小池都知事の帯の位置

今回は保守とはなにかについて考えたい。今回はかなり差別的な発言が並ぶ。

小池都知事がリオオリンピックの閉会式に登場した。これを見ていて「女性が大股で旗を振りかざすのはおかしい」と思った。あと思ったのは「あの着物濡れたら高そうだな」というのと「帯の位置がヘン」というものだった。

「帯の位置が変だ」というのに理屈はない。多分、地方の法事かなにかに出かけてゆけば「あなたおかしいわよ」と言われそうな感じだが、なぜおかしいのかという理由は「昔からそう決まっているから」しかない。男性でもやせていると「着物が似合わなくて可哀想だなあ」と思う。これも理屈はない。ある程度大人になると恰幅がよくなる(単に太るということだが)のがスタンダードだと見なされているというのが唯一の理由だろう。スタイルを保っている人が着物を着ると差別されるのだ。

同じようなことはいろいろとある。最近「天皇を楽にしてあげたい」という人が増殖した。いわゆる「保守」を名乗る人たちだが、NHKのアナウンサー(か、解説員)が同じようなことを言っていて唖然とした。目上に「〜してあげてたい」などとは言わない。言葉が適切でないというわけではなく、そもそも「目下が目上に何かしてやれる」と考える時点で不遜なのだ。

本来「保守的」というのはこのくらい融通が利かない。さらに厄介なことにクラス意識が背景がある。着物を見慣れているとか、階級意識の中で生活するというのは、自分のクラスを肯定的に捉えていて、そうでない人を見下す態度なのだ。生まれ育ちは変えられないからである。同じように「日本語がへん」な人を見下したりするのも同じようなことだ。

しかしながら、園差敬語を知らない人が表立ってその間違いを指摘されることはない。心の中で「あの人の言葉は変だから、生まれが粗野なのだろう」と思う訳だ。同じように「小池百合子都知事が女なのに旗を踏ん張ってみっともない」などとは表立っては言わない。それは「男性」の特権を振りかざす行為だと考えられているからである。だが、厳然として「表に経つような仕事は男の物なのだ」という意識はある。生まれも性別も変えられないのだから、これは差別意識である。しかし、自分の属性や出自を誇るということは裏返しの差別感情を抱えているものなのだ。

少し本題から離れて「差別は何故いけないのか」ということを考えてみたい。一つの経験は海外での生活だ。英語ができない人や非白人に対する差別というものは厳然として存在する。厄介なことに教育やスキルのような能力と関連するので、その差別意識は根深い。こういう「自分の力ではどうしようもない」ことを体験すると、人にされて嫌なことはやめようという気になる。日本でヘイトスピーチがなくならないのは、当事者たちが外にでて差別を体感しないからだろうと思う。

また、日本人男性は「女性を蔑視して従わせる」というようなステレオタイプがあるので、ことさらその種類の発言には気を使うことになる。インドのようなアレンジメント・マリッジ(見合いのこと)があり、渋谷でジョシコーセイを買うのが日本人男性だと思われている。SAYURIという映画では忍従するゲイシャ・ガールの女性を中国人のチャン・ツィイーが演じた。日本人は女性を寒村から買ってくる人身売買が行われているとい考えられている。これはアメリカで白人が「レイシスト」でないとことさらに強調するのと同じ緊張を与える。

最後の要素は自分が差別されかねない状態に陥ったときに生じる感情だ。その境遇を認められないのは他人ではなく自分自身なのだが、意外と自分が苦しむのだ。逆に一生安泰なのは、何もしなかった人だけだが、それでも人は老いて行く訳で、いずれは何らかの差別意識に遭遇することになる。一番ひどい経験は、銀行などで老眼鏡をお願いしただけで「鼻で笑われる」ということだ。多分老眼鏡というのは70歳以上の人がかけるものという意識があるのだと思う。意外と誰でも経験することなのだ。

さて、いわゆる「ネトウヨ」とそれに連なる人たちを見ていると、伝統から切り離されている感じがある。過激なイスラム原理主義の人たちがヨーロッパに多いのは、彼らが本来の伝統から切り離されているからである。本来の保守は差別的だが、ラディカルな思想を排除するメカニズムがある。いわゆる「原理主義」というのは伝統から切り離されたところで生じる暴走なので、差別的な意識が役に立つのだ。本来の伝統から切り離されている「くせ」に弱者を差別して保守を気取る人に「お前は何も知らないだろう」と攻撃するのにも一定の機能はあるかもしれないと思う。

逆に保守を気取る人たちは「自分たちが伝統から切り離されて見当違いなことを言っている」可能性を考えた方がよいとは思うのだが、それに気がつかないからこそ、あのようにラディカルなことが言えるのかなとも思える。

本来保守思想というのは分かりにくいものだ。同じコンテクストを共有した人以上に広がらないからである。現在「保守」とか「ネトウヨ」と呼ばれる人が増えているのは、その大元にいる安倍首相を支える「右翼雑誌系右翼」が劣化したからだろう。劣化したおかげで却って大衆が「ああ、分かる」というようところにおりて来たからではないだろうか。保守が持っていた「階層を保存する」という要素が抜けて、その差別意識だけが生き残ったのかもしれない。

例えて言えば「武士」がなくなったら、農民が刀の代わりに竹刀を振りかざして弱い人たちをいじめはじめたみたいな図式が見える。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です