部作は個人の成長物語に見えるが、実際には「良いものと悪いもの」という分離をどう統合させるかという話である。ユングの理論が元になっているとも言われる。

これらの物語の共通点は分離と統合だ。失われた「完全で統合された状態」があり、そこに回帰してゆくという物語は日本ではあまり見られない。しかし、これらの物語は日本でも人気があるのである程度の汎用性があるものと思われる。

日本の場合にはまず所与の村落がありそこに差別化されていない人たちがいる。この差別化されていない「普通の」個人が社会的な接触を経て能力を開発し、最終的に環境と社会を超克するというように話が展開する。これが戦いを通じた「勝利」という形で表現される。

一方、アメリカはいろいろな個性があり最初から社会から差別化されている。しかし社会的同化欲求があり、最終的には社会に自分なりの形での統合を目指す。この同化欲求が「失われてはいるがあるべき形」という形で認識されるのだろうと思う。スターウォーズの元になったとされるユングはドイツの心理学者なので、キリスト教の文化には統合欲求という日本とは逆の感覚があるのかもしれない。

ここから、日本とアメリカにはコミュニティ対する感覚の違いがあるのではないかと思う。日本は環境は所与のものだと考えており、そこからどう抜け出すかとうことが「成長」と見なされる。しかし、そのコミュニティは明確な形を持っているので、成長をしたからといってもともとのコミュニテイが失われるという不安はない。しかし、西洋は個人が最初から環境から分離しており、その不安とどう折り合ってゆくかということが重要なテーマとして語られるということになる。


この後、リクエストを受けて書いた話には「匿名性」という言葉が出てくる。実は最近の日本のヒーローものからは抜け落ちている観点だということが分かる。だが、経緯を研究しだすと話が複雑になるので分析するには手に余る。

この話をブログに転載しようと考えたのは、これがネトウヨ分析に使えそうだからだ。いわゆる左派リベラルは古びた日本からの脱却を目指すという意味では成長神話を生きている。これは裏返せば土台になっている日本という環境を知っていてなおかつそれが崩れないものだという確信があるということになる。

ところがネトウヨと言われる人たちにはこの確信がない。つまり日本が崩れそうだとい危機感があるということだ。だからこそ元いた場所に回帰しようとするのだが、その元いた場所を正確に記述できない。彼らが語る古き良き日本とは、日本書紀などの記述をもとに国家が国民を戦争に動員するためにでっち上げた神話か、恵方巻き程度の歴史しかないマーケティングによって作られた伝統である。

西洋人は成長のゴールを「まだ見たことはないが、かつてあったと知っていた統合された状態だ」と置いているのだが、ネトウヨの人たちはそれが何者かによって壊されたと感じている。正確に記述できないのに壊されたと感じているので、実はネトウヨの人たちは理想の形を作り上げることができない。だから「外国や反日分子が邪魔をしている」と騒ぎだすのだということになる。

だが、こうしたマインドセットを持っている人は増えているようだ。日本が分離型の成長を追い求めてきた結果、多くの人が戻るべき場所を見失い不安になっているということなのかもしれない。これはこれまで見てきた村落の崩壊とは少し様子が違っている。

例えば相撲協会は他の興行やスポーツと競争する過程で、出自に対する自己認識を変えてきたという歴史があった。もともとは神事を真似た興行だったのだが、公益性のある伝統行事だと言い続けていたために、それを信じ込む人が出てきたということになる。中には伝統的な神道ではなく新興宗教に傾倒する人もいるようだ。いずれにせよこれは経年劣化であると分析できる。道のりは苦しいかもしれないが、単なる経年劣化なのだから、現状に合わせて変わるか先祖帰りするかという二者択一ができる。

だがネトウヨの場合は、元の場所が何であったのかが分からなくなっているのだから、変わることもできなければ、元いた場所に戻ることもできない。その意味ではより深刻な状態にあると言える。日本はもともとアジアのどこにでもある優れた点もあれば劣った点もあった社会だったに違いない。だが、ネトウヨにとってそれは受け入れがたい自己認識なのではないだろうか。

その意味ではネトウヨの総本山である安倍首相は歴史を改竄したり資料を隠したりするという野蛮な行いに手を染めるべきではなかった。元いた場所が分からないから頭の中で仮説をでっち上げているのだろうが現実と合致しない。だから、現実の方をあわせようとしているということになる。しかし、そんなことを繰り返していても状況は悪くなるばかりだ。外から誰かが破綻させない限り政府はますますコントロールを失い漂流することになるだろう。

 

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