なぜ日本の政治議論は賽の河原に石を積むような感じになるのか

Twitterで、警視庁が東京都の条例を変更しようとしているという話が流れてきた。一読すると男女関係に絡むストーカーなどに関するように思える。これが政治や結社の自由に結びつくわけではなさそうなのだが反対する人が多い。背景に見えるのは反政府的な人たちの被害者(危機)意識だ。なぜか、政府や権力者は言論弾圧を行いたがっているという確信があるようだ。

確かに安倍政権にはマスコミに介入してきた歴史があるのだが、これも一部のネトウヨ議員たちが官邸の歓心を買いたくてやっている可能性を否定できない。何にせよ集団心理でなんとなく動く国なので、あとから意図や中心人物を特定するのが難しい。「悪の安倍首相が手下に指示を与えている」ようにも見えるし「みんなが勝手にやっている」ようにも見えてしまう。これが漠然とした不安を生み、強硬な反対運動にもつながっているようだ。

日本の政治を語る上で欠かせないのが、この集団の振る舞いだ。ある種無責任で核を持たないのだが、かといって全く実体がないとも言えない。

デモはこの実体のないものに対して行われている。だから、デモがどの程度、政権や政策に影響及ぼすのかがよくわからなくなってしまうのだ。これまでの経験から見ているとデモが政治に影響を与えたことはないようにしか思えない。

効果がないばかりか、デモが逆効果に働くことが多い。一部の特殊な人が何かやっているという印象を与える上に、何かまずいことがあったら彼らが止めてくれるだろうという安心感も生まれてしまう。すると、一般の人たちはますます政治に関心を持たなくなる。

例えば実名の質問サイトであるQUORAで明らかに反政権的なことを書くとあまり高評価が得られない。もともと政治についてはあまり意見を持ってはいけないというような規範意識が働いているようにも見えるのだが、偏りを検知して濾過してしまうのかもしれない。

この社会的機能は英語圏とは違って見える。英語圏には「ポリティカルコレクトネス」という規範体系がある。過去の反省から蓄積された正解があり、その正解に反するようなことをいうと一斉に批難されるのだ。その意味では一種の偏りが社会に組み込まれているといって良いかもしれない。社会には記憶装置が付いていて、そこにいろいろな人が知恵を付け足してゆく社会と言える。つまり社会は媒体なのだ。

しかし日本人は少なくとも名前を出している場所では「個人としてどちらかに味方するようなことは言ってはいけない」という規範があるのかもしれないと思う。この偏ってはいけないという規範意識はどこから生まれるのか、そしてどうやって習得されるのか、考えてみてもよくわからない。

いずれにせよ、日本人は集団では別の振る舞いを見せる。何かに所属している場合は「個人としての意見は言ってはいけない」ということになっている。個人として誰かの悪口を言うということは、何かの組織に所属しているということを半自動的に意味する。個人は意見を持たないという前提があるからだ。だからこそ「偏った」意見は個人ではなく集団の意図が働いていると半自動的に認識されるのだろう。だから、表向きは個人であってもそこに集団の影を見てしまうのだ。

これは言い換えれば、個人の集団は村によって決まるので個人は色を持ってはいけないということになる。だから、個人が個人の資格で参加する社会には色があってはいけないのである。

このため、SNSで特定の政治家について公平でないコメントを繰り返していると、時系列的に分析されて「この人はこの政治家とは違う勢力に属しているか雇われているのだろう」という類推が働く。そうした意見は全て「立場が言わせていることだから」という理由で考慮リストから外される。警察が取り締まるまでもなくこうした意見は政治的にはあらかじめ排除されてしまうのだ。

では、権力者は何に支配されているのだろうか。実はここにも集団が出てくる。それが支持率である。

もともと安倍政権が語っていたストーリーとは違う「物証」がでてきたことで「風向きが変わり」支持率が下がったことが自民党を動揺させている。支持率は匿名なので「だからこそ真実が映し出される」と考えられているということになる。デモと支持率の違いは「顔がでた集団かどうか」なのだ。

面白いことに、個人としての名前が出ていないことで「公平なのだ」という受け止めがされる。その結果「みんながダメだと言っているのだからもうダメなのだろう」ということになり、自民党の中からも「安倍政権はもう長くないかもしれない」という動きが起こりつつあるということになる。

面白いのはデモが全く政治に影響を与えていないのに、匿名の一部がなんとなく動くと、それにつれて一斉に「これは安倍官邸がやっていたことで自民党は関係がない」などと「自民党のみんな」がざわつき始めるということだ。実際には全ての支持者が反安倍に傾いたわけでもない。

このように社会は風に流されて何も記憶しない。英語圏の社会は媒体だったのだが、日本の社会は気体であり記憶を定着させることはできない。デモの主体であれば説得したり懐柔したりすることもできるのだが、世論調査で流される人たちは説得ができない。世論は、良いと思えば持ち上げるし、単に嫌になれば離れてしまうのだ。

安倍政権はその意味では空気に支えられた政権だった。今回森友学園問題で弁護士役を買って出た人たちは安倍チルドレンと呼ばれる利益集団を持たないネトウヨ議員たちだ。麻生財務大臣も菅官房長官もあれだけ安倍政権を支えていたのに、今では「いつ離れるか」ということがマスコミの最大の話題になっている。

利益集団が安倍政権を支持していたのは「なんとなく世論調査で支持されている」からにすぎなかったということだ。だから、憲法を変えたいというオーダーがあれば、あまりやる気はないのに、なんとなく議論を行う。国の根幹をなす憲法議論は利益集団とは関係がないのだから「お付き合い」にすぎない。

しかし、いったん「みんな離れ始めているなあ」という観測が出ると、総裁選を前倒しして安倍政権を切り離してしまったほうが得なのではないかと思い始める。その時点で「実は嫌いだったんだよね」などと言い出す人がでてくる。結局、個人として確固とした意見はなくみんなに流されていただけということになる。

最初にみたように英語圏の事例では社会という集団があり、ある程度明確な行動規範があった。政治議論というのはそこに記憶を定着させてゆく作業なのである程度の手応えがある。一方、日本の政治議論は空気に向けて字を書いているようなところがある。風向きが変われば全てが消えて最初からやり直しになる。

では記憶さえできれば良いのかという疑問もわく。デモには様々な記憶が蓄えられてゆく。逆に蓄えられた記憶が現実によって書き換えられることはないので、いつの間にか「あの人たちは特殊な人たちなのだ」ということになってしまうのだろう。一方で、ネトウヨと呼ばれる人たちもいろいろな陰謀論や記憶を蓄えていて独自世界が構築されている。その意味では、日本の政治議論というのはムラに記憶を蓄えてゆく作業にすぎないということになってしまう。

これで本当に良いのかというのが今回の最後の疑問になる。

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