障害者は生まれるべきではない、について考える

茨城県の教育委員の女性が「障害者は生まれると大変なので、堕胎できる早期に発見できた方がいい」と発言し「炎上」した。女性は発言を撤回し、教育委員も辞めると言っているらしい。これに対して橋本知事は何が起きているのか分かっていないらしい。この無自覚さは一種の罪だろう。多くの他人の人生に影響を与えるという意味では、重い類いの罪といえるかもしれない。

「炎上」したのはこれがナチスの主張に通じるとされたからだ。ナチスの主張とは「自分の持っている価値観を外れた他人は死んでも(あるいは殺しても)いいのだ」というものだ。堕胎は合法的に認められた数少ない殺人行為だ。だから、長谷川さんは「役に立たない子供は殺してしまえ」と言っているということになる。

ナチスばかりではなく、イスラム原理主義の首謀者たちもそう信じている。首謀者たちはパリ市民の命をなんとも思っていないばかりか、犯人たちの命も利用して構わないと思っている。ナチスは「合法的に」他人の命を奪ったのだが、イスラム原理主義者は違法に行っている。とはいえ、彼らは「国家格」を主張している。彼らの「法」に従えば、それは合法的な行為なのだろう。

長谷川さんの言動に対して「いや、障害者も役に立っている」とか「意義のある人生を送れるはずだ」という人がいる。さて、それはどうだろうかと思う。

そもそもそうした論法が成り立つ為には、その話し手が「自分の人生には意義があり、人の役に立っている」という視点を持たなければならない。しかし、障害の有無にかかわらず、人の人生に意義はあるのだろうか。

多分、県知事や画廊の経営者というように名を成した人は「自分の人生は意義があり、自分は人の役に立っているのだ」と考えているのかもしれない。70年も生きていて「そもそも人生というのは無為なものなのではないか」という疑問を持った事が一度としてなかったのだろう。時に人生に立ち現れる不条理に遭遇したこともなければ、そうした境遇に立ち会った人に共感したこともなかったのだということになる。

そういう人が教育行政を差配しているということに対して、深い闇を感じる。教育とは「役に立つことだけを教える」ことではないはずだ。不意にぶち当たる不条理に対しての準備をさせる事も教育だろう。

「人生には意義がない」が「意義がない」ということを受け入れることは難しい。そこであえて、何かを見いだそうとするのが人生なのかもしれない。生きて行く事に何の意味がなかったとしても、新しい朝は訪れる。

不条理に対する準備がないことは何を招くのだろうか。

「意義のある人生」と「意義のない人生」を切り分けることが、地獄の入り口になることがある。無為に苦しむ人もいるが、さらに危険なのは、無為を感じた人が「何か大きくて意義深いもの」に触れた時に感じる高揚感だ。

イスラム原理主義の人たちはそれを神と呼ぶ。神に祝福される世界を作るのが「ジハード」だ。天国に行ける事が保証されているのだから、他人の人生を奪ってもよいのだ。同じように「目覚めた人」が「目覚めていない人」を善導してやるのが、オウム真理教の「ポア」だった。この場合、善導とは相手を殺してしまうことである。無為を感じたまま「偉大なもの」に触れた人たちは、いとも簡単に、他人の人生を踏みにじってしまうのだ。

無為を教えない現代の日本にも無為を感じる人たちは大勢いる。宗教はヤバいということになっているので、代わりに目をつけられたのが「連綿と続く日本の伝統」だ。「国体原理主義」といえる。こうした人たちは「日本の伝統」を盾に他人の権利を踏みにじろうとする。ただ、実際には伝統とは切り離されているので、歴史的な経緯というものには、驚く程興味がない。

彼らの思想も「ナチス」や「イスラム原理主義」に通底するものがある。「意義のあるもの」と「意義のないもの」を分けた上で「意義のないもの」を奪おうとするのだ。しかし、その裏には「自分たちの意義」への疑いがある。だからこそ「意義のないもの」を作り出して、自分たちの人生に意味を与えようとしているのだ。奪う事でしか生きていけないのである。

日本の政治家はこうした人たちを単なる確実に票が読める集票マシーンくらいにしか考えていないのかもしれない。しかし、これは危険な状態だ。なぜならば、意義に飢えた人は少し奪うだけで満足する事はできないからだ。奪っても奪っても満足する事はできないのではないだろうか。

今回の件を原理主義と重ねるのは、いくらなんでも極端だという批判はあるかもしれないが、底を流れる構造は似通っている。このように人の人生を「意味の重さ」で計ることは危険なことなのだ。無自覚であるからこそ、罪が深いのだとも言える。

もっとも「人生に意義などないなら、他人の人生を奪ってもよいのではないか」という疑問は残る。確かにそうなのかもしれない。しかし、飢餓感情から他人の人生を奪い続け、いくら奪っても満たされないというのはどういう状態なのだろうかと考えてみたい。人はそれを「地獄」と呼ぶのではないだろうか。

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