議論できない日本人と大衆扇動者

Newsweekの記事を参考にQuoraでれいわ新選組を左派ポピュリズムと書いたところコメントをもらった。心象藪の典型だと思うのだが、さすがに引用してネタに使うのははばかられるので引用はしないことにする。ただ、心象藪について書いた後だったのでコメントの混乱ぶりがとても面白かった。




この文章は、右派左派という分け方が昭和的だという指摘で始まる。昭和的とは「時代にあっていない」という意味なのだろう。そして、右派の教祖として崇められていた小林よしのりが安倍首相かられいわ新選組の応援にシフトしようとしているのだかられいわ新選組は保守だと続く。時代は進歩しているのだといいつつも、左派というラベルに違和感を感じていることがわかると同時に、彼にとって政治的ラベルは単なる悪口なんだなということも読み取れる。

その違和感の正体は次にわかる。「変化に抗っていると1970年代のようなLove & Peaceのような状態になってしまうだろう」という記述があるからだ。つまり、左派運動に対して「社会の責任を取らない無責任な運動」という印象を持っていることになる。つまり、昭和的な左派像を引きずっているのである。

ところがここで突然話が大きくなる。政治課題というのは大きくて重いテーマであり、それを扱っている自分も大きくて重いということになるだろう。Foreign Affairでアメリカは衰退する同盟国であるイギリスや日本とどう付き合うかという論文が掲載されており、時代はアジアにシフトしている。アジアは日本をスキップしアジアで経済圏を作ろうとしているようだとまとめられている。

まず、この人の文章が経験から培った「良いもの・悪いもの」という心象に彩られて彼オリジナルの世界観を作っていることがわかる。日本人は俯瞰的な視点を一切持たないのでこの枠から出ることはない。ここで彼に言えるのは彼の心象を理解して「そういう理解をお持ちなのですね」と曖昧に微笑むことだけである。

この人はれいわ新選組には親和的だが左派は嫌いなようだ。なのでこの二つが重ねられるのが嫌なのだろう。ただそれを言えないので「時代遅れである」というラベリングで乗り切ろうとしている。

次にわかるのは、それぞれの論理が俳句のように構成されているという点だ。その中での理論構成はあるが次のフレーズに引き継がれていない。それどころか「話を大きく偉大にしなければ」という別のドライブが続き連想的に話題が移り変わってゆく。

れいわ新選組は左派であるということを否定するのに時代遅れだというフレーズを使っているが、左派は無責任だというのも昭和の印象である。ただ、これが「論理として破綻している」と思うのは、読み手である私がこの文章から一連のロジックを読み取ろうとしているからに過ぎない。

彼が言いたいのは「れいわ新選組は良い」ということである。彼にとっては「小林よしのりもいい」のだから彼の側から見れば一貫したロジックはある。彼は良いものという主題で文章を綴っていることになる。つまり、政治的議論ではなく政治を季語にした連作俳句なのだと思って鑑賞するのが良いのだ。逆に左派はLove & Peaceで悪いものなのだろうし、政治は大きくてえらいものなのだろう。心象の吐露だと考えれば他人を傷つけているわけではなく特に問題はない。

心象藪とは心の中にある「良いもの」と「悪いもの」の表のようなものかもしれない。なのでドメスティクな人と政治議論をしてはいけない。

ところが全く別のところで、別の心象藪を見た。Quoraで「とりあえずビール」について聞いた。すると「とりあえずビール」が成り立つためには誰にでも飽きられないビールの味の追求があるのだという指摘があった。そこで嫌われない味を作ったんですねと書いた。つまり、味からこだわりをなくせばどんな食事にも合うビールが作れるからである。それが気に入らなかったらしい。「日本人の食を研究した結果である」と返ってきた。つまり「日本のビールは無難」というのがこの人にとっては「悪い」ラベルだったのだろう。

ゆえにドメスティックな人と議論をすることはできない。日本人が求めるのは心象俳句に対する情緒的な同調だけである。「何が良くて何が悪いか」は外から見てもわからない。誰にも嫌われない=どんな食事にでも合うというのは両立する価値観である。

山本太郎の話に戻る。Newsweekの記事はヨーロッパの流れを踏まえて山本を左派ポピュリズムと呼んでいる。背景には格差の拡大や変化などの問題がある。つまり、パターンに当てはめることで分析ができるようになる。

れいわ新選組は社会からこぼれ落ちている人たちの不満をすくい取るために、左派的な運動体を利用した。だからTwitterでは「初めて涙がでた」と表現されたのである。つまり、あの文章で重要なのは実はれいわ新選組ではなく「日本にもこぼれ落ちた人々がいて政治的なプレゼンスを持ち始めたらしい」という点なのである。

れいわ新選組の候補者の中にもあの記事に噛み付いた人がいるようだ。面倒なので引用はしないが「れいわ新選組は左派ポピュリストではなく無縁者の集まりだ」と言っている。どういう自意識を持つのかはそれぞれの自由なのだが議論には役に立たない。問題は当事者の心象ではなくどういう社会状況かという点だからである。

ここまで日本人は心象藪から出られないという視点で問題を見てきたのだが、ここで気になることがある。心象藪の中にいる人は他人を動かせない。では山本太郎はどうして政治的ムーブメントを作れたのかという疑問が出てくる。すると、彼は藪の中から這い出てきたのではないかという仮説が生まれる。

ここで重要なのは山本太郎がどのような立ち位置で自分たちを見ているかである。同じ左派運動でも福島瑞穂などは自分の心象風景しか語らなかったので大衆から離反されてしまった。心象藪をでて鳥瞰的な視点を持った人はムーブメントが作れるのだが、同時に大衆から一歩距離をおいた扇動者になる可能性があるということでもある。これは今後の注目点かもしれない。