分かり合えないこと

先日、立て続けに「分かり合えない」という体験をした。この分かり合えなさに共通点はあるのか、ただ単にバカな人と話をしたのかということを考えるためにこの文章を書きた。

最初の分かり合えない体験はTwitter上のものだった。公図があてにならないが区役所の人が実情を見に来てくれないということを書いている人がいた。オフィシャルマークがついているので多分有名な人なのだろう。この人は「役人はあてにならない」ということを言いたかったのだと思う。引用ツイートを捕捉されてコメントを返したのだが、あとから考えると彼にとっては見当違いの内容だったに違いない。

彼がいいたいのは公図も役所の職員も当てにならないという「誰も知らない真実がある」ということだったのだろうが。実はすでに同じような体験をしており元の図面もそこから展開された図面も当てにならないということを知っていた。ただ、それは「意外と知られていない」という思い込みの前では無力である。

公図が当てにならないということは、それを引用して作ったドキュメントはすべて当てにならないということだ。これを修正するためには地権者が立ち会って計測をしなおさなければならない。役所はこのことを知っているので「機会があった時に」地権者に許可を与えないことでこれを修正させようとすることがある。許認可権限を盾に取られた申請者や業者は行政のいいなりにならざるをえない。しかし図面を直すのはかなり大変な作業でコストもかかる。地権者全員の立ち合いが必要なのである。つまり、役所はそれを民間に押し付けて自分たちの管理すべき財産目録を修正させているのである。

逆に言うと公図をきちんと修正しようとするとそれが前例となってしまうので、役所の人が動かないことがあるということになる。加えて人件費削減から担当者が補充されないことがあり実務も回らなくなっている。つまり、役所を非難して問題が解決するというものでもないのである。

だがこれをTwitterで伝えるのはほぼ不可能なので「わかります」と言っておけば無難に終わったのかもしれない。中途半端にコメントしてしまったために「わからない」という印象だけが残ったものと思われる。

これを分析すると「個別事例に着目しているのか、それともその上位の事情に着目しているのか」というフレームの違いがあり、さらに経験や知識が違っていると「わからない」という感覚が得られることになる。さらに相手が「役人は怠惰だがそれが意外と知られていない」という思い込みを持っているとその分かり合えないという印象が強化される。Twitterはこうした文脈の違いを乗り越えることが難しい。

この事例だけをみるとあたかもTwitterが不完全なツールのような気がするのだが、実際には同じようなことはいろいろなところで起きている。次の体験がそれである。

マクドナルドで200円のハンバーガを買おうとしてメニュー写真を指差した。すると店員はセットですかと言ってくる。アップセルといって「たくさん買わせるように」という指示を受けているのであろう。そこで意地悪く「セットもあるのですか」と聞いてみた。すると「セットでよろしいのですね」と重ねてきた。頭の中が「セットを売らなければならない」し「早く列を捌かなければならない」ということでいっぱいになっている。これはTwitterの向こう側の人が「伝えたいことがあらかじめ決まっていてそれを効率よく広めなければならない」と考えているのに似ている。つまりみんな忙しすぎるのである。

最近の若い人にはある特徴がある。雇用環境が厳しい上に受動的な詰め込み教育を受けているのでマニュアルや指示を優先しようとする。だがお客はマニュアル通りに動いてくれないので、マニュアル通りのオペレーションを押し付けようとするのだ。

日本の「効率的」とは例外をなかったことにするという意味である。つまり「私が効率的にお仕事をして有能さを保つためにはお客は面倒なことを言ってはいけない」と考えているのだろう。これはマクドナルドだけではなくアルバイトの多い店などではよく見られる光景だ。思い返してみれば昔は教育実習生が同じようなことをやっていた。あらかじめ作ったプランの通りに生徒が答えないとイライラする先生がいた。最近ではこうした態度が学校全体に広がっており、社会全体に蔓延しているのかもしれない。

よく日本は同調圧力社会だと言われる。普通の状態であれば、みな決まった結論に従うことができるので、例外処理を嫌うのである。例外が発生すると誰かが態度変容を迫られたり例外対応しなければならなくなるのでそれを嫌がるのだ。よく「上から同調圧力がかかる」などという人がいるが、本来的にはピアプレッシャーからくる圧力だろう。ただし女性のように「従うべき存在」というジェンダー圧力にさらされている人は、社会から押し付けられた同調圧力には敏感だが自分が同調圧力をかけているとは思っていないのではないかと思う。同調圧力はそれほど日本人にとって自然で染み付いた考え方なのではないだろうか。

さらにポイントカードと電子マネーを使おうとしたところオペレーションを間違え「時間がかかるが本当に修正してもよいのか」と聞いてきた。明らかに腹を立てているうえに、面倒なことはなかったことにしたいのだろう。結局彼女は修正処理ができず、その上のマネージャーの制服を着た人も修正ができなかった。最後にさらに上の人が出てきて修正をした。彼にとってはそれほど難しくない作業のようだった。

ここでも例外は無視される傾向にある。これはTwitterでもよく見られる。普通でないものを面倒だと切り捨てる人と、それは人権無視だといって怒っている人たちの対立が見られる。効率を追求すると例外は「面倒な厄介ごと」になってしまう。さらに「自分は有能に見られなければならない」という信仰が蔓延しているので、知らないことがあると「そんなことはできない」といってごまかそうとする。あやふやな半径5メートルくらいの知識で「普通」を押し付けてくる人は多い。

最近マクドナルドでは電子マネーやクレジットカードを矢継ぎ早に導入しているのだが現場はついてきていないのだろう。マニュアルは配られていてマネージャー以上は読むようになっているそうなのだが、すでに読むのを諦めているマネージャーがいることになる。しかし、スキル神話・有能神話があるために「できません」とか「わかりません」とは言わない。すると本部は「できているのだろう」と考えて、より複雑なオペーレーションを押し付けてくる。こうした悪循環を断ち切るためにはこまめにクレームを入れた方が良いと思う。

この二つの体験には共通点が多い。忙しすぎる上に自分のフレームを押し付けたい人が「分かり合えない」という感覚を持つのだろう。例えば安倍政権は嘘をついているのに「普通の人たちはバカだからそれに気がつかない」と思っている人たちがいる。彼らが暗黙のうちに前提にしているのは「気が付きさえすれば自分の思い通りになる」という楽観的な予測なのだが、実際の有権者はもっと賢くて「知っているが別の理由で野党を支持していない」のかもしれないし、実は「嘘をついているからこそ安倍政権を支持している」のかもしれない。

さて、そのあと寄ったスーパーでも分かり合えない体験をしたのだが、これは少し違った体験だった。おばあさんがこちらを見て「このATMはどうせ手数料がかかるんでしょ」と話しかけてきたのだ。高齢者が話しかけてきた場合どうすればいいのか迷う。場合によっては思考が言葉になってでてきているだけかもしれないからだ。

実際の答えは少し複雑である。イオン系なのでみずほ銀行のキャッシュカードだと手数料がかからないのだがその日は日曜日だったので休日の手数料がかかるのである。つまり、おばあさんの思い込みは間違っているのだが、条件もついている。

そこで、ステッカーを見せてその通りに言ってみたが、やはり無駄だった。

このおばあさんがそもそもATMを使いたかったのか、何にでも手数料を取りたがる銀行に文句を言いたかっただけなのかよくわからない。そこに2分岐情報(if文が二つある)を与えたので、明らかに混乱していた。人はわからなくなると結論だけを記憶する。この場合、最終の答えである108円という数字はわかったようだ。「180円も手数料がかかるの」と言ったあとに、あなたみたいなお金持ちはいいかもしれないわねというようなことを言われた。

180円の理由はわかるのだが「あなたみたいなお金持ちはいいわね」は理由がわからない。これは少し分析が必要だろう。

日本は閉鎖的な村空間に住んでいるので、あらかじめ「何をすべきか」ということが決まっていることが多い。この場合は「銀行外ATMは手数料がかかるので近寄るな」というのが規範である。だが、その前提が間違っているが、それでも結論は変えたくないというバイアスがかかる。すると「新しい言い訳」が必要になるのだ。

ATMに手数料がかかるから使わないつもりでいたのに「いやかからない」ということになると「では使えということなのか」となりかねない。でも使いたくないのだからその言い訳を考えなければならないと思ったのだろう。明らかに慌てており「いやお金持ちではないかもしれないけど」と言っていた。

こういう場合は「私はお金持ちではない」ではなく「108円は高いですよね。なんでも手数料がかかって嫌ですね」というのが正解だろう。新しい情報は伝わらないが、相手に態度変容を求めない優しい答えだ。

あまり安易に日本人はとは言いたくないのだが、これらの3つの事例には日本人的な共通点がある。

日本人には二つの基本的な性質がある。一つは「社会でこうと決まっていることには従わなければならない」というものであり、もう一つは「その通念に基づいて決まった結論は変えたくない」というものだ。あらかじめルールと結論が決まっているのだから、そもそも論理的に情報を伝える必要がない社会なのである。

マクドナルドの場合は「会社が決めているルールがあるのだから、お客は黙ってそれに従っていればよい」のだし、銀行外ATMは「手数料がかかるから近づいてはいけない」ことになる。最初の人だけが違っていて「役所の図面は信頼できるはずだが実はデタラメである」という「驚くべき事実」が伝わっていないと考えているのだろう。Twitterでの叫びを聞いているとこの社会通念と自分の行動がずれていることに悩んでいる人が多いことに気がつくだろう。

態度変容には知的な負荷がかかる。新しいルールを覚えなければならないからである。同じような知的負荷はバイリンガルな脳でも起きているそうである。これは訓練して乗り越えることができるが、モノリンガルな人はそもそもこれを嫌がるので「日本語で思っていることが英訳できない」ことに苛立ち「いつまでも英語ができない」と悩む。いずれにせよ、態度を変えなければ背景情報の理解が曖昧でも結論だけを覚えておけば良い。日本の社会はこうして効率化を図っているのだが、その副作用としていったん染み付いた思い込みや行動様式を手放しにくくなっているのかもしれない。

例えれば、相手に情報を伝える時に「幾つかツールがある」ということを知っている人と、FAXのボタンはこう押せば良いという理解をしている人との違いということになる。どちらが効率的なのはは社会の構成によって異なる。多様な社会ではいろいろなツールを覚える方が効率的だが、日本人は「なぜみんなFAXを使わないのか」と苛立つ。FAX世代がSNSを忌み嫌うように社会の通念を押し付けようとする人が多いのはそのためだろう。すべての人がFAXを持っていれば「効率的な社会になる」と考えるのだ。

ここから得られる結論は、文脈に依存する社会では、すでに形成されている世間知があれば効率的なコミュニケーションができるが、一旦文脈がずれてしまうと相互に新しい情報を入手することができず社会が分断される可能性が高いということである。

我々は分かり合えないのではなく、最初から分かり合うつもりなどないのである。

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