人々が失敗を認めなくなったわけ

内田樹という人が「人々が失敗を認めなくなったわけ」について考察している。すこし違和感を持った。

この「鬼の首を」というのは、現象であって原因ではない。故にこれを責めても問題は解決しない。

一つひとつ紐解いてみよう。順をおって考えると意外と簡単だ。

最初に感じる違和感はこれを日本人論にしているところだ。しかし、謝らない社会はどこにでもある。20年前にはアメリカに行ったら自分の間違いを認めてはいけないと言われた。これは日本が甘え型の社会だったからだ。「すみません」というのは単なるあいさつであって謝罪の意味はなかった。どちらかというと軋轢をつくらないために「私の方が間違っているかもしれませんが」と言っていたわけである。受ける方も「そうだ、お前は間違っている」などとは言わなかった。これが甘え型社会だ。

このようなことができたのは人々の地位が安定していからだ。ところが、バブルが崩壊してから人々の認識が変わった。社会が椅子取りゲーム化した。くじ引きでもして誰かを引きずりおろさないと全員は生き残れないという(あるいは間違った)認識が蔓延したのだ。こういう社会ではちょっとした間違いが生死に関わるので誰も間違いを認められなくなる。

日本社会はお互いに「間違い」を作らずに許しあってきた。そのために間違いから学ぼうという習慣も根付かなかった。さらに厄介なことに暗黙知を形式化しようという習慣もなかった。長い時間をかけて黙って通じるまで経験を共有することが前提になっている。

間違いを決して認めないはずのアメリカ社会で間違いが許容されるのは「その間違いには理由があるかもしれない」と考えるからだ。間違いを形式化して問題点を抽出するのだ。ところが日本は急激にサバイバル型に変質したために、間違いは学習の機会だという認識が根付かなかった。そのため「ワンアウト退場」という極端な社会が作られた。

さらに人件費の削減もこの傾向に拍車をかけた。

間違いを見つけて修正するという作業は知的に負荷がかかる。すくなくとも余力がないとできない作業だ。この知的な余力は金銭的な理由から省かれるようになった。例えばマクドナルドのアルバイトはオペーレションの間違いを自ら修正することは要求されるが、全体を最適化したり、人気のないメニューを修正したりする知的能力は要求されない。最初の社会は間違いを認めない社会だったのだが、現在では自分が間違っているかすらわからない社会になった。

この「ワンアウト退場型」の社会にはさまざまな弊害がある。人々は分かることだけをやり、その他のことをカッコで括って外部化するようになった。だから、自分の専門外のことに関しては恐ろしく無関心だ。そのためシステムが暴走を始めても誰も気に留めないし、理解しようともしない。ただ、この現象も珍しくはなく、2003年にはすでに『バカの壁』が書かれている。

社会や組織が学習できなくなると、すべてのシステムを外から力づくでとめるしか方法がなくなる。Twitterが発達して暴力的なブレーキとして働くようになったのはつい最近のことだ。人々は、ワンアウト退場型でどうエラーを修正方法するかについて学んだのだ。

アメリカは違ったやり方をしている。トップの首を定期的にすげ替えるのだ。日本は流動性が低い社会なので「退場」したらやり直しはできない。だから間違いを認めることは決してできない。

それでも日本社会が崩壊しないのは、とりあえずうまくいっているやり方だけを踏襲してゆけばなんとかやっていけるからである。学びの機会を失ってしまったので成長することはないが、崩壊もしないのである。

鬼の首を取ったように他人の間違いをあげつらうのは、それが唯一のエラー修正策だからである。社会にあったエラー修正策を見つけない限りその状態は続くだろう。できれば、社会全体が成長してゆくほうが良いのだが、エラーを認めないと成長ができない。

そのためには一人ひとりにの認識を変えるしかない。

 

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