日本の教育は全体主義化しているのか?

少し前の記事だが、ネットでいじめの原因は学校の「全体主義」にあるという評論を読んだ。ちょっと乱暴な記事だなと思ったのでQuoraで聞いてみたのだが、これが割と感情的な議論になった。政治議論は意外と抑制的なQuoraなのだが、学校という共通体験が入ると感情が露出するというのは少し意外な気がする。政治は多くの人にとってはもはや中核的なテーマではないのかもしれない。




もう一つわかったのは日本でコミュニティの問題が解決しない理由である。リンク先を読んでいただけるとそれぞれが真剣な気持ちで書き込みをしていることはわかるのだが、それが一つの像を結んでいない。というよりお互いに一つの像を結ぼうという意思が全く感じられない。日本には公共という概念がないので、自分たちで社会を作ろうという気持ちにはなれないのだろう。例えば議会政治が暴走する過程において「いやこれはまずいのではないか?」と言い出す人が誰も出てこないのに似ている。

この内藤朝雄の短い論評の中で「全体主義」という用語はかなり特殊な使われ方をしている。外世界から孤立した集団が社会とは違った歪んだ規範を獲得してゆく様子を全体主義と言っており、それを学校に当てはめている。その目的は学校教育の断罪であり不満の表明だ。インサイダーとして教育を変えようという意欲はない。

内藤が挙げてのは、日本陸軍・オウム真理教・連合赤軍である。これは全て外への攻撃性を持った集団であり最終的には犯罪集団と認定されている。が、学校は外への攻撃性を目的とした集団ではない。犯罪集団の中に学校を混ぜ込むことによって、あたかもそれが犯罪集団であるかのように誘導しようとしているのだ。

このような決めつけは本や新聞を売るのには有効だが、問題解決には有害である。学校で本当に何が起こっているのかが分析できなくなるからだ。学校で苛烈で陰湿ないじめが横行しそれが自殺にまでつながっていることは明白なのだが、そうした問題は学校の閉鎖的体質を非難しただけでは解決できない。

Quoraの回答を読んでみたのだが意見は二極化していた。学校・教育関係者は「学校が機能不全を起こしている」ということを認めたがらない上に、学校を失敗していると決めつける評論に否定的な態度を取っていた。一人は楽観的な統計を持ち出して「これは事実とは違う」と言っていたのだが、最終的には持論に誘導しようとしている。つまり、いじめのような「暗い問題」には興味がない。もう一人の学校の先生は「これは不幸な事例であるが、研究者の決めつけこそが全体主義である」との姿勢である。これも学校の正当化である。村が攻撃されたから「代表して」それを守るというのも日本人としては普通の感覚だろう。

一方の側の人たちも「全体主義」という言葉には反応しているが実は学校にはそれほど興味を持っていない。社会になんらかの閉塞感があることは確かなようだが、いじめという「他人の問題」にはそれほど興味がないのだ。別にふざけているわけではないし、彼らには彼らの課題がある。日本人の「公共のなさ」がわかる。公共というよりお互いに関心がない。

ある人は反安倍デモのプラカードの写真を掲載し政権批判を繰り広げそうな勢いだった。社会に問題があるのか政権に問題があるのかと聞いてみたのだが明確な返答はない。つまりとにかく苛立っていて「教育というお題」でそれを表明したがっていると。別のトピックがあっても同じ回答をするだろう。

「このブログを読んでくださっている」という人はいいところまでは行っているのだが、やはり学校には十分に言及していないように思えた。村と全体主義を比べている。Wikipediaの全体主義の項目には「充実した全体主義」という言葉が出てくるのだが、これは村落が全体主義的に異分子を自ら進んで排除するというようなコンセプトである。あとは、これを学校に当てはめて、学校という村が「充実した全体主義なのか」ということを論じればよかった。いじめが横行し自殺によって裁判騒ぎや炎上が起きているところから、学校教育が「充実した状態」にないことは明らかなので、学校は機能している村とまでは言えない。かといって、学校が全体として異分子を排除し一つの反社会的な方向に向かっているとも言えないので、機能不全を起こした全体主義とも言い切れない。そこで初めて「では閉塞感のある学校はどのような状態に陥っているのだろう?」という疑問が出てくるのだと思う。

あとは「お役所仕事だから」と「農耕民族だから」という理由付けになっている人たちがいた。これはマジックワードだ。つまり。これをいうとそこから先は考えずに済むのである。農耕民族さんも自分が言いたいことの宣伝につなげていた。日本型の農村は明確なリーダーがいないのに自律的に集団を維持するのだから、これがいわゆるリーダーが他者を抑圧するような「全体主義」につながるとは思いにくい。でも、そんなことは彼の主張の宣伝には関係がない。

良い悪いは別にして、これは日本の<議論空間>をよく表している。日本には公共がないので「社会の宝である次世代を育てる教育」という概念がない。そのため誰も教育やいじめ問題には関心がない。関心を持っているのは自分の教育理念を売り込みたい人と学校関係の当事者だけである。つまり、語りたい人はたくさんいるが、聞いてくれる人はいないし、全体をまとめようとする人はもっといないという社会なのである。ある意味「全体主義」とは真逆の「バラバラ主義」の社会なのだ。そして、どうしてこうなるかも明確である。日本人は学校で討論をしたことがない。教育の問題というより社会に討論のニーズがないのだろう。

討論の授業というと人は勝つことや話すことについては知りたがる。しかし考えてみれば、60分の授業に6名がいたとしたら、一人が話せるのは10分未満で、あとは人の話を聞いたりまとめたりする時間である。つまり討論というのは人の話を聞くことを学ぶ時間であり、人の話を聞くからこそ自分の話も聞いてもらえるのである。日本人が興味があるのは問題解決のための討論ではなく、相手を従わせるスキルとしての議論である。この議論は勝たなければ意味がない。

日本型の教育は誰が先生になるかを決める。つまり、役割を固定して意見を押しつけるのが教育であり躾なのである。だから生徒の「場を掌握したい」という欲求が満たされることは決してない。生徒は意味がわからなくても英語の授業を受け、理由がわからない校則に縛られながら大人になる。

こうしたいびつな教育空間で「先生になりたい」という欲求を満たすのは実は簡単だ。生徒役を一人決めて支配すればいいのだ。一人にその役割を押し付けてしまえばあとはみんな「話す側」に回れる。それぞれの<先生役>にとってそれは単なる小さな欲求の発散なのだろうし「単なるいじり」なのかもしれない。そしてそもそも支配する側が支配される側に意見を押しつけるのは日本の教育現場では当たり前のことなのだ。

だが、やられた方にとってはそれは「決して個人の人格が認められることがない」という地獄だろう。が、それをクラスメイトたちが聞き入れることは決してない。彼らもまた「聞いてもらった」経験がないからである。

つまり日本の教室は99人が先生で1人が生徒という空間になりつつある。そしてその不幸な1人は決して教育を受けているとは感じない。いじめられているという感覚を持つのである。

ただ、残りの99人も同じように感じているかもしれない。何かはわからないが誰かに従わさせられていると感じている人は確かに多いようだ。それが何だかはわからないので「全体」という言葉を使うのだろう。日本の教育現場は静かに破綻していて、それが時々「いじめの犠牲者」という形で社会に突きつけられるのだ。